ウィスパー寄稿文店主の憂鬱 Ⅳ ~ 紅茶一杯ほどのロマンス ~
プロローグ
「ガウッ!ガルルルゥッ‼」
「かっ、噛みついたら、いくらレイチェルでもグーでなんだからねっ!」
開店前の一時、キッチンのテーブルを挟んでにらみ合うレイチェルとエマ。
その眼中に光るのはテーブルの上に置かれた、たった一つの生クリームのせプリン。
プリンを欲するのは二人。なれども、プリンは一つ。今まさに、プリンを巡る戦いの火蓋が切って降ろされようとしていたのだった。
「エマ。空腹は争いの口実になると思うんだよね。甘い物だと戦争の口実にもなると思うんだよねっ」
今にも飛びかからんとする姿勢のままレイチェルが言う。
「おかしいでしょ⁉明日の朝、一緒に食べようねって言ったのに、我慢できなくて、昨日食べちゃたのレイチェルだし、そもそも、このプリン買って来たのも私じゃない‼」
涙を浮かべながら、握りこぶしを振り上げたままのエマが唇を噛んだ。
「私は今を生きてるんだよ。過去は振り返らない‼」
レイチェルは瞳をギラつかせながら、そう言い切った。
「言い切ったら良いってもんじゃないでしょっ‼さっきだって、私の分のパンケーキも食べたばかりじゃない‼」
「エマだって、コーヒーお代わりしてたでしょっ!」
「コーヒーでお腹膨れないし、大体、レイチェルはコーヒー飲めないでしょっ‼」
締め切り間近かの紙面とは別の、地域誌に掲載する原稿は終わったのだが、なんとなく帰るのが面倒になったエマは、明日の朝食用にマーマレードジャムとパンケーキを買いに出かけ、その帰りに、この界隈で有名な洋菓子店で二時間も並んで生クリームのせプリンを手に入れたのである。
明日の朝食の為に、パンケーキもプリンもちゃんと二人分買って帰った。
なのに、レイチェルはパンケーキもプリンも夕食の後に食べてしまった。
目の前で美味しそうに、とても幸せな顔をしながら、ロシアンティーを片手にパンケーキとプリンを食べるレイチェルを見ながら、それでも、明日の朝の楽しみにと食欲に打ち勝ったエマだった。
だから、朝起きて、レイチェルが残りのパンケーキを食べている光景を目にしたとき、気が付いたらレイチェルに飛びかかってしまっていた。
その時に、マーマレードをビンごとこぼしてしまった。
もはや、エマにはプリンしか残っていないのである。
「私が昨日、どれだけ我慢したと思ってるのっ‼今朝の為に我慢したのに、パンケーキ食べちゃうし!マーマレードは床にこぼれて残ってないしっ!もう私にはプリンしか残ってないのっ、だから、絶対にプリンは譲れないのっ‼」
今日という今日は何が何でも譲れない。レイチェルがどんな御託を並べても認めないし、譲らない。二時間も並んだ苦労。原稿を書き上げた自分へのご褒美。
エマにとって、絶対に譲れない戦いなのである。
「もぉ~、エマったら、プリン一つに本気になっちゃって、大人げないなぁ。冗談に決まってるじゃんかぁ」
珍しく血走ったエマの瞳を見て、レイチェルが視線を逸らして、女豹のポーズを解除した。
「本当に冗談なの?目が本気だったけど」
一転、ヘラヘラし始めたレイチェルに疑惑の名眼差しを送るエマ。
「やだなぁ。ヴェラじゃないんだからさぁ。ヴェラだったら、噛みついてたね。うん。床のマーマーレードも残さず舐めてたと思うよ」
腕を組んで、何度も頷きながら言うレイチェル。
「さすがに、ヴェラだってそこまではしないと思うけど……」
食料を求めてゾンビのように寄稿文店によく現れるヴェラを思い出しながら、エマは半信半疑だった。
もしかしたらやるかもしれない……と。
リリリリーン リリリーン
二人のムードが和らいだところで、電話がなった。
「エマ電話だよ」
目で促すレイチェル。
「出るわよっ。プリン絶対に食べないでよね。食べたら、本当に本気で怒るから」
エマは、睨み付けるように釘を刺してから、隣の部屋へ駆けて行ってしまった。
プリンと二人きりになったレイチェルは考えた。
「うーん。(このまま食べちゃっても良いんだけどなぁ、食べたら拗ねるだろうなぁ。拗ねると長いから面倒くさいんだよなぁ)」
レイチェルは頬を掻いた。
実を言うと、エマが買って来たプリンはレイチェルが日頃、屋敷でアンジェリアと一緒に食べているプリンよりも卵の味が薄くて、あまり美味しくなかった。
いつも通り、エマをからかう目的で喧嘩を吹っ掛けてみたわけだが、想像以上にエマが激高したので、取り返しがつかなくなる前に、珍しくレイチェルから折れたのだが……
「むぅ」
プリンはそれほど食べたいとは思わないながら、エマに負けたようで、そこが気にくわない。
だから、隣の部屋から受話器を置いた音が聞こえたタイミングで、
「エマ、ごっめ~ん。つい手が滑っちゃってぇ」とおどけて言ってみた。
エマのことだから、泣き喚きながら戻って来るに違いない。レイチェルは腹を抱えて笑う準備をしていたのだが……
ガシャアアァーンッ
口を閉じた刹那に、黒い物体がレイチェルの前髪を掠ったかと思うと、その次の瞬間には冷蔵庫に直撃し、破片を撒き散らしながら床に落ちていた。
「ぅ……嘘です……」
腰を抜かして床に座り込んだレイチェルの足元には、半分に折れた受話器が転がっていた。
「レイチェルっ!」
エマが血相を変えて駆けこんで来たので、
「嘘です、食べてないです‼ごめんなさいっごめんさいっ‼」レイチェルは四つん這いで逃げながら 〈ごめんなさい〉を連呼し続けた。
「大変よレイチェルっ!ヴェラがっ!ヴェラが……」
レイチェルが見上げた先には、顔面蒼白で涙を浮かべているエマの姿があった。
Ⅰ 薔薇の送り主
ヴェラはベッドの上に座って、窓の外に広がる川のある風景を眺めていた。
土手の上を歩く親子の姿、釣りに興じる老人。犬の散歩をしている婦人に中年ジョガー。こんな何気ない光景さえも病室から眺めるとこんなにも羨ましい世界に見えるんだ。
まさか、自分が土手を通る時に時折、見上げていた病院の中から、外界を見下ろすことになろうとは……
「ふっ」
自嘲気味に笑ったヴェラはベッドに横になると、ズシリと重い右腕を持ち上げて、私のくせにそんなにうまく行くはずがない。天井に翳したギプスの巻かれた右腕を見て、もう一度、自嘲気味に笑うのである。
それはほんの一瞬の出来事だった。生クリームのせのプリンを片手に道端を歩いていたら、突然、目の前に自転車のような物が現れ、気が付いたら、病室のベッドの上に寝ていた。
事故に遭ったらしく、その時に右下腕を骨折してしまったようだ。
どうやら自転車に撥ねられたらしい。
らしい。と言うのはヴェラ本人が覚えていなからである。
薔薇の花と、体がふんわりとした感覚と空の青さは覚えているものの、その先の記憶が一切なく、次に意識を取り戻した時にはすでに病院のベッドの上だった。
ドクターの話では打ち所が悪かったようで、三日間ほど、死線を彷徨っていたらしい。
「はぁ」
それにしたって、相手が自転車って……ヴェラは大袈裟に、ため息を吐いた。相手がトラックなら恰好がつくし、トラックに跳ねられて腕の一本くらいで済んだのなら、それはそれで武勇伝になる。
よしんば、三輪自動車でもまだなんとか高らかに誇れるだろう。
最悪、オートバイでも……
「ふっ、自転車って」
重いギプスを巻いた腕で宙に円を描いてみたりして。
すると、右腕をハンマーにでも改造されたようで、なんだか強くなった気持ちになるから不思議だった。
とは言え、自転車に轢かれた挙句、商売道具である右腕を持っていかれて、三日も死線を彷徨ったなんて、恥ずかし過ぎて誰にも言えやしない。
特にレイチェル達には言えやしない。馬鹿にされるに決まっている。
ヴェラは絶対にレイチェル達には教えないでいよう。そう決めたのであった。
だから、昼食を食べ終わった辺りで、エマとレイチェルが見舞いに訪れた時には冷や汗が止まらなかった。
「ヴェラ、具合はどうなの?今朝、キャシーから電話があって、本当に驚いたんだから、押しかけて迷惑になったら駄目だから、ゆっくりにしたんだけど。さっき、詰所で三日間も意識なかったって聞いて、さらに驚いたわよ」
声のボリュームを押さえる代わりに、手振りを大袈裟にしてエマが言った。
どうやら、エマは本当に自分のことを心配してくれていたのだと、嬉しくなった。
一方、
「ヴェラ、元気そうだよね。エマが血相変えて「ヴェラが交通事故に遭って入院した‼」って騒ぐもんだから、てっきり、集中治療室とかに入ってるのかと思ったのにー、ちっ」
レイチェルはいつも通りヘラヘラしていた。
「今、舌打ちしましたねっ⁉なんですか、それじゃ、もっと包帯グルグル巻きだった方が良いって言うんですか⁉」
「うんっ‼」
「この子は、やっぱりアホな子です!どうしようもないアホな子です‼」
喜色満面と頷いたレイチェルにヴェラが尽かさず噛みついた。
「それだけ、元気があれば大丈夫だねっ!」
「ズルイですよレイチェル。そう言う風に落とされると、私がアホな子みたいじゃないですか」
ヴェラがいつも通りレイチェルに噛みつくと、レイチェルは悪戯な笑みとは別な安堵の笑みを浮かべながらそんなことを言うのである。
もしかしたら、レイチェルはレイチェルなりに心配してくれていたのかもしれない。
そうなると、少しでも邪険に思った自分が恥ずかしい。
「もう、レイチェルってば、素直じゃないんだから」
エマは呆れた様子でそう言いながらも、いつも見たくレイチェルに強くツッコミを入れることはなかった。
「クリスティさん。お花が届いていますよ」
束の間の沈黙があった後、そう言って、深紅の薔薇の花束が収められた花瓶を抱えたナースが病室へやって来た。
「えっと、誰からですか?こんな立派で綺麗な薔薇をくれる人だなんて」
編集からだろうか?ヴェラは薔薇を送ってくれそうな相手を思い浮かべて、えらいことを思い出した。
「なんでも、事故の関係者らしいですよ」
窓際に花瓶を置きながらナースが短く答えると、レイチェルが、
「それって、さっき詰所のところに居た爺ちゃんですか?茶色のベスト着てた」と身を乗り出した。
「そうそう、その人よ。ヴェラさんに直接渡したいと言われたのだけど、親族でも友人でもなかったから、部屋番号を教えなかったんです。そしたら、せめて花だけでもって」
「なるほど、そう言うことですかぁ」
部屋を出て行くナースの背中を見送りながら、なぜか、レイチェルはニヤニヤしている。
「あぁ、エマ。心配してくれてありがとうございます。隣でニヤニヤしてるレイチェルが気になるところですが、お礼が遅くなってしまってすみません」
「へっ、いいのよ。そんな、どうしたの?ヴェラ……」
「どうしたも、こうしたも、ないですよ?」
「いや、元気な時のヴェラって、その、そんな殊勝な感じだったかなって。打ち所が悪かったって聞いたから、頭をその……」
上目使いでそんなことを言って来るエマ。
「私の感謝の気持ちを返してください。そして、私の素直な気持ちも返してください!」
ヴェラは渋い顔をしてため息交じりにエマにそう言うと「あっ、うん。ごめんねっ、ほっとした」となぜかエマが嬉しそうだった。
日頃の私はそんなに傍若無人だろうか……ヴェラは首を捻りながら、少し考えてみたが、すぐにそんなことはない。と何度か頷いてから、そう結論を出した。
「それで、レイチェルはさっきから何をニヤニヤしてるんですか。花をくれた人とは本当に面識がないですし、レイチェルが妄想してるような爛れた関係はないですよ」
レイチェルのことだからどうせ、ありもしない妄想話を実しやかに捏造しようと企んでいるのだろう。そう思った。
そう思ったのだが。
「自転車にぶっ飛ばされるとか、プププッーッ」
「なっ!なんでそれをレイチェルが知ってるんですか⁉」
そう来たかっ!ヴェラの恐れていた通りになってしまった。だが、その情報源がわからない。レイチェルは誰から聞いたのだろうか?
まだ、事故の事は誰にも話していないと言うのに。
「さっき、詰所ですったもんだしてた爺ちゃんがね、しきりに「……自転車に飛ばされた女の子だっ」ってくってかかってたんだよね。薔薇の花束持ってたから柄じゃないなーと思って見てたんだけど。ヴェラってそんなに軽いの?自転車にポーンって飛ばされるくらいに(笑)」
「(笑)やめいっ!自転車だって立派な車両なんですからねっ!物によれば、百キロくらい出るのだってあるんですからねっ‼」
「えっ、自転車ってそんなに出るの⁉」
エマが変なところに食いついたので、レイチェルに畳みかけることができなかった。
「いえ、言い過ぎました、百キロは出ないかもしれませんが、人を傷つける凶器になりうることは確かです」
「だよねぇ~。ヴェラはポーンって飛ばされたもんねっ。ポーンって(笑)」
「だからっ(笑)をやめろぉおーっ‼」
ヴェラは立ち上がるとレイチェルに、掴みかかった、だが、右手が使えない悲しさか、右手よりも非力な左手の握力ではレイチェルを捕縛しておくことができず、すぐに逃げられてしまった。
もちろん、追いかけるヴェラ。
「ちょっ、ちょっと二人とも何してるのよっ!」
その後をエマが慌てて追いかけた。
一分後……
ヴェラは再び静寂に包まれた病室の中で独り、窓の外の風景を見ていた。
病室を出てすぐに、三人してナースにすごく怒られ、ヴェラは病室へ連行され、エマとレイチェルはそのまま帰ってしまった。
「離して下さいっ!離してっ!離せぇ!」と後ろ首を掴まれ、病室へ連行される最中、諦の悪いヴェラは渾身の悪あがきをしてみたが、そのナースにはまったく歯が立たなかった。
「仕事を増やさないでもらえますか」
掴みあげられ、無理やりベットの上に座らされたヴェラに、ナースが優し気に言う。だが、ナースの瞳には明確な殺意が見て取れた……
「ごめんなさい……」
ヴェラは本能的に悟った。この人に逆らってはいけないと……
Ⅱ 籠の鳥のポルカ
とにかく、暇だったヴェラは、配られた献立表を読み返しては明日の昼食がナポリタンである事実に溢れる涎を裾で拭った。
ピーマンが嫌いだったヴェラは幼い頃からずっとナポリタンが苦手だった。だが、ロンドンに出て来て、食うや食わぬやの日々を過ごすうちに、あれほど忌み嫌っていたピーマンをも食べられるようになってしまった。
空腹とは最上の調味料と言うがそれ如何に。である。
ピーマンを克服したヴェラにとってはナポリタンはすでに、五本の指に入るほどの、好物へと昇り詰めている。
明日の昼食がとにかく楽しみで仕方がない。
窓際には深紅の薔薇が飾られてある。その薔薇を見て担当編集に連絡をしなければならないことを思い出した。だが、持ち合わせの無いヴェラには電話を掛けることができないし。まだ、安静にしていないといけないから、病院から出掛けることもできない。
事情を話せば、電話を貸してもらえるだろうか……
「あぁ……」
少し焦って考えてみたものの、考えてみれば、いつも編集部から電話かかってくるのであって、ヴェラから掛けたことがない。
従って、ヴェラは電話番号を知らないのだ。
名刺をもらった気もするが……
「えっと、鼻紙に使ったっけ……」
ちり紙が切れていたので、名刺で鼻をかんで捨ててしまったことを思い出した。
なので、結局はお手上げである。
「はぁ」
人生万事塞翁が馬。
やはり、自分にしては話が出来過ぎていた。気まぐれな投稿で新聞連載の仕事を貰えて、その連載に人気が出て、書籍化が現実になって……
自分自身でも夢ではないだろうか。と、思っていたが、こんな結末が待っていようとは……神様とやらが本当に存在して、試練の名の元に人の人生を弄んでいると言うのであれば、ロンギヌスの槍とか神殺しの最強魔術とか、とにかく何かで仕返しをしてやりたい。いいや、してやろう。
一番大切な時に大切な商売の道具を骨折してしまった。これでは執筆ができないから、締め切りを守れない。つまり、連載に穴を空けることになる。
そうなれば、即、連載は打ち切りで私はお払い箱になってしまう。
連載担当になって、編集長に挨拶に行った時、明確に忠告されたし。前任者も二回穴を空けてクビになったらしい……
「代わりなんていくらでもいるんだからな、精々、このチャンスにしがみ付くことだ」
洗礼のように言われた、この言葉は果たして激励だったのか警告だったのかわからない。そもそも、誰に何を言われようと、物書きで給料がもらえると言う現実に私は完全に舞い上がっていたのだった。
女手一つで、育ててくれたお母さん。事あるごとに、将来は、「教師になりなさい」と本を沢山買ってくれた。
読書が好きだった私はお母さんが買ってくれた本を夢中で読んだし、お母さんが買ってくれない、娯楽小説はお婆ちゃんが買ってくれた。
本を読むうちに、私は自分で物語を書きたくなった。いいや書いた。お母さんに見せると、「こんなものを書いてる暇があったら、勉強をしなさい」と読まずに捨てられた。
落ち込んだけれど、書くことが好きだったから、今度はお婆ちゃんのところへ持って行った。すると、お婆ちゃんは「ヴェラちゃんは将来、小説家になれるねぇ」と頭を撫でてくれた。
私は、この時はじめて〈教師〉以外になって良いんだと思った。
だから、私は小説家になることにした。人見知りの私が教壇に立てるわけがない。そう思ったのもあったが、大好きな物語を書くと言う事を仕事にできたら、どんなに幸せだろう。単純にそう思ったからだ。
もちろん、お母さんは猛反対をされたし、私がしつこく食い下がると、お母さんに頬をぶたれた。
はじめてだった。
次の日、学校から帰ると、隠しておいた、執筆途中の原稿と娯楽小説が全てなくなっていた。
お母さんを問い詰めると「必要のない物は処分しました」と一言だけ言われて、後は何を言っても無視を決め込まれた。
激高した私は、食器棚から母が大切にしていた、マイセンの大皿を取り出すと、床に思い切り叩きつけた。
ものすごい音がして、大皿の破片が床に四散した。
また、ぶたれると覚悟していたけど、お母さんは悲哀に満ちた表情で私を一瞥して、すぐに破片を片付けはじめた。
私は、居た堪れなくなって、その日の内に、身の回りの物をリュクサックに詰め込んで、雪の振りしきる中、お婆ちゃんの家に行った。
怒ってくれた方が良かった……ぶってくれた方が良かった……あの時のお母さんの表情が私をとても苦しめた。
お婆ちゃんは、雪と涙でぐしょぐしょになった私を、抱きしめてくれた。そして、訳も聞かずに、家に泊めてくれた。
それから、私はお母さんの家に帰っていない。
いつまでも、おばあちゃんは何も聞いてこなかった。それが気持ち悪くなった私が我慢できずに、お婆ちゃんに夢のことを話すと「ヴェラちゃんの思う通りにしてごらんなさいな」と言ってくれた。
だから、私は夢を追うことにした。
先生にも笑われたし、クラスメイトにもバカにされた。それでも、私は私の夢の為に、煙突掃除から食用カエルの捕獲まで、掛け持ちでアルバイトも頑張った。「最後にほくそ笑むのは私なんだっ‼」と自分を鼓舞して頑張った。
卒業間近になると母が頻繁にお婆ちゃんの家にやってきて、私の事でお婆ちゃんに色々と酷いことを言っていた。でもお婆ちゃんは最後まで私の見方でいてくれた……
卒業と同時に、ロンドンにやって来て、自分の追っている夢がどれだけ、無謀で儚いものであるかを知って挫折した。
お婆ちゃんからの仕送りの申し出を断って、自分の貯金だけで生活をはじめたけど、みるみる内に、貯金が減って行った。なのに、執筆は全然できなくて、もう、田舎に帰ろうかと何度も思った。でも、私を信じてくれたお婆ちゃんの為に簡単に諦めるわけにはいかなかったし、郷里で私のことを笑った教師とクラスメイトどもに、見返してやるためには、奴らの前で腹の底からほくそ笑んでやるためには、引くに引けなかった……あと、割ったマイセンの弁償もしたかったし……
ロンドンに出て来て2年目の春、ついに蓄えも底をつき、目ぼしいアルバイトも軒並みクビにされ、冷蔵庫が空になって、電気とガスが止められ、いよいよ水道も止まると言う、窮地にあって、ポストに入っていた一枚の封書が私の人生に光明をもたらした。
それが、アミューズブーシュ新聞社主催の小説コンテストの入賞通知だった。
「はぁ……ぁ」
悲惨の過去を思い越せばこそ、この成功目前での事故はヴェラにとっては、人生そのものの破綻を意味していた。
不安定ながらも、小説家としてなんとかやってきたここ数ヶ月。単行本が発売されたら、イの一番にお婆ちゃんに、本を添えて、報告の手紙を書こう。そう思って、その手紙が書ける日を楽しみにしていたと言うのに、よりにもよって自転車に轢かれたくらいで、全てを失いことになろうとは、想像力豊かなヴェラでも予想はできなかった。
Ⅲ 破滅の使者で救世主で
「もうっ、病院から電話があった時は、コーヒー吹き出しそうになったじゃない!」
宵の口前、キャシーがお見舞いに来てくれた。
丁度、お隣さんに頂いたカヌレを食べているところだったので「一ついかがですか?」と進めると、
「あなた……本当に打ち所が悪かったのね……」と、キャシーにとても心外な心配のされ方ををされた。
「いらないなら、あげません。私が食べるまでです。相変わらず、人の優しさのわからない人ですね。そんなだから、いつまで経ってもエマに嫌われたままなんですよ」
「なっ!ちょ!なんでエマの話が出てくるのよっ‼そっ、それに、エマには嫌われてなんてないんだから。けど……その…、エマが何か言ってたりとか?」
可愛いなぁ。とヴェラは顔中を真っ赤にしているキャシーにもう一度、カヌレを差し出した。
「心配しなくても、私は何も聞いてませんよ。あくまでも私は」
「あによ、その含みを持たせた言い方っ!」
キャシーはそう言いながら背負っていたランドセルを床に置く。すると、フローリングの床が軋んだ。
「気になってたんですけど、なんなんですか、その頑丈そうなランドセル?そして、どれだけ詰め込んでるんですか⁉床が軋みましたよ……」
「あぁ、これ?このランドセルは、曾祖父の形見でね。曾祖父が戦争の時に工兵だったらしくて、このランドセルに工具はもちろん、弾薬からニトロまで入れてたらしいわ。だから、丈夫だし、防水だし何より、お弁当も書類も一緒に入れられるところが気に入ってるのよね」
「ちょっと、重いけど」と続けて言ったキャシーの足元にある歴戦のランドセルは、なるほど、所々修繕が施されてあるのがわかった。
「そう言えば、エマとレイチェルに連絡してくれたのはキャシーですか?」
「えぇ、そうよ。ひょっとして、二人来たの?主にエマが来たの?」
「はい。二人揃ってお見舞いに来てくれましたよ」
ヴェラがそう言うと、急にキャシーがそわそわしだしたので、「お昼過ぎの話ですよ」と付け加えて言うと「べっ、別にエマがいつ来たって私には関係ないもの」と言いつつ、露骨に肩を落としていた。
「そう言えば、どうして、キャシーのところ電話がいったんでしょうか?私は事故から、今朝まで意識がなかったようなので、連絡なんてできませんでしたし、そもそも、キャシーの電話番号を知らないのですけど」
「スカートのポケットに名刺が入ってたらしくって、身分証明書もないし、とりあえず、そこに連絡とってみたら私が出たってわけよ」
「あぁ、そういう事だったんですね。エマ達が帰った後から気になってたんですよ、誰がどうやって連絡したんだろうって。真実は小説よりも奇なり。ふむっ」
ヴェラはしみじみ何度も頷いた。
「そんなことよりも、骨折以外、どこも痛いところとかないの?主に頭とか?」
「この通り、大丈夫ですよ。自転車ですよ。自転車ごとに三日間も意識を持ってかれて、挙句の果てに商売道具の右腕まで粉砕されてしまって。ふっ、自転車に人生までもってかれてしまいましたよ」
ヴェラは自嘲して力なく笑った。自転車にやっと掴んだ成功も、一握りの希望も全部、全部持っていかれてしまった。
こんなことなら、いっそ、意識を失ったまま一生眠り続ければよかったのに!そんな言葉さえ喉元まで出かかってしまった。
キャシーに泣き言を言っても、八つ当たりをしても仕方がないとわかっているのに。
「何言ってんのっ。自転車だって、立派な車両なんだからねっ!ひき逃げした犯人は私が必ず捕まえてあげるから。ヴェラは心配しないで、執筆に集中したらいいわよっ。一昨日、から編集部の連中が私のとこにヴェラの居場所を知らないかってしつこくて、しつこくて、今日なんてマグカップ投げてやったわよ」
鼻息を荒くして話すキャシーはいつの間にか腕組みをしていた。
ヴェラは、犯人が捕まっていないことを知った。そして、編集部が自分の入院の事を知らないことを知った。そして、腕組みをしても強調されないキャシーの胸元を見て、なんだか安心した。
「うへぇ。キャシーお願いです。編集部には入院のことは言わないでください。押しかけられたって、こんな腕じゃもう書けませんし……」
ヴェラは苦笑しながらそういうと、右腕にまかれたキプスでベッドの手すりを何度か叩いて
みせた。
「はぁ?」
キャシーは驚いたように、目を見開くと身を乗り出してから眉間に皺を作った。
「なんですか、急に変顔選手権の予選開始ですか。生憎、私のこの整った顔は崩そうとしてもそう簡単には崩せないので、他を当たって下さい」
ヴェラはそう言いながら、おぞましい物でも見るような視線と共にのけ反ってキャシーから距離を取った。
「だっ!誰が、変顔選手権の予選なんてするかっ!」
キャシーは、耳まで顔を赤くして、椅子に座り直すと、コホンッと前おいてから、
「右腕が使えないくらいでなに、ヘタレたこと言ってんのっ!右手がダメなら左手で書けばいいっ!左手がダメなら口でも足ででも書くっ!それが、文章を生業にする者の覚悟ってもんでしょ!何、それじゃあ、雨が降ってるから雪が降ってるからって郵便配達が休んだりするの?路面が凍ってたって新配達は一番寒い時刻に配達して回ってるのよっ‼」
今までに見たことがないキャシーがそこに居て、その人はとても熱く真剣で暑苦しく、そして極めてウザかった。
「わっ、私はっ!」
いつもみたく、とにかく反論してやろうと口を開いたのだが、この時は珍しく、一言も毒舌が出てこなかった。
「事故のショックもあると思うけど、連載作家の椅子だって競争激しいんでしょ?それに、聞いた話じゃ、書籍化も決定してるそうじゃない。こんなチャンス、きっともう一生巡ってこないんだからねっ。死んでも書かなくちゃ」
「死んだら書けませんけどね」
「屁理屈禁止っ!はい、これ原稿用紙。私のやつだけど下書きくらいにはなるでしょ?それから、この万年筆は大切な物だから大事に扱ってよね。壊したら……滅すっ」
そういうと、キャシーはランドセルの中から、まっさらな原稿用紙の束を机の上に置くと、その上に万年筆を一本乗せた。
目がマジだったので、ヴェラはそんな物騒な物、置いて行かないでほしいな。そう思った。
「それから、部屋の鍵を出すっ!必要なもの取って来てあげるから」
「えぇ、いえ別に大丈夫です。入院着は病院の貸し出しのやつですし、お風呂セットも貸してくれるそうなので」
「下着は?いくら動かないからって、女の子なんだから下着は毎日替えないと駄目だし、ヘアブラシだっているじゃない。あと、鏡も」
「いえ、ですから、大丈夫ですから」
と食い下がってみたヴェラだったが、結局、キャシーに押し負けて部屋の鍵を渡してしまった。
「今度来るときは、下着とかの他に何か美味しい物持ってきたげるから、楽しみにしてなさいねっ」と言い残し、キャシーは足早に病室を出て行ってしまった。
「むー」
相手がキャシーでも、恥ずかしい。
何が恥ずかしいって、何も無さすぎる部屋の中を見られるのが恥ずかしい。
ヘアブラシも無いし、鏡もない。下着だって二セットしか持っていない……
「あうぅ」
ヴェラは、久しぶりに恥ずかしさ余って、頭を抱え、そのまま枕に顔を埋めた。
そのまま、枕に顔を押し付けウリウリしたりしながら、ヴェラはキャシーが次に見舞いに訪れた時、なんと言い訳をしようかと必死になって考えていた。
貧乏だと悟られないようにするのは、どう言い繕えばそう思われずに済むだろうか。
近々、引っ越す予定だから……と言えば、引っ越し先を聞かれるだろうし。
いっそ、架空の同居人でも創造しようか……冷蔵庫の中身が空の理由にはなっても、二人分にしては圧倒的に衣類が少なすぎる。
致命的なことに、靴も無ければ洗面所に歯ブラシを一本しか置いていない。
「(帰ったら、歯ブラシをもう一本出しておこう)」
そんなことよりもっ!
そうだ、引っ越ししてきて、まだ荷解きを終えていないことにしよう。
うむ。それが良い。そうしよう……って!部屋のどこにそんな荷物があるんだあぁっ!
「(帰ったら、ダミーの段ボール箱を何個か部屋に転がしておこう。煉瓦でも入れて〈開封厳禁〉と書いて封をしておけば、開けられる心配もないだろうし)」
そんなことよりもっ!
ヴェラは、足をジタバタさせて悶々とした。
そもそも、条件が厳しすぎる。空の冷蔵庫に、数枚しかない下着、そして一枚しかない外着。後は、机以外には書籍が散乱している以外に、家財道具が何もないこと。
これらを網羅していて、さらに、キャシーを納得させる理由で無ければならないのである。
そんなの無理ゲーだ。
「(詰んだ……)」
ヴェラはバタバタさせていた足を力なくシーツに並べると、息苦しくなってきたこともあって、
「ぷはぁっ」と枕から顔をあげた。
すると、
「こんばんは」
そこには、リンゴの皮を剝いているネイマールの姿があった。
「ネイマールさん、こんばんは。えっとですね。その、一日中寝ていると体が鈍るので、それでその、ドルフィンキックの練習をしてたんですよ」
ヴェラはなぜか、ベッドの上に正座をしてネイマールに挨拶をした。
「あらあら、元気そうでよかったわ。最初、キャシーちゃんから、意識不明だったって聞いて驚いたんだけど、私もそうだったけど、キャシーちゃんもすごい心配していたのよ」
そんなヴェラを見て、ネイマールは果物ナイフを携えた右手を頬にやって、静かに微笑んでいる。
ヴェラはネイマールが苦手だ。レイチェルやエマ、キャシーは表情から大体何を考えているか推測ができる。だが、ネイマールに関しては全く何を考えているのかが窺い知れない。
邪悪な人間でないことはわかっているものの、得体がしれないという点で、どうしても構えてしまう。
「そーですか、そーですかっ。キャシーが大袈裟に騒いだだけですよ。もう、相変わらずあの人は大袈裟なんですからっ」
ヴェラは即座に正座を胡坐に組み直して、腕組みをすると、まんざらでもないと言わんばかりのドヤ顔でネイマールに言う。
誰かに心配されるのは悪い気がしない。
「はい、林檎。今日、お得意様から頂いたの。蜜がたくさん入っていてとてもおいしそう」
「ありがとうございます。頂きます」
遠慮なくヴェラは林檎を抓むと、そのまま口へと運んだ、シャリシャリした食感と林檎とは思えないほどの甘さに、ヴェラはつい、何切れも抓んでは口の中いっぱいに頬張ってしまった。
「こんふぁに、ほぉふぃひぃひぃんごは……んっ、はじめて食べましたよ」
「よかったぁ。まだまだあるから、何個か置いて帰るわね」
「すみません、ネイマールさんがもらった物なのに。でもそう言ってくれるなら遠慮なく頂きます」
「えぇ、沢山もらっても食べきれないもの。残りも食べてね。さっき、お夕飯頂いたところだから」
「そうですか、林檎は早く食べないと黒ずんでしまいますからねっ。そういうことなら、いたふぁひぃまふ」
そう言って、ヴェラが残りの林檎をむしゃらむしゃらとやっていると、不意にネイマールが、
「ヴェラちゃん。締め切り間に合いそう?」と聞いてきたので、ヴェラは動揺して林檎を喉に詰めてしまった。
「うぐぐうぬ」と胸を必死になって叩くヴェラに「はい。ヴェラちゃんお水っ」とネイマールが手際よく、水差しから注いだ水の入ったコップを渡してくれたので事なきを得た。
「それがその、この手なもので……」
ヴェラはバツが悪そうに一つだけ残った林檎を見つめながら、呟くように言う。
チラリとネイマールの挙動を見やるに、ネイマールはどこか遠くを見るように机の上を見つめていた。
その物言わぬ横顔をヴェラは直視できなかった。
「あの原稿用紙と万年筆、キャシーちゃんが置いて行ったの?」
「はい。その通りです……?」
「思い出すなぁ。キャシーちゃんね。取材中に車に轢かれたことがあってね。手首と足と骨折しちゃって、入院したことがあったのよ。事故の時に、お気に入りの万年筆を無くしてしまって、すごく落ち込んでて、そんなのキャシーちゃんらしくないって思ったから。私、万年筆をプレゼントしたの」
「え……じゃあ、まさかこの万年筆ってネイマールさんがプレゼントした物だったり?」
「うん、そう。「病人に鞭打つなんて、ネイマールは鬼よ」って、散々言われたんだけど、キャシーちゃんとっても嬉しそうだった……松葉杖ついて、取材に出掛けてたわね、とても痛々しかったけど、頑張り屋さんのキャシーちゃんらしくて素敵だった」
うっとりとどこかに視線を向けながら、一人で悦に入るネイマール。
その視線の端っ子でヴェラが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「ヴェラちゃん、私ね。キャシーちゃんが、その万年筆を置いて行ったのにはきっと、意味があると思うの」
そう言って、窓の外を一瞥したネイマールは、もう一度優しく微笑むと徐に立ち上がり「それじゃ、また来るわね」といい香りを残して出入り口へ向かって歩いて行ってしまった。
「そんなこと、言われなくたってわかってますよ。二人ともバカにしすぎです」
ヴェラはベットを降りて、机の前に腰かけてから真っ新な原稿用紙を一枚手前に引き寄せ落ち着かせた。
次に、キャシーが置いて行った万年筆を左手に取り、何とか右手でキャップを引き抜いた。
試しに、左手で持ってみたが、やはり違和感しかないし、右指と違ってペン胼胝がないから、万年筆が滑るようで書きにくい。
というか……
「うおぉっ、これじゃ、象形文字の方がまともな字に見えるじゃないかっ‼」
二人羽織りをして書いたらこんな字になるかもしれない。何文字か書いてみて、ヴェラはすぐに挫けてしまった。
とは言え、下書きくらいには……せめて、新作のプロットを少しだけでも……この際、ネタだけでもいい……
とにかく、何かを書くことにした。
思えば、何をヘタレたことを言っていたのだろう。骨折を理由にすれば、締め切りを伸ばしてもらえるかもしれないと思っていたのだろうか?思っていたと言えば、それは否だ。だが、期待をしていたと言えば……否定はできない。
キャシーが言っていたことは事実だろう。今自分が投げだしたとしても、別の作家と首を挿げ替えられて、自分はお払い箱になるだけ。
連載の日の目を求めて足掻いている作家なんて、救いを求める亡者のごとく、ごまんとひしめいていて、チャンスがあれば、連載を抱える作家の足を掴んで引きずり降ろそうと虎視眈々と狙っているのだから……
つい数ヶ月前まで、ヴェラはこの亡者の中の一人だった。
運か実力か、とにかく、一筋の蜘蛛の糸に掴まることができて、今はまだ雲の上に居て、なんとかしがみ付いているのだが……
不運な事故の憂き目遭い、加えて、自ら投げ出そうとしている現状では、雲の端に腰かけて足をブラブラしている状況に違いない。
後は、足を掴まれたなら、はいそれまでよ。
掴む側が掴まれる側に回った。ただそれだけ……
「むぅ」
それはとても面白くない。ヴェラは原稿用紙を筆先でつつきながら、眉間に皺を作って唸った。
引きずり降ろすのに文句はない。だが、引きずり降ろされるのは胸糞悪いったらない。
そんなことをされたなら、きっと発狂して、よからぬことを世界規模でやらかすに決まっている。
うん。その自信がある。
では、書かなければならない。
今日という日の奮闘が、やがては世界の平穏に直結しているのだから……
Ⅳ 昨日の敵は今日の友
「ここは本当に病院なんですかっ!幼気な患者を外に放り出すなんてっ‼」
屋上の中央にポツンとおかれた机に齧りついて、万年筆を走らせるヴェラは、時折そんなことを大声でぼやきながら、肌寒い風の吹く中、必死に執筆作業をしていた。
思い立ったが半狂乱。何が何でも書いてやるとやけくそ交じりに、書き始めてみると、意外と筆が進んだので、そのままショウセツカーズ・ハイに突入して、
「うぉぉらぁー」とか、
「やってやりますよっ!やってやりますとも!」とか、
「Oッ×ぅ△!だぁ」とか。叫んでいたら、夜勤のナースが慌ててやって来て、
「もう消灯時間過ぎてるんですから静かにして下さいっ!」と激しく怒られた。
ナースの声の方が迷惑じゃないか。そう思いつつ、ナースを無視して一度は口を瞑んだヴェラだったが、
「うぉらーぁっ」とか、
「明日はナポリタンだぁぁぁっ!」とか、
「光の速度で書けすとも!書きますよ、書きますっ、うひょっ‼」とか叫んでいると、
「ちょっと、何考えてるのよっ‼迷惑だって言ったでしょ‼隣の病室からも苦情も来てるんだからっ!ランプも消してっ」と青筋を立てたナースが出会い頭にヴェラの胸倉をつかんできたので、
「白衣の天使が怖くて小説家がやってられますかっ‼気に入らないなら戦争をしようじゃないかっ!かかってこいやぁっ‼」と逆にヴェラが勢いでナースを押し倒して馬乗りになると、両手にとても柔らかいモノが当たったので、イラッとした。
「なんですか、この柔らかいモノわっ!私へのあてつけですねそうですかっ‼翼ごともぎ取ってくれますっ‼」
そんなことを口走って、胸元を揉みしだいていたら、誰が呼んだのか守衛やら別病棟のナースと思しきナースが駆け付けて来て、ヴェラは瞬く間に取り押さえられてしまった。
「私はただ、小説を書きたいだけなんです!私は作家です、書くのをやめたら死んでしまうんです!放せぇっ!」
と喚いたら。
「だったらっ!もう外で書いてくださいっ‼」
涙を拭きながら白衣を直していたナースがついにキレた。
そして、現在に至る。
寒空の下に放りだされてみれば、半ばトランス状態にあったとは言え、少しやり過ぎた。足先の次に頭が冷えた。
個室なのをいいことにはしゃぎ過ぎた……もとい、暴走しすぎてしまった。
見上げる夜空には北斗七星。机の上には、読解不明なアステカ文字群が羅列された原稿用紙。シナリオは次から次へと流れるように、浮かんできたというのに、アウトプットする左手がそれにまるで追いつていなかった……右手であれば、ギリギリ読解可能な文字で収まると言うのに。
今更、スペックの差を嘆いてもはじまらない。そもそも、性能差に関しては織り込み済みだったはずなのだから。
せめてもの救いは、キャシーの万年筆が壊れていないと言う事だけだった。
「今夜の私は、今までにないくらい鬼がかってましたね」
満天の星空を見上げながら、ヴェラは心持ち穏やかに呟く様に言った。
「お婆ちゃん。言ってやりましたよ。私は作家だって。書くのをやめたら死ぬんだって」
ヴェラは左手に拳を作ると、夜空に突き出した。
「負けませんよっ!誰にも。そして自分自身にもっ‼」
ヴェラは怖った。
新聞連載の作品に人気が出たのはまぐれで、新作品が書籍化された途端、人気がなくなるのではないだろうか。叩かれるのではないだろうか。
そして、それが原因で新聞連載の仕事も失うのではないだろうか……
自信がない自分が、後ろ向きな自分が、骨折を大義名分に胡坐をかいて、偉そうに「しかたがないじゃん」とふんぞり返っていた。
そんな自分の背中に飛び蹴りを喰らわせられる自分がいなかった。
ただそれだけ……
最強の敵はいつだって自分自身なのだ。
O
「寒い……」
草木も眠りにつく頃、ヴェラは寒さに耐えかねて、病室に毛布を取りに戻ることにした。
静寂が支配する病棟の廊下にペタペタと響くスリッパの音。明かりと言えば窓から差し込む星明りと頼りない非常灯の光だけ。
とても、ホラーの世界だ。
これは、小説のタネに使えるかもしれない。そんな呑気なことを考えながら、内心では見えない何かに怯えながら詰所前の病室へと向かった。
非常階段の角を曲がったところで詰所の明かりが見えたので、ほっとした。誰かが居てくれると言うだけで、これほど安堵するとは……うん。これもタネに使える。
例え、そこにいるのが、プチ乱闘をした相手であってもである。
カレンダーでは昨日の出来事であっても、記憶の中ではまだまだ鮮明な部類に入る。きっと、あのナースは起きているだろうから、多分、気が付かれるだろう。ペタペタ音でバレているだろうし。
顔を合わせるのが気まずい……
「あ……どっ、どうかされましたか」
詰所の前で、聞き覚えのある声がヴェラの後頭部に投げかけられた。
ビクリと肩を震わせて、ぎこちない笑みを作って振り返ると、カウンター越しに、引きつった笑みを浮かべているナースが立っていた。
読書でもしていたのだろうか、胸元にハードカバーを抱くようにして持っている。
その本は、鮮やかなグリーンの装丁に金色抜きでタイトルが書かれてあるようで、ヴェラはその本に見覚えがあった。
「クリスタル・エドワースがお好きなんですか?」
「へっ?」
「あぁ、すみません。その本ですよ。私の持っている〈百合色のバトラーシリーズ〉に似ていたもので、つい」
「いっいえ。これ、〈百合色のバトラー〉の第一巻です。面白いからと薦められて」
「確かに、面白いです。バトラーと主人が入れ替わってるところなんか、設定が斬新だと思いましたし、細々としたゴタゴタやなんかも好きなんですけどね」
「それ、私も思いましたっ!。あ」つい、声が大きくなってしまったナースは、「まだ、序盤なのでゴタゴタはまだですけど、楽しみです」慌てて声量を絞って話を続けた。
「…」
「……」
「それでは、私は毛布を取りに来ただけなので」
なんとなく、無言が続いたので、ヴェラはそう言って、毛布を取りに病室へ入ると、さっさと毛布と上着を手に再び病室を出た。
取り立ててナースと話す話題もなかったが、横目で見やると、ナースはカウンターから顔だけを覗かせてヴェラのことを視線で追っていた。
屋上に戻ったヴェラは、机に戻るまでに、相当な寒さに歯を震わせた。暖房が入っていなくとも、室内とはこんなに暖かいものなのか。
とりあえず、毛布を頭から被り、寒さに体が慣れるまで椅子の上で膝を抱えていたが、体が慣れてくると、眠気が飛んで丁度いい感じになったので、執筆を再開した。
吐く息が白い。
まさか、こんな過酷な状況で、しかも病院の屋上で夜を徹して執筆することになるなんて、夢にも思わなかったが、頑張ってる自分感が半端ではない分、事の他、別の何かが燃え盛っていて、走らせるペンにも力が入った。
これが、俗に言う〈燃える展開〉と言うやつだろうか。
ヴェラはますます、上機嫌になった。
そして、付け加えると言うのであれば、いつになく物語や設定が、ホイホイと湧き出てくるのである。いつもは、頭を掻きむしってみたり、床に転がってみたりして、足掻きに足掻いて煮詰まった物語の展開打破を考えるのだが、今夜に関しては、それが全くなかった。
まるで、機械で編まれてゆく絨毯のように、すいすいと物語が進んでゆく。
そもそも、ミステリーと言うジャンルを難しく捕まえ過ぎていたきらいがあったことは否めない。
だから、ミステリーとはこうあるべき!と、トリックやら登場人物やらに頭を悩ませていたわけだが、別段、ジャンルはミステリーでも、既存のミステリーの枠に嵌める必要もない。
二割程ミステリー要素を散りばめ、後はコメディ要素しかなかったとしても、ギリギリミステリーであると言えなくもないはずだ。と言うか、言い切ってしまえば良い。
「うむ。私が最初の一人になればいいのですよっ!こんなに格好の良いことはありませんっ!」
クリスタル・エドワースは貴族社会のこの国にあって、主従関係を逆さにした物語を書いた。ヴェラの知る限り、この国でそんな大胆な構成の物語は聞いたことはない。
前衛的且つ斬新なこの設定は、その斬新さ故に、一時は一部の図書館で有害図書扱いされていた不遇な時代もあった。だが、現在ではすっかり市民権を得たベストセラーになっているのである。
何事も最初に一歩を踏み出す者への風当たりは常に厳しい。
けれど、だからこそ、得られる栄誉と名声がある。
最後の最後にほくそ笑むことさえできれば御の字。
諸々、ヴェラの望む所なのであった。
O
さらに寒さが厳しくなる明け方近く、居眠りをしては、氷のように冷たくなって痛む指先の痛みで目が覚めて。を繰り返していたヴェラは「これが、俗に言う、寝るなぁ!寝たら死ぬぞぉ!ってやつですね」とついリアル凍死の可能性について考え及んでしまった。
「おぉ……体が動かない……」
立ち上がろうとしてみると、関節と言う関節が凍り付いたように、思うように動かなかった。全身が、かじかんでしまっているような不思議な感覚だった。
「きっと……きっとっ、こんな体験をしながら、執筆をしているのは私くらいなものですねっ‼うひょーっ!」
変なスイッチを全開にして、駆け出したヴェラは素足のまま、毛布をまるでマントのようにはためかせ、屋上を駆け回った。
「ひょーっ!負けませんよっ!冬将軍それみたことかっ!」
刺すような寒さも、足の裏に食い込む小石の痛みも、なぜだか、自分が強くなっている証であるように感じられて、痛みとして認識されず、それはいつしか、快感へと変化していった。
ヴェラはこの時、変な扉を開けてしまったことを知る由もなく、後日、それを嫌と言うほど思い知るのであった。
「うぅ、私は一体何をしているのだろうか……」
汗ばんだ分、余計に寒くなったヴェラは夜明け前の町並みを見ながら、息を吹き上げてみた。上気する白く色着いた息は、さながら、蒸気機関車の煙のように見えて、少し楽しくなった。
吸っては大きく吐いてを繰り返していると、頭がぼおっとしてきたので、机に戻ることにした。
机に戻ってすぐ、出入り口のドアが閉まる音がしたので、振り返ってみると、例のナースが寒さに驚いた表情をしながらそこにいた。
「どうしたんですか?こんなところに?夜明けにはまだ早いですよ」
ヴェラの元へやってきたナースにヴェラは、さらりとそう言った。
「朝日なんて見に来ませんよ。凍死してるんじゃないかと思って様子を見に来たんです。これ、コーンスープです。よかったどうぞ」
未だ、夜闇の覆う周りを伺うようにしながら、ナースは机の上に、湯気の立ち上るマグカップを置いた。
「ありがとうございます。今しがた、凍えそうだったので、そこら辺を走ってたんですよ」
ヴェラは、遠慮なくマグカップを包むようにして両手で持つと、一口二口と熱々のコーンスープを喉に流し込んでいた。
「ふぃ~、生きかえりますぅ。五臓六腑に染みわたりますぅ」
マグカップから伝わる熱で指先の感覚が鮮明になってゆく。喉を伝って、お腹中に伝わってゆく温もりに、ヴェラは九死に一生を得たような面持だった。
「五臓六腑って、お年寄りみたいなこと言いますね。あの、クリスティさんは作家さんなんですよね?」
大袈裟な、と言わんばかりの彼女だったが、ヴェラの人心地ついた表情を見ると、呆れてものが言えない様子だった。
「作家と言えば作家ですけど、まだ、新聞小説の連載一本しかない、しがない感じのですけどね」
「新聞小説……それって、もしかしてアミューズブーシュ紙に連載していたりします?」
「へっ、あ、はい。そうですよ。その通りですが?」
「えっ嘘っ⁉〈キューリー夫人の華麗なる食客たち〉のですか⁉」
「「のですか?」も何も、アミューズブーシュ紙にはそれしか連載小説はありません」
「うわぁ、すっごいっ!私、プリシラ・エンデバーって言います。〈キューリー夫人〉毎回、楽しみにしてるんですよっ!私、新聞をとっていなかったので、知らなかったんですけど読書好きの知り合いに薦められて、読んでみてすぐにハマっちゃって!」
プリシラと言うナースはすでに子供のように目をキラキラさせて、ヴェラの眼前まで顔を寄せて、熱く語りだした。
「(うぅ、顔が近い……)」と思ったもの、どうやら、自分の作品のファンであるらしく、それはそれで、嫌な気はしなかったので、口に出しはしなかった。
「途中から読んだってことですか?」
「えっと、一番最初に読んだのは、ホラ吹き男が夫人の食客になる話でしたっ!てっきり、ペテン師か何かかと思ったら、法螺貝奏者だったなんてっ!良い意味で裏切られましたっ。てっきり、屋敷を追い出すのかと思いきや、目覚まし代わりに法螺貝を演奏させるとか、その発想がなかったです‼でも、そのエピソードで夫人の懐の深さがさり気なく描写されているんですよねっ!」
「ちょ、顔が近いっ、近いです。ホラ吹き男のエピソードでしたら、結構、最近ですよね」
荒い鼻息が口元に掛るのが気持ち悪くなったので、やっぱり、顔が近いと言うことにした。
「いえ、薦めてくれた知り合いが、第一話からのファンで、全話スクラップにしてファイリングしてて、それを借りて最初から全話、読みましたっ‼知り合いとは早く書籍化しないかなって話をしてるんですよっ」
紅潮するテンションとは裏腹に、寒さからか、鼻っ面が赤くなっている。
寒さを精神が凌駕しているのだろうか……
「おぉ、まさかの全話読破ですか。それはありがとうございます……作者として、嬉しいのですが、なんだか、お礼を言うのは違和感がありますね」
ヴェラはそう言って、照れ隠しにコーンスープ多めに口の中へ流し込んだ。
確かに、担当編集は、紙面連載小説が巷の人気を爆発的に博していると豪語していた。
だが、ヴェラはそれを信じたりはしなかった。だから、寝不足の目元で適当に受け流していたのだが……
プリシラのように、自身の小説を絶賛してくれるファンに直接出くわすと、否が応でもその実感が沸いてきてしまって仕方がない。
今までは、担当編集から評価を股聞きしていただけで、しかも、疑心から真に受けることもしてこなかった。
ファンからの生の声とは、黄色い声援とは、これほどまでに作家の原動力に明日への活力になるものだとは思っても見なかった。
「あの、ヴェラ・クリスティって言うのは本名なんですよね?入院記録にもそう書かれてありましたし。てっきり、ペンネームかと思ってたんですけど」
「えぇ、本名です。いいペンネームが思いつかなかったので、本名にしました」
ヴェラは嘘をついた。
物心がつく頃から、物語を書いていたヴェラは、いつか小説家になった時の為にと、幾つかペンネームを作っていた。
そして、各コンテストへ応募する際には必ずペンネームで応募していた。
だが、落選続きで、入選の光が一筋も見えないので、いつしか、本名でもペンネームでもどちらでもいいや。と適当に本名で応募したアミューズブーシュ新聞社のコンテストに入選したのである。
連載にあたって、担当編集からペンネームを聞かれたが、「本名で良いです」と短く答えた。色々理由はあったのだが、昔、自分の夢を馬鹿にした連中へ成功を知らしめる為と未だに理解してくれない母に、それとなく伝える為。この二つが主だった理由だった。
「本名なんですかぁ」
プリシラは露骨に、がっかりと肩を落とした。
「なんですか、本名だと何が悪いんですかっ、理由を聞こうじゃないかっ‼」
ヴェラは毛布をマントの様に翻し、プリシラの鼻っ面に自分の鼻っ面を密着させた。
「わっ、近いですよクリスティさんっ。違います違います、そんなんじゃありませんっ!ただ、知り合いと、本名かペンネームか予想をしあっていて、私はペンネーム派だったんですよ。ただそれだけです」
「それだけですか。えっと、その、ヴェラでいいです。他の人も名前で呼んでますし」
「本当ですかっ⁉私のことも是非、プリシラって呼んで下さいっ!いやぁ、ヴェラさんが心の広い人で良かったですよぉ。正直、あんなことがあったので、怒ってるかなと思っていましてですね」
「はははぁ」とプリシラはバツが悪そうに悪戯な笑みを浮かべた。
「あー、あれは確かに気まずいです。スイッチが入っていたものでつい半狂乱で、すみませんでした」
ヴェラは素直に謝ることにした。御託を並べても良かったのだが、大切なファンを減らしてしまうのは自分で自分の首を絞めるようなものだ。素直に謝るのも、ファンサービスの一環と言うことで……
うん。人気者は大変だ。
ヴェラは初めて、頭を下げながらにして優越感に浸ったのだった。
O
奇襲は夜明けに。と言うのは兵法で言うところの基礎であるらしい。
人はどうやら、夜明け頃が一番眠いからなのだそうだ。
そんなわけがない。ヴェラは異論を唱えていた。朝日の眩しさに眠気なんて逆に吹き飛ぶはずだ。ヴェラはそう信じて疑わない。
何せ、毎朝、壮大な二度寝をしたいのに、窓から差し込む朝日が眩しくて眠れやしない。
そんな自身の体験を元に異論を唱え続けてきたヴェラだったが、どうやらその考えを改めなければならないようだ。
町並みのはるか先、夜空が白々となりゆく山際。
すでにプリシラは夜勤業務に戻ってしまって屋上にその姿はない。
ヴェラは寒さのピークを全身で受け止めながら、想像していたよりも長い夜に、いい加減、イライラしていた。
眠いはずなのに、本能がそれを拒絶している。足先は千切れそうに痛いし、鼻水が止まらない。引き続き、寝たら死ぬやつだ。夜闇の独り、ヴェラは寝ようにも寝むれない状況に、さらに殺気立つのであった。
人がそれを絶望と呼ぶのであれば、遠き山際に見える朝日は希望の光明に他ならないだろう。
闇を払うように伸びる光は神々しくも、柔らかく、一度、陽が降り注げば、冷え切った体が優しい温もりに包まれてゆく。
朝光とは闇に飲まれかけた精神と肉体に対する、庇護なのだろうか……
「ふっ、今なら天使が居ると言われても信じちゃいますね」
ヴェラは柔らかく降り注ぐ陽の光と温もりに包まれ、顔を机に突っ伏すと、安堵と平穏に誘われるがまま、潔い眠りに落ちたのである。
今、奇襲を受けたなら、きっと、意識を取り戻さないまま昇天するだろう。
そんな偏屈なことを頭の片隅に浮かべつつ……
Ⅴ メシアと書いてクラーラ・クリスティと読む
その日は、小春日和の祝福を受けた、とても過ごしやすい日だった。
病院の屋上と言うこともあり、外界の喧騒からも解放され、時折、耳を撫でるそよ風がどうして、こんなに気持ちがいいのだろうかと、ヴェラは明晰夢のように、微睡みながら惰眠を貪っていた。
今は何時頃なのだろうか……?
薄眼で見た時、シーツが沢山干してあった。いつの間に干したのだろうか?そして、昨晩はこんなに、たくさん物干し台が並んでいただろうか?
夜と昼とでは風景が異なるが、まるで別世界のようで摩訶不思議だった。
「うぅ、お腹が……すいた……」
あと数時間は眠っていたいと思いつつも、空腹に激しくがなり立てる腹具合が、どうしてもそれを許してくれない。
親玉に反抗するとは、空腹のくせに生意気である。
「ふぁ~」
ヴェラはとりあえず、大きく伸びをしてみた。思った通り、体の節々が、特に腰の辺りが痛んだが、昨晩のそれとは痛みの質が全然違った。
「白雪姫は、やっとお目覚めね」
朝食と昼食を食べに、病室へ戻ろうかと立ち上がると、そんな懐かしい声と共に、懐かしい人物が突然、現れたので、ヴェラは驚いた。
「えっ、なんで……なんでっ⁉グランマがここに居るんですか⁉」
遠く郷里に居るはずの、ヴェラの祖母にあたる、クラーラ・クリスティ。
朗らかな目元と、優しい口元。皺は増えたが肌の色は白く、健在である艶やかな赤毛は彼女を実年齢よりも、ずっと若く見せている。
取り留めて強調性のない体躯と同じ色に近い赤毛から、ヴェラはクラーラ似であると昔から言われて来た。
「可愛いヴェラちゃんが入院したと聞いたら、居てもたっても居られなくなってしまって、昨日、こっちについたのよ」
いつも通り、朗らかに笑顔を讃えるクラーラ。だが、ヴェラがその口角の端が、何から赤っぽいものがついていることに気が付いた。
口紅か何かだろう。いずれにしても、些細なことだ。
「あれ?私が入院したことは、グランマには伝えていないはずなんですけど」
「病院から連絡がありましたっ。入院手続きと保証金を入金に来てほしいと」
「あぁ……ごめんなさい。どうやら、私が意識を失っている間に病院が勝手に連絡したみたいですね。お金は退院したら返しますから」
「お金のことはいいの。そんなことよりも、どうしてすぐに連絡をしないのっ!今しがた、事情を聞いてお婆ちゃん吃驚しちゃったわっ。三日間も意識が戻らなかったそうじゃないの」
そう言いながら、クラーラはハンカチを取りだすと、涙を拭う仕草をした。
「そうみたいです。本人である私も驚きました。まさか、自転車に撥ねられたくらいで、死線を彷徨ことになるなんて」
「ははは」とヴェラは自嘲気味に笑った。
「転んだって、打ち所が悪かったら、死んでしまうものよ。三軒隣のジョゼフさんなんて、この前、鍬に蹴躓いて、肥溜めに落ちちゃって、見つかった時は溺れ死ぬ寸前だったんだからね」
目元に力を入れて力説するクラーラ。
「うわぁ、肥溜ですか……死んでも地獄、生きても煉獄ですね……」
つい想像をしてしまったヴェラは顔を引き攣らせてそう言った。
肥溜めで溺れ死ぬのだけは絶対に勘弁だ。
ある意味、伝説の人になれるが、やはり、肥溜めで溺れ死ぬのだけは勘弁したい。
「グランマ。私はお腹が空いたので、病室に帰ります。グランマも来るでしょう?」
祖母の分の昼食はない。量は少なくなるが、半分ずつにすれば良い。
大好きで大恩のある祖母には、それくらいはして当然なのだ。
「あらあら、病室に戻ってもお昼ご飯はもうないわよ」
クラーラは眩しいくらいの笑顔でヴェラにそう告げた。
「ん?もう、昼食がさげられる時間ですか?あぁ、それは勿体ないことをしました。朝食も食べてないままだと言うのに、あぁ、二食分の食費がぁ」
ヴェラは、寝坊助な自分を悔いて頭を抱えた。
「あらあらぁ、ヴェラちゃんが起きないからぁ」
「んっ!」
ヴェラの本能が……もとい、観察眼が直感に訴えかけた。
祖母の口周りについている汚れは、口紅ではないと、確信したのは献立表を思い出したからだったが……
「グランマ」
「はぁい」
「お昼ご飯にナポリタンを食べましたよね。病院で出されたナポリタンを‼私が食べるはずだったナポリタンを食べたんでしょ‼」
「いえ、最初は食べるつもりはなかったのよ。でもね、病室で待てど暮らせどヴェラちゃん帰ってこないし、折角のお料理が冷めちゃうしと思って」
「そう思って、食べたんですね」
「一口だけって、思ったんだけどね。一口食べたら美味しくってっ。今時は病院食も美味しいのねぇ。お婆ちゃんが入院した頃なんて、毎食、脱脂粉乳が付いてきて、お料理も粗末で美味しくなかったの。レストランにも負けない味よね、ほほほ」
上品に口元を隠して笑うクラーラ。
決定的な一言は言わないながらも、ナポリタンを食べた犯人はもはや、疑う余地もなくクラーラで決定だ。
祖母の事は大好きだし、大恩もあれば尊敬もしている。だが、食べ物の恨みとそれは別なのである。〈食べ物の恨みは死んでも忘れるな〉多分、クリスティ家の先祖の誰かは家訓にしたと思う。
さて、どうしてくれようか……
「ほら、だって、ヴェラちゃんピーマン苦手でしょ?沢山入っていたわよぉ、それはもう山盛りっ」
ヴェラの危ない視線に気が付いたのか、クラーラは取り繕うように慌てて付け足した。
「ピーマンはとっくの昔に克服しましたっ!どんなに苦くったって、雑草よりは美味しいんですっ‼いくらグランマでも許しませんよっ!」
ヴェラは毛布を脱ぎ捨てると、戦闘モードに移行した。
「ごめんなさいね。突然の電話でヴェラちゃんの事故のことを聞いて、取るものとりあえず、こっちに来たんだけど、ヴェラちゃんの部屋に行っても、冷蔵庫は空だし、夜は怖くてお買い物にも行けないし、今朝も、病院に来る途中でお買い物しようと思ったのよ。でも、最寄りのバス停の周りにお店もなくて、結局、何も買わずに病院にお見舞いに行ったの。お婆ちゃん、お腹ペコペコで……」
「そんなに怒るなんて思わなかったのよ。私の可愛いヴェラちゃんなら、笑って許してくれると思って……本当にごめんなさいね……」
背中を丸めて、懇願するように言うクラーラだった。
「……じょっ、冗談に決まってるじゃないですか。ナポリタンの一皿や二皿くらいで、飛びかかったりしませんよ。なんてったって、今、巷で大人気爆発中の人気小説家の私なのですよっ!」
ヴェラは、祖母に対する激しい罪悪感から、そんなことを言ってはぐらかした。
「冷蔵庫は空だし…」その一言が何よりも心に突き刺さった。
「それはそうと、よく部屋に入れましたね?大家さんは自宅は結構、離れたところにあるので、大変だったでしょう?」
「えぇ、お隣さんに大家さんのことを聞いて、今夜、どこに泊まろうか、途方に暮れていたのよ。もう夜も八時を過ぎていたし。どうしようか考えていたら、キャシーさんって方が、貴方の部屋の鍵を持ってきてくれてね。それで入れたのよ」
「なるほど、キャシーとタイミングよく出会えたんですね」
そうか。そう言うことなら、キャシーに部屋の中を見られていないことになる。ヴェラは内心ほっと胸を撫で降ろして、その日その時、部屋の前に祖母が居てくれた偶然に感謝したのだが、
「キャシーさんってヴェラちゃんのお友達なの?とても礼儀正しくて可愛らしい子だったけれど?そうそう、冷蔵庫に何もないわ。って言ったら、自分のお夕飯用に買ったサンドウィッチをご馳走してくれたのよっ」と、クラーラが笑顔を咲かせて話したのを聞いて、
「えっ、酷い…酷いですよっ!グランマさっき、昨日から何も食べてないって言ったじゃないですかっ、ちゃっかりサンドウィッチ食べてるじゃないですかっ‼」ヴェラは涙を一杯溜めながら猛抗議をした。
「あら……」
しまった。とクラーラは視線を猛抗議するヴェラから外して、口元を押さえた。
「もう救いも何もあったもんじゃないですよっ‼ナポリタンッ!楽しみにしてたのに食べられないしっ!キャシーには一番知られたくない事を暴露されるし、もう私には何も残ってませんっ、人としての尊厳もお昼ご飯もっ‼この報われない時間を返してくださいよぉ……」
悲しいやら、腹立たしいやら、不完全燃焼を起こしながら荒ぶった感情は、どこに投げつけられる訳でもなく。やがて、溢れ出る涙となって吐き出されるしか行き場がなかった。
O
うむ。私は冴えている。
空腹に腹を鳴らしていたとしても、頭脳明晰は健在だ!
病室に戻ったヴェラは、怖いくらいの自分の閃きに身震いをしていた。
「ふふふっ、キャシー、来るならいつでも来るが良いです。万策万端、八面六臂死角なしです‼」
ヴェラはベッドの上に立ち上がり、力強く右腕を突き上げると、瞳の奥をキラキラさせていた。
「ヴェラちゃん、ベッドの上に立つだなんてお行儀が悪いですよ」
水差しに水入れて帰ってきたクラーラが、今にも飛び跳ねだしそうなヴェラを制した。
「うぅ、なんてタイミングの悪い……」
「お行儀にタイミングも何もありません。それはそうと、この綺麗な薔薇はどなたが持ってきてくださったの?」
クラーラは不意に真面目な顔をになって、ヴェラに尋ねた。
これに対して閃き絶好調であるヴェラは、
「私のファンの人が持ってきてくれたものです」と言い切った。
「ヴェラちゃん。お婆ちゃん真面目に聞いているのよ。どうしてそんな嘘をつくの?」
だが、すぐに見破られてしまったので、「あぅ、えっと、事故の関係者の人らしいですけど、ナースが気を利かせて、部屋番号を教えなかったので、直接、姿は見てません」
「そう……」
クラーラは薔薇の花を一本、花瓶から引き抜くと、懐かしむように花びらを優しく撫でた。
「薔薇に思い入れでもあるんですか?」
「薔薇にと言うわけではないけれど、〈この薔薇に〉は思い出があるのかもしれないの。ヴェラちゃん、きっと、この薔薇を届けてくれた人はもう一度、訪れると思うの、もしその時、お婆ちゃんが病室にいたなら、お通ししてもいいかしら?」
「別にいいですけど……?」
首を傾げてみるヴェラだったが、クラーラはそれ以上を語ることはなかった。
「それじゃあ、今日はもう帰るわね。暗くなる前にお買い物もしておきたいし、お洗濯物も干してきたままだし」
「わかりました。昨日の今日で疲れているのに、来てくれてありがとうございました」
「何を言ってるの、当たり前のことですもの。また明日来るわね」
そう言うと、クラーラは小さなハンドバッグを小脇に抱え、病室を出て行った。
窓の外の日は高かったが、後数時間もすれば、薄暗くなってくるのだろう。どうしてだろうか、急に一人に、静かになると、言いようもなく胸の内がざわめいてくる。
一人で居ることが常であるから寂しいはずがない。
一人と独りは違うと言うことなのだろうか……
こんな不安定な気持ちのままでは、夕日はとても見られない。きっと、泣いてしまうだろう。ヴェラは、浅く息を吐くとカーテンを閉め、机に向かうと小説の続きを書き始めたのであった。
待ちに待った夕食を経て、ヴェラは依然として順調に筆を進めていた。それはもう、溢れる創造力を文字として記す左手の不甲斐なさに苛立つほどに。
昨日まで煩悶とした日々は一体なんだったのだろう。既存のザ・ミステリー小説に肩を並べなければならないと、落ち込んでいた日々が馬鹿みたいである。小説のタネもネタも周りにいくらでも落ちているではないか。それを有効活用せずに、別の畑に足を踏み入れるなんて愚の骨頂。アホの絶頂だ。
他の畑を荒らしに行くのは、もっと、地盤を固めてからでも遅くはない。今は極力作品同士が似寄らないように気をつけつつ、自分の得意分野をガンガン押して行けばいい。
「やっほー、来たよーっ」
「こんばんはぁ」
夕食後の一時を経て、窓の外に夕陽が消えた頃、ヴェラがカーテンを開くと同時に、レイチェルとエマが病室を訪れた。
「面会時間ギリギリにわざわざどうもです」
一人と独り。似ているようで意味の異なる〈ひとり〉。こうして、面会に訪れてくれる人が後を絶たないことを素直に喜ばなければならないし、感謝もしなければならない。
ヴェラは執筆の手をとめて、二人に向き直った。
のだが……
「折角、来たのに、そんな言い方ないと思うなー」とレイチェル。
「うん。私もそう思う。ヴェラの為を思って来てるのに、それじゃ、迷惑みたいじゃない」とエマ。
あれ?そんなつもりで言ったつもりはないのに……誤解されてしまっている?
「ちょっ、ちょっと待ってください。私はそんなつもりで言ってません、本当です」
二人の思わぬ、反応にヴェラはしどろもどろになって、それだけやっと言えた。
「そうかなぁ。言葉尻が嫌みっぽかったけどなぁ」
「トゲトゲしてたよっ!」
「うぅ、いや、本当にそんなつもりはなかったんですって、これでも感謝してるんですから、お菓子もお茶もありませんが、とりあえず座って下さい」
半信半疑なのだろうか、エマはじとぉとした目元でヴェラを見ながら、尖らせた口を直さないまま、椅子に腰かけた。
足元に置いた、キャリーバッグが気になったが、まずは誤解を解く方が先である。
「んーっと、どうしよっかなぁ、帰っちゃおうかなぁ」
エマは別にはちゃんと懇切丁寧に誤解を解くとして、ない胸を張って、偉そうにのけ反っているレイチェルはどうしてくれようか、この子の場合は完全に確信犯で間違いない。
「レイチェルは帰っても良いですよ。無理に引き留めるのも心苦しいですし」ヴェラは視線に哀愁を乗せて、レイチェルにさらっと言ってから、何事もなかったのかのように、
「エマはどこかに出掛けるんですか?キャリーバックなんて持って」と尋ねた。
「ちょーっとっ‼今の酷いと思うんだよねっ‼私が帰っちゃうんだから、エマも帰っちゃうんだからねっ‼エマ帰ろっ‼ヴェラなんて放っといて、今すぐ帰るっ!そうだ、帰りに、ピザ食べて帰ろう、厚切りベーコンがずっしりの熱々ピッツァ~、病院じゃ食べられないよねぇ~熱々のピッツァだもんねぇ」
軽くあしらわれたレイチェルが地団駄を踏んで、吠え散らかした。
が、
「これをヴェラに届けに来たのよ。あと、レイチェル、病院なんだから静かにしてよね」
エマもレイチェルを軽く受け流して、キャリーバッグを空けると、見覚えのあるタイプライターを出して膝の上に置いた。
「それって、エマのタイプライターじゃないですか。どうしたんですか?」
「うん、ネイマールから、ヴェラが利き手が不自由で執筆に困ってるって聞いてね。ほら、私は、タイプライター使わなくても手書きできるし」
「ありがとうございます。本当に助かります。左手が想像以上に使えなくて、困ってたんですよ。タイプするだけなら、右手も使えますし、執筆もはかどると思います。でも、実はタイプライターを使ったことがないので、エマ教えてくれませんか?」
「うん。そうだと思って、一様、説明書モドキも作ってきたから。これから、教えるけど。私が帰った後、わからないことがあったら、使ってね。それじゃあ、」
とエマがタイプライターの使い方の説明をはじめようとした次の瞬間、
「だぁっとっ!ふっふっふっ、そうは簡単に行かないのだっ‼さぁ、返してほしければ、力ずくで取り返してみろっ‼」
レイチェルがエマの膝からタイプライターを引っ手繰り、頭上に掲げると、誘拐犯の常套句のようなことを口走った。
「レイチェルは何をしてるんですか。面会時間終了まで時間がないんですから、悪ふざけはよしてください」
「そうよ、レイチェル。今は遊んでる場合じゃないの、ピザなら帰りに買って帰ればいいでしょ?」
レイチェルに対して、大人な対応の二人。
「ちょ、二人してその塩対応はなんなのさっ‼こうなったら、タイプライターぶっ壊して、私も……私は逃げるっ!」
自分は逃げるんだ。ヴェラとエマは二人揃って、意外と冷静なレイチェルに頬を掻いた。
とは言え、タイプライターを頭上に掲げたまま、そんなことを言うレイチェル。レイチェルがレイチェルだけに、冗談とも言い切れず……ヴェラはどうしたものか対応に困った。
一方のエマは、愛用しているタイプライターの危機状況に戦慄している様子である。
んー仕方がない。
あまり気は乗らないが、ここでタイプライターを壊されては本末転倒だ。ここは、自分が大人になるしかない。
「レイチェル、貴方は今、正義を見失っているっ!」
ヴェラはベッドから床に飛び降りると、レイチェルに相対して、凛としてそう宣言した。
「ヴェラ。怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬように心しなければならないんだよ。私はもうこっち側の怪物なんだよね。そうだっ‼我こそは血も涙もない怪物レイチェルなのだぁ!わーはっはっはっぁ‼」
むっ。大人の対応をするつもりでレイチェルのペースにのったのだが、その台詞を言われては……その台詞を言われてはっ‼
「ふっ、レイチェルが怪物と言うのであれ、私はそれを統べる魔王にでもなりましょうか。忘れていませんか、我が右手に宿りし大いなる力の事をっ‼」
そう言いながら、ヴェラは不敵に笑うと、右腕を突き出すと、滑らかに指を動かし拳を作り、
「あーはっはっはっはっ!これぞ、世界を滅ぼす封印されし右腕なりっ‼」と高笑いを上げた。
「うぐっ、そっそれは、世界を破滅に導く伝説の……伝説のロケットパンチ……」
レイチェルは額に汗を浮かべて、半歩、後ずさった。
「えぇ、世界を破滅させるの、ロケットパンチなの?ねぇ、レイチェルもヴェラもそろそろやめようよぉ」
おっかなびっくりエマが口を挟んだが、二人の世界にその声は届かなかった。
「行きますよ怪物レイチェルっ‼おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくお前を見返すのだぁ‼」
ヴェラはそう言い終わる前に、両足に力を込める。左手をギプスに添えると、発射体制を整えた。
タイプライターを胸の前に構え、来る攻撃に備えるレイチェル、ヴェラの中でカウントダウンがゼロに迫る。
もうここまで来たら、誰にも止められない!タイプライターが壊れてしまうかもしれないが、それも仕方がない。
発射っ‼
ヴェラが両足にそう命令したその刹那、
「ちょっとっ!もう面会時間はとっくに過ぎてますよっ!あと、病室では騒がないっ‼」
突如として、ドアから現れたのは、昨日、ヴェラとレイチェルとの間に勃発した戦争を瞬く間に鎮圧した、恰幅の良すぎるナースであった。
低く平静を装った声とは裏腹に、額には青筋が浮き出ている。
オーバーロードの出現により、レイチェルとヴェラの間に再度勃発した幼稚な争いは、争いとしての体をなす前に再び鎮圧されてしまったのであった。
「「イ…イエス、マイロード……」」
二人してそう呟いた。
ヴェラは右手を静かに下ろした。
レイチェルは、ゆっくりと、タイプライターを机の上に置いた。
「何ですって?」
「「ごめんなさいっ!」」
二人して、全力で頭を下げた。
「ったく、仕事を増やさないでっ!」
泣きそうな二人を順番に見てから、オーバーロードは病室から出て行った。
「うへぇ、やばかった……」
「今度こそ、殺られると覚悟しましたよ」
二人は、魂が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
「もう、また怒られちゃったじゃないっ!私、何も悪いことしてないし言ってないのにっ!」
「ふっ、エマったら一蓮托生に決まってるじゃんか」
レイチェルは脱力しながらもヘラヘラと乾いた笑い声をあげた。
「ヴェラ、これ説明書き置いとくからね。レイチェル早く帰りましょ、長居してたら、またあの人に怒られちゃう」
エマはよほど、堪えたと見えて、メモ紙の束を机の端に置くと、レイチェルの手を取って出入り口へと足早に向かう。
そして、ドアを開けてから、
「明日も、来るから、またねヴェラ」とエマが早口に言い、「まったねぇー」とレイチェルが言うと、ドアが閉まり、また病室に静寂が訪れた。
「嵐の如くとは言いますけど、これまさにですね」
窓から、駆け出してくる二人の姿を見ながらヴェラは、その姿を微笑ましく見送った。
そして固く誓ったのである。
次からはミイラ取りがミイラにならないようにしよう。と。
Ⅵ 再会とそんな真実
やってしまった。
燦々と差し込む太陽の光を恨めしく見ながら、ヴェラの目元は寝ぼけたまんまであった。
せめて、朝食が配膳されるまではタイプしよう。そう思って、机に向かうと、机の上にすでに朝食のトーストが置かれてあった。
「……いただきます」
傍らに置かれた苺のジャムが美味しそうだったので、とりあえず、朝食を食べることにした。
エマ達が帰った後、ほどなくして、エマの書いた説明書を見ながらタイプライターを使って、ポチポチと執筆をしてみた。
ボタンも軽く、右手も使えて、とても効率が良い。
何より、ポチポチやるたびにカシャカシャと鳴る機械音がとても耳心地がよく、すぐにタイプライターを気に入ったヴェラは今夜も徹夜だっ!と意気込んだ。
意気込んだのだが……
「消灯時間だから、し・ず・か・にっ!してくださいね。と言うか寝てくださいっ!」
と22時を回った辺りで見回りで病室を訪れたオーバーロードに下知を下され、あえなく作業を断念せざるを得なかった。
ポチポチするのも楽しいし、乱暴にタイプしようが、優しくタイプしようが、同じ文字が印字されるのだから、ポチポチするヴェラは気楽なそのもので、久しぶりに執筆作業が楽しく思えたというのに……
思わぬ落とし穴だった。
「このベルだけでもなんとかならないんですかねぇ」
このタイプライターは用紙の最終行までくると、チーンッと甲高いベルが必ず鳴る。
寄稿文店でも何度なく聞いている音だから仕様なのだろうが、タイプ音はなんとか消音できても、このベルだけはなんともならない。
ベルが鳴る前に用紙を引き抜いても見たが、引き抜く際に変な音がしたので、二度とする勇気もないし……強行して今晩も屋上で執筆しようか……
そう思ってみたものの、窓を打つ強風の音にすっかり、その気概は萎えてしまっていた。加えて、あのオーバーロードが屋上行を許可も黙認もするはずがない。
すでに「寝ろ」と言う絶対君命も下っている。
「ふぅむ、仕方がないですね。今日は寝て明日の早朝から続きをしよう。うん」
絶対君命は絶対なので、さすがのヴェラも大人しく受諾するしかなかった。
そして、明けた翌朝。
イチゴジャムを塗ったトーストをムシャラムシャラとやっている現在に至るのであった。
トーストを食べ終え、トレーを返却してから、昼前までポチポチとやって、目が疲れたので、昼食まで寝ようか、と伸びをしたところ、クラーラが見舞いにやってきたので、どちらにせよヴェラはベッドの上に移った。
「今日もいいお天気ねぇ」
「はい。外に出られないのが憎々しいくらいにいい天気ですよ」
惰眠日和であるこんな日は、川のほとりのベンチで惰眠を貪るに限る。
「退院したら、ピクニックにでも出かけましょうね」
「そうですね。川のほとりに、お気に入りの公園があるんですよ。そこに行きましょう」
決して裕福な環境になかった、ヴェラの楽しみと言えば、クラーラ特製のお菓子とお昼ご飯をバスケットに詰めて出かけるピクニックだった。
とても懐かしくも、楽しい想い出である。
「その、グランマ。すみません」
「どうしたの急に?」
「いえ、冷蔵庫に何も入ってなかったと思いますし、洗剤とかその辺りも無かったと思うので……」
恥ずかしながら、〈足りない〉とか〈心もとない〉とか言うレベルではない。
全くない。
冷蔵庫に関しては、電気さえ通していなかったのだから……クラーラが何も言わないところ見ると、壊れてはいなかったようだが……
「一人暮らしは大変だものね。私も、若い頃はヴェラちゃんのアパートの近くに住んでいたことがあるのよ。建物自体はもうないけれどね。だから、一人暮らしの大変さはわかるつもりよ」
クラーラは微笑みつつそう言うと、「これ、お見舞いに来てくれたお友達と食べなさいね」とクッキー缶をヴェラに渡した。
中味はクッキーではなく、マドレーヌだった。
「グランマもあの辺に住んで居たんですね。初耳です。もしかしたら私のお気に入りの公園も知ってるかもしれません」
「どうかしらねぇ、川沿いの方にはあまり出掛けなかったから……」
そう言いながら、窓の外へ一度視線を向けたクラーラは、すっかり、萎れてしまった薔薇を一瞥すると、「ヴェラちゃん、お水替えなかったのね」と口にした後、立ち上がると花瓶を手に出入り口の方へ歩きだす。
その時のクラーラの寂しそうな顔を見るや、ヴェラはとても悪いことをしたような面持になった。
なんだか釈然としないままだったが、水替えをするのをすっかり、失念していたのは事実なので、ヴェラは釈然としないままだったが、とりあえず、窓を開けることにした。
コンコンッ
そんなタイミングでドアをノックする音がした。
「はい、どうぞ」
こんな殊勝な心掛けをするのはネイマールかな?と思った矢先、開いたドアから深紅の薔薇の花束を抱えた見知らぬ初老の男性が現れた。ヴェラはドアが開いたと同時に流れ込んだ風に揺れるカーテンのようにたじろいで驚いた。
やや幼い印象を受ける目元と、高い鼻、薄い唇。典型的なイギリス人な風貌に深みのあるブラウン色の背広の上下に蝶ネクタイ、髪の毛はポマードで塗り固めてあるのだろうか、独特の香りと光沢が見て取れる。
そんな容貌で、薔薇の花束を抱えているのだから、さながら、劇中でプロポーズの待ち合わせに現れた主人公のようであった。
「私はウィンチ・ホースと言う者だが、ヴェラ・クリスティさんの病室はこちらで間違いないかね」
男性は、病室の中央付近まで歩み寄って、窓枠に腰を密着させて身構えるヴェラに静かにそう尋ねた。
「ヴェラ・クリスティは、わ、私です、おっお名前をどうぞっ!」
「……私の名はウィンチだ。すると、君が事故に遭った女性なのかね?」
「はい、そうですとも。私が自転車に撥ねられた女性ですともっ。これが証拠ですっ」
ヴェラはそう言いながら、右手のギプスを突き出して見せた。
「そうか、君か……」
ウィンチ氏は、呟く様に言うと、視線を床に落とし込んでしまった。傍から見ると、それはとても落胆した姿に見えた。
「む……」
「はぁ……」
「あらあら、お客さんなの?わざわざ、お見舞いに来て下さってありがとうございます。さぁさぁ、どうぞお座りになって」
嫌な沈黙が束の間あった後、沈黙を破ったのは、嬉しそうに入って来たクラーラだった。
ウィンチ氏に座るよう、促して後、水が入っていると思しき花瓶を机の上に置いた。
「それで、ヴェラちゃん。こちらの方は?」
「ウォンチ……えっと…」
「ウィンチ・ホースです」
ウィンチ氏はなぜか上ずった声で短くクラーラに自己紹介をしてから、
「こっ、これをっ!」と震えた両手で薔薇の花束をクラーラに差し出したのである。
なんだこれ……ヴェラは頬を掻きながら、初々しい仕草のウィンチ氏を見ていた。
「あらあら、以前も綺麗な薔薇の花を頂いたみたいで、本当にありがとうございます」
「まぁ立派な薔薇だこと」クラーラは続けてそう言いながら、ウィンチ氏から花束を受け取ると、包紙ごと花瓶に生けた。
この男は私のお見舞いに来たのではないな。ヴェラはずっとクラーラに釘付けになっているウィンチ氏を薄眼で見ながら、そう思った。
と言うよりも、そもそも、この男が自分の所に見舞いにくる理由がない。見たところ、ファンでもなさそうだし……わかりやすく、クラーラに惹かれている様を見やるに、大方、病院内か町中でクラーラを見つけ、ストーキングの末にこの病室にたどり着いたのだろう。
見たところ、クラーラよりも年下のようだったが、モテそうにもないし、恋愛経験もなさそうだし……老人の一目惚れは、老い先短い分、危険な方向に一線を踏み越えるのも早いと聞く。
ここは、愛すべきグランマの為に、釘を刺しておこう。
ヴェラは自分のファンではないことを窺い知ると、簡単に非情になれた。
「それで、ウィンチ氏。あなたは、どうして今ここにいるのですか。私はあなたと初対面なんですが。あれですか、一目惚れしちゃったんですか?ストーキングしちゃいましたか?町中でお茶目に買い食いをして歩く、グランマに………………に似ている私にっ!」
相手が、たとえ祖母であっても、ヴェラの中にある乙女心が一さじ程度、燃えて気が付いた時にはそんなことを口走っていた……
見れば、なかなか高級そうな腕時計をしているし、靴だって磨き上げられてある。袖元で光るカフスボタンにはダイヤくらいはついているかもしれない。
安易にファンではないと切り捨ててしまうのは、勿体ない。
「なっ!なんてことを言うんだっ。ストーキングなどするものかっ!事故に遭ったのがクリスティと言う名前だと聞いて……その…昔の知り合いかと思ったんだ」
「昔の恋人か逃げられた奥さんかもしれないと、花束抱えて結果オーライ病室突撃訪問しちゃったんですかっ!」
一呼吸にヴェラは言ってやった。
一目惚れの件は否定しないんだ。と言う細かいツッコミを入れるのを忘れた事を言い終わった後に気が付いたが、言い切った手前、付け加える隙がなかった。
「あらぁ、やっぱり、ホースさんなのねっ。昨日、お家の近くを通りかかったのだけど、相変わらず素敵なガーデニングだったわぁ」
え?
「ちょっと、グランマ何を言ってるんです?まさか、この人と知り合いだとか言い出さないでくださいよ」
「知り合いよ。ウィンチ君も立派になったから、今の今まで確信が持てなくって」
えぇー
「やっぱり、クリスティ先生なんですねっ!お久しぶりです、さっき一目見てそうなんじゃないかと思ったんですっ!先生はお変わりなく、綺麗なままですねっ」
おいおい……
そこそこ、貫禄のあったウィンチ氏がまるで少年のように瞳をキラキラさせて、軽快にそんなことを言いだした。
「あらやだ、お上手になったのね。あんなに口下手だったのに。ご両親はお元気でいらっしゃるの?」
おいおいおい……
クラーラまで、乙女のようにキャイキャイとやりだした。元々、仕草や言動に可愛らしさのある人だが、ヴェラの眼にはその後ろにお花畑が見える。
「両親はすでに亡くなりました。今は私が、あの庭を受け継いで、我流ですけど世話をしているんです」
「あらそうなの、もう一度、ご両親ともお会いしたかったのに、そうよね。お互いに年をとったものね」
「ちょっとっ!あなたは私に、花を持って来たのではないんですかっ!この際、私が目当てと言っても変態と呼ばわりしませんからっ!無視しないで下さいっ!」
ヴェラは二人の会話が途切れた間隙を狙って、声を荒げて言った。
そして、つい最後に本音が出てしまった……と顔を紅潮させた。
「私は、事故当日、怪我人を介抱するレスキュー隊員が「クリスティさん」と声を掛けているのを聞いてだね。もしかしたら。と思ってお見舞いに行ったんだ。先生だったらこの薔薇をみれば、私を思い出してくれると思って。だが、一昨日来た時は、詰所で追い返されてしまった。それでも、どうしても諦めきれなくて、今日も来てみれば、なぜか病室に入る許可が出た。だから、本人で間違いないと思った、ただそれだけだ」
クラーラが居る手前、言葉を選んだようだったが、見るからにヴェラに説明ウィンチ氏は面倒くさそうであった。
「そうだ、ウィンチ君、お昼まだよね?」
「はい。帰りにすませようかと」
「だったら、昔、行ったあのお店、なんて言ったかしら?川沿いにあるハンバーグの美味しいお店」
「あぁ、ロイヤルキングスですねっ。五年ほど前に店舗は新しくなりましたけど、味は変わってませんよ」
「あらそうなの。懐かしいわぁ。今日のお昼はそこにしましょう。ウィンチ君時間ある?」
「はいっ!是非、ご一緒しましょうっ!」
ヴェラをほったらかして盛り上がった二人は、ヴェラ一人を残し、連れだって病室を出て行ってしまった。
「主役であるはずの私が。この病室では絶対的主役であるはずの私が、空気扱いですか。へっ‼」
ヴェラは乱暴にベッドに横になると、毛布を頭から被って拗ねた。
皮肉なことに、昼食はハンバーグだった。
O
ハンバーグには恨みはなかったが、腹立ちまぎれにいつもより、がっついてハンバーグをやっつけたヴェラは、想像以上にジューシーで肉厚だったハンバーグの美味しさに機嫌を直して、執筆作業に戻っていた。
とは言え、
「なんなんですか、あの二人の関係はっ。グランマもグランマです。川沿いは行ったことないって言いながら、行きつけの店があるじゃないですかっ!しかも先生ってなんですか⁉先生ってなんなんですかっ⁉グランマが教師をしていたなんて聞いてませんよっ!」
タイプライターを操作しながら、ぶつぶつ言い続けていた。
本当にあの二人はなんなのだろうか?どうも、過去に親密な関係にあったことだけは窺い知れたが、果たしてそれがどういった類のものだったのか。教え子と教師の禁断の関係?それとも、それとも……
「それしか思い浮かびませんよっ‼」
母からも、クラーラについてはあまり聞いてはいない。けれど、クラーラに限って、若気の至りと火傷をするような火遊びをするとは到底思えない。
これが、他人事だったら、面白可笑しいメロドラマのように、想像してニヤニヤできる。だが、身内の、しかも一番傍に居てくれた大切な人の事ともなると、安易な想像もしたくなければ、理性的にインモラル方面に思考をすら向けたくない。
「そんなことはどうだっていい……」
結局のところ、ウィンチ氏とクラーラが過去にどういった関係にあったのか?それはとても気になる。好奇心から根掘り葉掘り聞いてみたい。
だがしかし、結局のところはそんなことはどうだってよかった。ヴェラがショックだったのは、一番大切な人に、自分をのけ者にして隠し事をされたように感じたことだった。
「内緒話は、隠れてやればいいんだ。私が居ないところでやればいいんだ。どうして私の居るところでするんだっ!された方の身になってみろっ!」
中等部の時に、親友だと思っていた女子に目の前で内緒話をされたことを思い出して、ヴェラは怒りを全てタイプライターのボタンにぶつけた。
夕食を挟んで、オーバーヒート寸前の前頭葉を窓ガラスに密着させて冷却していると、病室のドアが開く音がした。
振り返ると、そこにはお馴染みのランドセルを背負ったキャシーの姿があった。
「やっほー、執筆進んでる?」
「はい、エマがタイプライターを貸してくれたので、とても進んでいますよ。そろそろ新作のプロットが書き終わります」
どうだ。と無い胸を張って言うヴェラ。
それに対して、キャシーは頬を掻きながら、
「それは良かったわね。来週分の新聞小説の原稿できてる?もらって帰るつもりで来たんだけど」
「あ……」
一瞬でヴェラの顔から余裕の笑みが消え、みるみる内に蒼白と化してゆく。
「あ。じゃないわよ……まさか、それ忘れてたんじゃないでしょう?」
「もももっ、もちろんっ書いてないわけないじゃないですか。ただ、ちょっと、家に置いたままなだけです。」
「そうなんだ。今日受け取って、編集へ持っていくつもりだったのに。それじゃ、ヴェラの部屋に取りに行ってあげるわね」
「だっ、駄目ですっ!それは駄目ですよっ。プライバシーの侵害です‼」
「あのねぇ。私がヴェラの原稿滞りなく届ける条件で担当編集に目瞑ってもらってるのよ?こんなこと言いたくないけど、本当だったら、この椅子には担当者が目を光らせてるはずだったんだからねっ」
長くしなやかな指でヴェラを指し、呆れて言ったキャシーは、少し小声で「大体、友達なんだから、部屋に行くぐらい、いいじゃない」と続けて言った。
「へっ……」
キャシーの意外な言葉に、ヴェラが呆気に取られていると、その姿を見たキャシーは慌てて、視線を窓の外に逃がし、照れ隠しだろうか、腕を組んだ。
相変わらず盛り上がり強調される胸元に目が釘付になったが、今日は何時もみたいに鷲掴みにしたい衝動には駆られなかった。
友達……なかなかいい響きだった。
面と向かってはじめて言われたその単語に、ヴェラでさえも、子揺らぎして照れてしまう始末である。
「部屋に行っても、無駄なんですよ」
「なんでよ?クラーラさんがいるでしょ?」
「確かにグランマは居ますけど、原稿がどこにあるかわからないと思いますし……」
「それはないわよ。だってリビングに机しかなかったし」
「やっ!言っておきますけど、あの部屋は私が借りている複数あるアパートに部屋の内の一室に過ぎないんですっ‼そして、ボロいので一番使わない部屋なんですよ。だから、冷蔵庫のコンセントが抜いてあったり、家財道具が少なかったりしたわけですっ!」
「えっ⁉そうなの?冷蔵庫のコンセントが抜けてたのも、一人暮らしで自炊しないからだと思ってた。クラーラさんもそんな風なこと言ってたから、てっきり……でも本当かなぁ、怪しい」
あぁ、わざわざ墓穴を掘ってしまった……
気の利くクラーラがフォローしてくれていたと言う可能性をすっかり失念してしまっていた。
ヴェラはキャシーの追求をかわすために、話題を変えることにした。
「あがってないんです」
「えっ?何が?何よ急に」
「だから、原稿が書きあがってないんです」
「どういう事よ。来週分書きあがってないのに、新作書いてたって言うの?」
「そのなんて言うか、すっかり忘れてました。多分、初日の屋上で徹夜したのがいけなかったんだと思います。えぇ、そうですとも」
「はい?この超寒い中、屋上で徹夜?何、わけのわかんないこと言ってんのよ。今日中に私が取りに行って持ってくるから。その代わり、一日で仕上げてよね」
「うぅ……わかりました、善処しまふ……」
どこまで書いてたっけ?ヴェラはキャシーの設定したカウントダウンに、急に自信が無くなってしまった。
まぁ、締め切りギリギリなのはいつものことなのだが……
「それじゃね」
そう言って、キャシーが腰を浮かせたところで、ドアがノックされた。
「どうぞ、開いてますよ」とヴェラが言うと、開いたドアから、老いた男性が現れたので、ヴェラはもとより、キャシーは相当に驚いている様子だった。
「夜分にすまない。どうしても謝っておきたくて。本当は昼に来た時に謝罪するつもりだったんだがその……思わぬ再開で、謝罪することができずじまいだったのでな」
服装は変わっていたが、よくよく見ると、それは昼間、薔薇の花束を持って現れた……確か……
「あぁ、えっと、ウィンツ・ハウスさんでしたか。謝罪だなんて、どういうことですか?」
「ウィンチ・ホースだ」
ウィンチ氏はコホンと小さく咳ばらいをしてから、早口で訂正した。
「ねぇ、この人誰よ」
帰りかけたキャシーは再び、椅子に腰を下ろし、ヴェラに耳打ちをした。
すでにメモ帳と鉛筆を構えているところが、さすがと言ったところだろうか。
「えっと、そこの薔薇の送り主であり、自称、事故の関係者であり、自称グランマの元生徒です」
「えぇ、何それ、あからさまに怪しいじゃない。元生徒って何よ」
「知りませんよ。グランマも教えてくれませんし」
「その件について、どうなんですかウィンチさん」
極自然な流れを装って、キャシーはウィンチ氏に向き直った。
「いや、それは……って、会話の流れで聞かんでもらえるか。そもそも、君は誰なんだね」
「はじめまして、私は、キャシー・ミンスです。ヴェラの…ヴェラの友達です‼」
なぜか顔を赤くして言うキャシー。
「そんなことよりも、ウィンチさん、病室にリバイバルしたのは、私が目的ではありませんよね?グランマなら見ての通りいませんよ」
ヴェラは少し棘のある言い方をした。
「ちょ、そんなことって何よっ!」
顔色一つ変えないウィンチ氏とは対照的に、オーバーに反応したのはキャシーの方だった。
キャシーに立てた棘ではないのに……やや面倒くさくなりながら、ヴェラは肩を揺らしてくるキャシーにされるがままになっていた。
「それはさっきも言ったと思うが、君に謝罪をしに来たんだ」
「謝罪って、どうして私があなたに謝罪をされないといけないんですか?あなたが私を自転車でぶっ飛ばしたって言うんですか?だったらっ、だったら薔薇も謝罪もいりません‼」
ヴェラはそこまで言い切って、言葉を一旦止めた。そして、キャシーとウィンチ氏が息を飲む中、一呼吸おいてから、
「代わりに、冷蔵庫いっぱいの食糧を下さいっ‼」と力強く言い放ったのであった。
迫力を伴って言い放った一言のわりに、聞き取ったキャシーとウィンチ氏は反応に困っているようだったが、呆れてヴェラを見れば目が真剣そのものだったの、余計に反応に困る。
「そこは普通、お金とか時間を返せ。とかじゃないの?食料って……しかも、冷蔵庫いっぱいって……」
「キャシーは知らないんです。冷蔵庫が空で驚いたって話した時のグランマの緋想に満ちた笑顔をっ‼あの、食うにも困る超絶貧乏極貧生活を慮ったかのような優しい眼差しをっ‼」
いつでも、冷蔵庫に食べ物のあるキャシーとは分かり合えることはないだろう。所詮、どれだけヴェラが切実に語ってところで、永久に交わることのないベクトルなのだ。
「いや、当事者でもないし、私もそこまで生活に余裕があるわけではないから、保証などはできないんだが……」
「じゃあ、何しに来たんですか⁉」
「撥ねられる前、そこの花瓶に生けられた薔薇に見覚えがないか?」
「見覚えといわれましても、どこにでもある薔薇じゃ……あ…」
ヴェラは首を捻りながら、どこにでもある薔薇だと言おうとした。だがその瞬間、断片的な記憶が鮮やかに蘇ったのである。
「えっ見覚えあるの⁉」
「はい。確か、この薔薇を避けて車道側に出た瞬間に……この薔薇、あの迷惑な薔薇だったんですか」
ヴェラのアパートから大通りに出るまでの道路は、自動車がやっと一台通れるほどの道幅しかない。だが、幹線道路から川沿いの道路への近道ということもあり、道幅のわりに交通量は多い方だった。
幹線道路へ向かう方向に歩くと、途中にあるカーブの出口付近にひときわ目を引くガーデニングに凝った庭のある家があるのだが、その家の塀の一部が薔薇の生垣となっており、この季節には決まって綺麗な大輪の花を咲かせるのだ。問題なのはその薔薇が道路側にはみ出し、道路の見通しを著しく損なっていることだった。
花の時期が終わると、選定され解消されるので、いち通行人でしかないヴェラは抗議をするまでもないと別段気にも留めていなかったのだが、聞くところによると、見通しの悪さから自転車と人との接触事故や、薔薇の棘で自動車ボディが傷ついたと抗議の声もあるにはあるらしかった。
「そういう事だ。私の我儘のせいで、人が死ぬところだった……本当にすまなかった。この通りだ。生垣は処分することにした」
ウィンチ氏はそういうと、「申し訳なかった……」と頭を下げた。
「いや、謝られても困りますし。それになんですか、それでは、私のせいで今まで手塩に掛けて育てた生垣を処分するみたいじゃないですかっ。私に処分の理由をなすぐりつけるのはやめてください。そんなのはずるいです!」
ヴェラはそう言うと、腕を組んで不快感を露わにした。
「いや、それはなんか違うと思うけど……」
さすがに、何を言っていいのか困惑しているウィンチ氏が可哀想になったキャシーが助け舟を出した。
キャシー自身も、まさか、そんな反論をするとは思ってもなかった。
「実は、あの生垣の薔薇がクラーラ先生との出会いの切っ掛けだったんだ。先生はあの薔薇の花が咲くのを楽しみにしていると言ってくれてね。先生がロンドンを離れてしまってからも、この薔薇の花さえ咲かせれば、いつの日か、先生がひょっこり、花を見に現れるんじゃないかと思って……笑ってくれて構わんよ。こんな年になっても諦めず切れずにいたんだ……」
ウィンチ氏はそういうと自嘲気味に笑みを浮かべた。
キャシーは、きっと、ウィンチ氏にとってクラーラは初恋の人なのだと確信した。そして、何十年もの時をずっとずっと思い続け、その気持ちを薔薇の花に託し続けた。そんな一途過ぎる純粋な恋心に胸を熱くした。
だが、
「そんなこと知ったこっちゃないですよっ!私への償い云々とか言っておきながら、結局はグランマに再会できたからっ!再開した上に、ちゃっかりデートまで出来て、本懐を遂げられたから薔薇を処分しても何とも思わなくなったんですよねっ、そうですよねっ‼これだから大人って生き物は嫌なんですよっ‼」
「なっ、なんてことを言うんだっ!」
さすがに、これにはウィンチ氏も呆れを突き抜けて、怒りを露わにした。
「ほらねっ!ほらほらっ!図星なんでしょっ、だから怒るんです。どうせ、グランマの姿を見かけて、私の所へ薔薇の花束を持って来たんでしょ。思い出深い薔薇ならグランマも気が付くかもしれしれませんからねっ。盗人猛々しいとはよく言ったものですよっ!」
「なっ、それは誤解だ。そもそも、最初に薔薇を私が持って来たのは、クラーラ先生がロンドンに出てくる前の日だろう⁉」
そう言えば……ヴェラは畳みかけようと開いた口そそのままに、少し考えて、そう言えばそうだったと思った。
だから、言うに言えず、開いたままの口を声を出さずにパクパクとだけさせていた。
「そっ!それで、ウィンチさんは事故現場のすぐそばにお住まいと言うことですが、手掛かりになるようなことを、見たとか聞いたことかってことはありませんか?」
決定的な一打に完全にノックアウトされてしまったヴェラの作った、居心地の悪い沈黙に耐えかねたキャシーがウィンチ氏にそんな質問をした。
「警察にも話したことなんだが、犯人の姿は見てない。だがね……」
そんなキャシーの問いに、ウィンチ氏は少し考えてから、表情を険しくて声量を絞って言ったのである。
「君を撥ねたのは、自転車ではない」
と。
Ⅶ 紅茶一杯の恋心
クラーラ・クリスティと名乗る女性が、ウィスパー寄稿文店に訪れたのは、その日の夕暮れ近くだった。
「いらっしゃいませ」対応をしたエマは、また飛び込みのお客さんだと、憂鬱になったのだが、それがヴェラの祖母であることと、キャシーからこの店の事を聞き、日ごろのお礼を述べに来た旨をクラーラから聞くと、ほっと胸を撫でおろしたのだった。
「そうだったの、あのタイプライターもエマさんがヴェラちゃんに貸してくれていたのね」
ソファに腰かけた、クラーラはエマが淹れたお茶に口を付けながら、朗らかにそう言った。それはまるで、自分の娘が不慣れな土地でも良い友人に恵まれた喜びを表しているかのようであった。
「はい。私は小説家ではありませんけど、同じ文章を扱う者として、こうなんていうか、他人事には思えなくって」
「そうなのね。ヴェラちゃんって、人見知りで少し偏屈なところがあるから、こっちでお友達ができてるか心配だったのよ。でも、エマさんやキャシーさんのような、お友達が居て安心したわ」
「いえ、そんなぁ」
人見知りなのはさておき、偏屈なのは少しだけだろうか?
エマはそう思ったものの、口には出さなかった。
「しばらく、こちらにいらっしゃるんですか?」
「えぇ、向こうの家に居ても、一人だし、ヴェラちゃんのことも心配だから。しばらくはこちらに居ようと思っているの。それにね、実は若い頃、ヴェラちゃんが暮らしているアパートの近くに下宿して居たことがあるの」
「うふふっ」と照れ隠しをして見せるクラーラ。その仕草が、可愛らしかったので、エマはふっと自分もこんな風な歳の取り方をしたいと思ってしまった。
「そうなんですか。すっごい偶然ですね」
「数年間だけだったけれど、思えば、この町が私の青春らしい青春が詰まった。思い出の町なのかもしれないわね」
クラーラはそう言いながら、恍惚としながら天井に視線を馳せている。
青い春と書いて青春。
青春と言えば恋。
他人の恋話はとにかく気になるお年頃であるエマは、記者魂も相まって、ウズウズとしてしまって我慢が出来なかった。
「やっぱり……その、恋愛とか?ですか?」我慢しきれずにそれとなく聞いてしまった。
「あら、やっぱりエマちゃんも女の子ね。気になる?」
「はいっ‼」
クラーラの含みのある一言に、完全に一本釣りされてしまったエマであった。
「そう。あれは、私がロンドンの学校に通うために、こちらに下宿していた頃。下宿先から、バス停に向かう途中にね、お庭がとてもきれいなお宅があって、その家の塀の一部が薔薇の生垣になっていてね。薔薇の季節になると、とても大きな深紅の薔薇が咲いて、とてもとても綺麗だったの」
エマは、この辺りにそんな家があったかな?と思い出しながら、何度も頷いた。
「薔薇の季節を迎えたある日、私がいつも通り、バス停へ向かう途中、足を止めて薔薇の花を愛でているとね。生垣の間から、こちらを見ている、男の子を見つけたのよ」
「その家のお子さんですか?」
「えぇ、私よりも年下の男の子でね。私が「こんにちは」って挨拶をしても、最初は驚いた顔をして逃げてしまって……とてもシャイな子だったわ」
「わぁ、可愛らしい子ですねぇ」
エマは、両手で落ちそうなほっぺを支える風にして、いやいやをしていた。
エマはどちらかと言えば年下が良い。もっと言えば、弟のような子が好みだった。それが、エマに兄弟がいないからなのか、はたまた、単純にエマの趣味であるかは謎である。
「そうそう、とっても可愛らしい男の子だったわ。その日から、生垣を通る度に男の子が居てね。でも相変わらず、挨拶をしても目を丸めるだけで、走り去ってしまうだけだったのだけれど……」
クラーラはそこで一度、口を休めるように紅茶を口に含んだ。エマはその間にキッチンへ向かうと、せっせと替わりのお茶と、クッキーを用意して急いで戻って来た。
「お替りをどうぞ。それから、どうなったんですか?」
エマは何時になく続きが気になって仕方がなかった。薔薇の園での出会いだなんて素敵すぎる!ある意味それはエマの理想の出会いであったからかもしれない。
「ありがとう。薔薇の季節間、ほぼ毎日のようにその男の子と顔を合わせていたのだけれど、薔薇の花が終わってしまうと、私も学校が忙しくなって、生垣の中を覗くこともなくなってしまってね。男の子が居たのかどうかもわからなかったの」
「そうなんですかぁ。出会いだったらとても素敵だと思ったんですけど……はぁ、そんな恋愛小説みたいにうまくいきませんよねぇ」
エマは頭を垂れて、落胆を現した。
「そうねぇ。でも、偶然と言うのはあるものでね。その年の夏の終わりごろ、学校の掲示板に家庭教師の仕事依頼が張り出されてあって、下宿先から近いお家だったから、お話だけでもと思って、依頼書を持ってお伺いしたの、そしたら……」
「もっ!もしかして、それがその薔薇の生垣の家だったとっ⁉」
エマはクラーラの語りを我慢できず、興奮してそう言ってしまった。
相手の話を遮ると言う記者としてはあるまじき反則技なのだが、瞳をキラキラさせたエマにはそんなルールはすでに頭の中になかった。
「うふふ。エマさん大正解」
だが、クラーラはそんなエマの姿を見ながら、微笑んでそう言ったのであった。
「いや~んっ、素敵すぎますよぉ」
またイヤイヤを始めるエマの頭の中ではどのような妄想が投影されているのだろうか。
「ご両親とお話をさせてもらってね、その男の子は、小学校でクラスメイトと馴染めなくて、教師やカウンセラーからは自閉症と決めつけられてしまって、小学校に通えなくなってしまったらしかったの。それから、男の子が拒絶してしまって、もう、何人も断っていることも……だから、私も駄目だろうなぁって、半ば諦めていたの」
「そうですよね。だって、生垣越しに顔を合わせても、無視されてたんですもんね」
「えぇ。それで、いざ、男の子と対面することになったんだけど……ふふふっ。ごめんなさね、ちょっと思い出しちゃって。その子ってばね、部屋に入って私の顔を見るなり、顔を真っ赤にしてお母さんの後ろに隠れてしまったのよ」
そう言い切る前にクラーラは再び「うふふ、それが可愛くって」と笑みを湛えた。
「詳しくっ!」
一方、エマは、鼻息を荒くして、身を乗り出した。
「なんでも。男の子はね、お母さんに薔薇の花のような人が毎日生垣の外を通るって話していたらしくってね。それが私の事だっていうのよ。面白いでしょう」
「あぁ、ご馳走様です。満腹です。ありがとうございますっ!」
エマは両手で顔を隠しながらそんなことを、こもった声で呟き、おまけに足をバタバタとさせた。
「「このお姉さんにお勉強教えてもらう?」とお母様が聞いたら、男の子は「はい。頑張ってお勉強する」ってとても細くて高い声で言ってくれて、それで、私は家庭教師をすることになったのよ」
「はうあぁ~、私…私……とろけてしまいそうですぅ~」
エマはそんなことを言いながらふやけてしまった、原稿用紙のようにふよふよな顔で左右に揺れ出してしまった。
「あら。エマさん鼻血……」
突然のエマの鼻血に一旦、休憩をとることになった。
エマ自身は「ふぁやいく、ずずぎをっ!」とクラーラに迫ったが、喋る度に、両方の鼻の詰めたテッシュに血が滲むので。その度に「もう少し落ち着いてからね」とクラーラが諭していた。
途中、〈投書と書いて話題と読む〉を持った来客があったが、ドアのベル音を察知するやエマは荒い鼻息でテッシュを強制排出し、音速でドアまで駆けよると、
「本日は臨時休業ですっ!邪魔しないでっ!」とものすごい剣幕でドアノブを握ったままの男性に言い放った。
男性の引き攣った表情を見れば、その程度が計り知れる。
もちろん、男性も反論をしようと試みるも、口を開けた瞬間にエマの後ろ回し蹴りで強制的に閉められたドアによって、外に弾き出されてしまった。
「続きをっ!私に明日の活力をっ‼」後ろ手に鍵を閉めたエマは満面の笑みで言う。
「あらあら、うふふ。エマさんまた鼻血」
エマには、休息が必要のようである。主に、お頭の……
O
氷で首元を冷やしてみたり、仰向けに寝てみたり一通り、民間療法を試してみても、鼻血は一向に止まらなかった。
さすがに、ちょっとヤバイかも。とエマも自覚し始めた頃、一本の電話がかかってきた。
さっき追い出した男性からのクレームかも。と渋々、受話器を取ったエマ。
その電話が終わる頃には、鼻血は止まっていた。
「大事なお電話?」
ため息と一緒に、鼻からテッシュを抜いたエマにクラーラが声を掛けた。
「えぇ、まあ……地獄からの催促電話でした……」
「あらあら、それではのんびりしていられないわね、続きをお話しましょう」
エマの顔色から、落ち着いたのだろう……主にお頭が。と思ったクラーラは続きを話すことにした。
「えっと、家庭教師になったところだったわよね。時間は変則的で週三日、家庭教師として、男の子とに勉強を教えるようになって、最初は挨拶からだったのだけれど、段々と男の子も心を開いてくれるようになってね。勉強以外のこともお話するようになったのよ。お互いの誕生日とか、好きな音楽とかね。ご両親も、男の子が目に見えて明るくなったと、大変喜んで下さってね、お夕飯をご馳走してくださったり、ハロウィンパーティにも呼んで頂いたり、ピクニックに行ったり、私も一人で寂しく思うことが多かったから、とても嬉しかったし、楽しかった……」
「家族ぐるみで親しく接してもらったんですね」
「うん。でもね、そんな素晴らしい日々は続かなかったの。このまま、こんな日々が続けば……そんな風に思い始めていた矢先、父が急病で倒れてしまって、母も持病を持っていて。私が田舎に帰らなければならなくなってしまって」
クラーラは「ふぅ」と浅く長く息を吐いた。
「とても良くして頂いていたから、私も言い出すことがなかなかできなくて、伝えた時も、胸が張り裂けそうな思いだった。ご両親は、私が去ってしまうことをとても悲しんで下さって。ご両輪とも相談して結局、私が去ることは男の子には伝えなかったの」
「その…また、自分の殻に閉じこもってしまうことを懸念してですか?」
「そう。私もご両親も以前より、悪化してしまうことを恐れたのよ。騙しているようで、黙っているのはとても辛かったわ。その気持ちが、本当に罪悪感からなのか、自分勝手にただ自分が楽になりたいからなのはわからないけれどね……」
「その子の為を思って黙っていたんですから、そんな……自分勝手だなんて…」
「私がロンドンを去る前日の最後の授業の日。珍しくその日は時間の指定があって、門を開けると、忘れもしないわ。紺色のジャケットを着ていつもよりオシャレをした男の子が待っていてくれて、私の手を引いて、庭の四阿までエスコートしてくれたの」
「庭の四阿にですか?」
「えぇ、今日は外でお勉強なのかしら?と最初は思ったし、最後だからそういうのもいいかもしれない。なんて思っていたのだけれどね。四阿についてみると、そこにはバースデーケーキと豪華なお料理が並べられてあって……」
「男の子の誕生日だったんですねぇ」
エマはしみじみとそういったのだが、クラーラは静かに首を横に振り、
「その日は偶然にも私の誕生日だったのよ」と言い「休学の手続きや、引っ越しの手続きやらで、すっかり、私が忘れてしまっていたのだけど」と苦笑しながら続けて話した。
「えぇっ、それじゃ、男の子がクラーラさんの誕生日を覚えてて、お誕生会を開いてくれたってことですか⁉」
「そうみたいなのよ。私は、普段通りお勉強をするつもりだったんだけどね。後で奥様から聞いた話では、このお誕生会のことは男の子から自発的に言い出したことらしくってね。ケーキを焼くのもお料理を作るのも、お手伝いしてくれたんですって。そんなことを涙ながらにお話ししてらしたわ。よほど嬉しかったと思うのよ。自分から、何かをする子ではなかったから……」
「ひょっとしたら、男の子なりにクラーラさんが居なくなることを察していたのかもしれませんね」
根拠はなかったが、エマはふっとそんな気がした。
「そうだったのかもしれないわねぇ。お誕生日の歌を歌ってもらって、蝋燭の火を消して。男の子がお料理を取り分けてくれた。とても楽しかった……精一杯、背伸びをしてもてなしてくれた、その気持ちが何にも代えがたかったわ……なのに、私は黙ってこの子の前から去っていく……もう我慢が出来なくなってしまって」
「伝えたんですね」
エマがそう言うと、クラーラは静かに頷いた。
「突然の告白に奥様も驚かれたけれど、男の子もショックだったみたいで、しばらくただ沈黙の時間が過ぎて行ったわ。最後なのだから、もっとお話ししないといけないのにね」
「それわかります。別れ際って、もっともっと普段以上に話をしようって思うのに、言葉が出てこなくなってしまうんですよね」
「そう。年上の私がなんとかしなければいけなかったのに、それができなかった。そしたらね、男の子が空だった私のカップにお茶を注いでくれたの。そしてね、」
クラーラはそこまで言ってから、目元を拭う仕草を見せた。クラーラの中でも、きっと忘れられない瞬間だったのだろう。
「「僕、頑張って学校に行って、沢山勉強するから、先生に褒めてもらえる子になるから」って力強く言ってくれたのよ」
本当はすぐにでも泣きたかっただろう。
声を上げて、突然の別れの悲しさに鳴き声をあげたかっただろう。
それでも、少年はそれになんとか耐えて、紳士であろうと精一杯強がってみせた。
そんな少年の気概を斟酌すると、自然と熱く込み上げて来るものがあった。
エマは知らないうちに、頬を涙が伝っていたことに気が付いた。
「その後、もう少し感動的な余韻があるはずだったと思うのだけれど、男の子がそう言った途端に、奥様が大泣きをしてしまって。嬉しさあまってだってことはわかっていたのだけど、それはもう何を喋っているんだか、わからないくらいに泣いてしまって。おまけに男の子を抱きしめて離さないものだから、仕舞には男の子まで泣き出してしまって。私も、もらい泣きしてしまって……三人して大泣きよ。今からすれば、可笑しいわよね」
「そんなことないですよ。男の子頑張ったんですね。泣いてあげないと、クラーラさんとても酷い先生です……」
「次の日、キングス・クロス駅まで見送りに来てくれた。そこで深紅の薔薇の花束をもらったの」
「深紅の薔薇……うーん。どこかで…って!それヴェラの病室に飾ってあった薔薇じゃないですかっ!もしかしてっ!再会したんですか⁉」
それはロマンチック過ぎる!まるで、用意されたシナリオのような、映画やドラマの最終回のようではないかっ!エマは目元を袖で擦ると再び身を乗り出して、そう尋ねてみたが、
「それは内緒っ」とクラーラに受け流されてしまった。
「うぅ……」
「その後、奥様のご紹介して頂いた病院に父が入院できることになって、翌年の春ごろにまたロンドンに戻ってきたの。その間、奥様とお手紙を何通かやり取りをしていて、男の子が毎日元気に通学するようになって、どうやらお友達もできたようだ。と教えてもらっていたのだけれど、やっぱり、気になってしまって、一度だけ生垣からお庭を覗いてみたの。そしたら、お友達数人と元気よくボール遊びをする男の子の姿があって。すっかり様変わりした姿に嬉しく思ったのだけど、もう私の居場所がなくなってしまったみたいで、少し寂しかったわ」
そう言いながらもクラーラの表情は朗らかだった。
「なんだか、良いお話ですねぇ。きっと、クラーラさんはその子の初恋のお姉さんなんだと思います。いいえ、絶対にそうだと思いますっ!」
男の子の初恋相手として、幼稚園の先生や一緒に遊んだ近所のお姉さんになどは、定番中の定番だし、その男の子がクラーラにだけ心を開いたことが何よりの証拠である。
男の子はやはり、生まれにして男性なのである。
「これで、私のお話はおしまい。それじゃあ、はい」
クラーラは、そう言うとエマに手の平を指し出した。
「へっ?なんですか?」
困惑するエマ。
「ここのお店では、昔話を買ってくれるってキャシーさんから聞いたのだけれど?」
「えっと、そうですけど……」
エマは、胸の中を満たしていた感動が冷めていくのを感じながら、とても複雑な心境だった。
「こんなお話では、お金にはならないかしら?キャンプに行って遭難して熊に追いかけられたお話の方が良かったかしら?」
少し困った顔をして言うクラーラ。
いやいや、そうじゃなくってっ!いや、キャンプに行った話も聞きたいけどっ!そうじゃないでしょ⁉
エマは、ただの良い思い出話として終わらせてほしかったと切実に思ったのであった。
O
「あーもうどうしようかなぁ」
エマは視線の先のソファで呑気に、鼻歌を歌いながらクッキーを頬張るレイチェルに聞こえるように言った。
エマは原稿用紙を前にして頭を抱えていた。毎月恒例の締め切りに、じりじりと真綿で首を絞められているわけだが、どうしたって、クラーラの話を寄稿する気にはなれなかった。
クラーラが帰るのと、時を同じくしてレイチェルが帰って来て、ドアのところで鉢合わせた。
特にクラーラに興味を示さなかったレイチェルだったが、エマの顔を見るや、
「さっきの女の人に泣かされた?ロケットパンチでもされたの?」と尋ねてきた。
「なんでそうなるのよ。確かに、泣かされたと言えば間違いでもないけど、少なくともロケットパンチではないし、そんなことするのレイチェルだけだしっ。それに、さっきの人、ヴェラのお婆様なのよ。私も今日が初対面だったんだけど」
「あぁ、あれがグランマなんだっ、綺麗な人だねぇ」
レイチェルは、ヴェラの祖母であることを知らせても驚かなった。
「レイチェル、知ってたの?」
「見るのは初めてだけど、さっき、ネイマールと一緒にヴェラのお見舞いに行ってきたんだけど、その時にヴェラが話してたんだよ。見た感じはふわふわしてるけど、しっかり者なんだって、特にお金に関しては」
しっかり投書代金を受け取って帰ったクラーラの背中を思い出すと、
「確かに……」とエマは納得できてしまった。
とは言え「それと言うのもね。ヴェラちゃんの部屋にあまりにも何も無さ過ぎて、思った以上にお金が必要みたいなのよ」と話すクラーラの退っ引きならない事情を察すると、致し方がない感も無きにしもあらず……
諸々を察して、多めに投書代金を渡してしまった自分の甘さが一番許せない気がするのはなぜだろう……
「あぁ、どうしよぉ~」
さっきのお客さん、追い返さなければよかったぁ。
後悔先に立たず。
エマは、机に額を乗せると、そう言いながら、ゴリゴリとやり始めた。こうなると、かなり末期症状である。
カランカランッ
そんなタイミングで、ドアのベルが鳴ったので、これは救世主に違いない!そう思って、勢いよく顔を上げ、
「いらっしゃいませっ!」と声を張り上げると、そこにはキャシーが立っていた。
Ⅷ そのタイトルは
ウィンチ氏によると、ヴェラが撥ねられたのは自転車ではなく、大型の二輪車であるらしかった。
大きな音がしたので、急いで、塀から外を見ると、走り去るサイドカー付きの二輪車が見えたらしい。ナンバープレートは薔薇の葉に隠れて見えなかったそうだ。
「おぉ。これで、箔が付くってもんですよっ、胸を張ってバイクに撥ねられたと言えますっ!」
ヴェラは純然に喜んでいた。
「そこ喜ぶところじゃないからっ!だったら、これって、ひき逃げじゃないっ。自転車でもひき逃げだけど、バイクとなればその質が変わってくるわよっ」
キャシーもどこか違うベクトルで興奮している様子だった。
キャシーの詰問がしばらく続いて、ウィンチ氏が涙目になって来た頃、ダメ押しとばかりに「本当に警察には、バイクだと話したんですねっ?」とキャシーが言い「間違いなく言ったっ!いい加減、しつこいなっ」とウィンチ氏が大声を出した。
白熱する二人を他所に、ヴェラは一人焦っていた。
「ちょっと二人とも、騒ぎすぎです。少し落ち着いて話して下さい。でないと……」
ヴェラの言葉を遮るように、ドア開く音がして、
「わぁー、ごめんなさいっ。でも今回、私は一言だって騒いでないですよ。でもごめんなさい。鉄槌を下すならそこに二人にして下さいっ!」血相を変えて、布団に隠れたヴェラは早口でそんなことを叫んだ。
その後で、「えっと……もう少しお静かにお願いします」と聞き覚えのない声が聞こえた。
ヴェラはその声を聞いて、オーバーロードでないことを確認すると、ふぅと安堵の息を吐き、布団から出て来た後、今日はオーバーロードが夜勤明けであることを思い出した。
「二人とも、静かにして下さい。今日はなんとかなりましたけど、一つ間違うと命に関わるところだったんですからね」
と青白い顔を二人に向けて言った。
ヴェラの尋常ではない怯えように、顔を見合わせた二人は、「続きは外でしましょう」というキャシーの提案にウィンチ氏が頷いて、二人して病室を出て行ってしまった。
ヴェラは、何やら言い合いながら、病院を出て行く二人を窓越しに見下ろして、親子みたいだなぁ。とニヤニヤして、執筆に戻った。
「できたー」
キャシーとウィンチ氏が帰ってから、ほどなくして、新作プロットが完成した。とはいえ、まだ粗挽きも粗挽きだったが、最初と最後が決まったことはヴェラにとっては大きな成果だった。
ただ、致命的なのは、
「んー、タイトルどうしましょうか」タイトルが決まっていないことだった。
タイトルを後から決めるのはいつもことなのだが、通例でいけばプロットを書き進めている間に思い浮かぶはず……だが、今回に限っては通例通り思い浮かばなかった。
原因としては、プロットが仕上がる過程に色々と立て込んでしまったことだろうと思い当るのだが、それがわかったところでどうしようもない。
閃きに頼るのはプロらしくない。だから、認めたくない。
けれど、何も思い浮かばない。
だから、つい窓の外に視線を泳がしてみたりして……何か降りてこないかと期待してみたりして……
「私……あかんがな……」
一人でツッコんでみたりして……
O
悩んでも、悩んでも何も浮かんでこなかったので、果報は寝て待てとベッドで惰眠を貪ることにした。
窓の外が暗くなり始めた頃、腹具合が怪しくなってヴェラは上体を起こした。すると、そこにはマジックペンを片手に固まっているレイチェルの姿がまず、目に留まったのでとりあえず、枕で激しく横打しておいた。
「うぎゃーぁっ、目が目がぁあっ」
ベッドの傍らでのたうち回るレイチェルを尻目に、ヴェラが耳の裏をかきつつ、大きな欠伸をしていると、
「あら、ヴェラちゃんおはよう。よく眠っていたら、起こさなかったの」とネイマールが飲み物を携えて病室に入って来た。
「おはようございます。ってもう夕暮れですけどね。んーと、レイチェルは一体、何をしてるんですか?」
「うがぁーっ!ヴェラがやったんでしょっ!起き掛けにいきなり枕でハンマーヘッドしたんでしょっ!枕の角が目にグサッて、もろにグサッてっ!」
そう言うレイチェルの右目は確かに充血していた。
「そうですか、それは災難でしたね。でも、もとはと言えば、私の顔に落書きしようとしてたレイチェルが悪いんです。正当防衛です先守防衛とも言います」
「にゃにをぉ~」
平然とそう言い切るヴェラにレイチェルは両手をわきわきさせながら、じりじりとヴェラとの距離を詰めて行った。
「レイチェル忘れてませんか?今、私の右手には大いなる力が宿されていることを。人ならざる硬さと威力を秘めているんですよ。一度、振り降ろせば、殺人だってわけもない破壊力です」
またここで、騒ぐと怒られるので、ヴェラは大きな声を出さずに、淡々と脅し文句を並べた。仰々しく言うよりも、冷淡に聞こえてこちらの方が違った意味で恐怖が練り込まれている。
そう思ったのは、レイチェルが両手をひっこめ大人しく椅子に腰を下ろしたからである。
「これ、キャシーちゃんから預かった原稿。明日の朝、一番にキャシーちゃんが取りに来るって」
そう言うと、ネイマールがトートバッグから茶封筒を取り出して、ヴェラに手渡した。昼間、お願いした新聞小説の原稿だろう。
「何もお構いできませんが、これグランマが焼いたマドレーヌです。良かったら食べてください」
ヴェラはベッドの下に隠しておいた、マドレーヌの入ったクッキー缶を取り出してネイマールに渡した。
「マドレーヌと見せかけてクッキーだったりしてっ、おおぉこれは旨そうなマドレーヌだっ!」
「頂くわね」
とか二人が言ってる間にヴェラは、封筒の中身を確認することにした。正直、どこまで書いていたのかを忘れてしまっていて、二人が帰った後までとても開封を待てなかった。
寄稿文店に出掛けたくらいだから、ほぼ書きあがっているはずなのだが……
「ふぅ」
思った通り、原稿は定数である二十枚に対して、十七枚まで書き進められてあった。
後、三枚程度ならどうということはない……うん。どうと言うことはない……
「ん?どうかしかにゃ?」
ハムスターみたいにマドレーヌを頬張るレイチェルを見つめてヴェラは悟った。これは自分自身でフラグを立ててしまったのではなかろうかと……
うん。ヴェラは大きく頷くと。原稿を丁寧に机の引き出しの中に仕舞った。
「あー美味しかったぁ‼お昼ご飯食べ損ねたから、丁度良かったよぉ。果報は寝て待てだねっ‼」
満足げにお腹をさすりながら、レイチェルは親指を立てて誇らしげにそう語る。
「あららぁ~」
その横では、空になった缶を見せながら、苦笑を浮かべるネイマールが、レイチェルから半歩遠ざかった。
「チェストォォォーッ‼」
ヴェラは再び、枕を左手に持つと、大きく振りかぶり、腰を入れてレイチェルに振り下ろした。
「ふぼわっ」
レイチェルの顔に枕が炸裂したと同時に、嫌な音が響き、枕はヴェラの左手にその片割れを残して、ネイマールの方へ跳ね飛んだ。
「目ぇーがぁぁぁぁっ。うおぉぉ」
再び床をのたうち回るレイチェル。
「あぁ……」
本来なら、ネジのぶっ飛んだ罵詈雑言でもってレイチェルを詰問しているはずだったのだが、左手に残った白い布切れと、ネイマール胸元に落ち着いた。真綿の飛び出した〈何か〉 の残骸を見ると、レイチェルにかまってられる状況ではなかった。
「ネ、ネイマールさん……ソーイングは得意ですか……」
涙を一杯に貯めて、ヴェラが言えたのはただその一言だけだった。
「洋裁もするけど。これはちょっと……無理かなぁ」
「いきなりなにするのさっ!」
いつまでも誰も声をかけてくれないので、レイチェルはジタバタするのをやめて、立ち上がると、ヴェラに詰め寄った。
今度は左目にヒットしたらしく、左目が充血していた。
「それどころじゃないですよ、枕どうしてくれるんですか」
ヴェラが泣きそうな顔で、枕の残骸を突き出すと、レイチェルは勝ち誇ったように、にんまりととても悪い表情を作り、
「あ~あぁ、破いちゃってぇ~、どうするのこれぇ~。お母さんに教わらなかったのかなぁ、枕で人をぶっちゃ駄目ってぇ~これだからお子ちゃまは困るんだよねぇ」
安っぽいドラマに出てくる小姑のようにねちっこく言うレイチェル。形勢逆転とばかりに、満面の笑みでネイマールの胸元にある、枕だった物を突っついている。
「今はレイチェルのやっすい芝居に付き合ってる場合じゃないですよ。なんとか隠蔽しなければっ」
「隠蔽するの?素直に謝った方がいいんじゃ……」
「見つかった時点で処刑されるとしてでもですかっ!」
「ヴェラちゃん……眼が…怖い…」
「むっきーっ。私、怒った、本気で怒ったんだからねっ」
完全にシカトされたレイチェルが本気で怒ったらしい。
地団太をひとしきり踏んだ後、レイチェルは「オーバーロードにちくってやるっ!」と言い残して病室を飛び出して行ってしまった。
「なっなんてことを……」
終わった……
ヴェラは静かにベットから降りると、ゆっくりと病室の中央まで歩き、そこで膝を折って座した。
「えっと、ヴェラちゃん何をしているの?ちゃんと謝って弁償すれば大丈夫だと思うんだけど」
「ネイマールさん。それは大君主の前では無意味なんですよ」
「ん?大君主って?」
やがて、ドアの前が騒がしくなり、ドア窓に人影が写る。
ヴェラは生唾を飲み、両膝の上に置いてあった手を床につけた。
もはやこれしか残ってない。
東洋のとある国では謝罪の究極最終形態があると、本で読んだことがある。身の危険を感じた時にだけ用いることを許される、奥義ともいえる最終手段。
そして、ドアが勢いよく開いた。
「申し訳っ!ございませんでしたぁぁぁ!っ」と同時にヴェラは頭を激しく降ろし額を床にこすりつけて、一心不乱にそう叫んだ。
極限謝罪究極最終奥義 DOGEZA
「ヴェラちゃん……」
ネイマールは、そのはじめて見る謝罪姿勢に驚いたものの、ヴェラの真摯なる気持ちだけは痛いほどに伝わった。これなら、オーバーロード?大君主?も許してくれるはずだとも思った。
「えぇ、何してるんですか⁉ヴェラ先生っ!」
ヴェラと同じ年頃だろう、ナースは突然の謝罪にたじろぎながらも、そう言いながらヴェラの元へ駆け寄った。
「あれ?プリシラさんじゃないですか?」
あ、そうだった……夜勤明けだったんだ……
「レイチェルさんが、ヴェラ先生の病室で、ドえらいことが起こったって、詰所に駆け込んで来たので、てっきり、ヴェラ先生に何かあったのかと思ったんですけど……?」
「いえ、私は元気そのものなんですけどね。身代わりと言うかなんというか、枕が酷いことに……できれば理由は聞かないでもらえると嬉しいです」
プリシラから視線を外して、頬を掻きながら言うヴェラ。
「はぁ、枕ですかぁ」
プリシラが視線を上げると、そこには、苦笑を浮かべるネイマールが居て、その胸元には無残な姿になってしまった枕があった。
「あちゃー、確かに酷くやりましたねぇ」
プリシラはそういうと、枕の残骸をネイマールから受け取り、「すみませんが、お持ちの紅茶枕にこぼしてもらえませんか」とネイマールに言った。
「えっ、紅茶をこぼすんですか?」
「はい。滴らない程度に、たっぷりとお願いします」
慣れた様子でさらりと言うプリシラに、ネイマールは恐る恐る、紅茶を枕にかけた。
白地がみるみる茶色く変色してゆく。
「この汚れてしまった枕は、こちらで廃棄処分にしておきますから、安心して下さい」
「えっ、でも破れてるんですよ?汚れと破損とでは扱いが違うと思うんですけど」
ヴェラはまだ安心できないでいた。
「いえいえ、廃棄する物は汚れていようと破れていようと、扱いは一緒になりますから、弁償請求されたりする心配ありませんから、安心して下さい……でも、今夜の夜勤当番が私で良かったですね。ってだけ言わせて下さいっ。破棄扱いにするか、弁償請求するかはナースのさじ加減一つなのでっ」
プリシラは片目を瞑りながらそう言うと、悪戯な微笑みを残し「また後でお邪魔しますねっ」と言い残して病室を出て行ってしまった。
「よかったわねぇ。ヴェラちゃん」
「はい。ナースが白衣の天使、と敬称される謂れがわかった気がします」
「えっと、それはちょっと違うと思うんだけど。それはそうと、さっきのナースさん、ヴェラちゃんのこと〈ヴェラ先生〉って呼んでたけど?」
「あぁ、なんでも彼女は私のファンなんだそうです」
ヴェラは自分で言って照れてしまった。
自分のようなヘッポコ作家が、自分にファンがいるなどと、言ってしまっていいのだろうかと、気後れもするし……
「あらあら、うふふっ。それじゃ、執筆頑張らないとねぇ」
ネイマールはそんなヴェラの姿を見て微笑んだ。
「はい、エマがタイプライターを貸してくれたので、この右手でも執筆がすこぶる順調なんですよ。それにしても、レイチェルはどこに行ったんですかね?」
心に余裕が生まれたヴェラは、レイチェルのことを思い出した。
「どうやら、レイチェルちゃんは、病院の外に居るみたいだけど……」
窓の外を見ながらネイマールが言うので、ヴェラも窓の外を見ると、病院の駐車場を守衛さんとおぼしき制服姿の男性と明るい色のブロンドの女の子が走り回っているのが見えた。
何をやらかしたのだろうか、どうやら女の子は守衛さんに追われている様子だった。
あ、転んだ……
「ヴェラちゃん。私もそろそろ帰るね。レイチェルちゃんも何とかしてあげないといけないみたいだし……」
ネイマールはレイチェルが転んで、ついにお縄になった様を見ると、普段となんら変わりない調子で、そう告げながら、ドアへと歩いてゆく。
どんな時でも焦らず慌てず、おっとり、物静かに。淑女像を絵に描いたようなネイマールの姿に感心しながら、その背中を見送っていたヴェラは、大切なことを言い忘れていたことを思い出して、
「ネイマールさんっ」ネイマールを呼び止めた。
ドアノブを握ったまま廊下側から顔だけを覗かせたネイマールは、ヴェラの言葉を待っている。
「ネイマールさんに、言ってもらわなかったら、私は腑抜けたままだったと思います。きっと、一字も書かないまま、現実逃避してたと思いますっ!だからっ、ありがとうございましたっ」
ヴェラはベッドの上に立って、深々と頭を下げた。
「いいの。その気持ちを、エマちゃんやレイチェルちゃん、キャシーちゃんに分け伝えてあげて。みんな、ヴェラちゃんの事を心配していたから」
ネイマールは完璧な微笑みを残して廊下へと消えてしまった。
自分もネイマールの爪の垢を煎じて飲んだから、少しはあんな淑女に近づけるだろうか……
ヴェラはベッドの上に立ったまま、そんなことを考えていた。
淑女に近づくのはまた今度にするとして、今は、明日の朝にキャシーに渡す原稿を書き上げなければならない。と言ってもたった三ページ分なので、次話とのつながりと、次話が気になる終わり方を考えればいいだけだ。
簡単ではないにせよ、騒ぐほど困難な作業ではない。
窓の外が気になったが、ネイマールの美貌と、大きな胸の力があれば、守衛の一人や二人はなんとでもなるだろうから、気にしないことにして、早速、執筆にとりかかったヴェラであった。
O
チーンッ
力強く最後のボタンを押し終えたと同時に、ページの最後を知らせるベルが軽快に鳴った。
きっちり原稿用紙を埋めて終われると、増して気持ちが良い。
消灯間際になんとか執筆を終えることができたヴェラは、推敲作業に移る前に、少し休憩をしようと、ベッドに横になった。
「こんばんは、ヴェラ先生、まだ起きてますか?」
「はい。起きてますが、どうかしたんですか?」
突然現れたプリシラに、ヴェラはまさか、枕の弁償を請求されるのではないかと背筋が冷たくなるのを感じた。
「いえ、今晩は二人で夜勤なので、先に仮眠時間をとらせてもらったんですよ」
そう言えば、プリシラはナースキャップを被っておらず、結い上げている髪の毛も下ろしている。
「そうなんですか。仮眠しなくていいんですか?」
「私は平気です。先生こそ、もうお休みになられるのでは?」
「いえ、これからサクと推敲作業をしようかと思っているので、まだまだ眠れません。明日の朝一番に渡さないといけない原稿なので」
「もしかしてそれって、「キューリー夫人の華麗なる食客たち」の原稿ですか?」
「その通りです。多分、これは来月分になると思います。芸能人が結婚したり、大事件が起こらない限りですけど」
「えぇ、気になるなぁ読みたいなぁ」
「ダメですよ。それに、これを読んでも、何が何だか訳が分からないと思いますしね」
「そうですけど、ファンとしてはやっぱり気になりますっ!」
そう言われると、悪い気はしないし、ついちょっとだけなら……と言ってしまいそうになる。
〈ファン〉という言葉は想像以上に魔性の言葉のようだ。
「すみません。興味をもってもらえることは嬉しいことなんですけど、まだ未完成ですし、未完成品を見せるわけにもいかなくて」
これは純然たる作家としてのヴェラの気持ちでもあった。
未推敲の作品を見せるわけにはいかない。
「そうですよね。すみません。我儘を言っちゃって……この前も、良い感じになってた男性に 〈君みたいな我儘な子は無理だ〉って言われちゃって……反省したばかりなのに……」
思わぬ方向へ転がった会話にヴェラは、どうしていいかわからなかった。とりあえず、励ますか、慰めた方が良いと言うのだけはわかったが……
「男なんて、星の数ほどいるじゃないですか。一人に固執する必要なんてないですよ」
「ありがとうございます。私もそう思ってたんですけど……知り合いの…キューリー夫人を薦めてくれたのもその人なんですけどね、ヴェラ先生と同じことを言って励ましてくれたんです。でも…でもっ!その人、三十路のくせに恋人も男友達すらいないんですよっ‼だから、同じように考えてたら、私もこのまま恋人ができないんじゃないかって……」
励ますつもりが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい……
「ヴェラ先生は恋人とかいるんですか?」
「えっ、そりゃ…いませんよ。執筆が忙しくて、それどころではありませんし」
危ない、危ない。つい、見栄を張る悪い癖が出てしまうところだった。
「私も、仕事が忙しいって言い訳してて、あんまり友達もいないから遊びにも行かないし、しかも女性ばかりの職場だから出会いもないし」
とりあえず、プリシラが出会いに焦る女の子であることは理解した。
理解はできたが、それをヴェラにはどうすることもできなかったし、正直、恋愛経験に関しては経験値ゼロのヴェラにはアドバイスも同情もしてあげられる余地がない。
「あぁ、そう悲観しなくても……」
「楽観してたら、婚期逃しちゃうじゃないですか……ただでさえ、女だらけの職場だから職場での出会いなんてないし、勤務中はお化粧できないから、素顔勝負だし……私の顔じゃ、制服の三割増しでもカバーしきれないし……ふっ」
だから、ヴェラは早速、面倒くさくなってきてしまった。
プリシラは大切なファンだから、足蹴にすることはしたくはない。したくはないのだが、我慢の限界も近い。
うむ。ここは話題をかえなければ。
「そうです。今度、新作が書籍化するんですよ」
ヴェラは思いつく限り、一番プリシラが喰いつきそうな話題を、最初から投入することにした。
「あっ、新聞広告欄に出てたやつですよね⁉今度のはミステリーだって!」
よし、食いついた。
「はい。ミステリーテイストってだけで、ミステリーではないんですけど」
「あぁ、そうなんですか、キューリー夫人みたいなコメディかなって思ってたら、ミステリーって書いてあったから、どんな作品になるんだろって逆に気になってたんですよ」
むー。ノリと勢いの弊害がしっかりと出ている。ヴェラは改めて、ノリと勢いで告知はするもんじゃないと反省をした。
「まぁ、まだ、執筆自体はこれからなんですけど、何か良いタイトルないかなと思いまして。よかったらプリシラさんも一緒に考えてくれませんか?」
「えっ‼いいんですかっ、うわぁ、光栄ですっ!考えます、考えちゃいますっ!」
プリシラは興奮して嬉しさを爆発させいる。
そんな姿を見ていると、ヴェラ自身も嬉しくなってくるから不思議であった。
「今のところ、女の子二人で物語を進めていく感じで、一人は元気いっぱいで、いつもトラブルを起こす、やんちゃな子。いつも相棒の子を引っ張り回すんです。で、もう一人は、控えめで、大人しい子なんです」
「コンビですか。シャーロックホームズみたいな感じなんですか?」
「どうですかねぇ。二人ともホームズみたいに頭脳明晰と言うわけではないし、ワトソンみたいに特別な技能を持っているわけでもないです。どちらかというと、二人を取り巻く個性的な登場人物たちが、二人を助けたりして事件を解決する方向で考えてます」
「なるほどぉ。キューリー夫人と、少し似てますね。私はあの感じ好きだから嬉しいですけど」
「あー、それは否定できません。正直なところ、一冊目なので、キューリー夫人風も取り入れようかと思ってるんですよ。まだ、完全新作で勝負できるだけの自信もないので」
「ファンの私としては、複雑です。キューリー夫人が好きだから、その作風が残ってくれた方が安心して読めますけど、ヴェラ先生の作品だったら、違った感じの新作も読んでみたい好奇心もあったりしますので」
ファンの存在の有無は、確実に作品作りに影響する。大きな意味で報酬よりも糧になるのではないだろうか。誰かが楽しみにしてくれている。そう思えるだけで三日は徹夜ができそうな気がしてくるのだから。
もしも、書籍化第二弾が決まったら、その時は、完全新作にしよう。そう心に誓ったヴェラであった。
「あ、そう言えばこの二人って、お見舞いに来てた二人に似てますよね。えっと、お名前はですねぇ。訪問記帳で見たんだけど……」
「ひょっとして、エマとレイチェルですか?」
二人組と言えば、ヴェラの中ではエマとレイチェルしか思い浮かばなかった。ネイマールもキャシーも基本は単独行動だし。
「多分、そんな名前だったと思います。エマさん?はよく覚えてませんけど、レイチェルさんはよく覚えてますっ、オードリーさんに捕まって暴れてて、いい度胸してるなぁって」
オーバーロードはオードリーさんと言うのか。
ヴェラは、想像以上に普通の名前だったので、腑に落ちないと頬を指で掻いた。
「そう言われてみれば、そうですね。エマとレイチェルはクイーンアンネ通りでウィスパー寄稿文店と言うお店をしているんですよ。そこに私もちょくちょく、取材に行っているので、知らずの内に影響を受けたのかもしれません」
プリシラの客観的な視点は、ほぼ確信をついていた。きっと、自分が創造したと思っていた二人は実はオリジナルではなくて、エマとレイチェルと言う実在の人物のベースがあったのだ。
だったら、タイトルも変に凝ったり、捻ったりしなくてもいいではないか。
うん。そうだ。もし、人気が出たら、ウィスパー寄稿文店が聖地になったりするかもしれない。
うん。そうなったら面白い。
実害よりも、好奇心にのみ従順なヴェラの頭の中には、巡礼者の対応に追われ、慌てふためくエマとその横でニヤニヤしているレイチェルの姿が鮮明に描かれていた。
「どうしたんですか?ニヤニヤして?」
「あぁ、いえ。プリシラさんありがとうございました。おかげでタイトルが決まりそうです」
「えっ、そうなんですかっ⁉私何もお手伝いできてないと思うんですけどっ!でも、私も嬉しいです‼」
「いえいえ、貴重な意見をもらいました。また、恋愛系のストーリーの時はよろしくお願いします。これからは大なり小なり、避けては通れないと思うんです。生憎と、私の知り合いは揃いも揃って恋愛に疎くって」
レイチェル辺りは捏造しそうだが……
ちなみに、自分を入れなかったのはご愛敬と言うことで。
「最近の小説ってSFとかでも絶対恋愛要素出てきますよね。恋愛かぁ。私の参考にしたって、バッドエンドばっかりですよ。ふっ、いつの間にか連絡とれなくなったり、友達伝にフラれたり……そんなんばっかですよ……私の何が悪いんだろ……」
しまった……また地雷踏んだ…
忽ち、スカートを握りながら、唇を強く噛み涙を堪えるプリシラ。
「えっと、私は基本的に、ハッピーエンドものしか書かないので、バッドエンドはありませんよ。結ばれる二人ですから、安心して下さい」
ヴェラはできるだけ優しく、丁寧にプリシラの傷を労わるように言ったつもりだったのだが、
「バッドエンドの恋愛経験しかない私は、ハッピーエンドの恋愛物語を語れません。ふっ、私の妄想で良かったらいくらでもお話できますけどね。ふっ」
どこか遠いところを見ながらプリシラは半ば自棄になって吐き捨てた。
しまった……フォローするつもりが、トラウマ地雷を踏み抜いてしまった……
こうなっては、恋愛経験の無いヴェラになす術は無く、
「私で良ければ話くらいなら聞きますよ……」と言うくらいしかできなかった。
Ⅸ 一人と孤独との違い
明朝、朝一番に病室を訪れたキャシーは、原稿を回収すると「また、来るから」口数少なにそう言うと、足早に退室してしまった。
朝の回診で、主治医からいつでも退院して良い旨を伝えられ、本当は喜ばなければいけないはずなのだが、眠気と睡魔と気怠さで喜ぶどこか、ベッドから起き上がれずにいた。
回診について回っていたプリシラはなんであんなに元気なのだろうか?
昨夜、結局、プリシラは仮眠時間をフルに使って、今までの男性遍歴と愚痴をヴェラにぶちまけ続けた。深夜二時を回ったところで、交代の要請があり、渋々病室を出て行った。
もちろん、推敲作業の終わっていないヴェラはそこから、推敲作業をしなければならず、おまけに、決定的な矛盾点が発覚し、白々としだした空を横目に、急いで書き直しの作業をしなければならくなった。
おかげで、一睡もできないのはもちろん、朝食さえ食べられなかった。
「空腹で眠れない?はっ、寝言は寝て言えっ!」
ヴェラは枕に顔を埋めながら、そんなことを叫んでから意識を失った。
ファンがいれば、三轍は可能だと思ったが、そんなの不可能だと思い知った。そして、徹夜をすれば効率が良く思えるが、徹夜明けの日はどれだけ寝ても気怠さが抜けず、何もする気が起きないので、非効率であることもすでに経験済みである。
今回の徹夜に関して、プリシラと言う不可抗力が原因であったとして、その他の徹夜に関しては、経験に学んでいないと言わざるを得ない。
【 賢者は見通し 愚者は経験に学べ 】
誰か、昔の偉い人が言っていた気がするが、まさにその通りである。ヴェラに関してはとても賢者とはいえないので、全ての地雷を踏んでは転んでここまでやって来た。
せめて、同じ地雷を何度も踏むようなことをしなければ、救いもあるのだが、なかなかどうして、同じ地雷を同じタイミングで踏んでしまうのはどうしてなのだろうか。
「おぉう……爆発しない方が良いに決まってるのに……」
どれくらい経ったのだろうか。
ヴェラは、地雷を踏んでいるのにちっとも爆発せず、「なんで爆発しないんだっ!このやろぉ」と何度も踏みつけると言う、変な夢を見てから目を覚ました。そしてとりあえず、ベッドの上に座ってみたのが、例の如く全身が気怠く、鉛のように重い。
窓から差し込む、燦々太陽の光が肌を刺すようだ。
「ん~」
ヴェラはポテンと再びベッドに倒れた。すると、薄目の視界に、封筒が映った。
だれか、お見舞いにきてくれたのだろうか。そう思いながら、封筒を手に取ると、封筒の表には〈ヴェラ・クリスティ様〉と丸文字で書かれてある。
プリシラからのファンレターだろうか。ぽわぁーとする意識の中で封筒の端を破り、中に入っている書面を取り出して読んだ。
「わっ!」一気に眠気が消し飛んだ。
そして、刮目してもう一度、読み直した。
「おおおおぉぉぉ、なんですと……いや、これならなんとかギリギリなんとかなるはずです。うん。電気代と水道代を来月に支払いを待ってもらえば……食事は仕方ないですね。また、公園に行きますか……」
それは、治療費と入院費の請求書だった。
自分は被害者なのだからとすっかり、忘れていたのだが、キャシーも言っていたが、ひき逃げをした犯人が捕まっていないので、当然、支払い請求はヴェラのところへやって来る。
「こおぉぉぉっ、個室うぅぅ」
明細の個室料金の所に親指を強く押し当てながら、大部屋にしておけばよかったと激しく後悔した。
だが、大部屋だったら、執筆はできなかっただろうし、連載に穴を空けたら、それこそ死活問題だし……
「うがあぁぁっ!」
単純なパラドックスにヴェラは悶絶した。
とりあえず、通帳にはギリギリ支払えるだけの残高が残っている。いつの日か、お世話になったグランマに返せたらと少しずつ貯めていた大切な貯金だったが、背に腹はかえられない……
さすがに、治療費と入院費を踏み倒すわけにもいかない。
「そうだ、右腕が治ったら、犯人探しをしましょう。逃げた分は上乗せて、身ぐるみ剝いで血の一滴まで搾り取ってやりましょう」
太陽光が降り注ぐ窓に向かってヴェラは穏やかに、そう心に誓った。
O
「グランマ、お願いがあるんですけど」
「なぁに?」
請求書と言う避けることのできない現実を突きつけられたヴェラが、ひき逃げ犯への恨みつらみを永遠と呪いのように唱え続けていると、クラーラが林檎のパイを携えてやって来た。
早速、まだ温かい林檎パイをふた切れ頬張ったヴェラは、甘美なひと時に、胃袋を幸福感で満たし、呪詛を唱えることをやめ、現実的な話をすることにした。
「台所の一番奥にある地下収納の中に玩具の金庫があるんですが、その中に銀行の通帳が入っているので、全額を引き出して来てほしいんです」
「全額ってそんなにお金が?急にどうしたの?」
「いえ、突然の事故でしたし、ほら私は意識を失っていたので、エマやキャシーに立て替えてもらっている分があったりするんです。二人の好意で今週締め切り分が仕上がるまで待ってもらっていたんです。その原稿も今朝、無事に仕上がったので、そろそろ返そうかと思いまして」
よくもまぁ、これだけすらすらとそれらしい嘘が出てくるものだ。ヴェラは自分で話していて少し驚いた。悪い嘘ではないから、罪悪感こそなかったが。
「あらそうだったのね。二人とも何も言ってくれないから。二人ともいいお友達なのね。わかったわ、金庫の鍵は?それとも番号なの?」
「いえ、玩具なので、鍵はいちようついているんですが、それはダミーなので気にせず力ずくで引っ張れば開くと思います。開かなかったら、冷蔵庫にでも投げつけて下さい」
「金庫なのに、玩具なのね。わかったわ、やってみるわね。それはそれとして、ヴェラちゃん本人ではないから、きっと委任状がいると思うのよ。念の為に書いてくれるかしら」
それは、考えもしなかった。とヴェラは素直にタイプライターの前に座ると「なんて書いたらいいですか?」言った。
「手書きでないと駄目だと思うわ。タイプライターだと、誰でもかけてしまうもの」
「えぇ、左手で書くとなると、インカ人しか解読不明な文字しか書けません」
「それじゃ、お婆ちゃんが代筆するから、ヴェラちゃんサインして頂戴な」
「はい……わかりました。お願いします」
サインだけすればいいのであれば、タイプライターで打っても同じではないだろうか?そう思ったものの、すでにクラーラが余った原稿用紙に代筆を始めていたので、野暮なことは言わないことにした。
「ここにサインをして」
「はい。うぅー難しい……むぅ。これ読めますかね……うぅ…グランマ、机の一番一番上の引き出しに私宛の手紙がいくつか入ってるので、それを適当に持って行って下さい」
相変わらず、解読困難な文字の羅列に項垂れてヴェラが言うと、
「多分、大丈夫だと思うけど……そうね。それがよさそうね」
クラーラもヴェラのサインを見て、苦笑を浮かべてそう言った。
「それじゃあ、また夕方頃に来るわね」
「すみませんが、グランマお願いします」
ヴェラは、足早に病室を後にするクラーラの背中に向けて短くそれだけを言い、静かにしまったドアに向かって、ぽつりと、
「サインをした意味とは……」と呟いた。
クラーラにお金を使わせたくなくて、あえて嘘をついてみたものの、通帳の残高を見たら、きっと、ため息をつくだろうし、情けなく思う事だろう。
もしかしたら、ヴェラの貯金は下ろしてこないかもしれない。
ベッドに横になりながら、ヴェラはそんなことをずっと考えていた。
コンセントすら入っていない冷蔵庫に、閑散とした部屋。スカスカなタンスに入っているのは、田舎の家を出た時と同じ下着類。洗剤だって固形石鹸しかないし……
そんな生活ぶりを見たなら、通帳の残高が少ないくらいでは驚かないだろうとは思う。思うのだが、心配はすると思う。
「はぁ」
ヴェラは浅くため息をついた。
こんなはずではなかった。
クラーラには、書籍化した単行本を添えて、手紙を書くつもりだったし、あわよく人気が出たなら、仕送りだってしようと思っていたのに。
早すぎる再開と、予期せぬ再会のせいで、全部が全部台無しだ。
憎きひき逃げ犯めっ、私の予定と想定を返せっ!
病室のドアが開く音がした……が、ヴェラは反応するでもなく、生気のない目元でずっと薔薇の花を見つめていた。
「ヴェラ・クリスティさん」
声がして、遅れてキャラメルのような甘い……と言うより甘ったるい香水の香りが鼻腔についた。
仕方がなく上体を起こすと、そこには、白衣を着たグラマーな女性が立っていた。
艶めかしいロングのブロンド、大きな目に吸い込まれそうな青眼、小さな鼻翼に高い鼻、大きな口はぷっくりとしていて、それは言うところの、キスをしたくなる唇。胸元を大きく開けたブラウスをはち切れんばかりに窮屈な何かが押し上げ、紺色のタイトスカートだって、サイズを間違ってるんじゃないだろうか?と疑いたくなるほどに、体のラインにぴったりと張り付いていた。
そんな、いけないボディのお姉さんが、白衣を纏って立っている。
「白衣はコスプレですよね」
ヴェラは無表情で決めつけた。
「惜しいです。今日のテイストは危ない保健室の先生。なんですよ。申し遅れました、私はこの病院で精神科を診ている、クリスティン・マーカスと申します。以後お見知りおきを」
会話が嚙み合っていない感はあったが、凛としてはっきりとした綺麗な声でクリスティンは挨拶をすると、大袈裟にお辞儀をして締めくくった。
その際、けしからん乳が、視覚的に存在感を強調したので、
「けっ」思わず、ヴェラは舌打ちをしてしまった。
「ほう。本日はご機嫌斜めですか?目が死んだ魚のようですよヴェラ先生。男性ならば、この胸で忽ち元気にして差し上げられますが、女性となると、私の不得手でして、ちゃんとしたカウンセリングを行うことになってしまいます。まぁ、ご心配なく、こう見えて私は、両刀使いですので」
この人、真顔で何を言ってるんだろう。そして、どこから何から、ツッコんだらいいだろう。さすがのヴェラも、初対面から冗談なのか本気なのか真意は別にして、危ない発言を連発
する妖艶な美人女医に、本能的な危険を感じた。
大体、両刀使いってなんだ。
「今なら偽物だって言っても信じてあげますし、白衣を剥ぎ取るくらいで許してあげます」
「そういうプレイも嫌いではありませんが、残念です。私は本物の医師なんです。病院の外で会って下さるのなら、どうぞ私の部屋においで下さい。ヴェラ先生の思いのままにっ!私を弄んで下さって結構ですので」
クリスティン女医は右手を太腿から舐めるように体のライン沿って動かし、口元まで来ると、投げキスをヴェラに投げかけた。
「わっ!私にそういう趣味はありません。大体なんですか、甘ったるい香水なんてつけて、何日か入院してますけど、香水をつけてる人は貴方がはじめてです」
クリスティン女医の投げキスに精神的ダメージを負いながらも、ヴェラはひるまずに言い返す。
「甘い匂い?あぁ、この匂いは香水ではありません。私の体臭です。ほら、赤ちゃんはミルクの匂いがするっていうでしょう?あれと同じです、全てはフェロモンの成せる業でしてよ、ほほほっ」
この変態、体臭とかぬかしましたよ。
よっぽど、〈変態〉と言ってやろうと思ったのだが、この手の人種に〈変態〉と言うと、逆に喜ぶ可能性もある。
不敵に微笑む変態女医を前に、ヴェラは少し考えて、言葉を選んで一言だけ言った。
「こんなケバイ赤ちゃんが居てたまるかっ‼」
「はうっ、ケ……ケバイ……ヴェラ先生、それは何かの間違いです。だって私、つい先ほども、若い殿方に、食事に誘われ、佳麗に断って来たばかりなのですから」
明らかに、精神的ダメージを負ったクリスティ女医は、身を逸らせ半歩後ろに下がると、
なんとか、踏みとどまり、口角を引き攣らせながらやっとそんな強がりを言った。
よし。ようやく、こちらのターンが巡って来た。
ヴェラは追撃の手を緩めなかった。
「あの、それから、さっきから私のことをなんで〈先生、先生〉言うんですか。私は貴方に先生と呼ばれる謂れはないんですがっ!」
「はて?プリシラ君から聞いていませんか?私は彼女から先生の人となりを何度も聞いているのですが……」
「プリシラさんは知ってます。昨晩もここで話をしてましたし」
「なんですとっ!プリシラ君はずるいなぁ。私の方が先に先生の魅力を見出したと言うのに」
「魅力を見出したって気持ち悪いですね。プリシラさんは私の書く小説のファンなんです。あなたみたいに幼……誘拐犯みたいな風ではありません」
「何をおっしゃいますっ‼私だって先生の大ファンですともっ!新聞連載小説の〈キューリー夫人の華麗なる食客たち〉第一話からのファンなんです。忘れもしない、第一話の三行目「朝食がなければ昼食を食べればいいだけのことよっ!」あの夫人の台詞。私はあの一行で、虜になってしまったのです。それから毎日、出勤間に新聞を買ってはスクラップをする毎日、そして寝る前に読み返すのも毎日のことなのですよ」
えっ……恍惚として、熱く語るクリスティ女医を前に、ヴェラは唖然とした。
うーむ。ただの変態なら、足蹴にすることも躊躇わないし、容赦もしないが、ファンともなると話は別である。
大ファンともなると、更に話は別次元である。
「付け加えると、私がプリシラ君に先生の作品である、キューリー夫人を薦めたのですよ。今では彼女も負けず劣らず、ドっぷりドはまりの先生のファンであるところは認めますけど」
そう言えば、プリシラもそんなことを言っていたっけな……知人に薦められた~とか、その知人は新聞小説をスクラップにしている~とか。
「えっと、プリシラさんから存在は聞いていました。でも、知人と言っていたので、その、わかりませんでした……」
「なっ、プリシラ君も恥ずかしがり屋さんだなぁ。もう何度と、夜を共にした仲だと言うのに……ふっ」
そう言う告白は聞きたくないし、もうツッコまない。
ヴェラは思った、プリシラに恋人が出来ないのは、クリスティ女医と一緒にいるからではないだろうか?と。
「あの、大ファンだと言うのは嬉しいのですが、診療はいいんですか?」
クリスティ女医が病室に現れてから、そこそこいい具合に時間が経過している。もちろん、今日は平日だから、とっくの昔に午後からの診療が始まっているはずだ。
「あぁ、ご心配なく。私は非常勤なので、これから、家に帰るところなのですよ。そう言えば、やはり、先生はこの病室でも執筆を?」
クリスティ女医はタイプライターを視線で指しながら尋ねた。
「はい。入院しても締め切りは待ってくれないので、と言っても今朝方、原稿は渡しましたし、明日退院するつもりなので、もうここでは執筆はしないと思いますけどね」
新作のプロットもあがったし、原稿の提出も終わったので、今日一日くらいはゆっくりとしよう。それがヴェラの腹積もりだった。
「なん…ですとっ!それでは、私にとって、この病室は今この瞬間から聖地になってしまったわけですねっ‼」
「は?」
「聖地ですよ。サンクチュアリですよっ!」
「いえ、意味はわかりますけど、どうして、聖地だの聖域になるんですか」
「私が敬愛するヴェラ先生が創作活動を一瞬たりとも行った場所は、私のような大ファン……いいえ、オタクにとってそこは聖なる場所になるのです‼」
オタク……大ファンの方がよほど響きが良い。オタクと大ファンとの間にどれくらいグレードの差があるのはわかりたくもなかったが、とにかく、オタクは響きが悪い。
「うえぇ、それじゃあ、トイレで書いたらトイレも聖地になるんですか?」
「愚問です‼」
クリスティ女医は豊満巨峰を突き出すように胸を張って、言い切った。
「もっと言えば、そのタイプライターも言い値で買い取らせて頂きたいくらいなんですが……」
机の上に置いてあるタイプライターを見つめながら、涎を滴らせるクリスティ女医。
これがなければ、ただの美人女医なんだろうなぁ。とヴェラは思った。
これじゃ、変態女医だ。ともヴェラは思った。
「このタイプライターは借り物ですから、勝手に売るなんて無理です。と言っても素直に聞いてもらえそうにないので、んっと、そうだっ、サインをしますよ。だからそれで我慢して下さい」
「サインで我慢してください」だなんて。そんなことが言える人が現実に訪れるなんて……ヴェラは少し照れる反面、一番最初にサインをするのがクリスティ女医である事が、少し複雑な心境だった。
「おぉ、それでは是非っ、小説をスクラップしているファイルの表紙に大きくお願いしますっ!」
クリスティ女医はタイプライターを諦めきれない様子ではあったが、ヴェラの申し出に飛び上がって歓喜を表した。
「はい。すみませんが、書く物も一緒に持って来てくれませんか、私は万年筆しか持っていないので」
「もちろんっ!それくらいお安い御用ですっ‼それでは善は急げっ!早速、ファイルを取に帰ってきます。きっと、退院までには間に合うと思いますからっ、いいえっ、間に合わせますからっ!」
クリスティ女医は瞳を輝かせて、そう言い、全力疾走で病室を出て行ってしまった。
喜び方と言い、物言いと言い、どこか世代差を感じなくもないが、単純に喜び方がプリシラと似ている。
ヴェラは開けっ放しになっているドアを見ながらそう思ったのだった。
O
病院で過ごす最後の一日。ヴェラは病人らしく大人しくベッドの上で寝転がって時間が過ぎ去ってゆくのを静観していた。
思い返してみれば、この数日間、五体満足で過ごす日常よりもアクティブだったような気がする。屋上での耐寒徹夜に、オーバーロードとの死闘。結局の徹夜に、ひっきりなしに訪れる見舞客への対。
普段は、部屋に引きこもっている時間の方が多いから、人と話す機会なんてほとんどないので、ふと、口がついていることを忘れてしまう時がある。
そんな日常を鑑みれば、ここのところは異常と言うべきだろう。誰かと言葉を交わさない日がないのだから。
ヴェラはずっと、自分は孤独なのだと思ってきた。もちろん、友達も知り合いもいないロンドンへ一人で出てきたのだから、それは当然なのだが、気が付いてみれば、自分の周りには親しい人間が何人も居るではないか。
そんな自分は孤独ではない。ただ一人なだけなのだ。
右腕が不自由なのも、病院と言う閉鎖的空間での拘束、そして、家計を破滅させた入院治療費も……事故なんてろくなもんじゃない。
そう思う気持ちは潰えない。
だけど、蓋を開けてみれば、自分は孤独ではないという幸福を実感したし、クラーラとも再会することができた。プリシラとクリスティと言う熱烈なファンの存在も知ることができた。
付け加えるなら、原稿の締め切りもなんとかなったし……
人生万事塞翁が馬。
終わってみれば、全てが全てなんとかなっていた。もしかしたら、差し引きでお釣りが返ってくるかもしれない。
「グランマ、しばらくこっちに居てくれたら良いのになぁ」
お釣り分の流れに乗っかって、欲を出してみようか。ヴェラは窓越しに空を眺めながら、そんなことを呟いた。
クラーラが病室を訪れたのは黄昏時を前にした時分だった。
「あっ、グランマ。ん?どうしたんですか、浮かない顔なんかして……あぁ、通帳の残高のことなら心配しないでください。その、まだ、非常用の通帳がですね……隠してあるんですよ」
強がりと嘘つきとの境界はどこにあるのだろ。ヴェラは表情のすぐれないクラーラを安心させようとまた、底のしれた嘘をついてしまった。
「確かに……残高を見て驚いたわ。苦労しているのね、とも思ったの。でもね、長いこと通帳が使われていなかったから、通帳記入をしたのね。そしたら、お婆ちゃんもっと驚いてしまって……ヴェラちゃん……何か悪いことでもした?」
「へっ?グランマは何を言ってるんですか、さすがの私も通帳に落書きをしたりしませんよ。それよりも、その通帳からお金をおろしてきてくれたんですよね?」
「えぇ、半信半疑だったけれど、銀行の人も間違いないって言うから、家計費も含めて、とりあえずこれだけ」
クラーラは困惑したまま、ヴェラにパンパンに膨らんだ封筒を手渡した。
「うぅ、また随分と細かい紙幣で下ろしてきたんですね。まぁ、小金持ちになった気分を味わえるので……って‼なんですかこれ、全部五十ポンド紙幣じゃないですかっ‼」
てっきり、五ポンド紙幣が入っていると思っていた封筒の中には、使い勝手が悪く、なかなかお目にかかることのない。最高額紙幣五十ポンド紙幣ばかりが入っていた。
使い勝手云々の前に、明らかに通帳残高をオーバーしている。
「ヴェラちゃん全額下ろして来てってお願いされたんだけど、銀行の人にも全額下ろして持ち歩くのは危ないって止められてしまって、それならせめてって、全部五十ポンド紙幣にしてもらったのよ。これで足りる?足りなければまた下ろしに行ってくるけれど」
「いやいやいや、何をすっとぼけたことを言ってるんですかっ⁉私の通帳から下ろしてってお願いしたじゃないですか、グランマの優しさは嬉しいですけど、これ以上、迷惑を掛けたくないんです。だから、これはグランマの通帳にお返しします。次は絶対に私の通帳から全額引き出して来て下さいっ!」
ヴェラは強く総いうと、封筒に紙幣を押し込んでクラーラに突き返した。頑張って押し込んだものの、押し込み切れなかった紙幣が飛び出したままになっている。
「このお金は、ヴェラちゃんの通帳から引き出してきたお金なのよ。残高が残高だけに、手紙だけで本人証明できるか不安になっちゃったもの。お婆ちゃんの通帳は田舎の家においてきているから今は持ってないわ」
クラーラはバッグから通帳を取り出すと、ヴェラに手渡す。
通帳を受け取ったヴェラ通帳を開きながら、
「そんなわけないですよ。ここの入院治療費を支払ったら、光熱費はおろか食費すら残らない……どひゃあっ‼」
ページを流し見にして、明らかにゼロが多い印字部分を見つけて、ヴェラはひっくり返った。
「なんですか……ここここ、この大金わっ!」
思わず通帳を持つ手が震えた。
「いち、じゅう、ひゃく、せん……十万……グランマ、どうやったら、五百ポンドが十万ポンドに化けるんですか‼寝てる間に宝くじでも買ってたんでしょうかっ‼」
クラーラがわかるはずもないのに、ヴェラは興奮のあまりそんな質問を口走っていた。
自分が夢遊病を患っているような感じがして来るから不思議だ。
「お婆ちゃんにわかるわけないわ。思わず、銀行の人に、何かの間違いじゃないかって聞いたのよ。そしたら、応接室に通されて、三日前に合法的な手続きで他の銀行を経由して振り込まれたお金ですって。お婆ちゃん、銀行の応接室になんか初めて入ったわ」
「あれー、入院治療費を支払ったら、残らないなーと思ってたのに、知らない間にこんな大金を稼いでいたなんてっ、印税って算出方法がよくわからないだけに、思わぬ大金に化けることもあるんですねぇ。著作権様々です」
ヴェラは恣意的な勘違いを思い込むことにした。
「ヴェラちゃん。嘘はいけないわ。現実に帰っておいでなさい」
どうあっても辻褄が合わない。謎の大金を前に迷爆走をはじめたヴェラをクラーラが制した。
「うぅ、でも、銀行の人も間違いじゃないって言ってるんですよね?」
「そうなんだけど、世の中に、黙ってこんな大金をくれる心優しい人なんていないと思うの」
至極正論だ。
あれだろうか……足の長いおじさん的な……あれだろうか……
「同情したからお金をくれたんですかね……はぁ、ギブアップです。理由が思い当りません。でも、入院治療費の支払いはしないといけませんし、光熱費だって支払わないといけません。家賃だって食費だってかかります……あ……今思い出しましたけど、光熱費は先月分も支払っていないので…じゃなくて忘れていたので、今月払わなと、全部止められてしまいます」
「あらあら、それは大変っ。そうよねぇ、お金はいるものね。不気味であまり手を付けたくないけれど、仕方がないから、今日下ろしてきたお金だけ、使うことにしましょ。これくらいなら、もし、返せって言われてもなんとかなるから」
「はい。無駄遣いしないように大事に使いましょう」と言う妥協点で落ち着いた。
仮に、返せと言われたら、知らぬ存ぜぬ、で押し切れば良い。他人の通帳に勝手に振り込んだ方が悪い。
うん。押し切って見せる。
「お金のことはそれでいいとして、さっき、入院治療費って言っていたけど、もう退院できるの?」
「そうなんですよ、今朝、いつ退院しても良いと言われたんです。部屋代もかかるので、明日にでも退院しようかと思いまして」
「そうね。請求書は?見せて頂戴」
「これです。部屋代の精算は退院時になるみたいなので、確定は治療費だけで、部屋代とレンタル品は概算みたいです」
請求書をクラーラに渡すと、クラーラは口元を何度か動かして「こんなものかしらね」と何度か頷いた。
「わかったわ。それじゃあ、明日は朝一番に来るわね。それと、ヴェラちゃんが返って来ても大丈夫なように準備しなくちゃだから、お婆ちゃん今日はもう帰るわね」
急にそわそわしだしたかと思うとクラーラは何かを思いついたように、微笑みを浮かべ、足早に帰ってしまった。
すっかり聞きそびれてしまったが、準備とは一体なんだろうか?
「まあいいや」
ヴェラは不意に転がり込んだ大金に胸元をほっこりさせると、ベッドの上に大の字になって寝ころんだ。
お金の心配をしなくて良いとはこんなに晴れ晴れとした気持ちになれものなのか。そして、無性に誰かに贈り物をしたくなった。
エマやレイチェルに何か買ってあげようか……ニヤニヤしながら、お金とはこんなにも人を寛容してくれるか。ヴェラはますますニヤニヤした。
だが、ヴェラは知らない。それが、ぽっと出の成金が陥る、破産への王道的思考であることを。
その日の夕食には、デザートにカップケーキが付いていた。
すっかり、気持ちが大きくなっていたヴェラは夜の見回りに訪れたナースにでもあげようと、余計な気を回して、カップケーキを机の上に残しておいた。
「明日退院できるんですってね。よかったじゃない」
そう言ってキャシーが病室に入って来たのは、宵の口過ぎのことだった。
「おぉ、キャシーじゃないですか。って、凄い荷物ですね、どこに行くんですか?」
いつも通り、ランドセルを床に置いたキャシーは椅子に座る前に、大きなボストンバッグをベッドの端に置いた。
「ノーフォークに取材に行くのよ」
「今夜の夜行でね」とボストンバッグを叩きながら続けて言う。
「へぇ、またノーフォークとは、随分と田舎に出掛けるんですね。とりあえず、お土産楽しみにしてますね」
「あんたねぇ、まるっきり他人ごとに言ってくれるけど、今回の出張はあんた絡みなんだからねっ」
「私がらみって、どういう事ですか?」
「ひき逃げ事件よ。逃げ徳、轢かれ損なんて許せないから、私も犯人を捜してたんだけど、ウィンチさんの話を聞いて、別視点で取材してみたら、どんぴしゃりっ」
「本当は自転車じゃなくてサイドカー付きのオートバイだったって話でしたっけ」
「はぁ。でしたっけ?ぢゃないわよっ!自分のことでしょっ」
「そうなんですけど、何せ、意識が飛んでたもので。撥ねられたって言う自覚もほとんどなくって」
骨折しましたけど。とヴェラは付け加えた。
「そうだったわね……なんかごめんなさい。そうそう、サイドカー付きのバイクなんて珍しいから、それを手掛かりに聞き込みをしたら、ヴェラが撥ねられた日の夕方ごろに、ノーフォーク方面に向かう、サイドカー付きバイクを目撃した人が結構いたのよ。バイクがBMWのって言うのもあるけど、なんでもサイドカーの風よけガラスが割れて上半分が無かったらしいの。もう、このバイクで決定でしょ」
「おぉ、キャシーは探偵みたいですね。いつの間にそんな技を身につけたんですか⁉」
少し面白そう。とヴェラは身を乗り出して尋ねた。
「敏腕記者って言って欲しいわねっ。捜査も取材も、基本は足を使うのよ。だから同じっ」
「なるほど。それにしても、ひき逃げ犯くらいでよく、そんな遠くへ主張が認められましたね?そんなに話題がないんですか?」
交通事故なら、一日何件も起っているだろうに……
「んなわけないでしょ。大きな声じゃ言えないんだけど、どうも、逃げたバイクの持ち主が、ノーフォークに住んで居るとある貴族らしいのよ。しかも財界に顔の利く大物よ、そんな大物貴族がひき逃げ犯だとしたら、特大スクープになるでしょ?」
鼻高々と、得意満面に言うキャシー。
「確かに、そうですけど、それって危ないんじゃないですか?ほら、映画とかでもあるじゃないですか、真相に迫った記者とか探偵が口封じに殺されるって言うの」
「うっ。まっまさかぁ……」
キャシーは急に無口になって視線を足元に落としてしまった。
「本当は、不安だったりするんでしょ?」
「そっそりゃ、見ず知らずの土地に一人で、しかも若い女の子である私一人で行くんだから、不安はあるけど、そんなこと言ってたら記者なんてやってられないし、特ダネだって一生、手に出来ないわよ」
言葉こそ、威勢が良かったが、俯き加減に胸元で指を突き合わせているキャシーは、言ってることとやってることが、矛盾していた。
「そですか……ん……んんっ………っ」
ヴェラはどうせ、あんなのは映画の中だけだろうと楽観的に構えていたのだが、〈口封じ〉と言う言葉に、もう一つの言葉を思い出した。
口止め金……
仮に、ひき逃げ犯がそんな大富豪であるなら、口止め金くらいは払いかねない。そして、通帳に振り込まれた大金がそれであったとしたならば、辻褄も合って来る。
ヴェラは全身に悪寒を感じた。
「どうしたの、急に黙り込んで?し、心配してくれるのは嬉しけど、大丈夫よ。マフィアの取材に行くわけじゃないんだし」
「いえ、心配なんじゃなくて、そのですね……」
「えっあ、心配なんじゃないのね……って、べっ、別にそんなのわかってたし……気にしてないし……」
恥ずかしさ余って、すっかり顔を真っ赤にしたキャシー、どこからどう見てもヴェラの言葉を気にしている様子だったが、正直、ヴェラの心中はそれどころではなかった。
「あの、実は、通帳に身に覚えのない大金が振り込まれていて……」
そう言いつつ、ヴェラは机の引き出しに隠しておいた、通帳を開いてキャシーに見せた。
「うわぁ、本当……五百ポンドが十万ポンドに増えてる……」
キャシーは通帳とヴェラの顔をと交互に見ながら、いけない物を見てしまったような表情をした。
「事実ですけど、そんな風に言われると腹立ちますね。わざとですね?わざとですよね⁉よし、表に出ようじゃないかっ‼」
ヴェラは一人でそう喚いて、腕まくりをしたのだが、キャシーは難しい顔をして通帳に視線を落し続けているばかりだった。
「これって、口止め金だと思う……」
「やっぱり、そう思いますか……私も今しがた、そう思ったんです。と言うかそうでないと、辻褄が合わないですし……」
真摯なキャシーの姿に、ふざけている場合ではないとヴェラはベッドの上に座り直した。
「大物貴族の線が一層濃くなったわね。十万ポンドもぽんっと振り込める人なんて、そうそう居ないもの」
「あれですか、オードバイが自転車に置き換わってたのも、金の権力の仕業ってことですかね」
「それは、なんとも言えないけど、否定しきれないところが歯がゆいわね」
キャシーは顎に指を添えて、何やら考え込んでいる様子だった。
「キャシー。列車の時間はいいんですか?」
「えっあっ、まだ大丈夫だけど、そろそろ行くわ。出だしからアクシデントとか御免だし」
そう言って立ち上がったキャシーは、ランドセルを背負って、ボストンバッグを携えた。
「これ、餞別です。列車の待ち時間にでも食べてください」
そう言って、ヴェラは取り置いていた、カップケーキをキャシーに差し出した。
「えぇ、カップケーキは嬉しいけど、普通、裸で渡す?」
目を細めて呆れた風に言ってみたキャシーだったが「ありがとう、頂くわ」とカップケーキを受け取った。
「あの、次、何時会えるかわからないので、言っておきますね……」
今回はキャシーに本当に世話になったので、ヴェラは心からお礼を述べようとした。
だが、
「ちょーっと待ってっ‼何それ、もう私と会えないみたいな言い方やめてよねっ!私、死なないからっ、ちゃんとすぐに帰って来るからっ!そう言う、フラグ立つようなこと言わないでよねっ‼」
想像以上にノーフォーク行きで、ナイーブになっていたキャシーに全力で阻止されてしまって、その先を言わせてもらえなかった。
「いえ、そんなつもりはなくてですね。純粋に、今回のお礼をですね……」
「待ってっ!それは無事に帰って来てから聞くわ。そして、何か奢って頂戴」
キャシーは必死な形相で、ヴェラの言葉を遮った。
そして、「それじゃ、私、行って来るからっ!スクープ取って帰って来るからっ‼」と言い残して病室を出て行ってしまった。
「あ、万年筆……返しそびれた……」
ドアが閉まった後、ヴェラはそう呟いた。
足取り重く駅に向かうキャシーの姿を窓から見下ろしながら、ヴェラは思った。本当はノーフォーク行きを止めてほしかったのではないだろう。と。
O
「もう。今日、退院するんだったら、どうして昨日のうちに準備しておかないの?」
普段の不摂生からか、壊れた体内時計のせいか、クラーラが病室に訪れた時、ヴェラはまだ爆睡していた。
「その、昨日、昼間に寝過ぎて、夜、なかなか寝付けなくって……ごめんなさい」
「荷物はお婆ちゃんがするから、ヴェラちゃんは着替えを済ませておいて。寝巻では帰れないでしょ」
クラーラは手際よく、荷物を大きなトートバッグに収めて行く。
そう言っても、そもそも、ほとんどを病院から借りていたので持ち帰る私物はほとんどない。一番大きくて、重い物と言えば、エマから借りていたタイプライターだろう。
「あの、グランマ」
ズボンを履いて、上着を着ようとして、ヴェラはとても困った。
「早くしてね。受付に十時頃には退院手続きをするって言って来てるんだから」
退室準備が整ってから、そう言うことは言えばいいのに。そうやって、自分の都合で人を急かすところは、母親そっくりである。
まあ、本を正せば思いっきり寝坊をしたヴェラが悪いのだが……
「グランマってばっ」
「このタイプライターどうしましょ。毛糸の風呂敷に包めば良いわね」
聞いちゃいない。自分の世界に入り込んだら、人の話が聞こえなくなるのも母親そっくりだ。
うむ。やっぱり、親子だ。
「もうっ!グランマッ‼」
ヴェラはベッドの上に立ち上がって、大きな声を出した。
「どうしたの、大きな声なんて出して⁉」
「袖口が細くて、右手が通りませんっ!」
ヴェラはギプスのところでつっかえてしまっている袖口を見せた。
「あらまぁ、お婆ちゃん、ギプスのことすっかり忘れていたわ」
「ほかに着替えは無いんですか?」
「困ったわねぇ、持って来てないわ。そうだ、おばちゃんのカーディガンを着なさいな。伸びるから大丈夫よ」
「えぇ、カーディガンって、下着、透け透けじゃないですかっ!そして、すっごいスースーしますよっ!もれなく風邪ひきますっ‼」
ネイマールやクリスティン女医のように強調する部分が無いにしても、さすがに、それは女子としてどうなのだろうか。
珍しく、羞恥心が先だった。
「そうね。その上から、ショールを羽織れば大丈夫。それにね、ウィンチ君が車を出してくれているから、晒し者にはならないわ」
ウィンチ君って……
「なんで、ウィンチさんが来てるんですか⁉」
「昨日、生垣の所で見かけて、挨拶をしたんだけど、その時に「荷物を持って帰るの大変だわって」話したら、荷物を持ってアパートまで帰るの大変だろうからって、車を出してくれたのよ」
おおう。意図的なのか天然なのか、その年になって。〈女子〉を武器として使うとは、自分の祖母にして、恐ろしいとヴェラは思った。
「そうだ、退院の書類グランマにお願いしてもいいですか?多分、読める字が書けないと思うので」
「えぇ、そのつもりよ。でも、お婆ちゃん、眼鏡を忘れてきてしまって、見えるかしらね」
そう言えば田舎の家に居た時、クラーラは眼鏡を愛用していた。時々は外していたから、てっきり、外しているのだとばっかり思っていた。
「取りに帰らなくったって、こっちで新しいのを買えばいいですよ。お金ならあるんですから」
ヴェラは思い切って言って見た。クラーラがその言葉に込められたヴェラの気持ちに気が付くか否かは定かではなかったが、はっきりとはどうしても言えなかったので、含んだ言い方をした。
不器用だと自分でも認識している。
「ヴェラちゃん……」
「はい。なんですか、グランマ?」
「お婆ちゃん、しばらく、ヴェラちゃんのところに居ても良い?」
「えっ‼」
ヴェラは、心臓が口から飛び出るくらい驚いたので、それに相応しい声量を叫んだ。
「やっぱり駄目かしらね。執筆の邪魔になるものね」
「違います‼居てくれるんですか⁉実は、このままグランマが居てくれたらなぁって思ってたんですっ!」
またこれで、しばらくはクラーラと一緒に暮らすことができる。ヴェラは嬉しくて仕方がなかった。
「あらあら、うふふっ」
クラーラは特別、何も言わなかったが、ヴェラに注ぐ優しい微笑みが全てを語っていた。
「グランマ、タイプライターは私が持ちます。それを抱えていれば前が隠れるので」
「あらそう?重いわよ」クラーラはそう言いながら、ヴェラにタイプライターを渡した。
なるほど、ズシリと左腕に食い込む感じがなかなか辛かったが、重心をギプスの上に移動させると、我慢できない重みではなくなった。
一階に降り、クラーラに待合所で待っているように言われたヴェラはタイプライターを携えたまま、柱に背をもたせて人間観察をしていた。
椅子に腰かけ診察の順番を待つ人、薬の待つ人、支払いを待つ人。色々な人が居るが、一様に顔色が悪かったり、咳込んでいたり、包帯を巻いていたり、見ていて楽しいものではなかった。
ここに居るのは全員が病人であるのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが……
受付を見やると、クラーラが何やら書類に記入をしていた。
きっと、書類を書いてから、また順番に並ぶのだろう。
時間がかかることを予想したヴェラは、外に出ると、日当たりの良いベンチに腰を下ろして待つことにした。
風が吹けば肌寒かったが、降り注ぐ日差しがある限りは、丁度良い塩梅だった。
日の光に当てられて、熱を帯びるタイプライターを撫でながら、自分もタイプライターが欲しくなった。
もちろん、チーンとベルの鳴らないタイプを。
「あれ?ヴェラじゃない、どうしたの?こんなところで、もしかして、病室を追い出されたとか⁉」
何をするでもなく、眠気に弄ばれるがままになってやろうか。ヴェラが幸せな心地で居ると、聞き覚えのある声が投げかけられた。
「なんでそうなるんですか。見ての通り、退院するんですよ」
「そうなんだ、遠目には着の身着のまま、放り出されて途方に暮れてる人みたいに見えたから」
このファッションだとそんな風に見えるのか。
「今、グランマが退院手続きをしてくれています。ところでレイチェルはどうしたんです?いつもエマの後ろを金魚の糞みたいについて回ってるのに」
「もう、そんな風に言うとレイチェル怒るわよ。レイチェルってば、何やったんだか、病院へ出入り禁止になっちゃったみたいで、お留守番してるわ」
そう言えば、駐車場で盛大に守衛さんを追いかけっこしてたもんなぁと、ヴェラは、とある夜のことを回想しつつ、ネイマールが仲裁に入っても出入り禁止とは、レイチェルはいったい何をやらかしたのだろうか?
「っで、、どうしてウィンチさんが居るのか聞いてもいいのかしら……?」
「どこにですか?確か、車をどうとかグランマは言ってましたけど?」
ヴェラが首を傾げながらエマに聞くと、エマは徐に、ベンチの端を指さした。
「はうっ‼いつから居たんですかっ⁉忍びですかあなたはっ!」
確かにベンチの端にウィンチ氏は居た。
ヴェラは驚いて、思わずタイプライターを落としそうになってしまった。
「さっきから居たさ、その、声が掛けず辛くてね」
「あの、初恋の相手にここまで入れ込んでいいんですか?夫婦喧嘩の種になっても、責任とりませんからね」
「なっ、はっ!初恋の人だなんて誰が言ったんだっ!まっ、まさか……クラーラ先生が……?」
思いっきりわかりやすく狼狽するウィンチ氏。
「なんですか、グランマにはもう魅力はありませんか。そうですか、皺が増えたら、知らんぷりなんですね。これだから男って生き物はっ!」
ヴェラは軽蔑の眼差しをくべながら、全力でウィンチ氏に毒舌を並べた。
「ちょっと、いくらなんでも失礼よ」エマが困惑した表情で間に入ろうとしたが、ヴェラはそれを許さなかった。
「勝手なことを言うのはよしてもらおうっ!クラーラ先生は今でも昔とかわらず、お茶目で品があって、とても魅力的な女性だっ」
ウィンチ氏は髪の毛を振り乱して、これを否定し、少し声を細めて「妻は十年前に亡くなった。私たちの間には子供を授かることができなかったから、今は一人だ。やましいことなんて一つもない」と言った。
ヴェラは表情一つ変えず、ヴェラに厳しい視線を叩きつけるウィンチ氏を見上げ、
「そうですか。そう言えば、グランマは眼鏡を忘れてきてしまって、今頃、書類記入に手間取っていると思います、だから、誰かが、手伝いに行ってあげた方がいいと思うんです」と告げた。
「そ、そういう事は早く言うものだ」
ウィンチ氏は怒っているのか照れているのか、よくわからない顔をして、玄関の方へと歩き出す。
ヴェラは口に手を添えて、その背中に向かって「グランマはしばらく、こっちに居ることになりましたが、きっと毎日、暇を持て余すと思うので、綺麗な庭でお茶の相手をしてくれる人なんかが都合よく居れば、いんですけどね」そう言ったのであった。
「お、大人をあまり揶揄もんじゃないっ!」
ウィンチ氏は立ち止まると、一度振り返ろうとしてこれをやめ、玄関のガラス戸に向かって大きな声で言う。
ガラス戸には、はにかむウィンチ氏が映っていた。
O
「もうっ、ヴェラったら、なんでもっと器用にできないのよ。いつもみたいに喧嘩売ってるのかと思っちゃったじゃない」
ウィンチ氏の姿が病院内に消えてから、エマが安堵の息を吐きながら、ヴェラの横に腰を下ろした。
「グランマも今は一人で寂しい身の上ですし、ウィンチさんも同じく一人です。これを機にお茶のみ友達になったらいいのですよ。ウィンチさんの庭はその辺の奥様方が、やっかむほど立派な、イングリッシュガーデンですし、グランマは草花が好きだから、話も合うと思います」
人と人の縁が予め決められていて、それを運命というのであれば、遠い昔に出会いそして、離れ離れになって、幾星霜の後にまた会いまみえた奇跡もまた運命と言って差障り無いのではないだろうか。
人は生まれながらに、魂の片割れを探す旅に出る。幾多の出会いと別れを経て、その片割れに出会ったと錯覚して尚、永久の別れに落胆して、再び出会えたというのであれば、それこそが真の片割れなのかもしれない。
「ヴェラったら、良いとこあるじゃない」
「ふっふっふっ、あーはっはっはぁっ」
えっ⁉エマは急に隣で、怪しい笑い声を上げだしたヴェラに向き直った。
「急にどうしたの?えっと、今のとってもいい話なのよね?ヴェラはクラーラさんとウィンチさんのためを想って言ったのよね?」
「もちろんじゃないですか。ただ、グランマが持ち帰って来る美味しくて珍しいお菓子を、ももらうだけですよ」
「ちょっと何言ってるのかわからないけど、どうして、クラーラさんが美味しくて珍しいお菓子をもらって帰ってくることになるの?」
「エマは、鈍い子ですねぇ。見て聴いてたでしょ?私のグッドなアシストにして、エクセレントなアテンドっぷりをっ!ウィンチさんも遅咲きの春を謳歌できて、私も美味しい物をたらふく食べられる。まさに、これ以上にないウィンウィンなっ!ウィンウィンウィンな関係なんですよ」
「答えになってないよっ!」
「本当に鈍い子ですね。将来が心配になりますよ。いいですか、ウィンチさんはグランマに首ったけなんです。気になる女性を自分の自慢の庭に招待するとなると、色々と気合をいれるはずです。お茶を淹れるなら、ベノアの茶葉を、茶葉がベノアならお茶菓子だって、一級品でなければ釣り合いません。グランマは甘いものがあまり好きではありませんから、当然、余ります。そしたら、当然の流れとして、ウィンチさんはグランマにお土産として持ち帰らせることでしょう。ほらね。結局は、家で待っている私の口に入るわけです」
ヴェラは腕組みをして得意げに、エマにお菓子が自分の口に入るまでのアルゴリズムを説明して聞かせた。
「何それ……じゃあ、ヴェラは美味しいお菓子食べたさに、自分のお婆さんを利用したっていうこと⁉」
エマは信じられないと言わんばかりに、激しくヴェラに迫った。大量にエマの唾がヴェラの顔にかかったので、ヴェラはそれをショールで拭うのに必死だった。
「利用だなんて人聞きの悪いことを言わないでくださいっ!グランマだって一人暮らしで寂しいのは本当ですし、草花が好きなのも本当なんですからっ!」
今度はヴェラの反撃の番とばかりに、わざと唾を大量に飛ばした。
「わっ、ちょっ、ヴェラ、唾とばし過ぎっ」
エマは、慌てて、ポーチからハンカチを出すと唾を拭った。
そんな風に二人が騒いでいると、病院からクラーラとウィンチ氏が二人揃って現れ、
「二人とも、何を騒いでいるの?さぁ、帰りましょ」いがみ合う二人にそう言ったのであった。
エマは全然納得していない様子で隙あらば、ヴェラに何か言いたげな顔をしていたが、ヴェラはすでに満足であった。
クラーラとウィンチ氏。一人であっても決して独りではない。
前を歩く二人を見ていると、ヴェラはなぜか嬉しくなった。
だから、声を弾ませて、
「折角、車があるんですから、このまま皆で美味しい物でも食べに行きましょうっ‼」
そう言ったのだった。
エピローグ
「たのもー」
退院して三日ほど経ったある日、ヴェラはいつものようにウィスパー寄稿文店を訪れていた。
今日は特別な案件がある。
いつもと同じの様でいつもと違うのである。
「いらっしゃい」
「やほー」
しめしめ、午前中だと言うのに今日は珍しくレイチェルまでいるではないか。これは好都合だ。
ヴェラは店の中央付近まで歩くと、立ち止まってから、恭しく、咳ばらいを一つした。
「退院したばっかなのに、今度は風邪ひいたの?あっ、ヴェラはアホだから風邪ひかないねっ」
ケタケタ笑いながら、いきなりレイチェルがジャブを打ち込んで来る。
だが、ヴェラは動じずに、真っ直ぐエマを見つめ、
「今日はお願いがあってきました」と短く告げた。
「なによ改まって、またネタ探し?だったら、いつもの書類入れに没投書が入ってるから、好きに見ていいわよ」
エマはタイプライターを操作しながら、慣れたように言う。
「違いますよ。そうじゃないですよっ!ネタ探しだったら、今頃、勝手にもう漁ってます」
「漁るんだ……」エマは呆れてため息をついた。
「あっわかった!」
「レイチェルは黙ってて下さい!」
ケタケタ笑いながらまた何かを言おうとしたレイチェルをヴェラが制した。
「なんだって言うの?もったいぶってないで早く言ってよ」
「わかりました。入院中に完成した新作のプロットなんですけど、昨日、正式に担当編集からGOがでまして、本編を書き始める段階にはいったんですよ。それで、二人に許可と言うかそう言うのをもらいに来ました」
「許可って?どういう事なの?」
「うーんと、説明するのが大変なので、粗筋があるので、とりあえずこれを読んでみて下さい」
そう言って、ヴェラは脇に抱えていた封筒をエマに手渡した。
「とりあえず、読ませてもらうわね」
「私も読むっ!」
レイチェルも興味津々と、ソファから跳ね起きてエマの机まで駆けてゆく。
ヴェラの渡した粗筋に集中する二人の姿を見ていると、なぜか、気恥ずかしくていけない。そう言えば、二人に自分の文章を見せるのは初めてのことだ。だから、余計に気構えて照れてしまう。
レイチェル辺りは、また揶揄ってくるのだろうけど。
「へぇ、ヴェラってこういうの書くんだ。ミステリーって言ってたけど、日常系なのね。面白そうじゃない」
エマは気が付かなかった。
レイチェルも、
「できたら、一番に読むのは私だねっ!」とか言っているので、気が付いていない。
ヴェラとしては、二人にそれとなく気が付いて欲しかった。なぜなら、そっちの方が、説明がしやすいからだ。
仕方がないか……エマは鈍感だし、レイチェルはネジが飛んでるし。こんな繊細微妙な真相に気が付くはずがない。
皮肉を込め、深いため息を吐いてからヴェラは打ち明けることにした。
「その小説の主人公と助手のモデルなんですけど、実はエマとレイチェルなんですよ。それから、小説のタイトルも〈ウィスパー寄稿文店主の憂鬱〉に決定しました」
こう言うことは、さらっと言うに限る。必要以上にもったいぶると後々面倒くさいことになる。
タイトルだって、二人に……もとい、エマにごねられたら大変なので、事後報告の形をとった。
「えぇっ!じゃあ、この美人でスタイル抜群な店主って私のこと⁉来客嫌いのくせに投書が無いって嘆いてるの、誰かに似てるなぁって思ってたら……これ私だったんだ……」
エマは色々と言ってから落ち込んだ様子だったが、どこに落ち込んだのかわからないので、フォローのしようがない。
「んじゃ、私はこの〈破天荒でトラブルメーカーのちんちくりん〉かぁ。うーん。別にいいんだけどさぁ。とりあえず、魔法が使えるようにしよう!」
レイチェルはまんざらでもなさそうだ。
「それでですね。取材と執筆をかねて、この店に毎日通いたいと思っているんですけど、どうでしょうか?もちろん、邪魔はしませんし、駄目なら、今まで通り、ちょくちょく通うことだけでも許可して欲しいんですけど……」
「別にそれは構わないわよ。って言うか、お腹が空いたってほぼ毎日来てたじゃない。今更、そんな畏まっても、逆に変な感じだわ」
エマは擡げた頭を上げながら言う。
「ありがとうございます。変態的な趣向だとか、変な属性だとかは付けたりしませんから。ただ純然な二人を参考にさせてもらいます」
「属性?ちょっと何言ってるのかわからないけど、そういうエチケットは当然よ。お嫁に行けなくなったら困るから、変にだけは書かないでよねっ。それにしても、ヴェラの眼にも私が接客嫌いのくせに、投書が無いって矛盾したこと言ってるの知られてたんだ……」
凹んでたのはそこだったのか……
いずれにしても、店長にしてゴネられると一番厄介なエマから易々と承諾がとれたのはラッキーだった。もっと、抵抗されるかと思っていたのだから。
「ダメだねっ。魔法が使えなきゃ、本当の私じゃないから書いたら駄目だね」
ノリノリだったレイチェルが突然、そんな素っ頓狂なことを言って臍を曲げはじめた。
「レイチェルは何を言い出すんですか?聞いてましたか?私は今、純然な二人を書くと言ったんですよ。レイチェルは魔法なんて使えないでしょ」
「ふっ、ヴェラが知らないだけだよ。私が魔法を使えることを……」
「そんなシリアス風に言っても駄目ですよ。一様テイストは、ミステリーなんですからね。魔法少女はいらないんです」
「必要だって思うよっ、だって魔法があればいきなり現れた怪人も一瞬で倒せるし、どこにでも一瞬で行けるし、誰か死んでも魔法の奇跡ってことで簡単に生きかえらせられるんだよっ‼」
「魔法って、ただの便利ツールじゃないですかっ!そんなご都合主義丸出しの薄っぺらいシナリオだと、担当編集に私が一瞬で倒されますよっ!」
「レベルがあがれば、魔王だって倒せるんだよっ‼世界の平和を守れるんだよっ‼」
聞いちゃいねぇ……
「もうそれ、ミステリーじゃなくてファンタジーですよね⁉寄稿文店が舞台の意味ないですよねっ‼」
「二人ともやめなよぉ、それくらいにしときなよ」
いつも通り、いけない方向へ白熱しはじめた二人の間にエマが言葉を挟むも、時すでに遅し、介入するのが遅すぎた……
「こうなったら特大魔法を喰らわしてやるっ!」
「望むところですっ!けちょんけちょんにしてやりますよっ!」
ヴェラが両腕を顔の前でクロスさせ、守りの体勢をとる。
一方のレイチェルは、腰の位置を低くし、頭を突き出した態勢へと移行する。それはまるで、突進前の闘牛のようだった。
「くらえぇぇっ‼特大魔法!ヘッドバッド砲ぉぉぉっ‼」
レイチェルは雄叫びを上げ、一直線にヴェラへ向かって突進。
そして、捨て身の跳躍を経てレイチェルの頭頂はヴェラの下腹にめり込んだ。
「ほぐわっ‼」
声にならない鈍い叫び声を上げながら、ヴェラはつんのめった体勢のまま、机やら椅子やら書類やらを巻き込んで、出入り口まで飛ばされ転がった。
「うぅ…この禁断魔法は、使うと反動が……」
全身をしこたま床に打ち付けたレイチェルも、細かく震えながら、四つん這になったまま動けないでいた。
「何が魔法ですか……それは、ただの頭突きですよっ!仮にも怪我人の私に全力で頭突きをかましてくるなんて、やっぱりレイチェルはアホですね。てっきり、ロケットパンチで来ると思っていたので、防御するところを間違えました……油断しましたよ…ふっ」
ドアノブを支えに立ち上がったヴェラは口元を拭う仕草をしながら、そんなことを言った。派手に転げまわったわりに、まんざらでもない表情をしているのは、果たしてレイチェルと同類ではないだろうか。そんな風にエマは思った。
「それが魔法と言うのなら‼私の魔法は世界を滅ぼしかねませんね……遮二無二式、アームストロングキャノンとでも名付けましょうかっ!」
右手のギプスをさすりながら、そう言うヴェラは反撃をする気満々の様子だ。
「うおぉ。何それカッコ良いっ!」
攻撃される側のレイチェルもなぜかノリノリだった。
倒れた机、転げた椅子。散乱した整理前の投書書類。確かあの中には、クラーラから聞いた話も入っていたはず……多分、ヴェラが反撃をしたら、次は、レイチェルの近くにある丸机がひっくり返って、その上に置いてある、ポットとカップが割れる。そしてソファと床が紅茶まみれになる……
エマは素早く予想被害を算出した。
「出入り禁止っ‼」
エマは激しく立ち上がると、声を張って言った。
「えっ⁉」
それに、逸早く且つ大袈裟に反応したのは誰あろうヴェラだった。
「にひひひっ、ざまーみろぉ。まぁ、魔法使が使えるようにしてくれるんだったら、エマの機嫌を直してあげなくもないけどねぇ。エマってば単純だから、プリンの一つでも買ってくれば忽ちニコニコだしね~」
ニヤニヤしながら言うレイチェル。
さすがのヴェラも、この状況でそれを本人の前で言うべきではないと思った。
確実に火に油である。
案の定、
「レイチェルも‼」
「えっ‼うそでしょエマっ!」
自分からエマの逆鱗に触りに行ったレイチェルも、もれなく出入り禁止勧告を受けた。
「もう二人とも、出入り禁止っ!」
すっかりエマの機嫌を損ねてしまったレイチェルとヴェラは二人して、逃げるように店を飛び出すと、脇目もふらず、プリンを買いに走ったのである。
「「生クリーム乗せにしよう」」
二人の心は、はじめて共鳴したのであった。
ウィスパー寄稿文店主の憂鬱 Ⅳ ~ 紅茶一杯ほどのロマンス ~
「なんだぁ、キャシーかぁ」
救世主の登場かっ?と期待に胸を膨らませていた分、エマは友人の来店に落胆を隠せなかった。
「何よその言い方っ。随分と酷い待遇じゃないのよ」
「ごめん、ごめん。今月もネタがなくってさ。お客さんかと思ったの」
「レイチェルはどうしたの?見当たらないけど」
と言いつつ、ソファの上しか見ていないキャシー。
「わかんない。いつも通り取材に行ったっきり帰ってきてないわ。夕暮れ過ぎには帰ってくると思うけど。あ~レイチェルがまともなネタを持って帰ってきてくれたらなぁ」
エマはそう嘆きなら、頭を抱えた。
「その分だと、相変わらず変なのしか持って帰ってないみたいね」
「そうっ!アトランティス大陸発見した話とか、不倫中に妻が乱入してきて修羅場になった話とか……」
「アトランティスって…ホラ話決定ね。不倫の修羅場なんて、論外だし」
「でしょう⁉そのくせ、経費の領収書は札束みたいに多いのよ。今月も経理さんに怒られるぅ~」
「エマも大変ね……」
「はぁ。ところでキャシーは今日どうしたの?」
エマはため息を吐きながら、ソファまで歩いてやってきた。
「えぇ、実は、ノーフォークに行くことになってね」
キャシーはうつむき加減で言った。
「またどうして、ノーフォークなんかに?」
「詳しくは言えないんだけど、とにかく行かなくちゃなのよ」
今回の特ダネは貴族絡みだから、下手に喋るとエマも巻き込んでしまうかもしれない。キャシーはそう思って、エマに詳細を話さなかった。
「急に決まったの?もっと早く教えてくれたら、お別れ会もできたのに……」
エマは少し怒った顔をしていた。
キャシーにはどうしてエマが怒ったのかはわからなかったが、どうやら、詳細を話さなかったことに対して怒っている様子ではなかった。
「まぁね。昨日決まったから。それにお別れ会なんてお大袈裟よっ。それじゃまるで、私が無事に帰って来られないみたいじゃない」
「昨日決まったの⁉えぇ。よく受けたねそんな無茶なの。ノーフォークはそんな治安の悪いところじゃないんだから、そんな意味じゃないよぉ」
エマは驚いた表情を浮かべたが、次第に優しい顔になっていった。
表情豊かなところは相変わらずだなぁとキャシーは思った。
そんなところも、エマの良いところだとも思った。
「無茶も何も私が申請したんだもん。文句は言えないわ」
「えぇ、そうなんだ……ロンドンの町はキャシーには合わなかった?」
「なにそれ?別にロンドンの町も嫌いじゃないわよ?細々してるところもあるけど」
唐突にどうしたのだろうか?キャシーはエマの的外れな問いかけに首を傾げたが、とりあえずは答えた。
交通の便も良いし、行きつけのBARもあるし。何より、エマがいるのだから、合わないはずがない。
「そっか。それじゃあ、忙し過ぎたんだよね。それで、いつ発つの?」
「えっと、明日の夜、二十二時発の夜行で行くつもり」
もしかして、エマは見送りに来てくれるつもりなのだろうか?キャシーは思いがけない幸福の予感に胸をときめかせた。
「夜行で行くの?それに、昨日の今日って、いくらなんでも早すぎない?向こうの住む所だって、引継ぎだってあるだろうし」
住むところ?引継ぎ?
「ホテルは、もう予約してあるから大丈夫よ、引継ぎは別にしなくても大丈夫だし」
「ホテル住まいなの?すぐにお金なくなっちゃうわよ⁉ノーフォークが田舎だからって物価だってロンドンとそんなに変わらないんだからねっ!それに引継ぎしないって、それはいけないことだと思うの。立つ鳥あとを残さずって言うじゃない」
「そんな無責任なの、キャシーらしくない」エマは困惑した顔で続けて言った。
えっと、エマさん?
「んーとエマは何か勘違いしてる気がする。ノーフォークに行くのは大体一ケ月間くらいよ?まあ、場合によってはそれより長くなるかもしれないけど……」
「へっ⁉もしかして、出張?ノーフォーク支局に異動になったんじゃないの?」
エマは思わず立ち上がった。
「そうよ、出張よっ。異動なんてしないしないっ。大体、ノーフォーク支局なんて聞いたことないし。もぉ~さっきから、なんか嚙み合ってないなぁって思ってたら、エマってば早合点しすぎよぉ」
キャシーは笑いながらそう言ったが、一方のエマは、
「ちゃんと言わないキャシーが悪いんじゃないっ。私、てっきりキャシーがノーフォークに異動になったんだと思ったもんっ!異動になるなら、前もって教えて欲しかったし、ちゃんとお別れ会だってしたかったのに。まぁ、ちゃんと聞かなかった私も悪いけど……」
と頬を膨らませて怒っていた。
「たとえ私が異動になっても、エマの日常には何の変化もないわよ。心配しなくたって」
キャシーは自分で言って、悲しい気持ちになってしまった。そうなのだ、例え、自分がいなくなったとしても、エマの日常にはなんの変化も来さない。
エマには、レイチェルが居て、ネイマールが居て、ヴェラも居るのだから……自分一人が欠けたところで……
今回の取材は少し危険な香りがするので、せめてエマにだけでも、最後に話をしたいと思って寄稿文店に顔をだしたのだが、かえって虚しくなってしまった。
「どうしてそんな寂しいこと言うの?キャシーが居なくなったら、寂しいに決まってるじゃない。普通、友達が居なくなったら寂しいと思うでしょ?」
エマはさらに怒った風に、唇を尖らせて言った。もしかしたら、照れ隠しなのかもしれなかったが、キャシーにとってはそんなことはどうでもよかった。
エマがくれた言葉だけで十分だった。
「えっ、ちょ…うそ…」
キャシーは降って湧いた、幸せの瞬間に眩暈をもよおしてしまった。
私、こんな幸せでいいのかしら……
はぁ、どうしてエマってばこんなに可愛らしいのかしら。唇を尖らせちゃって……もう、抱きしめてしまいたい……最後になるかもしれないから、食べてしまおうか……
キャシーの倫理の鎖は、欲望の前に切れてしまいそうになっていた。
「たっだいまぁ~っ。あれ?キャシーじゃん。どったの?」
キャシーが両指をワキワキし始めた頃合いで、ドアベルがけたたましく鳴り響き、元気よくレイチェルが返って来た。
「お帰りレイチェル。収穫あった?」
「もちろんですともっ!今日はね、〈田舎のお爺ちゃんが拾って来た犬が、どう見ても狸にしか見えない〉って言う話っ!っで、キャシーはなにしてんの?」
レイチェルはいつも通り、エマの机の上に領収書を置くと、鞄をソファの上に放り捨てて、冷蔵庫から牛乳を取り出すと。腰に手を当てて飲んだ。
「また、そんな使えない話拾ってきて……」
キャシーがそこまで言うと、これに反論しようとしたレイチェルが、急に噎せ込んで含んでいた牛乳を床に吐き散らかした。
どうやら、牛乳が気管に入ったらしい。呼吸すら苦しそうに噎び苦しんでいる。
「もおぉ、何やってるのよっ、レイチェル大丈夫⁉」キャシーの前をエマがそう言いながら駆けてゆく
「(レイチェルらしいわね)」
何一つ特別じゃない平凡な日常こそ、何ものにも代え難い貴重で愛すべきもの。
キャシーはそれを噛みしめながら、所々、軋む床を歩き、ベルを鳴らさないようにドアを閉めたのだった。