お針子のこころざし
お針子のこころざし
一本一本大切に、この針に通すは
あなたへの謝恩の念
一つ一つ丹念に、紡ぐのは
あなたの幸せを願う私の思い
薄紅色の牡丹を濃紫の振袖に繊細な針で描く。一つの牡丹が出来上がるたびに少女はそれと何度もにらみ合い、修正しては縫い直しの繰り返し。額の汗も気にせず、ただ思い描く花柄をこの着物の上に留めることを一心にした。蝋に照らされた少女の胸の内には誰にも言えぬ謝恩の思いがあった。貴重な生地を使うことも、こうして遅くまでわずかな時間を割き、縫い続けることも、このお人のためならば忍びなかった。
糸を切った鋏を置き、膝の上の四つ折りをそっと広げる。見栄え、縫い崩れ、着心地を何度も見直すと、少女はそっと近くの灯りを消した。少女は疲れていたのか、すぐに寝処へと移る。そして、仕上げたばかりの振袖を枕元に置き、眠るまでそれをじっと見つめていた。
あの人は喜んで下さるやろうか、
あの人は着て下さるやろうか、
少女にはそれが気になって仕方がなかった。
でも、どこか優しい面影を持つあのお人に渡せると思うと、少女は嬉しそうに目を閉じた。
ー明日、明日ならばきっとこの思いが伝わる
朝がまだ来ないうちに、少女は藁の布団に包まれながらも淡い希望を抱いて眠った。
翌昼、少女は店の入り口であの振袖を包んでいるところだった。
これで大丈夫だろう。
あとは、店番を頼むだけか。
心を弾ませながら出かけようとすると、急に高年の女と一人の男がやってきた。
「ごめんください、ちょいと仕立てをお願いしたいんだが、」
来た客を出迎えないわけには行かず、少女は仕立ての依頼を見ることにした。
「うーん、もっといいのないかね。」
何重もの布地を前にして高年の女は顔をしかめる。すると、そばにいたもう一人の男が女に何やら小耳を挟む。
「お紗さん、もうそろそろ帰りませんと門が閉まります。店のほうも混雑する時間になりますから。」
「仕方ないわー、また、来ようか。あら?」
下駄を履こうとした女客はあの包みかけの振袖に気づく。何かに引かれるようにそれを手に取った。
「これは…偉い代物でぇ、お嬢ちゃん、これはいく…」
「だめ!」
値段を聞こうとした女の言葉を塞ぎ、少女は堰を切ったように叫んだ。客たちが呆然と少女を見つめると、はっと我に返り、焦りを抑えて、ゆっくりと口を開く。
「それは売りものではないんです。」
「そうかい、済まないね。」
女客から振袖を返され、安堵していると小さな声で囁かれる。
「でも、これ、売ってくれない?高値で買うやさかい。」
「ごめんなさい、これは他の客のもんで」
「ほな、わいがその客とか言いはる人とこ行って、買うたらええやさい。その場所、教えてや。」
「…それは」
「言わはらんのか、そうかい、なら、この店ごとわたしが買うてやる。」
少女がわなわなと震えている隙に、女はその手から振袖を取る。少女は慌てて取り返そうと女の袖を掴む。が、隣にいた女の付き人に手を掴まれ、身動きを封じられる。
「離して!離して!あれは、あの着物は、あの人の為に…だ、から、うー、ううー」
視界からあの方への振袖が遠ざかる。たが、それを追うことも、まして自身の懇願を叫ぶことすらも叶わない。
どうして、こんなことに!
私の振袖を、あの人への振袖を
返して、返して!
賑わいのある城下町のとある一軒。そこには夫婦とその親族が住んでいた。
「花蝶新造、渡したいもんがあるんや。」
すっと個室の襖が開き、見上げるとこの屋敷の女主人が何かを持って立っていた。
「これは、まあ、綺麗なべべやこと!どないしたんどす?」
「まあ、買うて、隣で買うてきたんよ。安かったやさかい。それから、今日はそれ着て、宴にいらっしゃい。」
そう言って、主人は去ったあと、若造と呼ばれた女は手渡された着物を何度眺める。
「この、花柄、牡丹によう似とる。どこか、懐かしいような…」
若い女は急に何かに取り憑かれたように重箱の一段を引き出す。着物の詰まったそこから四つ折りの紙を見つけ、破けないようそっと広げる。拙い文字で綴られた文章の左下には筆の跡が消えて見えにくいがそれは振袖のものとそっくりの牡丹の形をしていた。女の心は震えた。それと同時に不思議に思った。
ーなぜ、これをあの子ではなく、お妙さんが持って来たのか
本当に?隣で買うてきたのか?だって、あの子はここから数里も離れている所にいるのに…
女は主人の言葉とあの子がいる場所を見合わせ、つじつまが合わないことに違和感を感じて、主人のお供に話を聞きに行った。
いや、知っていた。お妙さんのあの曖昧な様子から分かっていた。奪ったのだと。あの子から無理やり取っていったのだと。
急に胸が張り裂けそうになると、同時に襖の向こうで話し声がした。
「あの着物屋もえらい上等なもの隠しおって、まあ、ちょいと手荒な真似しとうけんど、やがて感謝しとるよ。なんせ、大金で買うたったや、あの店ごと。」
なんという事を!
口を両手で覆い、壁に寄り掛かると、哀しみが一気にこみ上げてきた。僅かに開いた窓の向こうであの子の奈落の深い底で響く叫びが聞こえてくるようで、思わず畳に自分の白い爪を立てる。ギジリと鳴る藁の音が自分の無力感を責め立てる。
わたしが不甲斐ないばかりに
わたしがあんなこと言うたから、あの子が不幸になってしもうた!わたしが、わたしが、
「花蝶新造、まだかいな。もうそろそろ、飯の時間やないか。」
ふいに自分の名が呼ばれ、慌てて目元を袖で拭う。なんとか、虚ろとした自分を立ち上がらせようと手を畳につけたとき、指先に咲く牡丹の花が目の先で散らつく。
綺麗や、本当に、よく出来とる
あの子もころっと上達して
小さな鏡を前にして若女は主人から貰った振袖に袖を通す。着付けを済ますと、鏡に映ったのはもう前の女ではなく、一人の女将となった。主人の元に向かうと身に纏う牡丹の花は息が吹かれたかのように瑞々しく華麗に咲き乱れていた。
宴が賑やかに始まった隔たりの向こうで手紙の主は静かに夢見ていた。
『わたしな、牡丹が好きや。』
『ぼたん?』
『まん丸で可愛いやしゅうてのう。』
『じゃ、あたい、それのきもの作る!そんで着て!』
『嬉しいこと言うなあ。でも、ええんよ。
それを仕立てても私の為には使わんでといて、私はお前の笑顔が見れるんやったらなんもいらしまへん。』
牡丹の花が咲くそばで本当の姉妹同然に二人は笑いあった。本当の家族かのように二人の心は通じ合っていた。
「私も、花、蝶さんの笑顔…見たい、見たいの」
途切れ途切れな声が無意識のうちに涙ととも零れる。瑞々しかった一輪の牡丹の茎は、手折られる最期の時までも、その花の美しさがあり続けることを願う。
もう一度、もう一度仕立てないと
最後の力を振り絞り、そばにあった布地を握り、片手にはいつもの糸が通された針を。疲れ切った体を起こし、死に物狂いで縫い出す。乙女は執念を燃やすかのように1輪の可憐な牡丹を仕上げる。
ああ、できた!できたよ!
ねえ、花蝶姉さん、見て見て!
見上げた先にいた女の人は優しく微笑んだ。
そして、ふわっと抱き締められる。
ありがとう、義妹(ぼたん)
だから、もう良いよ。
もう伝うてるから、
少女は安堵したのか、その女の人に寄りかかりる。手からスルリと布地が抜け、幸せを抱いて深い眠りについた。
その布地に咲く牡丹は本物の牡丹以上に長く美しさを保つだろう。でも、誰もそれに犠牲があった事を知らない。一人を除いて…
お針子のこころざし