銀杏

イチョウ

 毎日毎日同じことの繰り返しだ。いったい、この世界はどんな意味をもって、こんなところに存在しているのだろう。地下鉄から地上に這い出るあいだ、僕はずっとそんなことを考えていた。
 初夏、梅雨の真最中ではあったが、今日はまるで高速回転する巨大な扇風機で雲が全て吹き飛ばされてしまったように、小いながらも、透き通った綺麗な青空がみえた。
 街路樹の緑は競い合うように、その生命力を誇示し、太古からそこにあったであろう風景を僕に連想させた。サラリーマンや子供を幼稚園に送る母親、散歩をしている老人と犬、人々は樹木の間からそそぐ透き通った光の中を歩き、それぞれの目的と、それぞれの希望なのか絶望なのかを、硬く閉ざされた頭蓋の中に押し込めながら、今の自分の世界を生きていた。それらの人々が、何を見ているのか、何を考えているのかを、僕が知ることはたぶん永遠にない。

とても大きなイチョウの木があった。イチョウの木は独特な形をしている。僕は特に樹木への関心があったわけではなかったが、毎日訪れる絶望的な時間の中で、唯一、希望といってもいいような感覚を僕に与えてくれるのが、このイチョウだった。イチョウ並木を歩くたびに、そのイチョウは、何光年という果てしない過去から、ずっと僕を見てくれているような感覚に陥った。自分の中にある善いことや悪いことの全てを、その根から受入れて、幹を太く、そして美しく存在せしめているのだ。そう感じてならなかった。
これが僕の毎朝の光景だ。ふ


その日も僕は、うんざりした気持ちで、地上に這い上がり、会社へ向かっていた。
イチョウの木は、まるでそこでは時間が歪められ、この世界とは別の場所にあるかのように、ひっそりと、端正にたたずんでいた。一羽の雀が、人間が切ったのであろうイチョウの枝の付け根に、虫やら微生物やら、僕達の見ていない世界で生きているような生命体が食べてできたと思われる小さな穴の中に入っていった。僕は、そこに穴があったことには一度も気がつかなかった。穴の中には雀の雛が数羽、奥のほうに隠れていた。親雀が帰ってくると、雛は口を大きく開き、それがこの世でなされるべき唯一のことであるかのように、獲物を取り合っていた。そこには純粋な獰猛さがあった。
 僕はタバコに火を付け、2・3口煙を吸い込んでから、灰皿にタバコを捨て、会社へ向かった。

次の日、穴はなくなっていた。


会社の帰りは朝とは違う道を辿る。朝はイチョウ並木を歩くために少し遠回りをしているのだ。帰りは、近所にある大学生や、サラリーマンの通り道を帰宅者の群れの一部となって流れていく。それが駅までの最短の道だからだ。

それに気がついたのは、雀の巣を見つけた翌日の朝だった。昨日そこにいたはずの雀の雛がいなくなってしまったのだ。ただ、雛がいなくなったということではない。そこにあったはずの「穴そのもの」が、綺麗に、もとから何もなかったように、そこから消えていた。
    

 彼女に会ったのは、それから一週間後のことだった。後で知ることになるのだが、名前はユカといった。霧のような雨が降る夜だった。イタリア大使館のわき道を抜け、千鳥ヶ淵を駅へと歩いていた。春には現実性を欠くほどの美しさを湛える桜の幹も、その面影はどこか別の世界へ持ち去られ、青々とした夏の景色に溶け込んでいた。靖国通りを右へ曲がり、駅までの緩やかな坂道を下っていくと、右手に大きなコンサートホールがある。なにかイベントがあるのか、そこへ向かう人々の波が道のほとんど全部を埋め尽くし、僕はその流れに逆行するかたちで歩かざるを得なかった。道端にはペンライトやプロマイド写真を売る露店が並んでいる。彼女は露店の奥側にある、スチール製の華奢な椅子に腰掛け、その流れの先を平坦な目で見つめていた。その瞳は儚い薄茶色で、今にも色がこぼれてなくなってしまうのではないかという印象を受けた。僕は彼女の目線の先を追った。その目は、イチョウの木を見ていた。それは、あの穴が開いていたイチョウの木だった。

それから暫くの間、彼女のことは見かけなかったし、特に気になるわけでもなかった。鮮やかさに欠けた景色が絶え間なく創り出され、次々に記憶へとカタチを変えていった。イチョウは、これ以上はないというぐらいに黄色く染まった葉を、どこまでも高い空に染み込ませていた。

毎年、この時期になるとイチョウ並木がライトアップされる。普段は朝にしか通らない道を、年に1度か2度程度夜に通ることがある。その一つの理由がこのライトアップだ。その日、僕は�仕事を終え、いつもの帰り道を途中まで歩いたところで、引き返して、イチョウ並木へと向かった。その日も霧のような雨がふり、傘をさしても服や靴には小さな水滴がつき、ゆっくりと大きくなって流れていった。イチョウ並木を照らす光は、雨の揺らぎにあわせて濃淡を生み、幻想的なコントラストを創り出していた。そして、その光と、重なりあった枝葉の影が入り混り、オレンジ色に照らされた並木道に、彼女は一人で佇んでいた。

 道は決して明るくはなかったし、彼女との間には太いイチョウの幹が数本見える距離があった。それでも、最初に彼女を見つけたとき、それが露店にいた女性だと瞬時にわかった、感じたというのではなく、わかったのだ。

 声をかけようか迷った。37歳といえば一般的には中年に差し掛かった年齢である。そんな男性から道端で声をかけられるというのは気持ちの良いものではないだろう。そう考えると、身体も気持ちも硬くなった。彼女は綺麗な女性だった。かといって、僕は彼女の容姿に魅かれて声をかけたかったわけではない。以前、彼女があのイチョウを見つめていたこと、そして今日も、あのイチョウの前に立っていたこと、それが僕の好奇心を刺激した。彼女もあの穴を見ていたのかもしれない。もしかしたら、彼女は穴がなくなった理由を知っているのかもしれない。そう思うと、どうしても話を聞いてみたくなった。僕は思い切って声をかけた。
「傘が一本余っている。よかったら使わないか?」
彼女は一瞬こちらに顔を向けたが、何も言わずにイチョウの幹へ視線を戻した。
「毎朝ここを通るんだ。イチョウを見るのが好きで。」と僕は続けた。
「この前不思議なことがあった。もしかしたら僕の思い違いかもしれないけど、君が見ているそのイチョウ。その枝が切られた跡に穴が開いていて、そこに雀の巣があったのを見たんだ。確かにそこには穴が開いていた。」確かに僕は見たはずだ、と再度自分にも言い聞かせた。
彼女は黙ってイチョウを見つめていた。
「それが、次の日。同じイチョウの同じ箇所を見てみると、雀の巣がなくなっていたんだ。その穴ごとね。」
彼女は顔を僕に向けた。目を薄めてじっと僕を見ている。そして初めて口を開けた。
「あなたはあれが見えたの?」
僕は少し混乱した。あれを見たの?ではなくあれが見えたの?という質問をされたからだ。あれが見えたとはどういう意味なのだろう。例えば霊能者のような、超能力やら霊感やらを持っていると言っている人たちのように、特別な権利を与えられている人にしか見えないものであるかのようだ。
「雀の巣があって、親雀が雛に餌をあげているところを見た。それで、穴があったことに気がついたんだ。・・・すっかり消えてしまったけど。」
どういう流れにしろ、彼女と会話ができたことにほっとした。
「少し静かなところで話せないかしら?」彼女は言った。
僕は特に用事があるわけでもなかった。むしろ仕事が予定より早く終ってしまって、これから晩御飯までの時間をどう潰そうか考えていたところだった。
「たまに会社の帰りに立ち寄る喫茶店があるんだ。そこは高級マンションの一階にあって、マンションの住人が使うことが多いみたいだけど。この時間はいつもガラガラなんだ。そこでどう?」
「いいわ、そこに行きましょう」
僕らは、絶対人には聞かれてはならない大きな秘密を抱えているように、喫茶店までの道を無言で歩いた。

今になって考えると、あの時、彼女の誘いを断っておくべきであったと強く思う。あの喫茶店で、僕の人生を大きく変えることになった出来事がおきたからだ。

 喫茶店は、20人程が入ることができる広さがあったが、その時、僕たちの他には1組の客がいるだけだった。僕はアイスレモンティーを注文し、彼女はコーヒーを飲んだ。店の南側は大きなガラス窓になっていて、千鳥ヶ淵の桜並木を見渡すことができた。彼女は暫くの間、窓の先に視線を置いたまま黙っていた。僕はタバコを吸いながら時々彼女へ目をやった。店の照明で、外では見ることができなかった彼女の顔を、はっきりと見ることができた。おそらく年齢は20代前半だろう。肌は白く、化粧はしていないように見えた。髪は肩を少し過ぎたところで綺麗に整えられている。前髪は雨に濡れて、いくつかの細い束になって額に触れていた。遠くを見つめている横顔には神秘的な美しさがあった。会話がないまま長い時間が過ぎたが、居心地の悪さというものは感じなかった。
「実は、少し前に君を見かけたことがあるんだ」
彼女は僅かに肩をすくめた。
「もう半年前になる。九段坂を駅に向かう途中で、露店の奥に座っている君を見かけた。君はその時も、あのイチョウを見つめていたように見えた。変に受け止めないでほしいのだけど、今日君を見かけた瞬間に、それが君だと何故か分ったんだ。」
彼女は何かに気付いたように僕の方へ身体を向けた。
「あなたには、あのイチョウの穴が見えた。そうでしょう?」
その通りだと答えた。
「私とあなたは、重なり合った世界のなかで、たまたま同じ位置に存在してしまったの。」
「たまたま同じ位置に存在してしまった。」僕は復唱した。
「あるいは、あなたには感覚として理解できているかもしれない。それは一つの特技や才能といったものと同じようなものなの。」
確かに、感覚として理解しているというのは間違っていなかった。言葉で表現するには、あまりにも抽象的にすぎる感覚だ。
「それには、あのイチョウが関係しているのだろうか?」
「とても」と彼女は言った。
「それで、僕は何をすべきなのだろう?」
「あなたはとても理解が早いわ。」

雨はその繊細さを残したまま強さを増していた。道を歩く人々は霧の中から現れては、再び同じであり違う場所へと吸い込まれているように見えた。


「これから私が話すことは、おそらくは、あなたが存在している世界での常識や価値観が、あるところを超えた瞬間に壊れることになるわ。でもそれは、今存在していると思っている世界とは可能性として同じではない時点にある、ということだけであって、疑う余地のない事実なの。現実的に。それを理解できなければ、何もかもが意味のないものになるわ。わかるかしら?」
「なんとなく」と僕は言った。「しかし、それは頭で分ってはいるつもりだけど、自信があるわけではないと思う。」
「それでいいのよ。人はみんな、誰に頼んだわけでもないのに、言わば、勝手に、無責任にこの世界に放り出されるの。とても理不尽なことだと思わない?」彼女は続けた。
「放り出される世界は自分で選べないし、それがその人の全てになってしまう。これは避けようがないことなの。だってそうでしょう?その世界と比較できるものが一つとしてないのだもの。凄く稀にではあるけど、それを直感的に感じてしまう人がいるのも事実だけど。」
 世の中には、この世界を素直に受け止めることができる、あるいは、それしか出来ないと言ったほうが正しいかもしれないが、そういう常識の世界に生きている人間がほとんどである。しかし、非常に奇跡的な確率ではあるが、突然変異が起きることがある。それはコペルニクスであり、ニュートンであり、アインシュタインであり、この世界の常識を根本から覆した偉人達である。彼女の言う稀な人間というのは、それら天才達(こういう表現が正しくはないかもしれないが)のことであろう。
「それでも、それが事実であれば、どんな事実であれ受入れるしかない。だってそれは事実なのだから。この世界だって、耐え難いことばかりだ。でもそれも事実として受入れているんだ。誰もがね。」僕は肩をすくめた。
 彼女はまた暫く遠くを見つめた。
「ねえ。あなた気が付いているかしら。」
彼女は少し右のほうへ視線を延ばした。僕はその視線の先を追った。そこには何艘かのボートが湖面に浮いている姿が見えた。そして、その湖面は、少なくとも僕の位置から見える範囲の中では永遠の先へ続いていた。そこにあったはずの高速道路のずっと先まで。

 僕の世界はこれまでと違っていた。換わってしまっていたと言ったほうが表現としては正しいのかもしれない。自分がAという場所からBという場所に移動したというものではない。何も変わっていない。少なくとも私の感覚で感じられるものはということだ。目の前にあるアイスレモンティーの入っているグラスも、テーブルや椅子の形や位置も、外を歩く人々の流れも、桜並木の歩道のベンチで目を閉じているトラ猫も、あたりまえの事実として、確かにそこにあったし、今もそこにある。しかし、湖の先にあった首都高速道路がない。そこからなくなったというのではなく、もとからそこに存在していなかったかのように“ない”のだ。景観は完全に違うものだった。それは彼女に言われなければ気付かなかったかもしれない。歩き慣れている街で、あるとき、いつのまにか新しいビルが建っていることがある。そして、そこにはもともと何があったのかを全く思い出せないことがある。人というものは、意識していないものに対して、その変化にはとても鈍感なのである。今目の前に起こっている事実も、あるいは同じようなことなのかもしれない�。昔、ある高名な哲学者が「こ��の世界(この世界とは、その世界に属する個々人の過去の記憶といったものも含める)は5秒前に創られたとして、それを否定する方法は存在しない」と言っていたことを思い出した。朝起きると、実は昨日の延長ではなく、全ては、全く新しく、ついさっき作られた世界なのかもしれない。僕たちは、その世界に対して、なんら疑問を持つこともなく毎日を過ごすのだ。疑問を持たないということではないかもしれない。ただ、そこには疑問をもつ術が何一つ、完全にないからだ。何故なら、僕たちは、常に今この瞬間だけを生きているのであり、過去は記憶でしかなく、未来は想像でしかない。過去である記憶も創られてしまったのだとすれば、それがすべて本当のことにしかなりえないからだ。今の状況を素直に受け止めるのであれば、まさに、それが起こったとしか言いようがない。僕は、彼女にその仮説を説明した。そして聞いてみた。
「君には何か、特別な能力があって、今ここで起きている出来事は君がやったことなのだろうか?」つまり、彼女の持つ特別な能力で、僕以外の世界を全て変えてしまったか、あるいは、僕の世界だけを変えてしまったか、そのいずれかだろうと。
「確かにあなたの仮説は筋が通っているわ。但し、私に特別な能力があるというところを除いて。だって、それじゃまるでオカルトとかSFとか、そんな話になっちゃうじゃない。」
やれやれだ。やっぱり僕のような凡夫にとって、簡単に理解できることではなさそうだ。

第一部完

銀杏

銀杏

当たり前の日常に潜む、不思議な世界を感じて下さい。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-06

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