夢みたいに可愛い空の日

 くちびるを噛んで死んだ二本足の獣のことを、ときおり思い出す。
 きょうは朝食の、フルーツグラノーラを皿に盛っているときに、思い出した。
 くちびるを噛んで死んだ二本足の獣は、ぼくの住んでいるアパートのとなりにある教会に棲んでいた。
 夢みたいに可愛い空の日だった。夢みたいに可愛い空の日は、ぼくの住んでいる町内に何かしらの不幸を招いた。
 教会に棲んでいた二本足の獣がくちびるを噛んで死んだ一か月前には、教会から二軒先にある歯医者の院長だったしろくまのおじいさんが、休診日に極北の海に出かけたところ、溺れて死んだ。その三週間前には、小さな洋菓子店を営んでいたうさぎの女の子が、自転車に轢かれて死んだ。その四日前には、おなじ学校に通っていた男子バスケットボール部のキャプテンだったやつが、カワウソに首を絞められて死んだ。
 くちびるを噛んで死んだ二本足の獣は、いい獣だった。
 バス停の近くのたばこ屋に、おなじ二本足の獣がいるのだが、あの獣はよくない獣だった。そこかしこで食べ物を食べ散らかすので、町内では嫌われ者だった。薔薇屋敷と呼ばれる、たばこ屋から五百メートル離れたところにある洋風の大きな家の、上品そうなおばあさんが育てた薔薇が花開くと、片っ端から摘み取って食べることで有名だった。ぼくも何度か、よくない獣の食事に遭遇したことがある。実に不快だと思った。汚らしいと思った。よくない獣の食事を見たあとに、なにかを食べたいとはまるで思わなかった。
 二本足のいい獣がくちびるを噛んで死んで二週間が経ったけれど、獣が棲んでいたときと変わらず、教会の扉は開け放たれている。
 来る者拒まず、である。
 迷える子羊たちを、いい獣は喜んで招き入れた。
 いい獣は手作りのお菓子や、教会の庭で育てた花を、訪れた人たちに分け与えた。
 いい獣がいなくなった教会には、獣を慕っていた近所の住民や、獣に救われて新たな人生を歩み出した者たちが、獣を弔いにやってくる。獣が好きだったクレマチスや、栗ようかんを手向けに、二本足の者が、四本足の者が、鋭い牙の生えた者が、ふさふさの尻尾を持つ者が、やってくる。
 ぼくもいい獣が生きていた頃は頻繁に、教会に足を運んでいた。
 学校であったおもしろかったこと、むかついたこと、くやしかったこと、かなしかったこと、進路のこと、恋愛のこと。いい獣は、ぼくの些細な話にも真剣に耳を傾け、自分のことのように思い悩み、考えてくれた。いい獣が淹れてくれるお茶は、とてもおいしかった。
 そういえばいい獣が死んでから、たばこ屋のよくない獣が教会に入っていく姿を、何度か見かけたことがあった。
 よくない獣が訪れるのは決まって、夜も深まった頃であった。ぼくがアルバイトから帰ってくる時間と、重なることが多かった。
 あの獣のことだ、供えられたクレマチスの花を食べるとか、栗ようかんを食べるとか、教会のものを壊すとか、何か悪さをしているにちがいないと、ぼくは警戒しながら獣の様子を窺ったが、よくない獣は何するでもなく、子どもたちが集まったときにいい獣がぽろんぽろん弾いていたオルガンの前に立ち尽くし、高い天井を見上げたり、薄汚れてつやを失った白い床を見たりしていた。クレマチスの花や栗ようかんを食べることも、オルガンを破壊することもなく、よくない獣はそのまま帰っていった。
 ともだち、だったのだろうか。
 ぼくは思った。
 いい獣にも、よくない獣にも、特定のともだちがいる気配はなかった。いい獣は毎日教会にいたし、よくない獣は毎日たばこを売りながら、町内を徘徊していた。いい獣が生きているときには教会で一度も、よくない獣のことを見たことはなかった。
 ほんとうのところ、いい獣のことも、よくない獣のことも、ぼくは詳しく知らないのだった。
 ただ、ぼくが生まれるずっと前からこの町に棲んでいるということ。それだけだった。

 二本足のいい獣が死んで四週間が経った頃、よくない獣が死んだ。
 中毒死だった。
 薔薇屋敷のおばあさんが育てた薔薇、ではなく、サフランの花をすべて食べ尽くした直後に倒れたのだと聞いた。
 くちびるを噛んで死んだ二本足の獣とおなじ、夢みたいに可愛いパステルパープル色の空の日だった。

夢みたいに可愛い空の日

夢みたいに可愛い空の日

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-06

CC BY-NC-ND
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