絶望少女の幸福[下]
第3幕 忘却の少女
≪PCの方は「縦書き」読みを推奨いたします!≫
――明るい光に目が眩みました。
私は、今まで眠っていたのでしょうか?
「おや、お目覚めかい?」
その優しい声を皮切りに、芳しい紅茶とお菓子のような甘い香りが、私の意識をだんだんと目覚めさせてゆきます。まるで状況が飲み込めていないはずなのに、反して私の五感は緩やかに落ち着いてゆきました。
「警戒心は?」と心のどこかで誰かが囁いたような気がしました。
「あ……なた……は……?」
喉がカラカラに乾燥しているお陰で、上手く声が出ませんでした。
その代わり、瞳が辺りの光量に慣れてきたのか、目の前に現れた人物の顔をぼんやりとですが、やっと認識することができました。
――見覚えのない男の人です。
彼は、私の拙い声が聞こえなかったのか、優しげに微笑んだまま、私の手前にスコーンと紅茶の載った銀色のトレーを置きました。
どうやら、私はベッドの上にいるようです。そして、このベッドには病院のように、こうして食事などを置く台が備え付けられています。体を覆っているのは、ふかふかとしていて気持ちが良く、染みひとつない真っ白なフトンです。やはり、ここは何処かの病室……なのでしょうか。
「おはよう。気分はどうかな?」
そう話しかけてきた彼は、やはり白衣のようなものを羽織っておられます。
「あ……の……」
「おや、声が出にくいのかな?あ、もしかして喉乾いてる?」
私はこくんと頷いてみせました。
「これはこれは、すまなかったね。まずは紅茶じゃなくて、麦茶か何かを持ってくるべきだったかな」
そう言って微笑むと、彼は再び銀色のトレーを持ち上げようとしました。私は何かさわさわとした気持ちになって、咄嗟に彼の手に自分の手を重ねました。
「ん?どうかしたかい?」
……えっと、何とお伝えしたら良いのでしょう。
私は乾いた喉に無理矢理息を通すことによって、何とかこれだけお伝えることに成功いたしました。
「それ……も、いり……ます」
――……だって、なんだか申し訳なかったのです。トレーの上のお菓子や紅茶は、きっと私好みに用意されたもののはずだから……。
けれど、彼は全く気に病んでなどいないように、豪快に笑ってみせてから、ただおっしゃるのでした。
「――無理なんかしなくていいんだ。君はもっと自由に生きたらいい。子供が大人の顔色なんて気にする必要はないんだよ」と。
そして、彼の大きな手が私の頭をふうわりと包み込むのでした。
私はなんだか非常に柔らかく、暖かな気持ちになりました。ですのに、不可思議にも目からは涙がとめどなく流れ出てくるのです。
――あぁ、涙とは、悲しくなくとも溢れて落ちるものなのですね――
その事を初めて知ったのは、彼に頭を撫でていただいた、まさにその時でした。
そして同時に、私はこの時初めて「生まれた」のでした。
それまで、何処にいたのか。何を覚えていたのか。そんなことはすっかりさっぱり次の瞬間には忘れてしまっていたのです。
私の幸せはこれから先もずっと――ずぅっと、この方と共にあるのです。
この手の中にあるのです。
こうして、私と彼との「幸せな人生」が始まりました。
第4幕 フタリノセカイ
最初にこの部屋で目を覚ましたあの時から原因不明の「記憶喪失」に陥ってしまった彼女は、まるで生まれたての子ガモのように、俺に懐くようになった。
彼女は、自分の本当の家のことや本当のパパやママのこと、それどころか自分が何者であるのかということまで、ひとつ残らず「忘れてしまった」らしい。
それなのに、彼女は全くといっていいほど、その事について嘆いている様子を見せなかった。
いや、むしろ幸福そうであるといっても過言ではない。
――ところで、彼女は俺のことを「ハカセ」と呼ぶ。
由来は俺が「白衣を着ていらっしゃいますし、何かを生み出すような研究をしていらっしゃるのかなと思ったから」だそうな。
「ねぇねぇハカセ、私、この甘いコーヒーだーい好きです」
「ハカセ、この本、本当に面白いですね。だけど……ふふ、一番面白いのは、この挿し絵のへんてこりんな絵なんです。こんなに愉快な絵が描けるなんて、きっと心が自由な方なのでしょうね」
彼女はとにかく心底楽しそうに、俺の持ってきた「プレゼント」の感想を報告してみせた。決して無理にそうしている訳じゃないということは、彼女の輝く瞳と鮮やかに紅潮していく頬が物語っている。
「ハカセ、ハカセ。あのね、私、ハカセと一緒にいるこの時が世界で一番大好きなんです。だってだってね、ハカセは、私にいつでもたっくさんの幸せをくださるから―――え?いいえ、あの、違うんです。プレゼントはなくてもあっても一緒。関係ないんです。私の幸せを生み出してくださるのは物なんかじゃなくって、いつだってハカセ自身なのです」
彼女がそんなことを言いながら屈託のない笑顔を浮かべるたびに、胸の奥底から小さな罪悪感が込み上げてくるのを感じていた――
――俺は、彼女に本当のことを言うべきなんじゃないのか?
――このままでは、彼女をいつか不幸にしてしまうのではないのか?
――本当に、このままでいいのか?
しかし――それと同時に、未だかつて感じたことのない手応えのようなものを感じていたことも、また誤魔化しようのない事実だった。
俺の目的は、彼女のような子供たちを一人残さず幸福にすることなのである。
そのための勉強も積んできたし、それなりの資格も得た。しかし、目的を果たすための完璧な方法だけが、未だ発見できずにいたのである。
――彼女こそ、俺の探し求めていた「完璧な方法」への道しるべになるのではないだろうか――そんな不謹慎な期待が自分の心を支配しはじめていることに、俺はあえて気が付かないふりをしていたのかもしれない。
なんと憐れな話だろうか――
なんと傲慢な心だろうか――
俺はあの頃、彼女を幸せに出来る人間は、この世でただ一人自分を置いて他にはいない、などと本気で傲りきっていたのである。
彼女と俺とのふたりきりの空間で、俺は彼女の笑顔のためだけに考えていた。
どうしたら、君は笑ってくれるだろうか。
どうしたら、君は満たされるだろうか。
どうしたら、君を幸福に出来るだろうか……
俺と彼女とのふたりきりの空間で、彼女はいつも俺のことだけを必要としていた。
ハカセ、私、今とっても楽しいです。
ハカセ、私、今とっても満ち足りています。
ハカセ、あなたが側にいてくれるから、私、今とっても幸せなんです……
――しかし、俺と彼女とを繋いでいた「幻の幸福感」は実に脆く、終わりの時が訪れるまでに、そう長くの時間は要さなかった。
結論から言おう。
俺は彼女を被験者として認識し続けるには、少しばかり、彼女を愛し過ぎてしまったようなのだ。
そう、俺は彼女を心から愛してしまっている。
だからこそ、彼女を「本当の幸せ」の元へと帰してあげようと、心からそう思えたのだ――……
第5幕 絶望少女
彼女の両親は実に愛情深い人たちだった。
ここを訪れる度に、彼女のために持ってきたありとあらゆるプレゼント――紅茶やお菓子や外国の絵本など――を俺に毎回託していった。
彼女が記憶をなくしてしまったことを話した時も、決して取り乱すことなく「先生、あの子をどうか宜しくお願いします」と言って、深々と頭を下げてきた。
彼女の両親は、実に愛情深く、そして控えめな人たちなのだ。
俺は、そんな彼らと彼女を引き合わせてやることが、そして、最終的には彼らを一緒に住まわせてやることが、彼女にとっての「本当の幸せ」に繋がるのだと信じていた。
――いや、本当はそう信じたかっただけなのかも知れない。
俺と彼女が一緒にいられるのは、彼女の怪我が回復するまでのほんの数ヶ月の間だけだ。
だから、彼女の幸せは俺の元などではなく、家族の元にあるべきなのだ――と、口では言い聞かせながら、しかし、正直に言えば、彼女をずっと側に置いておきたいという想いは、胸の奥底で常に燻っていた。
しかし、俺はあくまで医者なのであって彼女の保護者にはなり得ない。ましてや本当の両親を差し置いてまで、彼女を奪うことなど決して許されないのだ。それでは、誘拐ではないか。
あぁ、ならば、この状況はさながら監禁状態か――
などと自嘲ぎみに考えながら、俺は今日も愛しい笑顔の待つ特別病室への扉を開いた。
――さて、それから約3ヶ月後、彼女は母親に車椅子を押されながら、「本当の幸せ」の待つ家族の元へと帰っていった。
別れの際、彼女は果たして状況を理解しているのか疑わしいくらいにいつもと変わらぬ笑顔で「ハカセ、さようならです」と言って明るく手を振っていた。
けれど、今日は病室を出ていくのは俺の方ではなく、彼女の方なのだ――
俺はこれで最後になるであろう彼女の笑顔をしっかりとこの目に焼き付けようと、その顔ばかりに集中していた。
あぁ、良かった。本当に良かった。
彼女は数ヶ月にも及ぶ監禁生活から、今日、こうして無事に解放されたのだ――
彼女はこれで、やっと本当の幸せを手にいれたんだ。
俺は彼女と離ればなれになる寂しさより、彼女の笑顔を守り抜けたことを誇らしく思っていた。彼女の笑顔は、その誇りを保証してくれているかのように美しく光輝いていた。
しかし、お陰で俺は、彼女の母親がその時どんな表情をしていたかなど、まるで気にしていなかったのだ。
――あの時、俺がその影に気付けていたのならばあるいは――あるいは彼女は――――
「先生、呉乃先生!至急、オペの準備をお願いします!彼女が――先ほど退院したばかりの彼女が――!」
看護婦の慌てた様子に、俺は一気に肝が冷えるような不安感を覚えた。
そして、救急車のけたたましいサイレンの音を聞いて、俺の不安感は、すっかり恐怖心に変わってしまった。
俺は嫌な予感を否定しきれないまま、救急病棟へと続く通路を急いだ―――
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――――
「どうも、奥さん。その後、坊やの様子はどうですか?」
俺が訪ねていくと、被害児の母親は明るく俺を招き入れた。
「あぁ、刑事さん。お久しぶりです。あの時は息子を助けてくださって本当にありがとうございました。お陰で息子も元気に暮らしております」
広いリビングに通され座るように言われたが、俺はあの坊やの姿を見つけ出すまで寛ぐ気にはなれなかった。
「ごめんなさい。せっかく来ていただいたのに、あの子、今、お友だちの家に行っているんです」
そんなまさか、誘拐されてからまだ2ヶ月と経っていないというのに、たった一人で外にいかせたというのか――?
「無防備だとおっしゃりたいのでしょうね。でも、私、あんなことがあったからって、あの子を縛り付けたりしたくないんです。本当はずっと手元に置いておきたいですよ。片時も目を話したくなんかない。でも、あの子の幸せを思うなら、それだけじゃいけないような気がするんです」
そう言って微笑んで見せる彼女に、俺は本当の保護者とはこんなにも強くなれるものなのかと感心してしまう。
「奥さんは、強いんですね」
だから、俺は素直にそう言ってみた。
しかし、彼女は反して笑顔を曇らせてしまう。
「いいえ、私は強くなんかありませんわ。今も本当は怖くて怖くて仕方がないんです。でも、信じるしかないんですもの。あの子が、ここにまた笑顔で帰ってきてくれることだけを信じて待つしかないんです」
なんだか俺にも、少しだけ彼女の気持ちがわかるような気がした。
俺の心に、今は亡きあの少女の笑顔が静かに花開いた。
彼女はあの日、俺の手から離れた直後、母親と家へ帰る途中でダンプカーに跳ねられて死んでしまった。
救急車で運ばれてきた彼女の顔からは、すでにあの輝きは失われていた。
彼女の笑顔は、もう二度とここへは戻らない――――
――あの時、彼女を事故に遭わせたのは、他でもない彼女の母親であった。
正確に言えば、最初に彼女が病院へ運ばれ両足を失う原因となった交通事故も、やはり彼女の母親の仕業だったらしい。
そして、その動機は――「あの子が全然私に懐いてくれなかったから」
彼女は、海外へ出張にいくことの多かった父親にはとてもよく懐いていたらしい。しかし、その代わりに、父親のいない時にはずっと無表情のまま、まるで人形のように心を閉ざしていたのだという。
そんな彼女に母親はあれやこれやと尽くしたそうなのだが、なぜだか彼女は母親には決して懐こうとはしなかったのだという。
そんな状況の中、母親の彼女に対する愛情は、深い深い悲しみの時を経て、いつしか殺意を抱くほどの憎悪に代わっていったのだそうだ。
彼女は後に、取り調べ室でこんなことを語っていたらしい。
「あの子は、自分の幸せのことだけを考えてくれる王子様が好きだったのよ。あの子には分かっていたのね。あの子に対する私の愛情と、夫の愛情との質の違いが。私はいつでもあの子に笑って欲しかった。でも、それはあの子のためなんかじゃなかったのよ。自分のためにあの子に笑って欲しかったの。あの子が笑ってくれれば、私が愛されている証になるから―――」
そして、あの日、なぜ退院したばかりの彼女を交通事故に見せかけて殺害したのか、という問いに関しては――
「あの子がはじめて笑ったんです。私と2人きりになったにも関わらずね。私、嬉しかった。やっと私の愛情が伝わったんだって思った。でも、違ったんです。あの子は笑顔のまま、私に言ったんです―――おばさま、もう散歩は止めにして家へ帰りましょう。私、早くハカセのところへ帰りたいです――って……あの子が何かを人にお願いしたのは、多分、あれが最初で最後だったのでしょうね」
彼女が絶望していたのは、俺が彼女を満たしていたからなどではなかった。
母親曰く、彼女は、生まれつき望むことを知らない娘だったのだそうだ―――「無願望症候群」――それが、彼女の絶望の正体だった。
彼女の両親は、彼女になにかを望んでもらおうとあれこれ手を尽くしていたそうだが、それでも彼女は、決してなにかを望むようなことはしなかったという―――父親が海外に行く度に土産を買ってくるのも、いつか娘の方からおねだりをしてくれるのではないかという期待からだったそうだ。
そんな彼女にはじめての願望を芽生えさせ、母親に殺意を抱かせたのは、他でもない俺自身だったのだ。
医者をやめて刑事を目指そうと決心したのは、その事実を知ってからだった。
医者としての自分の力量に絶望した俺は、彼女のような悲劇をもう二度と繰り返したくはないという一心で刑事を目指した。
もう決して、誰にも我が子を殺させはしない。
君の死を、俺は決して無駄にはしない。
絶望少女への誓いを胸に、おれは今日も仕事に励む。
――――――――――――――
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―――――
「呉乃刑事は、どうしてえらーいお医者さんから、地味ーな刑事さんなんかになろうと思ったんですぁ?」
坊やの無事を確かめて帰ったその日、仕事終わりに後輩と飲みに来た席で、酔っ払った後輩にこんなことを聞かれた。
いつもなら、「そんなの答える必要はない」と一蹴するところ―――だが、酒も入り、たまたまあの頃のことを思い出してセンチメンタルな気持ちになっていた俺の口からは、勝手に思い出話が垂れ流されていった。
後輩はどうも半信半疑という感じで俺の話を黙って聞いていたが、俺が一通り話終わった頃には酒の効果で涙もろくなったのか、わんわんと泣きじゃくりながら、俺の肩をバシバシと叩いて絶叫し始めた。
「ぜ、ぜんぱーい!あーた、えらいっずよー。ぞの子もぎっどぉ、でんごくで、ひっぐ、笑ってばすよーぅ!」
酔った勢いとはいえ、先輩の肩を力任せに叩きまくる後輩を許して良いものだろうか。
そんな思いが頭を掠めながらも、俺は黙って後輩に肩を叩かせながら言った。
「偉くなんかねぇよ。俺はただ逃げ出したんだ。医者を続けていく自信を無くしちまっただけなんだよ」
「バーローってんですよ、ぜんぱい!あーたは逃げたんじゃねーですよ!ぞの子だってきっとぞう言うですよ!」
「そ、そうか?」
酔っ払いのいうことなど宛にはならないが、今日はこいつの言葉をほんの少しだけ信じてみてもいいのかも知れないなと、そう思えた。
俺は、自分でも驚くほど清々しい気持ちで、残りのビールを煽った。
彼女は今、天国でどんな顔をしているのだろう
笑顔だったらいいな
俺のためにも、
そして勿論、君自身のためにも――――
<終>
絶望少女の幸福[下]
【あとがき】
あ゙ああ゙あぁぁ…、やっぱり異常に長ったらしくなってしまう。絶対、蛇足一杯ついてるんだろうな……この長さ……うぅ
これからは、スタイリッシュに種明かしできるよう技術を身に付けます。あと文……やっぱし読みづらいや(´;ω;`)
こんな読みづらいことこの上ない文章を、最後まで読んでくだって本当に本当にありがとうございました!!
また、評価・コメント等、首を長くして待っておりますので、宜しければ…ください!
では、又どこかで!><
@Atsushi Nakamine