純愛

 恋とはどうしようもなく落ちるものだ。誰かを途方もなく愛おしいと想ってしまうときに、理屈はいらない。
 あなたを目の前にして、私の心は静かに、それでも確かにときめいている。

     *     *

 うだうだと悩んでいたって仕方ないのに、私はいつまでたっても引きずっていた。一人暮らしの部屋の中、彼との日々を反芻しては、それが失われてしまったことを思い知り、深く、へこむ。
 彼と同居していた時間は癒しだった。大学の課題に追われていても、バイトでミスをして叱られ心身ともに擦り減っていても、家で迎えてくれる存在がいる、ということは私にとって大きかった。
 その癒しの味を覚えてしまったために、突如として訪れた別れは信じたくないものだったし、数日涙に暮れて、今も学校に行く気が湧いてこないでいる。
 好き、だった。愛して、いた。誰かに深く依存している分だけ、その柱が取り払われてしまった建物が倒壊するのは一瞬になる。がらがらと、崩壊していく音が切なく胸に響く。
 玄関の方からノックの音が聞こえた。ドンドン、ドンドン。けっこう強めに。続けて声がする。
「絵梨花ー。いつまで引きこもってんのよー。いいかげん出てきなさいー」
 親友の真穂が様子を見に来てくれたようだ。優しい、やはり持つべきものは友。そのありがたさを実感しながら、ドアを開ける。
「真穂」
「おはよ。髪ぼさぼさじゃない」
 ストレートの長い黒髪がきれいな真穂が、呆れた表情を浮かべて立っていた。腕組みをして、起きたばっかり? と訊いてくる。さっき起きた、と答える。
「いいかげん学校へ行きなさい」
「……嫌だ。とても、まだ行けそうにない」
 首をふりふりと振って、壁にもたれかかる。
 はあ、と真穂は息を吐き出す。
「気持ちは――分からなくはないけどさ」
 それでも、人は悲しみを人生の中で経験する生き物だし、その度に乗り越えていかなければ生きていけないのだ。表面上はなにもなさそうな人にだって、多かれ少なかれ引きずっていることがある。それを抱えていても、笑って過ごさなければ生きながら死んでいるようなものだ。
 分かる。真穂の言っていることはよく分かっている。私だって、いつまでもこうして家の中で腐っていく夏野菜のようにしているわけにはいかないことくらい、気づいている。
 だけど、やっぱり、もう少し待ってほしい。今は無理だ。
「とにかく、上がって」
 部屋の中を手で示すと、真穂はこくりと頷いて、靴を脱いだ。整理整頓されてない、と彼女は呟く。

 彼、義哉と蜜月の日々を送っていた期間は一年半になる。大学に入ってからすぐで、私は首ったけだった。優しい眼差しにいつも甘え、なにより彼の抱き心地は最高によかった。抱きしめられているだけで芯まで温められるような、安心感。
 それから、彼は私の手料理を本当においしそうに食べた。その姿を見ていると、作り甲斐があると感じた。焼き鱈のリゾット、ミモザ風チキンスープパスタ、豆腐ハンバーグ――もともと得意だった料理だが、おかげでより工夫を凝らすようになっていった。
 出会いのときから、予感があった。私たちはきっといい関係になれる、そんな予感が。
 初めてお互いに見つめ合った刹那、胸のうちで密かに愛おしさを覚えていた。どうしようもなく惹かれていた。

 お茶も出さないで敷きっぱなしの布団にへたり込んだ私を尻目に、真穂は冷蔵庫を自分で開けた。わ、なんにも入ってない、と彼女が叫ぶことで、食材も飲み物も買い足していなかったことを思い出す。さすがに、そろそろ生死に関わる。
「お茶葉ならあるよ」
 キッチンの上に置かれている茶葉の缶を指し示す。真穂はそれを確かめると、やかんに水を入れて、沸かし始めた。
「そうだ、」急に、私の方ににじり寄ってきて、顔を近くする。「私、今日話があって来たんだった」
「話?」
 急須に茶葉入れた? と訊くと、それは後で、と流された。
「あのね、紹介したい男の子がいるの」
 鼻息荒げに、興奮したような口調で言う。しかし、私はまるで興味を惹かれなかった。別れたばかりで傷心している私に、他の子に乗り換えろと言うのか。そんな軽い女だと思われていたのか。心外だ。
「まあまあ、そんなつれない顔しないでさー。駅前のお店にいるから、お茶飲んだら行こうよ」
「えー、いいよ。そんな気には到底なれない」
「会うだけ会ってみなさいよ。いつまでも一人きりで、うじ虫みたいに生きてるわけにはいかないでしょ」
 うじ虫――そこまで言いますか。
 まあ、真穂がこうまで言ってくるのだし、とりあえず会ってみてもいいかもしれない。どうせ、駅前のスーパーで買い物をしないといけないし。
 しぶしぶ首肯してみせると、真穂は大げさに喜びを表わして、その勢いで立ち上がり、キッチンに戻っていった。そんなに魅力的な子なのだろうか。
 ピーッ。やかんが沸騰した音がする。

 お茶飲んだら行こう、と言っていたけれど、そのまま出かけられるほど落ちぶれてはいないし、私も女の端くれなので、一応シャワーを浴びて、着替えた。簡単にだが、何日かぶりに化粧もした。少しだけ気分が華やぐ、女の子だけの魔法。
 駅前までの道すがら、真穂は今から会いに行く彼の魅力について語っていた。話半分で聞いていたけれど、だんだんと興味が湧いてきた。ちょっと、緊張してくる。
「目がね、義哉に似てると思うのよ。だから、きっと絵梨花は好きになると思うけどなー」
 そんなの、実際に目の当たりにしてみなければ分からない。
 お店の前まで来た。真穂が先立って中に入っていき、私はおずおずと彼女に続いた。
「彼よ」
 片手で示された先をじっと捉える。目が合った。確かに、少しだけ義哉に似ている気がする。優しげな眼差し、その光を帯びて透き通る茶色は、心を奪われてもおかしくなかった。
 恋とはどうしようもなく落ちるものだ。誰かを途方もなく愛おしいと想ってしまうときに、理屈はいらない。
 あなたを目の前にして、私の心は静かに、それでも確かにときめいている。
「真穂、ありがとう」
 彼女は自信ありげに微笑んでいた。さすがは私の親友。私のことをよく理解してくれている。
「決めたよ。彼を飼う」
 ゴールデン・レトリバーの男の子が、まるでその言葉に喜んだかのように尻尾を振る。かわいい、これは絶対に毎日癒される。
 すみませーん、とペットショップの奥に向かって呼びかける。店員さんがパタパタと駆けてくる。
 一目惚れした私は、その場ですぐそのゴールデン・レトリバーを購入した。

「名前はどうするの?」
 帰り道、尋ねられた瞬間、私は即答した。
「モトキ」
 第一印象で浮かんできた名前だった。
「字は?」
「元気の『元』に、基本の『基』」
 元基か、と真穂は口の中で噛み締める。
「相変わらず人の名前みたいなの付けるね」
「だって、そうしたら恋人といるみたいじゃない」
 真穂は、ふふふ、とこらえかねたように笑った。
「カレ、って言ってるくらいだもんね。よかったね、運命のカレとまた巡り会えて」
 ほんとうによかった。これでしばらくがんばれそうだ。
 以前に飼っていた義哉と死別したときは、もう絶望のどん底だったけれど、ようやく立ち直りのきっかけをもらった。これから、元基とたくさんいちゃいちゃしよう。でも、だからって義哉のことを忘れるわけじゃない。私の最初のカレだったのだ、忘れられるわけがない。
 腕の中で元基が、くうん、と鳴いた。家に帰ったら、自慢の料理の腕を存分に振るうからね。
 夕方の空はオレンジの絵の具をまぶしたみたいに赤く、広がる。斜めに降り注ぎ、私たちを照らす祝福の光が眩しい。

純愛

純愛

恋とはどうしようもなく落ちるものだ。誰かを途方もなく愛おしいと想ってしまうときに、理屈はいらない。あなたを目の前にして、私の心は静かに、それでも確かにときめいている。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-28

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