叔父さんへ

 わたしは今、アパートの自室を閉め切って、サティのピアノ曲を聴いています。『逃げ出したくなる3つの歌』と言う曲です。いつか自分が死ぬ時には、この曲を聴きながら死にたいと思っていた曲です。
 お酒も少し飲んでいます。以前何かのお祝いでいただいた、少し高価なシャンパンです。大事な日のためにとっておいたものなので、今日開けました。酔いが回ってこないうちに、早くこの手紙を書き上げてしまおうと思います。
 叔父さん。あなたがこの手紙を読むことは決してないのだと、わかってはいるのだけれど。それでもわたしは、あなたに手紙を残したかった。わたしが生きてきた二十九年と言う時間のなかで、あなただけが、世界でたったひとりの味方だったから。あなたがいてくれたおかげで、わたしはこうして生きながらえてくることができたのだから。
 もう十二、三年も前の話だけれど、ある時どうしても生きていくことに耐えられなくなったわたしは、あなたに向かって「死にたい」と、吐き出してしまったことがありましたね。確か高校に上がった年の、ひどく蒸し暑い夜。母も兄も寝静まった、二人きりのダイニングで。
 あなたは困ったように笑いながら、それでもわたしの言葉を否定もせず、卑下もせず、ただ静かに聞いていてくれました。そうして俯くわたしの手の平に、ちいさな、ちいさな、宝物をくれました。
『ねえ、(きょう)ちゃん。どうしても、どうしても頑張れなくなったのなら。これを一粒飲んでごらん。一粒飲み込めば、たちまち死んでしまえる薬だ。だけど恭ちゃん。本当に、最後の最後に飲むんだよ。いざとなったら、この薬を飲めばいいのだから。なにもかも、意味がなくなってしまった時に。最後に、最後に、飲むんだよ』
 そう言って握らされた銀の包みの錠剤は、お医者さんでもらう風邪薬やなにかと変わらないように見えました。だけどわたしはその瞬間、狂わんばかりに嬉しかった。進めど進めど一向に見つからない出口が、手の平に託されたような気さえしました。
 けれど、それきりあなたは、わたしの前から姿を消してしまいました。再び会うことのできたのは、半年も過ぎてから。わたしのもとに帰ってきたあなたは、どこかで焼かれ、もう人の形をしていませんでした。
 まだ二十四だったあなたの早すぎる死に、誰もがショックを隠せませんでした。親戚たちは『突然死』だの『心不全』だの、なんだかみんな適当に言い回っていました。けれど、わたしは思ったのです。
 叔父さんは、魔法の薬を飲んだのだと。
 最後の最後にあれを飲んで、きっとこんな世の中から、無事に脱出できたのだと。
 それは当時のわたしにとって、なによりの希望であるように思えました。
 それからずっと今日に至るまで、あの薬はかけがえのない、わたしの大事な宝物でした。


 先日、兄が亡くなりました。病死です。もう半年も前から寝たきりの状態だったらしいのですが、わたしはそれを知りませんでした。いいえ、知りたいとも思わなかった、と言うのが正しいのかもしれません。
 兄が危篤だと連絡をくれたのは、姉でした。わたしはそのことにもひどく驚きました。わたしが小学生の時に失踪したまま行方の分からなくなっていた姉が、なぜ今になってわたしに電話をかけてきたのか。そもそもわたしは身内を含む誰ひとりにも、所在を伝えていなかったはずなのに。
 訝しむわたしに、姉は言葉少なに説明をしてくれました。姉が地元へ戻ったのも、つい最近であるらしいこと。そこで兄の危篤を知り、母に代わってわたしを探し始めたこと。あまり時間がなかったので、最後は専門業者の力を借りたこと。淡々と語られる姉の言葉を、わたしはただ呆然と聞きました。
 姉は兄の入院先の病院と自分の連絡先を告げ、電話を切りました。わたしはそれを、メモすることすらしませんでした。兄に会うつもりなど、これっぽっちもなかったからです。わたしの知らないどこか遠くで、兄が死ぬ。そんなこと、わたしは知りたくもありませんでした。死んでいようと生きていようと、わたしのなかに兄の存在を感じてしまうことそれ自体が、わたしにとってはなによりの苦痛であったからです。
 再び姉から連絡が来たのは、それから一週間後のことでした。「(ひろ)くん、死んだよ」と、姉は短く告げました。わたしは耳の奥の方が、キーンと妙に張り詰めて、貧血のような感覚のなかで、ただ姉の言葉を繰り返しました。
 兄が死んだ。兄が死んだ。兄が死んだ。
 叫び出したいほどの解放感のような、(くずお)れるほどの喪失感のような。
 わたしは姉が電話を切るまで、一言も言葉を発することができませんでした。


 兄の通夜は、じめじめとした小雨のなかで行われました。
 わたしは姉に強く勧められ、形ばかりではありますが、遺族として出席することになりました。
 母に会うのも、家を出て以来のことです。母はわたしの顔を見て、なにか言葉を探しているようでしたが、わたしはそれを受け取りませんでした。母はわたしの敵ではなかったけれど、味方にもなってくれない人でした。いまさら母と語ることなど、わたしにはありません。
 通夜には、たくさんの弔問客が来ました。母の会社での立場もあるのだとは思いますが、明らかに兄の友人たちであろう若い男女も入れ代わり立ち代わり姿を見せました。兄は人好きのする性格でしたから、こうして兄を偲んでひとが集まるのも当然のことなのかもしれません。いつもにこにこと笑っていて、分け隔てのないひとでした。けれどそれと同時に、善悪の区別もつかないひとでした。他人との境界を知ることのできないひとでした。傷つくことも、傷つけることも、感じることのできないひとでした。わたしは兄を、ひどく、ひどく憎んでいました。



 通夜を終え、ようやく親戚一同も解散すると言う頃になって、姉がわたしに声をかけてきました。今日はもう遅いから、姉が借りているマンスリーマンションに泊まっていかないかと言う話でした。わたしのアパートは県を二つもまたいだ場所にあるし、実家には絶対に行きたくない。もともと安いビジネスホテルに泊まる予定だったわたしにとって、悪い話ではありませんでした。ただ、十五年以上も会うことのなかった姉と夜を通して過ごすのは、少々面倒なことのようにも思えました。躊躇するわたしを、けれども姉は少しも気にした様子はなく、さっとタクシーを捕まえると、半ば強引にわたしを車内へと押し込んでしまいました。
 姉が住んでいるマンションは、実家から二十分も離れていない住宅街にありました。わざわざ実家とは別に部屋を借りたのには、きっと姉なりになにか事情があるのでしょう。わたしと同じく、姉も十九であの家を飛び出しているのですから。
 シャワーを浴びてリビングに戻ると、姉がわたしを待ち構えていました。わたしに発泡酒の缶を差し出し、晩酌に付き合って欲しいと言うのです。わたしは特に晩酌をする趣味はありませんでしたが、おとなしく缶を受け取り、姉の座るソファーの向かいに腰を下ろすことにしました。
 姉は豪快に発泡酒をあおりながら、他愛のない話をしました。今している仕事のことや、住んでいた町のこと。適当に相槌をうつわたしに、姉は上機嫌で続けました。けれど、不意に言葉を止めたかと思うと、ひどく真剣な声でわたしに尋ねてきたのです。
「恭ちゃん。宏くんがどんな病気で死んだのか、知ってる?」
 わたしはちいさく首を横に振りました。病死と言うことは知っていましたが、それ以上のことは知らなかったし、知りたいとも思っていなかったからです。
 「知りたくもない」と続けたわたしに、姉はぐしゃりと眉根を寄せてから、「聞いて欲しい」とちいさな声で訴えました。「とても大事な話だから」と、泣きそうな声でこぼしました。
 姉は、兄の病名をはっきり口にはしませんでした。ただ、ひどく、おそろしいほど静かに、自分も同じ病気であると、わたしにそう告げました。そして、その病気の感染源が、兄であると言うことも。
 姉の話は、簡潔でした。十九で家を出た姉は、必死に働き、それなりの地位と生活を手に入れていました。けれどもつい半年前、姉は自分の身体の異常に気付きました。病院で検査を受けた姉を待っていたのは、未だはっきりとした治療法の見つからない、ある病の宣告でした。
 死を覚悟した姉は、地元へ戻る決意をしました。死ぬ前にどうしても、会いたいひとがいたのだと。けれども、意を決して訪れた場所で、姉はそのひとの死を知りました。それから、間近に迫った弟の死と、消息の知れない妹のことを、憔悴しきった母親から聞かされたのでした。
 そこまで説明し終えてから、姉はまた発泡酒の缶を一気にあおりました。ぎゅっとつぶった瞼には、涙がにじんでいるようにも見えました。
 わたしには、もう姉の言いたいことがわかっていました。
 姉は、わたしと同じだったのです。兄弟と言う、厄介な皮を被ったモンスターに食い荒らされた、みじめな、被害者のひとりだったのです。
 頑なに兄を拒むわたしの様子に、姉はそれに気づいたのでした。そうしてわたしに、真実を告げる覚悟をしたのです。
 おそらくわたしの身体にも、姉と同じ病のウイルスが存在していることでしょう。あのモンスターがわたしたちに植え付けた、忌むべき不治のウイルスが。



 話し疲れたわたし達は、ひと先ずその晩は眠りにつくことにしました。話したいことは、話さなければいけないことは、まだまだたくさんありました。けれどもそれら全てを語るには、もっともっと多くの時間が必要であることも、わたし達にはわかっていました。
 姉は自分のベッドの横に客用布団を敷いてくれました。姉の隣で眠るなんて、何年振りのことでしょう。わたしはなんだか照れ臭いような、気まずいような気分のなか、おとずれた沈黙に重たい瞼を閉じました。
 最後に、姉はあなたのことを尋ねました。自分がいなくなってから、彼はどんな風に暮らしていたのかと。
 わたしはそこで初めて、姉の想い人が誰であったかに、思い当たったのです。
 幼いわたしは知らなかった。
 あなたが、わたし達の家に頻繁に顔を出すようになった理由も。いなくなった姉の代わりに、わたしの面倒を見てくれていた理由も。深夜、ひどく寂しげな顔をして、ダイニングテーブルにうずくまっていた理由も。
 あの家で、あなたは姉を待っていた。
 わたし達は、あなたに罪を打ち明けられなかった。
 わたしは眠ったふりをして、姉の声には答えませんでした。やさしかったあなたのことを、何も言わず姿を消してしまったあなたのことを、今はまだどんな風に伝えたらいいのか、わからなかったから。
 しばらくすると、姉は静かに寝息をたて始めました。わたしはそれを聞きながら、姉の苦しみを思いました。わたしを置いていなくなってしまった姉のことを、わたしは憎く思っていました。けれども今は、ただ静かに、姉の苦しみに涙したいと、心から思いました。


 叔父さん。わたしは、わたし達は、ずっと兄に虐げられて生きていました。
 今思えば、兄のわたしに対するその行為は、姉が居なくなった直後から始まったものでした。姉に向いていた矛先が、幼いわたしへと向いたのでしょう。十二歳で始まった忌まわしい戯れは、わたしがアルバイトでお金を貯め、高校卒業と同時に家を飛び出すまでの六年間、途切れることなく続きました。
 わたしは、ずっと、生きることが苦痛でした。それは今この瞬間ですら、変わることはありません。兄から逃れ、ようやく自由を手に入れても、わたしはどこか、いびつに歪んだままでした。愛や、喜びや、楽しいといった感情そのものが、わたしにはうまく感じられませんでした。そうして気がつけば、自分が最も忌み嫌ったその行為に、その身を沈めていたのです。
 わたしは、男と言う生き物が嫌いです。普段は涼しげな顔をしていても、頭の中は女とのセックスでいっぱい。生臭い息を吐いて、自分の子種をまき散らすことばかり考えている。わたしには、そんな風に思えてならなかったからです。わたしが自分の人生において唯一安心できた男は、あなたひとりだけでした。あまり認めたくはないのですが、記憶の切れ端すら残ってない『父親』なんてものを、あなたに求めていた部分もあったのかもしれません。
 いっそ憎いとすら思っていた『男』と言う存在と、それでもわたしはときどき寝ました。お金をもらうこともありました。大抵は飲み屋や街で知り合った行きずりの相手で、見た目も歳もみんなマチマチでした。ホテルに連れて行かれることもありましたが、わたしの家ですることがほとんどでした。
 わたしはセックスをした後、必ず気分が悪くなりました。男たちが残していった汚いゴムをつまみ上げ、それをトイレに流してから、胃の中身が空っぽになるまで吐き続けるのが習慣でした。
 そうして全てを吐き出してしまってから、トイレの壁にもたれかかり、わたしは流れていった種たちについて考えました。
 魂は、どの時点で宿るのだろうか。子宮にたどり着くことのできなかった命の種たちは、どこへ流れていくのだろうか。わたしは、なぜ。数億の種たちを押しのけて、そうまでして、なぜ。
 考えれば考えるほど、自分の存在が希薄なものであるように思えました。
 わたしはずっと、生きている心地がしませんでした。こんなに苦しいのならと、何度も何度も自殺を考えました。けれども、そうはしませんでした。あなたがくれた、あの薬があったからです。
 どんなに苦しくても、どんなに辛くても、最後にはあの薬が助けてくれる。だから、もう少しだけ。あと、もう少しだけ頑張ろう。最後には、あの薬を飲んでしまえばいいのだから。死ぬことは、いつだってできるのだから。
 わたしにとって、それは唯一の支えでした。
 死にたいと泣き喚く自分を引き留める、たったひとつの手段でした。
 本当に、あなたのくれたあの薬だけが、わたしにとってはなによりも大切な、かけがえのない宝物であったのです。


 これはもう、わたしの憶測でしかないのですけれど。あなたがわたしにあの薬をくれた時、あなたはもう、自分の病に気づいていたのではないですか。だからわたしの目の前から、突然姿を消したのではないですか。
 あなたがその半年の間、何を思って暮らしていたのかはわかりません。姉のことも、病のことも、あなたがどこまで知っていて、どのように感じていたのかも、今となっては誰にも。
 ただ、あなたは、わたしにあの薬をくれました。
 一粒飲み込めば死んでしまえる薬。あなたがくれた、魔法の薬。
 やさしくて、弱くて、あの家でずっと姉を待っていたひと。いなくなった姉の代わりに、わたしを見守っていてくれたひと。
 あなたは最後に、なんてやさしい嘘をくれたのだろう。


 この手紙を書き始める少し前に、わたしはとうとう、あの薬を飲みました。
 わたしは今日、死ぬのです。そうしてまた明日から、始めてみようと思うのです。
 生きることはこれからも、きっと変わらず苦しいのだろうと思うけれど。それでも、まずはひとつずつ。
 わたしは、やりたい仕事を探してみようと思います。
 疎遠になっていた友人たちに、連絡をしてみようと思います。
 姉と一緒に投薬治療を受けてみようと思います。
 誰かを、信じてみようと思います。
 愛することを、愛されることを、諦めないでみたいと、思います。
 叔父さん。あなたがくれたやさしさが、わたしの身体をめぐっていく。
 わたしは、生きる。
 生きるよ。
 

叔父さんへ

叔父さんへ

一粒飲み込めば死んでしまえる薬。あなたがくれた、魔法の薬。 *** 『わたし』の孤独と苦しみ、そして決意。手紙形式の文章です。

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-30

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