おっさんとわたし
わたしが子供の頃から、おっさんはすでにおっさんだった。
働いているのかいないのか――いや、働いてないだろう。無職に違いない。そう断言できるくらい、彼はいつも、わたしの通学路に立っていた。わたしの両親と知り合いというわけではなく、もちろんわたしも知らないおっさんなのだが、小学生のときに挨拶をしてから少しずつ打ち解けて……というか慣れていき、高校に上がった今でもたまに声をかけるくらいには馴染みのある顔となった。
この辺りに住んでいる人なのかなと思い、一度聞いてみたことがある。しかし彼は、ゲラゲラと笑うばかりで答えてくれなかった。大人の事情と言われたら、子供としては引くしかなかったのだ。大人は大人でも、この人はいじわるな大人だ――子供心にそう思ったことがある。
おっさんには特技があった。ボサボサの髪、変な色のタンクトップから突き出す大きなお腹、それらのマイナス点を瑣末なことと思えるくらい、すごい特技だ。
彼は優秀な占い師だった。
占い師なんて言うと、彼は決まってわたしの背中やら肩やらをバシバシ叩き、いつもの調子で大笑いしながら謙遜してみせるけど、おっさんの占い――特に予知は、こちらが本気で引くくらいよく当たった。本気で引いていながらもいまだに交流があるのは、彼に需要があるからに他ならない。需要だなんてドライな物言いだけど、それは彼も大いに心得ているようで、顔を合わせるたびに、「ようマルミ、今日は何か困ったことはねえのかい?」などと軽口を利いてくれる。わたしの名前は毬美なのだが、それを指摘しても一向に聞いてくれる気配がないので、それに関してはもう諦めている。
学校帰り、途中で友達と別れ、わたしはいつもの道を歩く。商店街を抜けた先を右に曲がると、道沿いにちいさな公園がある。すべり台と砂場、ベンチくらいしかない、本当にちいさな公園だ。ちょっと歩けばもっと大きな公園があるため、近所の子供たちはここで遊ばない。そんな閑散とした公園の隅に置かれた、古ぼけた木製のベンチ。今日もそこに、おっさんは座っていた。赤ペンを耳にかけ、イヤホンで何か聞きながら、眉間にしわを寄せて新聞を眺めている。……何をしているのかは大体わかるけどね。
わたしが近づくと、おっさんはようやくこちらに気づいたようで、「おお、マルミか。おっす」と片手を上げて笑ってみせた。
「また競馬?」
「おうよ。今日はなんだか行けそうな気がするんだよなあ」
わたしの問いに、親指を立てて返すおっさん。いつもそう言ってるけど、結局負けてるんだよね。
そのへんも以前聞いてみたことがあるんだ。予知を使えばいくらでも勝てるんじゃないの、と。するとおっさんは黄色い歯をむき出しにして、やっぱり笑った。ばかやろう、私利私欲のためにそんなズルしねえよ――たぶんそれがきっかけだったと思う。わたしが彼を信用するようになったのは。とはいえ小学校の頃の話だ。多少の思い出補正はあるかもしれない。
呆れてため息をつくわたしを眺め、おっさんは突然目を見開いた。
「おっ、マルミ、おめえ近々告られんぞ」
「……は?」
「ふむ、なかなかのハンサムだ。おめえにゃ勿体ねえな。ガハハハ」
「ちょ、ちょっと待って。おっさん、ちょっと待って」
急にそんなことを予告されても、頭の整理が追いつかない。わたしが、あの、え、こ、告られ、る?
そうなのだ。彼の予知は、相手の顔を見て瞬時に未来の情景が浮かぶらしいのだ。今みたいに。だから彼と会うときは、事前にそれなりの心構えをしておかなければいけない。身構えておかなければいけない。なのだが、さすがに今回の予知は寝耳に水だろう。中耳炎を心配するレベルの。
今まで色恋沙汰なんて一切ない学生生活を送ってきたわたしは、自分でもわかるくらい顔を真っ赤にし、慌てふためいた。慌てているのを隠そうと、ふためいた。
しかし次の瞬間、おっさんの顔から笑顔が消えた。なにやら難しい、困ったような顔つきになる。
「……いや、だめだ。やめとけ。そいつに会いに行ったら、おめえ事故に遭うぞ」
途端、肩の力が一気に抜ける。天国から地獄。そりゃないよ……って、ちょっと待って。わたしの脳裏にグッドなアイデアが浮かぶ。
「それってさ、呼ばれたその日会いに行ったらってことだよね。じゃあ別の日なら大丈夫じゃない?」
何かしら理由をつけて当日は断り、その翌日にでも会えば問題ないじゃん。おお、さすか天才、毬美ちゃん。降って湧いたラブを取り逃がすまいと必死だね……って、自分で言ってて情けないな。いやまあいいか。とりあえずこれで事故は回避。
わたしのこれ以上ない打開策に、それでもおっさんは渋い顔をした。ニヒルという意味ではなく、梅干しをまるごと口に放り込んだような顔という意味だ。
「だめだ、マルミ。おれには、それが『いつ』なのかわからねえんだ。おめえが男に呼び出され、ほいほい出かけたところを車とドッカンってのは視える。だけどよ、おれに視えてるのはおめえと車だけだ。それがいつで、どこなのか、そこまではわからねえんだよ」
なんか今、ものすごく物騒な言葉を聞いた気がする。く、車とドッカン?
「……わかった」
唇を突き出して、不承不承、ほんとマジで不承不承、わたしは頷いた。
たしかに恋愛に興味はものすごくあるし、憧れも半端ないんだけど、それでも死んじゃったら終わりだもんね。
「すまねえな」
「おっさんが謝ることじゃないよ。むしろ教えてくれて助かった。リアルな意味で助かったよ。ありがとう、おっさん」
そう言って笑ったけど、うまく笑えた自信はまったくなかった。
それから数日後の日曜日、家の電話を受けた母がわたしを呼びに来た。ニヤニヤ笑いながら、わたしにそっと告げる。男の子から電話よ、と。
来た――ついに来た。
恐る恐る電話に出ると、受話器の向こうから、緊張した空気が伝わってくる。
『あ、あの、オレ、一組の五反田って言います。あの、大崎さんにどうしても伝えたいことがあって……』
とくん――心臓が跳ね上がる。告白されるとわかっていたのに――いや、わかっていたからこそか。五反田くんの声を聞いた途端、わたしは頭が真っ白になる。落ち着け。落ち着くんだ、わたし。かの有名な赤い人もこう言っていたではないか。当たらなければどうということはない、と。
『それでさ、その……、会って話したいんだ。学校の中庭に、今から来てもらえない、かな?』
五反田くんの懸命さを、必死さを感じる。きっと電話をかけるとき、何度も躊躇したんだろうな。コール音が鳴っている間、きっと心臓はばくばくだっただろう。お母さんが電話に出たとき、そしてわたしの名前を告げたとき、口にしたとき、彼はどれほどテンパったのだろう。わたしには経験のないことだけど、それはものすごく勇気のいることだと、なんとなく想像できた。用もないのに警察に電話をかけたら、ひょっとしたらそんな感じなのかもしれない。
おっさん、ごめんね――。
「いいよ。今から行くよ」
ここで五反田くんの勇気を台無しにしたら、わたしはこれからもずっとそういう女なのだろうと思った。それは絶対に嫌だった。
大丈夫、大丈夫。事故る相手が車だとわかっている以上、それだけに注意を払えばいいんだから。何があろうと車には絶対に近づかない。近づきさえしなければ接触することもないんだから。ほら、簡単なことじゃん。
学校に向かうとはいえ、今日は日曜日だ。わざわざ制服に着替える必要はない。手早く身支度を整え、自転車のペダルを踏み込んだ。
幸い、車の数はさほどでもなかった。平日の朝の交通量からすれば、快適そのものだ。軽快に自転車を漕ぎ、もちろん車には細心の注意を払って進む。おっさんと会うと気まずいのでいつもの公園は迂回して、それでも自転車の速さは徒歩のそれと段違いで、あっという間に商店街を抜けた。次の信号を越えれば、もう学校だ。
その信号のある交差点。直進の信号は赤。右側から車が走ってくる。普通に信号直前で止まることもできるが、もし車が暴走してこっちにハンドルを切ったら、と思い、ずっと手前でブレーキをかけた。完璧だ。あとは信号が変わるのを待つだけ――のはずだった。
「あ、あれ?」
ブレーキが効かない。左右両方だ。何度も両手を握るが、ブレーキレバーはなんの抵抗もなく、すかすかと開閉するばかり。やばい――本能的に両足を出し、地面を踏みしめる。しかしそうそうすぐに減速できるわけもなく、わたしは赤信号の横断歩道に躍り出た。右手から車が迫る。運転手のおばさんと目が合い、一瞬、時間がゆっくりになる。車の動きが緩慢になって、視覚意外の感覚が消える。あ、これなら脱出できるんじゃない? と思いはすれど、身体はまるで金縛りにでも遭ったかのように、まったく動こうとしない。
ごめん、おっさん。やっぱりおっさんの言うことは正しかったよ。わたしがどれだけ浅知恵を働かせようと、そのすべての結果を――収束点を、おっさんは視ていたんだもんね。
ぎゅっと目をつぶる。車が迫る。そして接触する――そのときだった。
「マルミいいいい!」
おっさんの絶叫が聞こえ、腰のあたりにものすごい衝撃を受けた。わたしは意識を失った。
目が覚めると、そこは病院だった。ベッドの脇にはお母さんがいて、目覚めたわたしに気がつくと、何度も容態を訊いてきた。
大丈夫? 痛くない? おかしなところはない? ――大丈夫だよ、とわたしは答える。
それは嘘ではなかった。車に撥ねられたにしてはどこもまったく痛みがなかったし、自転車から転倒したときにできた頭のたんこぶが、触るとちょっと痛いというくらいだ。遅れて現れた病院の先生からも、とりあえず今日一日入院して、明日には家に帰ってもいいよとのこと。なんだか嵐のような時間が過ぎ、気がつけばもう夕方だった。憂鬱な月曜日に学校を休める(しかも親公認!)というのは、ちょっとしたラッキーだった。
「それでね、車の運転をしていた人は、あなたが落ち着いてから、また改めて挨拶に来るって」
お母さんの話を聞きながら、わたしは事故の直前のことを思い出していた。
あのとき、たしかにおっさんの声が聞こえた。でも、お母さんも先生も、そんな人のことは聞いていないという。
空耳だったのかな。でも、よかった。人生最後に聞いたのがおっさんの声だなんて、さすがにちょっと笑えない。なんて言うと、おっさんは怒るかな?
かばんに入れっぱなしのスマートフォンには、五反田くんからの着信もメールもなかった。まあ教えてないんだから当然だけど、だからこそ、彼があのあとどうしたのか、それはけっこう気になった。
特にこれといった問題もなく、わたしは翌日のお昼、退院した。
迎えに来てくれたお母さんに、あと一週間くらい学校を休みたいと進言してみたけど、即答で却下されてしまった。というわけで、明日からまた学校で勉強漬けの毎日が始まる。まあしばらくは事故の話題で多少人気者になれるかもしれないから、よしとしておこう。
家に帰り、やることもないので近所をぶらぶらと散歩することにした。今日くらいは家で勉強なんてしたくないしね。
いつもの公園に行くと、そこにはやっぱりいつもどおり、おっさんがベンチに座っていた。わたしを見て、じろりと睨む。
「おうマルミ、おめえ、おれの言いつけを守らなかったな?」
ドスの利いた声。ああ、やっぱ怒ってるなあ。
「うん、ごめんね、おっさん……」
素直に頭を下げると、おっさんは、「まったくだ。一歩間違えりゃ死ぬとこだったんだぞ」とわたしの頭を小突く。
「たっ。痛いよ、おっさん」
「このくらいで済んでよかったじゃねえか」
「殴られなくてもいい未来だってあったと思うよ」
「そんな未来はねえ。あったとしても、それはおれが許さねえ」
「……うん、そうだね。ごめん」
頭をさすりながら言うと、おっさんは急に笑い出した。いつものようにゲラゲラと。
「わかりゃいいんだよ、わかりゃあな。これでおめえもまたひとつ、おれの偉大さに気づいただろうよ。ガハハハ」
両手を腰に当て、思い切りのけぞって笑うそのスタイルは、やっぱり元気そのものに見える。
「ねえ、おっさん。あのときさ、事故に遭うとき、おっさんの声が聞こえたような気がしたんだけど……」
「おうよ、おれが助けたんだから当然だ」
手探り感全開で訊いたのがバカらしく思えるくらい、おっさんはあっけらかんとして言い切った。
「大変だったんだぞ。おめえの身体を歩道側に引っ張ってみたものの、自転車はなかなか止まらねえ。おまけにおれの身体まで車道側に引っ張られちまってよ。おめえと車の間におれが割り込まなかったら、おめえ間違いなくアウトだったぞ」
アウト――その意味を考えると、とても笑えない武勇伝だ。
「え、でも、誰もおっさんを見てないって……」
「さあてねえ。そこまではおれも知らねえなあ」
そう言って、ニヤリと笑うおっさん。
その笑みは、わたしが小学生の頃から知っている、本人曰く『大人の魅力』なる、不敵なそれだった。
「そうだ、あのあと、わたしに告白するって言ってた人、どうなったか知らない?」
「学校に行けばわかるだろうがよ」
「いま知りたいのっ。ついでに、これから先どうなるかも教えてほしい」
まくし立てるわたしに、おっさんはやれやれと眉を下げる。聞き分けのない子供を諭そうとするような――いや、まさにそのとおりの現状なんだけど、ともかくおっさんは言った。
「さあて。わかんねえなあ」
「わからないわけないでしょ。だっておっさんは……」
わたしが言い終わるより早く、おっさんは自分の口に人差し指を当てた。それ以上しゃべるな、と。
「今までどおり、おめえが危ねえってときは助言してやる。でもな、未来ってのは自分で掴みとるもんだ。未来があるからの今じゃない。今を積み重ねた結果が未来なんだぜ」
なんだか格好いいことを言っているような雰囲気だけど、そんなことはわたしも知っているし、納得できない。抗議のひとつもしてやろうと再び口を開くその前に、おっさんは言った。できもしない、不格好なウインクでもって。
「未来はひとつじゃねえんだ。だってよ、マルミ。おめえは今、生きているだろう?」
――その言葉に、わたしはもう、何も言えなくなる。
そうだ。おっさんが視たという、わたしの交通事故。それでもわたしは今こうして生きている。これこそが、おっさんの答えなんだ。……まあ未来を変えたのは他でもない、言い出しっぺのおっさんなんだけどね。
わかったよ、とわたしは笑う。
「どうせ明日からまた学校だしね。直接自分で確かめてみるよ」
「おうよ。それがいいぜ。ガハハハ」
彼には、わたしの未来がどのくらい視えているのだろう。何年先まで、いくつの未来が視えているのだろう。ひょっとしたら、わたしが結婚して、子供を産んで、おばあちゃんになって――そんなところまで視えているのかもしれない。なんだか恥ずかしい気もするけど、それはひとつの可能性にすぎない。未来なんて、いくらでも変えられる。大変だけど、変えられるんだ。
いつか大人になって、他の街に移り住むことになったら、ひょっこりここに顔を出してやろう。そしておっさんを驚かせてやるのだ。なんだマルミ、おめえだったのか。まったく気づかなかったぞ、って言わせてやる。
もちろんそのとき、ここにまだ公園もおっさんも残っている確証なんてないけど、なぜだろう、おっさんはずっとここにいてくれる――そんな気がするんだ。
おっさんとわたし