お前は疲れているのだ
痛々しい表現注意です
お前は疲れているのだ
リックはふと、目が覚めた。ゆっくりと体を起こそうとしたが、体がまったく動かない。どうして自分がここにいるか分からなかった。そしてようやく気がついた。自分が、見知らぬ寝台の上にいることに。
「(そういえばさっき兄上と話していて……)」
そこから、リックの記憶はなかった。それにしても、なぜ体が動かないか分からない。
「エージェント殺しですかね……」
リックは苦笑いを浮かべた。だが、笑っている場合ではない。リックの所持していた拳銃は奪われ、さらには上半身の服を脱がされていた。
「まったく、もうじき冬になるのになぜ上着など脱がすのですか」
独り言をぶつぶつと呟いていると、白衣を着た男がやってきた。
「やっと起きたか。 殺し屋リック・シーゲル?」
聞いたことの無い声だったが、明らかにこの白衣の男は兄ディック・シーゲルその人だった。
「兄上ですよね? 冗談、やめてくれます?」
微笑を浮かべながらリックが問うと、白衣の男はメスを取り出した。手に持つメスは鈍く光る。
「え……? 兄上、じゃないんですか? じゃあ、貴方は一体誰ですか?」
「俺はフリーの殺し屋。名前など貴様に教える義理もない」
白衣の男……殺し屋は、にやりと笑った。どこか、男のダークブルーの瞳が印象的だった。
「つまり貴方は私を殺したい、ということだね?」
殺し屋に遭遇しても、リックはまったく動じない。
「そうだ。俺はディック・シーゲルから貴様を殺すように頼まれただけだ」
「兄上から依頼された? 嘘ですよね?」
少しだけ、リックが身を震わせた。
「嘘では無い。俺はディック・シーゲル直属の殺し屋だ。貴様には悪いが、依頼なんでな。さっさと死んでもらう」
体が動かないリックにもはや、勝ち目はなかった。いくらエスタ最高の狙撃手と謳われていても、体が動かなければ、その異名すら無意味である。
「殺したければ、殺せ。兄上の命なのだろう? 兄上に嫌われてまで生きていたくないよ、私は」
若干だが切なくリックは囁いた。そんなリックの表情を見やった男はにやり、と嫌な笑みを浮かべる。手に持ったメスをリックの心臓めがけて突き刺そうとした。が、
「そんなところで止めないで下さいよ、ほら、さっさと殺して下さい」
男はリックの心臓の直前でメスを止めていた。そして、着ていた白衣を脱いだ。
「あ……貴方は……?」
リックの言葉が、そこで止まった。殺し屋の男……、正体は、リックの双子の兄であり、エスタ大官僚ディック・シーゲルその人だった。
「リック。どうやら私だと気がつかなかったようだな」
ディックは小さく笑った。リックにしてみれば、悔しいばかりだ。
「あー、分かりました。兄上が、私をこの部屋の寝台に寝かせたのでしょう?」
そうなのだ。実は、リックはディックと喋っている途中、背後を取られ手刀を受けていた。いくら安全保障局に勤めるリックでも、空手の有段者であるディックにはかなわない。
「そうだ。意外と隙があったな、リック」
さらにディックは目だけで笑う。
「兄上には直属の殺し屋がいるのですか? 確かに兄上は……、言いにくいですが、エスタの官僚を謀殺しましたよね」
リックは嫌なものを見たような目でディックを見つめた。するとディックは、
「何を言ってる、リック。そんなもの冗談に決まっているだろう? 私直属の殺し屋などいない。手を下すのならば直接私が下す。だが、それは私の意思ではない。エスタのためだ」
「ですが兄上。その手に持っているメスはどう手に入れたのですか? 医師法違反になりますよ」
「ルークのバックパックから拝借した」
ディックはただそれだけを言った。ふと、ディックがリックを見つめた。
「リック」
兄が弟の名を呼んだ。
「なぜ私がこのような行動を取ったか分かるか?」
ディックが若干口角を緩めた。
「そんなこと、知りませんよ」
若干リックの機嫌が悪い。するとディックは寝台に横になっているリックに、
「トリックオアトリート。ハロウィンではないか」
ディックにしては珍しく、にっこりと笑っていた。
「ハ……、ハロウィン? 兄上でもそういうことをするんですね」
小さくリックも笑う。が、
「やりすぎですよ。一歩間違えれば、兄上のメスの餌食になっていました」
はぁ、とため息をリックはついた。だが、ディックは首を横に振った。
「私は決してリックを殺そうと思ってこんなことをやったわけではない。ましてやハロウィンでもない」
すっと目を細めディックが、
「お前は疲れているのだろう? お前の顔色ですぐに分かった。局長にも協力してもらったのだ」
「私が疲れている? そんなことないですよ」
はにかんだような表情をリックは浮かべた。だがディックはしかめっ面をした。
「じゃあなぜただの官僚である私が安全保障局勤務のリックの背後を取れた? 普通ならば私の動きに気がつくだろう? だがリック、お前は気がつかなかった」
「そ、それは……! 兄上が空手の有段者ですからですよ! 私に空手はできません」
「言い訳をするな、リック。いくら私が空手の有段者だとしても、ただの官僚だ。出せる覇気が違う」
そう言って、ディックは大きく首を横に振った。ディックを見たリックが小さな声で、
「ま、まあ確かに最近は仕事がけっこうありました」
素直にリックが言うと、ディックは、
「このまま任務を遂行していたら、確実にお前は死んでいただろう。私は局長から相談を受けていてな。チャンスをうかがっていたのだ」
きっぱりと、ディックが言った。そんなディックからリックはわずかに目を反らした。
「局長まで私の変化に気がついていたのですか。私も表情をうかつに浮かべられないな……」
「まあいい。私がハロウィンというイベントを借りて、お前の体を無理に休ませた。どうだ? 少しは疲れが取れたか? 先ほどルークがお前の体に点滴をした。体が動かないのは、調合した薬のせいだろう」
近くにあった椅子に、ディックは座った。と、そのとき。リックのスマートフォンが音を立てた。が、ディックはスマートフォンを奪い取ると、受信を無理矢理切った。若干腹を立てたリックが、
「兄上。緊急の電話だったらどうするんですか? 局長が……」
そこまで呟いて、リックは、あ、と呟いた。
「局長は仕事を入れてませんでしたね」
「どうせ間違い電話だろう。だから、切った。それより、リック」
真剣な目をして、ディックはリックを見つめた。
「何です?」
「今日一日はゆっくりしろ。頼む、私からの願いだ」
椅子から立ち上がり、ディックは深くリックに頭を下げていた。慌ててしまったリックが、
「あ、兄上! どうか頭を上げて下さい! 兄上の言うとおり、ゆっくりしていますから!」
その言葉を聞いたディックは、ゆっくりと頭を上げた。
「まぁ、今日は体が思うように動かないだろう。私はそろそろ政務に戻らないといけない。帰るよ、リック。ゆっくりしていろよ」
軽くディックは微笑むと、部屋から出て行った。
リックは寝台の上に横になっている。そして思った。
「(兄上……。私のことを、心配してくれてありがとうございます……)」
そして再び、ダークブルーの切れ長の瞳をゆっくりと閉じた。
END
お前は疲れているのだ
ディックさんが言わなさそうな一言「トリックオアトリート」を言わせてみたかったのです。最後になりますが、ここまで読んで下さった皆さん、どうもありがとうございました。