アルモニカ

アルモニカは何の変哲もない村の娘だった。
ただ歌が特別下手なことを除いては。

毎週日曜日、村の教会でミサがある。
そのとき必ず村娘達が賛美歌を歌うことになっている。
アルモニカはいつも音を外して
周りの娘達にクスクスと笑われるのがオチだった。

それに神父が上手い、下手は関係ない、
神へ捧げる御心が大事なのだ、と言うので
彼女だけ聖歌隊を降りるわけにも行かなかった。
両親もそれを認めてはくれなかった。

だからアルモニカは本当に日曜日がキライだった。
大体金曜日くらいから既に憂鬱な気分になっては
当日の朝、ベッドから起きるのが辛かった。

彼女は歌が上手になった自分を想像してみた。
舞台の上で綺麗なドレスを身に纏った自分が堂々と歌っている。

馬鹿らしいと思う。
実際は俯いて小さな声で歌うことしかできないのに。

けれどいつも母親に引っ張り出されるまで布団の中にうずくまり、
神様、どうかわたしの歌を上手にしてくださいと手を組み祈りを捧げていた。

アルモニカは商人の父と母、弟と暮らしていた。
小さいが二階建てで、当時にしてはそれなりの家に住んでいた。

よく月の出たある土曜日の晩のことだった。
アルモニカの弟はなぜか急に夜中に目が醒めて
水でも飲もうかと思い部屋を出た。
するとこの世のものとは思えない美しい旋律が
どこからか聴こえて来るのを感じた。

弟は喉の渇きも忘れ
その歌声に誘われるまま
とうとう音の在り処を探し当てた。

それは姉の寝室からだった。
ゆっくりと扉を開けたとき、目の前に現れた光景に弟は言葉を失った。
彼の姉は歌いながらにして眠っていた。
その美しい旋律は彼女の寝言だったのだ。

弟は急いで両親を叩き起こした。
何事か、泥棒でも入ったのか、と眠そうに目をこする両親だったが
やはり娘の部屋に足を踏み入れた瞬間、旋律に目が醒めた。
すぐに二人も眠るアルモニカの歌声に魅せられ
そのまま三人は日が昇るまで時を忘れて聴き入っていた。

翌日、一家は目覚めたアルモニカに、昨晩一体何が起きたのかを
問いただしたが、彼女自身は眠っているときのことをまったく憶えていなかった。
今朝はぐっすり眠って寝起きが良く夢も見なかった、と彼女は言った。

大体眠りながら歌うなんてそんなおかしなことあるわけがない、
それこそ三人の方が同じ夢を見ていたんじゃないか、
とアルモニカは笑って朝食に手を付け始めた。

弟はそれも十分おかしな話じゃないかと突っ込みたかったが
その日はもう、これ以上追及する気にならなかった。
だってパンをおいしそうに頬張るアルモニカが
あまりにいつも通りのアルモニカだったからだ。

日曜日、今日もミサがある。
今日も村娘達は歌う。
聖堂の片隅で弟は期待していた。
しかし相も変わらずたった一人、
彼の姉は音を外し続けていた。

隣に座った級友たちが自分の姉を指差し、
日曜日は朝から笑わせてもらえるから気持ちよく一日が始められるよ、
などと冗談を言っている。これもいつも通りの光景だ。

あれはおとぎ話の妖精が見せた幻だったのか、
弟はそう思わざるを得なかった。
しかし、その夜もやはり彼女は眠りながら歌い始めたのだった。
この世のものとはおもえない美しい声で。

その次の日、一家が錯乱したわけではないことを確かめるべく
近隣の親しい住民を数人呼んで、 こっそり眠る彼女の様子を伺うことにした。
やはり彼女は歌った。

その歌声にそれぞれ
ある者は上等の酒を呑むような心地よい酔いを
ある者は愛する人を抱くような幸福を、
ある者は枯れ果てた砂漠で飲むオアシスの水のような潤いを感じた。

とにかくその歌声は人々をどうしようもなく満たされた気分にさせるのだった。
一家は確信した。幻ではない、彼女は眠りながらにして歌うのだ。

瞬く間に噂は村中に広がった。
世にも珍しい「眠る歌姫」だと。
商魂たくましい父親は投資金を募って自宅を酒場に改装することを思いついた。

そしてアルモニカは衣装を着て、
酒場の舞台に置かれたベッドの上で眠る、
というなんとも間抜けな事態になったのである。

村中から人が集まった。
彼女を笑っていた娘達も弟の級友も
皆、眠る彼女の歌声に酔いしれた。

そして噂は村に留まることを知らず
国中、いや国外にまで波及した。

首都で歌手として一番だと有名な舞台女優が噂を確かめに来た。
彼女はその日から舞台を降りた。

眠る彼女の歌がどの国の言葉ともわからぬものなので
言語学者が興味を持って検証しにきた。
しかし歌声を聴いた瞬間、研究が馬鹿らしくなり、彼はウイスキーを頼んだ。

毎夜、店の中に入れぬほど客が集まった。
酒場は大繁盛し、見る見るうちに大きくなる。
そして変哲もない村娘は瞬く間に村中のヒロインになった。

アルモニカは最初、みんな悪ふざけをしているんだと思っていた。
私があんまり歌が下手だから騙して馬鹿にしているんだと。
私が眠ってる間に歌っているなんて。そしてそれが誰より上手だと来たもんだ。
そんなの嘘に決まっている。
・・・でもここまでくると本当らしい。

昼間、彼女は日曜日の聖歌を口ずさんでみた。
やはり音は外れた。
彼女は段々と彼女自身の歌声に興味を抱くようになった。
ひとたび外に出れば村中の人が挨拶をしてくれる。
青果屋のおじさんは両手に抱えきれないほど果物をくれる。
ここまで人々を魅せられる歌声とは一体どんなものだろう。
どうしても自分の歌が聴きたくなった。

しかし、その望みは叶わない。だって眠っているんだから。
唯一、自分の右足で右足は踏めないのと同じように。
それにこの時代に録音機などというものはなかった。
彼女は歯がゆい想いを募らせた。

そしてふと気付いた。
思えばこれは布団の中で惨めに丸くなって
小さな頃から願い続けたことだった。-歌が上手くなりたい。
願いは叶えられた。
しかし、世界でたったひとりだけ
彼女だけがその歌声を聴くことが叶わなかったのだった。

そして村にある問題が発生した。
毎晩、人々は酒場に集まる。
歌声に魅了されるあまりに誰も夜、眠れなくなったのだ。

そしてなんと、人々は眠る歌声を聴く為に、
日夜逆転した生活を送るようになった。
夜に目覚め歌を聴き、朝方仕事をしては昼に眠った。
それは外から見れば一種狂気じみた光景だったが、
あなたもあの歌声を聴けばそうするほかなくなるに違いない。

そうして朝のち夜の巡る健全な生活の中に
アルモニカたったひとりだけが取り残された。
彼女が起きている間は誰も外にいないのだ。

起きている間の自分に皆、興味がないのだと彼女は思った。
自分の家族さえも日夜逆転の生活に従っていた。
彼女は段々、聞いたこともない自分の歌声が憎らしくなってきていた。

その時点で彼女の扱いは歌姫を超えていた。
酒場も潤沢な資金によって改装を重ね
酒場ではない別の何かに変貌を遂げつつあった。
別の呼び名を付けるなら「神殿」だとアルモニカは思った。

日曜日の聖歌が子供の遊戯にしか聴こえなくなった
神父と村人はミサをここで行うようになり、
酒場の舞台はいつの間にか
祭壇と呼んだ方が相応しい造りに変えられていた。

彼女へ向けられる眼差しは羨望と賞賛から
畏敬と崇拝へと変わりつつあった。
人々にとってもうアルモニカはアルモニカではなく歌そのものだった。

アルモニカは世界の中心というのはとても空虚なのだと思い知った。
まるでお母さんがいつも焼いてくれたドーナツみたいに。
そういえばもうしばらく食べていない。
家族の顔をまともに見たのがいつだったったかも思い出せない。

自分だけが自分の歌声を知ることができず、
村人とその喜びを分かち合うこともできない。
最初は皆から褒められ嬉しかった。
けれどいまや彼女はまるっきり孤独だった。

人々はこの村は天使の歌声が響く楽園だと言った。
アルモニカはその楽園の創造主であるにも関わらず
唯一その楽園から追放されていた。

皆は眠る歌声を神の祝福だと讃えたが
彼女には呪いの様だとしか感じられなかった。

彼女は自分の歌声に嫌気が差してきた。
耳にしたこともないのに耳障りだった。
アルモニカは段々眠るのが嫌になった。
自分の人格よりたかが寝言の方を尊重する
人々にうんざりした。

医師に診てもらってこの奇妙な病を早く治して貰いたいと思った。
だが、あろうことか歌声に魅せられている村の医師は
薬草から睡眠薬を調合して彼女に勧めた。
もう誰にも期待できない、と彼女は落ち込んだ。

アルモニカは皆が眠りこける日中、よく村はずれの森の中に入るようになった。
いまや花や樹、兎や鳥、小さな動物たちだけが彼女の友達だった。

ある日、彼女は森の中でみすぼらしい小さな小屋を見つけた。
そこには髭面の狩人が住んでいた。
彼は森を抜けた先にある向こうの村からここへやってきた。
彼は耳が聞こえないことで村人から虐げられ、俗世にうんざりして
ここで狩りをし、毛皮を売りながら独り生活しているのだった。

孤独なアルモニカは人と話したくて仕方がなかった。
狩人も世間と距離をとりながらもどこかで人との関わりを求めていた。
二人が打ち解けるのにそう時間は掛からなかった。

よく森の中を散歩しては、
狩人から動物の習性や罠の仕掛け、
食べられる植物と毒のあるものの見分け方を
学んだりもした。
どれも彼女には新鮮で好奇心をくすぐられるものばかりだった。

ある日、歩き疲れて小屋で昼寝をした。
そのときもやはり彼女は寝言を歌った。
しかし目覚めたとき、狩人はいつもと変わらぬ無愛想な顔で
湯を沸かして彼女にお茶を差し出すだけだった。
もう日は沈みだしている。帰らなくては。
ひび割れた窓から差し込む夕日が美しい。
差し出されたお茶は香りも良く美味しかった。

狩人に礼を言い、彼女は小屋を後にした。
帰り道、小屋で起きたことを思い返す。
眠りの中で歌いだしたあの日から
今日ほど心地よく安らかな日はなかった。
村に帰った後、森を振り返りずっとあそこにいたいと彼女は思った。

それから少し生活は楽になった。
少なくとも一人、あの森には私自身を知っている人がいるのだから。
歌への憎悪もどうでもよくなった。
だってあの人にとっては歌が下手かろうが上手かろうが同じじゃないか。
そう思った瞬間、幼少から抱えた重いわだかまりが解けていくような感じがした。

次の日、彼女は狩人に想いを告げた。
二人は恋仲になった。

そして数日たったある日、アルモニカは突然寝言を言わなくなった。
村の人々は愕然とし、共有の幸福が失われたことに絶望した。
どうにかしてあの歌声を取り戻そうとあらゆる手段を講じたが
すべて失敗に終わった。
そして、天使は我々の元を去ったのだ、という神父の弱々しい一声によって
余所者は酒場を去り、村人も皆、元の生活に帰っていった。

それからアルモニカは狩人と婚礼を挙げ、両親の酒場を継いだ。
流石に以前のような賑わいはないが、狩人が森の生活で培った
料理と酒は好評でそれなりに酒場は繁盛した。

あれから数ヶ月、
相変わらず日曜日の教会で一人
聖歌隊の中に音を外す女性がいるらしい。

だが彼女は例え笑われているのを知っていても
堂々と顔を挙げ、下手な歌を朗らかな顔で歌っているとのことだった。

おわり。

アルモニカ

アルモニカ

アルモニカは何の変哲もない村の娘だった。ただ歌が特別下手なことを除いては。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-25

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