なまえをおしえて

 ぼくの左胸の中に、巣食っている。なまえも知らない、誰か。
 男か女か、物体か細胞か、ぼくのからだの一部か、そうではないか。
 わからないのだけれど、左胸の中の誰かは、ぼくに話しかけてくる。左胸の中の誰かが発したと思しき声は文字となり、ぼくの頭の中に流れ込んでくる。
 こコにィルよ。
 ボくハココにいるヨ。
 書体は明朝体で、ひらがなと、カタカナと、小文字が入り混じった文章が、左胸の奥の方から一文字ずつ顔を出し、筋肉を伝ってか、神経を通ってか、血流に乗っかってか、何らかの方法でぼくの脳へと伝達される。第一人称が「ぼく」であるからといって、男とは限らない。否、ぼくの左胸の中に巣食っているのだから、ぼくの成分の一部、つまり、ぼくである可能性は高いのであるが、どこからか侵入した異分子であることも考えられる。例えば予防接種や血液検査の注射針から侵入した男、学校の水飲み場の蛇口から入り込んできた自分のことを「ぼく」と呼ぶ女の子、息を大きく吸いこんだときに一緒に吸いこんだ何かしらの生物の実体、肉や魚に付着していた何らかの生物の細胞。
 左胸の中のキミは、結構なおしゃべりである。
 きヨゥは、ガッこう、イかなィの?
 ァノこハ、キみと、ドゥぃうカンけいナの?
 ソれ、ぉぃしクナイかラ、タベナイでヨ。
 ぼくの左胸の中に巣食うキミは、ぼくのからだの中に入ってくるものに対して口煩く、拒絶反応を見せるときは左胸の筋肉をぶるぶると震わせてくる。ぼくの左胸の中に詰まっているものを両手でつかみ、縦に、横にと揺さぶってくる感じである。ついでに頭の中に流れてくる文章のカタカナ率が、ふだんよりも高くなる。そういう時、ぼくは左胸を優しく擦りながら、大丈夫だよ、と落ち着かせるのであるが、ときどき気まぐれに、訴えを無視して摂取しようものなら、思わず屈みこんでしまうほどに左胸を痛めつけてくるのである。おそらく小さな子どものように、力任せに拳をどんどん叩きつけているのであろうと思われる。
 キミのこと、左胸をかっさばいて摘み出したいと思うほど嫌いではないが、ぼくではない誰かともわからないものと共存するというのは、なかなかに骨が折れることなのである。

「ねェ、あんたの左胸に、なにがいるの」
 ぼくの前の席の女子が言った。
「あんたの左胸から、声が聞こえる」
と続けて言いながら女子は、自分の左手を天井に翳しうっとりと眺めた。女子の机の上には五分後に始まる数学の教科書やノートではなく、爪を磨くための道具が置かれている。爪切り、爪やすり、透明な液体のマニキュア。女子の左手の爪が艶やかに光っているのを、ぼくは見つめる。なにがいるのか、それを知りたいのはぼくの方だ。
「わからないけど、なにかが棲んでる」
 へェ、と女子は、薄い唇の両角をくいっと上げた。女子は、クラスの女子から嫌われている女子であった。曰く、上から目線なのが腹立つ、校則で禁止されている染髪や化粧を堂々としていることがムカつく、ちょっと美人でスタイルが良くて脚が長いからってえらぶってるのがイラつく、らしいのだが、この女子が誰かのことを意味もなく貶したり、無闇に傷つけたり、危害を加えるような振る舞いをしているところを、ぼくは一度も見たことがなかった。
「わたしのここにも、いるよ」
 女子は自身の右胸あたりを指差して、ぼくを見た。制服のブレザーと、ワイシャツと、下着と、皮膚と、肉と、その奥にある諸々の中に巣食っているものを、女子は愛おしく思っているのか、小動物や弱い者をそっと見守るような、保護欲を孕んだ温かみのある眼差しを見せた。ぼくは、この女子のことが少し好きになり、ちょっとだけ気持ち悪いとも思った。
「なまえ、知ってるの」ぼくは女子に訊ねた。
 ぼくは女子のように左胸の中の、なまえのわからない、正体も知らない何かに、そんな情を抱く境地には達していないのであるが、左胸から強引に追い出そうなどという乱暴なことも考えていなかった。歩み寄れるのならば、歩み寄りたいと思っている。左胸の中の、キミ。
「あんた、知らないの。きいてみれば、教えてくれるんじゃないの」
 左胸に意識を集中させて、こっちから優しく問いかければ大概が答えてくれる。案外さびしがりやだからねと、女子は言った。
 クラスの誰かが、耳ざわりなほど高い奇声を発している。折り重なった大小様々な笑い声が、授業中に澄み切った教室の空気を汚す。ペンケースが派手に床へと落とされる。スマートフォンの操作音が聞こえる。
(なまえを、おしえて)
 ぼくは目を瞑り、左胸の中のキミに問いかけた。
 左胸の筋肉が、幽かに突っ張った気がした。
 心臓の動きが先ほどよりも、穏やかになった気がした。
 制服のブレザーと、ワイシャツと、下着と、皮膚と、肉と、その奥にある諸々の中から温かい水のようなものが滲み出てきたような気がしたと同時に、
「ああ、やっとつながった、ぼくのなまえは、×××です」
という誰かの肉声が、ぼくの耳の鼓膜をからだの中からそっと撫で上げた。
 適度に柔らかくて、甘くて、幸福になれそうなほどの黄色いカステラを思わせる声だった。

なまえをおしえて

なまえをおしえて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-30

CC BY-NC-ND
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