ある旅客機
ある旅客機が航空中であった。
彼は太平洋上空で思いを巡らせた。
眼下に広がるこの素晴らしい光景を何度も見た。
そう何度も何度も何度も何度も。
同じ航路を行く日々に彼はもううんざりしていたのだった。
そう思っていたとき、端目に現れた渡り鳥たちを見て
自分も野生に還って自然の中で暮らしたいと思った。
しかし、この鉄の翼が目立ちすぎることは分かっていた。
一度、彼らのように思う存分水浴びなどしてみたいものだが
そんなことをしても錆びてしまうだけだ。
この緑と有機物の星に彼のような者の場所は他にないのだ。
それに誰の耳にも彼の心は聴こえないのだから。
ターミナルで他の旅客機に幾度と話しかけたが
自分のようなことを考えている物はたった一人もいなかった。
彼はうなだれたかったが首が硬くて頭はぴくりとも動かせなかった。
その飛行機は孤独に苛まれもういっそ死んでしまいとまで思い詰めていた。
ただ乗客のことが気掛かりだった。自分が死ぬと彼らを道連れにしてしまう。
誰かが乗ってくれなければ、自分は1mmも動くことはできないし
かといって止まっていればエンジニア達によって完全に整備されてしまう。
修理の後にはかすり傷さえ残らない。彼らの仕事は完璧だった。
とても優秀な社員達に旅客機はボディの隙間から溜め息を漏らすばかりだった。
航空に何の影響もないであろうその僅かな隙間もすぐに発見され修正された。
私は溜め息を付くことさえ許されないのか。なんて不自由なんだ。
そんな憂鬱な思いを抱えながらもいつも通り航路を終えた。
旅客機は無事に乗客たちが降りていく姿をぼうっと眺めていた。
そんな折、ある男が彼を見た。彼を「見た」のだ。
男はほとんど浮浪者のような成りで
ファーストやビジネスは愚か、エコノミーに乗せてもらえるかも
怪しいような出で立ちだった。
彼はただ一言「待っていろ」と旅客機に向けて言い放ち
すぐにその場を立ち去った。
自分は何も言っていないのに
誰かと話したのは初めてだ、と旅客機は喜んだ。
そして旅客機は待ってみた。他にすることもなかった。
数週間後、赤いカゲロウと名乗る過激派のテロ組織に
彼はハイジャックされてしまった。
乗客は恐怖と混乱の坩堝に陥った。
この実行犯の一人に、あの浮浪者がいた。
しかし最初、旅客機は気付かなかった。
今回彼は髪を上げ、きちっと髭を剃り
タイを締めてよく乾いたスーツを着こなしていたからだ。
スーツの男は機長を縛り上げた後、
操縦桿を握り、旅客機に向けて呟き始めた。
「俺は昔からふつう、人に聴こえないものの声が聞こえるっていうんでなぁ
あんまり詳しく言いたかないが、まぁ親にはいろいろ迷惑かけたし
酷い仕打ちも受けたよ。どの病院行っても医者はまともには扱ってくれねえし。
あー、振り返って見るとあんまりろくな人生じゃなかったな、うん。」
旅客機は戸惑い何を言っていいか分からなかった。
話しかけられたのもはじめてだし、相槌の打ち方さえ知らなかった。
男は一呼吸置いて、旅客機の返事を待ったが
何も言わないので更に続けた。
「これは自爆テロなんだ。
組織の連中はお前を貿易ビルに突っ込んで
戦争をおっぱじめるつもりらしい。
あるとき、カフェの隣に座った奴がたまたま組織の構成員でな
そいつの鞄から聞いたんだ。
それからいろいろ考えたんだが
俺の話なんて誰もまともに聞くわきゃねえし、
一人で止められるほどの力なんてねぇからさ
仕事やめて、・・・たいした稼ぎじゃなかったけどな
組織の拠点があるみすぼらしい街のごろつきになったんだ。
まぁ、元からゴロツキみたいなもんだった気もするけどさ。
俺はこんなのだから情報収集だけは得意だった。
人より物の方がよく見てるもんなんだぜ、まぁお前はよく分かるだろうが。
それで信用されはじめた頃にボスに言ったんだ。
飛行機で突っ込むそのお役目俺に務めさせてください、って。
ボスは俺の目が人生に何の期待もしてない奴の眼だ、って言って
認めてくれた。それは本当のことだからな。
我ながらほんとうまく行ったと思うよ。
人生で一番思い通りになったことじゃないかな、これが。」
そう言って彼は煙草に火を付け、
機長がこっそり隠していたワインのボトルを開けた。
「それでものは相談なんだが、貿易ビルなんてつまんねぇ場所はやめて
このまま海にダイビングしねぇか、魚でも一緒に見ようぜ。
お前、重いからきっと深くまで沈んで珍しいのがたくさん見れるぜ。
どっちみち乗客には申し訳ないことになるが。」
旅客機は歓喜した。この羽が自由ならきっと喜びの舞いを踊ったに違いない。
男の提案を承諾した。
「じゃぁ、決まりだな。」男は勢いよく角度をつけて操縦桿を傾けた。
ただひとつ旅客機には疑問があったので、あなたはどうしてそうしたいのかと、男に尋ねた。
「俺みたいなどうしようもないろくでなしでも何かの役に立ちたかったんだな
大げさに言ったら生きている価値みたいなもんが。
それで言うとお前は本当に偉いぜ、毎日大事な乗客を運んできたんだからな
俺なんかよりよっぽど価値があるさ。」
旅客機は驚いた。
そうか、こうして羨む人がいるなら
自分が思っているより自分の仕事はそんなに悪くなかったのかもしれないなぁ、と
機体が急降下していく中、旅客機はぼんやりと思った。
それを男に告げると彼は笑いながら
「俺もなんだかそんな気がしてきたよ、俺の人生も実はそんな悪かなかったのかもなぁ」と言った。
こうして旅客機は最初で最後の水浴びをした。
水は冷たく、心地よかった。
翌日、ニュースで不運な飛行機事故が報道されていた。
社長はカメラの前で頭をこすりつけて謝罪していた。
メディアはその話題で持ちきりで
それ以外特に目立ったニュースは入ってこなかった。
その日、この国で旅客機の乗客以外に
大きな死者が出た場所はどこにもなかった。
おわり。
ある旅客機