伝説の男子
ついこの間、居間で寝転がって毎年変わり映えのしない正月特番を観ていたと思ったのに、気がつけばもう冬の気配が色濃くなってきた。クラスの友人たちにさんざんバカにされた正月ボケもいつの間にか治っていたし、そういえば夏休みの最終日に校庭で花火をして、新学期早々先生に呼び出しをくらったような記憶もなくはない。
一日の授業が終わったかと思えば、すでに西日はその姿を隠そうとしている。陽の光がなくなってしまえば、あっという間に空気が冷え込むだろう。
ピンクのかわいらしい封筒が風で飛ばないよう両手で持ち、木下蔵琴は、手紙の送り主が現れるのを今か今かと待ちわびていた。
『放課後、体育館の裏に来てください。二人きりでお話があります』
何度も読み返したため、一字一句間違えることなく憶えている。
かわいらしい便箋に、かわいらしい字体。どう考えてもラブレターだ。短い文章の最後には、『横山つくえ』と書かれている。彼女が送り主だろう。
下駄箱でこの手紙を発見してからというもの、今日はずっとどこか――いや、全体的に浮かれていた。何があっても、何をされても、すべて笑顔で許すことができた。昨日買ったばかりの消しゴムだって喜んで貸してやろう。角もどんどん使ってくれていいくらいだ。
だってそうだろう。そうなっちゃうだろう。相手はあの横山つくえなのだ。学校一の美少女と名高い、あの横山つくえなのだ。容姿もさることながら、文武両道で家柄もいい。誰一人笑顔を見たことがないという超クールな性格も最高ではないか。そのクールな彼女からのかわいらしい手紙。きっとお店で長時間かけて選んでくれたのだろう。やばい、これがギャップ萌えというやつか――なんて妄想にふけること約三十分。
「木下くん」
後ろからかけられた声に振り返ると、そこには待ちに待った横山つくえの姿があった。
まずは彼女に気づかれないよう、ちいさくため息をつく。安堵の息だ。彼女が来なかったり、手紙自体が誰かのいたずらだったりという不安がまるでなかったわけではない。彼の友人たちならそのくらい平気でやりそうだし、人気者の彼女のこと、ここに向かう途中でみんなに呼び止められて、辿りつく前に下校時間になることだって考えられた。だからまずは、彼女がここに来てくれたことに深く安堵する。
「あの、手紙、ありがとう……。よ、読んだよ」
両手で持ったままの封筒を、胸の高さまで上げる。
この暗さなら多少赤面したところで見つかるまい。だから声が上ずらないようにだけ、細心の注意を払う。何をどう言葉にしていいのかわからないが、こちらは呼び出された側だ。相手の出方を待てばいい。
「ん、来てくれてありがとう」
一歩、二歩と、横山つくえが近づいてくる。そして、手を伸ばせば届く距離まで来ると、その艶やかな唇を開き、彼女は言った。
「あのね、木下くん。私って、今まで周りから告白されてばかりだったのよ」
「え、あ、はあ……」
「だけどね、私は、自分ができるのにやらないというのがとても気持ち悪いの。もやもやするのよ」
風になびく黒髪もそのままに、恋文を受け取った相手に向けるような、恥ずかしさだとか嬉しさだとか、そういった初々しげな表情を一切見せることなく告げる彼女からは、どうにも真相を探り当てかねる。時間も時間だし、早々に告白を切り出してくれると思って身構えていただけに、肩透かし感は否めない。
どう反応したものかと思案していると、ようやく彼女は本題に入った。
「私、自分ができることはしたいわ。あなたに告白したいの」
その瞬間、木下の心臓が大きく高鳴る。
妄想はしていたが、本人の口から直接聞くと、破壊力が全然違う。何を破壊するかはさておいて、破壊力が全然違うのだ。
ああ、いいとも。俺ならいつでもオーケーだ。だからいくらでも告白するといい――いっそこのまま両手を広げ、彼女を抱きしめてしまいたいとも思う。
そんな木下をじっと見つめ、横山は続ける。
「この学校で木下って名前、あなたしかいないのよね」
その言葉に、木下の浮かれた妄想が一時停止する。
「ど、どういう意味?」
「どういうも何も、そのままの意味よ。私が自分の力で今より幸せを得るためには、あなたを伝説の男にしなければいけないの」
そんな説明をされても、よけい意味がわからない。伝説? いま、伝説の男とか言ったか?
「たしかに私は勉強も運動も、他の生徒よりできているという自覚も自信もあるわ。でもそれは、幼いころから遊ぶ時間を削って努力してきた――いえ、親にそうさせられてきた結果にすぎないの。私が自分の力で勝ち取った幸福なんてひとつもないのよ」
表情が動かないから分かりにくいが、どうやら彼女は現在の自分をあまり快く思っていないようだった。普段からそんな素振りも愚痴もまったく見えないし聞こえてこないから、彼女自身からこうして伝えられるまで気づきもしなかった。
横山つくえの表面だけを見て、かわいいだのすごいだのと憧れてきた自分を恥ずかしく思う。
ただ、そんなことを聞かされたところで、じゃあなぜ自分はここに呼ばれたのだろうという疑問は残る。そろそろ下校のチャイムが鳴る時間だ。意を決し、木下は目の前の少女に問う。
「で、俺に話、っていうのは……?」
「そうね。簡潔に言うわ。木下くん、あなたには伝説の男になってほしいの」
「…………え?」
唐突すぎて、返す言葉が見つからない。
「私ね、他校の友人から聞いたのよ。伝説の木下に告白すれば、幸せになれるって」
拳を握らんばかりに力説する横山つくえは、その目にも力がたぎってきている様子だった。
「……あの、それって伝説の木の下では……」
「そうよ。だから言ってるじゃない。伝説の木下よ」
「いや、だから、木下じゃなくて木の下だと思うんだけど……」
「そう言ってるじゃない。この学校には木下姓はあなたしかいないのよ。もっといそうなものだけれど、物語の進行上、この学校にはあなたしかいないという設定なのよ」
「設定とか言わないで!」
興奮してきたのだろうか、メタなことをぶっ込み始める横山。
たしかに恋愛系のゲームや漫画で、そういう話はなくもない。高校卒業までに想い人の好感度を上げて、伝説の木の下で告白するとかされるとか、そうすると永遠に結ばれるとかいう、それこそ『設定』だ。当たり前だが、そんなうまい話が現実にあるはずもなく、だから彼女の言っていることも、正直脱力ものである。
「だからね、木下くん。あなたにはこの学校で伝説の男子生徒になってもらいます。わたしが告白するに足る男になりなさい」
「なんだよ、伝説の男子生徒って。どうすればなれるんだよ」
「そこまでは考えてないわ」
「丸投げかよ!」
しれっと返す横山に、ついいつも友人たちにするようなツッコミを入れてしまう。
だがまあ、なんだ。こういう展開も悪くないかもしれないかもな――なんて。そう考えてしまう自分がいる。
彼女に正しく説明したところで、この学校には伝説の木なんてないし、そういう、いわゆる乙女チックな妄言を信じている彼女も、これはこれでかわいらしい。ここはひとつ、彼女に一歩近づけたという事実を素直に喜んでおこうじゃないか。
「わかったよ、横山さん。俺は伝説の男になって、君に告白してもらう」
「ええ。がんばってね」
どこか他人事のようにそう言って、横山つくえは、ふっと笑った。
それは見る者すべてを虜にしてしまいそうな、とても魅力的な笑顔だった。
さて、彼女と違い、生まれてこの方努力なんて高校受験のときくらいしかない自分ができること。それはなんだろう。
「とりあえず伝説っぽいことって何があるかなあ」
「そうね、もう下校の時間だし、みんなが帰ったあとに校舎の窓ガラスを全部叩き割ってみるのはどうかしら」
「そっち方向かよ!」
才女のセリフとは思えない物言いに、苦笑いで返す。
容姿端麗、文武両道、くわえて家柄も良いというパーフェクト女子高生、横山つくえのお眼鏡にかなうのは、どうやらひどく難しいみたいだ。
だが、別にいい。問題ない。このくらいのハードルがなければ、そりゃあ横山つくえとお付き合いなんてできないだろう。今まで楽をして生きてきた分、これから精一杯努力してやろうじゃないか――口の端を上げ、木下は言った。
「任せといて。そのうち事故に見せかけて、窓ガラス一枚くらいなら隅のほうにヒビを入れてみせるから」
しょうもない伝説の幕開けであった。
伝説の男子