月の眼
その土地では夜、月の代わりに空に大きな目玉が一つ浮かんでいた。
長い整った睫毛もついていた。
その瞳の美しい輝きが大通りから裏路地までくまなく夜の闇を照らしていた。
ここでは空に雲が浮かぶことはなく雨が降ることもない。
代わりにその大きな目玉が時折流す涙が
人々にとって唯一の天の恵みだった。
何の為に泣いているのかは誰にも分からなかった。
彼はきっかり三十日に一度瞳を閉じる。
だからそこを区切りとして我々がひと月、というところをここではひと目、と言った。
その日は完全な暗闇なのでいかなる仕事も休みだった。
彼は眼なので当然瞬きをする。
星のように大きい眼だから瞬きの瞬間、凄まじい強風が起こる。
地震も津波もないこの土地で唯一自然の災害と呼べるのはそれだった。
伝統的に家々は風を受け流すアーチ型の屋根で形成されていた。
その土地では必ず十年に一度、生まれつき片目のない赤子が産み落とされた。
その赤子は空っぽの方の目で空からすべてを見渡すことができた。
その目と空に浮かぶあの目は繋がっているらしかった。
人々はこれを依り代と呼んだ。
ただしその十年後、また片目のない子供が生まれるとき
先代の依り代は空の眼との繋がりを失い
もう一つの自分自身の目の視力も失うのだった。
そういう訳で、必ず一人この土地には盲者がいた。
その盲者が街の長老となるのが慣わしだった。
これに人々は納得がいかず不思議がった。
新しく依り代が生まれるのだから繋がりを失うのはともかく
何故もうひとつの視力まで奪うのか。
これまで得た力の代償だとでもいうのか。
だとしたらなんて残酷なんだ。人々は口々に言った。
しかし、このとき依り代だった小さな男の子がこう言った。
「彼は本当はひと目の間に何回も瞳を閉じるはずなんだ。
でもぼくらに水の恵みが必要なのを知っているから、
眼を開けたままにして涙を流してくれているんだよ。
あの眼はとても優しいんだ。」
実際、依り代に選ばれる子はいずれも自分の運命を素直に受け止めていた。
それを聞いて人々は不平を言うのをやめた。
目玉はそれから神とも悪魔ともつかず
ただただこの土地に必要なものとして浮かんでいるのだった。
しかし、あくる年、突然眼は泣かなくなった。
それどころか瞳をきつく結びすっかり閉じてしまったのだ。
沈黙した眼の上に綺麗な睫毛だけがなおも立ち上がっている。
街に完全な暗闇が訪れた。
瞳が閉じたままなので時間の経過さえ分からず
人々の生活は混乱を極めた。
水不足でひどい干ばつが起き、畑の作物は枯れ、みな喉の渇きに苦しんだ。
また街外れの森で土砂崩れが起きて幾人も生き埋めになってしまった。
実は、眼の瞬きで起こる突風によって、
森の木々は自分の身を守る為、より強く根を張り
それ故にこの土地の豊かな土壌は守られていたのだということが
このときはじめて分かったのだった。
眼よ、開いてくれ。涙を流してくれ。
それだけでいい。もう誰もそれ以外の何も望まなかった。
そんな困窮の中である子供が生まれた。
彼は生まれつき両目が見えなかった。
ここではとても珍しいことだった。
彼が生まれてからすぐに母は衰弱して死に、
父は疫病に冒された。
身寄りのない彼は乞食となり
捨てられた古布を纏い、
余ったパンくずを恵んでもらい、
捨てられた野菜の皮をかじり、どうにか飢えをしのいだ。
母がいつか襤褸切れで編んでくれた砂の入った人形だけが彼の友達だった。
人々は彼に同情していたが、残念ながら彼を養ってやるだけの余裕はどの家庭にもなかった。
彼はいつも空に浮かぶ眼を見ていた。
見えないのに彼は今眼が空のどこに浮かんでいるか分かるらしかった。
そのことを誰も知らなかった。
ただし彼は幼いながらもよく知っていた。誰かがやらねばならないことがあるということを。
そして彼はあくる日の晩、街から姿を消した。
人々は口には出さないが最近彼の姿を見かけない、と
心のどこかで気に掛けていた。
それからもう何日とも分からない暗闇の刻が流れた後、
突然眼が開いた。
かつての輝きが街を照らし始めた。
人々は歓喜に沸いた。
しかししばらくして誰かが眼を指差して
おい、よく見てみろ、あれはなんだと言い出した。
確かに開いた眼の端に琥珀色に輝く大きな石のようなものが
くっついているのだった。
それはつまり巨大な目ヤニだった。
しかしかつての生活を取り戻した人々は喜びのあまり大して気にしなかった。
そりゃ眼なんだから目ヤニくらい出るだろうさ、と笑いながら三日三晩宴が続いた。
そしてこの光景が日常になりはじめた頃、瞳は三十日に一度の瞼を閉じた。、
その不意に目ヤニが零れ空から落ちてきた。それはもう隕石のように。
凄まじい衝撃音が轟き、寝ていた人々は一斉に飛び起きた。
運よく、街の外れの荒地に落ちたからいいものの
中心地に落ちていたらどれだけの被害が出ていたか分からない。
しばらくして街から調査隊が派遣された。
荒地には巨大なクレーターが残され、その中心に巨大な粘膜に包まれた琥珀が残されていた。
そして驚くことに琥珀の中で
例の両目の見えない幼い乞食が亡くなっているのが見つかった。
彼は最後まであのボロの人形を抱いていた。
調査隊は戻って事態の一部始終を市長に報告した。
何が起きたのか分からない市長は長老に相談した。
長老は眼に問いかけたがもはや何も見えはしない。
長老に分からないならもう街の誰にも分からなかった。
何故突然、空の眼が瞳を閉じたのかも、彼が目ヤニの中で息絶えていたのかも。
結局、なにひとつ分からずじまいのまま
琥珀だけは資源として回収され
人々はそのクレーターの中心に少年の墓標を建てた。
しかし誰も名前を知らなかったので名は刻まれなかった。
傍らにはあのボロの人形が置かれた。
目ヤニを吐き出してからより一層、眼は輝きを増し、街も活発になっていった。
あれから長い時が経ち、例の事件を知らない子供たちが時折町の外へ冒険に出掛けては
あの墓標を見つける。
「あれは誰のお墓なの?」
子供たちはしきりに尋ねたが、大人たちは皆、なんと説明してよいか分からなかった。
決して隠すことなどなにひとつなかったのだが、頭を捻ってあれこれ考えた挙句、
やっぱり子供の納得のいくようなことはなにひとつ言えなかった。
それから更に時が経つと、もうあのことを憶えているものは誰もいなくなった。
ただ巨大なクレーターとその墓標だけがここでいつか、なにかがあったのだろう
ということを主張していた。
その墓は今でもいつも手の空いた誰かが手入れをしていて、
季節の節目には子供たちが不要な布きれで編んだ人形と花を捧げるのが
その街の行事の一つに数えられるようになっていた。
その行事ががなぜ行われるのか誰も何も知らない。
だが墓は守られ、眼は今日も空高く光輝いている。
おわり。
月の眼