サイン ミュージアム
今日も二十歳の僕は、このサインミュージアムと呼ばれている美術館に展示されている、芸能界やスポーツ界、文学やアート等ありとあらゆる分野から選ばれた才能に溢れるその世界の飛躍に貢献している素晴らしい人々の沢山のサインを一枚一枚丁寧に清掃道具で拭いていく。このサインミュージアムにサインが展示される事は素晴らしく名誉な事。僕は約一年程前からこの沢山のサインを毎日拭いているので、誰のサインが何処にあるかもすっかり覚えてしまっている。そして憧れているミュージシャンのサインを拭く時には自然と力が入る。それ位の特権、許されてもいいよね?
「今度のコンサートのチケット当たるかしら…」
「私も今度の歌舞伎公演のチケット取れるかしら…」
「私は今度のフィギュアの大会のチケットが取れたわ」
同じ掃除仲間のおばちゃん達も、自分のファンの演歌歌手や歌舞伎役者やフィギュアスケート選手のサインを拭く時には力が入っている様だ。おばちゃん、と言ってもとっくに六十歳オーバーの老人のお婆さんなのだけれど、お婆さんと呼ぶのは何だかあれなのでおばちゃん、と呼ぶ様にしている。おばちゃん達は若干二十歳の僕の事を自分の息子や孫の様に可愛がってくれる。清掃の仕事のイロハを教えてくれたのもおばちゃん達だ。おばちゃん達のマイ清掃カートにはそれぞれの拘りの清掃グッズが並んでいる。小さなコロコロやガムテープや綿棒。みんな誇りを持ってこの仕事をしている。人の嫌がる仕事をしているあんたは若いのに偉い、とやたらと褒めてくれて飴やミカンを良く分けてくれる。この仕事を選んだのは大好きなミュージシャンのサインをいつも眺めていたいからだと言う僕の不純な動機も、気持ち分かる…と潤んだ瞳で見つめてくれる。
或る日サインミュージアムのエントランスの清掃に勤しんでいる僕の目の前にとても有名な綺麗な女優さんが現れた。このサインミュージアムに新たに展示される自分のサインを書きにやって来た様だった。その綺麗な女優さんは高そうな服を着て高そうなハイヒールを履いていて、屈んでエントランスの清掃をしていた僕に邪魔だと言わんばかりに舌打ちをした。すいません、と僕が言おうとした瞬間に綺麗な女優さんは言った。
「ハイヒールが汚れているから拭いてくれない?」
高そうなハイヒールは汚れていなかったけれど、綺麗な女優さんの心は汚れている様だった。僕は黙って高そうなハイヒールを拭いた。綺麗になる様に心を込めて…
それを目撃していたおばちゃん達は後で僕を褒めてくれたし、その現場にいた入場者の人達がサインミュージアムにその綺麗な女優さんに対する苦情を入れ、インターネットに書き込みをしたりしてその綺麗な女優さんのその日の言動は瞬く間にマスメディアに広まり、後日その綺麗な女優さんはサインミュージアムにサインが展示される事を辞退した。僕は自分のせいで綺麗な女優さんが辞退したのだと責任を感じたけれど、あんたは悪くない、当然だよ、資格が無かっただけ、とおばちゃん達は言ってくれた。
綺麗な女優さんがサインを辞退した日、僕はサインミュージアムの館長さんに呼ばれて館長室に向かった。
「実は今度、このサインミュージアムに一般の人達のサインを展示する事になってね。ほら、一般の人達でも頑張ってる人達が沢山いるでしょう?例えば君みたいに清掃の仕事を頑張っている人達。そこで、一般部門の第一号として君のサインを展示しようと考えているんだが、どうだろうか?」
「…それは違うと思います。僕に清掃の仕事を教えてくれた師匠はあのおばちゃん達だし、師匠のサインが展示されていないのに僕のサインが展示されるのは間違っています。展示するなら、おばちゃん達のサインを展示して下さい」
「しかし…」
「それが無理なら、おばちゃん達の時給を十円でも良いから上げて下さい。おばちゃん達は少ない年金で生活が苦しいから清掃のパートをして生活費にしているんです。僕なら大丈夫です。自分の実力で自分のサインが展示される様にこれからも頑張るだけです」
次の月からおばちゃん達の時給が十円上った。本当に十円かよ…と僕は切なくなったけれど、おばちゃん達はとても喜んでいたからまぁ良いか…
「今迄恥ずかしくておばちゃん達に言って無かったけど僕…プロのミュージシャンを目指していて…いつかここに自分のサインが展示されたら良いな…」
そう言う僕をおばちゃん達は潤んだ瞳で見つめてくれて、素敵、頑張って、応援してるよ、といつもみたいに優しい言葉をかけてくれた。それまで長生きしてよ。おばちゃん達にこのサインミュージアムに展示されている自分のサインを見て貰える事が出来たらどんなに嬉しいかと僕は心の底から思っていた。
サイン ミュージアム