ノーサンキュー事故

 出勤ラッシュの時間帯で、四車線の道路は上下とも混んでいた。だが、定森が月極め契約している駐車場に向かうには、コンビニのある角を右折しなければならない。始業時間が迫っているため、定森は焦っていた。
(ずっとウインカーを出してるんだから、ちょっとぐらい止まってくれたっていいじゃないか)
 定森の願いが届いたのか、対向車線の車がスッ、スッと二列とも止まった。
(しめた。サンキュー!)
 ハンドルをグッと右に切った瞬間、定森の視野の隅っこに、車列の横をすり抜けて直進して来るバイクが見えた。
(あっ、やべっ)
 急ブレーキを踏んだ直後、ドン、と衝撃がきた。
 その時になって、こういう状況の時は『サンキュー事故』というのが起きるから気を付けるようにと自動車学校で教わったのを思い出したが、今さらどうしようもない。
 バイクに乗っていた相手は一瞬倒れたが、すぐに起き上がり、フルフェイスのヘルメット越しにこちらを睨んでいる。
 定森は、あわてて助手席側のウインドウを下げ、相手に呼びかけた。
「そこのコンビニで話をしましょう!」
 定森がコンビニに車をとめると、相手はバイクを押してその横に付け、ヘルメットを取った。ちょっとイカツイ顔の男で、髪を極端に短く刈り込んでいる。こちらが声を掛ける前に、男が口を開いた。
「いいぜ」
 定森は相手が何を言っているのか飲み込めず、聞き返した。
「はい?」
 男は、少しイラだたしそうな顔になった。
「だから、いいぜ、って言ってるんだ。どう見たって、典型的なサンキュー事故だ。過失は五分と五分だろう。幸いおれの体は何ともない。お互いの車体に多少キズは付いたが、まあ、見たところ大したことはなさそうだ。だから、念のため電話番号だけ交換して、このままチャラでいいぜ、ってことさ」
「で、でも、警察に連絡しないと」
 男はギリっと奥歯を噛みしめた。
「こっちは急いでるんだ!」
 それはお互いさまである。定森にしても、このまま行っていいなら、まだなんとか始業時間に間に合うだろう。だが、後になって、やはりケガをしていたなどと言ってこられたら、という不安がある。まして、相手の人相や言葉つきから、そうなった場合の恐ろしさが充分予想できた。
「えっーと、すみませんが、一応110番しましょう」
 有無を言わせず、定森は警察に電話をかけ、事故の状況を説明した。背後で男が舌打ちするのが聞こえ、どこかに電話をかける気配がした。よく聞こえないが、誰かに遅れそうだと話しているようだ。定森も警察との通話が終わると、会社に一報を入れた。保険会社にもかけたかったが、思いのほか早く自転車に乗った初老の警官が来たため、それは後回しにすることにした。
 警官は双方にケガがないことを確認すると、型通り免許証・車検証・自賠責を記録し、バイクの男に尋ねた。
「物損でいいね?」
 ケガしていない以上、普通なら物損事故であるが、男は少し迷っているようだ。
「逆に、この状況でも人身事故で申請できるのか?」
「保留、という方法があるよ。まあ、その場合、どちらかに決まったら、もう一度交番に来てもらうことになるがね」
 男はさらに迷った。
「一旦物損にしといて、後で何かあったら、人身に切り替えるっていうことは?」
「もちろん、できるよ。但し、手続きは保留より、もう少し面倒になる」
 男の迷う気持ちは、定森にもよくわかる。交通事故の場合、その時は何ともなくても、後から痛み出す場合があるからだ。自分なら、ひとまず保留にするだろう。
 だが、男は迷いを振り切るように言った。
「物損でいいよ」
「じゃ、後は民事だから」
 心なしかホッとしたようにそう言うと、警官は自転車に乗って、その場を去った。
 残された二人は、仕方なく互いに名乗り、電話番号を交換した。バイクの男は新庄という名前だった。定森は、新庄の番号を自分の携帯には登録せず、コンビニのレシートの裏に走り書きした。恐らく、もう連絡することもないだろうから、二三日したら捨てるつもりだ。
 別れ際、新庄が尋ねてきた。
「で、お宅は保険会社に連絡するのか?」
「はい。一応は」
「ふん、おれはしないぜ。どうせ保険適用なんかしたら、保険料が何万円もハネ上がっちまうだけさ。バカバカしい。約束の時間にも遅れたし、今朝は散々だ。じゃあな」
「お気をつけて」
 もう一度「ふん」と鼻を鳴らし、新庄はバイク乗って行ってしまった。
(まあ、これぐらいで済んで良かったよ。これこそ、サンキュー、だな)
 始業時間に三十分以上遅れて会社に着くと、何だかみんなバタバタしていた。何事だろうと思いながら、定森は課長の席に遅刻の詫びに行った。
「遅れてすみませんでした。事故は大したことなかったです。見かけはヤクザみたいな男でしたが、意外にいいヤツで、すんなり解放してくれましたよ。ところで、何かあったんですか?」
「ああ。今日、東京本社から赴任して来る予定の新しい支店長が、遅れてるんだ。電話はあったが、詳しい事情は教えてくれなくて」
 そこまで言うと、課長は定森の後ろに向かって頭を下げた。
「ああ、新庄支店長、おはようございます」
(おわり)

ノーサンキュー事故

ノーサンキュー事故

出勤ラッシュの時間帯で、四車線の道路は上下とも混んでいた。だが、定森が月極め契約している駐車場に向かうには、コンビニのある角を右折しなければならない。始業時間が迫っているため、定森は焦っていた。(ずっとウインカーを出してるんだから、ちょっとぐらい止まってくれたって……

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-07

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