ソロ
大学構内のベンチに並んで腰掛け、めいめいの弁当を食べていた。冬の凍てつくような寒さとはご無沙汰になって久しいが、春に入ってからなんだか風が強い。目の上で切り揃えられている真鍋智沙の髪がめくれて、おでこがお目見えしている。
「真鍋――髪、染めたんだな」
髪――というよりもおでこに目をとめて、ぽつりと漏らした。
「何を今さら」真鍋は口調はぶっきらぼうだが、少し照れくさそうだ。高校まで真っ黒だったのに、卒業と同時に髪を明るい茶色に染めた。
「あんたたちは変わんないね、大学生になっても」
おれは隣に座る桂川雅哉と顔を合わせて、即座に噴き出した。
「変わんない、変わんない」
「全然だな。まあ、そりゃそうだろ」
二人でくすくすと、笑い声を上げた。笑い声は空気に溶け込んで、陽気な昼下がりの形成に一役買っているような。
おれたち三人は、高校からの同級生だ。同じ大学に入った同級生は他にもいるけれど、同じ学部になったのはこの三人だけだ。だから自然と、始まったばかりのこの時期は三人でつるんでいる。新しい人の輪にすぐに溶け込めないのが、おれたち三人の共通点。まあ、焦ってもしょうがない。そのうちね。
「真鍋、サークルどうすんの? バドミントンやるの?」
真鍋は高校時代、バドミントン部に所属していた。
真鍋は首を横に振った。「嫌よ。スポーツはもうこりごり」
「じゃあ、どうすんの? 他になんかやりたいことあんの?」
すると、真鍋はにんまりと笑った。「私、文芸サークルに入ろうと思うの。小説書いてみたいんだ」
「小説?」おれは意外そうな声を発した。
「そう、小説」
「真鍋が?」桂川も戸惑いの色を浮かべていた。
「そうよ。なによ、そんなに意外?」
おれは睨まれたために気圧されてしまった。「いや、そんなに意外でもない」
「桂川は決めてるの?」
桂川はバレー部やバスケ部から勧誘が来るくらいに背が高い。おれが羨んでしまうほどに。だが、本人にスポーツへの興味は少しもなく、しかも運動神経がないことも自覚している。だから、高校では将棋部に所属していた。長い上半身を折り曲げて将棋を指すため、普段から猫背気味な彼だが、実力はなかなかのものらしい。
「やっぱり、将棋?」
桂川は頷いた。「そのつもり。でも、将棋サークルっていってもいくつかあるから、新歓コンパとかに顔出してから決める」
将棋サークルがそんなにいくつもあるんだ、というのが正直な感想だったけれど、それは内に留めておいた。将棋を軽く見ている、と思われるのはなんとなく嫌だった。
「それで、」とっくに食べ終えていた真鍋は、ベンチの上で膝を抱えていた。「宮永は何サーにするの? どうせオケだろうけど」
「どうせってなんだよ。そうだよ、オーケストラだよ」
言葉尻に、前向きな諦めが絡みついていた。
一年生は語学が必修で課されている。大教室での講義がほとんどな中で、語学だけは高校までのようなクラス単位の授業だ。週に三コマもあるから、自然と顔ぶれも憶えていく。
早めに教室に着いて、端っこの席に座った。特に何をするでもなく、無為に時間を潰していると、「彼女」が教室に入ってきた。
肩先までかかる長い黒髪と、整った顔立ちも気を引かれるポイントではあるけど、それよりもおれの気を引いたのは楽器ケースだ。彼女はいつも楽器ケースを抱えて、大学に通っている。おそらく、中に入っている楽器はヴァイオリンだ。大学でヴァイオリンをやるつもりなのか、あるいは、もうやっているかなのだろう。
おれはさりげなく、机の脇に置いたヴィオラのケースに手を触れる。同じ弦楽器をやっている身としては、彼女は非常に気にかかる存在だった。
それでも、なかなか話しかけられないでいた。同じクラスの男子にすら容易に話しかけられないこの性格では、ちょっと気になっただけの女子に話しかけるのは至難なのだ。
彼女は周りの女子と何やら言葉を交わしていたが、たまに小さく笑みを浮かべるだけだった。あんまり表情を変えない人なんだな、という印象を受けた。
外国人の先生が入ってきて、しばらくして授業が始まってしまった。最近、やっと憶えた挨拶のフレーズを口にして、また彼女の方を見た。彼女は背筋を真っ直ぐにして、先生の言葉に耳を傾けていた。
「あ、あの」
振り返った彼女の顔には、予想に反して、戸惑いも嫌がる様子もなかった。
おれは授業が終わってから、思い切って彼女に話しかけた。彼女が他の女子と一緒ではなく、一人で教室を後にしたのも、おれの行動を後押しした。
近くでよく見てみると、聡明さを窺わせる瞳が真っ先に目に飛び込んできた。こちらの考えていることを全て見透かされていそうな、淀みのない茶色い眼差しだった。それに、明るい色のグロスを唇にさしていて、表情を華やいで見せていた。
「なんですか?」
話しかけておいて何も切り出さないおれを怪訝に思ったのだろう、向こうから問いかけてきた。
「その――それ、」おれは楽器ケースを指し示した。「それ、ヴァイオリンだよね」
「ええ、そうよ」彼女は首肯した。「ヴァイオリンがどうかした?」
「ヴァイオリン、やってるの? 大学でもやるの? おれ――」おれはヴィオラの入っているケースを前に出した。「おれ、ヴィオラやってるんだ」
「そうなんだ」彼女は微かに笑った、ように見えた。「それで話しかけてきたのね」
「まあ、そういうわけです……」
すると彼女は、今度こそ笑顔を浮かべた。「それは奇遇ね。私は、大学で管弦楽サークルに入るつもりよ」
「お、おれも」
「そっか」
話しながら、彼女は印象的なその瞳で、おれの目をじっと覗き込んできていた。おれは見つめ合っていられなくて、たまに視線を外した。
「でも、今日は餌をやりに帰らなきゃいけないから、サークルを見学しにいけないのよね」
「え、餌?」おれは聞き間違いかと思って、訊き返した。
「そう」
餌って、餌だよな、あの。「えっと……何か動物を飼ってるの?」
「ええ。馬を飼ってるの」
「――馬?」おれはまたしても自分の耳を疑った。いまどき、犬とか猫を飼っている家なんてざらだけれど、馬を飼っているなんて聞いたことがない。
でも、彼女の様子を窺っても、とても冗談を言っているようには見えなかった。ということは、本当に馬を飼っているのだろうか。にわかには信じがたい。いったい、どんな家庭で育っているのだろうか。
「それでは、さようなら」
もっと詳しく訊きたかったが、彼女は片手を上げて去ろうとした。
「ま、待って」おれはなんとか引き止めた。「名前は? 名前、聞いてなかった」
彼女はおれの方に半身だけ向ける格好で立ち止まった。
「稲妻(いなずま)よ。稲妻瑠璃」
「い、稲妻さん?」それはまた、珍しい苗字だ。
「そう。あなたは?」
ああ、とおれは自分の名前を告げた。「宮永和浩っていいます。よろしく」
「どうぞよろしく」彼女は改めて片手を上げた。「さようなら」
カツカツと、パンプスの音を規則正しく響かせて、彼女は遠ざかっていった。おれは呆然と、その後ろ姿を見送っていた。
一日の講義が終わってから、約束していたわけでもないのに真鍋に会った。真鍋は文芸サークルの新歓コンパがこの後あるらしく、それまで時間を持て余していると言った。
「桂川はどうすんのかね? もう帰ったかな」
「帰ったんじゃない? 知らないけど」
二人でキャンパス内をてくてくと歩いていると、前方を見知っている顔が横切った。
「あの子、かわいいね」
同じ方を向いていたのか、真鍋が彼女を指さして、囁いた。二人の視線の先にいたのは――そう、稲妻瑠璃だった。真鍋はかわいいと言ったが、しかし、風景の中に溶け込むとあんまり目立たない気がした。美人であることはときに没個性、と言うのか、近くで見たときに感じたすっと心を引かれる印象はなかった。
彼女は、学生会館に向かっていた。そこには、サークルの部室も、演奏のできる音楽室もある。
馬に餌をやりに帰るのではなかったのか。
気がついたら、おれは彼女を追って、走り出していた。ちょっと、宮永、どこ行くの。後ろから真鍋の声が聞こえてきたけど、振り返らなかった。久しぶりの全力疾走で、それはそれは不恰好だったろうけれど、おれは走った。走って、追いかけた。
だんだんと追いかける背中が大きくなってきた。あと少し。彼女は学生会館の入口をくぐった。ドアが完全に閉じ切る前に、おれも中へと足を踏み入れる。吹き抜けの、綺麗な内装が目に飛び込んでくる。彼女の行き先は決まっているのか、その足が迷いを見せることはなかった。すたすたと、奥へと進んでいく。
追いついたときには、彼女は音楽室に入っていた。おれは躊躇しないで、続いて音楽室に入った。
音楽室は広かった。彼女は奥の方で、譜面台に楽譜をのせて、ケースからヴァイオリンを出していた。これから弾こうとしているらしい。おれは入口の前で立ち止まった。なんだか、話しかけられない雰囲気が醸されていた。
彼女は真剣な眼差しに微笑みを添えて、構えた。そして、演奏が始まった。
――それは奇跡的なまでに優雅で、おれは一瞬で心を奪われた。こんなに耳に優しく響いて、胸を打つような音色があっただろうか。少なくとも、今まで聴いたことはなかった。
曲は、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。言わずと知れた名曲。彼女は音の流れに寄り添うように、内側にある凝り固まったものを解き放つように、緩やかに体を揺らして、弾いた。
「へえ……」
上手い、と気づけば漏らしていた。何より、彼女にヴァイオリンという楽器が似合っていた。まるで、彼女のためにその楽器が作られたかのように。
「なあ、上手いよなあ」
いきなり、男の声がしたかと思うと、誰かに肩を組まれた。突然のことにぎょっとして横を向くと、知らない男がそこにいた。「わ、誰だ?」
「誰だとはご挨拶だな」そう言って、男はにやりと笑った。よく見ると、その男は精悍な顔つきで、眉毛がきゅっと引き締まっていた。いわゆる男前ってやつかな。でも、いくら格好よくても、知らない男にいきなり肩を組まれても困る。おれはその腕から逃れた。
「おれは久富一(はじめ)」
男はそう名乗った。「あんたは?」
「おれは、宮永和浩」いや、そうじゃなくて、と慌てて首を横に振った。「何者かって訊いてんだよ。――あの人の知り合い?」
目だけで稲妻瑠璃を示すと、ああ、と頷いた。
「高校の頃、ちょっとしたコンクールでお世話になってね」
「じゃあ、あんたも何かやってるの?」
久富一は何かの楽器を吹く真似をした。「これだよ」
「トロンボーン?」おれにはすぐ分かった。
「当たり」久富は親指を立てた。
「あの人、高校の頃から上手かったの?」
「かなりのもんだったよ。というか、小さいときから天才的なヴァイオリニストだった」
「ふうん……」小さいときから、ね。
「容姿も優れていて、演奏も抜群――一見、完璧に見える彼女だが、一つだけ欠点、というか、変わったところがある」
「変わったところ?」
おれはちらりと稲妻の方を見やった。彼女はまだ、弾き続けている。
「宮永君、昼過ぎに、どこだかの教室の前で、彼女と話していなかったかい?」
「ああ」おれは素直に頷いた。初めて話しかけたときだ。「それが何か?」
「そのとき、彼女は何か突拍子もないことを言っていなかったかい? ちょっと、にわかには信じがたいことを……」
「ああ、そういえば――」
「そういえば?」
「うーん、なんというか、不思議に思ったことだったらあったけど」
「なんて?」
「うん。その、馬を飼っているって。いまどき、珍しいな、とは思った」
「それだよ」久富は人差し指をおれの顔の前に突き出した。「それが彼女の変わったところさ」
おれは首を傾げた。「どういうこと?」
「彼女には、虚言癖がある」
きょげんへき。一瞬、返す言葉を失くしてから、やっとその意味するところを理解した。虚言癖、だって。
「じゃあ、あれは嘘だったってこと?」
「そうさ。馬なんて飼っていない。都心の一戸建てに住んでいるんだから」
内心の動揺はいつになく激しかった。「それじゃあ、稲妻瑠璃っていう名前も嘘だったのかな……」
すると、久富は高らかに笑い声をあげた。「ははは、それは本名だよ。確かに、稲妻なんて苗字はめったにいないけどな」
なんだ、そうなのか。
「虚言癖って言っても、いつも嘘をついているわけじゃない。ちゃんと本当のことを――というか、基本的には本当のことを言っている。だけど、本人が言うつもりがなくても、どうしても嘘をついてしまうんだ」
「へえ……」おれはなんだか複雑な心境だった。それは、不幸な病なのだろうか。
「どうしてそうなったのか、気になるだろ?」
「うん」そこまで聞くつもりはなかったが、頷いておいた。
「――彼女が高校に上がる少し前、四つ離れた弟が事故死したんだ」
「それは、本当?」
久富は苦笑した。「おれは嘘をつかないさ」
それで? と言うように、表情だけで続きを促した。
「彼女は、その弟の事故現場を目の前で見てしまった」
ぼんやりと、小さい男の子が車にはねられ、それを目の前にして呆然と立ち尽くす女の子の絵が浮かんだ。
「それが、虚言癖になった原因?」
「おそらく」久富は悲しげに眉毛を寄せた。「それ以来、途方もない嘘をつくようになってしまったから」
「ふうん」
何と言ったらいいのか分からなかった。この短時間の間に、あまりに様々なことが情報として入ってきた。
いつの間にか演奏は止んでいた。彼女はヴァイオリンをしまって、ゆっくりとおれの元へと近づいてきた。
彼女の目はおれだけを真っ直ぐ捉えていた。それだけで、おれの胸は高鳴る。
「また会えたね」
彼女はにっこりと笑っていた。透き通る茶色い瞳に、おれの情けない顔が映っている。
「うん」
色々と訊いて、確かめたいことはあった。けれども、何一つとして言葉は口をついて出なかった。彼女の瞳が、ずっとおれの目を捉えて離さなかったから。こちらの考えを全て見透かしているような、あの瞳が。
やがて、彼女の優美な唇が静かに動いて、囁いた。「あなたのこと、好きになれそうにないわ」
おれの胸の高鳴りはより激しく、より確かなものになった。
ソロ