半鐘

静かな居住者

 老婦が一人、縁側に座り紙が黄色くなったアルバムを捲っていた。私はこの老婦が嫌いだった。髪の根本だけが黒く、脱色された白髪は乾いて蜘蛛の巣の様に額を隠し、顔の肉に折目を現す深いシワは見ていて不快だった。不快の理由は他にもあった。のろくさく家の中をうろうろと動いてはホウキで辺りをはたく。すると埃は舞い上がって天井と棚に乗る。ついで老婦の鼻に埃が入りクシャミをして飯を食う机に置いてある醤油とコショウを蹴飛ばし、畳に沼を作る。台所に立つと人参と玉ねぎを切る事に没頭しすぎて沸騰して唸っている汁を鍋からジュージューとこぼす。それが実に忌々しく思う。だがそれ以上に私を一層と疳に触るのが老婦の瞳であった。私が老婦を叱ると垂れた瞼の奥にある二つの黒い点がジィっと見る。それは老婦の魂と繋がっていて生暖かい伝達の針が私の身体と老婦の身体を縫うかの様でその度に私は無言で睨んでそこから立ち去った。
 ダンゴ虫に似た背中は相変わらず曲がっていて重さも感じられないケツは縁側に乗っている。正午の日差しをなんとなく見に来た私は引き戸の先にいるその老婦が目に映り日差しが濁る。また、アルバムを捲っている。最近この時間帯になるとあの老婦は決まった様にしてあのアルバムをテレビの下の引き出しから引っ張り出してきて枯れた指で捲るのだ。何の写真かも気にならなかった。ただただ、あの老婦が何かをしているいう行為が乱されてしまう私の心が。
 口の中が粘ったくぬちょぬちょとする。体内のナトリウムを薄めたくなりコップに水を注いで飲み干した。
 ゴォオン、ゴォオン、ゴォオン……
 まただ、ホンの数週間前からだ。青銅器の楽器を誰かが外から鳴らしているのか分からないがスズメやコオロギが突如として己の意思を示す場面に遭遇した時と同じく、この青銅器を反響させる。悲しくて重たい音が聞こえるのだ。そうすると何故か懐かしい気持ちが湧いて来て何か大事な物を無くした小僧になり、道や草木を分けて探したくなるので、早々と靴を履いて玄関の戸を押して歩き出し行く当ても無くさまよい進む。それが日課になっていた。
 滑り台と砂場だけがある公園を通って進む、緑色の石鹸の泡が流れるドブ川を通って進む、オタマジャクシとグッピーが泳いでいる側溝に沿って進む、シャッターが降ろされた駄菓子屋の前を眺めて進む。
 ゴォオン、ゴォオン、ゴォオン……
 道しるべを教えている様に重たい音は奏でた。それは合図を送っている音にも思えたが私には分からなかった。
「牧田さん、牧田さんですよね? 元気そうでよかったです」と私を呼ぶ明るい口調で女性が後ろから言ってきたので振り向いた。白くて清潔な格好をした看護師であった。ふと看護師の後ろに目をやると総合病院があった。
「二年前に退院してから調子はどうですか? 仕事中の事故で頭を強く打った衝撃で記憶が散乱していましたが……」
 お陰様で快調ですと答えて私は看護師に会釈して再び当てのない方向へと進んだ。そして最後に火の見櫓に到着した。鉄塔の金属のトラスで建てられた頭上には半鐘があった。この当てのない散歩の終末は不思議と何時もここで終わった。青緑として輝きのない半鐘は曇った空に良いお相手になっていた。

 老婦は布団の中でアルバムを抱いて冷たくなっていた。十一月の初めであった。昨日まで季節外れだというのに庭先にある小さい花壇に秋桜の種を植えていた。もっとも私は関心もなかった。その翌月、頭痛が土砂が流れる様にして私の頭を駆け巡り、続いてあの、ゴォオン、ゴォオン、ゴォオンとなる重音が響き渡った。水を一杯飲んでも痛みは取れなく倒れこんで畳に身体を預けた。するとだ、あの老婦が捲っていたアルバムが私の手にぶつかった。
 それにすがりたくなったのか、私は意味もなく捲りだした。古い写真が貼り付けられている。
滑り台の横にある砂場で遊ぶ鼻水を垂らした子供と若い女。緑色のドブ川に帽子を落としてべそをかいて泣いている少年とそれをなだめる女。側溝に虫かごと網を持ってオタマジャクシをすくっている少年とそれを優しく見つめる女。青いアイスを舐める少年と駄菓子屋の椅子に座ってアイスクリームを舐める女。アルバムの最後のページには火の見櫓の前で堂々と立つ青年と年をとった女が微笑んでいた。その写真を全て見終わった時、ゴォオン、ゴォオン、ゴォオンと鳴り続ける音は静かに消えていった。
 そうだ、思い出した。私はある民家の消火活動の任務に行った際に焼け落ちた柱に頭を打ち病院に運ばれたんだ……じゃあこの写真に映っている少年と女は……老婦の座っていた縁側に視線をゆっくりと送る。沈みかける太陽が塀の影を長くしていた。

 それからというもの私は庭にある小さい花壇を見つめては秋桜が咲く事を日々待ち続け、座っている。
 

半鐘

半鐘

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-23

Copyrighted
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