カルアミルク飛行

貴方が、私が、君が

 そうきたか。イソギンチャクの触手で正装するとは中々ハイレベルなもんだ。それに加えてゼラチンに似たスカートは上手く濁っていて恥を覆っているのが味があって、もう一つ言うと濁る事でその先が見通せない色相に妙にムカついて。苺ジャムの缶詰に親指を突っ込みたくなる。
 油みその香水を身にまとった男の正面に座った女は「一番最後だと思ったのに」と舌をペロリと見せて言った。そんなもんさ、あいつらは時間を守った試しなんか一度もない、どうせまだ玄関の前に長靴でも並べてジーッと眺めているんだろうさ。

 そこで僕は読んでいた本を閉じた。表紙には『メダカとクマノミ、共に解せぬ』と書いてある。別にこの本は僕自身が面白そうだからって選んで読んでいた訳ではない、サチヨトキツキさんが二日前に読んでいて、へぇこんな本があるんだ僕も読んでみるか、と言った具合で返却された後に手にしただけなんだよ。あっ、サチヨトキツキさんって言う人は今、僕の隣に座ってペラペラと紙を捲っていて顔にカツオノエボシって言うお面を被っているんだ。頭の方は透明なのに髭みたいな青い糸をヒュルヒュルと下に落としていて、ちょっとだけ不気味。そんで鬼才的な内容を好む。サチヨトキツキさんは静かに息をついて席を立って何処かへ去っていった。
 あっ。説明不足だったね、僕がいるテーブルには六人のお面を被った通読者さん達がいるんだよ。僕の正面に座っている瞳が真っ赤で黒い猫のお面を被ったマヤァさん。マヤァさんは青春と挫折を金づちで打って混ぜ合わせた学生の作品を読むのが好きだ。マヤァさんの左に座っているプロパンガスさんはおそらく、自分で描いた可愛い可愛い少女のイラストをお面にして被っていておとぎ話に現実のスパイスを振りかけたストーリーを良く愛読している。サチヨトキツキさんの右に座っている奏さんはのっぺらぼうのお面を被っている、鼻も口も目もなくてただ、「クスクスクスクスクスクスクスクスクス」と静かに笑っている声が聞こえる。奏さんはお笑いと言うかギャグと言うか落語と言うかそう言った類の話のストーリーが好きらしく常に静かなこの図書館で笑うので管理人に叱責されないかとこっちの方が心配になってしまう。最後に僕の右前に座っている、あにくすぃさん。僕が今まで読んだことのない奇妙で奇抜で奇才的な本をどっからか引っ張り出してきて読むものだから僕はひっそりと驚いては、すごいなぁ、すごいなぁって呟く。それで彼(もしくは彼女)が返却した本を借りて読むんだ。
 僕は『メダカとクマノミ、共に解せぬ』の本を読むふりをして、あにくすぃさんが捲っている本の表紙をちらりほらりと見た。『カルアミルク飛行』との題名で、まったくもって聞いたことがない本だ。と、あにくすぃさんは席を立った。どうやら読み終わったらしく、返却しにカウンターへと向かって行く。それに続いて僕も席を立ち、あにくすぃさんの背中を追った。
 ところで、この図書館でどうして皆お面を被っているかと疑問に思うでしょう? いや別にお面を被らないで来てもいいんです。でもどうしてかこの図書館、何時からか分かりませんがこの図書館に来る際にみなさん持参したお面を被って来るもんで、事実、僕も歩道工事していたわきに落ちていた空と橋が描かれたお面を拾い、被って通っているんです。はい。特段として意味はありませんが、見せるのが恥ずかしいんです。素顔をね。ついで、他の皆さん方、わざとなのか男か女かはっきりとしない、中性的な服装をしてきますし、声を発さず、紙切れにペンを走らせて会話をするので謎のベールに包まれているんです。これはきっと新時代の所為で個人個人の自意識が発達しすぎた弊害なのでしょう……。まぁ僕はそれで構わないのですがね。
 取りあえず目の前であにくすぃさんが返却した事を確認して、僕は早速、その『カルアミルク飛行』を借りて席へと戻り、ページを捲る。

 今宵、飛行をする我。だが嗚呼……蝶を見た。その蝶は迷いの森で重力に逆らって舞っていた。私は或る日の事を思い出した。彼女は名を亜里沙と言った。彼女は月ばかりの絵を描いていた。手に届かない満月を桜吹雪と散らして描き、時には枯れた松の枝が丸い月を割って描いていたり、月がカラスのめん玉だったり、そう、亜里沙は夜の海に浮かべた月を好んで描いていた。そして彼女はこの様によく私に言ったものだ「あたしが死んだらあたしの意識は蝶になってヒラヒラと飛ぶの、それは眠った時の夢で子供が将来をお願いする夢と同じなの。それが蝶。紫の蝶」
 私はその言葉を聞いては頷いて亜里沙の透明のグラスにカルアミルクを注いだ。というのは、ここは落ち着いた飲み屋で暖色の明かりが二人を照らしていた。カルーアと牛乳で割ったカクテルは唇をスッとつけて彼女の体内に流れていった。トロトロと、すると彼女は甘い匂いを放った瞬間、小粒の水滴をパシャアンと音を立てて液体になって床に弾けた。私は困惑して、脳髄に恐怖と畏怖が襲う、すると私の周囲で紫色の蝶が飛行していた。
 これが私が生まれて初めて見たカルアミルク飛行であった。

 僕はきりがいいところで、本から目を反らした。そして右前に座っている、あにくすぃさんの方を見た。次はどんな本を読んでいるだろうなぁってね。
『チカチカドンドンパン怪獣がやってきた』

 あっ、僕が昨日読んでた本だ。

カルアミルク飛行

カルアミルク飛行

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-30

Copyrighted
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