檸檬の色

まど

 寒い日が続いていた。その年の十二月は雨が多くて、ただでさえうすら寒い冬の空が、どんよりの雲でいっそうくすんでしまっていた。
昼休みの教室は、決まってクリスマスの話で騒然としていた。私は、今年はどんなプレゼントがもらえるのかしら、とのんびりと考えていたのだったが、クラスメイトの子たちは私の一歩先を進んでいた。友達は教室のスピーカーから流れてくるクリスマスに定番のラブソングに聴き惚れて何やら憧れを抱いている風だし、それ以外の人たちだって、誰とクリスマスを過ごすかという話で持ち切りだ。中学生にもなると、もう小学生と同じではいられないらしい。
難解な言葉の飛ぶ会話についていけず、教室の喧騒から逃げるよう窓の方に目を遣ると、私は一人の男の子を見つけた。彼は私の二つ隣の席に座っていた。くぐもった雲の隙間からわずかに漏れる、透き通った光に包まれながら、ぴかぴかな装丁の本を開いて、愛おしそうにページをめくっていた。
 私は注意深く彼を見つめた。一年間同じクラスにいたはずなのに、私にはまったく見覚えが無かった。無難に整った目鼻立ち、中くらいに伸びた癖の無い髪の毛。あまりの特徴の無さに、私が少し目を離した隙に、喧噪に飲まれて姿が見えなくなるような錯覚さえ覚えた。そんな儚い彼の姿に、なんだか絵になるな、と不思議な感動を味わっていた。最初はそうやって見つめるだけだったが、群衆にぽつりと浮かぶ彼の姿があまりに現実離れしていたので、私の好奇心がどんどん膨らんでいった。
「ねぇ、何の本を読んでるの」
 気付けば、私は彼の隣の席に座って話しかけていた。彼は、ぎょっとした顔で私の方を見た。私はすぐに、失敗したと思った。しかし、彼はこわばった顔を徐々に柔らかくした。
「図鑑だよ。宝石の図鑑」
彼はそう言ってほほえんだ。
「へぇ、男の子なのに珍しいね。面白いの」
 調子に乗って私が続けて聞くと、彼は嫌な顔ひとつせずまた答えてくれた。
「面白いというか、きれいなんだ。ほら、見てみてよ」
 彼は図鑑をめいっぱいに開いて私に宝石を見せた。そこには、カットされて眩しい光を放つすてきな琥珀色が映っていた。私は思わず図鑑にくぎ付けになってしまった。
「トパーズっていうんだ。俺の大好きな宝石の一つだよ」
 私はすぐに彼の名前を聞いた。それから間もなく、私たちは友達になった。
 
 早川春樹。それが彼の名前だった。
 私が春樹くんに話しかけるのは、教室の人が出払って、友達が周りにいない時だった。そういう時に私は安心して彼と話ができた。
 私たちは好きな宝石について話すだけではなかった。園芸植物の図鑑だったり、海中を映した写真集だったり、美術の授業で使う教科書だったり、きれいなものを持ち寄っては、ざっくばらんに話した。私はただ美しいとか、きれいとか言ってうっとりするだけだったが、春樹くんは、その美しさを、詩人のように丁寧にたとえた。しかも彼の表現は、感情をひとつずつほぐして言葉にするように私を納得させた。こんなことは初めての体験だった。
 もう少し仲良くなると、私は自分が美術部であることを告げたりもした。そのことに春樹くんはひときわ喜んでくれた。
「俺は絵を描ける人間を尊敬しているんだよ。自分がてんでダメだからね」
「なんだか、意外。こう言っちゃなんだけど、とても絵がうまそうに見えるもの」
「よく言われるよ。だからこそ憧れを抱いているのかもしれないな」
春樹くんは寂しそうに言って、私をまじまじと見つめた。急な沈黙にどうすればいいか分からずあたふたしていると、春樹くんは気にせず口を開いた。
「よければ、君の絵を見せてくれないか」
 正直なことを言えば、その言葉に私は少し不安になった。しかし、春樹くんの、にこにことした柔和な顔に断りきることが出来ず、私は曖昧な笑顔で了承した。

放課後には、美術室に誰もいないことは分かっていた。だから、春樹くんを連れて入ることになんの怖気も無かった。
 美術室は窓もカーテンも締めきられており、石油と、授業で使ったであろうポスターカラーの絵具の匂いがこもっていた。私はこの匂いが大好きだった。
「それがいま書いている絵かな」
 ロッカーに入れておいたキャンバスを机の上に置くと、春樹くんはたずねてきた。
「そう。静物画だよ。いまは林檎と葡萄を書いてるの。油絵でね」
「すごい上手だ。まるで目の前にあるみたい」
 春樹くんは笑うと、キャンバスに顔を近づけて、かちかちに固まった色を匂ったり触ったりしてみた。それにしても、と春樹くんはつぶやいた。
「けっこう真面目にやってるんだね。正直なところ、美術部って漫画を描いているイメージがあったよ」
「実際は春樹くんの言う通りだよ。今はもう私しかいないから、こんな感じだけどね」
 もともと美術部には私を含めた六人の一年生がいた。美術部の活動は活発ではなくて、三年生には最低限、部長と副部長の役職を持っていた人もいたけれど、幽霊部員になっていたから、私たちが部活動をけん引するようになった。
 美術の先生もわりかしいい加減で、最初の方にデッサンの練習を何回かさせたかと思えば、あとは自由にしてよし、とほとんど美術室には顔を出さなかった。そんな状態では、部活動の大半がおしゃべりになってしまうことは避けられなかった。みんなは漫画が大好きで、華奢でかっこいい男の子を描く以外はずっとその話をしていた。私はおしゃべりが得意ではないから、みんなが話をしている時はずっと絵を描いていた。とても上手とはいえない腕前だけど、絵を描くことだけは昔から好きだった。
 当然のことながら私はみんなから反発を食らうようになった。最初のうちは仲良くしてくれていたみんなは、一人だけいい子ぶろうとして、と私を避けるようになった。果てには、こんな芸術家ぶった絵ばかり描いて、私たちを見下してるんでしょうと言ってくるようになった。そうした批判に、そんなことはないと言い続けたけれど、結局彼女たちはみんな来なくなってしまった。部員として名前は残っているから廃部なんてことにはならなかったけれど、実際活動をしているのは私だけになった。
「女の子ってのは、めんどうなもんだね」
「でも私も悪いと思うから。あんな態度取ってたら、芸術家気取りとか、見下してたって言われても仕方ないかなって」
 そのくせへたくそだし、と私はつぶやいた。乾いた筆の先で、いまいち質感の足りない葡萄をなぞる。私はこの一か月、ずっと葡萄に手を付けていた。
「でも、俺は君の絵が好きだな」
 なんでもないような顔で春樹くんは言った。
「絵のことは良く分からないけれど、俺には、この絵は細かい所までこだわっているように見える。色を何度も重ねて、納得いくまで作っているような、そんな感じ」
「それは、私が下手だから迷走しているだけで」
 臆面もない賞賛に私はしどろもどろになった。
「それでも、俺は君の絵が好きだな」
 念を押すように春樹くんは言葉を繰り返した。キャンバスにもう一度触れて、春樹くんはほほ笑んだ。
「もっと俺に、君の絵を見せて」
 それから春樹くんは美術室に時々顔を出すようになった。春樹くんは何も言わず、ただ私が絵を描くのを見つめているだけだったけれど、彼のあたたかい笑顔の温度が背中に伝わってくるのを感じた。
三月も終わりに近づいて、街に柔らかな春の香りが満ち始めた頃、こうして私たちは、一緒に帰るような間柄になった。

 ひと学年上がって、私たちは同じクラスになった。また、同じ図書委員にもなった。図書委員には月交代の当番制で本の貸し出しの仕事があって、四月は私たちが当番だった。昼休みと放課後に駆り出されたが、図書室にはほとんど誰も来なかった。人のいない図書室は、匂いも空気もふんわりとしていて、驚くほど静かだったから、私たちは落ち着いて本を読むことができた。といっても、私は文字を読むことが苦手だったので、絵のきれいな絵本を読んでいることが多かった。
 図書室では、春樹くんが率先して話をするようになった。春樹くんは本が好きで、その話になるといつもの冷静さが嘘のように、口調が弾んでいた。春樹くんは純文学が好きなようで、聞いたこともない、昔の小説家や詩人を愛していた。それだけでも私はすごいと思った。
「俺は、高村光太郎が好きなんだよ」
 いつか、春樹くんはそう言った。そのとき私は、たかむらこうたろう、と頭の中で発音してみたが、どこかで聞いたことがあるような、無いような、曖昧な響きだった。
「『レモン哀歌』って作品があってね。あれを読んでから、あんなに毒々しく見えていた檸檬の色が、爽やかでどこか儚い色に思えるようになったんだよ」
 小説の話をしている時にも檸檬は出現した。なんとなく、私は文学者というのはみんな檸檬が大好きなのかしら、と思った。袴を着たおじいさんが愛おしそうに、みずみずしい檸檬に唇を寄せる情景がふっと浮かんだ。
 春樹くんが珍しく休みだった日、私は彼から聞いた小説を読むことにした。時には私から本の話をしてみようと思ったのだった。
 春樹くんの声をなぞりながら図書室を歩いて、聞き覚えのあるタイトルを探した。太いのから薄いのまで種類はさまざまだったが、たいていは背表紙が掠れていて、棚から取り出してみると、茶黒く変色したページから乾いたウエハースの匂いがした。私は数冊を慎重にわきに抱えて、カウンターの方に持っていった。
 私は積んだ本を上から読むことにした。しかし私はすぐに眠たくなってしまった。小さな文字の塊が色あせた紙面を覆いつくして、いくら読んでもページが進まなかった。他の本も読んだが、それらも私の関心をあまりひかなかった。国語の教科書に載っているような読みやすい話もあったのだけれど、難解な漢字や言い回しが頻出するようなものもあって、その時はただ、目が紙の上をふらふらと動くばかりだった。そういったものは、春樹くんから聞いたときには分かりやすく思えた作品ばかりだったから不思議だった。
すべての本に目を通し終わった後、春樹くんに感心しながら、同時に複雑な気分になっていた。ここにいてはいけないと誰かに言われたような居心地の悪さを感じて、私は動けなくなってしまった。
 はっとして、私は本を元あった場所にしまい始めた。図書室はしんとしていた。私の汗が落ちる音も、どくどく鳴る鼓動も、聞いてくれる人は誰もいなかった。私ひとりだけがそこにいた。
 私は、春樹くんに本の話をすることをやめてしまった。私はただ、春樹くんが楽しく話しているのを眺めることに決めた。それでも、群青色の感情がじりじりと滲み出してくることには変わりなかった。
 
 図書委員の活動が終わる日、私たちはいつものように帰っていた。毎日帰っていると話すことも次第に少なくなってしまったので、私は春樹くんと喋る代わりに、ぼんやりと空を眺めていた。空色の水に、淡い橙色を溶かしたような、メルヘンな空だった。
 春樹くんも、私に話しかけることはなく、どこか遠くを見据えていた。私は、彼が何を見ているのか、とても気になった。しかし瞳を見ても、眩しい西日がきらきらと映るばかりだった。
「図書委員の仕事、終わったね」
 ふいに春樹くんがつぶやいた。
「そうね、あっという間だった」
「俺は少し長く感じたかな。本を好きに読めるのはいいけど、義務はあまり好きじゃないんだ」
 春樹くんは間抜けな声を出しながら伸びをした。それを眺めながら私は呟いた。
「会う機会も少なくなるね」
「いつも、教室で会ってるでしょ」
 春樹くんはそう言って笑い飛ばした。
「そうだけど」
 私は小さく答えた。
 気付けばいつもの分かれ道に来ていた。田んぼが行き止まりになった、突き当りの道路。きまって私たちはここでさよならをした。
「それじゃあ、ばいばい」
 春樹くんは手を振った。私も手を振り返した。春樹くんは歩きだして、私は歩くことができなかった。ただ、彼の後ろ姿を見ていた。光に包まれて、柔らかい輪郭だけになってしまった彼の姿を。
影が細くなって、ついに立ち尽くした私の影と途切れてしまった時、私の胸に、今まで抱いたこともない強い思いが迫ってきた。帰ってほしくない、もっと、一緒にいたい。感情が確かな言葉になって私の頭にぱっと浮かんだ。
 たまらなくなって私は走りだした。追いつくなり、私は彼の裾を掴んだ。そして、うつむいたまま言った。
「私、あなたの絵を描きたい」
 
 美術室は暗くなっていた。警備員さんにばれないよう、電気をつけることはやめて、夜のわずかな灯りを光源にするのみにした。
 大きな机をどけて、角椅子を真ん中に置いた後、春樹くんをそこに座らせた。
「緊張するね」
 春樹くんは足をぶらぶらさせながらのんきな声で言った。
「緊張しているようには見えないけど」
「してるよ、モデルなんて初めてだからね。だいたい、そんな大層な顔を持っているわけでもないし」
「美男美女だからいいってわけでもないの。そこにいるだけで絵になるような雰囲気を出せる人が、いいモデルの条件」
 先生の受け売りだけど、と付け加えることはしなかった。春樹くんの前で恰好を付けてみたかった。
 今度は姿勢を決める。私は春樹くんにもっとも似つかわしいポーズを考えた。そうして、私は棚に置いた果物のおもちゃ箱から檸檬を探して、彼に持たせた。
「おもちゃだけど、きれいだ」
 彼は大切そうに、檸檬を撫でた。
「目を閉じて、そのまま、唇に寄せてみて」
「こうかな」
 春樹くんは檸檬のおもちゃに軽くくちづけをした。私はびっくりして、そこまではいいよと言おうと思ったが、ひんやりする、と笑う春樹くんを見て何も言えなくなった。私はイーゼルを慎重に動かして、彼の見栄えがもっとも良くなる位置を探した。それから、木炭を手にとって、絵を描く準備に入った。
 情景は素晴らしかった。夜のささやかな光が、檸檬のおもちゃを儚い灯りにさせ、春樹くんの白い肌を透かした。暗闇の中、ぼうっと浮かぶ檸檬の炎。そして、燃やされる唇。私はこの美しい風景を絵に描けることを喜んだ。
 夜に溶けて幽霊のように曖昧な春樹くんの輪郭を、私は木炭で紙に写し取っていく。宝石みたいな睫毛。血管の透けた頬。軽く膨らんだ唇。そこから、わずか覗く濡れた歯。さらさらと、かすかに炭を落としながら私は手を動かす。掠れた線が引かれていく。そのたびに、春樹くんは私のものになる。私はほとんどうっとりしながら絵を描いていた。
 しばらくして、春樹くんは苦しそうに言った。
「まだかかるの。だいぶ手が辛くなってきたんだけど」
「待って、いまいいところだから」
 私は慌てて言った。私はちょうど檸檬を掴んだ指の、骨が張った関節を描いていた。そこは、春樹くんのなかでもひときわ美しい造形をしていた。
「ちょっとでいいから、休憩させてくれない」
 よく見ると、春樹くんの手がぶるぶると振動し始めていた。それでも、私は絵を描き続けたかった。
「辛いと思うけど、もう少しだから」
「いや、もう無理」
 春樹くんは苦笑いをして腕をだらんと下ろした。
「ちょっと、いきなり動かないでよ」
私は声を荒らげてしまった。春樹くんは「そんな大声出さなくても」と驚いたように言った。
「そもそも休憩といっても、まだ二十分も経ってないよ。そんなにきつい体勢じゃないでしょ」
 苛立ちから、きつい言葉を春樹くんに浴びせてしまった。つられてか、春樹くんも少し苛立ち気味に「だからモデルやったことないって言ったじゃないか」と言った。
「だいたい、またすぐに同じ姿勢になればいいことじゃないか。休憩したからって悪いことはないだろ」
「完全に同じ姿勢になれるかどうか、分からないでしょ。細かい部分が変わってしまったら、意味がない」
 私たちの口喧嘩はとどまることを知らなかった。感情が堰を切って口から次々飛び出していった。私たちがいまどのような状況に置かれているのか、私たちは全く忘れてしまっていた。
「おい、だれかそこにいるのか」
ふいにしわがれた声が聞こえてきた。まずいと思った時にはすでに遅く、扉が開いて鋭いとげのような光が私たちを刺した。うっすらと開けた目で白髪としわくちゃな猿のような顔を確認すると、私はうんざりして木炭を床に投げ捨てた。冷たく、木炭の割れる音が響いた。

 筆を油の入ったガラス瓶に入れる。筆は瓶の緑青の中でじわじわと柔らかくなる。使い古しの絵具箱を探って、何色かを手に取る。ホワイト、ブラック、コバルトブルー、レモンイエロー。くすんだ多様な色がこびりついてグロテスクな様相のパレットに、チューブを絞る。艶っぽいがどこか乾いている色の塊がパレットに伸びる。それから筆で絵具をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。筆が十分に色づいたら、私は筆を上げてキャンバスに向ける。筆を恐る恐る付けようとして、少ししてそれをやめる。私はこれを何度も繰り返している。
 こっそり美術部に忍び込んだ日から三日が経っても、春樹くんが学校に来ることはなかった。担任の先生いわく、風を引いてしまって、熱が出ているようだった。お見舞いに行こうと思ったけれど、あの日初めて喧嘩をしてしまったから、合わせる顔が無いように思った。それでも、私は毎日どきどきしながら、春樹くんの机を一瞥してしまっていた。しかし、春樹くんはそこにはいなかった。
 私は、ずっと美術部で春樹くんの絵を描いていた。あの日に描いた線画はとても残念な出来だった。手元がよく見えないまま描いていたからか、線は安定していなかったし、何よりあの美しい造形を何ひとつ表現できていなかった。警備員さんに邪魔をされて途中だった部分を描き足してもそれは変わらなかった。
線画以上に悩んだのは、色を塗ることだった。情景を頭に浮かべながら作ったどんな色も、私を満足させることはなかった。色を混ぜれば混ぜるほど、離れていくような気がした。私はここ二、三日、白黒のキャンバスに、筆を近付けては遠ざけることを繰り返していた。
筆をガラス瓶に突っ込んで乱暴に混ぜて色を落とす。油が汚く濁っていく。私はキャンバスを見つめた。あの日からずいぶんといびつに変わってしまった春樹くんを。私の目からだんだん涙が出てきた。私はついに絵を放り投げた。それで爽快な気持ちになることを信じていた。実際は、かこん、と乾いた音が鳴るだけだった。しばらく、私はキャンバスを失くしたイーゼルの空間を見つめていた。
「いい絵なのに、もったいない」
 いきなり背後で声がして、私は飛び上がった。振り向くと美術の先生が私の絵を拾って、まじまじと見つめていた。
「先生、どうしたんですか」
 私は涙をとっさに拭いて言った。いつも来ないくせに、と難癖は心にしまいこみながら。
「たまには部活動に顔を出さないといかんと思ったんだよ」
 それにしてもずいぶん人が少なくなったな、と先生が部室を見回しながらつぶやいた。あなたのせいですとはもちろん言わなかった。
「一体どんな風の吹き回しですか」
 先生は、いたずらっぽい顔で私を見た。
「警備員さんに怒られるまで、熱心に絵を描いている生徒がいると聞いたものだからね」
 私は絶句した。
「どうして、それを」
「生徒の不手際は指導教員の責任だからね。担任の先生も知っていると思うよ」
 何でもなく話す先生の言葉に私は顔が真っ赤になってしまった。私たちの秘密がこうも簡単に筒抜けになるとは思いもしなかった。私はいっそうあの警備員さんが嫌いになった。
「でもなんだって、こんな真似を。そんなに熱心に描いていたのに」
 心底不思議そうに先生は言った。随分悩んでから私は口を開いた。
「最近、スランプなんです。色を混ぜてみても、欲しい色を作ることができないし。なんか、だんだん、絵を見るのも嫌になってしまって」
「なるほどね、学生らしい悩みだ」
 大仰に肩をすくめて先生は答えた。絵に視線を戻した後、先生はまたいつもの意地悪な笑みを浮かべて、
「ところで、この男の子はいい味してるね。誰を描いているのかな」と言った。
「兄です。いいモデルがいなかったもので」
 私はすばやく答えた。
「なるほどね、学生らしい悩みだ」
 先生はもう一度同じことを言って、今度はにやにや笑い始めた。
「さっきから、なんなんですか。馬鹿にしているんですか」
 先生の態度がだんだん我慢ならなくなり、私は激高した。
「いや、悪かった、そういうつもりはなかったんだよ」
 先生は平謝りも平謝りで何度も頭を下げた。
「なに、僕はね、君の力になれるかなと思ったんだよ」
「どういうことですか」
 筆を投げつけたくなる衝動を抑えて、私はたずねた。
「紹介したい人がいるんだ。時間、空いてるかな」

 先生の車の中は、薄く煙草の匂いがした。カーステレオからは冷たいジャズが流れている。
 先生の車に乗ってから何分かすると、学校のある住宅街から、のどかな田園に変わっていった。私は、窓を開けて、外の風景がゆるやかに流れるのを眺めていた。風を浴びながら風景を楽しんでいたが、どこか遠くから牛小屋の匂いがし始めたので、そっと窓を閉めた。
「きみは、何で絵が好きなんだい」
 信号が赤になった時、先生が私に聞いた。
「よく、分からないです。描いていると楽しいし、うまく描くことができれば嬉しい。ただ、具体的に何が好きって言われると分からないんです。どんなに考えてみても、理由がしっくりと来ないんです」
 私は言葉に詰まりながら、正直な思いをぽつぽつと答えた。
「そっか。僕も、きみぐらいの時にはよく分からなかったな」
 先生はハンドルを指で叩きながら、片手でコーヒーを飲んだ。一口飲むとすぐに信号が青になり、先生は慌ててコーヒーをホルダーに置いてアクセルを踏んだ。
「僕もけっこうスランプを経験したんだよね。そのたびに、本当は絵を描くことが嫌いなんじゃないか、と疑心暗鬼になった。そうなったとき、僕は自分に問いかけ続けたものさ。僕はどうして絵を描くことが好きになったんだろう、ってね」
車は、でこぼこで狭い道を通り始めていた。ざらざらと、砂粒の巻き上げられる音が大きくなる。
「好きって気持ちはとても複雑なんだよ。純粋に明るい感情だけじゃなくて、黒くてドロドロとしたものも混じっている。とてもすべてを言葉になんかできるものじゃない。でも、僕たちは自分に問い続けなくてはいけない。そうやって、僕たちは自分を知るんだ」
 私は、先生の言葉を俯きながら聞いていた。自分の手の、桜色の爪をじっと見つめていた。
それからしばらくして、車は鬱蒼と茂った森の手前で止まった。目の前には、屋根の低い、木造住宅がぽつんと立っていた。どこか埃をかぶったような家で、外装はところどころ塗装が剥げていた。私は、まるで看板のかかっていない、古い駄菓子屋さんか何かかと思った。
家の前には、背の高いお姉さんが立っていた。きれいな黒い髪をお団子にまとめてすっきりとした印象のお姉さんだった。お姉さんは先生を見てほほ笑んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 答える先生に、私はわけがわからなくなって、お姉さんと先生を交互に見た。
「あぁ、言ってなかったね。ここは僕の家なんだよ」
 戸惑う私に先生は口を開いた。
「そして、お店でもある。僕の妻のね」
 お姉さんが私に会釈した。私も、慌ててお辞儀をする。
「この子が、あなたがさっき言ってたお客さんね。考えていたよりずっとかわいい」
 お姉さんは私の髪をやさしく撫でた。
「僕は晩御飯の支度をしておくから後はお願い。終わったら教えてくれよ。彼女を家まで送るから」
 先生は玄関に向かって歩いていった。先生が家に入るのを見届けた後、ついてきて、とお姉さんは歩き出した。
 先生の家の庭は、むしろキャンプ場と言った方が近かった。細長い樹々が立ち並んでいるのを切り開いたであろう土地は、さらさらの土にところどころ柔らかい苔が生えていて、落ち着いた色合いだった。そして、そのまんなかに、小さなログハウスが建ててあった。お姉さんは、その小屋をアトリエと呼んだ。
「私はね、色を売っているの」
 小屋に近づくと、お姉さんが、振り向いて私に言った。
「画材屋さんってことですか」
「ううん、ちょっと違うかな。まぁ、入ってみてよ」
 私は階段を昇って、ドアを開けた。私が思っていた以上に、小屋には物が少なかった。小さな木製のテーブルがひとつと椅子がふたつ。目立つものと言えばそれだけで、あとはテーブルの上に、ハートの形をした可愛らしいパレットが置かれているだけだった。困惑している私を見て、お姉さんはからから笑った。
「驚いたかな。私のお店は、少し変わっててね。お客さんの欲しい色を作ってそれを提供するの」
「どういうことですか」
 まるで想像がつかなかった私に、お姉さんはそうだなぁ、と考え始めた。
「すべての色には名前がついているの。例えば、この色」
 お姉さんは壁をこつんと叩いた。
「この色にはセピアという名前がついている。それだけじゃなくて、他にも無数の名前がついているの。例えば日本語で言うなら暗褐色、カラーコードで言うなら#6B4A2B、という具合にね」
 お姉さんは椅子に座った。勧められるまま、私も座る。
「でも、私、そういうの好きになれなくて。なんだか、縛られてる気がするじゃない。その色がいったいどんな色なのか、だれかに定義された名前を知らなくても、人は色を解釈できると思うのよ。つまり色には、その人の感性によって名付けることができる。その名前こそが本物の名前だと思うの。それで、こういうお店を始めてみたの」
「難しい話ですね」
 小さく相槌を入れた私に、お姉さんは変な話をごめんなさいね、と照れくさそうに笑った。
「簡単に言えば、その人の言葉で、欲しい色を教えてもらうのよ。それを聞いた私がパレットの上にその色を作っていく。簡単そうに聞こえるけど、これが案外難しい。言葉はとても曖昧なものだからね。でもそれを汲み取って形にするのが、私の仕事。渡すのは色の調合法よ。パレットを持って帰らせるわけにはいかないものね」
 お姉さんは、ハートのパレットを撫でて、お気に入りなのと笑った。色はだいぶ褪せて使い込んでいるようだったが、それにしてはあまり汚れていなかった。
「具体的に、どういう風にするんですか」
「まずは、お客さんと話すことから始めるかな。話といっても、趣味だったり、性格だったり、レクリエーションでやるような簡単なものよ。そうやって、その人のことを知っていく。それから、欲しい色を考えてもらう。その時に私は、自分自身の言葉で表現するように、と伝えることを忘れないわ。そうしてお客さんの求めている本当の色を探していく。例えば、他のお客さんは、こんな色が欲しいと言っていたわね。『ひとしきり雨がふったあとの湖の静けさ』色」
 興味を持って私は聞いた。
「それはどんな色に仕上がったんですか」
「『ひとしきり雨が降ったあとの湖の静けさ』色よ」
 お姉さんは、当たり前のことだというように答えた。私は、とても恥ずかしくなって、慌てて別のことを聞いた。
「どのくらいお客さんが来るんですか」
「めったに来ないわね。ほとんど趣味みたいなものだし。それでも、来る人は来るのよ。きっとみんな、知らないところで悩みを持っているのね 
お姉さんは、手を組んで私を見つめた。
「あなたも、何か色が欲しいって聞いたのだけど、どうかしら。ちょっと試してみない」
「でも、私、いま財布持ってなくて」
「夫の口ぶりから察するに、無理やり連れてこられたみたいだから、お金はいらないわ」
 お姉さんは優しく微笑んだ。
「男の人って、いつも勝手だものね。女の子の気持ちも知らないでへらへらしたり、どこそこ連れ回したり」
確か油彩だったかしらね、と言いながらお姉さんはテーブルの引き出しから油絵の道具が詰まった木箱を取り出した。
「それじゃあ、はじめましょうか」
お姉さんは、ハートのパレットに指を入れて、小さな絵筆の穂先を油壷に漬けた。

蝉の声が、どこか遠くから、うっすらと聞こえてくる。ものぐさな入道雲が、水平線にどっかりと寝転んだ空は、ほこりひとつない、純粋な青さで輝いていた。
私は廊下を歩いていた。外はあんなにも眩しいのに、電気のついていない廊下は薄暗くてどこか涼し気だった。私は流れる透明な汗をタオルで拭いながら、美術室に向かって歩く。美術室は、影がもっとも濃くなる、廊下の奥の奥にあった。
がらがら、音をたてて美術室の扉を開ける。私は、休みで誰も来ないのをいいことに、美術室をしばらく私だけのアトリエに変えることにしていた。大きい机はすべて、入室するのに支障のない程度に教室の隅に寄せて、その中心にイーゼルを置いていた。光のよく当たるところに置いたイーゼルは今日もぴかぴか光を反射して神々しかった。
私は、思い切り美術室の窓を開けた。籠っていた熱がじわじわと溶けて、代わりに葉っぱの匂いを乗せた涼しい風が吹いてくる。あちこちに絵具のついた古いカーテンが大きくなびいて、私の頬を撫でた。
どんよりとした熱気が消えるまでしばらく待った後、私はキャンバスに向き合って、イーゼルの下に置いてあった、油彩用の道具が詰まった木箱を取り出す。木箱の奥にはいくつか厚紙がしまってある。それは、お姉さんからもらった、私の色の調合法だった。厚紙には色の名前と使用する絵具の割合が、きれいな字で書いてあった。
私は自分の欲しい色を見つけるのに、ずいぶんと時間がかかったことを思い出した。どんなに言葉を重ねても、私の頭にある色をうまく表現出来なかったので、ついには悔しくて涙が出てきてしまった。お姉さんはずっと、焦らないで、落ち着いて、と優しい声色でなだめてくれた。泣き止まない私を見かねたお姉さんが出してくれたココアの、あの温かい甘みはまだ舌に残っている。
どうにか時間をかけて、私は重要な色を言葉で表現し終えた。「朝に立ち込めるしとやかな霧」色。これは春樹くんの肌の色に。「河原にひっそり落ちているつやつやの石」色。これは春樹くんの髪の色に。「たいせつな宝物をどこかに隠した深海」色。これは春樹くんを包む夜の色に。どれもが、私の絵には欠かせない色彩だった。
私には、まだ使っていない色があった。私は絵具箱から丁寧に、使う絵具を取り出しパレットに絞り出す。私は厚紙に書かれた内容を何度も思い返しながら、注意深く筆を付けて色を作る。
筆を構えて、私はキャンバスの、白塗りの檸檬を優しく撫でた。ここだけは、最後に塗ろうと決めていた。春樹くんの愛する檸檬の色。
慎重に、ゆっくりと、筆を檸檬に近づける。穂先が美しく曲がり、艶めいた色がキャンバスを染める。私は何度も筆を押し付けて、私の温度を檸檬に注いでいく。
「冬の光に染められた、ひときわ輝くトパーズ」色。それが私の名付けた、この色の名前だった。檸檬は乾く間もなく、だんだんと色づいていく。
 私は、今日、春樹くんが図書室にいることを知っている。誰もいない図書室で、彼は本を読んでいるだろう。沈黙に隠れながら、無音に溶けながら。私はそんな彼に不意打ちを食らわせたかった。
 絵を完成させたとして、今日中には絵は乾いていないことだろう。それでも、私は彼に絵を渡しにいく。
 いっそ私は、濡れた檸檬を触ってくれることを願ってさえいる。まだ温かい私の色が、どうか、春樹くんの手も染めてくれますように、と。

檸檬の色

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