夕焼け時
冷たい風が街並みを吹き抜けて、秋に染まった銀杏並木の葉を揺らした。
男はマフラーに顔を埋めるようにし、少しだけ肩を縮めた。まだ十一月の頭だというのに、世間はもう寒い。
「すっかり寒くなりましたね」
隣を歩く妻の吐いた息は白い。何気ない言葉をのせて、ゆっくり空に浮かんでいってふわりと溶けた。妻は見送るように空を仰ぐ。男もそれに倣った。透き通った薄青い天井には雲一つ浮かんでいない。
「秋は、いつの間に行ってしまったんでしょうね。私、秋が一番好きなのに」
返事をしないでいると、妻がさらに言葉を重ねてくる。仕方なく男は俯き加減の顔を少し上げた。
「こんなに黄葉が綺麗なんだ。これが秋だろう」
「……それもそうですね」
男は再びマフラーに顔を埋める。妻は少し微笑んだ。
何でもないような土曜日の午後の通りを、夫婦は並んでゆっくりと歩く。時折自転車に乗った若者が、めいっぱい迷惑そうな顔をこちらに向けながら追い抜いていく。残念ながら、年季の入った夫婦の間には、そんな湿っぽい抗議は通らなかった。
夫婦は結婚して今年で二十八年目を迎える。出会ったのは同じ高校で、二年の時に交際を始め、それから紆余曲折を経て二人が二十六歳の時に婚約をした。その三年後に初めての娘、さらに三年後には息子が生まれ、時には問題を抱えながらも彼女らは順調に育っていき、四人家族は大きな波乱を迎えることもなく、ついに先日、長女に続いて二十二歳となった息子が大学を卒業し独り立ちをした。
ずっと子どもと過ごしてきた我が家に、突然の静寂が訪れた。母はその役目を終えた気がして寂しくなった。人との会話の量が明らかに減ってしまった。考えてみれば、仕事で帰りの遅い夫と言葉を交わすことなど以前からほとんどなかったのだ。
そうしてある土曜日の朝、彼女は夫を映画に誘ったのだ。夫は突然の提案に少し戸惑いながらも、気持ちを察してくれたのだろう、すぐに承諾してくれた。
その夫が今、何を話してよいやら分からないのか、いつも以上に寡黙に隣を歩いている。
「喫茶店にでも入りませんか? 温まりたいですから……」
夫は妻の目を見ることもなく頷いた。
向かいの席に座った二人の前に、それぞれ紅茶が運ばれてきた。夫はどこか照れくさそうに曇った眼鏡を外した。
「こんなふうに二人でいるのも、何年ぶりでしょうね」
「……どのくらいだろうな。三十年くらいか?」
「そんなには経ちませんよ。それじゃあ二十四歳の時ですよ」
途切れた会話に二人はほのかに微笑んで、ティーカップに手を伸ばす。妻は熱さに思わず手を引っ込めた。夫は構わず少しだけすすり、顔をしかめる。
「もう人生の半分以上も一緒にいるんですね……」
妻が感慨深げに呟くと、夫も言葉には出さないながら、うん、うん、と二度頷いた。そして妻の紅茶に指をさす。
「それ、砂糖、入ってないぞ」
ああ、と妻は思った。不器用な優しさが懐かしい。
「苦かったんですか?」
「まあな」と夫は答える。この年になっても子どもじみたプライドがあるようで、妻にはそれが面白くて仕方ない。
そういう仕様なのか単なる従業員のミスなのか、運ばれてきた紅茶に砂糖はついていなかった。夫は妻の紅茶に手を伸ばし、席に備え付けてあった瓶の砂糖を一さじ入れて、それから自分の分にも同じだけ入れた。
「ありがとうございます」
うむ、と夫が頷く。妻は熱さに用心しながら紅茶を一口啜る。うっすらと淡い、けれど確かな甘味を感じた。
「公園にでも行こうか」
今度の提案は夫からだった。
その辺りには、夫婦がかつてよく二人で歩いた公園があった。秋は紅葉が美しいことで有名なのだ。もう時刻は午後四時をまわり、空の色は少しずつ暗くなってきていたが、妻はその提案に心から賛同した。
外の寒さは、喫茶店に入る前よりも明らかに厳しくなっていた。時間も遅いから仕方ない。二人並んで歩きながら、妻は昔のことを思い出していた。
「手、繋いでもいいですか?」
それは何とも控えめなお願いだった。夫はこの時、この日で初めて妻の目をまっすぐに見た。その両目を通じて、彼は何やら分からない懐かしい感覚を抱いた。妻がどんなことを考えていたのか察したのだろう。コートのポケットから左手を出して、妻の冷えた手を握った。
「懐かしいな」
夫は妻の言おうとしていた言葉を先回りした。妻は一瞬不意を突かれたようになり、それからすぐに同意した。
「そうですね」
「大輔は元気にしているのか」
子どもたちと連絡を取るのは、いつも妻の役目だった。
「まだ仕事には慣れないでしょうけど、元気そうにはしていましたよ」
「そうか。……社会に出ると、難しいこともあるだろうな」
そうして夫婦は、子どもの未来に思いを馳せた。それぞれが自分の過去を、子どもたちの将来と重ねていた。
「美咲も仕事は順調そうですし、親の出る幕はありませんね」
「あいつももう……二十五か? そろそろ結婚も考えないとな」
「いい人、できたみたいですよ」
夫が動揺するのが、目に見えてわかった。妻は笑うのを堪えて言った。
「あなたみたいに、浮気をしない人だといいですね」
「うるさい。もう時効だろう」夫は苦笑いを浮かべた。
開けた公園にたどり着き、誰もいないベンチに腰を下ろす。
「でも、私たちもよくやりましたよね」
「……そうだな」
「子どもを、二人も、あんなに立派に育てたんですものね」
「そうだな」
「あの頃は、こんなの、想像もしてませんでしたよね」
「……そうだな」
妻はそれ以上何か言う必要を感じなかった。きっと隣にいるこの人も、私と同じことを考えているはずだ。
長い沈黙があった。日は徐々に下りていき、風が何度となく目の前の枯れ葉をさらっていった。
「次は、どこに行きましょうか?」
「横浜の水族館にでも行こうか」
そこはずっと昔、二回目のデートで二人が行った場所だった。
「……それ、いいですね」
家に活気がなくなって暗く靄がかかっていた妻の心に、いつの間にか小さな灯がぽつりと点っているのを感じた。ずっと昔、付き合いたての頃の感覚とこれは一緒だろうか。もうその思い出は古すぎて、今では全く思い出せない。
西の空は紅く染まり、木々の間から太陽が顔を覗かせていた。じんわりと遠慮がちな木洩れ日が温かい気がした。こんなに夜が近づいたって、ずっとお日様は私を温めていてくれた。
夕焼け時