待合室

保管用です。

「あなたは素晴らしいペニスを持っているわ。硬くて重くて、パンパンで。あなたは十分、誇っていいわ」

 六月。疲れて血色の悪い頬をした青年が、半時間七千円のペッティングのサービスを受けるために、暗くてかび臭い雑居ビルの待合室に座っている。白いワイシャツの中年男が、かれの向かいで手持ち無沙汰に淫猥な写真雑誌をめくっている。
 こいつは、はじめて見る顔だ。と青年は過重な労働でくたびれ果て、石のようになった頭で考える。
 薄い唇。銀縁眼鏡。きれいになでつけられた頭髪。青年はぼんやりと色白で角ばった男の顔を見つめながら(それは青年が退屈したときにいつも無意識のうちではじめてしまう意味に乏しい癖なのだったが)、この男の、二十歳の頃の容貌をできる限り忠実に堅固に想像してみようと試みる。
 ごつごつした顎。広い額。いかにも生真面目なインテリ風で、一見は官吏か謹直な銀行員という印象だ。過酷な責務を負っているのか。頬がげっそりと落ちている。
 青年はじっと集中しながら、かれの顔だちに見つめいる。そして不意に、唐突に青年は意外にも男の眼が非常に独特で、かつ凄まじいまでの風格を持つことに気づき当たる。
 眼鏡をはずした“二十歳の頃の”中年男。それは、青年の率直に連想するところでは、愚連隊の頭目、屈強のチャンピオンボクサー、もしくは才器突出した学生運動指導者とでもいった感じだ。眼光は鋭く、狷介そうで、若くして首領格の存在感に恵まれている。これほどの素晴らしい魅力を備えた青年が、いま眼前で淫猥雑誌を読みふける一介の銀行員風とどのようなつながりを経て結びつくのか。青年はその不可思議さに混乱にちかい戸惑いを覚える。「あなたは眼鏡をかけておいでだ。それはその“眼”を殺すためのものですか?」青年はこう問いかけてみたいほどだ。
 痩せて背の低い従業員が、まずいコーヒーを持ってくる。それと同時に、凄い揮発臭が青年を襲い、かれを激しく咳き込ませる。かれの思考を中断させる。青年は悲惨にも、タンを吐き涙ぐむまで咳き込みつづけねばならない。苦しみ疲れ、ようやく呼吸を回復した青年は、ああ、ここは本当に場末だ、東京屈指のみじめな場所だ、とむなしい気持ちで考える。
 天井の隅には、老朽して回転障害をおこしたミラーボールが、みすぼらしく埃を浴びてぶら下がっている。砲弾の炸裂したような大音量で店中をうね狂うダンスチューンのBGMが、死にかけの甲虫めいて疲弊しきった自分にはいかにも不似合いな代物に思えて滑稽で、青年はすこし可笑しくなる。週のうちの六日間を青年は新宿のデパートの鮮魚売場で働きづめになって働く。そして唯一の休日である日曜日には必ずここへやってくる。
 泥じみた白いスニーカーに、よれたTシャツ。青年が他者へどことなく不潔っぽい、みすぼらしい印象を与えるのは、そのだらしのない髪型や服装のせいだけではないだろう。仕草や姿勢はいつもけだるげ。慢性の栄養不足と疲労とが主な原因なのだろう、肌や瞳にも生気がないし、しゃべり方だって不自然だ。
 かれは愚鈍だ。取るに足らない人物だ。ほんのわずかでも青年と接触する機会をもつ者たちは即座にかれへ対してこのような印象を抱く。また青年自身も自分は無価値で、ろくな未来のない人間だと思っている。かれはしみじみと自分を汚らしい、誇りに欠けた、ゴミ虫みたいな存在だと感じる。
 だが、おれにも! と青年には諦め切れずに思うところもあるのだ。それは、かれの弱点の声のことでだ。
 ……だがおれにも、こんな甲高い女子学生みたいな声、この女装趣味の変態が悪ふざけして搾り出すいやらしさたっぷりの悲鳴みたいな声の代わりに、いかにも男らしい堂々たる声が備わっていたなら! そんな素晴らしい声がもしもおれにもあったとすれば、おれは今頃ここにいるおれなどとは比べようもない、まったくもって素晴らしいもうひとりのおれに出来上がっていたに違いない、とかれははっきりそう思うのだ。
 きっと、そのもうひとりのおれは、堂々たるやつの声にそぐわしい、やはり堂々たる自信と決意とをガッチリと持って着実にその人生を進めているに違いない。もちろん、大切な恋人やたくさんの親切な友人たちもいることだろう、やつには! と青年は嫉妬女みたいに考える。やつには、おれみたいに喉をつぶそうとして煮え湯で大やけどを負ったり、わざわざ唖のふりを演じて他人を誤解させたりする必要性もないだろう! 常につきまとう心配も、混乱も遠慮も、やつの人生にはきっと尻の穴のまわりに生える毛ほどにも必要のないものだろう。ああ、それならば簡単だ。ああ、それならばやつでなくたってうまくやれる! そのように青年はどこまでも卑屈になって考え続ける。
 そして。結局、と青年は結論する。結局、おれにはこれだけなのだ。おれはこの日本人離れして硬くて巨きなsymbolをサービス嬢に褒めてもらい、またせっせといじってもらっているときにだけ自分に誇りを持つことができるし、おれは男なのだと実感することができる。それ以外のときのおれは、どうしようもない、九官鳥の、糞の、糞だ……。
 備え置きのコミック本や淫猥雑誌の類にも手を伸ばさず、ただじっと悩ましげな表情で考え込んでいる青年を辛気くさく感じたのだろうか。
「あの、おにいさんは、学生さんですか?」遠慮はあるが低くて芯の通った声で、向かいの中年男が問いかけた。「この店にはたまにいらっしゃるんですか」
「ええ、毎週のように」と青年はすっとんきょうに抜けてひびく自分の声を、無理にひくめようともせずに答えた。この中年男には自分を繕ってみせる必要はないだろう。何となくそう決めつけてしまうと、かれは途端に気楽になった。「おれ。こんな変な声をしているでしょう。だから、女の子にも気味悪がられちゃって。彼女もできないんで、よくきてます」
「ユニークな声じゃないですか」と男は穏やかに微笑みながらかれへ励ましかけるようにいった。「それも、見方によっては才能ですよ。声優になれるんじゃないですか」
「そんな。無理です」と青年はおどけていい返す。「感性とかっていうんですか。おれ馬鹿なんで。そういうの、然々ないんで、たぶん。無理です」
「私は今日ね、はじめてきたんです。この店にというか、こういう店に来ること自体が初めてで。四十にもなってですね」と男は少年のように恥じらいながらいった。「だから一体、どうなることかと、ちょっと緊張してたんですよ」
「そうですか。でも、硬くなることはないですよ」青年は自分でも下らない優越感だと理解しながら、それでも、声がつい得意ぶってきてしまうのを抑えることができない。「この店は、女の子も皆いい子ばかりですし。そりゃあ、たまにはちょっと器量の悪いのもいますけど。それも良くいえばこういう場末の大衆店が持つ味ってもんでしょうしねえ」
 このような青年の下司ったらしい饒舌にも、しかし男は「そうですか」「ほう、その見方はおもしろい」などと芯から引き込まれている感じの相槌打ちを繰り返す。それはいまにもズボンからメモ帳さえ取り出しかねぬほどの熱心さなのだ。
 しかし、元より自信というものを持ったことのない青年のことだ、さすがに話し過ぎだと自省したのだろう。男の謙虚すぎるほどの態度にも助けられて、「でも、もちろん、そちらさんも奥さんや子供さんはいらっしゃるんでしょう」と軽いつもりで話題を振った。
「ええ。妻はおりました。先週までは」と男は特に気にするふうでもなく答えた。そして滑らかすぎるほどの自然さで「私が殺してしまうまでは」と続けた。
 即座に、率直に青年が迷ったのは、おれはいまわらうべきなのか? 随分とピントはずれだが、人は良さそうなこの男のジョークにおれはつきあってやるべきなのか? ということだった。
 判断はすぐにつかなかった。しかし、
「なぜ奥さんを殺したんです」と口が勝手に働いた。
 続けて「それじゃあ、いまは逃亡中で」とまで問いかけたところで、青年ははじめてぎょっとして、いまおれが口にしていることは普通じゃないぞ、ひょっとしたらおれはもの凄くまずい相手と口を利いているんじゃないか、と気づき当たった。
「ご心配なさる必要はありません。あなたには一切ご迷惑はおかけしません」と男はすこぶる有能な弁護人のような口ぶりで保証した。
「いや。お、おれは別に構いはしないんですけど」と青年は懸命に冷静であるふうを装いながらも、たちまち情けなく上擦ってきてしまう声で「でも、なんでそんなにヤバイ、じゃなかった、大事なことを、こんなおれみたいな人間に対していうんです。もし本当に、あなたのいうことが事実なんだとしたら、たとえばすぐに自首するとか、もしくは、慎重に慎重を重ねて逃げまわるとか隠れるとか。普通はどっちかなんじゃないですか」
「もっとも。おっしゃる通りでないでしょうか」と男は声をかすらせて微笑しながらいった。それから青年へ、「あなたはセックスが好きですか」と驚くほど意外で滑稽な質問をぶつけてきた。動揺をあらわに青年が答えに窮していると、男は埃とヤニのいやというほど染みついた小豆色の粗製ソファへ身体を沈めて、より一段とくつろいだ感じになって、
「いや、唐突にぶしつけな質問をいたしました」とまずは気さくに謝罪した。
 それから「率直に申し上げますと、じつは私はこれまでにたった一人の女性としか、正式なセックスというものをしたことがないものでして。チャンスはいくらでもあったはずなんですが、ひとつ根本的な問題がありましたのでね。しかしです。ようやくいまになって、その問題というものが解消されたものですから。ですから、そういった事情もありまして、これまでには入ろうという気持ちすら抱いたことのなかった、こういったお店にも、今日はきてみようという気になったんです」と、また男は少年のはにかむような態度を取り戻していった。
 こいつは奇人だ、変人だ、と青年は不意に得心のいった感じで考えた。
 柔らかな物腰。落ち着きはらった態度。それに、どこか芝居ごとめいた語り口。どうみても、数日前に生々しい殺人を犯したばかりの人物とは思えない。
 青年は、知性の高い狂人が、愉しみにおれをからかっている、それもふざけ半分ではなく、じつに真剣なかれの仕事としておれをからかっている、という印象を受けた。不安はすでに霧散していた。むしろ青年のうちには、この狂人とのやりとりを余裕をもって愉しんでやろう、などという遊びめいた心理さえ生じていた。
「もう一度おうかがいしますが。あなたはなぜ、奥さんを殺したんです」と青年は興味たっぷりに同じ質問を繰り返した。「まさかほかの女の子とセックスがしたい一心で、怖い奥さんを殺しちゃったんだとか」
 青年からしてみれば、まったく冗談のつもりだった。だが男は、「あなたはなかなか鋭い方だ」とため息づくようないい方をして、それからひどく神妙な顔をつくって青年の目をのぞきこんで、「私はですね。私は、もう根っからの、とでもいいますか、生まれながらにしての殺人狂なんです」などと、おそろしいことを話しはじめた。
「私が、はじめての殺人を犯したとき、私はまだ小学校の三年生へあがったばかりでした。相手は近所のアパートに住んでいたOLです。そのOLから、私がアパートの庭で火遊びをしていた、というかどで祖母へと苦情をつけられましてね。私は事情あって、両親もなく、母方の祖母ひとりの手で育てられていました。手癖はひどいわ、犬や猫らは殺すわで、その頃じゃ立派な悪ガキでした。私が放火めいた遊びをしていたというのも、もちろん事実でした。おまえは危ないことをした、決してやってはいけません、と祖母が私をたしなめる。もう瞬間的でした。私はうちの台所へ走って出刃包丁をひっつかむと、その足でOLの部屋へ駈け込んでいって、そこにいた彼女を滅多刺しにやっつけました。二十数カ所、刺し傷はあったといいますから、それは凄絶な報復でした。私は異常に激しやすい、我慢のできない子供でした。当然、私は補導され、児童用の矯正支援施設へと入れられたわけですが、入所から半年ばかりして、私はそこでまたしても人間の命を絶ち切ったのです。今度は施設で寝食をともにしていた仲間の少年を、高所の窓から突き落として殺したのです。その子から、頭の形の悪さをからかわれた、ただそれだけの理由でした。本当に、とんでもない少年殺人鬼がいたものでした」
 青年は言葉を返せない。ただ固唾を飲んで、真偽不明の男の懺悔にうなずくばかりだ。男は話す苦難をまぎらわすように、取り出したセブンスターに火を点けて続けた。
「いったいなぜ、こんな物騒な人間がここにいるんだ、なぜこのような異常な来歴をもつ人間が、いま平然と自分の目の前に座っているんだ。あなたはそう不思議に思われたのではないでしょうか。これは、ちょっぴりと。もしかしたら、ものすごくおかしい事態だと、あなたはお感じになられるかもしれません。そういった点では、私はこの国の少年法という、グロテスクな法律に救われたわけです。当時は原則十六歳未満の児童であれば、それが百人殺そうが二百人殺そうが決して刑事責任には問われなかった。現に私は十一歳で二度目の殺人を犯してから、わずか二年間のうちに矯正施設を出ることができ、また資産家の保護司の方のお世話の元で一般の中学や高校へも進学することができました。いくら年少者とはいえ、明確な殺意をもって人間をふたりも殺している者へ対して、なんとも甘く、軽すぎる処置だとあなたはきっと驚きになられたのではないでしょうか。当然のご感想だと思います。しかしです。私の方も私なりに、それからは更正のための努力を懸命に積み重ねてきたつもりです。事件をおこした施設から別の矯正支援施設へと移されて、そこで私は、幾人かの素晴らしい教官の方々と出会いました。かれらは本心から私という人間を造りなおそうと努力してくれた。私という精神の不具者を見捨てず、愛と情熱を注いでくれた。かれらに包まれて生活をするようになってから、私はどんどんと自分が変わっていくのがわかりました。それはまさに変質という感じ。それまで身体中に充満していた邪悪な容量物、毒素のようなものが、日々すこしずつ抜け出て、なくなっていくという感じでした。そして私は、常に率先垂範して立ち働く事、常時他人を思いやること、将来への希望を失わぬことの三つを心に刻んで施設での生活を送るようになりました。職員や施設長からも随分と目をかけてもらって、本当にもう、少年殺人鬼のころからは想像もできないほどの変り様でした」
「そんな奇跡みたいに、人間が変われるということがあるんでしょうか」と青年は純粋な好奇心から尋ねた。「いまのあなたを見ていると、とてもそんな非行時代があったなどとは思えないですよ」
「それは、私が神をもったからです」と中年男は情熱的に即答した。「私は先ほど、ふたつ目の施設へ入って、幾人かの素晴らしい教官方と出会った、と申し上げました。そのうちの一人、もっとも精力的に私の更正に対して力を注いでくれ、またじつに多くの重要な示唆を与えて下さった女性教官が、じつは後に私の妻となる女性だったのでした。背が高くて、凛とした存在感のある、男性的ともいえるような美しさをした人でした。私は、彼女への恋、いえ、彼女への崇拝的な愛を通して、自分を変えようとするモチベーションを永い期間にわたって保ちつづけることができました。施設を出て、学校へ通い、旋盤工の職を得て働くようになっても、私は彼女への手紙を送り続けました。『次に手紙を書くときまでに、おれはもっと素晴らしいおれになっていよう』 『努力して努力して人間を磨いて、一日もはやく先生にふさわしい男になってやろう』 その一心だけで、私は生きていた。私はまさしく妻というメンターへ遮二無二すがりつくことで、十代という地獄を乗りきることができた。そして幸運なことに、彼女も私の気持ちに応えてくれました。私が二十五で妻と結婚してからの十五年間。私には被害者遺族への賠償金の支払いもあって、経済的には決して楽ではありませんでした。共働きをして、ようやっと生活がまわっていくという感じで、たまにの贅沢といっても、せいぜいがファミリーレストランで食事をしたり、一泊二日で熱海旅行へいったりといったものでした。それに、私の前科が前科ですから、陰険な嫌がらせの電話や手紙が続いた時期もありました。芸術的ともいえるような、おぞましく手のこんだ張り紙もありましたし、なかには私へ対しての非難だけでなく、妻を名指しにした中傷の文句も混じっていました。それだけは本当に許しがたくて。自分は匿名という盾の陰にしっかりと隠れて、そこからふれる限りの腕をふるって石の球を投げつけてくる中傷者たち。因(もと)は私がしたこととはいえ、世の中にはどこまで卑劣なやつがいるんだろう、と改めてショックを受けましたよ。凄まじいストレスでした。
 それでもですね。愛する先生が自分の傍らにはいてくれる。そう思い直すだけで、私は、自分の全身がバネ仕掛けにでもなったようなエネルギーを得ることができました。自分は折れない、大丈夫だという自信が湧いてきました。朝、食卓でふたり向かいあいながら食事を摂る、コーヒーを飲み終えて、彼女が私に、今日もがんばりましょう、と微笑んでくれる、それだけで、こちらもニコニコと満面の笑顔になれたものです。私は、幸せでした。妻もきっと、私と同じ気持ちでいてくれたことだろうと思います」
 愛の力が残虐な殺人鬼を幸福人へと造り変える。なんとドラマティックなことだろう。おれにもそんな女性がいてくれたら、どんなにも素敵で、がんばり甲斐の出ることだろう! と青年はなかば涙ぐむような気持ちで考える。だが同時に、男が神と慕うほどまで愛していた妻を本当に殺したというのであれば、ますます動機がわからない。
 聞くのが怖い気もするが、
「ではなぜあなたは、奥さんを」青年はもう一度質問する。
 男は数本目の煙草をねじ消して、すぐにも次の煙草に火を点けながら、恐ろしいほどの真顔をつくって「私たち夫婦にはひとつだけ、問題点がありました。それが、先ほどにも申し上げましたセックスの問題だったのです」と非常に重大な秘密事を打ち明ける具合にいった。
「私は教官であった頃の妻を自分の神であるかのように慕い、彼女からの期待や指示へ精一杯応えようとする、また実際に応えていく過程を通じて、自分という人間を根本なところから造り変えていくことができました。おかげで私はすでに自分の精神そのものとして固着していたはずの攻撃性や激しやすさといった特性だけを手品のように引き剥がして、捨てさることができたわけです。それは確かに、奇跡でした。しかしです。どうやら、私はそれと同時に、一般的な性欲というものをまで、自分という実験体からそぎ落としてしまったようなのです。もちろん、私は妻のことを慕っていました。愛していました。しかしどうしても、性的な行為の対象として彼女をみることはできなかった。性的に欲情しえない、という面では、ほかのあらゆる女性たちに対しても同様でした。私は性的な行為や、それを連想させる類のものを目にするだけで、頭痛や吐き気などの拒否反応を示すようになっていました。とくに女性器へ対する生理的嫌悪感は凄まじくて……ほとんど恐怖に近いものがありました」
「そんなことがあるんですねえ」と青年はあっけにとられていった。「しかし、それじゃあ奥さんは実際、不満を持たれた、というか、さすがに寂しく思われたんじゃないですか」
 男は罪の意識に胸を占められた表情でうなずいて、
「私の妻の愛し方というのは、もしかすると、偶像崇拝のようなものに似ていたのかもしれません。彼女は完璧な精神的存在であって、弄ずるべき肉体ではなかった。しかし、当然、妻の方には正常な性欲がありました。結婚生活のはじめ、妻が積極的に求めてくるのに、私がそれに対応できないということが幾度か繰り返されました。私も努力はしてみるのです。しかし、駄目でした。性器が使いものにならないだけでなく、私は途中で気分がわるくなって、吐き気をもようしてしまう。いくら試してもうまくいかず、ふたりして泣きながら眠った夜もありました。私は幾人もの精神科医たちをあたって、カウンセリングを受けてみました。かれたちの意見を総合してみると、
『あなたは自らの攻撃的な感情や暴力への嗜好性を全否定することで、新しい自分、新しい生をいきていくためのvisionをつかむことができた。セックスという行為=自分の肉体や性器を駆使して女性を征服するという行為は、暴力のイメージに通じ、あなたの安定したvisionをかき乱す。嫌なのに無理にセックスを試みることは、あなたの精神をガタガタにする恐れがある』、大体がこんなものでした。
 さすがにそこまで割り切った理解を受け入れることには抵抗がありましたが、すくなくとも妻はこの結果を聞いて納得してくれたようです。諦めてくれた、といった方が近かったかもしれません。私は、彼女が人口受精での妊娠出産に関するパンフレットを取り寄せていたことも知っています。しかし、どうしても私は、自分の子供を持とうという気持ちにはなれなかった。自分のようなおぞましい子供を、もうひとりこの世へ生み出してしまうことが、私には嫌で恐ろしくてたまらなかった。妻もうすうすは、そんな私の心のうちを察してくれていたようです。結局は彼女からその相談を持ちかけられることはありませんでした」
 すでにテーブルの灰皿にはかれの饒舌の証左であるような吸い屑の山が築かれていた。その汚らしい無惨さは、いま不意に男の懸命に並べたててきた言葉がまったくの無価値であったかのような印象を青年に与えた。
「ここ五六年になってでしょうか。いやがらせの電話や張り紙の方もようやく落ち着いてきて。私たちの性の問題にも一応の決着がついて。賠償金も、あと十年も頑張れば支払いを終えられる目処がついた。私たちに、はじめて平穏で、地に足のついた生活が訪れたようにみえました。私はね。安心していました。このままの暮らしが続いてくれたら、おれはなんとかあいつを起こすことなく、最期まで大人しく生きていって、死ぬことができるんじゃないかとね。でもね。結局はそうはいかなかったのです。私たちの生活に大きな転換のきっかけが訪れたのは二年前。それは、大きな不渡りをつかまされて、私の勤めていた工場が倒産したことでした。
 職を失った私に、妻はゆっくりと仕事を探すよういってくれました。私たちは良い部屋を借りているわけでもなければ、子供があるわけでもない。妻が法務教官の仕事を続けていましたから、月々の賠償額を支払っても、最低限の生活を続けていくことはできました。しかし、私も男ですから。すくなくとも自分で支払うべき金だけは、自分で働いて稼がねばならないという気持ちがありました。それに、妻の望みを何一つとしてかなえてやることのできなかった分、せめて稼げるだけの稼ぎをあげて、はやく彼女の気を楽にさせてやりたい、そして、ゆっくりとふたりで海外旅行へでもでかけたい、などとも思ったのです。
 私は遮二無二、職を探しました。求人広告をみて、頑張れば頑張るだけ手取りの増えるタクシーの運転手を選びました。しかし、いま考えてみれば、この選択が運命の決定的な誤りだったのです」
 いま明らかに自己呵責の酸に苦しみはじめながら、しかし男はもはや抑えようのない告白の欲求に取りつかれて話し続けた。
「制服を着て朝礼をすまし、朝の九時から乗務をはじめて、大体深夜二時過ぎまで客を取り続ける。社にもどって入金と着替えを済ませて、それから洗車などの雑用をこなしていると、どうしても自宅へ戻るのは明け方ちかくになってしまう。じつにハードな毎日でしたし、身体をおかしくするのではないか、と妻にも心配されました。けれども、賠償金を払い終えるまでの辛抱です。できうる限り公休も返上して、私は機械のように働きました。
 先週木曜の、梅雨寒のこたえる夜でした。筑波までの長距離客をのせて、首尾も上々と東京へ帰ってきた、午前一時過ぎぐらいだったと思います。新宿には、しとしとと小雨が落ちはじめていました。参宮橋から代々木公園へ向かうあたりの歩道沿いで、紅い傘をさした女が手をあげていました。相当に酔いの入っている様子でしたが、まだ二十代前半と思える、均整のとれた体つきをした女で、顔もかなりの美貌でした。女はバックシートに崩れ込みながら千葉の南総にある町の名をいうと、すぐにも寝入ってしまいました。吐きでもされたら困るなぁと、私は内心躊躇するふうでもあったのですが、しかしその夜二度目の長距離客です。ついている、と思いました。
 京葉高速を館山まで飛ばしていって、外房の街へと抜ける山間の国道を走っていたころです。うねうねとした蛇行の続く、街灯ひとつない細道でした。いつから目覚めていたのでしょうか。後ろから女が不意にはだけたような声をあげたのです。笑い声。何かが可笑しくてたまらないといった感じの笑い声でした。一体、どうかされましたか、と私は驚いて尋ねました。女はいっそう可笑しそうに声を高めて笑ってから、私はお金を持っていないから、タクシー代は払えない、残念ですが仕方ないでしょう、などと、まるで他人ごとのようにいうのです。
 私は苦笑してみせながら、ではATMのあるコンビニエンスストアにお寄りしましょうか、だとか、お家の方にお支払いしていただくことはできませんか、などと一応は慇懃に申し出てみたのです。ですが女は、家族はいない、カードも持っていないし、部屋にいっても金はない、結局は金は払わないの一点ばりです。やれやれと私は思いました。
 これまでにも運転手の仲間たちから、乗務中様々なトラブルに遭った体験談を笑い話のように聞かされてはいましたが、私にとって、こういった体験(こと)ははじめてでした。相手はまだ酔いもよく抜けていない様子でしたし、起きぬけで寝ぼけ言をいっているだけかも知れません。カッとなって、怒鳴りつけたところで仕方がないなと思い、とにかく私は街に出て警察へ向かうことにしました。
 そうこうと考えながら、私が無言でハンドルを握り続けていると、女は唐突に、捨て鉢な感じで声をあらげて、じゃあ運賃は私の身体で払います、それならば文句もないでしょう、などと馬鹿げたことをいい出したのです。私はあきれましたよ。お嬢さん、つまらないことをいうもんじゃありませんよ、と。そういって、一笑に付してやったつもりでした。ところがです。これが女の癇に障ったのでしょう。とたんに噛みつくような剣幕になって、おまえみたいな運転手ふぜいが、こんなに良い女を抱く機会などこれを逃したら一生涯ないだろう、などと敵愾心剥き出しの挑発をはじめたのです。私もさすがに、これには頭に血がのぼりました。
 私は急ブレーキを踏んで、車をとめました。雨はすでに止んでいた。ぬるい風が強く吹いていました。そこは椎名鱗三のいった、“魔の場所”という感じの真暗な山道でした。私は女を外へ引きずり降ろしてやろうとして、憤然とドアを開けました。後部座席へまわりこんで、バタバタとあがこうとする女の腕をぐいとつかんで、引っ張り出そうとしたときでした。女のにらみつけるような目が、そのギラギラと紅く染まった雌豹のような鋭い目が、私の何かを撃ちました。ぐんっ、と呼吸が息苦しく、浅くなるのがわかりました。胸に爆発するような動悸が起こって、凄まじい喉のかわきに襲われました。全身が焦げつきそうに熱くなって、性器が鉄のように硬く膨張してくるのがわかりました。
 私は猛然と女にのしかかっていました。襲いかかっていました。女は咄嗟に背を向けて、向こう側の窓へと逃れる素振りをみせました。しかし、私がその柔らかく白いふくらはぎを押さえつけて、ブラウスをひき破るように脱がしてしまうと、もう拒もうとはしませんでした。むしろ行為には協力的だったともいえるほどで、最中にもなかば遊戯を楽しむような余裕ぶりをみせて、不意に私を振りむいて無邪気な微笑みを投げかけてきたりもしました。美しい女でした。凄まじいセックスでした。私は無我夢中で奮戦して、生涯ではじめて、女の中で果てました。
 終わったあとも、おぞましいほどの快楽がしばらくのうちは私の全身をめぐっていました。素晴らしく良かったでしょう。そういって女は悪魔的な微笑みを投げかけてきました。私は子供のようにうなずいてしまった。その後でした。○○○○さん。じつに自然に、さも当然という感じで、女が私の名前を呼んだのです。そして、あなたは私を強姦したの。あなたはトリカエシのつかないことをしてくれたの。と一転した冷たさをにじませて、私を攻めたてはじめたのです! 
 彼女は車内に掲げてあった私のネームプレートを読んだのでしょう。私から、ただほんの一日分の稼ぎを巻き上げてやろうとしただけのことだったかも知れません。しかし、私は逆上してしまった。金をくれてやることが問題ではなかったのです。ただ妻に、いま私のやってしまった凶行(こと)が知れるのが恐ろしかった。妻が怒り、悲しみ、狂ってしまうことが恐ろしかった! 気づけば、私は女の首を締めていました。いまになって、私は思うのですが、おそらく、あの女は死にたかったのではないかと思います。きっと、嫌で嫌で仕方のない自分に、誰か始末をつけてくれる男を探していたんじゃないでしょうか」
 狂気の沙汰だと青年は思った。聞いてはならない、耳を背けよ……と直感がかれに呼びかけていた。それでも、抗じがたい暗い魅力が切実に、磁力のようにかれを惹きつける。
「女は、静かに死んでくれました。私は女の身体を、山道の脇の潅木の奥へと引きずっていって、横たわらせました。私はついに、三度目の殺人を犯してしまったのです。私はとうとう、元のあいつに戻ってしまったのでした。痺れるような静寂を感じながら、私はしばらくの間、立ちつくしていました。煙草をひとつ、ゆっくりと吸って、消し屑を胸ポケットにしまってから、私は行動をはじめました。幸いにして、車は一台も通りませんでした。トランクから懐中電灯を引っ張りだして、あたりに遺留品の落ちていないことを確認して。私はシートベルトを締め、元きた道を引き返しました。私は延々下道を三時間半かけて、葛飾のタクシー会社へと戻りました。途中、市原あたりの廃業したドライブインに車をとめて、バックシートも掃除しました。もっとも、雑巾で飛散したふたりの体液を拭き取った程度のところで、何を隠せるわけでもありませんが。道中、私は何を考えていたのでしょうか。おそらくは、無でした。私はちりひとつ分の思考でさえ働かせることはできなかった。女の分の乗車記録については、ほぼ同距離の秩父まで客を乗せたことにして、運賃については財布から補填をしておきました。けれども、これも料金所の監視カメラの記録を調べられれば、立ちどころにしてバレてしまう、ちょっと考えればわかるはずの、ほとんど無意味な小細工でした。入金と乗務報告書の作成を終えて、缶ビールをひとつだけ空けて、私はそのまま会社のベッドに倒れ込みました。目覚めたのは正午過ぎ。昨日とは打って変わった、凄まじい油照りの真昼でした。私はまだ朦朧としている頭を回復させようと思って、サウナへいって汗を流し、また夕方まで睡眠を摂りました。
 もう一度熱いシャワーを浴びて、私は部屋に向かいました。殺した女のことも、私のこれからのことも、まったく考えなかったと思います。ただ部屋に着いて、迎えに出てくる妻へどのような対応をすべきだろうか、と。それだけを考えながら、私は歩き続けました。
 私には直感がありました。いくら私が巧妙な演技を試みようとしたところで、妻は私を見抜くのではないか。私の腕にべったりと染みついた人殺しのにおいを、やはり彼女は嗅ぐのではないか、という直感が。
 結局は、すべて終わりだという感じがしました。
 私はまったくの無方針のまま、アパートのドアの前へ立ちました。私は鍵を持っていました。ですが、なぜだか、ドアをたたきました。軽く三回。たたきました。
 すぐに応じる声がして、妻がドアを開けてくれました。
 私は、妻の顔をみつめました。
 妻は、にっこりと微笑んでくれた。私も、微笑み返しました。
 すべてはいつも通りでした。
 しかし、違っていました。すべてはもう、違ってしまっていたのです。
 私は不意に、妻はもう何もかも知ってしまっているんじゃないか、という考えに打たれました。
 心配していたのよ。遅かったから。と妻はいいました。これから、と私はいいました。これから、一緒にセックスをしよう、と。そのように私はいったのです。
 あまりの唐突さに、彼女はさすがに驚きの表情をみせました。私から事に誘うなどというのは、一体いつ以来のことだったでしょう。しかし次には、嬉しそうに微笑んで、妻はうなずいてくれたのです。ええ、しましょう、と同意してくれたのです。あの嬉しそうだった顔はね! 忘れることができません。
 私はその場で妻を抱きしめました。これが最後の抱擁だとばかりに、強く、強く。頼む、頼むと祈るような気持ちで、彼女の舌を吸いました。二人して、もつれあいながら、ベッドへと倒れこんで、彼女の下着を脱がしました。私は妻へ挑もうとしました。
 しかしね。駄目だったのです! やはり私は駄目でした! 私は五分と愛撫を続けることさえできずに、ベッドの脇へと嘔吐しました。吐きつくした私の背中を、後ろから、妻はそっと抱きしめてくれました。ありがとう、ありがとう、といいながら私の肩を抱きしめてくれていたのです。
 私は涙を流しました。とめどのない絶望の涙を流しながら、なぜだ、なぜだ、と考えました。なぜおれは駄目なのか。おれは猛烈にしたいのに、なぜおれはそれができないのか! と。私がシャワーを浴びて、寝室へと戻ってくると、淡いグリーンのシュミーズをつけた妻がひざまずいて私の汚物を片づけてくれていました。私の顔を見上げて、そして、もう一度、彼女は微笑みかけてくれました。慈愛にみちた女神の微笑み。そこでね。ようやく、私はわかったのです。私は自問への解答にたどりついたのです」

「まさか」と青年がいった。「まさか、すべてが奥さんのせいだったとでもいうんですか」
 男はうなずいた。
「妻は私の神でした。妻が私をみている限り、私は私ではいられなかった。だから、私は不能だった。そのことがそのとき、はっきりとわかったのです。妻は私を救ってくれた。獰猛な獣の仔同然だった私を、別の穏やかな生き物へと造り変えてくれた。それでもね。私は妻を憎んだのです。邪魔だと思った。もう一度だけでよかったのです。私は、あのセックスというものの味、凄まじい登頂の快感を味わってみたいと思った。狂わんばかりの激しさで、それを願った。だから、私は……」
 告白は、終わったのだった。困憊しきって土気色めいてみえるその頬に、男は弱々しい微苦笑を浮かべて、
「そのね。私の憶測というのは、やはり間違ってはいなかったのですよ。妻を殺して、ようやく私は封印されていた性欲を取り戻すことができた。そして、昨日までホテルにとじこもって、丸一週間の自慰漬けですが……」
 いかにも、情けないですが、という感じに、泣き笑いの表情をつくって男は、この通りです、と股間部のふくらみを指さした。

「滅茶苦茶だ!」と、とうとう怒りを抑え切れずに、青年は我を投げ捨てて叫んだ。「ふざけてる場合じゃないでしょう! あんたのちっぽけな観念で、下らない思い込みで、命を奪われてしまった奥さんや他の人達の気持ちにもなってみろよ!」
 これでは到底収まり切らない。思わず立ち上がって、再度青年が声をあらげようとした、そのときだった。待合室の外側で、それまでとは明らかに異質な、暴力的で物々しい気配が起こった。
 声を低めた、しかし、尋常でない緊迫感の伝わってくる複数の男たちのいい合い。たちまちのうちに明らかになる、闖入者たちの優勢、勝利。従業員らの意気消沈……。
 サツの手入れか、暴力団か。青年はわけが分からない。気が動転して、先までの怒りも何も吹き飛んでしまう。
 青年は咄嗟に、男をみた。
 男もまたかれを、見返していた。
 毅然とした、立派な眼だった。青年は、そして、はっとした。青年は、そして、そうだと思った。もし、もう一度、この男が改めて人生を生き直すことができたとすれば、今度こそは、間違いなくこうなっただろうと確信させるような、それは立派な顔つきだった。
 屈強の男たち三四人分の足音が、いまにもドアにせまってくる。すぐにでも荒々しく、それは開かれてしまいそうだ。
 ついに、青年も察したのだった。最後に、何かいわなくては。別れの言葉だ。青年は必死で思案する。だが、駄目だ。青年の舌に、伝えるべき言葉は出てきてくれない。
 かれの葛藤を制するように、男は微笑み、そして深々と頭をさげた。
 それは、青年に対する礼だったのだろうか。それとも。青年には、その意味を考える間も与えられない。
 ガチャンと激しい音がひびく。待合室が開かれる。茶のジャケットの長身の男が、拳銃を手にしているのがわかる。
 ほとんど同時だった、男のポケットから、ツバメのように輝くナイフが飛び出した。息つぐ間もない。己が首へと一直線に、銀の翼が翔びたった。

待合室

待合室

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-07

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