輪ハ廻ラズ
どうやらもう、自分の人生は終わってしまうようだ――目の前の少年を見つめ、年老いた岩窟はそう悟った。
十才くらいだろうか。年の頃に相応な、かわいらしくやわらかい顔立ち。大きな瞳がこちらをじっと見つめている。黒のTシャツにカーキのハーフパンツはいかにも子供の様相で、それだけであればこの病室に迷い込んだ、どこかの家族の子供だろうとも思えたのだが――問題は、それだけではなかったことだ。
肩に担いだ、身長より大きな鎌。腰には曲刀を帯刀している。よく見れば、その大鎌の柄先は床をすり抜けているではないか。
この世のものではない――なるほど、これが死神というやつか。驚きはすれど、得心もいく。
骸骨の姿でないのは若干意外だったけれど、お迎えという意味ではしっくりくる。なるほどと思わざるを得ない。だが、
「……あんた、死神さんかい?」
改めて死神という名を口にすると、どうにもおかしな気分になってしまう。まるで空想物語の中に入り込んだような、妙な気持ちだ。
少年はにこりと口の端を上げ、「はい」と応じた。
「おっしゃるとおり、ぼくは死神です。よかった、ぼくの姿が見えなかったらどうしようかと思っていたんですよ」
「どうするんだい?」
「姿が見えないってことは、『対象』じゃないということです。それに気づかず魂を狩ってしまうと、死ぬ予定じゃない人間が死んでしまうというので、ちょっと面倒なことになるんですよ。なのでぼくは、相手が『対象』だと確信するまで魂は狩らないんです」
先ほどからじっとこちらを見つめていたのは、自分の姿が相手に――つまり岩窟に見えているか試していたというわけだ。もしあのまま知らない振りをしていれば、ひょっとしたらこの死神の少年はどこか他を当たってくれていたかもしれない。そう考えると、声をかけてしまった自分の愚行にほとほと呆れてしまう。
「自分の身体のこたあ、自分が一番知ってるさ。どうせわしの身体はもうボロボロなんだろう」
岩窟は酒も飲むし煙草も吸う。それも人よりずいぶん多い量をだ。何度医者から叱られようと、これだけは譲らなかった。やめなかった。
「一番知っているというわりには、だろうだなんて言うんですね。まあ身体の中までは見られないですもんね、それは仕方ありません」
そう言って、少年はくすくすと笑う。
「そうです、堀場岩窟さん。あなたはそのボロボロの身体に限界がきて、もうすぐ死にます。ぼくから逃げようとしても無駄ですよ? あなたがどこに、どこまで逃げようと、ぼくはあなたを逃がしません」
「逃げやしないよ。逃げられるわけがない。なぜなら、逃げられない身体だからこそ死ぬのだからね」
「ええ、そのとおりですね」
そこで少年は、すっと目を細める。
「そろそろ時間です」
「ふう……、そうかい」
大きくひとつ、息を吐く。正直、ここまで生きていられたのが奇跡だと思う。身体の上げる悲鳴は、絶叫を通り越し、すでに断末魔となっていたのだ。数年前に妻が先立ってからというもの、たったひとりで生きてきた。自分の生き方に文句を言う者は、言ってくれる者は、誰もいなかった。好き勝手に生きてきたことへの、これは代償なのだろう――いや、ただの結果に過ぎないか。身から出た錆というやつだ。
「なあ、ちっこい死神さんよ。最後にひとつだけ、頼みを聞いちゃくれないか?」
「頼み? 何です?」
よかった。どうやら聞く耳は持ってくれているみたいだ。
「わしにはひとり、娘がいてね。何年も前に結婚したんだ。どうしようもないどっかの馬の骨を突然連れてきて、わたしたち結婚しますときたもんだ。そりゃあ面食らったよ」
当時のことを思い出す。急に結婚を切り出された驚きよりも、そんな男がいたことをずっと黙っていられた、自分だけ除け者にされていた悲しみのほうが、ひどく胸に刺さった。傷ついた。心に大きな傷を負った。だから岩窟は反対したのだ。自分の傷を、怒りで覆い隠すように。友達とけんかして泣いた子供が、防御を捨てて相手に飛びかかるように。
「娘が家を出て行って、もう十年以上になる。それからしばらくして、子供が生まれました、なんていう写真入りのハガキが一枚届いた。娘からの連絡は、それが最後だったよ」
写真を見ても、それが自分の孫だという実感はやはり薄い。ああそうなのかとしか思えない。
「まだ命があるうちに、たった一度でいい。孫に会ってみたいんだ。別に名乗らなくてもいい。遠くから眺めるだけでもいいんだよ。最後に一目、孫を見ておきたいんだ」
あのとき娘の結婚を認めてやれなかった自分の過ちを、たとえ今さらでも、少しだけでも拭っておきたい。ひどい父親だった自分は、自己満足であれど、せめて孫の幸せくらいは祈っておきたいのだ。
だが、死神の少年は、表情を変えることなく、こう告げた。
「あなたのお孫さんは、亡くなりましたよ」
「…………え?」
何を言っているのだ? だって孫はまだ十才くらいだぞ?
「交通事故です」
言葉を探し、口を震わせる岩窟に、死神は言う。
「お友達と遊んでいた際、道路に飛び出したんです。車に撥ねられ、即死でした。お母さん――つまりあなたの娘さんはショックのあまり、今もまだ立ち直れていません。お父さんのほうは、それでも自分たちは生きていかなければいけないので、仕事に復帰しています」
なんということだ……、なんということだ!
生を全うしようというこの時に、こんな大きな穴を心に開けなければならないなんて――。
「親より先に死んだ子供が天国へ行けないのは知っていますか? この世でもわりと有名な説なので、ひょっとしたらご存知かもしれませんが。……ああ、安心してください。だからといって、お孫さんは地獄に落ちたわけではありません。故意の死じゃないですからね。そこはうまいこと調整が入っています」
「調整……?」
「はい。お孫さんは天国でも地獄でもなく、別の門をくぐりました。そこでしばらくお務めをして、それが満了すれば、晴れて生まれ変われます」
この少年の言うことすべてを、ああそうですかと信じることはできない。孫の生き死にが関わっているのだから当然だ。だが、少年のその言葉には、不思議な説得力があるような気がした。
「しばらく……、しばらくって、どのくらいだい?」
「さあて。ぼくには分かりかねますね」
大鎌を担いだまま、少年は器用に肩をすくめてみせる。
「数年かもしれないですし、ひょっとしたら数百年かもしれません」
「……そうかい」
泣かないようにあごを上げたのに、次から次へと涙は溢れ、流れ続けた。
その涙の意味が何なのか、本人ですらわからないというのに。
「じゃあ、いきますよ」
死神が大鎌を振り上げる。刃先が天井をすり抜ける位置で構えると、そこで動きを止めた。きっと岩窟の、最後の一言を待っているのだろう。
岩窟は言った。
「ああ、やってくれ」
その瞬間、鎌が振り下ろされる。
天国にも地獄にも行けなかった孫は、一体どんなお務めをしているのだろうか。せめて苦痛のない、ほんの少しでも笑い顔でいられるようなところにいてくれればいいな、なんて思って。
真っ暗な視界の先で、死神の声が聞こえた。
「ばいばい、おじいちゃん」
輪ハ廻ラズ