闇の王
午後11時。上司は帰宅し、僕はひとりきりになった。
僕はオフィスを出て、自動販売機でブラックコーヒーを買った。そして、自分の席に戻ると、一口飲んで、残りを用意しておいた皿にあけた。
パソコンがメールの着信を知らせた。
――月の女王より、闇の王へ。今日も残業ですか? お疲れさまです。
僕は見知らぬ彼女に返事を打った。
――闇の王より月の女王へ。今夜ついに時が満ちました。これから儀式を始めます。
返事は来ない。僕のことを気が触れたと思っているのかもしれない。しかし、僕は机の上にいくつもの形を記し、闇の精霊を呼び出すための呪文を唱え始めた。
――闇の王。儀式が完了したら、あなたは何を望むのですか?
僕の願い。数か月前、僕は闇の精霊を呼び出す儀式を知った。それから必要な材料を揃え、儀式にふさわしい夜を待った。闇の精霊の力を頼めば、使いつくせないほどの財宝も、あらゆる国を服従させられるくらいの特別な力も思いのままに手に入るのだ。
――この世のすべてを支配する力を。そうしたら僕はあなたを迎えにいきます。
再び沈黙。彼女が信じないのも無理はない。しかし、これは真実なのだ。僕は今夜、闇の精霊を呼び出し、その魔力によってこの世の王となる。
僕の住まう城には誰も近づけず、身の回りの世話は人外の者どもにさせよう。闇の王にふさわしく、深い森の中に城を建てよう。いっそ太陽を沈ませたまま、この世を永遠の夜にとどめるとしようか。
人間たちは朝を求めるだろう。支配者である闇の王に訴えようと、暗い森の中で番人たちに命を奪われることだろう。戯れに生き永らえさせてやった幾人かは城にたどり着き、僕の前に膝まづくだろう。かつては僕よりはるかに強かった者。僕より富んでいた者。僕より魅力があり、頭脳が優れ、あらゆる点で僕にまさっていた者たち。
そしてそれが故に、その者たちは闇の王の御前で、その身を引き裂かれるのだ。僕は剣を持つこともなく、ただ指を一振りしただけで、あっけなく彼らの息を止めてしまえる。
かつて僕にまさっていた人たち。そして、力を得た僕の前では、もはや何の価値もない者ども。
オフィスの蛍光灯が付いた。警備員が怪訝そうに僕の顔を見た。
「ああ、お仕事中でしたか。電気が消えていたものですから」
僕はすみませんと頭を下げ、もうすぐ終わりますと告げた。
警備員はニコリともせず、お疲れさまと口先だけのねぎらいの言葉を残して去った。
あの男に儀式を見られた。だが、何かおかしなことをしていると思われただけだろう。
僕は卑屈にも、あの男に頭を下げたのだ。闇の精霊の力を手に入れれば、簡単に消し去ってしまえるあの横柄な男に。
だが、怒りよりも虚しさが押し寄せてきた。僕の目の前には子どもじみた落書きと、明日までに仕上げなければならない仕事が手つかずのまま置かれていた。
ひどく虚しかった。なにが闇の王だ。会社中の人間から馬鹿にされ、仕事をこなすことができず、こんな時間まで一人で残業をしなければならない無能な男なのだ。
消えてしまいたかった。もし闇の精霊などというものが本当に存在するなら、今すぐ僕を、体も魂も、夜の闇に溶かして消し去って欲しかった。
新しいメールが届いた。
――もしそれがあなたの願いなら、お仕事が終わったら私を迎えに来てください。明日でも構いません。待っています。
それから月の女王は、自分の連絡先を送ってきた。
だがそれを読むべき男はもういない。時は満ち、儀式は完了し、万能なる闇の精霊は男の願いを叶えたのだった。
闇の王