こちらが深淵を覗くとき
こちらが深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている。
寒空の下、真白なマフラーに口元まで埋めながら、そんな誰かの言葉を思い出していた。わたしの視線の先には小さくない水溜まり。一般的なフラフープと同じくらいの大きさ。陽の光が差していても水が濁っているからか地面は透けて見えなくて、じっと目を凝らしていると奇妙な感覚に囚われる。
これがあなたの心ならその深さはきっと知れないだろう。冷たい水に触れてみても、あなたの喜びにも悲しみにもたどり着かない。それだけは分かっているつもり。
わたしはずっとここで待っている。街外れの寂れた公園のブランコに乗って、たまには滑り台に上ってみたりして。シーソーだけはどうしても一人で乗れない。あなたがその姿を現したら、他人行儀な挨拶は省略してシーソーで向かい合わせになろう。
それにしても、あなたは誰? わたしの心を捕えて放さず、いつも意識の一番広い部屋で存在を主張しているあなたは。ずっと昔から知っている、そういう確信があるというのに、もどかしいほどにその容姿や名前が曖昧で、あなた、と呼ばわることしかできない。
だけど、ほんとうは気づいている。教室で授業中、人から人へ渡ってゆく小さな手紙がわたしのところには絶対に来ないみたいにして、わたしたちはそこらに散らばる事実にいつだって気づいてしまう。あなたがどういう人間かどうかなんて、知らなくたってかまわない。ほんとうのほんとうは、あなたを意識していられるだけで十分なのだ。
色味が深すぎてまるで異世界へつながっているかのような水溜まりは、昨日もあった。もしかしたら、この不可思議な鏡は実際に異世界へ行ける入口なのかもしれない。そうだとしたら、わたしはなにかから解放されるだろうか。
あなたに会えるかしら。
鼻歌で好きな歌を奏でる。イングランド民謡「グリーン・スリーブス」、悲しげな調べ。
あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。
太宰治の「女生徒」はこんな一文で始まる。朝一番に差す「おはよう」の光がカーテンの隙間からわたしを見るとき、このフレーズが心に浮かぶ。昨日はどんな一日だったかすでに曖昧模糊、抱きしめていたもこもこの掛布団を追い払い、這い出る。明日はきっと素敵な日になる、と毎日思えたらどんなに幸せだろうか。生憎、そこまで素直ではない。
朝食を作っている時間はないので、牛乳をコップ一杯飲んで代わりとする。母親はぐっすり眠りこけている。夜勤の彼女を揺り起すわけにはいかない。手早く身支度を整えて、我が家を後にする。
わたしが通っている高校はお弁当持参となっているので、途中でコンビニに立ち寄って適当なものを見繕う。たまに早起きして自分でお弁当を作るのだけれど、毎日はむり。コンビニ弁当を持ってくる生徒なんてわたしだけだ。担任の先生はそれを見てなにか言いたげな表情を浮かべるが、結局なにも口にしない。
眠たげな顔をしている店員さんにお弁当を差し出すと、「温めますか?」と訊かれた。嬉しくなっちゃって、すぐに食べないというのに「はい」としおらしく答える。温められるお弁当を待ちながら、お礼に店員さんを抱きしめて、いい気持にさせて、いやらしいところを温めてあげたい欲求に駆られる。駆られるだけで、満足するのだけど。
登校し、教室へは向かわず、まっさきに社会科準備室へ足を運んだ。ノックしてからドアをゆっくり開けると、ソファに腰掛け、コーヒーを啜っている初老の男性がわたしを認め、双眸をカシューナッツの形に細めた。そういう瞬間の野村先生は愛らしい乙女に映る。それは言い過ぎか、かわいらしい、くらいで。
野村先生は社会科の先生で、日本史を主に担当していて、奈良時代が一番好きで、元明天皇のような人生を送りたいらしい。決して吉備真備のようではないという。意味不明である。そんな先生が好きだ。
立ち上がって向かい合うと、目の高さが同じくらいになる。手を伸ばして上から順番にシャツのボタンを外してゆく。女性の服を脱がせたがる男性は珍しくないけれど、その逆は稀だろう。先生はいい歳してドMだ。わざと時間をかけてボタンを外していると、それとともに彼の股間が膨らんでくる。小動物が潜んでいるみたいだ。わたしはそっとそれに触れて、「温めますか?」と訊いた。先生は「へ?」と間抜けな声を出す。「コンビニ店員の真似」「……へえ」
おかしくって笑っちゃう。抱きしめて、いい気持にさせて、愛情を待っている小動物を温めてあげる。
あなたに関する記憶。
あなたは、幼いわたしに服を着せてくれる。ボタンを上から嵌めてゆく。動きたそうにするとたしなめられる。最後までじっとしていると、頭をぎこちなく撫でてくれる。
――よくできました。
誰かのボタンを外しながら、この記憶をいつまでも自分の記憶として放さないでおく。
風が空気を縫う。うそみたいに青い空と、人を小ばかにしたような形の雲。住宅街をてらてらと歩いていたら、うっかり知らない綺麗な女の人と目が合ってしまって気まずくなる。なんとなく急ぎ足になって、でもふと心づく。わたしには急いて行かなければならない場所なんて存在しない。
だから、今日も私は公園へ向かう。ほかの誰かがいて、好奇の目を注がれたとしても。その区画の中でたった一人だったとしても。だってわたしはあなたを待っているから。
あなたのことをもっとちゃんと憶えていられたらよかったのに。どうしてこんなにもぼやけて、そしてそのときの感情によって勝手に色づけされてしまうのだろう。
――鈴子。
名前を呼ばれて振り仰ぐ、幼いわたし。
――お父さん、喉が渇いちゃった。飲みもの買ってくるから、ちょっとここで待っててくれる?
簡単に頷き、すぐにあなたから目を離す。なにも考えていない。目の前のことに夢中。そんなわたしに意味深に笑いかけ、あなたはゆっくりと歩き出す。そのまま、もうずっと戻ってこなくなるなんて、誰が想像できたかしら。
待っててくれる、と言われたから、わたしは毎日ここでブランコに揺られながら待っている。小さな手紙が回ってこないことに傷ついたり、好きな人の股間を温めたりする日々を送りながら、いい子にして待っているの。
深淵がこちらを覗いている。やっぱり雨は降らなかったのに、水溜まりはなくならない。相変わらずそこで何食わぬ顔をして淀んでいる。
深淵が手招きしている。どうしてか、たまらなく魅惑的な誘いに感じる。ふらふらと引きつけられ、もう目の前まで来て、片足をそろりと乗せようとすると――その刹那に強い力で吸い込まれた。
痛みはなかった。気分が悪くなることもなかった。
覚醒してゆく意識の中で周囲の状況を確かめる。見慣れない場所へ飛ばされてしまった。豊かな自然に囲まれている。ここはどこだろう。どうでもいいけれど、あなたはここにいない気がする。
傍らに、寄り添うみたいにしてブランコがあった。
こちらが深淵を覗くとき