告白
終わりを意識しないと続けられない。
ぺりぺりぺり。ファミレスのテーブル席で向かいに座る瑛(えい)心(しん)は、日焼けでできた白い綿みたいなものをやけに慎重に剥がしている。先週、みんなで海に行ったときのだろう。暑かったし、日差しが強かった。日焼けを気にしないで陽の下に素肌を晒せる男子が羨ましい。
白い綿みたいなものっていったいなに。伝わればいいけど。この世の中には伝わればいいだろうと曖昧にされているものがたくさんある気がする。テキトーに、その場の雰囲気に合わせて、いつも決められたルートをたどるように会話している。たぶん、数時間に及ぶ会話も、紙に起こしたら薄っぺらくてなにも残らない。
「そろそろ受験勉強しないとなー」
瑛心が誰にともなくそう言う。
「え、大学なんて入れたらどこでもいいって言ってたじゃん」
私の左隣の杏奈が甘ったるい声で返す。
「いや、この調子じゃどこにも引っ掛かんねーぞって、担任に言われた」
「ほんとに? そんなにやばいの」
瑛心の傍らで携帯をいじっていた美優が、パッと顔を上げて口を挟む。まるで人の心配をしていなさそうな、からかい混じりの笑み。
「あ、美優に言われたくねーよ。お前こそ成績大丈夫なのかよ」
「私は言っても、行けない心配はないしー。ただ志望校に入れるかはまだ分かんないかなー」
「志望校だってさ。かっこいいね」
笑う杏奈の肩口までしかない黒髪が揺れる。
「な、おれも言ってみたいな」
合わせて瑛心も笑う。無表情だといかつい顔をしているけれど、彼は笑うと愛嬌がある。
「志望校くらい誰だって言えるでしょ。だいいち、あんたたちに入りたいトコとかないの?」
美優は整った顔立ちをしていて、中性的な美しさを持ち合わせている。口調も男っぽい部分があり、さばさばした印象。
私はちょっと黙っている。口角くらいは少し上げている。
いつになく、杏奈の甘ったるい声が耳に障る。なんでだろう、眠いからかな。
喉の渇きを癒そうと口だけストローに寄せて、ゆっくりと啜る。ドリンクバーのアイスカフェオレ。氷が溶けてもおいしい。
「でも、真夏(まなつ)と南はいいよね。私たちなんかよりも選べるし」
さっきから静観していた私と――右隣の南に、話を振ってくる。
「だよな。勉強できると羨ましいな」
私は曖昧な表情をした。肯定も否定もしない、絶妙な按配。
ちらりと南を窺うと、彼は滑稽なくらい慌てて「そんなことないって」と手を振って否定している。鼻が高くて、知的さを備えた面立ちをしているのに、彼は普段の挙動で損をしている。宝の持ち腐れなら、その鼻をよこせ。
ちなみに、私と南は付き合っている。
ああ、どうにも調子が悪い。やっぱり眠いんだろう。早く帰りたい。
勉強しなきゃまずいと言っているだけでノートも開かない私たちは、ファミレスの一角を占めていた。帰ろう、となって席から立ち上がったとき、途方もない時間の無駄遣いをしてしまったという考えに囚われそうになり、慌てて打ち消す。
* *
「家父長制が成立した十世紀以降、性差別が強まったと考えられる。確かに、十世紀前後から女性の血の穢れが強まって公の儀式から締め出されたり、宮廷から一部を除き官人としては締め出されたりしている」
現代文の授業。一人の生徒が読まされているうちに、あちこちで舟を漕ぎ始める人が続出する。先生はそれを注意したり、しなかったりする。いい人なんだけど、授業の進め方がお世辞にも上手いとは言えず、話もまったくおもしろくない。
私は起きていた。今日扱われている内容に興味を引かれたからだ。
「女性の血の穢れ」、か。私はシャープペンシルでその言葉に薄く線を引く。
月のものが連想されるが、私はもっと感情作用に近いものだと思う。それに、私にとっては個人的なものだとも思う。
「しかし、最古の史料である記紀には性差があるものもないものもあり、差別の起源を明らかにすることはできない」
私の血はきっと穢れている。血糖値が高くてドロドロ、なんて生温いことを指すわけではもちろんなくて。私は、自分の気持ちを偽れるし、悪びれもせず周りを利用できる女だ。
南と付き合っている。でも、好きだからじゃない。彼は私のことを好きなのかもしれない。それはどっちでもいい。
私は地味なグループでくすぶっていたくなかった。どうせくだらない話しかしないにしても、それなら少しでも優越感を覚えたかった。ヒエラルキーの一番上にいる人たちに加わるにはどうしたらいいだろう。私は、その中の一人と恋仲になれば話は早いだろうと考えた。
そこから、一人選んだ。性格は地味だし、女らしくとかかわいらしくとか正直よく分かんないけど、容姿には自信があった。中学生のときくらいから男によく言い寄られていた。親戚のおじさんに手を出されたこともある。とにかく、選んだ。それが南だった。なぜかと言うと、彼らの中で一番物分かりがよさそうだったからだ。実際、そんなでもなかったけれど。
机の中に手を入れて携帯を取り出すと、メールが一通届いていた。南から。
〈もっと早く言おうとは思っていたんだけど、ずっと言えなかった。
ごめん、おれ、転校することになった。
東京行く。〉
いつかは終わると思えるから、好きでもない相手と付き合うことも続けられた。何年も付き合って、いつかは夫婦にならなきゃいけないなんてことはないから。高校生の恋愛なんてそんなものだ。ごっこでも成立する。
終わりを意識しないと続けられない。
――おれ、転校することになった。
終わりが、来た?
* *
自転車に乗らずに引いて歩く南と、古着のワンピースを身に纏っている私は、並んで日差しの下を進んでいく。光のアーチが見えそう。でも、そんなに嫌な暑さじゃない。
ときたま吹く風でワンピースがふわりと揺れる。主張しすぎないピンクパープルで、私のお気に入り。足元はウェッジソールを履いているが、勇壮に歩いていく。南は自然と私の方に歩幅を合わせてくれる。そういうところは悪くないと思う。でも、彼のそれは気配りという美点からは離れていて、ただ臆病なだけ。ひょっとしたら、それを面白味がないと言えるのかもしれない。
「あ、ここに図書館あったんだ」
角を曲がったタイミングで南が呟いた。言われるまでもなく、そこに地元の図書館があることは知っていた。
「南、図書館使わないの?」
「ぜんぜん。中学の頃は避暑地に使ってたけど、勉強もしないし、マンガも少ないから、すっかり行かなくなったな」
「避暑地って、うける」
私は笑った。「うける」、便利な表現だ。
「真夏は?」
「ん? 図書館? 使うよ」
「そうじゃなくて、本読んだりする?」
目的語を明らかにしていないのに「そうじゃなくて」もないだろう、なんて野暮なことは言わない。「読むよ。まあまあ」
「へえ、どんなの」
「うーん、ミステリーとか。恋愛ものとか」
「ミステリーって、東野圭吾とか?」
「そうそう」
ほんとうはエラリー・クイーンが好きなのだけれど、どうせ知らないだろうから特に口にしなかった。
しばらく、無言で歩いていく。暑い、って思ったら余計に暑くなる。暑い、って言葉にしたらもっと暑く感じる。意識することで、言葉にしてみることで、その感情が本物だと分かるし、本物じゃなくても本物のような気がしてくる。暑いな、南が私の呟きに対して同調してくれる。
好きだ、って思ってみる。南のことを。そうすることで、ほんとうにその想いが湧き上がってくるように思う。好きだ。でも、弱い。私の感情を形作らせるにはまだ弱い。誰かを恋い慕うのは難しい。好きだ、言葉にしてみたらいいのだろうか。
「おれたち、ほんとに受験生なのかなー」
住宅街を抜けたところで、南が沈黙を破る。公園に沿って歩く。道が狭くて、横に並べなくなる。南の後ろになって、公園の隣がさら地になっていることに気づく。しょっちゅう通りかかっているはずなのに、かつてそこになにがあったのか思い出せない。
「どうしたの、突然」
横断歩道を前にして、私たちはまた並んだ。向かいに、学校が見える。確か、私立の女子高だったと記憶している。
「だって、毎日遊んでばっかり。受験生って周りが言うだけで、去年とも一昨年ともほとんど変わってない」
「受験勉強なんて人それぞれじゃない。目指しているものとかが違ったら、やってることも違うでしょ」
「まあ、そうだけどさ。でも、たまに不安にならない?」
まじめな話でもするのかと思ったら、口調は全部カタカナ表記にしてもいいくらいふざけ切っていた。
「あのさ」
私はそのふざけ具合が急に厭わしくなる。遠ざけたくなる。別の引き出しを開けたくなる。
「あのさ」
「なに」
「あのさ」
「なんだよ」
「南、転校するんだよね。離ればなれになるんだよね」
彼はぱたりと口を閉ざしてしまう。だから代わりに言い募る。
「東京に行くんだよね。まあ、そんなに非現実的な距離じゃないけどさ。それ、メールで言ってくれたよね。でも、そのことについて、一回もちゃんと話してないよね。あれから何度も学校で会って、関係ないこと話してるのに、転校の話はしてこないじゃない。どうして? なんで?」
なるべく、怒っていないように。なんでもないことについて言っているように、いつもの口調を心がけて。
南の答えを聞く前に、みんなとの待ち合わせ場所に着いてしまう。駅前の、隣に書店があるファーストフード店。メールの着信音がする。手に取って確認すると、杏奈からだった。
〈ごめん、遅れる。〉
終わりを意識し始めると、ほんとうに終わりなのだと実感を抱いてしまう。終わり、って言ってみたらなにもかも終息してしまいそうな恐怖に囚われる。
とりあえず入っていようか、私が南に言うと、彼はなぜかバツの悪そうな表情をしていた。
ごめん。
そんな言葉が聞きたいんじゃない。
* *
雨でも降ればいいのにと願うくらい、今年の夏は暑い。うだりそうだ。
机に向かって、参考書の問題を解いている。世間一般の受験生に比べたら勉強量は格段に劣るけど、まったくやらないわけじゃない。でも、音楽を聴きながらだから、身が入らないこともしばしば、それは確か。イヤホンから聴こえるaikoの声が、「夏は何度もやってくる」と歌っている。
どんなに不満を漏らしても、それでも夏は終わる。そしてまたやってくる。
今年の夏の終わりと同時に、南はこの町から去ってしまう。というか、今日、家族と車で東京へ引っ越すのだ。出発前に彼の家の近くの公園で会う約束をしている。どんな顔をすればいいのか、なんて言葉をかけてあげれば正解なのか、泣いたらいいのか、笑ったらいいのか、甘えたらいいのか分からない。だから参考書なんか開いているのかもしれない。
唐突に、ああ、南は私の近くからいなくなるんだと気づいた。気づくまでもなく、前々から聞いていたことなのに、やっぱりどこか現実離れしている感が否めなかった。
終わりを意識しないと続けられない。終わると思っていたから、好きでもない相手と付き合えた。私は最低の女だ。血の穢れた女だ。
いざ終わりを迎える段になって、私は今泣きそうになっている。寂しい。こんな想いを抱くはずじゃなかった。
私は勢いよく立ち上がった。乱暴にイヤホンを耳から外して、洋服箪笥の中を引っかき回す。お気に入りのチュールスカートを見つけて、これでいこうと胸に確信の火を灯す。
時間はあるのだからそんなに慌てなくてもよかったのに、私はバタバタと家を飛び出した。むしろ、お別れなんだからもっと身だしなみに時間をかけて、こだわるべきだった。
でも、落ち着いていられなかった。さっきから胸にいろんな感情が渦巻いて、いっぱいになっていた。なんだ、私の血もそんなに穢れたもんでもないじゃない。呆れた、なにを考えているのだろう。笑えた。
泣かなくていい。笑わなくていい。甘えなくていい。言いたくなったことを言えばいいだけだ。南へと抱いていた想いを「好きだ」とか、「愛してる」とか、その辺に転がっている言葉で伝えればいいだけだ。
終わりを意識しないと続けられなかった。けれど、終わりを受け入れると泣きそうになる。
待ち合わせ場所まで無心で急いだ。南に告白するために。
告白