彼女の体温
ママがアタシに教えてくれたことと言ったら、たったひとつで。女でありなさいって、それだけ。
だからアタシはママの言いつけを守って、男へ媚びることばかり覚えてきた。髪の毛はクルクルふわふわの甘い茶色。胸元はわざとらしく寛げて、スカートもうんと短く。リップはウルウル、爪はツルツル。さあ食べて、そんな感じ。
もともとたれ目で泣きぼくろ、胸もお尻もプリプリと膨らんでいたから、アタシはそりゃあもう男にもてた。だけど当然これでもかってくらい女の子には嫌われた。だけどそのどっちもが、私にとってはどうでもよかった。
勢いだけのセックスも、上っ面な友情ごっこもいらなかった。アタシはただ、ただひたすらに渇いていた。欲しい、いらない、欲しい、いらない、の繰り返し。それが苦しいのかどうかすら分からなくなるまで、アタシはただ女であり続けた。それしか知らなかった。
アタシを置いて誰か知らない男かなんかと出て行った女の真似事をすることでしか、アタシは自分の存在を保つことができなかった。
花南、と。名前を呼ばれたような気がしてゆっくりと意識を浮上させると、二段ベッドの上から覗く逆さの瞳と目があった。細い眉毛を釣り上げて、不機嫌そうに口元を歪めている。ああこれは、心配している時の顔。
「……トモ? どうしたの?」
「どうしたのじゃねえよ」
不機嫌あらわな逆さの瞳はギロリとアタシを睨めつけて、起きたアタシに満足したのか、はたまた頭に血が上ったのか、さっと自分のテリトリーへ引っ込んでいった。ボスリ、アタシの頭の上で荒々しい音がする。
「寝言、うるせーんだよ」
「ええ、寝言?」
「なんの夢みてたのか知らねーけど、叩き起こしたろーと思って」
古い二段ベッドの天井越しに聞こえる台詞はひどく乱暴だったけれど、その実すごく優しかった。アタシのことを不器用に心配してくれている。トモは、いつだってそうだ。
「ええ~、そんなにうるさかったあ?」
「そりゃもう、あーあー、うーうー、やかましくて眠れねっての」
「トモォ、それ魘されてたっていうんじゃない?」
「ああ? うるせーことには変わんねーだろ」
なんだか舌打ちでも聞こえてきそうな剣幕だけど、これがトモの通常運転。アタシは心配して起こしてくれたトモに、ごめんねぇ、と声をかけた。トモは応えないけれど、これもいつものことだから気にしない。
「……なんの夢、見てたんだよ」
「んん?」
「起こされついでに聞いてやるって言ってんの」
「ええ~、トモやさしい」
「るせ」
「夢かあ」
「今みてたモンだろーがよ」
「う~ん、そうなんだけど。なんかぁ、忘れちゃった……かも?」
ちいさく、できるだけ自然な音を装って嘘をついた。トモは聡いところがあるから、アタシの下手くそな嘘なんかお見通しかもしれないけど、それでもトモには言いたくなかった。トモを、傷つけたくなかった。
そうはっきりと覚えているわけではないけど、アタシはたぶんママの夢を見ていた。アタシとおんなじ泣きぼくろがあって、大きなタレ目に大きなおっぱい、いつも女の匂いをプンプンとさせていたママ。中学二年の夏の終わりに突然フラリといなくなってしまった、アタシのママ。
もともとアタシにはパパはいなくて、引き取ってくれたママの両親は要介護の高齢で、だからアタシは自分の意思で寮のあるこの学校を選んだ。夏休みにも帰らない。
以前、長期休暇の退寮時期にそんな会話をしたら、トモはひどく傷ついた顔をして、ギュッと唇を噛んだまま黙り込んでしまった。トモがアタシの為に傷つく。アタシはそれが何故だかやけに嬉しかったけど、だけどやっぱりトモが悲しいのは嫌だと思った。だからアタシはそれ以来、ママやママの両親の話をトモにはしないことにしていた。
「……ね、トモ」
「あんだよ」
「そっち、行っていい?」
「ああ?」
「ね、怖い夢をみたの。だから、そっちいっていい?」
「覚えてねんだろ?」
「うん、でも。なんか、こわいから」
「……枕、持ってこいよ」
低いトーンの了承をもらって、アタシは枕片手に自分のベッドを出た。そのままそれをトモのベッドに放って、ギシギシと階段梯子を登る。薄暗い豆電球の明かりだけの部屋のなか、トモはこちらに背をむけるように寝転がっていたけど、それでも半分のスペースをアタシの為に明け渡してくれていた。
「トモ」
ポスリと枕を隣に並べて、トモの側に横たわる。トモは黙って自分の上掛けを半分アタシにかけてくれた。トモの香りが鼻腔いっぱいに広がる。アタシはそれを思う存分に吸い込んで、隣に寝そべるトモの背中にピッタリと張り付いた。
「くっつくなよ」
「うん」
「アチいだろ」
「うん」
そう言って身動ぎしようとする華奢な身体を、ギュウギュウと抱きしめる。アタシとトモの間に少しの隙間も許さないように、身体全体で抱きしめる。
「おい、当たってんぞ」
「あら、当ててんのよ」
「……嫌味かこのヤロー」
「ええ、トモが振ったんじゃん」
「巨乳さまは余裕があるこって」
「こんなの邪魔なだけだよ。これがなかったら、もっともっとトモにピッタリとくっつけるのに」
甘えた声音で囁いて、アタシは汗でほんのりと湿ったトモのうなじに鼻先をすり寄せた。短く切られたストレートの髪が、柔らかく頬をくすぐってくれる。
それからアタシはトモのお腹あたりに回した腕を、そろりとトモのタンクトップの中に忍ばせた。直接さわるトモの素肌はスベスベと気持ちよくて、アタシはトモの痩せた肋骨を確かめるみたいに、何度も何度もそこを撫でた。やめろよ、と言うトモの声がなんだか妙に弱々しくて、アタシはもっと深いところに触りたいと、ギラギラ騒ぐ欲求を抑え込むのに必死だった。
「……お前さあ、そのベタベタと触るクセ、なんとかなんねーの?」
「だって、人肌、気持ちいんだもん」
「だもん、じゃねーよ」
「トモにしか、こんなことしないよ?」
「アタシにもすんなよ」
「えー」
「えー、じゃねーよ」
「トモの体温、気持ちいいよ?」
「おかしな言い方すんなっつの……」
「へへへ」
口では散々言うけれど、トモがアタシをふり払ったりしないのはわかっていた。トモは優しい。なんだかこわくなるくらいに、優しい。はじめてアタシがトモに添い寝してもらった夜から、ずっとそうだった。
アタシはその頃ほんの少しだけ不眠気味で、そのせいなのか、なんだか情緒も不安定だった。トモはそれにすぐ気付いて、まだ大して仲良くもなかったアタシに声をかけてくれた。
不機嫌そうに、不器用に、眠れないのかって言われて、アタシは何かが壊れたみたいにボロボロと泣きだしてしまった。人前で泣くなんてはじめてで、どうしたものかとさらに取り乱すアタシを、トモは黙って抱きしめてくれた。そのままアタシに添い寝して、あやすみたいに背中を叩き続けてくれた。
トモはアタシの背中をゆっくりと叩きながら、トモの姉弟の話をしてくれた。トモは五人姉弟の一番上で、ちいさな頃から弟たちを寝かしつけるのが仕事だったらしい。だから、人を寝かしつけるのは得意なのだと。
アタシはママともほとんど一緒に眠った記憶がなくて、だからはじめて感じる優しい体温と手触りに、どうしようもなくドキドキした。アタシが知ってる体温は、性の匂いをプンプンさせた荒々しいものばかりだったから。だからアタシはトモの優しい体温がくすぐったくて、落ち着かなくて、結局ほとんど眠ることはできなかった。
その日から、トモはさりげなくアタシを気遣ってくれるようになった。うまいメシ食って笑ってりゃあ、そのうち眠れるようになんだろって、アタシの腕を引っ張っては、食堂に、談話室に、アタシを引っ張り出してくれるようになった。
トモのおかげで不眠症は治ったけれど、アタシはその後も時々トモに添い寝をせがんだ。生理がひどくて眠れない夜や、人恋しくてたまらない夜に、アタシはトモにベッドに潜り込んでその体温を抱きしめた。トモは嫌々という態で、けれどもいつだって優しくアタシを受け止めてくれた。
トモの体温にグズグズに溶かされたアタシの世界は、いつのまにかトモでいっぱいになってしまった。嬉しいも、楽しいも、悲しいも、苦しいも、みんなトモへと向かってしまう。トモだけがいればいい。トモだけが、女でないアタシのことを知っていてくれたらいい。
「トモォ」
「なに」
「他のひとに、こんなことさせちゃ嫌だ」
「ああ?」
「トモの体温、こんな風に触らせちゃ嫌だ」
「いや、させねーし。しねーだろ」
「わかんないじゃん」
「わかるよ」
「だって、彼氏……とか。できたら、駄目じゃん。わかんないじゃん」
「……んだよ、それ」
「トモは、トモは、好きなひといないの?」
ちいさく、本当にちいさく息を飲んで、それきりトモは黙りこんでしまった。アタシはその沈黙がこわくて、どうでもいいことを喋り散らしてしまいそうになる。トモ、何か言って。いいえ、言わないで。
トモは言葉を選ぶように何度も口ごもりながら、それでもボソボソと答えをくれた。そんなん、今は興味ねーよ。押しつぶされたトモのやけに低い声を聞きながら、嘘つき、アタシは心の中で血を吐くようにつぶやいた。
アタシはずっと、この学校に入って、トモと同室になって、トモの体温を知って、それからずっとトモのことだけを見てきた。だからその視線の先がどこへ向いていくのかなんて、知りたくなくてもわかってしまう。トモの瞳に熱がこもり、不機嫌そうな表情に明るい色味が浮かぶ瞬間に気づいてしまう。
アタシはいつも先回って、ちいさなトモの恋の芽を摘み取っていった。それはアタシにとってはひどく簡単な作業だった。いつかのママの教えを倣い、うんとうんと媚びを売る。あなたのことしか見えないのと、潤んだ瞳でうったえる。
そうして手元に落ちてきた恋の芽を、アタシは綺麗に摘み取って、遥か彼方に放り投げてやった。身体を繋げて夢中にさせて、あとはひどく捨ててやる。男たちは激昂し、あるいは傷つき、それからアタシに近づかなくなった。アタシの隣で笑っている、トモとも自然と距離ができた。
トモは時々、知らずに散った恋の芽に落ち込んでいたみたいだったけれど、アタシはその分たっぷりトモに愛を注いだ。ワガママだってわかっているけど。恋と呼ぶのもおこがましい、幼い気持ちとわかっているけど。いつか来る終わりの時まで、どうかアタシの世界からトモを奪わないで欲しかった。トモの隣にいたかった。一番近くで、その体温を感じていたかった。優しい、その体温を。
「トモ。トモはさ、すごく優しいから、すごく可愛いから。だからきっと、素敵な彼氏ができるよ。あっという間にできちゃうよ」
「……お前、ひとの話聞いてた?」
「だってトモはあったかいから。すごくすごく、あったかいから。でもね、トモ。素敵な彼氏ができても、急にいなくならないでね? トモの体温、アタシにも時々わけてね?」
今日、アタシはトモの新しい恋の芽を摘み取りにかかった。トモの属するバレー部の、男子部の主将だとか言う無骨な男。いかにも真面目そうなその男は、けれどもアタシに神妙に頭を下げた。アタシがいくら食い下がっても、結局うんとは言わなかった。
アタシは男がトモを見つめる時のその温度が、トモと同じ熱であることに気づいていた。気づいて、いたから。
「……花南?」
「トモ、大好き」
「花南」
「大好き、トモ。ごめんね。大好き」
大好き、と。もう一度だけ続ければ、トモはちいさくため息をついてから、薄いタンクトップの布越しにアタシの手を握ってくれた。アタシは自分のもう一方の手を動かして、その手にさらに指を重ねる。華奢な指先をギュ、と握れば、控えめに握り返される感触。アタシはそれに満足して、ゆっくりゆっくり瞼を閉じた。
ママがアタシに教えてくれたことと言ったら、たったひとつで。女でありなさいって、それだけ。
だからアタシはママの言いつけを守って、男へ媚びることばかり覚えてきた。勢いだけのセックスと、同性からの後ろ指にまみれて。カラッカラに乾いて出口を見失っても、それでもアタシにはそれしか方法が見つからなかった。
だけどそんなカラッポのアタシを、トモは抱きしめてくれた。女でないアタシのことを、無条件で受け止めてくれた。
トモ、トモ。誰かと一緒に眠ることが、こんなに優しいなんて知らなかった。隣に眠る体温が、こんなに愛しいなんて知らなかった。
クルクルふわふわの甘い髪も、寛げた胸もうるうるのリップも、もういらない。アタシはママの呪文を捨てて、こびりついたこの殻を、いつかきっと破くから。
だからどうか、あと少し。アタシのちいさなこの世界が、終わりを告げるその時まで。
どうか側にいさせて欲しい。一番近くで感じさせて欲しい。
アタシの心を見つけてくれた、トモ。
優しいその、体温を。
彼女の体温