神さまの手のひら


 庭先の赤い薔薇に、霧雨が降っている。サアサアとまとわりつくような雨。パパが死んだ日も、確かこんな雨の日だった。
 僕はなんだか気持ちがザワザワとして、落ち着かなくて。パッと薄手のコートを羽織ると、薄暗い部屋の中から一目散に逃げ出した。
 向かう場所は決まっていた。こんな雨の日には、いつもそこへ行きたくなった。パパが死んだその日にも、僕はじっとそこにいた。
 見知った道を足早に歩き、ようやくそこへ辿り着いた。僕の屋敷の離れの裏手を流れている、小さな川のほとりだ。十の僕が浸かっても、膝くらいまでしかない、小さな川のほとりだ。
 僕は靴を履いたまま、ザブザブとその川に入った。一番深いところまで進んで、川底へと両手を突っ込んだ。川は泥で濁っていて、中を見ることはできない。僕は両手をぐるぐると動かし、必死で川底を探った。
 あるはずなんだ。あるはずなんだ。
 指に残った記憶を頼りに、川底の石を触っていく。確か、この辺りだったのだ。顔を上げると、木と木の隙間からボート小屋に続く道が見える辺り。確か、この辺りだったのだ。
 僕はほとんど、四つん這いみたいな格好になって、見えない川底を探し続けた。洋服も靴もグチャグチャで、濡れた頭から雨粒が滴ってきたけど、それでも構わず探し続けた。
 しばらくすると、指の感覚がなくなってきて、ガタガタと唇が震えはじめた。僕は、どうしても探すのをやめたくなくて、とにかく必死に震える足を踏ん張った。だけど結局耐えられなくて、バシャンと、後ろに尻餅をついた。
 座りこむ形になってしまった僕のまわりを、馬鹿にするみたいに、川の水が通り過ぎていく。
 僕は、ひどく泣きたくなった。だから、うー、うー、と喚いて、川の水をめちゃくちゃにしてやった。力いっぱい怒りをぶつけてやったのに、川はちっとも、僕を相手にはしてくれなかった。僕は奥歯をぐっと噛んで、こんなことで泣くものか、絶対に泣くものかと。まとわる水を蹴散らしながら、かじかむ手足を川底から引き揚げた。



 べちゃ、べちゃ、と歩くたびに靴がなる。服も靴も髪の毛も、雨やら泥水やらを吸い込んで、いつもの何倍も重たく感じた。先週、エリック叔父さんから送られてきたばかりの革靴も、毎日ポリーがきれいにアイロンをかけてくれる白いシャツも、今は汚い泥水色をしている。
 ポリーはひどく怒るだろう。執事のマーカスもきっと呆れて、眼鏡の奥の小さな目を、まんまるにするだろう。僕は途方に暮れたまま、霧雨で霞む道を、トボトボと歩き続けた。
 しばらく歩き続けていると、だんだんと、周りの森が深くなってきているのに気づいた。ここ一帯の森は、全部うちの敷地らしいのだけど、こんなに深くまで入ってきたのは、はじめてのことだった。
 僕は少しこわくなって、すぐに引き返した方がいいのかもしれないと思った。だけどまだ、どうしても屋敷には帰りたくなかった。行くあてもないまま、僕は薄暗い森の中を、ただ道沿いに進み続けた。
 さらに足を進めていくと、突然ちいさな分かれ道にぶつかった。右へつながる細い道は行き止まりになっていて、その先には、なにか開けた場所があるようだった。左の道は、そのまま森の奥へと続いている。
 僕は、右へ進んでみることにした。右のほうが、なんだか少し明るいような気がしたのだ。薄暗い森から逃れるように、僕は足早に進んだ。すると、ぽっかりと、まるで森をくり貫いたかのような大きな広い空間と、そのなかで静かに息をひそめている、ちいさな古い教会らしき建物を見つけた。
 茶色いレンガ造りのその建物は、まるでその身を隠すように、たくさんの薔薇の茂みに囲まれていた。近づいてよく見れば、見事に咲いた白い薔薇は霧雨に包まれて、ビロードの花びらをしっとりと濡らしている。薔薇の手入れは大変なんですよ、ポリーはいつも口癖のようにそう言うから。だからきっとこの薔薇も、誰かが毎日大事に手入れをしているのかもしれない、そんな風に思った。
 僕は茂みに座り込み、ぼんやりと目の前の薔薇を見つめた。薔薇は、ママが好きだった花だ。ママは赤い薔薇の花が大好きで、庭中に赤い薔薇を埋めさせていた。ポリーは手入れが大変だとぶちぶち言っていたけれど、ママはいつも幸せそうに赤い薔薇を眺めていた。僕はそんなママを見ているのが、本当に好きだった。
 立てた膝に顔を埋めたまま、僕はぎゅうと膝を丸めた。ただもう、なにも考えたくなかった。このまま地面に溶け込んで、ママの好きだった薔薇の花になってしまえたらいい。願うでもなく思いながら、霧雨にゆれる薔薇の葉の、ほんの微かなざわめきを聞いていた。



 そうして、どのくらいが経った頃だろうか。自然と澄ます形になっていた僕の耳に、不意に、鈍いオルガンのような音が混ざり込んできた。ひとつ、ふたつ、試すように音階を鳴らして、それからオルガンの音は、きれいな讃美歌の音色になった。
 僕はふらふらと立ち上がり、音色を追ってレンガの建物へと近づいた。古い木戸はうっすらと開いていて、音色はそこから聞こえてくるようだった。軽く扉に手をかけると、ギィ、と古木が軋む音と同時に、鮮やかになったオルガンの音が、一斉に耳へと飛び込んできた。
 僕はなにかに手を引かれるように、開いた木戸の隙間から、そっと身体を忍び込ませた。思っていたよりもずっと大きな礼拝堂いっぱいに、高らかなオルガンの讃美歌が響き渡っている。礼拝堂の正面には、十字架に架けられたイエス様の像が高く掲げられていて、大きく両手を広げたイエス様が、こちらに向かって静かに歌っているようだった。
 僕はただぼんやりと、悲しげにも見えるイエス様のお顔を眺めていた。だからいつの間にか、讃美歌の演奏が途切れていたことにも気がつかなかった。カタン、と、小さくイスを引く音がして、そこでようやく、僕はハッと我に返った。
「どなたか、いらっしゃるのでしょう?」
 若い女性の透き通った声が、音の無くなった礼拝堂に凛と響いた。僕はなんだか後ろめたいような気持ちで、おずおずと声のした方へ視線を向けた。礼拝堂の正面のイエス様の真下、その左奥の壁際に、小さな木製のオルガンがあった。長い金の髪をゆるくひとつに束ねた女性が、オルガンに手をかけたまま、その顔をこちらに向けていた。
「ねえ、どなたか。いらっしゃるのでしょう? ごめんなさい、あまり目が良くないものだから、どちらにいらっしゃるのかはわからないのだけれど。ねえどうぞ、よかったら奥までお入りになって」
 そう言うと、女性はイスから立ち上がり、ゆっくりとイエス様の真下まで歩いていった。そうして、そこにある教壇みたいな台の前で立ち止まり、祈るように胸の前で両手を組んだ。
 僕はあまり礼拝やお祈りが好きじゃなかったし、ひとりで教会に来たのもはじめてのことだった。だから、どうしたらいいのかわからなくて、逃げ出したいような気持ちになった。だけど、勝手に入ってきてしまったことは、ちゃんと謝らなきゃいけないと思った。知らない人とお話しするのは本当に久しぶりだったから、僕はドクドクと心臓が鳴るのを感じながら、礼拝堂を奥へと進んだ。
「いらっしゃい」
 女性は僕が近づくと、目を閉じたまま、ふわりと笑った。きれいなひとだ。金の髪はキラキラと淡くて、肌は血管が透けそうなほどに白かった。ゆったりとした紺のワンピースと、それと揃いのケープを羽織っていて、わずかにはみ出た白い手足が、やけにほっそりとして見えた。
「あ、あの」
「はい?」
「ご、ごめんなさい、勝手に、入ってきてしまって」
 ちゃんと謝らなきゃと思うのに、僕の声はなぜだかちっとも音になってくれなかった。カスカスとひどく掠れて、みっともないくらいに小さかった。僕は女性の顔を見ることもできなくて、彼女の足元あたりに、じっと視線を落としていた。
「いいえ、いいんですよ。ここには、誰が入ってきてもいいんです」
 やわらかな声でそう言うと、女性は静かに、僕の頭に手のひらを乗せた。そうしてそのまま、頭の形を確かめるみたいに、ゆっくりと撫でられる。
「髪が、ひどく濡れているわ。雨に打たれたの?」
「……うん」
「まあ、服までびしょ濡れだわ。傘を忘れてしまったの?」
「ううん、持ってこなかったんだ」
「あら、どうして?」
「どうせ川に入るから、いらないと思って」
「川に? こんな雨の日に川に入ったの?」
「……うん」
「まあ、どうして……」
 僕が黙りこんでしまうと、女性も困ったように黙りこんでしまった。おかしな子だと思われたのかもしれない。どうして川の話なんてしてしまったんだろう。僕は急にたまらなく恥ずかしくなって、びしょ濡れのズボンの腿を、力いっぱいに握りしめた。
「……ごめんなさい、わたし、質問ばっかりね」
 僕の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ女性は、ぎゅっと握った僕の手に、ふんわりと自分の手を重ねてきた。それから、強張った指をほどくみたいに、ゆっくりと両手を掬い上げられる。
「さあ立って、そのままじゃ風邪を引いてしまう。あたたかいミルクとビスケットがあるわ。向こうで一緒にいただきましょう」
 にっこりと微笑む女性に、僕は小さくうなづいた。そうして彼女に手を引かれるまま、礼拝堂の奥から伸びる、細いレンガの廊下を進んだ。



 薄暗かった廊下を抜けると、広い食堂みたいなところに出た。横広がりのその部屋には、たくさんの大きな窓があった。窓からは外の光が差し込んでいて、霧雨の曇り空の光でも、ないよりはずっと明るく感じた。
 女性は僕を長テーブルの真ん中あたりの席に座らせると、バタバタと部屋を出て行ってしまった。それからすぐに両手いっぱいのタオルを持って戻ってきて、僕の頭をゴシゴシと拭いてくれた。着替えがなくてごめんなさい、そんな風に言いながら、濡れた身体を大きなタオルで包んでくれた。
「さあ、召し上がれ。きっと体があたたまるわ」
 僕をタオルで包んだ後、さっとミルクをあたためてきて、それでようやく女性は腰を落ち着けた。僕の隣のイスに座り、彼女はニコニコと楽しそうに、僕にビスケットを勧めたりしている。
「……ありが、とう」
「どういたしまして」
「あ、あの」
「はい」
「僕、あの、森の道を歩いてたら、この教会の前に出て。薔薇がきれいで、薔薇を見てて。そしたら、オルガンの音が、聞こえてきて。それで、その、オルガンの音を追ってるうちに、そのまま入ってきちゃったんだ。だ、だから、あの。……演奏、邪魔しちゃってごめんなさい」
 しどろもどろの僕の話を、女性は黙って聞いてくれた。それからまた、ふふと笑って、僕の肩をポンポンとやさしく叩いた。
「邪魔だなんて、とんでも無い。お客さまも少なくて、退屈していたところなのよ。あなたが来てくれて、わたしはとっても嬉しいわ」
「……そうなの?」
「ええ」
「お客さん、あんまり来ないの?」
「そうね、最近は」
「お姉さんは、ひとりでここにいるの?」
「……そうね」
 さびしくないの、そう聞こうとして、僕はすぐに言葉を止めた。女性はやはりニコニコと笑っていたけれど、本当はきっと、さびしいに違いないと思ったから。ひとりぼっちは、とてもさびしい。僕は、それをよく知っていた。
「昔はね、もっと、たくさんのひとがいたのよ」
「この教会に?」
「ここはね、ちいさな僧院だったの」
「僧院……?」
「そう。たくさんの若いシスターたちが、ここで一緒に暮らしていたのよ」
 そう言うと、女性はなにかを懐かしむように、古木で出来たテーブルの上をゆっくりと撫でた。ここは、マリアンの指定席だったわ。独り言みたいに呟いて、深く息を吐き出した。
「教会じゃ、なかったんだね」
「うん? そうね、昔は教会としても開放していたけれど」
「今はもうやってないの?」
「ええ、司祭さまがいなくなってしまわれたから」
 ゆるく、笑みの形で結ばれている女性の口もとを、僕はそっと見つめた。それはとてもさびしげにも、だけど、どこか満ち足りているような、そんな風にも見えた。
「それでもね、時折、ここを訪ねてくるひとたちもいるのよ。そっと祈りを捧げたいひとたちや、静かに罪を打ち明けたいひとたちが、今でもここを訪ねてくるのよ。だから、いつでも開けてあるの。ここは、誰をも受け入れる場所だから」
「……誰をも?」
「そう。誰をも」
 とても大切なことを伝えるように、女性はゆっくり言葉をつむいだ。それは囁くのと同じくらいの、ひどく静かな声だった。だけどなぜかその声は、僕の胸の深いところに、じわりと沁みていくような気がした。
「神さまにお祈りをしたら、受け入れてもらえるの……?」
 思わず口にしてしまってから、僕はすぐに後悔した。受け入れてもらおうなんて、僕はなんて浅ましいことを考えたのだろう。僕は、許されてはいけないのに。忘れてはいけないのに。取り返しのつかない台詞にぞっとして、僕はあわてて、後から後から言葉を重ねた。
「違うんだ、ごめんなさい。僕は、僕はダメなんだ。僕は悪い子で、だから、許されちゃいけないんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、僕はもう、なにかを望むなんてしちゃいけないのに。ごめんなさい、ごめんなさい」
 僕はタオルの胸元をぎゅっと掴みながら、ただボロボロと言葉をこぼした。だけどなにを口にしても、最初に発した浅はかな台詞を、なくしてしまうことはできなかった。喉がどんどん詰まっていく感じがするのに、僕はなぜか、言葉がこぼれ出ていくのを止められなかった。
「ねえ、あなた。名前はなんて言うの?」
 とうとう喉を詰まらせてしまった僕に、驚くほどやさしい声で女性が言った。ヒクヒクと痙攣するばかりだった僕の喉から、自然とおかしな力が抜け出ていく。
「……マァ、ロ」
「そう。では、マァロ。あなたは、どんな罪を犯したの? あなたはどうして、そんな風に、自分を悪い子だと思うの?」
「僕、は」
「ねえ、マァロ。神さまに、お話をしてみない?」
「神さまに……?」
「そう、神さまに。あなたの信じる、どんな神さまにでもいいわ。あなたの心のなかにいる、小さな小さな神さまにでもいい。正直に罪をうちあけて、包み隠さず話してみるの。そうしたら、神さまはきっと許してくださるわ。心から罪を悔いたら、神さまはきっと許してくださるわ」
 そんなことあるはずない、思わず大声をあげそうになった口もとを、僕はあわててぎゅっと閉じた。なぜだか気持ちがザワザワと苛立って、僕は女性を責めるように睨み上げてしまった。彼女はじっと目を閉じたままだったけれど、それでも瞼の奥の彼女の瞳は、まっすぐに僕の瞳を見つめ返しているような気がした。
「大丈夫。ここにいるのは、神さまとあなただけ。今だけは、わたしの耳は神さまの耳よ。わたしの手は、神さまの手よ。さあ、マァロ。……話してみて」
 そう言うと、女性は静かに両手を組んだ。僕はちいさく息を吸って、彼女の真似をするように、胸の前で指を合わせた。目を閉じると、自分の吐き出す息の音が、なんだかやけに大きく聞こえた。
「……僕は」
 声が掠れる。僕は震える唇を、必死に押さえ込みながら。おそろしいその罪を、僕の犯した醜い過ちを。とうとう、口にした。
 僕は、罪を犯しました。
 僕は、人を、殺しました。
 僕は、僕のパパを。
 殺しました。
 キィンと耳の奥が鳴って、僕は自分の話す声を聞くことができなかった。じわじわと手のひらがおかしな汗をかいて、奥歯がガチガチぶつかるのを止めることができなかった。この時間がいつまでも続くような気がして、言葉にならないなにかを、叫びだしてしまいそうだった。
「あなたは、あなたのパパを殺したの?」
 問いかけは、押し殺したように低かった。だけど驚くほどに静かで、そして、とても穏やかだった。
「……そうです」
「あなたは、あなたのパパを、殺したかった?」
「……わからない」
「あなたは、あなたのパパを、殺したいほどに、憎んでいた?」
「…………僕は」
 まとまらない思考をなんとか言葉にしながら、僕はパパのことを思い出していた。パパが死んでしまうまでの日々を繋げていくみたいに、僕は記憶の奥底から、ゆっくりとパパを掘り返していった。



パパは、無口なひとだった。とても忙しいひとで、何日も家に帰ってこないこともしょっちゅうだった。ときどき一緒にご飯を食べる時には、黙ってエールを飲んでいた。ママはお話をするのが好きなひとだったから、そんなパパがつまらないと、いつも文句を言っていた。
 パパはママに一目惚れをして、必死に口説き落としたのだと、昔ポリーが楽しそうに言っていた。何度も何度もママの働くお店に通っては、必死にプロポーズを続けたのだと。だけど僕は、仲のいいパパとママを、あまり見たことがなかった。パパとママはいつだって、喧嘩ばかりしていた。二人が喧嘩を始めると、ポリーはすぐに、僕を外へと連れ出した。だから僕は、パパとママがどうして喧嘩しているのか、ちっともわからないままだった。パパはますます家に帰ってこなくなって、ママは薔薇の茂みのなかで、ぼんやりとしていることが多くなった。
 ある時、珍しく僕の部屋にやってきたパパが、僕のおもちゃを取り上げながらこう聞いた。こいつは誰からもらったものだ。パパはすごい剣幕で、目なんかおかしなくらいにギラギラしていた。ママのお友達からもらったんだよ。僕がそう答えると、パパは突然顔を真っ青にして、フラフラと部屋から出て行った。僕は、なにかとてもいけないことを言ってしまったような気がして、胸のなかが不安でいっぱいになった。その日の夜も、僕はポリーに連れ出されて、ポリーと二人きりで夕食を食べた。
 次の日、ママは美容室へ行くと言って、ひとりで街へと出かけていった。ママは、小さな鞄をひとつ持っていただけだった。だけどその晩、ママはとうとう家へは帰ってこなかった。次の日も、そのまた次の日も、ママは家に帰ってこない。屋敷は急にざわざわと慌しくなった。マーカスは毎日どこかへ電話ばかりしていて、ポリーは毎晩、泣きそうな顔をして僕を抱きしめるようになった。僕は難しい顔で動き回る大人たちを見ながら、ママはきっと、もう帰ってこないのだと、どこか確信のような強さでそう思った。
 パパはますます無口になった。僕がおはようと声をかけても、ああ、と小さくうなづくだけで、僕のことを見てもくれなくなった。自分の書斎に閉じこもり、一緒に食事もしてくれなくなった。そうしていつしか、滅多に家にも帰ってこなくなった。
 ひとりぼっちになってしまった僕を、ポリーはいろんなところへ連れ出してくれた。ボート小屋の奥にあるきれいな湖や、木苺がたくさん採れる緑の野原。なかでも僕が一番気にいったのは、屋敷の離れの裏手を流れる、ちいさな川のほとりだった。
 ポリーは僕を川のほとりまで連れて行くと、とても不思議な話を聞かせてくれた。
 さあ坊ちゃん、川のなかをよーく見てごらんなさい。今日はとても天気がいいから、川の水も少なくて、サラサラと穏やかでしょう。水の色も透明で、川底がよく見えるでしょう。ですけどね、坊ちゃん。雨の日にこの川をのぞきこむと、泥で濁ってしまっていて、川底はちっとも見えないんです。だからそんな日にはね、妖精たちがこっそり遊びにくるんですよ。人間たちには見えないように、そーっと川底に水遊びにをしにくるんです。そうしてときどき、妖精たちは落し物をしていくんです。それはピカピカと虹色に光るとても美しい石で、その石に願いをこめれば、どんな願いも叶えてくれる魔法の石なんです。ポリーもポリーが子供だった時に、ポリーのおじいさまから聞きましてね。お友達と一緒に、一生懸命探したんですよ。もう、何十年も昔の話ですけれどね。
 僕はその時、ポリーの話を信じたりはしなかった。妖精なんて絵本のなかだけの話で、本当にいるなんて思えなかったから。だけどポリーが僕のために一生懸命話してくれるのが嬉しくて、ポリーを川に連れだしては、不思議な石の話を何度も何度もしてもらった。
 


 ママがいなくなってから半年も経ったころ、久しぶり帰ってきたパパが、突然僕をパパの書斎に呼びつけた。パパに会うのは三週間ぶりだったから、僕はとても緊張して、なにも話すことができなかった。パパは僕の顔すら見ずに、疲れた声で僕に言った。お前はもう大きいから、学校に入りなさい。パパの知り合いの学校に、もうお願いしてきたんだ。そこには学生寮があるから、お前もそこに入りなさい。たくさん友達を作って、しっかり学業に励みなさい。
 僕は体中の血が、一気に冷たくなっていくような気がした。パパは、僕を捨てるつもりなのだ。僕がいらなくなったから、僕を遠くの学校へやってしまうつもりなのだ。僕はあわててパパにすがった。パパ、パパ、僕を遠くへやらないで。僕、ちゃんといい子にするよ。家庭教師の先生たちの言うことをもっと聞いて、お勉強も頑張るよ。だからパパ、僕を遠くへやらないで。僕、パパが好きだよ。だから遠くへやらないで。僕をひとりぼっちにしないで。
 必死に訴え続けると、パパはようやく僕に視線を向けてくれた。パパは太い眉を大きく歪ませて、ひどく苦しそうな顔で僕を見た。だけどすぐに視線を外してしまうと、話は終わりだ、絶望的な声でそう言って、くるりと背中を向けてしまった。
 僕は思わず、大きな声で叫んでいた。パパは僕がいらないんだ。僕がママに似ているから、パパは僕がいらないんだ。パパは僕がいらないから、遠くの学校へやってしまうんだ。そうしてママにしたみたいに、僕のことも追い出してしまうんだ。さっきまで引いていた血の気が一気に逆流して、頭の芯が溶けるみたいに真っ白になった。ずっとずっと奥底にしまっていた不安や憤りが、マグマみたいに吹き出して僕の全てを支配していた。
 ガアンと、突然頭に強い衝撃を受けて、僕は書斎の壁に背中を打ち付けた。うまく息が吸い込めなくて、ゲホゲホと激しくむせかえった。頬が燃えるようにジンジンと熱くて、それでようやく、僕はパパに殴られたのだと気づいた。パパはおかしなぐらいに口元をひしゃげて、泣き叫ぶ一歩手前みたいな表情で、うずくまる僕を見下ろしていた。
 どうしてだ、絞り出すみたいな声でパパは言った。どうしてお前の髪は、そんなに赤いんだ。パパの吐き出す呻きのような声を、僕は息もできないままに聞いていた。俺はずっと、お前の赤い髪がおぞましかった。俺もカレンもきれいな金の髪なのに、お前の髪は汚く赤茶けて、ゴワゴワとしている。お前はカレンに似ているけれど、俺にはちっとも似ていない。お前は誰の子供だ。お前は、誰の子供だ。
 ジリジリと詰め寄ってくるパパがおそろしくて、僕は叫び声をあげながらパパの書斎を飛び出した。このままパパに捕まってしまったら、殺されてしまうような気さえした。僕は階段を一気に駆け下りて、屋敷の外へと走りでた。霧雨で霞む道を行くあてもなく走りながら、パパの言った言葉を頭のなかで繰り返していた。後から後から大粒の涙が湧き上がってきて、雨に濡れた僕の頬をボロボロと零れ落ちていった。
 気がつくと、僕はあの川のほとりに来ていた。よほどすごい力で走ってきたのか、足を止めると急に足がガクガクと鳴った。僕はその場にベシャリと尻餅をついて、泥に濁った川底を、見るでもなくぼんやりと目に映した。そうして僕は、静かに思った。
 パパが僕をいらないんなら、僕ももう、パパなんかいらない。だってパパさえいなければ、ママは家を出て行ったりしなかったのだ。だってパパさえいなければ、僕は屋敷を追い出されずに済むのだ。パパなんか、いなくなってしまったらいい。パパなんか、いなくなってしまったらいいんだ。
 呪文のように繰り返しながら、僕はどろどろと淀む川を眺めていた。すると不意に、目の前の川底で、なにかがキラリと光った気がした。僕は思わず立ち上がり、無意識のままザブザブと川のなかに入った。キラリと光って見えた辺りに両手を突っ込んで、僕は夢中で見えない川底をぐるぐると探った。ゴツゴツと不恰好な石や、ぬるぬるとした水草のなかに、つるりと丸い、大きな石の感触がした。僕は両手を肩まで浸けて、その石をザブンと川から引き上げた。
 僕の両手でやっと持てるくらいのその石は、大きな卵みたいな形をしていた。どこもかしこも真っ黒で、ところどころに不思議な縞が入っていた。表面がつやつやとしていて、光を当てると、その部分だけが鈍く虹色に光って見えた。
 ポリーの石だ、僕は咄嗟にそう思った。ドクドクと胸が早鐘のように鳴って、僕は荒く呼吸を繰り返した。そうして僕は、つぶやいていた。
 パパなんか、いなくなればいい。
 パパを消してください。
 パパを消してください。
 願ってしまってから、僕は猛烈におそろしくなった。手のなかの石が急に気味の悪いものに思えてきて、僕はヒッと息を飲み、思わず石から手を離した。石はドボンと川底に沈み、すぐにまた見えなくなった。僕はのろのろと川岸に這い上がり、自分の吐いたおそろしい言葉を、激しく後悔していた。ずるずると濡れた体を引きずりながら、何度も何度も、さっきの願いが打ち消されることを願った。だけどもう、遅かった。
 暗い気持ちで屋敷へ戻ると、屋敷中の人間が顔を真っ青にしていた。僕を見つけたポリーがすごい勢いで駆け寄ってきて、僕をぎゅうと力いっぱいに抱きしめた。僕の願いは、叶えられてしまっていた。パパは書斎の窓から落ちて、この世から消えてしまっていた。僕は、僕の汚い願いで。パパを、殺した。



 絞り出すような僕の告白が終わると、長く、どこか神々しいような沈黙が待っていた。僕はじっと目を閉じて、静かに裁きを願った。許されたいとは思わなかった。ただ、僕が犯してしまった罪のために、僕はなにかを捧げたいと思った。
「マァロ」
 神さまの呼びかけで、女性が呼ぶ。
「あなたは、今日も川に入ったのね」
「はい」
「魔法の石を探しに?」
「はい」
「マァロ、魔法の石を見つけて、あなたはなにを願いたかったの……?」
 包み込むようなあたたかな声が、僕の心に染み渡っていく。僕はゆっくりと息を吸い、僕の願いを口にした。
 僕のすべてをあげてもいいから、どうか、パパを返してください。
 代わりに僕が消えてもいいから、どうかパパを生き返らせてください。
 神さまに祈るみたいに、僕は願いを繰り返した。悲しい涙とは違う涙が、ポロポロと僕の頬を流れては、落ちたタオルの胸元に後から後から吸い込まれていった。
「マァロ」
 やさしい声と同時に、ふわりと細い女性の腕が、僕の身体を包み込んだ。さらさらと金の髪が流れていって、頬にやわらかな胸の感触がした。
「マァロ。それは、あなたの罪ではない。パパが死んでしまったのは、決して、あなたの罪ではない」
 静かに言葉を紡ぎながら、女性はゆっくりと僕の背中をなでた。なでられたところから、じわりじわりと、なにかが溶け出していくような気がした。
「だからもう、川を探さなくてもいいの。その代わり、パパのために祈ってあげましょう。パパがどうか、天国で幸せであるように。パパのために祈ってあげましょう」
 ああ、これは、神さまの手のひら。僕に許しの導きをくれる、神さまの手のひら。
 僕はボロボロと涙をこぼし、何度も何度もうなづいた。うなづきながら、遠い昔のことを思い出していた。僕がまだとても小さかった頃、パパとママは毎年のように僕の誕生日を祝ってくれた。ママはポリーとケーキを焼いてくれて、パパはいつも新しいおもちゃを買ってきてくれた。ママはパパと一緒にエールを飲んで、ニコニコと楽しそうに微笑んでいた。僕たちは、家族だった。僕はママを愛していた。そしてパパを。心から、愛していた。
 気がつくと、外はすっかり日も落ちて、夜の様相を見せはじめていた。僕は屋敷まで送ってくれると言う女性の申し出を断ると、霧雨のなかをひとりで歩いた。女性が貸してくれた傘があったけれど、僕はそれをささないままに、屋敷までの道を歩いた。
 サアサアとまとわるような霧雨が、今はとてもやさしく感じる。
 僕は、パパが死んでしまってから、はじめて。
 パパを思って、心から涙した。

神さまの手のひら

神さまの手のひら

庭先の赤い薔薇に、霧雨が降っている。サアサアとまとわりつくような雨。パパが死んだ日も、確かこんな雨の日だった。 *** 十歳の少年マアロ。マアロは雨が降ると、決まって屋敷を抜け出しては、探し物を始める。マアロの失ってしまったものと、その在り処。 やわらかな話が書きたくて、したためました。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-01

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