先生と椿
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わたしは邪悪な人間ではないつもりでした。ただ少し、ひととは愛し方が違っていたのでしょう。
わたしは先生のことがすきだった。彼を好いていたからこそ、わたしは罪を犯し、いまここにその罪悪を告白します。
夏
先生の名前は三倉という。ミクラではない。サクラだ。よく間違えられるのだと先生はぼやく。私からすれば、先生はミクラでもサクラでもどちらでもよいのだった。先生は先生なのであって、名称などどうだっていいのだ。ただ彼が彼として、そのようにしてあることだけが、私にとっての関心ごとであった。彼は小説を書く。作家だ。
「柾」
と、先生が私の名前を呼ばれるたび、私の心臓はどくどくと強く脈打ち、生きていることを私に思い知らせる。先生の少し高い声が、その水蜜色の口唇から発せられるたび、書生として置いていただいている私の本懐を遂げたような気分になる。
しかしその願いはけして叶うことはない。
先生は菫さんのことを好いているのだった。菫さんというのは角の煙草屋の娘だ。むろん、男同士でどうにかなれることなどは期待していない。しかしながら、好きなひとに好きなひとがいるということは、それだけでどうにも私の心中をひどく掻き乱すのだった。
「柾」
縁側で庭を眺めていた先生が、畳間で洗濯物をたたむ私に声を掛ける。
「たばこ、買ってきてくれ」
薄らとその頬が赤らんでいることに気が付かない私ではなかった。
今日も私は煙草屋の娘に嫉妬をする。
「そんなに好きならば自分で買いにいけばいいんだ」
独り言を言いながら私は煙草屋まで歩みを進める。先生の家屋からはほんの五分ほどの距離だ。好きな女に眼中にないと態度で示されるのがそんなに怖いのか。自分は一緒に暮らすひとりの書生を、無自覚とはいえずっと焚きつけているくせに。
なんだって先生はそんなに菫さんのことを好いているのだろう。彼女はたしか今年で十七になるはずだ。先生からすればまさに子供のような年齢だろう。先生はこの六月で三十八になった。もし先生に子供がいれば、菫さんくらいの年であってもおかしくはない。
ところで、これは先生も知悉しているはずのことだが、菫さんはおそらく私のことをそれなりに好ましく思っている。私が声をかけたときに受答えする愛想の良い声音、釣銭を渡すときのその調子の柔らかさ! 先生があの手に触れたらなんと言うだろう。
先生はときたま気紛れに私にお遣いを頼むといいながら煙草屋まで一緒にくることがあった。本人は散歩だと言い張るのだが、きっとそれは菫さんを一目見るためだと私は気づいていた。「たばこをください」と私が注文をしたときの、その返事がやけに明るく、親しげなのを聞いて、先生は捨てられた犬のような、自信のない、打ちひしがれた顔をしていた。先生は私と違って感情を隠匿するのが苦手であった。それに気づいたとき、だから私のような者に付け込まれるのだ、とも思った。いつも先生は私に対しては全く無警戒なのだった。
私にはどうやらひどく屈折しているところがあるらしい。
それを見て、うれしいと思う自分がいたのを、そのとき既に自覚していたからだ。それに、年頃の娘が、自分のことを好いているようだと知っても、嬉しさのかけらもないのだ。それどころか、先生がそのことで私に嫉妬しないだろうかと期待している。
いつかそれがいびつな関係の萌芽になるとは、そのときの私は思ってもいなかった。私はそこまで意識の明瞭な人間ではなかった。こと、好いた人のことになると、考え事というのは停車を忘れた山手線のようにぐるぐると暴走して息苦しくなるほどつらいものになるか、ぼんやりとしてなにも進まないかのどちらかだ。定食屋で鯖を食べるか親子丼を食べるか、のようにかんたんに割り切れるものではない。
五分の道程は考え事をしながらでは一瞬のうちだった。
「たばこをください。いつものを」
「あら、柾さん」
私は女の高い声というのがどうにも苦手だった。先生が好いた女といえど例外ではない。夜の飲み屋街で嬌声など聞こうものならたちまち耳をふさいでしまいたくなる。
角の煙草屋は煙草屋の例に漏れず、陳列された煙草と、奥の在庫とでぎゅうぎゅうに詰まっている。ひと一人はいるのがやっとではないだろうか。
狭いからこそ、そこでは菫さんの華奢さが目立っていた。
先生ははじめてここで彼女を見て、なにを思ったのだろう。
「わたし、たばこの煙は苦手だわ」
「今日は私のじゃあないんです。先生のだから」
微笑を浮かべていかにも言い訳めいた台詞を吐く。きちんと、わたしは菫さんの好意に気づいているんです、と示すことのできる応接のやりかた。正直なところ、彼女が煙草を好きか嫌いかなんてどうでもよかった。ただ先生という存在が彼女から見てまた、煙草によって負の点数がつけられるのかしら、と思うと不思議と気分が良くなった。
「はい。お釣りが三銭」
「ありがとう、スミちゃん」
ふたりはたしか、むかしからここが地元のはずだった。
地方から学校に通うために出てきた私と違い、彼らは生まれたときからここで同じ時間を過ごしている。
どうしようもなく、羨ましかった。
「戻りました」
出かける前と同じ、縁側に座っていた彼に煙草を手渡した。あんまり頻繁に買いに行かされるものだから、以前「まとめて買っておいてはいかがですか」と進言したことがある。
近いから、あまり手元にあると吸いすぎてしまうから、と先生ははぐらかしたが、じつのところは、菫さんのいる煙草屋に「三倉さんのところのおつかい」が行く機会を増やしたいだけであろう。遣いから帰るたび、そんなに好きなら、いっそのこと自分で行けばいいのに、と思う気持ちと、いや、女に先生を取られたくない、という気持ちがいつも私の中で拮抗し、燻る。苛立ちが心内に募って、思わず取り出した自分の煙草に火を付けた。そのまま夕食の準備をするために台所へ向かう。流しに出した燐寸の燃えさしが、萎えた私の気分のように「ジュッ」と音を立てて燃え尽きた。
私はもともと煙草を喫む習慣はなかった。その味を知ったのは先生のところに来てからだ。苦い煙を吐き出す。肺に入りきらなかった白煙はもくもくと開けっ放しの小窓に呼ばれ、外気に巻きとられていった。
平生なら煙草の一本も吸えば苛立ちは収まるはずだったが、今日に限ってはそうはいかない。
先生の嫌いな茄子を夕飯に出そうと思いつけた。先生は好き嫌いはするが、出されたものは残さず食べる。そういう先生の廉直なところは、私が最も好む部分だった。
夕餉に際して、先生は咳をしていた。このひとはもともと気管支が弱いのに、無理をしているのかしていないのか、煙草を吸おうとする。すこし体調を崩したときなどは、すぐに呼吸器に現れるのだった。
「風邪ですか」
「そうかもしれない。しかし夕飯はいただくよ。食べたらすぐに寝ようと思う」
「今日は茄子を使ったのですが」
先生はうげ、とでも言いそうな表情で、しかし、
「いつもありがとう」
と言った。
「清拭を」
夕食を終えて先生の具合は悪化した。夏場で風呂にも入れないとなれば気持ち悪かろう。目元は熱っぽくうるんでいる。唇は、高い湿度にも関わらずかさかさとしていた。発熱時特有の口唇の荒れ。
先生の浮き出た頸椎が、蛍光灯の光で青白い肌にうすくかげを落としている。袷をはだけた先生の肌は、滅多に家からでないことも手伝って、日に焼けた部分がない。私はこちらに背中を向けてすわる先生の背中を拭いた。力の抜けた背面の、肩甲骨の微かなふくらみと固さを、慈しみをもって撫でる。
「あせもができそうですよ」
そう広いとはいえない背中を拭い終わり、わき腹へ手を伸ばすとうっすらと赤みを帯びた箇所があった。
「寝るときずっと横を向いていたからかな」
「ここのところ気温も高かったので……かき壊したりしないでくださいよ」
私の注意も聞いているのか聞いていないのか、眼鏡の奥の双眸は今にも閉じてしまいそうにゆらゆら揺れていた。寝所に布団を敷いて先生を連れていくと、すぐに寝息をたてた。
縁側に腰掛けて、煙草に火をつける。銘柄は先生のと同じものだ。ノウゼンカズラが暗闇にぼんやりと浮かび上がっている。そういえば学校の課題がまだ残っていた。
発熱で乾いた先生の口唇の記憶がよみがえる。
先生のあれに口づけたら、いったいどんな味がするのだろう。先生の乾いた唇に私のそれを重ね、気息を合わせる想像をする。息が止まる。喫煙量は私よりも遥かに多い。一日に二箱は開けているはずだ。きっと苦味が強いだろう。苦瓜や蕗の薹とはまた違う、いくらか人工的な煙草の苦味だ。息が止まる。タールと、ニコチンによる気分転換。息が止まる。
ぶは、と煙を吐き出した。
私の喫煙は先生へのあこがれというよりも、口寂しさを紛らわすためのものかもしれなかった。先生の喫煙はなぜだろう。
水を入れた桶と手ぬぐいを持って先生の寝所を訪ねた。音を立てないように襖を開ける。先生はすっかり寝入っていた。
「失礼します」
一応声をかけてから、手ぬぐいを桶の中の水に浸す。絞って、うっすらと汗ばんだ先生の顔周りを拭う。次に首。耳殻、手の甲。
ふ、と唇に目が行った。相変わらず乾いているそれは縦に皺を深く刻んでいた。目が吸い寄せられて離れない。きっと煙草の味が強いそこ。露出した粘膜の砦。菫さんのことを受け入れ、私のことは拒むだろうその唇。
私は桶の中の水をつ、と人差し指にとり、先生の唇に塗り付けた。一時的に潤ったそこは襖の向こうの灯りを受けて妖しく光を反射する。唇に当てた指に寝ながらも違和感を覚えたのか、先生は微かに呻いて眉根を寄せた。先生はいま寝ている。私の背筋を支配的な感情が駆け抜けた。手ぬぐいを握っていた左手に力が入る。自覚的な感情ならば抑えることができるはずだ。
私は深く息を吐き、吸って、部屋をあとにした。
晩夏
先生の小説に、こんなものがある。
四十絡みの男が、年端もいかないその娘に好意を抱いている。男は床屋で、父親の散髪についてきた娘の前髪を好意と善意で整えてやったりする。娘の髪は、それは美しいものだった。腰まで届くかという、手入れの行き届いた黒髪。男は娘と、娘の美しい髪を好いていた。
しかしあるとき転機が訪れる。娘が恋人を連れてきたのだ。男は焦燥にかられ、娘と、娘の恋人に出した茶で薬を盛って眠らせる。男は娘の恋人を殺し、娘の髪を刈り取る。
刈り取った娘の髪を抱き、その体に巻き付けて男は号泣する。
それで終わりだった。
そういえば、菫さんの髪も、腰まで届くとは言わないまでも、綺麗な髪をしていたな、と私はぼんやりと思い出した。
先生は臆病者だ。
そして私も。
秋・前
「どうして煙草をご自分で買いに行かれないんです」
「どうして、って」
先生は困惑したように箸の先を迷わせた。菫さんの名前は敢えて出さない。夕餉をふたりで囲む風景は二年前に始まった住み込みからずっと変わらない。
「だって……」
子供のような切り出し方。先生はときどきそのような話し方をする。
「だって、仕合せは自分から捕まえにいくと逃げてしまうんだもの」
それに、と彼が続けた。
「仕合せな思い出よりも辛い思い出のほうがよく覚えているだろう」
私は理科乙で農学をやろうとしている。一般教養以上の文学にはとんと縁がない。そのためその生態にはまるで明るくなかったが、作家とはこうも根暗なものなのだろうか。私は呆れ半分で言った。
「近寄ってみなければ仕合せもなにも寄ってきませんよ」
「そうかなあ」
先生はししゃもを口に押し込みながら答えた。
「先生が辛い思い出のほうがいいと仰るなら止めませんがね……」
言いかけて私は気づいた。ある思いつきを心中に発見した。
私の獰猛な本性が姿をあらわすかのようだった。ある種の支配的な欲求と、肥大した自我との組み合わせで、人は斯様にも残酷になれるのだ。
「辛い記憶が良いってわけじゃあない。君はまだ二十歳だからわかるか知らないが、こと中年になると……」
言いかけて先生は口を閉じた。
「中年になると、なんです」
「いいや、なんでもないよ。忘れてくれ」
食器を洗い場に片付けて、私は縁側に腰を下ろした。庭にはノウゼンカズラに代わって金木犀が花をつけはじめている。例年よりも早く冷え込んだ夕闇の空気に、薄甘いあの花の匂いが漂い始めていた。紫煙に負けて香りが嗅げなくなるのは少し残念な気もしたが、構わず煙草を取り出した。
私はこの残酷な思いつきを、金木犀の香りを嗅ぐたび、きっと毎年思いだすことになるのだろう。いや、後悔はしていない。むしろこれは楔になるのだ。私が先生に与える楔。私が自身に与える楔。私がその思いつきを実行すれば、先生はきっと菫さんのことを思い出すたび私のことも思い出す。
次、「たばこを買ってきてくれ」と先生に言われたら、それを決行しようと決めていた。
ちょうどこんな雨を、秋時雨と呼ぶのだろう。先生は原稿用紙が湿気ると嘆いた。かさり、とそっけない音を立てた煙草の紙箱が、腹のなかの紙巻きをすべて吐き出したことを告げていた。
「おい、柾」
私は言葉を待っていた。
「たばこ、買ってきてくれ」
「はい」
小銭を受け取って傘を取り、ざあざあ降りの表へ出る。木製の持ち手の、男持ちの黒い傘だった。わずかに洒落た刺繍が入っている。雨のせいか、外は予想以上に冷え込んでいた。外套を持って来ればよかった、とすこし後悔したが、これからやらなければならないことを考えれば、寒さなど些事に過ぎなかった。
「たばこをひとつ」
「まあ、柾さん」
雨でも角の煙草屋はやっているのだった。
「またたばこなの」
「まあ、今日も先生のおつかいです。……それに、そんな理由でも無ければ煙草屋には来られませんから」
意味ありげに言って、菫さんをじっと見つめる。狙い通り、菫さんは頬を染めて目を伏せた。
「いやだわ……たばこひとつですね」
「菫さん、」
傘を肩で引っ掛け、煙草をひとつ取った白い手を両手で包むようにする。
「私はあなたのことを好いています。あなたさえ好ければ、私と交際してほしい」
彼女の頬がぽっと赤みを増した。
「わたしも柾さんが好きだわ」
雨音か耳鳴りか、区別のつかない音がする。
先生の青白いうなじを、半端に固い耳殻を、煙草の匂いの染みついているだろう手を思った。
嗚呼、先生。先生、先生。
私が好きなのはこんな柔らかい肌でも、周波数の高い声でも、脂の染みついていない甘い女の香りでもないのです。
秋・後
「菫さんは元気そうだったかい」
女物の外套を見て先生は怪訝な顔をした。
「どうした、それは」
「ああ、これ」
まっすぐに先生の双眸を見据える。
「スミちゃんに貸していただいたんです」
わざと彼女のことをそう呼んだ。先生の顔にのぼっていた薄い朱が引いた。
私の獰悪な本性が背中を駆け上がり、興奮し、欲を満たしてぞくぞくと沸き立つのを私は薄ら笑いの背後に隠した。
「菫さん、」
告白のあと、私は情熱的に彼女を抱きしめてみた。
外と煙草屋を仕切る台を挟んで、私たちの上半身は密着した。おしろいの香りが鼻腔を刺激した。嗅げば嗅ぐほど、反動で煙草の脂の匂いが恋しくなる。
「震えているわ」
年頃の女性というのは吐息まで甘いのだった。
「……寒くて」
寒いことは嘘ではなかった。実際には、これから彼へ向けられる仕打ちに対して思いを馳せていたからだ。先生は絶望するだろうか。悲しむだろうか。それとも、怒りを私に向けるだろうか。
「それなら、」
菫さんはそう言って彼女の外套を取り出した。女持ちの、紅い天鵞絨の被布であった。
これを見て先生がどんな顔をするだろう、と想像するだけで、下腹のあたりに得も言われぬ衝迫が巻き起こるのであった。
先生はきまって、金曜の午后三時には自分で煙草を買いに行く。というのも、普段は私の講義があるからなのだが、たまたま今週に限っては教授の出張で休講と決まっていた。
木曜は先生の担当の編集者が締切を迫り家に来ることが多かった。締切から解放されるため、先生は木曜に紫煙を吐きだす本数を増やして、不健康な毒を気管に入れながら、孤独に執筆をするのだった。その反動だろう。金曜の午后三時に、おやつ代わりのように先生は独りで煙草を買いに行く。菫さんもそのことをよく私に話すのだった。
「おばけみたいなげっそりしたお顔で来るのよ」
くすくすと笑う菫さんは大概の人に好かれるような柔らかさと優美さを備えていた。誰のことも傷つけず、やさしさで包むような声でいつも話した。尤も、私にとっては「女の声」という分類にとどまっていた。しかし、その声を聞くといつも、先生が彼女を好くのもわかるような気がするのだった。
私は金曜日に次の行動を起こすことに決めた。後悔はしないつもりだったが、薄らと胸のあたりが痛むのを感じていた。しかしそれも一過性のものだろうと知っていた。私はこれまでそういう人間だった。先生にこれから訪れるであろう災禍に、痛む胸の反対側がずくずくと悦びに疼くような気さえした。
「仕合せな思い出よりも辛い思い出のほうがよく覚えているだろう」と先生は言ったが、その真意はいまだに掴めなかった。私には、仕合せな思い出も辛い思い出も等価だったからだ。ただ、先生がそう言うのなら、私は私のエゴイズムのためにそれを利用させてもらおうという目論見であった。
金曜の昼、私は学校へ行くふりをして煙草屋へ足を向けた。これから遂行される計画に、私の胸は高なった。今日も菫さんは店番をしていた。
「外套を返しに来たんです」
「柾さん」
菫さんははにかんだ顔で私の名を紡いだ。恋をする者の声音だった。私は私が先生に声掛けをする際、こんな色を含んだ音を出していないかすこし不安になった。しかしおそらく心配は要らないのだった。有体に言って、先生は鈍感だった。
「今日も冷えるでしょう」
私は菫さんに店の外に出るよう手招きをした。肩に外套を載せてやる。臙脂の天鵞絨は、娘の白い肌を引き立たせた。
「やさしいのね」
彼女の目にはきらきらと星が散っていた。私が先生を見つめるとき、こんな清廉な星は燦爛としているはずはなかった。私のそれは、もっと陰湿な、粘ついた、欲望の視線に違いなかった。齢の差さえあるとはいえ、先生が仕合せになるにはこんな煌めいた目のひとと一緒になるのが好いのだろうと思った。それでも先生を彼女に渡す気はまるでしなかったし、彼女が先生に恋情としての好意を抱くはずもないのだった。
私は彼女を見つめた。彼女も私を見つめた。
薄紅の口唇は水飴のように柔らかだった。化粧の匂いが香った。舌を軽く食み、息遣いを交わした。気息を合わせるごとにふたりの間の熱は高まっていった。彼女の口縁はふわふわと春の桜の花弁のような感触がした。脂臭くない唇を、私は物足りなく思った。彼の口腔には、きっと苦い煙が染みついているはずだった。
視界に現れるそれを、私は接吻しながら待っていた。
電信柱の影に、翻る着物の袖を認めた。大島紬の柄が目に留まった。確かあれは先生のお気に入りだった。
「ただいま戻りました。夕餉はなにがいいですか」
先生は縁側で座り込んでいつもの煙草をふかしていた。
「柾」
先生は私の名を呼んで手招きした。
「あの年頃の女性というのは、自分よりも年長の者を好む。もっとも、わたしのような年嵩は除くがね」
紫煙を吐きながら先生は乾いた笑みを浮かべる。
「わたしはおまえのことも、菫さんのことも、かわいい自分の子供のように思っているから、ふたりが結ばれるならそんなに嬉しいことはない」
私は先生の心に割り込めたようだった。猛悪な本性がいくらか満たされるのを感じた。
庭の椿が蕾をつけはじめようとしていた。
はつふゆ
菫さんの父親は庭師だったと聞いた。過去形なのは、既に鬼籍に入っているからだ。酒に弱い先生は、酔うと饒舌になってきまってその話をするのだった。
「うちの庭はあいつが全部つくったんだ」
先生はいつもその話をした。ノウゼンカズラに金木犀、柿にツバキに桜の揃った先生の庭は、四季の色を反映して常に彩られるように、灌木の枝のひとつまで緻密に設計されていた。
今は出入りの業者が剪定に来るが、作業が終わっての先生はいつもどことなく不満げだった。
「あいつが剪定した庭を見たいなあ」
縁側で煙草をふかして先生は頻繁にそう言った。
故人にまで嫉妬する自分はひどく醜い小物に思えた。故人という存在はずるいのだ。これから私が彼を越えることも、覆すこともできやしない。「彼」の記憶を私で上書きしたくとも、私は先生の眼中にすらないのだった。
ところで、私は父親というものを知らない。
物心つくころの母親の記憶がある。私の名を呼び、菓子を与えた。そうして手を握り、私の髪を撫でた。記憶が正しければ、その次の日から私は祖母の家で暮らした。母親はときどき訪ねてくるのみだった。
私の獰猛な本性はそのころ萌芽したのかもしれなかった。
愛されることを知らなかったこどもは愛することもできずに育つ。
先生はきっと、父親とするには物足りないほうだろう。遠雷にも怯えるほど気弱で、揉め事が起きても怒鳴りあいなど到底できるものではない。人に足を踏まれても謝るような人間だ。
私は先生のその弱さともいえるような優しさを好いていた。世渡りが下手で、手を引いていないとふらふらとどこかに彷徨してしまいそうな、頼りなさと心許なさを愛していた。
「うちの庭はあいつが全部つくったんだ」
で始まる先生の語り口は、親友について長々と続き、いつも、
「だからぼくは、菫さんを自分の娘のようにも思っているんだ」
という一言で締めくくられた。実際のところ、そうに違いなかった。
先生の彼女を見つめる眼差しは、恋情一色というのではなくて、親が子に向ける種類のい慈しみもいくらか混じっているようだった。だが私にはその慈愛は断定できるものではなかった。なぜならば私には父親の記憶がないからだ。
私は薄々気が付いていた。
先生は菫さんというより、菫さんに残された彼の面影を愛しているのだった。
寒冬
冷え込みは殊更に厳しくなった。午后四時を過ぎるころには辺りは暗くなっていく。夜半に勉強の気分転換がてら散歩などに出掛けると、暗闇がぽっかりと口を開け、冷えた空気に取り込まれるような気さえした。
先生は相変わらず、執筆をし、担当者に催促をされ、そして金曜の午后三時には菫さんのところへ煙草を買いに行った。しかし、以前より無精髭などに構わなくなった。生活の張りを失ったかのようにも見える。ぼんやりと縁側で煙草をふかす時間が増えた。菫さんの話を家でしなくなった。
「あなたが好きだ」と先生に言いたかった。
転機が訪れたのは厳冬の最中だった。
家のことを一通り終え、縁側で外の椿を眺める私に先生が言った。
「本郷の三丁目に下宿人を探している友人がいる。おまえのところのを寄越してくれないか、と打診があったんだが、どうだ。君もそのほうがいいだろう。学校も近くなる」
「しかし……」
私は驚いて煙草を揉み消した。学校が近くなって便利になるとはいえ、家事をろくにしない先生をひとり残していくことはあまりにも忍びなかった。それに、私がこの家に書生として来たのは先生がいるためであった。別の家に下宿を借りて、何の意味があるだろう。
「……すこし考えさせてはくれませんか」
「君にも準備があるだろうしな」
先生のどこか突き放したような言い方に私は軽い衝撃を受けた。どうして。
「……仕合せな思い出より辛い思い出のほうがよく覚えていると仰ったこと、覚えていらっしゃいますか」
私は秋ごろの話を持ち出した。
「ああ」
「あのとき中断した言葉の続きを聞かせていただけませんか」
先生は私の目をじっと見つめて、それから話し出した。
「……仕合せな思い出より辛い思い出のほうが記憶には残る。それに、中年になると、仕合せな思い出というのはだんだんと減っていくんだ……仕合せな思い出だとしても、汚れたり、霞んだり、上書きされて、別のものになる」
先生は私を恨んでいるのだろうか。
数秒の沈黙があった。互いのどちらもが口を開かなかった。
私は尋ねた。
「私は先生の辛い思い出になれましたか」
先生は、少し迷って、そして微かに頷いた。
「あなたが好きだ」と言いたかった。
庭の椿がひとつ、力尽きたようにぼたりと落ちた。
私の本性が満たされたのか、果たして自分にもわからなかった。
.
これで私の告白は終わりです。
罪悪のひとつは、好きでもない女に気を持たせたこと。
ふたつめは、それによって先生を傷つけたこと。
でも、それでいいのです。
私という、柾という男の存在が、先生にとって消えない傷になったのなら、それでいいのです。
わたしは邪悪な人間ではないつもりでした。ただ少し、ひととは愛し方が違っていたのでしょう。
先生と椿