羽化不全
エイチの背中はひどく痩せていて、ボコリと二つ、肩甲骨が浮き出していた。アタシはその、こわいぐらいに骨ばった背中を思い出しながら、ぼんやりと空を眺めていた。
最近は日の入りが早くなって、空はもうほんのりと薄赤い。茜色ともつかないボケた色のスクリーンを、鳥たちは影になって飛んだ。
時刻表をみれば、バスはもう到着時間を十五分も過ぎている。それでまた、結局アタシは空を見上げた。
鳥たちはまだ頭上にいて、くるり、くるりと、見事な旋回を繰り返す。その度に、アタシはまた、エイチの背中を思い出す。
肩甲骨は、昔ひとが空を飛べた頃の名残なんだよ、なんて。なんの童話か、小説だったか。
空は高く、腹の立つほどに高く、鳥たちは遠い。
アタシは、エイチの歪な骨の形を、その感触すら。
まだこんなにも鮮やかに、覚えていた。
碧、と。
呼び声に思わず足を止めてから、しまったと思った。校門まではあと数メートル。無視してしまえばよかったものを。
「おい、なに無視してんだよ」
後悔に歯嚙みするアタシの気などはつゆ知らず、無骨な指がガシリと肩をわしづかむ。
「触んな、ハゲ」
「お前が無視してっからだろ」
「無視してワリィか、デコッパチ」
肩の手を払いのけ、その勢いで乱暴に振り返る。すると見慣れた道着姿の同級生は、ギラギラと不機嫌な三白眼で、アタシを睨みつけていた。
「お前、最近、家に帰ってねえだろ」
「……ああ?」
「お前ん家の電気メーター、ちっとも動いてねぇだろうがよ」
「はあ? ……なんだ、 テメェ、ストーカーか?」
思わず顔を引きつらせると、ひゅっと鋭い音と共に、鼻先に竹刀を突きつけられる。けれども、凄む目尻をほんのり赤く染められては、いまいち迫力にかけると言うもので。
「……耳赤ぇぞ、一輝」
「うるせえ!」
照れるくらいなら言わなきゃいいのに。思いはしたが、みるみる耳まで赤くしていく同級生の様子に、続く言葉は飲み込むことにした。
この、目つきの悪いデコッパチ、もとい坊主頭は、クラスの違う同級生で、アタシの住むマンションのお隣さんだ。物心ついた時にはもう隣に住んでいて、なんの因果か、小中高と同じ学校に通っている。
世間ではこれを『幼馴染』とか言うのかもしれないが、アタシはなんだか、そんな素敵なもんでもないように思う。せいぜいが『腐れ縁』とか、そんなところか。まだ小さかった頃には一緒に過ごすことも多かったが、今ではこうして、時々軽口を叩く程度の間柄だ。
「家にも帰らねぇで、どこ行ってたんだよ」
「お前に関係ねぇ」
「メシは? ちゃんと食ってんのか?」
どうやらこのデコッパチ、アタシの話を聞く気がないらしい。相手にするのもバカバカしいので、アタシは早々にこの場を後にするべく、自慢の痩躯をひるがえした。
「待てよ!」
向けた背中に、すぐさま怒声がぶつけられる。それからまた乱暴に手首を捕まれ、アタシは思わずカッとなった。しつけぇぞ、ハゲ、と怒鳴り返して、力いっぱい睨みつける。けれども一輝は黙ったまま、一向にその力を緩めない。
「……男か」
ぽつりと。小さくこぼした一輝の声は、押しつぶされてやけに低かった。
再び足止めを食ったことよりも。じんじんと痛み始めた手首よりも。アタシは何よりその神妙なトーンが、たまらなく不愉快だった。
「それこそ、お前に関係ねぇよ」
しっかりと、視線を捉えて吐き捨てるようにそう言えば、一輝の指からじわりと力が抜ていく。
アタシは引ったくるように自分の手首を取り戻し、今度こそ放課後の学校を後にした。正門をくぐるアタシの背後から、クソッ、と悔しげな声がしたが、そんなことは気にしない。
ざわざわと、怒りとも悔しさともつかない雑多な感情が湧き上がるのを感じながら、アタシはマンションへの帰り道を、いつもより大股で歩いた。
夏を待つ、六月の空気がまとわりつく。アタシはこの季節が、大嫌いだった。
三日ぶりに帰った部屋はどんよりと空気が淀んでいて、なんだか少し嫌な匂いがした。
アタシはベランダの窓を全開にし、溜まった汚れものを洗濯機に放り込むと、制服のままベッドにダイブした。使い慣れた自分の寝床は、やはり気持ちいい。
一気に押し寄せてきた疲労感に、ああ、なんだ、やっぱりアタシ、意外に疲れてたんだな、なんて、他人ごとみたいに思う。だけど、そのダルさすら、何だかくすぐったいような気もして。緩みそうになる口元を、アタシはゴシリと、硬い枕に擦り付けた。
楽しい時間は、本当にあっという間なのだ。エイチと過ごす時間はすごく楽しいから、三日なんてのはすぐに経ってしまう。
アタシはその間、ほとんどまともに眠らなかったけれど、そんなのはちっとも平気だった。目をつむれば、まぶたの裏に浮かぶのは、エイチと過ごした夜の記憶。
キラキラと回り続けるミラーボール。重なるたくさんの笑い声。レコードの優しい音。エイチの真っ青な部屋。敷きっぱなしの湿った布団。笑うエイチ。肌を這う大きな手と、耳にかかる熱い息。子供みたいなエイチ。そばかすの散った笑顔。エイチ。エイチ。
いつの間に眠っていたのか、目覚めた室内は陽も落ち切り、すっかり真っ暗だった。アタシはぐちゃぐちゃになってしまった制服をハンガーにかけて、のそのそとリビングに向かう。
帰りがけにコンビニで買ったサンドイッチを冷たいお茶で流し込んでいると、不意に携帯が鳴った。ディスプレイを見れば、エイチからのメールの知らせ。
『今日はこないの?』
アタシは少し考えてから、携帯を持って立ち上がった。時刻はちょうど、十時を少し回ったところ。明日も朝から学校だから、出かけるには少し遅い。けれども幸いアタシには、それを咎める相手もいない。
アタシはエイチに簡単な返事を返し、下着ごと服を取り替えた。それから部屋を飛び出すと、エイチの住む駅へと向かう。
とびきり高いピンヒールで、夜に染まったコンクリートを、思い切り蹴りながら。アタシはただ、エイチのことだけを思った。
「いいヤツが手に入ったんだ!」
部屋に着いたアタシをエイチはいきなり抱き上げて、上機嫌でそう言った。そのままお姫様抱っこで、部屋の中まで運ばれる。
「スゲェあがる! マジやばい!」
「あはは、エイチ、降ろせよ! エイチ!」
「スゲェー!」
エイチはアタシを横抱きにしたまま、クルクルと楽しそうに回った。アタシは振り落とされないように、必死でエイチの首にしがみつく。
キャハハハ、と、甲高い笑い声が出て、アタシは自分の声に少しだけ驚いた。こんな風に、笑うことができるのだ、アタシにも。
「碧、スゲェ楽しそう!」
「うん、スゲェ楽しい」
「マジで! 俺も! スゲェ楽しい」
ようやく降ろされたソファーの上で、エイチはアタシの膝にぐりぐりと頬を擦り寄せる。なんだか大型犬みたいで可愛くて、アタシはエイチの癖のある黒い髪を、何度も撫でた。
「気持ちいい……」
「そっか?」
「最高」
「あはは」
「ね、碧」
「うん?」
甘えた声にエイチを見下ろすと、そばかすだらけの顔をクシャクシャにして、無邪気に笑う。
「……セックス、しよ?」
ああ、本当に、なんて顔で笑うんだろう。
答える代わりに、アタシはエイチの頭を包み込み、ぎゅっと抱きしめた。
今日の朝まで一緒に眠っていた布団に横たわると、なんだか時間が戻ったみたいな、今朝の続きが始まったみたいな、変な感じがする。気恥ずかしさに苦笑するアタシの服を、エイチは鼻歌まじりで剥いでいく。どうやら今回手に入ったやつは、本当にものがいいらしい。
悪いのを掴まされた時には、エイチは突然泣き出したり、皮膚が破けるまで何かを殴ったりする。だからアタシは、笑ってるエイチを見ると、たまらなく嬉しかった。
『腹の中に、なんだかドロドロと黒いものがあって。それはいつまでも、いつまでも俺の中にいて、ちっとも消えてくれないんだ』
いつかそんな風に言って、エイチは身を震わせていた。自分の身体を抱きしめるように、小さく背中を丸めるエイチ。ドロドロと渦巻く黒いものに飲まれてしまわないために、エイチには薬が必要だった。
「ああ、マジ、飛べるわ……」
ぐったりとアタシの上に倒れこみ、エイチは夢見心地で言う。薬をキメてセックスした後の、エイチのいつもの口癖だった。
「ふわふわするんだ……」
「うん」
「今なら、飛べんじゃねぇかな」
「ばあか、飛べないよ、エイチ」
「ダーッてベランダから飛び出してさ、今なら、飛べんじゃねぇかな……」
アタシはゆっくりまぶたを閉じ、エイチと一緒にベランダから飛び出してみる。見えない翼を広げ、ここではないどこかへ。
エイチ、アンタと二人なら。アタシはどこへ飛んだっていい。
翌朝、携帯のアラームをかけ忘れたアタシは、まんまと寝坊してしまった。深いブルーのカーテンからは、昼の光が滲んでいる。
アタシはエイチを起こさないようにゆっくりと身を起こし、脱ぎ散らかした衣類から、自分の下着を救出した。
「んー……、碧?」
「あ、悪い、起こした?」
「……ん、何時?」
「十一時半くらい」
「帰んの?」
「や、学校行く」
「今から?」
「うん。いったん家戻るけど、午後の授業には間に合うから」
「休んじゃえば?」
「無理。先週サボったばっかだし」
「んんー……」
子供みたいに口をとがらすエイチは、ちょっと可愛い。アタシはこれに弱いけれど、先週の二の舞はゴメンである。構わずに帰り支度を続けていると、エイチはズルズルと布団を這い出して、膝立ちのアタシの腰にぶら下がった。
「碧ぉ」
「んな声出しても、無理なもんは無理だぞ」
「でも碧、俺の声、結構好きでしょ?」
ね、なんて。甘ったれみたいに鼻先を擦り寄せる。どうにもこの大型犬は、時々本当に狡猾でいけない。
「……続けて三回サボると、親に連絡行くんだよ」
「親、怖いの?」
「金貰えなくなっからな」
「……そっか。金貰えないのは、困っちゃうね」
そう言うと、エイチはちょっと拍子抜けするくらいに、あっさりとアタシの腰を解放した。エイチの熱い裸の腕が、離れていく。アタシは、アタシの短い後ろ髪が、これ以上引かれてしまわないように。自分の荷物をまとめ上げると、少しだけ乱暴に立ち上がった。
コンビニまでメシ買いに行く、と言うエイチと一緒に、アタシはエイチの部屋を出た。お互い、次の約束はしない。ただ帰り際、薄暗いエレベーターの中で、アタシたちはもう一度だけキスをした。
エイチの部屋が、もっと高いところにあればいい。学校なんか無くなって、もう一度エイチと眠れたらいい。
点滅するエレベーターのパネルを眺めながら、アタシはそんな風に思っていた。
アタシが通う学校は、近所にある都立高で、本当にこれといって特徴のない、ちょっとだけ偏差値の高めな普通科だ。選んだ理由も、一番家に近いからって、単純なもの。
特に進学する予定も、将来の展望なんてものもないアタシは、ただ卒業することだけを目標に学校へと通っていた。それが、あの男と交わした、唯一の約束だったから。自分を父親だと名乗った、あの男と。
タクシーを使い、自分のマンションの部屋の前まで戻ってきたアタシは、ふと、一輝の部屋のキッチンが明るいのに気付いた。換気扇からは、インスタントのラーメンみたいな匂い。おばさん、今日は家にいるのかな。思いながら、アタシは若干の後ろめたさに、そろりと玄関のドアを閉めた。
昨日のシワが残ったままの制服に着替え、前髪の跳ねたのを直しながら、冷蔵庫に手を伸ばす。中には卵と牛乳しか入ってないので、冷たい牛乳のパックに直に口をつけた。だらしないな、とは思うけど、だからと言って直そうかって気もしない。
そう言えば、母がまだ家にいた頃には、こんな癖もなかったな、と。不意に思ってしまってから、アタシは苦く舌を打った。いなくなった女の影は、今もまだ、こんなところに残っている。
母が姿を消したのは、ちょうど一年ほど前のことだった。ずっと二人きりで暮らしてきたこの部屋から、母は突然蒸発した。六月の、ある暑い日。
母はもともと家を開けることが多かったし、いつも誰かしら、男の匂いをプンプンとさせていたから。だからアタシは、きっとその内の誰かと暮らすことにしたのだろうと、早々に切り捨てた。帰らない母を待つほどには、アタシは健気でもなかったし、母とのやさしい思い出なんて、アタシの中に、笑えるほど少なかったのだ。
一人になったアタシの元へ、すぐに男がやってきた。男はアタシの顔を見るなり、本当に母にそっくりだ、と、声を詰まらせた。そう言う男は、アタシにちっとも似ていない。
アタシを引き取りたいと言う申し出を蹴ると、男はすぐに、アタシに銀行のカードを作って寄越した。アタシが成人するまでの金を、面倒みたいのだと言う。
アタシは少し悩んでから、結局はそれを受け取った。アタシは学生としての生活を手に入れ、男は、罪悪感の逃げ道を手に入れるのだろう。アタシを追い詰めるかのように、金は毎月きちんと入金された。
それ以来、アタシがあの男と顔を合わせることは、一度もなかった。再び連絡がきたのは、つい先々月前のことだ。
届いた大きな茶封筒には、男からの手紙と、薄桃色の封筒がもう一つ入っていた。その内容は、ひどく簡潔で、そしてひどく、あっけないものだった。
男は、母を見つけていた。母は、重い病に倒れていた。アタシの知らない土地で、母はもう死んでいた。
母は、小さな壺になって帰ってきた。
他に身内もいなかったので、アタシはそれを、言われるまま、お寺に預けることにした。時々、花をやりにいけばいいのだと言う。
アタシは母を手放したその晩に、何度も何度も激しく吐いた。何が苦しかったのか、アタシにもわからない。ただこのグズグズと胸にある感情が、涙なんてもので綺麗にされなくてよかった、とだけ思った。
母は十八でアタシを産んで、死ぬまで夜の街で生きた。茶封筒の中には、母がアタシに宛てた手紙も入っていたのだけど、薄桃色のそれを、アタシは封も切らずに裂いて捨てた。
勝手なほどに、自由に生きた女だった。最期の言葉なんて、アタシには必要ない。
それからアタシは、毎晩のように夜の街へと繰り出した。とにかく、家に居たくなかったのだ。ずっと一人だと思っていた部屋の中には、端々に、母がこびりついていた。
アタシは繁華街を歩き回り、いろんな場所で朝まで過ごした。コンビニ、ファミレス、漫画喫茶。日増しに身体が疲れていくのがわかったけど、私は動くのをやめられなかった。頭の隅っこの方がギラギラと冴えて、そこだけやけに冷たく感じた。
多分、だけど。アタシはその時、眠れる場所を探していたのだと思う。何かを叫んでしまいそうになる自分を、すんでのところで押さえつけながら。
そうして当てもなく彷徨い歩くうち、アタシはとうとう、エイチに出会った。人生なんて誰が決めてるのか知らないけど、それはもう、本当に憎らしいほどのタイミングで。
「オネェサン、ちょっと飲んでいかない?」
エイチの最初のセリフは、そんな風だったように思う。
伸ばしっぱなしの黒髪に、そばかすの散った浅黒い顔。背が高くって、腰には黒いエプロンみたいのを巻いていた。
「俺ね、すぐそこの店でバーテンしてんの」
ニカッと笑うと、いたずら好きの子供みたいだ。
「今日スゲェ暇でさ、客呼んで来いとか、バーテンの仕事じゃねっつの。ねえ?」
「おい」
「へ?」
「よく見ろよ」
「んん?」
「どう見ても未成年だろ、アタシ」
「ん……? ああ、大丈夫! 俺も十九だし!」
「……はあ?」
「オーナーも、割とそう言うの気にしない人だから。酒飲まなきゃいいんじゃん? ね?」
そう言って笑うエイチを見て、アタシはこいつ、アホだなって思った。思って、そして、ちょっと笑った。なんだか、怒りたいような気持ちにもなった。
エイチは不思議な男だ。ふわふわと摑みどころがないようで、いつの間にか他人の懐に入っている。だけどアタシは、それを嫌だとは思わなかった。
エイチに案内された店内は本当にガラガラで、お客さんなんて、今入ってきたアタシだけだった。五、六人ほどが座れそうなカウンターの中には、オーナーだと言う三木さんの姿があって。アタシは勧められた席に座りながら、客より店員の方が多いってどうなんだ、とか、こっそり考えてた。
「おいエイチ、店は俺がいるんだから、お前また外行ってこいよ」
「ええ! ヤダよ! 俺がこのコ連れてきたんだぜ!」
「ナンパにしに行ったのか、お前は」
「だって、可愛かったんだ」
「否定しろよ……」
三木さんはエイチの尻あたりに、バシバシ蹴りかなんか入れていた。なんだか仲のいい兄妹みたいで、アタシの頬もつられて緩む。エイチもギャーギャー言いながら、なぜだか嬉しそうに、ニコニコと笑った。
「ね! 君、名前は?」
「あー……、碧」
「あ、お、ちゃん。へえ、変わってんね、名前。歳は?」
「……十五」
「うおっ! リアル女子高生だよ、三木さん!」
「マジかよ……、碧ちゃん、大人っぽいって言われない?」
「なんか俺、三木さんがスッゲェおっさんに見えてきた」
「うるせえよお前は! 俺はまだ二十代だ!」
ガツっと、今度は結構マジ蹴りな音。蹴られたエイチが、マジいてぇ、とか尻をさすってるのが情けなくて、アタシは思わず、声をあげて笑ってしまった。母が消えて、アタシはずっと、何かがこぼれ出さないように、ぎゅっと閉じていたから。だから、そんな風に誰かと笑うなんて、本当に久しぶりのことだった。
三木さんは未成年のアタシのために、ノンアルコールのカクテルを作ってくれた。それはすごく綺麗なブルーで、アタシの好きなソーダ味。二人は自腹でビールを飲み始め、アタシたちは朝まで大騒ぎをした。結局その日、アタシの他にお客さんは来なかった。
三木さんと別れ、アタシは駅まで送ってくれると言うエイチと、朝の道を歩いた。アタシの手を握るエイチの手は、お酒のせいなのか、やたらとあったかい。
アタシはそれが気持ちよくて、エイチの手を離すのが、ひどくもったいないような気がしていた。何となく、帰りたくない、とこぼすと、隣のエイチが足を止め、たれ気味の目をまん丸にした。
「……マジ?」
「マジ」
「学校は」
「今日はサボる」
「親は?」
「いない」
「……そっか」
「うん」
「じゃあー……、ウチ、来るか?」
ニヤリと笑ったエイチは、まるでアタシの共犯者だ。アタシはエイチのあったかい手を、黙ったまま握り返した。このまま、一人にならなくてよかった。あんなに楽しい時間のあとに、一人になんて、ならなくてよかった。
もつれるようにエイチの部屋にたどり着くと、アタシたちは、すぐにセックスをした。男と寝るのは初めてだったけど、アタシはそれをエイチには言わなかった。エイチも、何も言ってこない。
アタシはその時、エイチの無関心が、何よりも心地よかった。
最後にエイチの部屋で別れてから、ちょうど五日。久しぶりに、エイチからのメールが来た。
『今日、お店来ない? アオの顔が見たいよ』
なんだか、キャバ嬢の営業メールみたいだ。アタシはちょっと苦笑して、九時頃行く、と返信した。
今日は金曜日だから、三木さんのお店も書き入れ時だ。当然エイチも駆り出される。アタシとしても明日は学校が休みだし、心置きなく夜遊びができた。そして何より、アタシだって、今すぐエイチに会いたかった。
学校からダッシュで帰り、簡単な食事を済ませると、アタシはざっとシャワーを浴びた。その間にも、アタシはずっと、そわそわと浮き足立っていた。早くエイチの顔が見たい。
この前買ったばかりの濃いブルーのワンピースをおろし、よし、と小さく気合をひとつ。それからアタシは、それこそ踊るような足取りで、エイチの待つ三木さんの店へと、まっすぐに向かった。
「お、碧ちゃん、いらっしゃい!」
重たい扉を開けると同時に、三木さんの声。まだ時間が早いせいか、お店は案外すいていた。アタシは最近仲良くなった、常連客の佳代さんの隣に、イスを一つ分空けて座ることにした。
「きゃあ、碧ちゃん、こんばんは」
「こんばんは、佳代さん。……もう酔ってる?」
「んんー、今日は五時から飲んでんの」
「はは、じゃあ、結構飲んでんね」
「そうよぉ、これから、まだまだ飲むのよぉ」
「元気だなあ」
「ほらほら! 碧ちゃんも、今日は飲んじゃえばぁ? どうせ捕まるのは三木くんなんだし、構いやしないわよぉ!」
「いやいや、そこは構ってよ、佳代ちゃん」
アタシの前にコースターを差し出しながら、三木さんが困った声でツッコミを入れる。 それを見た佳代さんはケラケラと笑い、本当に楽しそうだ。
「んで、碧ちゃんは何飲むの? ……アルコール以外で」
「あ、アタシ、シャーリーテンプルで」
「はいはい、シャーリーテンプルね、かしこまりました」
「ね、三木さん」
「ん?」
「エイチは?」
店内に、エイチの姿はなかった。買い出しに行ってるのかもしれないし、別にいないと決まったわけじゃない。だけど、すぐに会えると思っていたアタシは、やっぱりちょっとだけ、がっかりしていた。
「ああ、エイチ? あいつ、今日はサボり」
「え?」
「やっぱ休む、とか、ふざけたメール寄越したきり、連絡つかないんだよ。ったく、休むなら休むで、早く言えっての」
なんだか、三木さんの言葉が遠い。アタシは急に頭が冷えてきて、目の前で器用に動く三木さんの指を、ただ、ぼんやりと見つめた。休み? エイチが? アタシ、そんなの聞いてない。
「ええ、エイチくん、また休みなのぉ? あの子、そんなんで大丈夫? フリーターなんでしょ?」
「あー……、金には、困ってないみたいだけど。あいつんち、スゲェ金持ちらしいから」
「あ、それ、聞いたことあるかも! なんか親がぁ、どっかの大会社の重役とかって」
「住んでるマンションの金も、親持ちらしいよ」
「うわ、エイチくん、本物のボンボンだなあ」
アタシをおいてきぼりにしたまま、三木さんと佳代さんの話はどんどん進む。二人は悪口を言ってるわけじゃないし、そもそも悪いのは、バイトをサボったエイチだ。そんなのはわかってる。わかっては、いるけど。
アタシは、ほんの少しだけ嫌な気持ちになった。エイチのいないところで、アタシは、アタシの知らないエイチの話なんか、聞きたくない。
「はい、碧ちゃん。お待ちどうさま」
コトンと、アタシの目の前に置かれる、綺麗なグラス。細長い硝子の中を、キラキラと泡がのぼっていく。
アタシはこれを、早く飲み干してしまおう。そうして、エイチに会いに行こう。
エイチはきっと一人きりで、黒くてドロドロとしたものから、逃れようともがいているのだから。
エイチは、自宅のマンションにいた。
アタシの呼びかけに、誰だ、と小さな声で答え、エイチはひどく怯えた様子で、じっと息を殺している。インターホンの向こうから、エイチの不安がアタシに移る。アタシはただ、ドアノブを回す自分の手が震えないようにするだけで、手いっぱいだった。
「……エイチ、どこ?」
部屋の中は真っ暗で、自分の足元すらおぼつかない。アタシは玄関の鍵を開けたきりどこかへ行ってしまったエイチを、必死に探した。リビングのテーブルの上には、何かの薬を飲んだ後のゴミが、大量に散らばっている。きっと今回、エイチはすごく悪いヤツを掴まされたのだ。
「エイチ」
バスルームで、アタシはようやくエイチを見つけた。エイチは青いシーツを頭からかぶって、カタカタと震えている。空のバスタブに潜り込み、うなるみたいな、つぶやくみたいな、変な声をあげている。
「エイチ」
呼びかけに返事はない。アタシは、エイチを刺激しないよう慎重に、そっとバスタブに近寄った。
「エイチ」
「ぁ、あぁ、碧?」
「うん、アタシ」
「あ、お」
「大丈夫?」
エイチは答えない。ただ、ぽっかりと空いた穴みたいな目で、シーツの隙間から、じっとアタシを見つめている。
「……夢を、みたんだ」
「夢?」
「スゲェ、こわい、こわいヤツ」
「うん」
「ホントに、スゲェ、こわいんだ。こわい、碧、こわいんだ、こわい」
「エイチ」
こわい、こわいと、ただひたすらに繰り返すエイチは、小さな子供のよう。アタシはエイチの震えを止めたくて、冷たい青のシーツごしに、エイチの骨ばった背中を、何度も撫でた。
「……昔の、夢だった」
「うん」
「夢ん中で、俺は、まだ、小学生くらいのガキで、家も、昔住んでた、狭いとこのままで」
「うん」
「朝なんだ、食卓に、母さんが好きだった、赤のチェックの、テラテラしたヤツが敷いてあって」
「うん」
「朝ごはんよって、母さんが、卵……」
「卵?」
「俺の頭くらいの大きさした、卵、朝ごはんよって、卵」
「……うん」
「卵は、まだ少し、あったかくて。母さんの、体温なんだ。俺は、それを、スプーンで、割った。グシャッて殻が割れて、中身が、見えた」
「エイチ?」
エイチは突然、そこで言葉を止めてしまった。アタシが顔を覗きこむと、何かをこわがるみたいに、イヤイヤと小さく首を横に振る。
「エイチ、何が見えたんだ?」
「……真っ暗、だ。中は、真っ暗だった。俺は、よく見たくて。殻の隙間から、見た」
「うん」
「中で、俺が、し、死んで、た」
「え?」
「唇も、爪の先も、黒い。干からびて、こう、縮まって」
「エイチ?」
「死んでた、もう、腐ってた。黒い、死んだ卵は、黒い。卵は、腐ってた。腐ってたんだ……!」
「エイチ!」
いけない、と思った時にはもう遅かった。エイチはいきなりバスタブから立ち上がり、くぐもった奇声をあげて、ドンッと壁を殴りつけた。痛みを我慢するみたいな、エイチの唸り。アタシが止める声なんてまったく聞こえていないのか、エイチは狂ったように、バスルームの壁を殴り続ける。
「エイチ、やめろ! エイチ!」
「母さんが言うんだ! 温めすぎたのねって、笑うんだ!」
「エイチ!」
「母さんは卵を温めすぎた! 卵は死んだ! もう孵化できない! もう飛べない!」
「やめろ!」
「いやだ、いやだ、いやだ! 俺は飛びたい! 母さん、アンタといると、俺は息もできない!」
「エイチ、アタシは碧だよ!」
「俺は、アンタのもんじゃねぇんだよぉ! 俺はもう、どこへだって、どこへだって行けるんだ!」
「エイ、チ」
「……そうだ、きっと。今なら、きっと! 飛べんじゃねぇかなあ? ダーっとベランダから飛び出して、今ならきっと、飛べんじゃねぇかなあ!」
「エイチ!」
叫んで、アタシは力いっぱい蛇口をひねった。冷たいシャワーがザアザアとすごい音を立てて、エイチとアタシの上に降り注いでいく。エイチは黙っている。殴る手も止まっている。アタシは、自分が泣いているのかすら、わからないまま。頬を伝うシャワーの水は、とても冷たい。
「飛べないよ、エイチ」
アタシは、それを、言ってはいけなかったのだろうか。
「エイチ、ベランダから飛んだって。アタシたちは飛べない。飛べないんだ……」
絞り出した声は枯れていて、ひどくしょぼくれて聞こえた。
アタシの目の前で、大きく腕を振り上げるエイチは、なんだかスローモーションの映像みたいだ。アタシはそれを、じっと見つめる。
エイチは、濁った魚みたいな目をしていた。何かを、ずっと叫んでいた。
それから先のことを、アタシはよく覚えていない。
バスルームの小さな窓から光が差し込んで、キラキラと水滴を照らしているのが見える。アタシは、ああ、朝だな、と、ぼんやり思った。見上げた視線の先にエイチの姿はなく、ただ青いシーツだけが、エイチの抜け殻みたいにバスタブに引っかかってた。
アタシは、だいぶ殴られたみたいだ。右目はうまく開かないし、口の中なんか、血の味ですごいことになっている。骨とかに異常はなさそうだけど、さすがにまだ、鏡を見る勇気は湧いてこない。
アタシは這うようにして何とか立ち上がると、鼻だとか口だとかに着いた血を、ザバザバと洗い流した。シンクを流れていく血が赤くて、何だか生々しい。よく見れば、おろしたてのワンピースにも、ところどころに赤黒いシミの跡。血液って落ちないんだよな、とか思ったら、アタシは急に悲しくなった。
エイチはどこに行ったのだろう。どうにか拾ったタクシーの中で、何となしに考える。
不思議と気持ちは静かだった。別にへっちゃらだとまでは言わないが、憎くもなければ、苦しくもない。ただもう、ひどく、疲れたな、とだけ思った。
早く自分のベッドに潜りこんで、泥のように眠ってしまおう。エイチの心配はそれからだ。明日が休日で本当に良かったと、アタシは心から息をついた。
そうして、そのまま。それこそ食事をするのも忘れて、昏々と眠り込んでしまったアタシは、あっという間に月曜の朝を迎えていた。祈りも虚しく、顔は無残に腫れたままだ。むしろ、より黒っぽくなった分だけ、余計にこわい。
アタシは鏡に映る自分を見て、ああ、これ、マジでDVにしか見えねぇな、とか、惚けた頭で考えてた。誰だって、こんな面した女子高生がやってきたら、何事かと思うだろう。それが、学校の教師だったりなんかしたら、そりゃあもう、なおのこと。
「階段から落ちました」
案の定、放課後の体育教官室に呼び出しをくらったアタシは、目の前の担任に言い張った。嘘丸出しにも程があるが、だからと言って、エイチのことを話す気なんてさらさらない。そもそも、薬中の男に殴られましたとか、どんな衝撃告白だ。
担任は何も言わず、ただ困ったように笑っていた。腫れ物にさわるようだな、と思うけれど、アタシの話を決して否定したりしない、この女教師を、アタシは割と好きだと思う。
ちゃんと医者には行きなさい、と言う担任に礼を言い、アタシは教官室を後にした。人もまばらな校舎の中を昇降口までやってくると、目の前に新たな障害物。剣道着姿に、短く揃えたスポーツ刈り。そいつは明らかに、アタシの靴箱を塞ぐようにして、立ちはだかっていた。
「だから、お前はアタシの、ストーカーか何かなのか」
「うっせぇ」
「どけよ」
「どかねえ。話があんだよ」
「アタシにはねえよ。どけ」
「どかねえ」
一輝は頑固だ。それはもう、筋金入りの頑固物だ。こうと決めたら、とにかく梃子でも動かない。ああクソ、この、ソフトマッチョのデコッパチ。本当にどうしてくれようか。
「……で?」
「ああ?」
「だから、話」
「お、おう」
「早くしろよ」
はあ、と。アタシは大きく息を吐いて、不本意だけは主張した。そうでもしないと、腹の虫が治らない。
一輝はハゲで、デコッパチで、融通の利かない頑固物だ。でも、バカじゃない。嘘もつかない。こいつがこうなってしまったら、結局は、こちらも腹を決めてしまうしかないのだ。
「お前、さ」
「何」
「あー、メシとか、ちゃんと食ってんのか」
「はあ?」
「いや、食ってんなら、いいんだけどよ。ほら、何つうか。あれだ、その……」
「おい、ハゲ。テメェ、言いたいことがあんなら、ハッキリ言え」
「……わりぃ」
小さく謝る一輝は本当にショボくて、全然らしくない。最近の一輝は、どこか苦手だ。奥歯に物が詰まったみたいな、いやな話し方をする。
「碧」
「だから、何だよ」
「それ、誰にやられた」
それ、が何を指しているかぐらい、もちろんアタシにだってわかる。わかってはいるけど。
「階段でこけたんだよ」
「嘘つくな」
「ついてねぇよ」
「ちげぇだろ、そんなん、誰かにやられたって、誰が見たってわかる」
「スゲェ複雑な階段だったんだよ」
「だから、嘘つくなっつってんだろうが! 」
「デケェ声出すな」
「何だよ、何で嘘つくんだ! お前それ、男だろ? 今の男にやられたんだろ? 何で嘘つくんだ、何で隠すんだ!」
まただ、一輝はまた、アタシが触ってほしくないところに触れた。イライラする。腹が立つ。全身の血が、頭の奥の奥の方に、集まってくるみたいだ。
「だったら、何だっつんだ。男だったら、何だっつんだよ! テメェは、何がしてぇんだ」
「やめろ、そんなヤツ!」
「あ?」
「そいつ、高校生のお前引っ張り回して、そんなんなるまで殴って、最低じゃねぇか!」
「……テメェ」
「なあ、碧、もうやめろよ。いい加減、目ぇ覚ませよ。 そんなクソみたいな野郎、別れろよ!」
その瞬間、アタシの頭は真っ白で。気づいた時には一輝を殴った後だった。もちろん、平手なんて可愛いもんじゃない。拳だ、拳。
アタシは、他人にエイチのことを語られたくない。エイチが良いとか、悪いとか、そんなのアタシが決めることだ。アタシが辛いかどうかなんて、だって、アタシにしか、わからないじゃないか。
「だから、テメェに関係ねぇよ」
「関係あんだよ、俺には」
「ああ?」
「碧、俺なら、そんなことしねぇ」
「……なに」
「ちゃんと、お前のこと、大事にする」
耳鳴りがする。アタシは、多分、一輝の話を聞きたくない。次の言葉を聞きたくない。
「やめろ」
「碧」
「やめろ、やめろ、うるさい、黙れ」
「碧」
「黙れよ! 聞きたくない! アタシは、そんなのいらない! アタシは、もう……、アタシに、関わるな!」
感情のままぶちまけて、アタシはそこから走って逃げた。うまく息ができなくて、ものすごく苦しくて、でも足を止めるのがこわくて。アタシはもう無茶苦茶に走った。今足を止めてしまったら、知りたくなかった何もかもが、追いついてしまうような気がして。アタシはどうしても、走るのをやめられなかった。
いつに間にたどり着いたのか、見慣れた暗い玄関先で、アタシはのろのろと鍵を開けた。びっくりするほど膝が笑って、やっとの思いで靴を脱ぐ。そこでようやく、アタシは、自分が上履きのままだったことに気付いた。なんだか間抜けで、ちょっと笑える。
アタシは、多分、いや、絶対。一輝の好意に気付いていた。そうして、頭のどこかで、一輝の気持ちが空恐ろしく、疎ましかったのだ。好きだから、とか。大事だから、とか。それで何を縛れるって言うのか。そんなの、ただの身勝手だ。アタシはそんなのいらない。誰も、アタシを暴くな。
胸のクシャクシャはちっとも取れず、アタシは結局、それからしばらく学校を休んだ。外へも出ず、ずっと布団の虫になる。とにかく、誰にも会いたくなかった。一輝にも、担任にも、三木さんにも、佳代さんにも、そして、エイチにも。
その後、エイチからの連絡はない。アタシからもしていない。エイチがどうしているのか気にはなったけれど、今のアタシには、とにかくそう言ったものに使うエネルギーが、これっぽっちも残っていなかったのだ。
アタシがエイチについて連絡をもらったのは、それから、さらに三日後のことだった。留守番電話から聞こえる声は、エイチのものではない。アタシはただ、うまく回らない頭で、携帯に残された三木さんの話を、呆然と聞いた。
三木さんの声は、少しだけ震えていた。それは、とんでもなく怯えてるみたいに。ものすごく、焦ってるみたいに。何かから、逃げ出そうとしてるみたいに。
『あ、碧ちゃん? 三木です。いきなりごめんね。……あー、もしかしたら、もう、誰かから聞いてるかも知れないけど。……エイチのこと。……あいつさ、エイチさ、……飛び降りたんだよ、自分のマンションの部屋のベランダから。俺も、一昨日連絡もらって。……あいつ、かなり、キマっちゃってたらしくってさ……。ああ、でも、いや、助かったんだよ、なんか、うまいこと落ちたみたいで、……いや、うまいってこと、ないか。…………今、あいつ、入院してんだ。俺も今日、会いに行ってきた。……それでさ、その、碧ちゃんさ。あいつに、会いに行ってやってくんないかな? ……呼んでんだ、碧ちゃんのこと。あいつ、今まだちょっと、アレな感じで……。でも、碧ちゃんのこと、ずっと呼んでんだよ。…………勝手なこと言って、ごめん。でも、よかったら、エイチに会いに行ってやってくれよ。……病院は……』
そこから先は、なんだかもう、全然頭に入ってこなかった。
エイチが飛んだ。アタシが、布団の虫になってる間に。黒いものに飲まれて、たった一人で。エイチは、飛んだ。
アタシはもう、何を思ったらいいのか、わからない。
翌日、アタシはエイチの病院を訪ねた。まだ新しい、綺麗な総合病院。三木さんに教えてもらった部屋番号を頼りに、アタシはエイチの元へと向かった。足取りは、思ったより軽い。
日野英一様、の文字の前で足を止め、深呼吸をひとつ。エイチの部屋は個室だった。アタシはそのプレートを見て、ああ、なんだ、英一だからエイチなのか、とか考えた。気が付いてみれば、アタシはエイチの名前すら、知らなかったのだ。
エイチについて、アタシが知ってることと言えば。
十九歳だってこと。アルバイトでバーテンダーをしてること。やけに豪華なマンションに、一人で住んでること。タバコは吸わないこと。髪は癖っ毛だってこと。アタシよりも体温が高いこと。すごく大きな手をしてること。寂しがり屋なこと。とても優しくて、その分、とても弱い人だったこと。
アタシには、それで十分だった。
「……エイチ?」
エイチは病室にいた。少しだけ、痩せたかもしれない。あちこち包帯だらけで、左足を変な機械に吊るされている。
エイチはアタシを見ると、大きく目を見開いてから、グシャッと表情を崩した。ああ、溢れる、一歩手前の顔だ。
「あ、お……?」
「うん」
「あ、ああ、ああああ! 碧、碧だ! あああ、碧!」
「うん、エイチ。アタシだよ」
「碧、碧だ!」
エイチが、動かない身体を必死に揺する。アタシはもう堪らなくなって、エイチのすぐ近くまで駆け寄った。
「ああ、碧! 俺、俺! ……飛べなかった!」
「うん」
「碧、碧の、言う通りだった!」
「うん」
「スゲェ、こわくて、俺、絶対死ぬ、死ぬと思った! こわ、こわ、こわ」
「生きてるよ、エイチ。大丈夫」
指が震える。エイチはもう、なんだか、この世の人じゃないみたいに見える。
「碧、お前の、お前の、言う通りだ、碧」
「うん」
「そばにいてくれ、碧、お前、お前が、お前しか、いないんだ」
「うん」
「愛してる、愛してるんだ、碧、愛してる、愛、ああ、碧、碧」
「エイチ」
「愛して、るんだぁ……」
エイチの目は、アタシを通して何を見てるんだろう。エイチには、今、何が見えてるんだろう。きっとそれは、アタシではなく。
それでも、アタシは。
「エイチ」
その、名前を呼ぶ。
「大丈夫」
これが、嘘かなんてわからない。
「大丈夫だよ」
これが、愛かなんてわからない。
「そばにいるから」
ただ、アタシにわかるのは。
「エイチ」
きっと、ここが、アタシとエイチの恋の行き止まりで。あとはただ、緩やかに消えていくしかないんだろうって、ことぐらいだ。
ああ、本当に。なんて身勝手な。
ねぇ、エイチ。アタシたちは、どうして恋なんかするんだろうね。
エイチは、更生施設に入ることになった。薬で壊れてしまったエイチを、施設は癒してくれるだろうか。
アタシは時々、エイチに会いに行こうと思う。先のことなんてわからないけど。少なくとも、エイチがアタシを必要とするうちは。アタシが、エイチに会いたいと思ううちは。
六月が終わる。
母が消えた六月が。
エイチと過ごした六月が、終わる。
「……よお」
「…………一輝」
夕飯を買いに行こうと玄関を開けたところで、一輝に出くわした。まともに顔を合わせるのは、あの下駄箱での件以来だ。
「出かけんのか」
「ん、まあ。コンビニだけど」
「そうか」
「うん」
空気が重い。さっさとドアを閉めて、じゃあな、と立ち去ってしまえばいいだけなのに、この動かない手足はなんなんだ。一輝も一輝で、ドアノブに鍵を差し込んだまま、固まってしまっている。
「あー、その、よ」
「……なんだよ」
「いや、だから。……元気だったかなって、思ってよ」
「……まあ」
「なあ、メシ。メシ、ちゃんと食ってんのか?」
「……お前」
「な、なんだ」
不覚にも、アタシは何だか力が抜けてしまって、下がった眉も直せないまま一輝を見た。こいつ、本当、アタシと顔を突きあわせれば、メシ、メシって。何かの条件反射なのか、それ。
「なんだよ、その顔」
「別に、なんでもねぇ」
「おい」
「大丈夫、食ってるよ。今からメシ買いに行くとこだったし」
「……おお、そうか」
「じゃあな」
ようやく解けた空気に、アタシは当初の予定通り、財布を握って歩き出した。しかしすぐさま、碧っ、と、バカでかい一輝の声に、呼び止められてしまう。
「 まだ何かあんのかよ」
「お前、うちでメシ食ってけ!」
「…………はあ?」
「う」
「ハゲ、お前、何言ってんの?」
「いや、分かんね……何か、出ちまった」
一輝は、あーとか、うーとか唸りながら、バリバリと自分の頭を掻きはじめた。ウロウロと落ち着かない様子で、意味もなく、屈んだり伸びたりを繰り返している。
アタシはもう、呆れを超えて、いっそ可笑しくなってしまって。ゆるゆると頬の力が緩んでいくのに、逆らわないことにした。
ずるいな、と思う。変わらない一輝も、一輝がくれた助け舟に、乗ろうとしているアタシも。それでも、それに少しホッとしている自分にも、気付いてはいて。一輝の気持ちを受け入れることは、できない。できないけど。ただ、ちゃんと。うやむやにしてしまうのではなくて。
一輝の家に入るのは、何年ぶりのことだろう。少なくとも、中学に入ってからは、そんな機会はなかった気がする。ごちゃごちゃと散らかっていて、いかにも両親共働きって感じは相変わらず。何だか、少しだけ懐かしい。
一輝は部屋着に着替えると、すぐに食事の準備をしてくれた。クリームシチューに、ご飯に、出来合いの惣菜が少し。一輝はご飯に、海苔の佃煮なんか掛けている。それって、クリームシチューとの食べ合わせとしては、どうなんだろうか。
「何かさ」
「ん?」
「スゲェ久しぶりじゃねぇ? お前が、うちでメシ食うの」
「まあ」
「ガキの頃、よく一緒にメシ食ったよな」
「……うん」
「お前、スゲェ好き嫌い多くてさぁ。ほとんど俺に食わせてたよなぁ。自分は肉ばっか食ってよ」
そう、それで、一輝はブツブツ言いながら、人参とかブロッコリーとか、口いっぱいにして食べてた。
一輝んちは両親が共働きで、アタシも夜は一人だったから。だから、いつも一緒にご飯を食べた。一輝は本当の兄貴みたいで、一緒にいると安心した。いつの間に、アタシたちはこんなに離れてしまったのだろう。
「おじさんたち、元気か?」
「おう、うちのはピンピンしてる」
「おばさん、まだフラメンコやってんの?」
「いや、あれはなんか、日本人向きじゃないとか何とか言って、結局投げ出した」
「はは、そっか」
「あいつ、ホント長続きしねぇんだよな」
一輝の言葉に、飽き性のおばさんの顔が浮かぶ。一緒に、少しふくよかな、おじさんの顔も。何もかもが懐かしい。小さなアタシは、ここで、優しいものをたくさん貰った。
「……一輝」
「あ?」
「母さん、死んだんだ」
一瞬、驚いたようにアタシを見て。それから一輝は静かに、そうか、とだけ言った。
母のことを、一輝はおそらく知っていたのだと思う。世間は狭いし、不幸な噂ほどよく回る。だけど、アタシが何も言わなかったから、きっと、一輝も何も言わなかったのだ。
「去年、いなくなったんだ」
「ああ」
「なんか全然知らない田舎みたいなとこで、もう死んでた」
「……ああ」
「病気だったんだ」
「うん」
「アタシ、そんなの。そんなの、全然知らなかった」
驚くほど自然に、言葉がすべり出た。そしたらもう、後から後から湧いてきて、気付けばアタシは、一輝に何もかもぶちまけてしまっていた。
いなくなった母のこと。現れた男のこと。届いた母の手紙と、それを読まずに破り捨てたこと。眠れずに夜を彷徨ったこと。そこで出会った、エイチと言う男のこと。薬が手放せなくて、飛びたい、が口癖で。そうして結局、飛ぶことができなかった、エイチのこと。
一通り話してしまうと、アタシは大きく息をついた。話してみて初めて、自分は誰かに聞いて欲しかったのだと気付く。いつもそうだ。いつだって、アタシは自分が思うよりも、ずっと弱い。
「碧」
「……何だよ」
「お前、泣けば?」
「…………は?」
「そんなん、淡々と話すことじゃねぇだろ。ほら、こっちこいよ」
そう言うと、一輝はイスに座ったまま、ほら、と大きく腕を広げた。いわゆる、僕の胸でお泣きよ、的なスタイルだ。アタシは一輝のとった奇行に、言葉もでない。何だそれ。そんなの、ガキの頃だって、したこともないってのに。
「……ウゼェ」
「別に、ヨコシマなアレじゃねぇよ。ただなんだから、借りとけ」
ほら、と、もう一度言う一輝の目は、真剣だ。
「……おい」
「何だよ」
「アタシ、お前のこと好きになんねぇぞ、多分」
「んなこと、わかってるよ」
「これからもきっと、好きになったりしねぇぞ」
「そうかよ」
「……そしたら、こんなの、ずるいじゃんか」
寂しいからとか、悲しいからとか、アタシはもう、そんなのたくさんだ。アタシは一輝を好きでもないのに、一輝の胸で泣くなんてできない。
一輝は小さくため息をついてから、アホ、と低くつぶやいた。そうして、アタシに反論させる隙もなく、ズカズカと乱暴な足取りでこちらへやってくる。
くしゃっと、アタシの頭のてっぺん辺りで、髪を撫でる、あたたかな指の感触。
「アホなこと気にしてんじゃねぇよ」
「……るせぇ」
「いいんだよ。ズリィんだよ。みんな、ズリィんだ。傷つきたくねぇし、自分が幸せになりてぇし」
「そんなの、勝手じゃんか」
「そうだよ、みんな勝手なんだ。だからお前は、もっと、ズルくなってもいいんだよ」
一輝はなんか照れたみたいに、アタシの髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜた。降りてきた髪の毛で、前が見えなくなる。目頭が熱い。鼻の奥がツンとする。だんだんと込み上げてくる何かが、もう、止められない。
「お、やればできんじゃねぇか」
そう言われて、ようやく、自分の頬を伝うものに気付いた。
アタシは、大きな声をあげて、ワンワンと泣く。うえぇ、って、情けない声が出て、何だか小さな子供みたいだ。だけどもう、それでいい。
アタシは、子供みたいに泣いたっていい。ふざけるなって、怒ったっていい。
アタシは、幸せになりたいって、力いっぱい叫んでもいいんだ。
エイチは、秋には施設へ行く。幸せになりたかった、エイチ。
消えてしまった母親も、アタシが母に似ていると言ったあの男も。そうして、もがいていたのだろうか。
答えは出ないまま。じきに、秋が来る。
エイチは飛べなかった。だけどアタシたちは、いつかきっと、たどり着く。
安心して眠れる場所へ。
心のまま、生きられる場所へ。
エイチ。
たとえ、羽なんかなくても。
羽化不全