広がる世界

手を放すその時が、近づいている。


はじめの頃は抱いていた。
冷たい風に当たらぬよう、暑い日差しに当たらぬよう。
やわらかいおくるみで何重にも巻いて、きれいな布を頭上にかざして。
仕舞い込むように抱きながら、乳をあげた。

やがて首をもつようになり、キラキラした目で世間を見て。
転がる楽しさを覚え、動く楽しさを覚え、歩く楽しさを覚えた。
語りかけることも覚え、歌うことも覚え、時には思いのままにいかぬこともあるのだと、泣きながら覚えた。

世界は広がり、友をもち、争うことや陰口も覚えた。
和をもって尊しとせよ、と、何度も説いた。

世界の中心は、家よりも学校になり、情を学び、勉学に励んだ。
意地を覚え、我をもち、嘘も覚えた。
卑怯な嘘は決してつくな、と、昏々と説いた。

守るべきものがある幸せを知り、失う悲しさも知った。
それでも強くありなさい、と、一緒に泣いては空を仰いだ。

世界は広がる。
もっともっと。

手を放して、一歩下がった場所で、その歩みを見守るべきだとわかっている。
けれどどうしてだろう。

いまこの時になって。
はじめの頃の、ちいさなちいさな、もみじのような、あの手を思い出す。

強く握れば折れてしまいそうで、おそるおそる伸ばした指を。
キュッと強く握ってくれた。

絶対に離すものか、と思ったのに。
はなすべき時が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。

あの頃とは比べ物にならないくらい、大きくなったこの手を。
いまだけは、ギュッと強く握りながら、心の準備をしておこう。

この手をはなしたとき。

君の見る世界は、きっと、もっともっと、広がるのだろう。

広がる世界

広がる世界

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-03

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