囲い


触ると硬くて,離せば黄色い指先は,僕を膝に乗せたまま,みんなとお話をするお爺ちゃんのもの。今朝,僕が生まれてから初めて,あのお髭を切ったり剃ったりした。その細いお顔を初めて見て,僕はお爺ちゃんが少し怖くなったけど,嫌がったりもせず,ママから降りて,歩きながらお爺ちゃんのところに歩いて行った。僕の名前を呼びながら,お爺ちゃんは新聞紙を置いて,手を差し出して,僕を掴んだ。あの指先がある,お爺ちゃんの手だ。いつも遠慮がちに僕の頬っぺたを撫でる。元気そうだと褒めてくれる。怪我はないかと心配して,ママを責める。パパに尋ねる。僕をぐいっと抱きしめてくれる。苦しくないように,緩めてくれる。
お爺ちゃんのお顔にある,ひとつの目を見て,瞬きを見て,僕は声を出す。お爺ちゃんのことを呼んだ。お爺ちゃんはいつも通りの返事をしてくれた。だから僕は確信した。この人はやっぱりお爺ちゃんだ。僕は安心して,手を叩く。傍に来たお婆ちゃんも,上手だねって言ってくれる。それが分かるから,喜んで,僕はまた手を叩く。そうすると,必ず騒ぎ出す小鳥のカゴのことに気付いて,思い出して,手を叩く。バタタタって,カゴが言い出す。それが不思議で,僕は笑い出す。そんな時,ママがカゴの方を向いて,何かを探しながら,何かを外す。小鳥はピピっと言いながら,すごく騒ぎ出す。でも,絵本で見たみたいに,部屋の中を飛んで来たりしないのは,小鳥がママを好きだからで,ママは小鳥をずっと昔から育てていたからだって聞いた。ママは小鳥をピィと呼んだり,ピッピと呼んだりする。どれも正しいんだよ,とママは僕に言うけれど,パパやお婆ちゃんはそうじゃないと言うし,小鳥はピピピっとカゴの中で遊んでるし,お爺ちゃんは細いお顔を触っている。僕は分からなくなって,手をブンブンと動かす。「おおっ」とお爺ちゃんがびっくりして,僕もびっくりして,手が止まったら,みんなが声を出す。それにも驚いて,みんなを見ていると,みんなが僕を見ている。何かを待っている。分からなくて,じっとしていると,頭のあたりが重くなったみたいに感じて,見上げると,お爺ちゃんがいる。僕に話しかけていた。指先が一本だけ,僕がそれを掴むと,そうじゃないって言っている。でも,僕はそれを離さない。離さないまま,ブンブンと動かして,いつものあのお人形みたいに,引っこ抜こうとした。お爺ちゃんは困っているよ,とパパに言われたし,ママは仕方がないって諦めた。お婆ちゃんは力があるね,と優しくしてくれた。お爺ちゃんは,そのままぼくにつかまれていた。指を一本,引っこ抜かれようとしていた。
それから,鼻先をつつくロマンチックな彼女と過ごしていたランチの時間,僕らのテーブルがあるカフェのテラスの横を,お爺ちゃんが杖を突きながら歩いて行った。お婆ちゃんも,ママも傍にいない。そして僕にも気付いていない。目的地はこの際どうでもいい。ここにいるということは,バスだって乗り継いで来たということだ。意識的にか,無意識的にか。歩ける日はそうなるということを聞いてしまっていた身としては,疑いを捨てきれないし,何よりここは一応都心,しかも駅近くの通りの一角だ。その歩く速さが危険に繋がりかねない。既にイラついている人が,傍目から簡単に発見できる。ぶつかられてからじゃ,本当に遅い。
先に帰ってて,という別れの言葉を彼女に告げて,あとでまた電話するという約束を交わした僕は,支払いに必要な小銭を置いて,席を立って,走った。これでも陸上に強い短距離選手だったから,あっという間に追いつけた。勢い余って,少し抜き去った。周りの人は驚いていた。なのに,お爺ちゃんはいつも通りだった。シャツの上からセーターを着て,チノパンを履いている。ヒゲを剃って,眼鏡をかけている。時計をしている。膨らんだポケットに,財布を入れている。違っているのは,帽子を被っていないことと,つい先日,杖はパパとママが贈った新しいものを使っているということ。履きこなした,一番軽い革靴は,お爺ちゃんと共にいつものように歩き,右に代わって,左に代わってを繰り返して,先を進む。必要な時間をかけている。僕もそれに合わせて横に並ぶ。声をかけるのは後ででいい。名前はこの際要らない。
大通りばかりを進み,信号機のすべてを守って,お爺ちゃんが立ち止まったのは,一階におもちゃ屋さんが入っている低いビルと,三階まで紳士服の量販店が入った背の高いビルとの間の,通りの途中だった。人気店ばかりが並ぶ通りはもう一つ向こうだからか,同じように,この通りを進んでいた人はもちろん,向こうの通りからこちらに来る人も,通りに並ぶものには関心がないみたいで,立ち止まっている僕らも,すっかりそれに巻き込まれていた。だから,僕とお爺ちゃんはたっぷりと迷うことができた。僕はお爺ちゃんのことをずっと待った。お爺ちゃんはお爺ちゃんで,何かを待っていた。クラクションも鳴らず,お喋りも尽きず,夕暮れに沿って,パッパっと灯りが点いていって,目の前のお店の,店内の明るさも目立っていった。僕らの影も例外じゃなかった。僕はお爺ちゃんのことを待っていた。
ブレていたり,意味のないものばかりを写していたりで,一枚一枚の写真としては,飾っておく必要はないけれど,それらを写したときのことは今でもよく覚えている。だから思い出の写真になっている。お爺ちゃんの助けを借りて,ボタンを一回ずつ,気持ちが乗ったら同じ所を連続で,押して留めた瞬間だ。
空の鳥カゴは掃除をしている最中に撮ったもので,次の写真にはママも登場する。祝われたパパの照れて酔った姿は,コマ送りのようにペラペラ捲っていっても笑えてしまう。そして,お婆ちゃんとお爺ちゃんの写真。続くお爺ちゃんのワンショット。座っているソファーに変わりはない。僕は一人で立てるようになって,三脚に固定するカメラをセットして,訪れる時間までにお爺ちゃんの隣に座ろうとしている。背丈はまだまだお爺ちゃんに届かない。けれど,追い越す可能性だって秘めている。声だって,すっかり変わってしまっている。それぐらいの歳の頃だ。別のカゴの中で寛ぐ二羽の小鳥はピースケと,ピーマンといった。僕が名付けた。お爺ちゃんが笑ってくれた。
欲しがったもの,ねだったものを挙げればきりがない。ということは,言い訳がましく聞こえても,きっと僕だけのことじゃない。おねだりした車はカッコよかったんだ。走っている姿が,街中で一番似合っていた。旧車,旧車と言って歩いた。お爺ちゃんが若い頃の思い出を話しくれた。乗りたかったと僕が羨ましがった。なら,と交換条件を持ち出された。交渉の余地はあった。遊び半分。それを飲み込んだ僕だった。期待をしたお爺ちゃんだった。
新惑星の発見ぐらい。大いなるロマンスと,偉大さが詰まった内容のそれぞれを,どうやって達成したか,困難を乗り越えてきたか。入院中のお爺ちゃんの退屈しのぎにはなっていたし,僕の方でも同じだった。それから,また少し時間が過ぎた。その差は一向に埋まらない。僕とお爺ちゃんの年月。
ひとつのお店を選んだ,お爺ちゃんの人生。
くっ付いて,あとを追った僕に向かって,お爺ちゃんが棚の方を指差して,何が欲しいかを尋ねられた。僕は一通りのものを眺めて,
「これがいい。」
と言って,それを手に取った。精巧に作られていて,あの日に見たままのカッコよさで,颯爽と,走れそうだった。プレートに記されたお値段だって,他の物に比べて高い物になっていた。さすが僕の見込んだとおり,と誇らしく感じられた。お会計がゆっくりと済まされた。
それから僕はその手を取って,ゆっくりと,決心したお店まで,案内を買って出ることにした。贈りたい物があったからだ。正確には,思い出したからだ。条件の何もかもを満たしたときに,手渡し合う物を。ひとつは貰った。もうひとつはこれからだ。
バーゲンセールの垂れ幕を見上げて。立ち並ぶ灯りが数え切れなかった。等間隔の街路樹は,いつもと違ってすぐに通り過ぎることが無かった。同じくらい,近付いても来なかった。
片方ずつの手は温かかった。話せることがまだあった。

囲い

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-26

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