あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(4)
四 続、診察室にて
「どうですか」このすっとボケたしゃべりがいい。いつものように電子カルテを見ていた医師がこちらに向いた。
「ええ、変わりないです」
「そうですか。変わることも大事ですけど、変わらないことも大切ですよ。はい、診察しますよ」
医師はあたしの眼を見開き、鼻の穴を広げ、「はい。あーんして」と口を開けさせる。服を上げてください、とあたしのお乳とお腹の四段堤防を見て、聴診器をあてる。
「はい、反対向いて」と、服を上げたままの状態で、今度は、背中に聴診器をあてる。
「異常ないですね。はい、以上」
しょうもない洒落だが、今のあたしには心地よく聞こえる。それから二人で、とりとめもない会話をする。ここで話をする時は、胸の高ぶりはない。うぇっという吐き気もない。素直に話せる。次から次へと言葉が出てくる。プレッシャーがないためなのか。そう言えば、お笑いをしていた頃は、何を見ても、ネタになるんじゃないか、これおもろいわ、いたよは笑ってくれるやろか、お客さんに受けるやろか、と一分六十秒、一時間六十分、一日二十四時間、一年三百六十五日、四年に一回は三百六十六日、一生百年、そんなに生きられるか、と自分に突っ込みを入れながら、やっぱり笑いを求める性分だ、とずっと考え続けていた。
それはそれで面白く、楽しく、刺激的だったが、どこかで無理をしていたのかも知れない。過大なストレスもあった。それを、毎日の仕事、舞台、いたよとのネタ合わせで、忙しくふるまい、ストレスを意識的に忘れようとした。それが、いたよが亡くなり、あたし一人ぼっちになったことで、すべてをしばりつけていた緊張がほどけて、バベルの塔が崩れた。「笑いは緊張の緩和だ」と亡くなった落語家の師匠が言っていたけれど、あたし自身が緩和してしまった。
あーあ。崩れる。そうわかっていながらも、あたしは何もすることができなかった。いや、反対に、あたしのバベルの塔にあたしが乗り込んで、ストレスと一緒になって、塔を壊し始めた。額にタオルを巻き、お腹に腹巻をして、黒い長靴を履いたあたしが、ツルハシを持って、塔を壊している。なんだ、そのかっこうは。それじゃあ、悲劇のヒロインにならないじゃないか。傍観するあたしがツルハシ女に突っ込む。ツルハシ女は「突っ込んじゃいないよ。壊してんだい」と答えると、汗を拭いながら、何度も何度もツルハシを持ちあげては、そのまま落とす。あたしは突っ込むことやめ、ただ、ツルハシ女のすることを黙って見つめていた。
「話変わるけどなあ。いないよちゃん」
「なに、なに、なに?」
「そんな大きな体で、寄って来んとって。押しつぶされそうになるわ」
「なに、なに、なに?いたよちゃん」
「もうええから、向こうへ行ってえなあ」
「なに、なに、なに?」
「あんた、どこへ行くんや。舞台下りて、お客さんのとこ行ったらあかんがな。はよ、戻っておいで。すんませんなあ、お客さん。これから首輪と鎖をつけて、半径一メートル以上は行かせないようにしますから」
客席からいないよが舞台の上のいたよに向かって叫ぶ。
「ワン。あたしは犬か。キャッ。それとも、猿回しの猿か。ワンワン、キャッキャッ」
「やかましいわ。いないよちゃん。あんた、自分から犬や猿の鳴き声してるで。はよ、戻っておいで。骨とバナナあげるから」
「何が、骨や。何が、バナナや。あんたが向こうへ行け言うたから、行ったんやで。はあ、はあ、はあ」
「息するんのに舌を出さんといて。息づかいまで犬になっとるで」
「適応能力が高いんや」
「難しい言葉知ってるなあ。早い話が単純なんやろ」
「単細胞とも言います。あんまり、誉めんといて」
「誰も誉めとらんわ。その性格、いないよちゃんがうらやましいわ」
「だから、あんまり誉めんといて」
「あんたやったら、世界中に誰もおらんようになっても、一人で生きていけるわ」
「そうかいな」
「素直やなあ。感心するわ」
「お客さんなあ。何でも素直が一番ですよ。この素直のおかげで、こんなにすくすくと大きくなったんです。今ではスクール水着は入りません。風船のように破けてしまいます」
「スクール水着や言うて、懐かしいなあ。それにしても、腹張ってどうすんのん?」
「腹やないわ。胸や。胸張っとんのや。腹張っとんのは食べ過ぎやからや」
「そりゃそうや。朝からどんぶり飯三杯も食べたら太るで」
「三杯やないわ。四杯や」
「威張ることかいな。そんなんどっちでもええわ」
「ええことないわ。最近、昨日の夕飯、何食べたんか、思い出せんようになってきてなあ。いたよちゃんは、そんなことないか?うどんやったかいな、カレーやったかいな、カレーうどんやったかいな」
「うどんとカレーしか食べてないんかいな」
「いや、うどんカレーも食べとるで」
「カレーうどんとうどんカレーは一緒やろ」
「一緒やないで。うどんにカレーをかけるのがカレーうどんや。カレーにうどんをのせるのがうどんカレーや」
「順番が違うだけやろ」
「その順番が大事なんや。先にカレーを味わうのと先にうどんを味わうのでは、これからの人生の進む方向が大きく変わるで」
「そんな大げさな。ほなら、どう変わるんや」
「先にカレーを味おうたら、華麗なる人生で、先にうどんを味おうたら、う鈍な人生になるんや。どうや」いないよがドヤ顔になる。観客から拍手が鳴った。
「お客さん。拍手はいらんで。癖になるから」いたよが観客席に向かって大きく手を振る。
「何が、癖になるんや。わたしらお笑いは、お客さんの拍手を食べて、芸人として大きく成長できるんや。なあ、お客さん」再び、観客席から拍手が鳴った。
「たまには、ええこと言うなあ。それで昨日の夕食は何を食べたんか思い出したか?」
「ラーメンやった」
「カレーやうどんと違うんかいな」
「まあ、そういうこっちゃ」
「そればっかしやなあ。そやけど、いないよちゃんは昨日何食べたか忘れてもしょうがないわ」
「なんでや」
「一日十食以上食べとるやろ。どれが朝ごはんで、どれが昼ごはんで、どれがおやつで、どれが夕ごはんかわからんやろ」
「ほな、これから、全部朝ごはんにするわ。これで間違えんで済むからな」
「もうええわ」
いつも面白いことを言わなければならないというプレッシャーがあった。プレッシャーに負けまいと、いろんな面白いことを考えた。思いつくたびに、ネタ帳に書きこんだ。だが、ひとつも思いつかに時もあった。そんな時は、自分の存在自体を否定されたような気がした。お前なんか、名前の通り、いなくなってしまえ。どこからかそんな声が聞こえてきた。いやだ、いやだと思う気持ちと、その通りだと思う気持ちで、大きく振り子が揺れた。それを打ち消すかのように、あたしは食べた。お笑いはしゃべるのが商売だからと、目の前にあるのど飴を口に放り込んだ。それぐらいでは、面白いことは思いつかない。そうだ。体にはビタミンCがいいんだ。
あたしはかごに盛っているみかんに手を伸ばした。つめの先が黄色くなるくらい、多分、口の中も、喉も、胃の中も黄色くなるくらい、みかんをむさぼった。食べている間だけは、面白いことを考える必要がなかった。だから、純粋に、美味しいとか、辛いとか、もっと甘い方がいいとか、感じたままのことを口に出した。だが、食べ終わると、手帳の白いページを前に筆が止まる。もっと面白いことを考えなければと、強迫観念に襲われた。みかんの汁がその手帳に飛んだ。黄色いしみ。そのしみにライターの炎を近づけた。あぶってみた。だが、しみからは何も浮き上がって来なかった。あっちっち。あたしの指が燃えそうになった。あたしは笑った。これはネタになるのか。自虐ネタだ。
その間にも、ガムを噛んだり、ジュースを飲んだり、せんべいをかじったり、飴を舐めたりと、始終口を動かし続けた。舞台の前には、ポッキーを十本、それもポキポキポキポキポキポキポキポキポキポキと音を立てながら食べた。ちゃんと十回鳴った。もし、十一回鳴れば、ホラー、怪談になる。どうだ、ネタとして使えるか。早速、舞台にかけた。お客さんは笑わなかった。相方のいたよだけが引き吊った笑いをしてくれた。あたしの首がポキっと鳴った。
舞台が終わった後は、板チョコを十枚、甘さで口の中が痛くなるように、試練のように、踏み絵のように食べた。板チョコだから痛いチョコ。どうだ。だが、こんなネタでは誰も笑わない。
あたしの体は、もともとぽっちゃりとしていたが、食べ物を強制的に摂取することで、ひと周りもふた周りも太くなった。お乳が垂れ、お腹が二段腹から三段腹の山脈になった。そこを相方が突っ込んで来る。
「いないよちゃん。あんた、牛さんみたいやで。お乳が八つもあるんとちゃうか」その言葉にお客さんが笑った。受けたのだ。面白いことを考えることから逃げるために食べ続けた結果が、面白い体になっていた。あたしは救われた。食べることに、食べ過ぎることに嫌悪感を抱いていたが、それは間違いだった。食べることで、太ることで、あたしは笑いを獲得した。
あたしと正反対なのがいたよちゃんだった。いたよちゃんも、あたしと同じように、面白いことを、ネタを考え続けていた。そして、思いつくと、あたしのようにネタ帳に書きなぐっていた。だが、いつもいつも、そうネタがあるわけではない。白紙のページが続く、ネタ帳を開いてもボールペンを持ったまま、お地蔵さんのように身動き一つしなかった。そうなると、ネタ帳を開くことは少なくなった。ネタを考えられない自分が悪いのに、まるでネタ帳が悪いかのように、ネタ帳を嫌悪した。眼に入れば、そこから遠ざけ、また、時には、ネタ帳をソファーに向かって投げつけた。その時、吐き気をもよおし、トイレに駆け込んだ。胃の底から、腸の中から、絞り出すように食べた物を吐いた。吐き続けた。
吐く間は、ネタを考えることから忘れることができた。吐く辛さよりもネタを考えることの方が辛かった。それ以来、物を食べる度に吐いた。以前は、喉に指を突っ込んで吐いていたが、今は、食べ物を見ただけで吐けるようになった。パブロフの犬じゃないけれど、いたよちゃんのおう吐だ。もちろん、何も食べていないので、出てくるものと言えば、胃液だけだった。食べては吐く。吐いては食べる。そんな生活を繰り返す。あたしが太る一方で、いたよちゃんはやせ続けた。いたよちゃんはそんな自分を嫌悪し続けていた。はたから見ても、いたよちゃんは、名前の通り、いたいたしかった。
ある日のことだ。
「いたよちゃん、出汁の出ない鳥ガラみたいやなあ」
舞台に立ったあたしは、何気なく呟いた。その言葉に、お客さんが笑った。受けた。首を絞められ断末魔をあげたようないたよちゃんの顔がぽっと赤くなった。生気が蘇った。それからだ。いたよちゃんは吐くことに何のためらいもなくなった。さすがに、舞台の上では吐かなかったものの、楽屋では、平気で、洗面台の前で吐いた。移動の車の中でも吐いた。エルメスのバッグからスーパーのビニール袋を取り出すと、その中に吐いた。おえー、おえーの吐く声の横で、えおー、えおーと掛け声をして、あたしはまんじゅうを、あんパンを、せんべいを、ほおばり続けた。
あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(4)