約束

 やっちまえ。拳がうずく。殺しちまっても構わねえ。
 ぶちのめせ。頭が叫ぶ。どうせ終わった人生だ。
 俺はうなずく。引き金をひき、拳の弾丸をぶっ放す。
 炸裂する一撃。ちぎれ飛ぶ前歯。スローモーションで、青島の横っ面が砕け飛ぶ。
 幕は開いた。残りは身体がやってくれる。
 馬乗りになって、唾を吐く。腕を振るってガードをへし折る。
 やめて下さい。助けて下さい……! 救いの言葉。許さねえ。許せるはずがない。
 突き上がる憤怒。残酷な衝動。目に、頬に、鼻に。岩の拳を叩き込む。
 しぶきをあげて鮮血が飛ぶ。鈍く湿った打撃音。拳に骨の折れる感触が伝ってくる。
 暴力は素晴らしい。
 ガンジーは否定した。だが、ガンジーは間違っていた。
 こいつはまるでセックスだ。殴りつけるごと、俺の全身は痺れるような快楽に包まれる。
 息の根をとめてくたばるまで、俺はこいつを殴り続ける。
 ……想像の中で。
「聞いてんのか、あぁ? おっさん」
 デスクの端に腕をつきたて、青島がおれを見下していた。
「はい」頭を下げる。千切れるほどに唇を噛みしめながら。
 ど派手なリーゼント。軽く乾いた打撃音。暴走族上がりのチンピラ社員、青島……課長が椅子の後ろを蹴りつけた。
「できません、じゃねえよ。こっちは聞いてねえんだよ。メールも知らねえ。エクセルもできません。遊びにきてんじゃねえんだぞ」
 上司の言葉……ドスのこもった脅し文句。
「すいません」堪えにこらえて、愛想笑いを絞りだす。「パソコンですか。だから、触ったこともなかったもんで」
「だから、じゃねえだろうが」恫喝の声。
「それによハゲ。くせえからおめえ、息すんじゃねえよ」嘲笑の言葉。
 脈が一気に跳ね上がる。頭の血管が膨れ上がる。
「すいません」歯を食いしばり、ただひたすらに頭を下げる。
「おめえの息子よ」青島がいった。「大学いってんだろうが。そのぼっちゃんとやらに教えてもらえよ」
 ねばつく視線。道肩の下痢糞を見るような薄笑い。何から何まで気にくわねえ。殺意を込めて睨み上げる……代わりに、飼い犬の請うような笑みを捧げた。
「それとも何か。おめえんとこの息子なんかじゃ、そんなこともわかんねえか」
 この糞ガキをぶち殺せ。抑えた怒りがぶり返す。下痢糞みたいなおまえの人生、こいつを殺して閉めにしろ。
「まあいいわ。今日んとこは」うざったそうに片手を振った。「あとよ、その頭も見苦しすぎっからよ。坊主にしてこい坊主に。ハゲはハゲなりに潔く、だ」
 思わず頭に手をあてる。前髪はない。脇髪に。
「はい。わかりました」再び、頭を下げる。
「そいじゃ……本日はこれで」震える拳を押さえつけて、鞄をとった。
 ヘコヘコしながら、席を立つ。
「すいません、そいじゃ皆さん。お先に失礼いたします」
 オフィスの奴らに声をかける。答えを返す者はない。返ってきたのは、冷ややかな視線三つ。それと、誰かの舌打ち。咳払い。
 山岸さん……こいつらは、表じゃ、こう呼ぶ。だが、裏じゃおれの名は歯槽膿漏のデブ河童だ。
「月曜までだぞ」背中に青島の大声が響いた。
 静かに、ドアを閉めた。振り返り、思い切り中指を突き立てた。
 長すぎる五日間。それでも何とか切り抜けた。
 ようやくみつけた再就職先……ビル清掃の管理会社。やめるつもりは毛頭ない。いや、なかったはずだ。
 だが、心はすでにぐらついている。
 我慢はとっくに限界だ。この一週間、一体何回頭を下げた? 情けなすぎる。いまじゃすっかり「すいません」が口癖だ。
 青島みたいな糞ガキにいいようになめられて、いつまでも黙っていられるはずがない。
 この元暴対、鬼の山岸様がだ。
 
 半年前。警視庁を馘になった。
 馘の理由……地回りヤクザとの癒着。出張費の水増し請求。風俗業者への恐喝。飲み代の踏み倒し。女子中学生との援助交際。取り調べ容疑者への(過度の)暴行。
 正確なところはわからない。思い当たりがありすぎる。
 頭の中で、どす黒い血が煮えたぎっていた。まぶたの裏に青島の糞っ面が浮かび上がった。頭の芯が狂ったように脈打ちはじめる。
 千の舌打ちでも足りはしない。ネクタイをもぎ取りながらビルを出た。
 八月五日、午後六時……真夏の夕暮れ。陽はまだ高い。アスファルトには気怠い熱気が這っていた。汗が一気に噴き出してくる。
 唾を吐き捨て、煙草を点けた。紫煙の渦をやけくそに肺へ送り込む。穂先がはじけて、眩暈が襲った。三口吸って灰にした。
 駐車場のレガシー……十年前から中古車だった。
 中はサウナのようだった。壊れたままのエアコン。
 うんざりだった。倍加する、吐き気に苛立ち。呪いごとを叫びながら、かかとをアクセルに叩きつけた。
 途中、コンビニに立ち寄って酒とズリネタを調達した。
 酒……一番安い発泡酒。
 ズリネタ……トースポのピンク欄。エロ本一冊買えやしない。
 退職金は出なかった。警官時代、稼ぎのほとんどは女と博打、連夜の酒へとつぎ込んだ。
 残った金……たったの百万。だが、すでに使い途は決まっていた。無駄な出費は許されない。
 ラジオをつけた。きどった男のすまし声が聞こえてきた。
 ……週間の天気予報をお伝えいたします。東京は今後もしばらく酷暑の晴天が続くでしょう……。ひねった……落語……ひねった……英会話。消した。どれもざわついた騒音でしかなかった。
 片手でハンドルを切りながら、酒を胃の腑に流し込んだ。安物の発泡酒……こくも旨味もありゃしない。ただ腐ったみたいに酸っぱいだけだった。一缶ぽっちじゃ、酔うことすらできない。迷いもなく、車は千駄木を通り過ぎた。
 千駄木の香木荘。俺のねぐら。ごみ溜め。三畳一間のゴキブリアパート。
 もちろん、エアコンなんてありゃしない。連日連夜の熱帯夜。シラフで帰れば眠れもしない。
 駒場に向かう。
 行き先は……弘毅の暮らす学生寮。二人じゃ狭いが、あのウン香木荘に比べたら天国だ。
 弘毅……おれの糞ガキ。いや、俺の後生大事な一人息子。将来金の卵を生む、にわとりの雛。
 この春から、弘毅は東大に通っている。父親(俺)も母親(あいつ)も、度のつくような大馬鹿だった。正真正銘、弘毅は天からの授かりものだった。もしくは種が違ったか。まあ、そんなことはどっちだってよかった。
 唯一残った百万円……大事なひよこの養育費。
 青島に耐えて稼ぐ金……もっともっと大切な、俺自身への将来投資。
 両親(俺たち)は、とっくの昔に離婚(き)れている。
 だが、二人は弘毅に賭けていた。お互いにいがみ合いながら、火の出るように憎しみ合いながら、それでも金を出し合って広毅の未来にすがりつく。
 二十年前。弘毅の誕生。俺らにとっちゃ、単なる誤算に過ぎなかった。俺たちはただセックスをして、気持ち良くなりたかっただけだ。俺らが間抜けだっただけ。あいつが生まれてくることなど、誰も望んじゃいなかった。
 だがいまじゃ、俺ら二人の希望の星だ。俺たちに弘毅のない人生など、当たりクジのないサマージャンボと同じだった。

 車を停めた。寮の真裏の公園脇。
 トースポは中に置いてきた。とても天下の東大生父兄にふさわしい読み物とはいえない。
 湿った熱風……顔と手が蜜をかぶったようにべたついた。
 公衆便所の蛇口をひねり、顔を洗った。ねばつく唾を吐き出して、口をゆすいだ。Yシャツの裾をめくって、顔の水気をぬぐいとる。
 突然、首の後ろでサイレンの音が鳴り響いた。鳴り方からして、パトカーが二三台。どんどんこっちへと近づいてくる。思わずぎょっとして振り返った。だが、思い直す。後ろめたいことなど、こちらには何一つない。
 鏡を見る。面の黒ずんだカバが一匹。
 口角を無理につり上げた。慣れない仕草。卑屈な笑みがこぼれ出た。
 息子思いの立派な父親……きどったところで、とてもそうには見えなかった。将来のエリートにたかるデブの糞蝿がいいところだった。醜い地金が透けていた。
 自販機でコーヒーを二缶買って、寮へ向かった。
 歩きながら考える。
「弘毅さん。毎日のお勉強にお疲れでしょう?」猫なで声の予行練習。
「ほら、よく冷えたドリンクでも飲んで。週末くらいはゆっくり休んで」
 思いもかけない親切に、弘毅はこういう。
「ありがとう、お父さん。僕ちょうど喉が乾いていたんだ」それから、感謝に瞳を熱くして「ごちそうさま。美味しかった。よおし、俄然やる気が湧いてきた! これなら勉強もはかどりそうだよ」
 満ち足りた顔をして、俺はうなずく。弘毅の肩にがしっと手を置く……父の重みを感じとらせる。
「よくいった。だが、間違っても、俺を喜ばそうだなんてことは考えるなよ。お父さん、そんなことはこれぽっちも望んじゃいない」
 もちろん嘘。
 弘毅は素直に首を振る。
「弘毅。勉強は自分のためにするものだ。だが、あんまり根を詰めすぎるのもいかん。たまには散歩にでも出て、小休止だ」……どっちも、大嘘。
 勉強は、俺だけのためにしてもらう。
 本当に呑気に休まれでもした日にはあがったりだ。
 小さな恩の積み重ね。この百二十円の積み重ねは、十年後、いや五年後には数万倍にして返してもらう。
 公園の角を曲がったところで、俺は目玉を丸くした。寮の真正面に、パトカーが三台。ドアを飛び出た警官たちが、慌てて中へと駆けていく。
 足がすくんだ。冷や汗が出た。虫酸が怯えに変化した。
 この辺りの警官たち……古参の中じゃ、俺を見知った奴もいる。
「ヤクザ子飼いの悪徳警官」
「犯罪者顔負けの糞野郎」侮蔑の言葉を思い出す。
 慌てて、ポケットに突っ込んでいたネクタイを締め直した。髪を撫でつけ、眼鏡をかけた。性根はただの臆病者だ。
 何も怯えることはない……その臆病者にいい聞かせる。
 門の陰から、中庭の様子を伺う。玄関前に、二三の警官……それと、後ろに群がる学生ども。
 ガキの喧嘩か。食中毒か?
 パトカー脇に、新米のおまわりが一人。
「おい、何があったんだ?」
 何食わぬ顔で声をかける。
 答えはない。教科書通りの無表情。
 糞野郎。毒づきたいのを我慢して、背をひるがえす。中へと進む。
 たちまち声の飛び縄がとんできた。「待て、入っちゃいかん」
 言葉を返す。
「こん中の学生の父兄だ。息子と約束がある。入らせてくれ」
 できる限り、穏やかに。
 若造の面に困惑が浮かんだ。ちょっとした応用問題。目玉がぎょろつき、俺の身体をなめまわす。
「待っていなさい。いま確認を取ってくる」
 そういって玄関前まで飛んでいくと、警官の一人に耳打ちした。図体のでかい中年警官がけげんそうな顔をして、さっさと帰せと片手を振った。それから、ふいとこっちを見て、動きが止まった。動きが止まったのは、奴だけじゃなかった。
 俺は両目を見開いた。最悪な予感は、すぐに確かな悪寒へ変わった。今度は心臓が固まりついた。
 中村……いかつい顔に、いかつい体格……三年ぶりの再会だった。
 中村勇次警部補……同期入庁の元同僚。
 誰よりも早く、俺の本性を見抜いていた。誰よりも強烈に、蛇蝎のごとく俺を嫌った。お互いさまだった。だが、いまじゃ立場が悪すぎた。
 けだるい足取り。中村が俺に近づいてきた。逃げ出したかった。遅すぎた。
「山岸、久しぶりじゃねえか」
 鼓膜を擦るようなしゃがれ声。昔からその声を聞くだけで虫酸が走った。いまもそいつは変わらない。皮膚の表面が燃えるように熱くなった。
 荒んだ感情をひと撫でして、俺はいった。
「悪いな。取り込み中のところ」
 それから中を指さして「息子が住んでる。俺と違って出来がいい。そいつと約束がある」
 中村は黙っていた。冷徹な目が、俺を射抜いた。しばらくして、つまらなそうに口を開いた。
「おまえ、痩せたんじゃねえか。見りゃすぐわかる。生活も楽じゃねぇんだろう」
 へどが出る。「余計なお世話だ」吐き返した。
 だが、その通りだった。警察からは追い出され、ヤクザたちからは棄てられた。 
 微かな冷笑。それから、中村はあごをしゃくった……ついてこい。
 ガキどもの群れを突き分けて、中村が奥へと入っていく。
 俺は慌てて背を追った。
 三階建ての学生寮。一階のロビーは騒然としていた。片隅で、二三の学生が警官の調べを受けていた。脇目で見ながら、中村が階段を登っていく。
 どういうことだ……?
 俺はまったく混乱していた。
 俺が予期していた中村の返答……「捜査の邪魔だ。失せやがれ」
 おかしな成り行き。違和感が、まさかの疑念に変わった。
 事故か、喧嘩か。まさか……弘毅がッ……!?
 心臓が狂ったように早鐘を打つ。口の渇きがひどくなる。
 三階……一番奥の部屋の前に、白手袋の捜査員が二人。
 青白い面をした手前の部屋のガキどもが、ヤドカリみたいに首を出していた。一番奥は……。 
 怒鳴っていた。叫んでいた。「おい中村ッ! あれは弘毅の部屋じゃねえか! 一体息子に何があった」
 中村が俺を振り向いた。哀れむような一瞥。答えはなかった。
「おい篠田」捜査員の片割れが俺を認めて振り返った。「父親を連れてきた。中を見せてやれ」
 うなずく篠田がノブをつかんだ。俺は固唾を飲み込んだ。
 まさかッ……まさかッ……まさかだろう……! 
 まさかが頭をこだました。
 全身が、冷たい汗にまみれていた。篠田の身体を突き飛ばして、俺は扉をのぞきこんだ。
 弘毅がいた。
 血まみれにうつぶせて、玄関脇に転がっていた。
 
 力が抜けた。俺は膝から崩れ落ちた。
「即死だよ。ナイフで頸動脈を一突きだ」中村の声。おぼろに耳をすり抜ける。「腕や手なんかきれいなもんだ。おそらく、扉を開けた瞬間にやられてる」
 ふざけるな! 頭の怒りが爆発した。
 人の息子が殺されたんだぞ! 
 叫ぼうとした、だが舌がもつれた。かすれたうめき声が洩れただけだった。
 現職時代、俺は百何十という他殺遺体を扱ってきた。当然、拒否反応を起こす奴もいる。だが、俺は死体(やつら)が好きだった。残忍な傷口を見るたびに、背筋にぞくぞくするような快感が走った。とりわけ、金持ちやエリートどもの死体を見るときは、喜びも格別だった。
 ざまあみやがれ、と俺は思った。この俺みたいな屑でもな、まだ生きてる分だけ、てめえらなんかよりは何百倍ましなんだと。
「大丈夫か」そういって、中村が俺に手を貸した。「何なら一人、病院まで付き添わせるぞ」
「うるせえ」拳を振るって払いのけた。
 奥歯を噛みしめた。頭が震えた。だが、怒りはすぐに断ち消えた……同時に、哀しみも。いや、そんなものは初めからなかったのかも知れない。
 おまえは一体どう思う……心を探った。そこで俺は、石のような無感情に触れた。
 弘毅を見た。薄毛の頭……俺の遺伝。大きな顔は、血の水だめに沈んでいた。篠田の制止を振りきって、肩をつかんであおむけた。
 殺された弘毅……顔には苦悶の表情が浮かんでいた。だが、瞳は固く閉じられていた。それだけが救いだった。
「中村……」立ち上がり、俺はいった。「目星はついてねえんだろう」
 うなずいた。しばらく俺を見つめた後、だがな、と重たい口を開いた。
「今日の昼間にな。実はもう一人、渋谷でガキが殺されてる。まったく同じ手口でな」
「名前は?」
「確か、吉葉とかいったな」
「吉葉晃です」横から篠田が口を入れた。「渋谷の悪ガキ連中の間でも、知れた名前だったようです」
 聞いたとき、俺の頭に閃光が走った。
 昔の記憶。底のヘドロに手をつっ込んだ……一瞬でつかみ出した。ちっぽけ過ぎて、忘れていた。一つの約束。ようやくいまになって思い出した。
 腕が震えた。床に眼鏡を叩きつけた。血走った目を中村に向けた。
「事情聴取は待ってくれ。何も逃げ出すわけじゃねえ」中村の目が先をそくした。「もう一件。ちぃとばかり用があってよ。必ず戻る」
 連絡する、と中村の携帯を聞き出した。まさか、おまえには目星がついてるのか。中村の顔はそう訊いていた。
 黙殺した。
 篠田に向けて、一つだけ、と指を立てた。
「母親に知らせるときは、気をつけてくれ。気の弱い女だ。何をしだすかわからねえ」
 それだけいって、俺は出口へ駆け出した。
 
 車を駆った。山手通り……池袋まで。
 現場に立って三十年。何も悪さばかりしていたわけじゃない。
 頭の中は、冴えきっていた。自分でも恐ろしいほどに冷静だった。
 その昔、誰かがいった。
「山岸。おまえには素質がある。だからあんまり自棄はするなよ」
 俺は答えた。「よく意味がわからないですね」
 本当はよくわかっていた。わかりすぎていたほどだ。
 だが、俺は俺だった。腐って黒ずんだ患部だけを切り落として、他の誰かに変われるはずもなかった。
 ハンドルを切りながら、弘毅のことを思った。ただ、哀れだった。
 ガキの頃から、両親(おれら)の怒鳴り合いの中で育った。
「お父さんもお母さんも、お願いだから……仲良くしてよ」幼い声が、鼓膜の底にこびりついている。俺たちに怒鳴られ、蹴られ、弘毅はいつも泣いていた。
 弘毅が小三になったとき。とうとう母親(あいつ)は逃げ出した。
 残った家族は二人だけ。その俺も、仕事や遊びで家(やさ)にはめったに帰らなかった。それからは、叱ったことも、褒めたこともない。俺は弘毅を黙殺した。置き去りにした。もちろん考えなんてありゃしない。ただ面倒なだけだった。
 当然の成り行きとして、中学入って弘毅はぐれた。まるで俺のガキ時代をなぞるかのように。だが、悪さといっても、せいぜいは喧嘩に万引き止まりだった。
 弘毅はやはり、俺ではなかった。素直で優しい性根だった。何より、心の芯が強かった。弘毅が中三に上がったとき、俺はあいつを子のない親戚へと押しつけた。
 それからの四年間。俺はまったく、弘毅のことを忘れていた。
 親戚には、「この大切な少年期を、母親のいない環境で育てては可哀相だから」と理由づけしていた。歯の浮くような出鱈目。おそらくは弘毅も、親戚を気遣って両親(俺たち)の悪口などはいわないようにしていたのだろう。
 年に数回は、親戚も弘毅の様子を伝えてきた。だが、俺にはこれっぽっちの興味もなかった。セミの鳴き声のように、雨の屋根打つ音のように。俺の鼓膜をすり抜けた。 
 だが、五ヶ月前。「弘毅がね。東大に合格したんだよ」その言葉が、俺を弘毅に引き戻させた。
 俺はただちに算段した。
 いけしゃあしゃあと、学費の援助を申し出た。弘毅は、すべてを失った俺に射した最後の光明だった。
 預けた日以来初めて、俺は弘毅に会いにいった。
 箱入りの万年筆を買って。
「弘毅さん、合格おめでとう」と祝い状を添えて。
 ぬけぬけと弘毅に手渡した。
 眼鏡をかけて、大人びた顔になった弘毅。痩せてはいたが、背は俺よりも高かった。
 あいつは……困惑していた。だが、それを顔を赤らめて恥ずかしそうに受け取った。俺に恨み言をぶつけるでもなく、獲物を狙って現れた嫌らしい父親を非難するでもなく。確か俺に、「ありがとう」と。そういってくれたのだ。
 感動どころか、疑念が湧いた。立場が俺なら、そのペン先を向こうの首に突き刺していてもおかしくはなかった。弘毅が俺を憎まなかったはずがない。だが、あいつは俺を許してくれた。少なくとも、見かけの上では。
 心を逃してなるものかと、俺は足繁く弘毅の部屋へ通った。平然と嘘丸出しの励ましをかけ、狭い懐を精一杯に広げてみせた。
 ある日。あいつは俺にいった。「お父さん。学費のこと。本当にすみません」と。
「僕は本当に感謝しています」と。
 正直に俺はしめたと思った。
 弘毅が母親(あいつ)からも援助を受けている、と聞いたときには、はらわたが煮えくり返る思いだった。何とかこちらへと引き寄せようと、必死の思いで良き父親を演じてきた。
 成果はあった。
 一週前。俺の再就職が決まったとき、弘毅はネクタイをプレゼントしてくれた。「がんばってね。父さん」と、はにかむような笑みを浮かべて。
 そのときだけは、あらゆる打算を抜きにして嬉しかった。
 だが、弘毅は殺された。もう絶対に、謝ることもできない。
 弘毅の父親になって初めて、俺は自分がそれだったことに気づいた。
 
 午後八時……池袋。まばゆいネオンにガキの洪水。商売女(ばいた)どもの嬌声。キャッチの浮かべる汚い微笑み。目に映るすべてのものが吐き気を誘った。ぶち壊したくなるような光景だった。
 車を駅近くのコインパーキングへ押し込んだ。足早に通りを横切った。
 クラブバー「ダウニー」……悪ガキどものたまり場。鉄の扉を蹴り開けた。
 薄暗い店内。紫煙が靄のようにけぶっていた。客の入りはまあまあ。甘ったるい香りが鼻を突く……マリファナに興じる糞ガキども。
 即座に、尖った視線が突き刺さった。舌打ちの歓迎。「帰れ、ハゲ。デブ」と声が聞こえた。完璧に無視をして奥へ進んだ。
 仕切りの向こう。最奥のソファに、見覚えのあるスキンヘッド。女を両腕にふんぞり返っていた。
 俺らは素敵に目が合った。初めに驚き、続いて、ガキの目が剣呑な荒みを帯びた。
「おい関屋、随分景気がよさそうじゃねえか」からでかい声を投げた。単刀直入に訊く。「川島はどこだ」
「うるせえ山岸、いまさら何しにきたんだよ」関屋がファックを突き立てた。「おめえ警官馘んなったんだろうが」
 女を押しのけ、脇へ入った。にっこりと微笑んで……襟をつかんだ。アイスピックをつきたてた。
「てっ、てめえ!」うわずった声。目線の先が浮いていた。
「冷てえじゃねえか関屋。あん?」俺はいった。アイスピックを目元に向けた。「警官やめたら相手にもしてくれねえのか」
「こっ、河野さんが……」
「僕ちゃんを傷つけたら、上のヤクザが黙っちゃいねえってか?」せせら笑った。「残念だなぁ関屋。もう永遠に、大好きなおマンコ、見れねぇんだもんなあ。まあ、メクラの世界も奥が深いってか」
「かわっ……川島なら」口があえいだ。
 俺は優しくうなずいた。
「チームやめたよ。あいつ、ガキができて……女と所帯をもったからって」
「ねぐらはどこだ?」
「麻布だよ……親父の飲み屋を継いだんだ」
 離してやった……お返しに、鉄の頭突きを喰らわした。おまけにボディーへもう一発。
「一つだけアドバイスだ。おまえの女にいっとけよ」いってやった。「おめえら糞ガキなんかが、ガキなんかつくるもんじゃねえってな」
 せきつく関屋に膝を飛ばして、出口へ向かった。
 
 アクセルを蹴る……今度は麻布へ。
 ダッシュボードのデジタル時計……三十分が過ぎていた。
 頭が光速で回転する。焦りが加速にのしかかる。
 吉葉に川島、それに弘毅。中学時代の悪ガキ仲間。
 初めは煙草。続いて喧嘩、セックスに恐喝。古来定まるお手本通り、三人は正道(みち)を踏みはずした。どこの学校にでもいるような悪たれども……非難する気は毛頭ない。昔の俺がそうだった。
 悪ガキ仲間は……もう一人いた。
 四人のボス格……古瀬義明。
 だが、こいつだけは筋金入りの悪党だった。親父はヤクザで、おまけに古瀬の母親まで殺しちまった大馬鹿野郎。不良の世界じゃ立派にすぎるサラブレッドだ。警官仲間に聞いた話じゃ、古瀬は小学校のころからとんでもない悪ガキだった。近所のノラ猫は殺すわ、注意をすれば教師にさえもナイフを向けるわ。いま考えれば、当世流行の異常人格とかいう奴だったに違いない。もっとも、こいつはすべて事件後に俺が聞き知ったことだ。
 弘毅が二年のとき、事件は起きた。
 クラスのガキが、古瀬を刺した。巧みなもんだ。頸動脈を一撃だった。古瀬は五秒でとっ死んだ。
 捕まったガキは、ただちに少年院にぶちこまれた。
 その直前。そのガキは留置所で泣きながら告白した。
 自分は古瀬たちから凄絶ないじめを受けていた。本当は四人全員とも殺す気だった、と。
 ガキは激しく後悔していた。だが、そいつは自分が犯した罪なんかにではない。残りの三人を殺せなかったことに対してなのだと。奴は泣きじゃくりながらそういった。
 なぜ俺がこんなことを知っているのか。答えは簡単。ガキを取り調べたのがこの自分だったからだ。
 俺は訊いた。「四人を殺してどうする気だった?」
「自殺するつもりでした」何の迷いもなくガキは答えた。
「大げさだな、てめえは」俺は笑った。「やり返すにも、他に幾らだってやり用があったんじゃねえか」
 眼鏡のガキはきっぱりと首をふった。初めて請うような目をして、俺にいった。
「僕を、お願いですから、いますぐ死刑にして下さい」
「無理だな」ニヤつきながらそう答えてやった。「俺やおまえがそうしたくっとも、世間にゃあ法律っつうもんがある」
 そのときガキが浮かべたのほど、俺は底の昏い目というものを見たことがなかった。
「まあ、これで人生が終わっちまったわけじゃねえんだ。残念ながら、おめえにも更生のチャンスっつうもんが与えられる。精々真面目にやり直すこった。つっても、おめえの場合は真面目すぎたのが悪かったのかも知れねえがよ」
 それからしばらくの間、ガキはまるで魂が抜け落ちちまったみたいに黙り込んでいた。やがてふっと口を開いた。
「いつか……僕は刑務所を出れるんですね」
 そうだ、と俺はうなずいた。
「そうしたら僕、やっぱり三人を殺してしまうと思う」
 それを聞いて俺は……笑ってしまった。無性にどうしようもないおかしさがこみ上げてきて、終いには大声をあげて爆笑してしまった。
 笑い涙に目尻を押さえて、俺はいった。
「好きにやれよ。そうしたら立派に死刑だわ。もうどうだっていいわ。俺は帰って寝てえからよ」
 ガキは能面のような面をして、俺を見ていた。
 それから、「刑事さん。一つだけ、約束してくれませんか」ぼそりとつぶやいた。
 いってみろ、と俺は顎をしゃくった。そして……ガキは、俺にああいった。
 俺は答えた。
「わかったわかった。約束してやるよ」と。
「おれがおめえを救ってやるよ」と。
  
 その糞ガキのいったこと……一晩寝たら忘れていた。
 その後ガキがどうなったか……考えたこともなかった。
 約束……守れなかった。それが弘毅を殺してしまった。結局は、俺が弘毅を殺したようなもんだった。
 俺の人生……毎日一段ずつ、後悔の階段を降りていくようなものだった。とうとう俺は、行き着く下まできてしまった。これをやったらこうなる。この階段を降り切っちまったら、二度と上へは戻れない。わかっていたのに、自制(と)められなかった。我が身の愚かさ……どれだけ呪っても呪い切れない。
 正面に、麻布の標識が見えた。
 川島の飲み屋……以前に一度、川島たちを子飼いにしていたヤクザ……河野に連れられて来たことがあった。
 予期した通り、前にはパトカーのランプが回っていた。
 
 重い煙草を吐き出した。
 二本目を点けながら、携帯のダイヤルを回した。中村はワンコールでつかまった。
「俺だ。麻布にいる」向こうが口をきく前に、俺は尋ねた。「川島はどうなった?」
「死んだ。同じ手口だ」心得たもんだ。中村は即答した。「犯人は逃げた。だが、目撃者がいる。特徴は……」
「そんなもんはいい。まだ捕まってねえんだな」
 肯定の沈黙。
 俺は頭を巡らせた。あいつは一体どこにいったのか。すべての目的を成し遂げたあいつが、最後にどこへ向かうのか……勘が答えをささやいた。
 じりついた中村が沈黙を破った。「山岸。知ってることを教えろ。おまえはもう……」
 通話をたたき切った。スイッチをオフにして、脇のシートへ投げ捨てた。
 大きくため息をついて、もう一本、煙草をふかした。一吸いでねじ消して、ギアを入れた。
  
 行き先は……葛飾。あいつが必ず向かう場所。
 俺は……頭に何か思い浮かべようとした。ちり一つ浮かんじゃこなかった。
 葛飾警察署……かつての職場。六年前、ここで俺はあいつを。箱崎学を取り調べた。署の二十メーター手前に車を停めた。
 時間は二十三時に近かった。人の通りは極端に少なかった。
 あいつを待つ。真冬の遺体が腐り切るまでのように長い時間。車の中で、俺はひっきりなしに煙草をふかしてはねじ消した。吐き気が寒気に変わる頃、遠くの角に闇より黒い人影が現れた。俺は車を駆け出した。
 俺は、努めてゆっくりと歩いた。向こうから、うつむく影が近づいてくる。異様に鈍い足取りだった。署前を過ぎて三十メーターもいかないところで、ようやく俺たちはすれ違った。
「箱崎……」振り返り、後ろから声をかけた。
 男の背中がぴたりと止まった。痩せた肩。小柄な身体。あいつが振り返るのを、俺は待った。信じられないくらいの長い時間をかけて、男が俺を振り向いた。
 真夏の分厚いライフジャケット。雪より白い、痩けた頬……箱崎。銀縁眼鏡が俺を見上げた。
「悪かったな、箱崎」俺はいった。
 表情はない。眼鏡の奥で、針のように細い目が光った。
「なんで僕を捕まえてくれなかったの? ってんだろ」
 薄い唇の端が歪んで、ぶるぶると震え始めた。
「悪いけどな。もう俺は、警官じゃねえんだわ」俺はいった。「悪さがばれて、馘にされちまった。おまえが俺に捕まるために、この前にどんな悪さをしたのかも知っちゃいねえ」
 箱崎が、微かに口を開いた。「約束は……」
 冬の蚊が鳴くようにみじめな声だった。
「ああ。あの約束な」俺は笑った。「すっかり忘れちまってたぜ。あれ以来、思い出したこともなかっ……」
 いきなりナイフが飛んできた。鈍痛……激痛。突き出した左腕を盾にした。空いた右拳で、渾身のボディーを叩き込んだ。吐くようなうめき声。目の前に上半身がくずおれた。
 楽にはさせない。今度は思い切り股間を蹴り上げた。暗いアスファルトに、くぐもった絶叫が走った。
「いつまでも一人被害者面してんじゃねえぞ糞野郎!」俺は怒鳴った。空いたわき腹に思い切りつま先をぶちこみながら、続けて叫んだ。「わかんのか、てめえにッ! ガキを殺された親の気持ちがわかんのかよッ!」
「やめて……」懇願の声。「……お願いだから!」聞き飛ばした。
「何が約束だ? 何が自分が復讐を始める前に捕まえてくれだ? アホかおめえはよッ!」横から顔面を蹴り倒した。
「おいッ、そこで何をやってる!」
 後ろから、警官の声が聞こえた。だが、俺はその声を聞かなかった。
「おめえによ。俺の気持ちがわかんのかよ……!」
 脇腹に最後の一発をぶち込んだ。一瞬後、腕をとられた。完璧に決められた羽交い締め。もはや俺には、抗う気力も失せていた。意識がすうっと遠くなった。
 俺は顔から地に伏せた……すぐ目の上に箱崎の足が見えた。
 そのとき、誰かが俺にささやいた……もう、おまえなんか死んじまえよ。
 ガキの仇一つとれやしねえおめえなんかに、生きてる価値なんてねえんだよ。
 俺は奥歯を噛みしめた。絞め落とされた闇の中で、首を振った。
 声はなおもこういった。
 ……なあ、どうせおめえに未来なんかねえんだよ。ベタ下り人生もこれで終わりだ。これ以上自分につらい思いをさせんなよ。
 もう一度、おれは大きく首を振った。俺は、俺の心の襟首をつかみ返していった。
 生きてやる。一体これから何があっても、生き抜いてやるよ。おれはゴキブリみてえに地の底を這ってでも生き抜いてやるよ。
 ……また約束か。
 あきれた声が聞こえた。おめえはまた、守れもしねえ約束でもしようってのかよ。
 ああ、約束する。そう俺はうなずいた。だがな。
 今度こそ。今度こそは、絶対に守る約束だ。
 だけどな、相手はおめえなんかじゃねえ。俺は誓った。弘毅にだ。
 おれは誰かに引き起こされながら、俺へと向けてなおも叫んだ。
 父親(おやじ)はな、息子(ガキ)が死んでも、父親(ちちおや)なんだよ。
 せめてもよ。せめてもあいつにだって一度くれえは、立派な父親ってもんを持たせてやりてえじゃねえか。

約束

約束

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-07

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