「独白」
(序)
昭和五十六年○月○日
告白すれば、私にとって山本ハルカは特別な女の子でした。おそらく、成長してゆく彼女が、数々の男たちの目にとまって、私と同じように彼女の虜になってしまったであろうことを、私は今も疑いません。
それにしても、彼女は自分が稀有な価値をもつ蝶の、蛹であることに、まったく気づいていなかったようです。体は痩せていて、余分なものはどこにもありませんでした。最小限の必要なものだけで構成されているといった感じです。
といってもこれから年を追うごとに胸が少しずつ膨らみ、きゅっとしまったお尻にほどよくクッションがついてくることを考えれば、痩せているということはまったく望ましいことであり、現に彼女の手足は長く、腰のあたりは起伏にとみ、なめらかで、将来をすでに確約されていたといえるのです。
顔は少々長く、しかし、小さく、そのちょうど真中に鼻筋が見事に一本とおっていて、そのせいで縦の強烈な線が確固として存在していました。
そこへあの瞳と眉毛が入ります。彼女の瞳を一言で言い表すなら深さでしょうか。どんぐり目でもたれ目でもなく、こころもちあがった目尻にかけて瞳は生き物のように流れているのです。右目と左眼では二重の形がほんの少し違います。私は、きつく見える右目のほうが、より好きでした。他の子と同じように整列していても、黒板を見つめていても、彼女の瞳は深く、深すぎて美しいという言葉では物足りない、あらゆる魅力の源がこめられているように思えてなりませんでした。
雨上がりに海に輝く虹のように、美しい曲線を描いていたのは眉毛です。最後のほうで、どういうわけか心持ち、不安定になりまして、それが彼女の顔を、まだ小学五年生だというのに、どこか物悲しくさせているようにみえるのにはまいりました。無邪気に笑っているときでさえ、やはり悲しそうにみえるので、私は分数など口にしながら、心がかきむしられるようでした。もちろん、彼女はまったく悲しみなど感じていなかったはずですが。
彼女の髪の毛は栗色で明るかった。もちろん染めてなんかいません。浅はかな親に無理やり染められる子もたくさんおりましたが、そんなつくりものの安っぽい色とはまったく違いました。あくまでも自然に輝き、真っ直ぐで、動くたびに「さららら」と音がしそうなその髪を、私は何度手にとってみたかったことでしょう。
もし、唯一欠点をあげるとするなら、唇かもしれません。なぜか唇だけがバランスを失って独立しているような印象をうけましたから。少し下唇が厚くて、桜色で、私が目を閉じるといつも最後に彼女の唇があらわれます。そして、それはいろいろなことをやってのけるのです。話したり、食べ物を食べたりするだけでなく、もっと、私にとってはおぞましく思えることまで、軽々とやってのけます。しかし、我にかえったとき、目の前にあるのはかわいらしい二枚の花びらなのです。私はどうしても腑に落ちなかった。そして欠点だと思われる唇に翻弄されている自分にあきれてはててしまうのです。
こんなことをかきならべますと誤解されそうですが、私は節操のある、そして人望あついクラス担任でした。くだらない駄洒落を思いつくたびに口にしていたのと、田舎者らしく頬がバラ色で、顔立ちが整っているうえに、いかにも温和そうだったことから、女生徒から人気がありました。
五年生、この時期成長の早い女の子は初潮をむかえたりするのです。まだまだ母親の呪縛から逃れられない男の子たちに比べて、女の子の心はもう何歩も先にありました。私は誓って申しますが山本ハルカを特別扱いにしたつもりなどまったくありません。彼女の存在が特別だっただけです。
ハルカに出会ったとき私はすでに結婚しておりましたし、四十の手前でした。女房も学校は違いましたが、教職についておりました。子供は男の子と女の子に恵まれました。私は教職が天職だと信じて疑いませんでした。もちろん非常に忙しく、忍耐と体力のいる仕事には違いありませんが、毎日が活気に満ちており、充実しておりました。
四月、例年より桜が早く開花した春、私は新しいクラスの教壇で、目の前に座った一人の女の子を注意しました。彼女はべらべら隣の男の子と話して、私のことなどまるで気にもとめないといった感じでしたので。
「こら、もうだまって、こちらをむきなさい」と。
彼女が私の方を驚いて見上げた瞬間、私のなかで小さな爆発がおこりました。そんな爆発は生まれて初めてのことでした。
★
「よし、次、山本」
私が名前を呼ぶと、ハルカは跳び箱にむかってかけていった。そしていつものごとく、跳び箱の前で止まってしまう。彼女はこわがりで、力がなく、球技もだめ、逆立ちもできない。足だけは不思議に速かったが。
「ああ、だめだなあ」
そういいつつ、私はちっともだめだなんて思っていなかった。
私は前の女の子と同じように、いやみんなと同じように厳しく声を発したつもりだった。私は分け隔てなど大嫌いだったから。
私はよくビンタした。もちろん軽くである。男子生徒ならにやにや叩かれている最中にさえ口をあけて笑っていられる程度の愛あるビンタである。
「こらあ、宿題忘れてきた者は前にならべえ!」
そういうとまだまだ幼くかわいらしい小学五年生は正直に整列する。みんなにこにこ笑いながらでてくるのである。前に並んだ中にかなりの確率でハルカがいた。彼女はぼうっとしているようにみえて、落ち着きがなく、たいていとなりの席の男の子としゃべっていて、注意力散漫といってよかった。
私は並んだ生徒のなかにハルカがいると、呆れると同時に嬉しいような悲しいような気持ちになってしまう。右から順番にビンタをほどこしてゆく。ついにハルカの番がめぐってくる。私は彼女の肩頬を左手で小さくつねり、右手でもう一方の頬をピシャリとうつ。ハルカは頬を私の指ではさまれた瞬間身をすくめ、目を閉じる。三十人もの生徒の目の前で、私には彼女を見つめている時間は与えられない。だからその一瞬の限りを尽くして、彼女に処置をほどこす。力などけしてこめることはできない。形ばかりの音をたてて、私の恍惚とした瞬間は終わってしまう。私の指はまだハルカの頬の感触にひりひりしつつ、次から次へと他の頬へとうつってゆく。
★
「またはじまった、くだらないだじゃれが」
「しょーもなーい」
生徒は口をそろえてそういう。私はだじゃれが好きだが、それよりもまして、生徒のこの反応が好きである。
「しょーもなーい」
などといって喜んでいるのである。かわいいやつらだ。
「ホタルガーハラげーんじん、だいどーお、まさかずー。おくさんは美人で先生にはにあわねえー」
私の顔を横目に大声で歌を歌いだしたのは森本伊予である。実をいえば彼女ほど美しい子供はおそらくこの学校にはいなかった。しかし、私が「山本ハルカ」に感じている激しい衝動を、彼女には感じることができなかった。彼女はただの美少女であったからだ。たとえば、ドラマやCMにでてくるような完成された子供。私は森本がなにをいってからかおうと、笑って受け流すことができた。頭を気楽にぽんぽん叩くことも可能だった。(そうすると伊予はたいそう喜ぶのだ)ちなみに、ホタルガハラというのは蛍ヶ原という地名のことで私の生まれた土地である。
やっかいなことに、伊予は私をからかいながら、私を追いまわしていた。彼女は早熟な子で私を好きという感情をぶつけるように私に近づき、私をからかいばかにするのだ。そしてまずいことに、山本ハルカに対する私の情熱にも、いち早く気づいてしまったのだ。
ハルカと伊予はまるで性格がちがっていた。伊予はリーダーになりたがり、目立つことが好きだった。ハルカはのべつまくなしだれかれと話すことが好きなのだが、自分の意見を求められたりすると、とたんに萎縮した。授業中発表することもほとんどなかった。引っ込み思案といっていいくらいだ。
これは私の想像であるが、(彼女の心のなかはものすごくみえにくいのだ)その行動や話していることはすべてうわべだけで、掘り返せばなにがでてくるやらまったくわからない。そしてそれを私に想像させてしまう悪魔じみた魅力があるのだ。
私は家庭という檻に帰るとほっとした。このまま、スポーツ好きで、ジャイアンツを心から愛する、ひょうきんで朴訥とした田舎教師でいたかった。家庭にいるあいだはハルカのことを考えるひまがなかった。ただ、ときおり、自分の娘と風呂に入りながら思った。ハルカは、父親と風呂にはいっているだろうか、と。それなら、彼女の父親ほど恵まれた男はいないな、と。
★
「やって、先生、やってよお」
森本伊予が手を差し出して叫んでいる。私は水泳の授業で生徒を投げ飛ばすのが好きだった。不思議と投げ飛ばされたがるのは女の子ばかりだった。プールにはいると子供たちは猿みたいに喜ぶ。六月の晴れた空の下でこうしてぴちゃぴちゃ水を跳ね飛ばす子供たちはほんとうに活き活きと輝いている。
私はときおり、子供たちをみていて泣いてしまいそうになる、自分でもコントロール不可能な瞬間にでくわすが、プールではとくにそうだった。それは命にたいする感動といったものだと思うが、いまだによく理解できない。
プールの色は水色で、透明なのに水色にみえる水のなかで紺色の水着をつけた肌はあまりにもまっさらで、つやつやしている。
ハルカときたら、胸なんかまったいらで、乳首が痛々しく水着の上でとがっている。五年生ともなればりっぱなおっぱいをした女の子もたくさんいるのだが、私はそんなものにまったく興味をもてない。私はみんなよりずいぶんおくれておそるおそる水に足だけつっこもうとしている、ハルカの棒のようなまっすぐな体に微笑みを禁じることができなかった。寒そうに鳥肌だち、唇なんか青紫にさせて、彼女はだれよりも寒がりなのだ。
とうとう決意したのか、彼女の体が音もなく水中にすいこまれた。私は投げても投げてもむれてくる女の子たちを次々に投げ飛ばしつつ、見開かれた彼女の瞳をみつめている。それはびっくりするほど大きいことに気づく。常はそれほど大きくない。しかし震えて体中をちぢめて水中に立っているとき、彼女の目は異様なほど大きくみえるのだ。
「先生、早く」
もう何回投げてやっただろう。伊予は水面に体がぶち当たるたびみんなが振り向くほどの大声で叫ぶ。
「もう、おわりだ」
「なんでえ、けち、原人」
「原人っておまえ、今から授業はじめるんだよ」
「あーあ」
水の冷たさに慣れたハルカが自分もやってほしいと思っているのには気づいていた。ただ、それをけしておもてにあらわしたりしないのだ。彼女は横目でみるだけ、投げ飛ばされる女の子のたてる歓声をききながら、冷たい視線を投げてよこすだけ、私は投げてやりたかった。ハルカの体をつかんで、ずっと遠くまで。ハルカの体が夏の陽射しにぴかぴかてらされて、水面にうちつけられる姿は私の想像のなかでだけ、見事なまでに育っていった。ハルカをみつめていたら、伊予が私をみつめていた。それは子供の眼差しではなかった。私はおそろしくなって、伊予に微笑もうとしたが、伊予は暗い顔をしたまま、水にもぐり、私の視線から消えていった。
★
その日の放課後、職員会議で私は教頭と激しくやりあい、虫のいどころが悪かった。今月に入って二度目だ。私のすべてが気にいらないのだ。あの男は。あのバーコード頭は。
会議が終り、(けして私の思い通りにはならないのだ)職員室を飛び出すと、私は自分の受け持ちの教室へむかった。とっくに生徒たちは帰っていて学校は閑散としていた。だれもいない廊下を歩くのはなにかに逆行しているようで、あまり気持ちいいものではない。私は日頃から、きっぱりしたものが好きなのだ。うしろめたくない、素朴で、明るいものが。それでも歩かずにはいられない怒りが私を支配していた。
教室は子供たちの甘ったるい、ふくよかなにおいにみちていた。ちょうど子供たちの制服もこんなにおいがする。窓ガラスから力ない薄い光が差し込んで、亀やらザリガニやらのいる深緑色の水槽を照らしていた。
これからすることのために、私はがたがたとブルドーザーのように生徒の椅子と机全部を隅に押しやった。がらんとしたスペースができると、私は自分の机からソフトボール用の白球をとりだし、黒板にむかって投げつけた。予想通りの音。転がってくると素手でそれを受けて、またすぐ投げつけた。やはり最初は緊張する。当たるときの音がものすごいからだ。しかし、何回も繰り返しているうちに、調子づいてくる。
どうせだれもこない。
私は体を動かす快感にうっとりして投げつづける。自分の肩がぐっとのびる瞬間が気持ちいいのだ。
ふいにけはいを感じて振り返ると教室の入り口にハルカが立っていた。彼女は怯えたような表情をして私を見ている。いつからいたのだろう。
「あれ、山本か、びっくりした」
私の息は乱れていた。ハルカだったからだ。
「どうしたの、こんな時間に」
まさに私に対してそう思っているはずだ。私は冷静さを装いつつ顔をあからめる。
「忘れ物しました」
ハルカは小さな声でそう言って、教室に入ってきた。足音もさせないで入ってくるのが、どことなく猫に似ている。
ハルカは自分の机がどこにあるのかわからず、とまどっていた。
「おお、ごめんごめん、今直す」
私はやっと自分が机をぜんぶ後ろにおろしてしまったことに気づいてかけよった。
「ほら、ここだぞ」
「ほんとだ」
ハルカはベージュのケースに入った縦笛を取り出すと急いででてゆこうとした。そのとき私をチラリと見た。娼婦みたいな目をして。それは単なる不審人物をみる目でしかなかったが、私にはそういうふうにみえたのだ。娼婦なんか買ったこともなければ、会ったこともないのだが、その目つきが、娼婦という言葉を私に思い起こさせたのだ。
私は電気にうたれたように震えた。
「ちょっと、待ってハルカちゃん」
ハルカちゃんなどと呼んでしまった。あれほど気をつけていたのに。
ハルカは不審な顔つきを、もっと不審にさせて立ち止まった。体は半分逃げようとしている。
私は教員の一人がハワイに旅行しておみやげにくれた、マカダミアナッツ入りチョコレートを教室の隅にある、本棚の一番下の奥にいれたままだったことを思い出していた。そんなことは今の今までまったく忘れていたのだが。
「ハワイのチョコレート食べるかい?」
チョコときいて、ハルカはあきれるほど瞳を輝かせた。私はその子供っぽさに救われる気がした。
「いいの?」
「みんなには内緒だよ」
私は大急ぎでチョコのしまってある本棚へいき、尻をつきだし、ごそごそいらないものをかきわけながら、一番下の引き出しの奥に手をのばす。あった。
私のいった「内緒」にはなかなか深い意味がこめられていたのだが、彼女は私が取り出した箱の絵にまずひきつけられ、そしてそれを開けたとたん、銀のつつみによってきらびやかにつつまれたチョコに激しく心を奪われた。
私はチョコレートを二粒つかんで精一杯広げられた彼女の手の平に、途中で無残なほどぶっちぎれた生命線に驚愕しつつ、それを落とした。
「今、食べていいの?」
ハルカはそうきいた。私の心などまったくしらないで。
「ああ。食べなさい」
彼女はつつみをひらけた。カサカサいう音で私は自分が教室の隅に生徒と二人きりでしゃがみこんでいることに急に気づいた。
見つかったら、えらいことになるかもしれない。
私はビクついた。だれもこないように祈っていた。祈りつつも、小動物のように口の中を膨らまして、クチュクチュとろける音をたてるハルカにみとれていた。
時計はとまっていやしなかった。だけど、私のなかでは、その瞬間が永遠に等しいときとなった。
★
森本伊予に告白されたのは生徒がかえって、一人机でプリントの丸つけをしていたときだった。小さな足音がして、子供が近づいてくるのがわかった。ちらと目をあげると、それは伊予だった。
「丸つけしてるの?」
「ああ」
私は見ればわかるだろ、などとは思わない。ただ、今丸つけしているプリントは、小一のころからずっと学習についてゆけない子供のものだったから、やはり見ないでほしかった。
「うわあ、みんしょん、やっぱ30点」
「こら、そんなことゆうもんじゃない」
私は伊予の目をみて怒った。伊予に悪気がないことはわかっていたが。
伊予はすくんだ。そしてしばらく黙って私のそばに立っていた。
「先生、あたし、先生が好き」
私は多少驚いたが、丸つけをやめなかった。
「そうか」
「なに、そうかって」
やれやれ。私は赤ペンを置く。
「いや、そりゃ、うれしいぞ」
「先生、目をつむって」
「なぜ?」
「いいからはやくつむってよ」
一瞬の間があった。私はなにがおこったか理解するのに、おそらく三秒くらいかかったはずだ。
「こっ、こら、やめなさい、やめろっ」
そう叫んで、伊予の唇をひねりはがした。まったくおそるべし子供だ。私の唇を吸ってきた。それも思いっきり。
「どうだった?」
「おまえ、いったいなにを考えてる?」
声はぶざまに震えていた。私は自分の唇を何度も手の甲でぬぐった。しかしその感触は脳にぬめぬめとこびりついていた。
「なに、って、キスじゃん」
「おまえは、まだ五年生だろう」
「だっさ。やっぱり原人なんだ」
「はやく帰れ。だれにもいうなよ。いいな」
伊予はおかしな顔をした。悪魔みたいな顔。
「先生さ、好きな人いるよね」
私はぎくりとする。
「俺は結婚してるんだ」
「違うよ。奥さんじゃないさ」
汗が背中をしたたり落ちて、気分が悪くなった。
「なにをいってるんだ、早くかえれ」
私はそんなことをするつもりはまったくなかったのに、思わず手で伊予の体を押しやってしまった。思いのほか力が入ってしまい、伊予はぐらついて、倒れそうになった。きれいな顔がゆがんでいた。
「いるじゃん。ハルカちゃんでしょ。知ってるもん。ハルカちゃんなんかのどこがいいのよ。すけべおやじ」
そういうと、伊予は教室の扉をこわれそうなほどに強烈に閉めて、ぱたぱたと内履きの音を響かせて姿を消した。
すけべおやじ……私は呆然と残ったプリントをみていた。
★
小学五年生の子供が、本気で異性を好きになることがあるのだろうか。私には信じられなかった。そして、この私自身についても、まだ信じられなかった。
「ハルカちゃんでしょ」
もう笑ってごまかすこともできない。そうだ、ハルカちゃんなのだ。
「あら、まーくん、どうしたの、そんなこわい顔して」
妻が私の顔をのぞきこんでいた。
「いや、べつに、べつになんでもないよ」
「そお?」
妻はそれきり口を閉ざしたが、へんな目で私を観察している。私はしらぬふりをして、テレビに目をむける。テレビでみかけない日はないタレントがそこにいて、大声で笑っていた。
そんなこわい顔をしていたのだろうか。女はおそろしい。伊予だ。伊予がこわい。まさか学校でなにかいいふらさないだろうな。
「もう8時半よ。加奈子ちゃん、お父さんとおふろはいりなさい」
「おとうさん、いっしょにおふろはいろお」
「ああ、いいよ」
私は末の娘につれられるようにして、風呂場へむかった。
なにも、やましいことなどしていない。チョコをあげたことを伊予がしっているとも思えない。私は子供の体を石鹸でごしごし洗いながら思いをめぐらせる。
「ちょっと、おとうさん、痛いよお」
「あ、ごめんごめん、痛かったか」
「なんか、へんなの、あわててるみたい」
「あわててるか」
「うん。へんだよ」
四歳の子までこんな目つきで私をみるのだからたまらない。
私は湯船につかり、ずぶずぶと鼻の下まで沈み込むと、ゆっくりと目を閉じた。
★
ハルカのことはなるべくみないようにしていた。みることもできなかった。ハルカをみたら、伊予の目が光るだろう。
あれから伊予は大人しい。「ホタルガハラ原人」と呼んでくれたら、どれだけ救われるかしれないのに、彼女はひたすら大人しい。そして私も彼女をぜったいに当てたりしない。唇をみることもできない。伊予の唇は薄い。ハルカの唇とはずいぶん違う。薄くて、欠点がない。口紅をぬるとしたら、一回で終わってしまうだろう。ハルカなら何回も往復させなければならない。その肉厚さが、私を虜にさせるのだが。
五時間目で生活の授業がはじまっていた。あれ以来一日がたつのが異様に遅いので、私はこの時間帯になると、もう疲れはてている。今日のテーマは、「人の気持ちを思いやる」といったものであるが、だれも私の気持ちを思いやってくれる人などみあたらない。
「じゃあ、まず自分がいままで人から言われていやだと感じたことを、なんでもいいからいってみよう」
心なしか生徒たちはみな顔色が青ざめている。そんなこといえるだろうか、といった顔だ。とにかく、だれも手をあげていうはずはないので、順番にいくことにした。
「じゃあ、中川から」
そういうと、いつもはしっこの席から当てているわけではないが、たいていは自分からはじまるかもしれないと思っている中川は、唇を噛み締めて立ち上がる。私の家の近くの煙草屋のばあさんのように、のろい。椅子がぎーっと なった。
「なんでもいいぞ」
「あの、僕は、僕は馬に似ていると言われるのが、いやです」
そういいながら、中川はうっすらと笑っていた。それは泣き顔にも似ていた。男なら、ここでは笑うしかない。もちろん、だれも笑わない。まだ小学五年生なのだ。みんな、一気に反省する。
「よし、わかったぞ。もういいぞ。次、花田」
「僕は、ばか、といわれるのがいやです」
こんなふうに、一人が終わると、みんな似たようなことをいった。女の子は、簡単ではなかった。私が危惧していたとおり、言ってから泣き出す子が続出した。森下弥生はこういった。
「「毛ガニ」といわれます」
なるほど。彼女は体毛がやけに濃かった。しかし、一人一人をなぐさめるための授業ではない。
「よしよし、泣かなくていい」
などといいつつ、私は子供がつけるあだ名の残酷な的確さに脱帽していた。かば、アリクイ、ノミ、まったくそういわれれば、似ているとしかいいようがないのだ。
そのうち、ほとんど終り、とうとう伊予の列にきた。伊予の列の、次の次がハルカの列である。
「はい、次」
伊予はいつもと同じようにさっさと立ち上がった。彼女の唇を私はみることができない。
「大同先生が」
私はそれだけきいて、思わず震えた。なにをいいだすんだ。こいつは。
「大同先生が生徒を差別するのがきらいです」
「なな、なにを?」
私は思わず声をあらげて、伊予をにらみつけた。
しかし、伊予はもう座ってしまった。ほとんど中だるみ状態だった教室は一気に最初の緊張へと戻っていた。
「ばかばかしいことを……」
私はかろうじてそうつぶやいて、次の生徒の名を呼んだ。私の名をだしたのは、伊予がはじめてで、もう二度とないようだった。
ハルカの番がきたとき、私はハルカより伊予の目が気になってしかたなかった。ハルカはなんというか、緩慢に立ち上がった。その顔をみたとき、伊予よりもさらに、嫌な予感がした。
彼女は不必要なほど、もじもじしているではないか、これは、きっと私に対することなのだ。私はわかった。それでも、いったいなにをいおうとしているのか、まったく想像もできなかった。
「恥ずかしがらなくていい。みんながんばったんだ。思い切って口にしてみろ」
しかし、これが生活の授業とは、生徒にとっても私にとっても拷問に等しい。ハルカは小さな声でなにかいった。
聞こえない。いや、おぼろにきこえていたのだが、それを理解することができなかった。
「は? なに、なんだって?」
「ひいきされてるっていわれます」
「だれに」
ホタルガハラ原人のまぬけな声が響き渡る。
「大同先生に、ひいきされてるっていわれます」
ハルカはそうはっきりいうと、がたがた座った。その顔は激しく上気していたが、泣いてはおらず、私が愕然としたことには、彼女はすっきりしたといった顔をしているのだ。
「なにを、ばかなことを」
私はそれだけいうのが精一杯だった。すべての生徒の発表が終わってからも、私はショックをおさえきれず、自分がどうやって授業をまとめたのかも、定かではないまま、教室を後にした。
★
「先生、最近元気ないね」
「なんだ、おまえか」
伊予がパンツのでそうなスカートから肉付きのいい足をのぞかせて近づいてきた。
「もしかして、あたしのせい?」
「なにが」
「しらじらしいよ。ほんとはこわがってるくせにさ。あたしのこと」
本当にこの子が五年生だとは思えなかった。
「あたしとつきあえばいい。ハルカちゃんなんかくだらないよ。あんな子。やせっぽちで、はっきり物いわないし。ちょっとかわいいだけじゃん」
私は笑ってしまった。
「おまえは、どこでそんなこと教えてもらうんだ?」
「べつに」
そういえば、と私は思い出した。この子には中学生の兄がいた。
「兄貴にしつけられてんのか?」
「おにいちゃんなんか、どうでもいいよ。いつもあたしをいじめてばっか」
そういうと、伊予の目が凶暴な光を放って、私は少々おじけづいた。
「ねえ、あの続きしない?」
私はそれをきいて耳まで赤く染まった。まったくどっちが教師なんだか。
「いいかげんにしろっ」
「じゃあさあ、みんなにキスしたって話してもいい?」
「おまえ、俺を脅迫する気か?」
「べつに、そんなつもりじゃないよ」
「じゃあ、どういうつもりなんだよっ」
私の唾がたくさん飛んで、伊予にかかった。伊予はまぶしそうに一瞬目をとじて、頬についた私の唾を手のひらでなぜた。
「ただ、先生が好きなだけ」
「好きだから、キスして、いちゃいちゃしたいの。抱っこしてほしいの」
私は絶望的に息を吐いた。
「おまえの頭は、手術でもするしかないな」
「本気だよ。しゃべるよ」
「わかったよ。でもな、俺の立場を考えてくれよ」
ここのところ髪がよく抜ける。吐く息もこころなしか、臭うような気もする。きっと胃からきているのだ。
「俺には妻子がいるし、教職をやめされられたら、他になにもできないんだぜ。どうやって妻子をやしなってくんだよ」
「もちろん、だれにもわかんないように。見つからない場所ならいっぱいあるよ」
こいつは本気でそんなことを考えているのだろうか。まったく、おぞましいことになってしまった。私は目の前にいてミスユニバースみたいに自信に満ちて微笑む女の子をおどおどとみつめながら、自分だけが奈落の底に突き落とされていくような気がするのだった。
★
「静かにしろって」
私は思わず声を荒げる。体育用具入れには鍵をかけてあるし、この時間帯にだれもこないことはわかっているのだが、おそろしくてたまらない。
「な、もういいだろ」
「だめだよ。これからがお楽しみー」
「なにが楽しみなんだ。もうお前の望みはすべてかなえたはずだぞ。抱っこして、チュウしたろ」
「本気でやってない」
そういうと、私が沈むほどそばのマットで飛び跳ねていた伊予は私の背にしがみついてきた。きつく、息ができないくらい。
「おいっ。首がしまる」
「あたしがハルカちゃんだと思ってやってみれば」
「なにをいってる」
「いいから」
「ほら、目を閉じて、はやく、はやく終わらせたいんでしょ、じゃあ、そうそう、そうよ」
私はしかたなく目を閉じた。
「今からハルカとキスするのよ。わかる?」
私は必死でそれを思い浮かべた。なかなか難しかったが、いったんハルカの顔が目の前にあらわれると、私の頭はハルカで満杯になった。・・・それは気持ちのいいことだった。
そして唇が触れてきた。柔らかな、小さな唇、おそらくこの世でこれほどまでにも柔らかな心地良い感触はないだろう。私はそっと、吸った。目は閉じていた。閉じた向こうには伊予ではなく、ハルカがいた。急に頭に血がのぼって私の体がおかしくなった。私はマットにつきっきりだった手を、目の前の女の子の頭に回し、きつく自分の顔におしつけ、息もできないくらいに激しく吸った。唇はひらききっていたから、私の舌がそこへもぐりこむのは容易だった。私はとちゅうでおかしな喘ぎ声まで出してすべてをむさぼった。甘い粘液が口のなかをいったりきたりした。さながら野獣そのもののように、私はそれに精魂込めた。
「いててっ」
一瞬なにがおきたのかわからなかった。しかしひどい痛みが口にあって、そこに指をもっていくと、血がべったりついてきた。私の目の前にいるのはハルカではなく、伊予だった。
……ああ、そうか、この子に噛まれたんだな。
「できるじゃない」
「お、おう」
私はあやまるべきか、怒るべきかわからなかった。怒るのはどうも違うような気がしたし、あやまるのは不愉快だった。
「先生。へんな気持ちしたよ。こわかったけど、どんどん気持ちよくなって、ずっとやってたかった、でも、どんどん悲しくもなってくるんだよ」
お前がそうしろといったんだから、しかたないだろ。と思ったが、もちろん黙っていた。
「ねえ、少しはあたしのことも好き?」
「……ああ」
「ハルカちゃんの次くらい?」
こういう話は苦手だ。まだずっとキスやらなにやらやっているほうがましだ。
「クラスの子はみんな同じように好きなんだよ」
そういうと伊予は淋しそうな顔をしていった。その顔は私よりもずっと大人みたいにみえた。
「ハルカちゃんのどこがそんなにいいの?」
「おまえみたいにからんでこないところだよ」
「からまれて嬉しいくせに」
「ばかやろ、どれだけ困ってるのかわかってんのかよ」
「じゃあさっきのキスはなんなの」
「あ、あれははずみだ」
「あーあ、あたしがハルカちゃんだったらな」
ハルカという名をきくと、また気が狂いそうだったから私は急いで立ち上がった。
「おい、もういくぞ。先に俺がでるからな。合図してからでてくるんだぞ」
「へーい」
伊予は何事もなかったように堂々と帰っていった。私はやっとひと息つき、倉庫を見回して鍵をかけてからも、しばらく体育館に残っていた。体育館のはしっこに一つだけ転がっていたバスケットボールでシュート練習を繰り返した。床は光があたってつやつやと輝いていた。私は足元に転がったボールをつかまえようとして、自分の胸元に血がついていることをみつけ、ビクついて唇に指で触れたが、もう血はついてこなかった。しかし、痛みはさっきよりずっとひどく蘇ってきた。
★
人が変わるのにそう時間はかからなかった。私は伊予が近づいてくると困ったような顔をしながらも、内心は胸がずきずき疼くほどに高鳴って、邪悪な喜びに思わず口がひきつってしまうのだった。
もうキスは最初からディープすぎるほどディープで、私は実をいえば妻にこれほどまで熱烈なキスをしたことなどなかったのだが、すればするほど新たな発見があることにやりがいをみつけた。いつも工夫して、伊予が気持ちよさそうにすると体が燃え上がって、自分を抑制することが非常に難しくなってきた。そのようにしている最中は自分で催眠術でもおこなっているように、ハルカが常に私の頭にいた。あえて追い払おうとしたことなど一度もなかった。
「先生。あたしの体に触ったりしたい?」
「なに?」
「ばかなことじゃないよね。もう」
「いや、俺は、そんなこと、できない、ぜったいにだ」
「いまさらなにをかっこつけてるの」
「もう、なんでもわかるよ」
「うわっ」
伊予は私のもっこりしたふくらみを握ってきた。
「おまえっ」
「あたし、おにいちゃんに、もっとちいさいとき、ここしごかされた」
私は声がでなかった。
「ここからカルピスみたいなのでるんだよね」
「してあげようか」
「いや、だめだ。いらない、よしなさい」
「いっかいだけでも、ためしてみたらいいじゃない」
そういうと、伊予は私のズボンに手をつっこみ、見事に鋼鉄と化したそれをひきずりだした。そしてさすりはじめたのだった。
「やめなさい」
私は力なくそう言いつづけた。伊予の顔はみなかった。そのうち、がまんできなくなって叫んでいた。
「もっとはやく、もっと、もっと、そうだ、ああ」
私のズボンは汚れてしまった。冷たい。突然涙が溢れてきた。私は小学五年生の女の子の目の前で、しくしくと泣いた。それこそ、女の生徒が泣くように。涙がいっぱいでてきた。
「どうして泣くの」
手が疲れたのか、伊予は手をふりながら、びっくりしたような声でいった。
「ねえ、どうしたの? どっか痛いの? ズボンが濡れちゃったから?」
私は答えられなかった。私はしくしく、泣きつづけた。
★
秋が終わろうとしていた。悪夢のような、天国のような、これまで一度も経験したことのない秋が、終わろうとしていた。
私の容貌はかなり変わってしまっていた。みなは気づかなかった。子供だけが気づき、私をみるたびに、「きゃっきゃっ」と猿みたいにはやしたてた。(もちろん、なぜこういうふうになるのかは、ぜんぜんわかっていないのだが)大人はだれも気づかなかった。妻も常に忙しいことが幸いして、気づかなかった。
私はこの学校を辞めるべきだと思い始めていた。みつかったわけではないが、最近では夢にまでみるようになった。新聞の一面に私の汚れきった顔が、でかでかとうつしだされ、犯罪者として警官にとりおさえられている様子である。
「けだもの、でてって、もう二度とあんたの顔なんかみたくない!」
妻の叫ぶ声で汗だくになって飛び起きると、私のそばにはその妻と二人の幼い子供が、すやすや眠っているのだ。
今ならまだ間に合う。
苦痛と官能に交互に苛まれているうちに、私の頭のなかにさまざまなものがあふれはじめていた。思い出すことなどずっとなかったこと。
私は小学三年生まで母親の乳房を求めて夜になると泣いた。六年生になっても私はときおり夜尿してしかられて、かくれて泣いた。父親との思い出はほとんどない。そればかりか私はときおり、父親が死ねばいいと思ったりしたものだった。母親さえいてくれればよかった。別に、美しい母親というわけではなかったのだろうが、私には特別に美しくみえていた。
母が死んだとき、私は二十歳だった。そのころ母にはあまり口をきかなかった。ちょうどそういう時期だった。あまりにも遅くに訪れた反抗期の最中に、母は癌で急死した。涙はでなかった。そうだ。ずっと悲しいとも思わなかった。葬式のときも、なぜみんなボロボロ泣くのか、本当は悲しくないくせに、オヤジといっしょだと思った。取り残されたのが不可解で涙がでてくるだけなのだ。私はしっていた。母は私だけを心配していることを。葬式の最中に坊主を蹴り上げたとしても、母だけは私を許してくれるだろうことを。
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「俺はもういくよ」
「いくって、どこへ?」
「もう限界だ」
「会えないってこと」
「もうよせよ。こんなオヤジとこんなことしてなにになる?」
「べつに、なにかになろうとしているわけじゃない」
「今ならまだまにあう」
「……」
「君が決心できないなら、俺は学校をやめるしかない」
「……」
「ばらしたければばらせ。俺は警察につかまる。教師はクビだ。刑務所いきだ。本当に犯罪者なんだからしかたないな」
「……」オレはひどい男だとわかっていた。伊予がオレのことを本気で好きなのだともわかっていた。
「苦しかったが、楽しかった。実をいえば夢中になってたよ。恥ずかしいくらいに」
伊予の目がじんわりとうるんできた。チワワみたいに、オレをみつめている。
「おまえにはまだ未来がある。大きい未来だ。俺は未来という言葉が大好きでね。それは、もう俺には未来がなくなってしまったからだが……おまえはこれから、なんにでもなれるんだ」
「なんにもなりたくないよ。先生とずっとこうしていたいだけだよ」
私はものすごく意地悪になるしかなかった。ここで離れられなければ、自分はもう終りだとわかっていたので。
「たぶん、おまえは病気なんだ。一度精神病院にいって、専門家にカウンセリングかなんか受けたほうがいい」
「ひどい」
伊予は涙でぼろぼろにぬれた顔をきっとひきしめて、私を睨みつけた。手がちっさくて、赤ん坊みたいに赤く丸まっていた。
「好きなだけだよ。なにがわるいの? なんで我慢するの? そんなの不自然じゃない」
残念なことに、僕は好きじゃない。僕が好きなのはハルカで、ここにいるのがハルカなら、こんなことをいったりはしない。僕はハルカを連れて、どこかへ逃げるだろう。いや、逃げはしないまま、注意深く続けるだろう。地獄の果てまで。
「ちがうんだよ。そうできてるんだよ。この世の中は。おまえは無知だ。俺はだめになりたくない。もう、俺にかまわないでくれ。俺を開放してくれ」
私は自分でも驚くほど冷静なまま感情をこめて、十一歳の子供にうったえていた。
伊予は大声で泣き始めた。こうなると手がつけられない。私はだれかにみつかることをおそれて、うろたえた。
「こら、静かにしろ。声をおさえて」
伊予はますます大声を張り上げるばかりだった。私はあせって伊予の口を手で押さえた。伊予は暴れた。火のついた、小さなダイナマイトみたいに、押さえつける私の腕のなかでのたうった。私があまり長く押さえつけていたら、手のなかで体が力を失ってぐったりとした。私は死んだのかと思い息をたしかめたが、大丈夫だった。
最後だと思って、じっと、その体を隅から隅まで見つめた。いつもみつからないか気が気でなかったから、ゆっくり見つめたことなどなかった。それに、私はその最中は必ず目を閉じていたし、目を閉じた先には、ハルカだけが微笑んでいたから。
ゆるい天然パーマのかかった、ふんわりと空気を孕んだ髪にかこまれて、その顔は白く、冷たく、ひし形をしている。フランス人に多い、理想的な顔かたちだ。そうだ。すねたように少々上を向いた鼻の頭も、かしこそうな眉毛も、薄い唇も、ぜんぶが理想的なのだ。どうして、私はこの子を好きになれなかったのだろう。これだけ綺麗なのに。そう思うと、異様な憐憫の情がわいてきた。私は涙の筋のついた、そのひんやりした頬にそっと手をのばして触れた。
「せんせい」
「な、なんだ、おきてたのか」
私はびっくりして、手をはなす。
「いっかいだけでいい。最後にしてください」
「だめだっていっただろう」
すると、また伊予の目から涙があふれてきて、口がゆがんだ。ああ、また大声で泣くんだな。私はそれを考えると、めんどうくさくてたえられなかった。
「わかった。本当にこれが最後だと約束できるなら、してやってもいい」
「約束する」
げんきんなやつだ。すぐにけろっとして涙はまたたくまに乾いた。
「俺は手をださないから、好きにしろ。なるべく早くな。ぜったいに声をだすんじゃないぞ」
「うん」
そういうと伊予は自分の服を全部さっさと脱いで(その脱ぎ方は、彼女の下着と同じように、まったく子供っぽくて、なんの情緒もなかった)私のズボンを引き摺り下ろし、犬のようにピチャピチャ音をたてて舐め始める。彼女は死んだような私の手を、膨らみかけた自分の乳房にもってゆく。私は目を閉じたままそれをさわる。私のモノはひとたまりもなく大きくなる。伊予は唇を離すと私の上に馬乗りになり、それを手でつかんで自分で自分の場所にうまく導きいれた。(最初から彼女は私の妻よりずっと慣れていた。伊予は自分の体のすみずみまでしりつくしているようだった。)
彼女はあらゆる角度で、腰をつかってものすごいスピードをだすことができた。ひきしまっているので、私は最初あっけないほど早く果ててしまった。しかし、最近ではずいぶん長持ちするようになった。伊予のほうも早いのだ。彼女がいってしまうのと私がいってしまうのが、同じくらいだった。伊予は声をださないように懸命に抑制しているが、その瑞々しい喘ぎはどうしても漏れてしまう。私はこんな小さな子供からでていることが、不思議なくらい深い息づかいをきくと、一気にたかまってしまうのだ。
官能の渦に巻き込まれてしまえば、これが最後というのはまさに、悲しかった。私は突然、私の思い通りにしたくなった。だから、伊予を押し倒した。そして、彼女を後からゆさぶったり、もちあげたり、ゆるめたり、たゆたったり、突き上げたり、ありとあらゆることをほどこした。
「おっぱい噛んで」
きこえないくらいの声で伊予がねだる。私が思い切り乳首をかむと、伊予は身をよじって喜ぶ。伊予のからだぜんぶが性感帯だった。
耳を食い尽くすように、髪が濡れるほどむさぼると、少女のなかから洪水のように、とろとろした液体が溢れてくる。そのまま激しく集中し、私は自分のすべてをその一瞬にかける。なにも考えられない、ハルカでも伊予でも、少女でも大人でも、犯罪でも地獄ゆきでも、もうどうでもよくなっている。
あ、終わってしまう。
そう思ったとき、急に私はその場にほうりだされた。たった一人でだ。
「きゃあっ」
同時に伊予の短い叫び声が響いた。
私はみっともない格好のまま目を開けて、ほこりくさい世界に戻ってきた。
卓球台の陰からのぞいている、小さな瞳、まぎれもなく、私の追い求めていた、今、この場でもずっと夢見ていた瞳を発見した。だからこれは夢だと思った。
「ハルカちゃん」
伊予の声が私をうちのめした。
「な、なんでそんなところにいるの?」
「わ、わたし、ちょっと、体育館にあそびにきてて、なんか音がするから、のぞいてみたの」
「山本、落ち着いて、よくきけ。これは、体育による治療だ。授業の一環なんだ」
私はよく自分でもそんなことが考えつくと思うようなことを口走っていた。ハルカはこれ以上ないほどに顔を赤らめてそこにかくれたままだ。
「森下を治療していたんだ」
「ちがう」
伊予が笑っていった。
「ちがうよ。あたしと先生はね、エッチしてたんだよ。ハルカちゃんなんかみたこともなかったんでしょ」
「やめろっ。だまれ」
「ハルカちゃんのお母さんもお父さんも、こんなことハルカちゃんが寝たあとでやってるんだよ」
私は伊予の頬を打った。伊予がマットにたおれた。そこには私のズボンや下着、ハルカの綿のパンティなどが錯乱していた。
「ほんとだよ。だからあんたができたんだよ」
伊予の唇から血がでていた。
「あたしは、大同先生が好きだったから、こうした」
ハルカは突然すすり泣き始めた。私は彼女のほうへ駆け寄ろうとして、自分が真っ裸であることに気づいて、下着をつけ、それからズボンをひっかけながら、近づいていった。
「なあ、山本、大丈夫だ。違うんだよ。森下はおまえを困らせようとしてあんなこといってるだけだ」
ハルカが私を「ケダモノ」をみるような目をしてみていた。そして、少しずつ後退り、その小さな細い体をよじったかと思うと私から逃げた。
私は追った。
「いかないで」
伊予が叫んだ。私は裸のままでそこにいる伊予を置き去りにして、駆けた。
「ハルカちゃん、ハルカちゃん」
ハルカは足が速いのでなかなか追いつかない。すでに体育館を飛び出していた。彼女は屋上にのぼろうとしていた。
私はその後を必死で追った。呼吸が乱れて目の前がかすむ。
屋上にあらわれた私をみて、ハルカは「ヒッ」と小さく叫んだ。
「いいか。山本、あれは、なんでもない、なんでもないんだ」
「こないで」
ハルカはそういうと泣き始めた。
「なにもしないよ。誤解をときたいだけだ」
私は怯えるハルカにむかって、少しずつ近づいてゆく。
「こないでえ」
幼児みたいな声でうったえる。
私はにじりよった。私がハルカにようやく届きかけたそのとき、ハルカは私に背をむけて、屋上から飛んだ。
私はみていた。
落ちてゆく小さな少女を。
私のうしろにいつのまにか伊予がきていた。
「せんせい」
伊予はたった一言そういって、地面によこたわって動かないクラスメートを私とならんでみていた。
「独白」
かなり前に書いた作品ですが、
久しぶりに目にして、自分としてはよく書けているほうだと思って
あげてみることにしました。
けっこう勇気のいる内容ではありますが。