ひとみのこと
すれ違いカップルの、よくある痴話喧嘩。
僕は彼女を知らなさすぎる。
辻原ひとみについて、僕はあまりにも無知が過ぎた。
彼女が目下競馬場に現れ、馬に掛けるでもなくただ一日あったかいお茶と筋肉の焼き串を手に走る馬と湧き上がる人間たちを観察するのが趣味だということも、実はつい最近知った。
彼女は自分のことを人間でない、何か別の星から来たような気がする、といつだか酔ったときに話していて、僕は「えー何それー」ときゃははと笑いながらコークを煽っていた最中で、彼女からのサインに気づかなかった。
女の子が意味の分からないことを言いだすときは、大抵何らかの心理的不安からくるものであって、ひとみはそれを僕に向かって冗談交じりに吐き出したのだ。
普段はまるでそんなことを言わないひとみが、ついに本性出してふざけてくれた。そんな風にポジティブシンキングして別れた。その後ひとみは引っ越して、田舎に帰ってしまった。
その日の夜にだ。
僕たちは付き合いだして間がなくて、僕は彼女という人を勉学する上でも態度など信頼していたのだからああいう油断を取ったのだけど、ひとみはそれにしても僕を信頼しなさ過ぎたと言ってもいい。決して自分の身を守るわけじゃなくそう思う。ひとみは薄情者だった。
僕は常々、彼女と行動を共にしたいと思っていたし、実際その夜も僕から彼女を訪ねて行って、そうしてライブハウスで軽快なロックと共に酒を飲んだのだ。
彼女はメールの文面に、「あなたはひどい、私がクラシックが好きなのを知っていて、自分の人間関係の広さを披露するためにあんな場所に私を連れて行く。あなたには悪いけど、私はあなたがそれほど私に気を遣ってくれているようには思えない。私ばっかり損をする」と書いて来て、なんだよ、気を遣うって、と僕は憤り、「じゃあ僕たちの関係って何だったの?気を遣うって、遣って疲れるくらいなら最初から僕なんかと付き合わなけりゃよかったんだろ、僕は心から君にいつだって興味を抱いていたし、僕のことだって知ってほしかった。君が難しい言葉を使う度、僕はそれこそ気を遣うよ!」と送り、これでさよならか、とぱたんと携帯を閉じた。
ひとみからそれから連絡はなく、ただ音楽活動のピアノリサイタルだけは欠かさずしているとネットで知り、ブログを訪問しては足跡を残していたのだけど、彼女からコンタクトを取ってくれることは一切なかった。
僕はこんな無礼な子は初めてだと思った。見た目は小ぎれいにして、それなりに心づかいのできる優しい子に見えたのに、とんだ誤算だった。
そう考えて僕は、僕こそひとみを知らないのだ、と気づかされて、生まれて初めて女の子のことでこんなに必死になっていると考え、煙草をぐりぐりと揉み消して不機嫌に椅子に身を沈めた。
カフェのオープンテラスで、寒風にわざわざ吹かれてコーヒーを飲む僕を、信じられないとひとみが店内で悠々とラテを飲みスマホを弄るのを、僕はなんて薄情な子だろ、そしてなんて空気の読めない子だろと思った日のことを思い出した。
この町には、僕とひとみが至る所に沢山いた。
ひとみと歩いた路地裏、雑貨店、座り込んで演奏を聴いた階段、マクドナルド、たこ焼き屋、パン屋、大判焼屋。
ひとみが餡子が食べられなくて、カスタード、と言ったら「うちにはつぶ餡以外、置いてはらしませんのですわ」他所行ってくれなはれ、と渋い店長さんに追い払われたのをひとみが悲しがって、ぐすぐす泣くのを頭を撫でながら通り過ぎた花屋の前で、ひとみにミニ薔薇の鉢植えを買ってやったのを思い出して。
ひとみにメールを送った。
「あのミニ薔薇の、画像送って」
すぐさま返信が来た。
黄色い薔薇の、満開に咲くその様子に、僕はしばらく立ち止まって、それから納得が行って。
「ひとみ、これから会わないか?」
そう電話で言うと、「もう、夜中の10時だよ」とひとみは困惑した声で答えた。
僕は大判焼のカスタードを持って、彼女の玄関の前に立ってた。
がらりとリビングの窓を開けて、ひとみが驚き顔でサンダルをつっかけて、目の前まで歩いてきた。
「色々考えたんだけど」
僕はカスタードの大判焼を差し出しながら、
「あの店の大判焼は、確実に不味い」
そう言って電話を切った。
ひとみは買い替えたスマホを、僕の番号の消えてなかったスマホを、耳から離して、腕を下げて、僕を見つめた。
「黄色い薔薇なんて、最初はなんか、よくわからなかった、私はピンクが欲しかったの」
ひとみはそう言いながら、
「でも、育てていくと、可愛さがわかる」
そう言って笑った。
十五夜の空の下、畳の上に置かれたピアノの黒い皮が光る。
空気の読めない、目下自分の作り出した空気しか読めないひとみは、凍え切った僕を尻目に、カスタードの大判焼を半分に割って、まだ家に入れてくれない。
はいと渡されて、ここで食べろってか、と僕は若干腹が立って、でも真実彼女に会いたかったのだ、そのウェーブ掛かった黒髪に両頬に出来る綺麗なえくぼに、出会いたかったのだ、と僕は思いながら大判焼を食べた。
好きな女のために、山越え谷越えやって来た、僕はいかす男じゃないか、とひとみの僕への評価が変わったことを期待する。
ああ、早く彼女の体も冷えてしまえば良いのに、と僕は速攻で食べ終わったカスタードが指に付いたのを舐りながら、もたもたと食べるひとみを見やった。
ロマンティックなのが好きな彼女は、月夜の下、白い息を吐きだしながら、暖かい駅前で買った故郷の大判焼を食べる。
一口一口、味わうように。
やっぱり彼女は、綺麗だ。僕は改めて、何故あの時ピンクの薔薇が置いてなかったのだろうと歯を鳴らしながら考えている。
庭の柴犬が、今更わんわんわん、と僕に向かって飛びかかるポーズを取った。
ひとみのこと
即興です。