幌之森鉄道勤務日誌
〔幌之森鉄道路線図〕
柳河原 やながわら
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浅葉山公園 あさばやまこうえん
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鳥下 とりした
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時雨町 しぐれまち
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鹿瀬 かのせ
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芳見芝浦 よしみしばうら
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白松 しろまつ
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長倉 ながくら
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鷺乃沢 さぎのさわ
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矢堀八幡 やほりはちまん
緩くカーブしたレールの向こうに、眩い前照灯が煌めいた。
午前五時。青いフィルターのかかったような山並みと田園風景の中、盛土の上に敷かれた単線の線路に寄り添うようにして、小さな駅が佇んでいる。
そのホームに、一人の女性が肌寒げに立っていた。
早朝の山麓は晩夏でも冷え込む。祀木望は、白シャツ黒ベストの制服に半纏という格好で、口をほの字にして、腕を抱えて前照灯の主の到着を待っていた。
灯りが近づいてくるにつれて、独特の駆動音が聞こえてくる。
金だらいの中で鉄球をガラガラと転がしているような、望にとっては耳慣れた音。あれは旅客列車ではなく、始発運行前の保線作業に使われるディーゼル機関車だ。
しゅーっ、と 小気味よい音を立てて減速しながら、古びた機関車は構内に入ってきた。かつては客車牽引の任を各地で担っていたが、今となっては運用している路線を見つける方が難しい、DE10形だ。毎朝こうして、始発の柳河原駅の車両基地を出発し、終点まで一駅ずつ停車しながら路線上に異常がないか確認していく。
DEはホームの最奥にいる望の前で止まった。横からだと胴長な「凸」の字のように見える車体は、国鉄時代の朱色ではなく焦げ茶色に塗装されている。
錆び付いた運転席の扉窓から顔なじみの保線員が顔を出した。
「おはよーございます、寒い中ご苦労様ですー!」
「桂さん! どうもー!」
駆動音が随分とうるさいので、二人とも張り気味な声で挨拶を交わす。
「臨時ダイヤ及び運転士の交代なし、終日平常運行です」
「平常運行、了解しました」
「んで、注意事項あり。整備長が、今日は三号車が空調故障だから貼り紙だけお願いとのこと。えーと列番がね、172Yと192Hかな」
「わかりました。前から調子悪かったやつですよね?」
桂の言った列車番号を頭の中で発着表と照合しつつ答える。
「そうそう。まだ今はいいけど、冬までには換装工事だろうねえ。――じゃ、本日もよろしくお願いします!」
互いに敬礼を交わす。電話で言えば済むことなのだが、これも彼が駅員に親しくしてくれている証だった。
唸るモーター音を山あいに響かせながら、DEは次の駅へと滑っていった。
彼に限らず、常連の客や最終列車の運転士など、多くの人がこの駅で望に声をかけてくれる。望がこの駅に赴任してまだ一年ほどであることも大きいが、何よりこの駅の勤務人数のせいだろう。
―――望は、ここに勤めるたった一人の駅員だった。
* * *
「白松駅の祀木です。終発出ました」
二十一時四分。上り――柳河原行きの最終列車を見送った望は、ホーム点検を済ませた後、手動改札にチェーンをかけながら終着駅に電話を入れる。
『はい柳河原駅長、了解しました。終業処理お願いします。お疲れさん』
「そちらこそお疲れ様です、失礼します」
壁に据付になっている電話に受話器を戻し、改札の外に出て切符の券売機から売上金を引き出す。
集金を終えて改札と待合所の照明を落とすと、足元に月明かりで影ができているのに気が付いた。軒下から顔を出すと、満月が他の星を押し退けんばかりの明るさで夜空に浮かんでいる。
幌之森鉄道、白松駅。雨ざらしのホームに古い木造駅舎という、ちっぽけな駅だ。
ちっぽけなのは何もここの駅だけではない。中部地方の片隅を走る全長約三十キロの私鉄、幌之森線の駅はほとんど一、二人しか駅員がいないようなところばかりだ。
さらに言えば、一日の運行本数も九本しかなく、車両はワンマン運転で、乗車率は最大でも五割に届かない。
かつては炭鉱に繋がる路線として栄えたが、戦後の廃坑以来は緩やかながらも衰退の一途を辿っている。つい昨年度にも廃線を同社へ提言する議案が町議会に出され、何とか免れたばかりなのだ。
端的な説明をすれば、幌之森鉄道は地方でよく見られる――ついでに言うと赤字の――非電化ローカル線の一つであった。
「……ふう。よーし、明日が終われば休日だ」
最後に改札脇の柱に貼られた掲示を剥がして伸びをする。貼り紙には、発車時刻とその下に〈上記列車に空調故障〉とある。今朝乗客のために貼ったものだ。
今日は木曜日。土日になれば終着駅である柳河原駅と矢堀八幡駅以外は無人になり、運賃も各駅ではなく車内での収受という、路線バスのような運行形態となる。
普通、駅員というと複数人による交代制が多いのだが、ここの場合は平日五日間が終日出勤になる代わりに、一日の勤務時間が短く、週末二日間が休みとして充てられる形だ。
ここの駅員に就いて一年少々。最近になってやっと、望はまともな休日の使い方がわかってきたところだった。
都会の人どころか田舎住まいの人にすら「なんも無いな!」と言われることもある白松の町。駅前にもほぼ建物が無く、引っ越してきた身である望にとっては当初、相当時間を持て余す場所だったのだ。
それを解決した彼女なりの時間の使い道が、最初は苦手でもあった、人と仲良くなるということだった。
街道沿いの駄菓子屋のお爺ちゃんから、近くの白松山にある神社の巫女さんまで、気付けばこの街に暮らす人々の半数近くが知り合いになっていた。
ローカル線のこんな駅といえど駅員は駅員である。平日は六時台の始発から夜九時の終発まで駅にかかりきりだし、今日のように家に帰るのが面倒で泊まり込みにする日も多い。
それが意外にも幸いして、駅を利用する人達は確実に顔見知りになり、そこから人づてで知り合いは増えていった。
今日は誰々が来た、来なかったと思い出しながら望は貼り紙を丸めてゴミ箱に投げた。ついでに、改札の外にある待合所の吸殻入れも清掃。
「来週辺り白松山神社の例大祭だから……散歩がてら……ん、今週だっけな」
自分の声だけが狭い駅舎に跳ね返る。
一人勤務だと独り言が増える、というのは駅員の間では珍しくない話だ。黙々と仕事をするのもいいが、何時間もそうしていると気が滅入る。一日中となれば言わずもがなだ。
「んーじゃあ土曜日は買い物かー、神社に差し入れかー……」
望はその後も改札脇の駅員事務室に戻って売上の計算や日誌記入をしながら、頭の片隅で土日の予定をあれやこれやとこねくり回していた。
事務室は田舎駅の割には広い。改札の窓口が戸口のすぐ脇にあり、戸口から見て右側に仮眠室とトイレ、シャワー室の扉がある。左側の大きな壁窓からはホームが見え、正面の壁には流し台とコンロと収納棚。そして中央には事務机が二つ(まだ交代勤務制だった頃の名残である)、といった内装だ。
半ば望の別荘になりかけているが、流石に私物をおいそれと置く訳にはいかない。色々な意味で一人勤務に慣れず、たまに様子見に来る柳河原駅の助役に苦笑された思い出がたびたび蘇る。
書類仕事を終えた望は大きく伸びと欠伸をして立ち上がり、事務室を出た。
一日の締め仕事。ホームにもう一度出て異常が無いか確認した後、事務室以外の電気を落とす。
だがスイッチを切ったその時、
「――ん?」
照明が消える寸前に、ホームの上に何か見慣れぬものがあったような、そんな錯覚を覚えた。
嫌だなぁ、と少し気味悪さを感じてスイッチを再び入れると、
「何だね」
出し抜けに何かの声がした。
「うぁゃぁ!」
珍妙な悲鳴を上げて望は飛び上がった。ショートヘアがその後を追ってふわりと揺れる。
――今の唐突な、そして妙に低い声は、どこから。
頭の中で不審者対応マニュアルをめくり、ホーム脇の備品倉庫に飛び込んで雪かきスコップを引っ掴みそいつ目がけて振り下ろすところまで想定した後、望はようやく今つけた照明の下に目を向けた。
そして声の主が、そこにある小さく白いカタマリのようなものらしいということに気がついた。
その白いカタマリは、よく見ると猫であった。
「…………はい?」
どこかその辺の野良猫とは違う、すっと整った佇まい。
首元に風呂敷を巻いて古風な帽子を被せれば旅人に見えるような、動物離れした雰囲気。迷い込んだというより、たった今列車から降り立ったところと言われた方が納得できる。
だが終発の乗降確認は自分自身がホームに立って行なったし、その中にもちろん猫などいなかった。
「何を腑抜けた顔をしているんだ、君は」
またさっきの半分くらいの高さで飛び上がってから、望は疲れ気味の目を擦って、その猫を凝視した。
見る限りスピーカーの類は無し。
手足を吊る操り糸も無し。
故に、猫ではない誰かが代わりに喋っているという可能性も、ほぼ無し。
「え、えぇ……」
溜息と共に、変に脱力した声が漏れる。
最終列車の後、思ったより平然と怪異はやってきた。
五分ほど、未知との遭遇に相応しくぎこちないやり取りをした後、猫はとりあえず寝床をくれと言い出した。
たっぷりと逡巡した後、望はそれを聞き入れた。だが猫のベッドなどここにはない。
「――それにしても随分挙動不審な人間だな……君のような子に駅員が務まるのか?」
駅員事務室でせめてもの代用品を探していると、事務机に飛び乗ってきた猫がぼやくのが聞こえた。
「………」
眉をぴくりとさせつつも望は沈黙を保っていたが、
「机も散らかっている……足の踏み場が無いから明日片付けてくれないか。あとたばこの匂いも少し――」
「うるさいなぁ! 猫鍋にしてやろうか!」
ばっと振り向いて声を上げると、猫は姑のような目つきをして机上の書類を前足で持ち上げているところだった。
幸か不幸か、この非現実の塊たる生き物に対して望は、今のところ恐怖心を抱いてはいなかった。何と言うか、貫禄の見せ方を履き違えたようなこの猫に、そういうものを抱けという方が無茶に思えてくる。
人と仲良くなることが云々とは言ったが、喋る猫と仲良くなるのは想定外だ。
それ以前にまず、仲良くなれるのかという話である。陽気な三毛猫や、いかにもファンタジックなチェシャ猫ならともかく、こんな尊大なやつと。
「……ていうか、ちょっと待って今、〝明日〟って言った? 君、いつまで居座る予定なの」
「ふむ……一応の期限はあるが、気の赴くままに」
それを聞いた望が露骨に嫌そうな顔をしたので、猫は宥めるような口調で付け足した。
「まあそんな顔をするな。こんな身体だが役には立つぞ?」
「はい?」
「世の中には猫駅長なるものもちらほらいるらしいじゃないか」
「うん、無理だと思う」
一応頭の中で猫に被せる駅長帽や市の観光課へのアピールを勘案してやった上で、望は即答した。
「まず駅長はちゃんとした人が終着駅にいるしね」
ローカル線にままある事例として、駅長がごく一部の駅にしかおらず、他の駅の駅長を兼任しているということがある。幌之森鉄道の場合、駅長職が設けられているのは路線両端の矢堀八幡・柳河原の二駅のみだ。
管理職にしては随分人当たりの良い顔をしている矢堀八幡駅の駅長を思い浮かべながら、机の下の段ボール箱に入っていたクッションを引っ張り出す。
「まあとりあえずこれで良いとして。さて毛布はっと……」
予備を当てにして事務室奥の仮眠室に入ると、背後から付け足すように猫が言った。
「そうだ、まず君の名前を聞いていなかった」
何かドラマの初回みたい、と返してから適当な小さい毛布を見つけ、腕に抱えて事務室に戻る。
「祀木望。神様を祀る木って書く。珍しいでしょ」
「神様。ふむ」
納得したのか何なのかわからない返事をしてから、猫はバスケットとクッションと毛布で作った即席の寝床に場所を移した。
「若干硬いが我慢しよう。狭さはなかなか良い塩梅だ」
何やらぶつぶつ言っている猫は気にせず、望は仮眠室前のロッカーを開けて自分の寝泊まりの支度を始めた。
が、制服のボタンを外しかけたところで手を止める。――やっぱりどうにも背後が気になった。
踵を返し、猫をバスケットごと持ち上げて事務室の入り口へ抱えて行く。
「何だ、何をする」
「着替えるから向こう行ってて」
「別に見る気など更々ないし興味もないのだが」
「嫌なもんは嫌なの」
猫の答えは意に介さず、事務室のドアを開けて外にバスケットを置く。
「それに君はもう帰宅するんじゃないのか? 勤務時間は終わったのだろ――」
「泊まり込みすんの! いいから大人しく待ってろ!」
捨て台詞と共に望はぴしゃりとドアを閉めた。
* * *
翌朝。
望は設定したアラームよりいくらか早い時間に、ぼんやりと目を覚ました。いつもと違う何かが、自分の五感のどれかを刺激した気がした。
一人勤務だからと勝手に底増しして、寝心地を改良したベッドから起き上がる。昨晩の奇妙な猫の存在を思い出しつつ、実に何気なく望は仮眠室のドアを開けた。
「おお、早いな」
その一言に合わせてひっくり返りそうになった。
――猫がコーヒーを沸かしていた。猫が。
望はドアを開けた姿勢のまま、開ききって跳ね返ってきたドアにぶつかるまで固まっていた。
「え、はっ、な…何、してんの……」
「見た通りだが」
あまりにも平然とした返答だった。
壁に備え付けのシンクとコンロ一式。猫はその前に持ってきた事務椅子を目いっぱい高くして、その上に二本足で立っていた。
望が呆然と見つめる中、猫はコンロの火を止めると湯の入ったポットを用心深く持ち、椅子ごとくるりと回って後ろの事務机の上に置いた。いつの間に探してきたのか、机の上には既にカップとコーヒーフィルターが準備されている。
「すまないが色々と借りているよ。ちょっと眠気が取れなかったものでな」
そのてんで握力の無さそうな両前足が器用にフィルターの脚を開き、カップの上にそれを載せる。
「いや待って……コーヒー飲むの猫って……」
もっと他に先に突っ込むべき点があったようにも思ったが、頭がうまく働いていないようである。
「まあ、私が好きなだけだ。普通は毒らしいが」
会話が噛み合わないどころの問題ではなかった。
「えっと、いやいやいや、というか、何でまずやり方知ってんのさ! 猫でしょあんた」
「失礼な。私はこの駅のことは何でも知っているよ」
「はぁ……?」
「出発・到着する列車の時刻から担当乗務員、一日の利用客数、駅舎設置からの経過年数、あと会社の主要人事、それから君の前任者……」
いきなり饒舌になった猫は、のんびりと喋り続けながら、寄り目気味にポットを傾けて粉の入ったフィルターに湯を注いでいく。
「あとついでに言えばこの白松という町そのものもそうだ。君が親しくしている神社の助勤の少女も、駄菓子屋の親父も、銭湯を経営している老婦人も知っているよ」
望は呆気に取られていたが、そこではたと我に返って切り返した。
「君が物知りなのはわかったよ。でも私は君のことほとんど知らないんだけど」
昨晩からこいつの素性について、ろくなことを聞き出せていない。
湯を入れ終えた猫は「ふむ」と一言漏らしてからポットを置くと、不自然な二足歩行から戻って座り、こちらに向き直った。
「まあちょっと座りたまえ」
釈然とせず眉根を寄せながら、望は言われた通りもう一つある事務椅子に腰を下ろした。薄い寝間着なので少し肌寒い。
少し思案顔のような表情を浮かべてから、猫は口を開いた。
「――私に関しては、君はそんなに知る必要はないよ」
「勿体ぶっといてそれかよ!」
座ったばかりなのに思わず机を突いて立ち上がる。
「怒るな怒るな」
両前足を上げてなだめる仕草をしてから、猫は続ける。
「とりあえず、人語を解して話したり、コーヒーを淹れたりする以外は普通の猫と同じだと思ってくれていい」
それはもう猫と言えない要素でいっぱいなんじゃないかと言いたくなったが、何とか飲み込んで再び座り、訊ねる。
「何かやましいことがある訳ではないのね?」
「そうだな。……隠し事はあるかもしれんが、それが不義に当たるようなことはない。むろん、君に危害が及ぶようなこともない」
「んー要領得ないなぁ」
思わず額を押さえる。もちろん危害などあっては困るが、じゃあこいつは一体何なんだという巨大な疑問が残り続けることになる。だがこの調子ではそれを問い詰めたところで徒労に終わるだろう。
「目的とかも、ないの?」
聞き方を変えてみるも、返答は似たようなものだった。猫は頷いてみせると、
「君が色々気になるのもわかるが、とりあえず漫画の主人公にでもなった気分で、気楽に接してくれればいい」
「そう……うーん、んー……まあいいかぁ……」
これで万が一祟りにでも遭うようなことがあれば私は一生この選択を後悔するだろうな、と望は思っていた。だがこの飄々とした猫を見ていると、そうそうそんな目には遭う気がしなかったのも事実である。
「ただし。何か変なことでも起きたら、とりあえず放り出すからよろしくね」
「ああ、構わんよ。――っと、そろそろだな」
猫は湯が切れる前にフィルターを外してソーサーに置くと、スティックシュガーを一振りした後、ふうふうと琥珀色の水面を冷まし始めた。
勤務中に列車が来ない間の話し相手にはなるだろう、と思ったのは秘密である。
* * *
幌之森鉄道が一日の中で最大の乗車率になるのが、夕方の時間帯である。白松駅だと、上りの柳河原行きが[一六:五四]と[一七:二四]発、下りの矢堀八幡行きが[一七:一六]と[一八:〇一]発の列車だ。
最大といっても座席があらかた埋まるといった程度だが、ちゃんとこの鉄道の沿線が〝生きている〟と実感できる時間でもある。
そんなささやかな夕刻ラッシュの合間に、望は事務室で一息ついていた。もちろん、改札の外の待合所には誰も客がいないことを確認してだ。
一方、猫には様子見も含めて今日は事務室から出るな、他の人間とは絶対喋るなと厳命しておいたので、これまでのところ特に問題は起きていなかった。
ただ、ホームや改札から事務室に戻る度に仕事や乗客のことをあれこれ聞いてきたり、
「ティータイムか? 私の分も頼む」
こうやって望が紅茶を淹れようとするのを目ざとく見つけて、よそからすっ飛んできたりするのはどうにも癪だった。
悪い奴や迷惑な奴ではないし見ていて飽きないのだが、そこそこの頻度で額に青筋を浮かべたくなるような奴、といった感じである。
「ケーキは無いのか?」
「無いよ!」
カップケーキのように膨らんだ顔をして、望は言い捨てる。
「そう不満そうにするんじゃない。私だって君の要望を聞き入れているじゃないか」
湯がティーバッグをふやかす間、猫は事務机の端にあった空っぽの灰皿を何やら興味ありげに前足で弄んでいた。こうして見ているとまだ普通の猫に見えるのだが、と思う。
「要望も何もここは私の駅だっつの」
案の定だが熱いのは飲めないと猫が言うので、望はティーバッグを長めに浸して砂糖を入れた後、少し水を足して渡してやった。
「本当ありがたいと思ってよね……」
「思ってるさ」
意識の八割はもう目の前の紅茶に向いていそうな声で猫は返事をした。
流石に啜ることは難しいらしい。ぴちゃぴちゃちびちびと紅茶を飲み始めた猫を横目に、望は一口含んでゆっくりと飲み下し長い息を吐く。
「飲み物はいいとしても、キャットフードなんて無いからね?」
「問題ない、自分の食料くらい自分で探すよ」
「でもうちの備蓄食うってことじゃん! それ!」
すると「違う違う」と猫は前足を横に振った。つくづく器用な真似をする。
「君に害が及ぶことはないと言ったろう。そういうことさ」
「どういうことなの……」
問い詰めようとしたところで遠くから踏切の音が聞こえてきたので、尋問は立ち消えになった。制帽を被り直して席を立つ。
事務室を出ると、晩夏ながらまだ生ぬるさをまとった空気が頬を撫ぜた。もう一度、待合所に乗車待ちの客がいないか確認して、ホームへ向かう。
ワンマン運行の幌之森鉄道だが、平日の運賃は一般的な鉄道と同様、各乗車駅で切符購入をするため降車駅の改札で駅員が精算を行う必要はない。
だがこの鉄道は加えてホーム上の安全確認も駅員の仕事になっているので、列車の発着時はホームにいる必要がある。運転士の負担軽減のための施策らしい。
停車標の下に立つと、平べったい風景の中を列車が近づいてくるのが見えた。
白地に青いラインの入った、気動車の一両編成。保線区の整備員が丹念に手入れを続けている、キハ40形だ。後ろ乗り前降りの扉二つと、少し丸みを帯びた車体。恐らく都会の人が想像する〝ローカル線〟に一番近い車種だろう。
ちなみに、一両編成でもダイヤに則って走るので呼称は〝列車〟である。先月も観光で来たという家族連れに「列車って呼び方間違ってないんですか?」と訊ねられ、説明に随分と苦労した。
ホーム端にかかる辺りで列車がぐっと減速し、前面の〈ワンマン〉【柳河原】と書かれた方向幕の下に運転席が見えてくる。会釈をすると運転士も応じて片手を上げた。
列車は甲高いブレーキ音を響かせて停車し、前ドアが開く。
「切符お預かりします」
降りる乗客一人ずつの切符を確認してから通し、それを終えたら腕時計を確認。
「上り、十七時二十四分、定時」
発車時刻を待って、指差しで安全確認を済ませたら、首に提げたホイッスルを短く吹く。
「前よーし」
ドアが閉まる。ブロロロ、と気動車特有のディーゼルエンジンが唸り、列車がホームから滑り出していく。しばし赤い尾灯を見送って、望は事務室へ踵を返した。
だがその時。
「あー待って!」
素っ頓狂な悲鳴が駅の入り口の方から聞こえてきた。
小走りで改札に戻ると、セーラー服姿の少女が走ってくるのが見えた。
「遅かったねえ結衣ちゃん……」
セミロングの黒髪を揺らして膝に手をつき、息を切らす少女に望は苦笑する。
「はあ、じっ、神社に、忘れ物しちゃって」
更科結衣は、毎週決まってこの時間に列車を利用する女子高生だった。
二つ隣の鹿瀬駅が最寄りで、高校に募集が出されていたという助勤のバイトをしに、金曜と土日だけ不定期に白松へ通っている。
巫女服を纏って彼女が働く白松山神社は、ここから歩いて十五分ほどと近いのだが山の中だ。参道の石段を往復するのは流石に骨が折れただろう。
「あー……行っちゃったかあ」
待合所のベンチに倒れ込むように座って、結衣は天を仰いだ。
望はさっき回収した切符を駅員事務室にしまってきてから待合所に戻り、柱に貼られた時刻表を見る。
「まあ、三十分待てばバスが来るよ」
白松駅とその前後数駅は、ほど近いところを県道が通っていて、路線バスもある。幌之森鉄道の乗客減少の一因でもあるバスだが、ダイヤの穴を埋めてくれるという意味ではありがたい。
「でも定期使えないからなー。お金もったいないんですよ」
ぼやきつつ結衣は鞄から水筒を取り出して呷ったが、中身はもう切れていたらしくしょぼくれて蓋を閉める。
「……じゃあ次の列車待つ?」
にやりと笑ってやると、
「それはない!」
再び結衣はひっくり返った。
次の上り列車は二時間後――十九時三十四分発だ。待合所の硬い木製ベンチで座り続け、尻を痛めるには充分過ぎる時間である。
「ならバス乗るっきゃないなぁ」
「うわーん! せっかくたった今稼いできた給料が!」
結衣はこんな風に、ざっくり言えば、ちょっと抜けた感じのところがあった。今年の四月、こうやって彼女が列車を逃したのをきっかけに知り合い、助勤のバイトを始めた訳を聞いた時「巫女さんの服、着てみたくて」と軽薄な声で笑った顔もよく覚えている。
少し天然ぼけの混ざった子だが、素直で好感の持てる女の子だった。そして何より、常連の利用客の中で恐らく一番望と年齢が近いので、話しやすいという意味でも貴重な相手であった。
そんな知人――友人と呼べるか否かの判断は、まだできていない――に、望は一つ救済をくれてやろうと思い立つ。
「じゃあ、そんな不憫な君にお姉さんが飲み物でも入れてあげよう」
「やった」
事務室に戻りながら、後ろの待合室へ声を投げる。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「コーヒーで!」
「はーい」
事務室では猫が机上で首を傾げていた。「知り合いだよ」と小声で答えつつ、コーヒーフィルターの用意をする。さっき紅茶を淹れた時のお湯がポットに残っていたので、少し温め直してから机に移した。
ところが、箱からフィルターの小袋を取り出したところで、たし、と何かに引き留められる感触があった。
見ると、二つの白いふわふわの前足が小袋を挟み込んでいる。
「……何のつもりですか猫さん」
「………」
喋るなと言われているからか、猫は黙ったまま首を左右に振る。だがその意思は火を見るより明らかだった。
「君に止める権利ないと思うんだけど」
また猫は左右に振る。そんなにコーヒーが好きか。
彼奴の掴んでいるフィルターの小袋も左右に振ってみるが、ふわふわの毛が揺れるばかりで前足は離れない。
「大人げないぞこの変人猫め」
「えっ、猫!」
あ、しまったと思った時にはもう結衣が事務室の戸口にいた。
「わあ、いつの間に飼ってたんですか祀木さん」
「飼ってるんじゃないよ、居候だ居候」
そう言いながら、喋ったらバター猫みたく振り回してぶん投げるよ、という脅迫を込めて猫を睨む望。ちなみに動じる様子は一切ない。
そんなやり取りには気付かず、
「めっちゃ可愛い! すっごい綺麗な毛並みしてますね」
結衣は好奇心を滲ませて猫をまじまじと見ていた。
きっと、彼がお手でもしているように見えたに違いない。往生際悪く、愛しのコーヒーを逃すまいと縋りついているだけだとは露とも思っていないだろう。
「君も幸せ者だね全く……ほれ離せ、これはあの子に出すんだよ」
溜息交じりにもう一度ぐいと引っ張ると、名残惜しそうに猫は小袋を手放し――否、足放した。
ところが、猫はそれから机を降り、戸口へと向かっていく。
「ちょっと、外出ちゃダメだって!」
慌てて声を上げると、猫は望を振り返りじっと目を合わせてきた。すぐに理解する。コーヒーを渡す代わりに事務室から出させろ、ということか。
仕方なく許すも、その後猫はふて腐れて家出をするかと思いきや、待合所のベンチに飛び乗り寝転がった。案の定、歓声を上げた結衣が横に座って、猫の背中をつんつんと触り始める。
「あーそれが狙いかこの猫かぶりめ……」
望は、目を細めて満足げに頭を撫でられる猫を尻目に、眉をひくつかせながらフィルターの小袋の封を切った。
「――ほら、今週末に例大祭あるじゃないですか。今日それの準備だったの」
結衣は受け取ったコーヒーを啜り、「ふぃ~」とご満悦な表情を浮かべてから言った。
「そっか、あぁそれで」
望は答えつつも、結衣の隣でその体毛よりも白々しく前足を舐めている猫のことが気になって仕方なかった。先ほども、文字通りの猫撫で声で女子高生の膝に丸まっているのを見た時は、猫がただのエロ親父に思えてならなかった。
だが今結衣の言った例大祭に関しては、前々から考えていたのも事実だ。
「せっかくだし、私も行ってみたいんだよね」
「おぉ、来ましょうよ! 私は舞いとかやらないけど、お手伝いに出てるんで会えますよ。せっかくだから巫女服見て欲しいし」
嬉しい誘いだった。自然と頬も緩む。ようやく、友人らしい約束を取り付けられただろうか。
「じゃあ……行かせてもらうよ。結衣ちゃんが良ければ」
「もちろん! 遠慮はいりませんよ、何なら祀木さんも浴衣で来れば?」
「そりゃないよ!」
思わず笑い合う。
薄橙の斜陽が、焦げ茶色の板壁に微かに色を足している。バスが来るまでの間、その色が少しずつ、気付かないくらいの速さで濃くなっていく。そんな光景の中で咲く鮮やかな結衣の笑顔は、優しく望の心に染み込んでいくようだった。
* * *
金曜最後の列車を見送り、終業処理を済ませた後。望は白松駅を離れ、一人で夜道を歩いていた。
ちなみに猫は事務室に置いてきている――留守番を断られなくて良かった。
どこか上機嫌で歩く望は私服で、着替えと財布だけ入ったショルダーバッグを掛け、黄色いプラスチック製の風呂桶にタオルと洗面用具を突っ込んで抱えている。
それはどこからどう見ても、銭湯へ出かける格好だった。
駅から県道と反対側の方に歩いていった所に、十分ほどで着く小さな銭湯がある。
白松の駅舎には、浴室がない。トイレと一体型の簡易シャワー室はあるが望はこれが気に入らず、週に二、三日はここに通うのが習慣になっていた。
「こんばんは、佳子ばあちゃん」
「はいいらっしゃい」
郷愁を誘う古風な木造建築の戸を開けると、小柄な老婦人が番台から声を返した。
直江佳子――白松に来て望が最初に仲良くなった人であり、もう今年で喜寿か傘寿だという歳だ。ここに赴任してすぐの頃も、何度世話になったかわからない。
この女将は、閉店時刻を過ぎている今の時間になっても、一日の業務を終えた望がやってくるまで湯を残しておいてくれる。
なるべく手間をかけさせないようにと、望も行く日は事前に電話を入れておくようにしていた。そしてもちろん入浴料も支払うのだが、それも彼女は「清掃中って扱いだから構わないよ」と言い、受け取りはするが風呂上がりには代わりに瓶牛乳かサイダーを一本渡してくれるのだ。
夫を早くに亡くしていながら、佳子という人物は実に人情味に溢れる女性だった。
もう空っぽになっている靴箱に靴をしまってから、小走りで番台へ。財布を取り出し、カウンターに置かれたトレーに小銭を載せながら、時計を一瞥して謝る。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」
「気にせん気にせん、お湯あっためてくるからちょっと待っててな」
そう言うと佳子は、望の置いた入浴料はやっぱりそのままにして、番台の奥にある暖簾の向こうに消えた。彼女を待つ間、手近なソファに腰を落ち着ける。
番台のある待合室は古旅館の談話室のようで、毎度ちょっとした温泉旅行に来たような気分にもなる。合皮のマッサージチェアに、ガラス張りの冷蔵庫に入った瓶牛乳、壁に備え付けの扇風機、青赤二つの暖簾に、昔ながらの格子天井――。
いつもバスタオルを入れて持ってくる黄色のケロリン桶も、ここの常連になって以来借りっぱなしのものだ。
だがその時ふと、望は妙にそのタオルのかさが大きいことに気が付いた。
間違ってタオル二重に持ってきちゃったかな、と思った次の瞬間、その中から突如白いカタマリが飛び出したので望は卒倒しそうになった。
言うまでもなく、留守番をしていたはずの白猫である。
「ち、ちょっと、何でいるの!」
小声で怒鳴りながら、ソファに上がってきて「ふう息苦しかった」などとのたまっている猫をすかさず鷲掴みにする。
「何をするんだ放してくれ」
「こっちの質問にまず答えろあほ!」
「なに。留守番もいいが、やはり風呂には浸かっておきたいと思ってな」
両脇を掴まれて宙ぶらりんだというのに、猫は尻尾を揺らして呑気に答えた。
「動機を聞いてんじゃないっつの! あんた事務室に置いてきたはずじゃん!」
「ん? いや、私が桶の中に潜り込んだ時に君が目を離していただけだろう」
……何が疑問だと言わんばかりの表情だった。
思わず絶句して打ち震えていたところに、佳子が戻ってきてしまった。
「お待たせ望ちゃん……ありゃ、いつの間に猫を」
「ご、ごめん! 勝手についてきたみたいで。すぐ外に出しとくから」
「ああいい、もう望ちゃんで最後だし構わないよ。入っといで」
そう笑って佳子は男湯を掃除しに行った。
「ありがとー! ……はあ」
溜息をつきつつ桶と中身を拾い、女湯の脱衣所へ向かう。
「おっと、待ってくれよ」
当然のように猫がついてきたので望は今度こそ憤慨した。
「嫌に決まってんでしょうが!」
普通に拾ってきた猫だったら、気軽に風呂に連れて入り、鼻歌交じりに体を洗ってやるくらいしただろう。だが鷹揚な態度に終始し、あまつさえ人語まで操るような猫に自分の裸体を見せる訳にはいかない。
すると猫はぼやく。
「失礼な。猫の私が人間の女性の裸体を見て発情するとでも思うのか? だいいち起伏に乏しい君の身体は人間から見ても扇情的には程遠――」
ここで彼を銭湯から蹴り出さなかった自分は称賛に値するのではないだろうか。
代わりにぶん投げられて年季の入った木目の壁に激突し、そのまま下にあったゴミ箱に頭から突っ込んだ猫は「うみゃあ」とすら鳴かず「ぐぇ」と呻いて大人しくなった。
せいせいした望は一息鼻を鳴らすと、つかつかと女湯の暖簾をくぐっていった。
二日ぶりの広い浴場は、イライラを泡と一緒に流すにはちょうど良かった。
すっかり機嫌を直した望がほんのりと湯の匂いを纏って待合室に戻ると、ソファで何やら佳子が猫に語りかけているところだった。
佳子が手を差し出すと、猫が首を少し前に出して頭をその手の平に軽く当てる。佳子は孫に会ったかのような柔らかな表情で、時折目を細めてもいた。
「――えっ、いや、ちょっと」
はっと我に返り、まさかこの猫おばあちゃんの前で喋ったのかと思い、慌てて駆け寄る。
「あぁ望ちゃん、湯加減大丈夫だったかい?」
「へ? あ、うん、ありがとうね」
えっとそうじゃなくて、と狼狽えていると、佳子は楽しげな声で言った。
「面白い子を拾ってきたねえ」
「え」
佳子は猫の髭に指先を滑らせながら、皺の刻まれた顔を緩めて微笑した。
「声をかけると人間みたいな表情をするんだ。まるで人の言葉がわかるみたいでね」
「そ、そう……」
猫はゴロゴロと鳴きながら、一瞬だけこちらに目配せをした。どうやら杞憂ではあったようだ。
「あ、そうだ。そこに入ってるの、一本飲んでいいよ」
佳子は満足したのか立ち上がると、番台に戻りながら冷蔵庫に入った瓶牛乳を指差した。
小さい皿も渡してくれたので、少し猫にも分けてやりつつありがたく風呂後の一杯を頂く。
「それにしてもあんた、どっかで見た顔だねえ」
帳簿の整理をしながら佳子は呟いた。猫はぴくりと髭を揺らすと、佳子に視線を向ける。
「おばあちゃんここやって長いもんねえ」
あっという間に瓶を空にした望が言うと、
「望ちゃんの前の人もね、たまに来てたんよ」
「あれ、そうなんだ」
前の人、つまり白松駅駅員としての望の前任者のことだ。その人の話は、助役に白松の駅舎を案内された時くらいにしか聞いたことがなかった。
それくらい個性のない平凡な駅員だったと聞いているが、その人もやっぱり駅舎のシャワー室は気に食わなかったのかと思うと笑えてくる。
「で、その人がこいつ連れてたの?」
「いいや? ただ、それくらい前にそのくらいの白猫を見たっけかなあとね。まあここらじゃ野良猫は珍しくもないけども」
「ふうん……」
短い舌を皿の牛乳に伸ばす猫をじっと見てみたが、特に大した反応も見せなかった。
佳子に改めて礼を言って、銭湯をお暇する頃にはとっくに十時を回っていた。
都会では見られないであろう賑やかな星空が覆う帰り道。望は腕の中のケロリンに収まっている猫に、気になっていたことを訊ねた。
「この後私はこのまま帰るけど。君、土日はどうするのさ」
「野良猫然と、好きにするよ。駅員事務室は閉めておいてもらって構わない」
どうにも不可解だが、望は「ふーん」とだけ返す。聞きたいことはもう一つあった。
「あとさ。――やっぱり君、普通の猫じゃないよね?」
「まあ、喋るからな」
「そういうことじゃないっつの。尻尾握るぞ」
「やめてくれ」
慌てて猫は身体の下に尻尾を避難させた。
「……とにかく。喋るだけじゃなくて、何かこう、人知を超えたもの的なさ」
言いながら思うが、もしこの猫が神に準ずる何かだとしたら、自分はかなりよろしくないことをしているのではないだろうか。
思い出してみると、そいつを丁重に扱うどころか銭湯の壁にぶん投げたりしているのだ。バチが当たらないか不安にすらなってくる。
だが、数秒と経たずに思い直した。
――知らん。乳の貧しさを笑ったあいつが悪い。
バチとか祟りとか、そういったものとはどうも縁遠いものに思えて仕方がないのだった。
一方の猫は、言葉少なに「そうだろうか?」と答えるだけだった。
一度駅の事務室に寄って、衣服や貴重品など持ち帰るものを軽くまとめて鞄にしまう。ここから望は、駅の近くに停めてある車で自宅に帰ることになる。
「本当に鍵閉めちゃうからね?」
室内のカーテンを閉めながら、机上に飛び乗った猫に訊ねる。
「ああ。気にするなと言ったろう」
徐々に定位置にしつつあるらしい、机の端の灰皿に前足を突っ込みながら猫は言った。灰皿は煤の跡すらほとんどない新品状態だ。どうやらそれが彼には気に入ったらしい。
「ね、ところで君は友達とか、いないの」
何の気なしに口をついて出た言葉だったが、ブーメランの如く自分にも刺さる言葉だった。
「いないな。仲間のようなものならいるが」
灰皿の中で丸くなりながら猫は言った。金属がひんやりして気持ちいいのだろう。
「そっか。まあ、意外ではないなぁ」
するとすかざず猫の不満げな声が飛んできた。
「納得するんじゃない。――そういう君はどうなんだ」
しまったと小さく舌打ちする。この反撃は予想できたはずだった。心の中で歯噛みしてから、でもふと我に返ってみて望は答える。
「わかんないよ」
「どういうことだ?」
「……まだ人に素直になれてないな、とは思う。どうなんだろ」
望は部屋の蛍光灯を見上げ、どこか独り言のつもりで呟いた。
「愚問だな」
首を回すような仕草をして、猫はばっさりと切り捨てた。
「うーん、確かにあなたに聞いた私が愚かだったかもしれない」
というか別に聞いたつもりもない。
「はい、はい、おしまい! 帰るよ」
これ以上話しても仕方ないと思い望は会話を断ち切った。最後に照明を落として、一緒に事務室を出て施錠。
「――じゃあ、おやすみ」
「うむ」
猫と離れるのは出会ってから初めてだということに内心驚きながら、望は駅を後にした。
車に乗り込む時、一つだけ明かりの灯った駅舎の入り口でこちらを見送っている猫の姿が、やけに瞼に残った。
* * *
久々に自宅で目覚めた土曜日は、あっという間に過ぎていった。
平日に溜まったやることリストを一気に消化するせいで、大体土曜日はいつもこうなる。仕方のないことだ。
午前中は家で洗濯ものを済ませた後、ガソリン切れの車の給油に行き、家での昼食を挟んで夕方には列車に乗り矢堀八幡まで行って買い物。
普段は柳河原の方にいる助役がその駅にいたので、挨拶しつつさり気なく猫のことを聞いてもみた。だが望の問いに、
「猫……? んー、ここの沿線だったらいくらでもいるからなあ」
助役は人懐っこい表情でそう笑うだけだった。
そして、そのやることリストを消化しきった状態で日曜日を迎えるのが、望の理想である。
休日ならではの九時起きをしでかして満足しつつ、望はコーヒーの湯が沸くのを待ちながら、ソファで読みかけの本を開いていた。
1Kの賃貸アパートは少々手狭だがまだ新しく、使い勝手の良い部屋だった。
白松駅の事務室も自宅のようなもので、もっと言えば部屋自体の広さならあちらの方が上なのだが、やはり本物には勝てないなと感じる。
今頃幌之森線ではまばらな客を乗せたワンマン列車がのんびりと各駅を走り継いでいるだろう。自分も昨日久しぶりに乗客として乗ったが、やはり田園風景を走る鈍行列車は性に合う気もして好きだ。
矢堀八幡駅にあったポスターを見たところでは、例大祭は昼から夕方にかけての開催ということだった。早めの昼食を済ませてのんびり行こうと思い、コーヒーを飲み終えた辺りでキッチンを片付けて昼食の支度を始める。
――仕事用の携帯に着信が飛び込んだのは、そんな時だった。
「緊急連絡。十一時二十分頃、鹿瀬駅・芳見芝浦駅間の踏切にて人身事故が発生。現在、救助作業中。当該列車は上り084H……」
柳河原の運輸指令所から直接かかってきたその電話で、望は昼食を完全に食べ損ねる羽目になった。
そのまま口頭で招集要請を受け、昨日洗濯乾燥を済ませたばかりの制服を持ち、家から車を駆って白松の二駅隣である鹿瀬に向かう。
考える間もなく家を飛び出した望の額には、冷や汗が浮かんでいた。
幌之森鉄道は、ラッシュ時を除いて列車を二編成しか運用していない。単線区間がほとんどなので、基本的には両端の駅をほぼ同時刻に発車させ、路線の中ほどにある鹿瀬駅で行き違わせるというダイヤが組まれている。
だが事故が起きたのはその行き違い直前の上り列車であり、場所は芳見芝浦との間なので鹿瀬から見て下り方面。
つまり、芳見芝浦から矢堀八幡までの区間には今、列車が一本もいないのである。距離にすると実に路線全体の半分以上。
「復旧まで鹿瀬から先が全部不通か……まずいなあ」
望も、人身事故はこれが初めてではない。慣れていいものではないと心のどこかでは思いつつも、頭はマニュアルチックに対応し始めていることに気付いていた。
人身事故が起きた場合、まず救助活動があり、警察の現場検証を待ってから、現場処理と並行して事故車両を他の車両で牽引し車両基地まで回送しなければならない。最低数時間はかかる復旧までの間、全線を運休にする訳にはいかないので事故区間の外側で折り返し運転をする、というのがこういう時の定石である。
だがそもそもの列車が無いのでは無理な話だ。しかもこの路線の車両基地は上り線の終着駅である柳河原駅にしかないので、代替の列車を送ることもできないのだ。
いくらローカル線といえど全長三十キロを結ぶ人々の流通の要だ。まして今日は休日。昼過ぎまでの運休で済んでもどれだけの人に影響が出るか。
鹿瀬駅の事務室では、望と同様に招集をかけられた駅員数名に、柳河原から来たらしい助役が指示を出していた。
「当該は鳥下駅で下りと入れ違わせて柳河原に回送。上下線の行き違いは長倉駅で扱うから、尾田さん西山さん、頼んだよ。あと――」
普段は落ち着いた精悍な助役の顔つきも、流石に焦りの色を帯びていた。
「橋本さんは俺と矢堀八幡に来てくれ。あとは自分の勤務駅に! 復旧まで何とか乗り切るよ」
はい、と揃った返事をし、皆が仕事に散らばっていく。
「助役」
望が駆け寄ると、助役はまず「すまないな」と礼を言ってから、慌ただしく告げた。
「警察からも連絡があったけど、男性の飛び込みだったらしい。――とにかく、現場処理が終わるまでここから矢堀八幡は不通になる。市営交通にバスを回してもらうことになってるけどまだ準備できてない。ひとまず運行できる柳河原から鹿瀬までは、車両基地からの臨時列車を足して二本態勢でいくよ」
「了解です」
「祀木さんはこのまま鹿瀬で乗客対応の補助を頼む。バスの状況は逐次知らせるから」
「わかりました」
短く答えて、すぐ望は畳んだ制服片手に更衣室に向かう。
更衣室の扉を閉めると、一瞬の間を置いてずきりと胸に痛みを覚えた。
「……例大祭は、無理か」
一昨日、誘いを持ちかけてくれた時の結衣の笑顔が浮かぶ。仕方ないことだと自分に言い聞かせても心苦しかった。
「せっかく、親しくなるチャンスだったんだけどな」
絞り出すような独り言が漏れる。
彼女のメールアドレスでも持っていれば連絡やお詫びの一つくらいできただろうが、携帯の連絡先画面に更科結衣の四文字は見当たらなかった。
――大丈夫、私は元々一人だ。
あまりにも無理な言い訳を頭の中で自分にぶつけて、望は携帯をロッカーに突っ込んだ。
* * *
昼を過ぎても、運転再開には至らなかった。事務室の鉄道電話越しに回ってくる連絡では、どうやら事故時の非常ブレーキで駆動系に故障が起きたらしく、現場から車両を動かせない状態だという。
望はそんな情報を了解はしつつも、それだけで精一杯だった。複数人体制は取っていたが運転区間の端に当たる駅なので、どうしてもバスが行う振り替え輸送の状況把握と、乗客の問い合わせ応対の板挟みになる。
三時を回った頃、やっと復旧作業完了の報告が来た。これを以て全線での運転が再開となり、当該車両は往来列車の合間を縫って柳河原に回送させるとのことだった。
……だが、その後が長かった。
まず驚いたのは、予想以上に白松山神社の例大祭に行く乗客が多いことだった。つくづく酷いタイミングの事故だ。それに否が応でも、その人達を見て羨ましいと思わされるのが望にとってはつらかった。
夕方になっても乗客対応に追われたり別の駅へ駆り出されたりで収拾はつかず、臨時招集された望ら駅員に帰宅許可が下りた時にはもう夕飯時になっていた。
鹿瀬駅に戻って着替えを済ませた後、車で近くのコンビニに寄ってから白松駅へ行く。明日からはまた平日である。疲労と虚無感に苛まれた望は、帰宅すら面倒になったのでこのまま泊まり込みにしてしまおうと考えていた。
勤務から解放されてすぐ、望は罪悪感に耐えかね、無礼を承知で神社に電話をかけ結衣への伝言を頼んでいた。快く受けてくれた神主の気遣うような声が、逆に耳に痛かった。
「………」
今日はいつもの独り言も出ようがない。喉も枯れ気味である。
駅に猫の姿はなかった。だが今ばかりは正直、それもどうでも良かった。
閉め切っていたせいで空気の淀んだ事務室。望は部屋の電気をつけ、コンビニ弁当を電子レンジに突っ込むと事務椅子に倒れるように座った。
ああ、と肺いっぱいの溜息をついて、机にうなだれる。
結衣も神社で事故の話は耳にしているはずだし、先ほどの伝言さえ伝わっていれば事情はわかってくれるだろう。
それでも、それでもと頭を抱える。こういう時、一人になると、いつも弱い自分が表の自分をじわじわと侵食してくる。
せっかく向こうから誘ってくれたのに。待っててくれたのかもしれないのに。
事情は理解されても、もう誘ってはくれないのではないか。
自分から誘う勇気はどこにもないだけに、今日起きたことは大きかった。
「……やっと馴染んできたと、思ったんだけどな……ダメだなぁ……」
「どうした」
出し抜けに聞こえたのは猫の声だった。
驚いて顔を上げると、どこから入ったのか机の上に座ってこちらを見据えている白猫がいた。
「……あんた、どこ行ってたのよ」
望の問いには答えず、猫は沈黙を保っていた。表情を窺うと、昨日までとはどこか雰囲気が違っているのに気付く。微かにその小さな瞳が憂いや虚ろさを含んでいるような、そんな錯覚を覚えた。
不意に、「見てきたよ」と猫は言った。どういうことだと訝しんだ後に思い至る。
「――現場を?」
猫は頷いて、
「現場と、〝飛び込んだ者〟をだ」
さらりとそう言ってのけた。
「え……」
つまりこの猫には、霊的な何かが見えていることになる。
薄ら寒く感じつつも、超人的、もとい超猫的な雰囲気をまとったこの猫のイメージからして、妙に納得してもいた。
「所在無さげに、呆然と現場の近くをうろうろしていたよ。自分が死んだことは自覚していたようだったがね」
助役の話では、救急隊が尽力するまでもなく、飛び込んだ男性は即死だったらしい。隊員が黙祷する中で現場処理をする警察と駅員。それをぼんやりと空中から眺める男性の姿が、何となく脳裏に浮かんだ。
「その人には、話しかけたの?」
「いいや。そこまで深入りするつもりはないさ。……ただ、彼は、行き場をなくしているようでもあったね。死んだはいいが、その目は晴れやかでも何でもなかった」
話を聞くうちに、ふとその人の心情に考えが及んだ。同時に、自分の中で、何かの鍵が開く音を聞いた気がした。
猫は元から低い声をさらに落として、滔々と語った。
「……悪霊になりそうなら止めに入ったかもしれないが、それほどではなかったのが救いだな。ただ何にせよ、成仏にはしばらく時間がかかるだろうね。親族がいればいいのだが」
――どうして、飛び込んだのだろう?
事故処理やその後の仕事に忙殺されて、すっかり頭から抜けていた疑問でもあった。
親族を亡くしたか、何か罪を犯したか、それとも、自分に嫌気が差したのか。
何か大きなミスでもして、誰かに酷いことを言われたのだろうか。自分の将来に何も希望が持てなくなったのか――。
その時、目元が全く前触れなく熱くなった。押し留める間もなく、みるみるうちに視界が滲んでいく。あまりに突然のことに、自分ですら取り乱してしまう。
「どうした」
「え、いや、ごめん、ちょっと」
――思ってしまったのだ。まるで私みたいじゃないか、と。
「あぁ……何でかなあ。何で今日、こんなに脆いかなあ私」
「……すまない。近親者に事故に遭った者でもいたか」
「いや、違うんだ……昔を思い出しちゃった、というか」
自分の中で開いた鍵。そこから出てきたもの達は、あっという間に望の身体を奔流となって駆け巡った。
たった一年と数か月前まで、望も猫が見たという男性と、きっと同じ目をしていた。
望、なんて名前を知ったら周囲が驚くくらいの虚ろな目。
地方から上京してきて帰りたがる大学生のように、海外へ転勤して孤独に苛まれる会社員のように、あるいは幼児退行のように、自分はこの田舎に逃げてきたのだ。
といってもここは別に望の生まれ故郷ではない。心の中で一線が切れたその日に、何もかも引き払い、ほとんど荷物も持たず、当てどもなく列車を乗り継いで辿り着いた場所が、幌之森線の端、柳河原駅だった。
ここで良い職場に出会えたのが、自分の運が良かったところなのかもしれない。これまでに望は、幾度となくそう思い返していた。あの夜もし、JRから乗り換えようとした時、乗務員募集の案内が目に留まっていなかったら。もしその時幌之森線がまだ終発前で、事務室にいた助役と直接話す機会に巡り合わなかったとしたら。
そんな、あの日の〝何か〟が違っていたら、自分は躊躇なく踵を返し、東京に戻るふりをしてホームから通過列車の前に飛び込んでいたかもしれない。
それくらい、追い込まれていた。
「……最初さ、君、たばこの匂いが気になるとか言ってたでしょ? ここに来てしばらくは吸ってたんだよ、その前なんかはもういっつも」
猫がよく丸まっていた、汚れのほとんどない灰皿。それを指差して、望は言った。ここへ赴任して、自分の生活と気持ちに余裕ができた途端、あっという間に禁煙は達成されてしまった。
つくづく自分が生死を決めかねるほど悩んでいたあの頃は何だったんだ、という気分になる。
だがそうは言っても、その頃の影響が今はもうなくなっている、とは言い難い状況だった。
――白松へ来て一年少々が経つ。
知り合いはできた。友人と呼んでも怒られはしないであろう人もできた。
でも、薄い膜で覆われたような孤独感は、いつまでも拭えずにいた。喋れる〝友達〟はできても真面目な話を振れる〝親友〟はできない、そんな気持ち。
「でも君は、これも全部知ってたんでしょ?」
「事実は知っているが、それが君の中でどう受け止められ、扱われているかはその本人にしかわからんよ」
「そっか……ごめん。君に言っても仕方ないのにね」
望はこうべを垂れて消え入るような声で言った。猫はじっと動かず、望に視線を注いでいた。その構図はまるで、親に悩み事を相談する娘のようでもあった。
しばらくして、猫が口を開く。
「さっきの話でも言ったが、私は、個人の人生に深く踏み込むようなことはしない。だから……その通り、君に何かをしてやれる訳でもない。だが――」
「いや、いいんだ」
猫の言葉を、望は自ら遮った。つついただけで壊れそうな作り笑いを浮かべて、席を立つ。
「聞いてもらいたかっただけだよ。……ごめん、ちょっと、一人にさせてくれるかな」
「……ああ、わかった」
猫はそれだけ言って、望の後姿を見送った。事務室を出る直前、望は窓口のカウンター下にあった引き出しから、何かを取り出していった。
改札を出た先の、簡素な待合所。電気はまだつけてあった。一昨日、結衣の笑顔が花を咲かせた場所。今は夜の紺色と照明の橙色が、混ざって板壁に染み込んでいた。
望の手には、よく馴染んだ大きさの紙箱がある。
随分と引き出しで放置されていたそれを振ると、微かに歪んだ形のシガレットが一本顔を出した。指二本で挟んで、そっと咥える。
口元を覆うようにしてライターを擦る。何度か失敗しつつ火を灯し、ゆっくりと吸った。
一寸のち、細い息と一緒に灰色を吐きながら、シガレットを口から離す。その先端で吸殻入れのふちを叩くと、砂のように燃えかすが零れていった。
少し顔をしかめて天井を仰ぐ。
久しぶりに吸う煙は、覚えていたよりも変な味だった。
* * *
翌日の月曜日。二十一時五分。
「白松駅です、終発出ました。終業処理入ります」
『はい、柳河原駅長了解です。お疲れさん』
改札を閉めたところで、いつもの電話のやり取りを終える。
『昨日はごめんねえ、大丈夫かい』
声のトーンから察されてしまったらしい。「大丈夫です」と何とか明るく答えて、受話器を戻した。
苦しいのは身体ではないのだから、仕事に支障がないという意味では大丈夫という言葉に偽りはない。ただ、落ち込んだのが後を引いているだけだ。
いつも通りのチェックを終え事務室に戻ると、何故か机の真ん中で、微動だにしない猫が、望をまっすぐ見て座っていた。
「え、何、どうしたの」
一瞬たじろいで苦笑する。
すると猫は不意に、全くの不意打ちで、こう言った。
「祀木望……すまないが、私の勤務はここまでだ」
「……んーとそれは、家出ってことかな」
まだ何も聞いていないのに、背筋が段々と冷えて、胸が締まるのを感じる。
「君は少し私のことを知り過ぎたし、私も君に色々なことを話し過ぎてしまった。これ以上、〝ただの猫ではない〟私がここにいるのは、君にとっても良くないことだ」
普通だったら、話が呑み込めずに笑って誤魔化すぐらいしたかもしれない。だが望は、恐らく心のどこかでこうなることを予想していたのだと気付いて愕然としていた。
「……どうして。そんな、急に」
「今、言った通りだ。私も、これでも随分悩んだ」
「意味わかんないよ!」
予想はしていたかもしれない。だが、納得できる訳がない。
「……それなら、包み隠さずに言おう。――私といると、君は自分を覆い守っている殻を他者から破られているようには、感じないか?」
はっとせざるを得なかった。
この猫相手だと、どうにも調子が狂う。そんな感覚には、初日から気付かされていた。それはまさしく彼が言う通り、人に見せない部分を突かれていることの違和感だったのだ。
「君との相性はいいのだろうが、いささか距離が近く直球なやり取りになり過ぎてしまった。……私のせいでもある」
目を伏せて、そんなことを言う。
――どうして今更、そんな人間らしい表情を見せるんだ。ついこの間まで偉そうな態度ばっか取ってた癖に。
「わかった……理解はしたよ。でも……でもさ、もうちょっと、いてくれてもいいじゃない」
昨日の今日で、また思わず頭を抱えてしまう。胸が針を当てられたようにきりきりと痛む。
「成り行きとはいえ、君は私が自分の過去を初めて話せた相手なんだよ。君がいなくなったら私はまた一人だよ」
「……いや、そんなことはない」
急に声を明るくして猫は言った。
「昨日の夜に言い損ねた話だがね、君の悩んでいるその問題は、自身で何とかすべきものだし、何より……君自身で解決できるものだ。そして、現時点でもう君は解決の一歩手前にいる」
要は、と猫の髭が揺れる。
――時間の問題なのさ。
その時、不意に列車の音が耳に入った。レールの継ぎ目を車輪が通る時の、たたん、たたん、というあのリズミカルな音。
「ふむ、こっちも時間だね」
猫が机を飛び降り、開いていた窓口を経由して改札に降り立ち、ホームへ向かっていく。
「え……ねえ、ちょっと!」
望も慌ててその後を追って事務室を飛び出した。既に消灯させていた改札で転びかけながら、猫の隣に走り寄る。
――ホームからは、確かに前照灯が見えた。
とっくに最終列車は行ったはずだ。そう目を疑うが、列車が近づいてくるにつれて、望はその列車が現用のキハ40ではない――それどころか気動車ですらないことに気が付いた。
あれは汽車だ。
それを証明するかのように、聞き間違いようのない野太い汽笛の音が鼓膜を震わす。呆気に取られる望の前で、汽車はボイラーから出た蒸気をその左右に振り撒きながら、ゆっくりと停車標の下に止まった。
汽車には炭水車と客車が一両だけ、繋がれていた。暖かな色の車内照明がひどく眩しい。
額に手をかざして中を窺うと、驚くことに坑夫らしき男性の団体や、和服姿の女性で賑わっている。だが望のことは見えていないようで、きっと望の方も、そこに加わることはできない。
その光景に望はぐっと、うら悲しさのような、感銘のような言い知れぬ情感を覚えた。
――ああ、これは、きっと。
今は無き炭坑がまだ栄えていて、そこで働く沢山の人やその家族が路線に息づいていた、華やかなりし頃の幌之森鉄道なのだろう。車内から溢れ出る光は、まるで猫を故郷に迎え入れるかのように、彼が生まれた時代そのもののように、ホームで座る彼を照らしていた。
「君はさ」
声をかけると、猫は振り向きこちらを見上げる。
「この鉄道の守り神なの?」
「そんな大層なものじゃない」
猫は即答した。そして、それまでほとんど揺らがなかった彼の表情が、初めて深い曇りを見せた。
「――守護神だったら、日曜日の事故は防げていたよ。そうだろう? 幌之森鉄道が今までの歴史の中で起こした事故は、決して一つや二つではないはずだ」
防げるものなら全部防いでいたさ、と猫は囁くように言う。その低い声に、哀惜の念が滲んだのがわかった。
「じゃあ、君は何者なの。そろそろ答えてくれるよね」
そう聞くと、少し言葉を選ぶ様子を見せてから猫は答える。
「まあ、君達人間が言うところの付喪神みたいなところなんだろうね。我々にはそんな明確な概念分けはないからはっきりしないが」
ふっと微笑を浮かべてからこう付け足す。
「人間を少しばかり癒す力があるとかないとか、誰かに言われたこともあったね」
歓声を上げて彼を可愛がっていた結衣や、目を細めて彼の頭を撫でていた佳子の姿を望は思い出した。そして後から、何だか笑いが込み上げてくるのを感じた。
「……私のことは、あれで癒してたの?」
「まあ、恐らくはな」
思わず吹き出して腹を抱える。してやられた気分だった。
構ってやってると思っていたら、向こうは癒していたつもりだというのだ。そして、それを怒って否定できないくらい、彼との非日常を享受していた自分がいることにも、笑うしかなかった。
――だが笑い飛ばしてすぐに、それは泣き笑いになった。
猫が列車に向かって踏み出すのを見て、考えるより先に声が出る。
「ねえ」
猫は歩みを止め、客車のステップの前でくるりと振り返った。
気付けば、縋るような声になっていた。何て情けない声だと思う。
「……私、大丈夫な気がしないんだ」
猫は黙ってこちらを見つめている。今まで決して他人に見せなかった、自分の弱い部分を、最後の最後で望は自ら猫に見せていた。
「こう見えても……というか、君は見抜いてるだろうけど、自分を出すのが苦手だからさ、私。知り合いはできても、一人のままな気がしてさ」
言葉に詰まって、足元に視線が落ちた。
しばし舞い降りた沈黙を、猫が破る。
「大丈夫じゃない訳がない、と言わせてもらおうか」
「どうしてさ!」
声を震わせながら望は訊いた。今のように素の自分を、弱い部分を見せられる相手を、自力で見つけられるとはどうしても思えなかった。
この機を逃したらもうずっと今のままなんじゃないかと、おこがましいようなことすら考えてしまうのだ。一度生活を投げ出した身だというのに。
すると猫はらしくもなく、優しく諭すような口調になって、ゆっくりと言った。
「君はじきに、あの巫女もどきの少女とそれくらい親しい仲になれるからだ。あるいはあの銭湯のご婦人だな」
「……根拠は?」
ふて腐れた子供のように食い下がると、猫はふっと眉を上げて笑った。
「根拠も何も、その人に直に撫でてもらった付喪神が言うんだ、疑いはないだろう?」
目を丸くした望を見て、どこか安心したような表情を見せた猫は、ひょいと客車の後部デッキに飛び乗った。その瞬間、待ちくたびれたように小さく汽笛が鳴る。
「まあ、君のことは気に入ったから、どこかでまた会うだろう」
「……わかった。それまでには、大丈夫になっとくから」
列車が揺れて、ゆっくりと動き出す。望はそれを追おうとはしない。
お互いに、ありがとうとだけ言い合って、一瞬だけ手と前足を握り合って、それで終わりにした。元々白松駅のホームは、ドラマみたいな別れ際の追いかけっこには向かない長さだ。
窓から光を漏らしながら小さくなっていく尾灯を、望は見えなくなるまで見つめていた。
* * *
金曜日。
夕方の上り列車が、白松駅のホームに滑り込む。停車位置には、駅員の祀木望が立っている。
ブザーが鳴って、前ドアが開く。数人の降客。
「切符お預かりしまーす」
それぞれから乗車券を受け取ってポケットにしまい、首から提げたホイッスルを片手に持つ。
そこへ、
「待ったぁぁ! 今買ってるから待ったぁ!」
一週間ぶりの声が改札から聞こえてきた。思わず吹き出して望はホイッスルを放し、代わりに改札鋏を取り出して改札に声を投げる。
「まだ一分あるから大丈夫だよー!」
大笑いしながら駅を出ていく客と入れ違いで、券売機で切符を買った黒髪の少女がホームに駆けてくる。
「今週は間に合ったね」
笑いながら汗だくの彼女が差し出した切符の端に鋏を入れてやる。
すると、
「望さん!」
虚を突かれる一言で望は面食らった。息を切らしながら彼女はまっすぐこちらに目を合わせる。気圧されて、何故名前呼びなのかも聞けない。
「は、はい何でしょう」
「こないだ例大祭、来れなかったでしょ?」
「うん、ごめ――」
「代わりにどっか行こ!」
ぐいと結衣の顔が迫り、胸元に一枚の紙が突き出された。何桁かの数字と、英数字の羅列が書いてあるのを見た瞬間、望は小さく息を呑んだ。
「私の連絡先。ごめん、まだ教えてなかったですよね」
「え、い、いいのそんな」
「昨日ね!」
もう一段ぐいと近づいて――ふっと、その声が小さくなる。
「……柳河原に出かけたら助役さんに会って、聞いたの。日曜日すごい大変だったって。望さんも大変だったって、知ったから! お返ししたいから! ね!」
――時間の問題、ね。
言葉を若干詰まらせてから、望は笑って紙を受け取り、結衣の頭に手を載せた。
「ありがと」
うまく笑いで誤魔化せていた自信は毛頭ないが、結衣は満足げに頷いてドアへ小走りで乗り込んだ。
望は彼女の姿が見えなくなったのを確認してから、密かにその紙を胸の前で、両手で、優しく握りしめた。
「……っ」
あっという間に瞼が熱くなるが、安全確認に支障が出てはいけないと、溢れかけた塩水だけは引っ込める。溢れさせるのは、列車を送り出した後でも遅くはない。
そう、何も焦る必要はない。
声が震えないよう、いつもより大声で点呼する。腕も指も、ぴんと伸ばして。
「上り、十七時二十七分、定時!」
進行方向を見据えてホイッスルを吹くその瞬間、毛並みの綺麗な白猫がホーム端に佇んでいるように見えた。
鋭い笛の音が、田園風景を駆け抜けた。
「前よし!」
幌之森鉄道勤務日誌
いつだったか見聞きした「猫駅長」を思い出して、そこから発想を得た物語です。
幌之森鉄道は、沿革から駅名、沿線の様子、白松駅の時刻表と間取りに至るまで、一から創作した架空の鉄道になります。少しでも望達の息遣いをリアルに感じて頂けたら幸いです。