君の視線の先

帰宅部レギュラーの僕にとって、授業終了とともに鳴るチャイムは競技開始を告げるピストルの合図に等しい。あらかじめ荷物を詰めておいたリュックの中に、先ほどまで机に広げていたノートとペンケースも放り込めば、数十秒で帰り支度が整った。すみやかな帰宅には準備が必要不可欠である。そしてクラスメイトを背に、僕は教室をあとにした。
 時おり時計を確認しながら、駅までの最短ルートを足早に歩く。走らなくても電車には十分間に合う時間だったが、目的を確実に果たすためには余裕をもって着くに越したことはない。競歩の選手にでもなったような気分で僕は歩みを進めた。駅に着くとすでに電車は来ていた。ここは終着駅のため、電車はしばらく停車してから再び発車することになっている。
 車内に乗り込んだ僕は、いつもの席を探した。四人がけのボックス席に一人だけ座っており、その斜め向かいへ腰を下ろす。先に座っていた制服姿の少女は窓にもたれかかって外の方を向いていた。
毎日同じ時間の電車に乗っていれば自然と毎回同じような場所に座ることになる。彼女はいつも同じ席に座っていた。その周囲はたいてい空席のままなので、僕はその斜め向かい側を使っている。毎日のように顔を合わせているのに、僕は彼女の名前すら知らない。知っているのは、彼女がすこし不思議な行動をとることだけだ。
電車が出るまでの間、彼女はいつも何をするでもなく、ただ窓の外を眺めていた。ぼんやりとなにげない様子のようで、その視線は何かへまっすぐ向けたまま揺れることはなく、静かな熱を保っていた。殺風景な灰色のホームで何を熱心に見ているのか僕にはわからないが、その時の表情がどこか寂しそうに思えて、何度も盗み見てしまうのだ。
浮ついた気持ちに気づかれないように、僕は平然を装って小説を開く。学校ではなかなか落ち着いて読む暇がなく、電車内で読み進めようと思って持ち歩いているのだ。しかし帰りの電車ではなぜか目がすべって全然文字を追うことができず、一枚二枚めくっただけのページにしおりを挟む日々である。今日も今日とて、開いたページの最初の数行をもう何度も追いかけているのに、内容がちっとも頭に入ってこない。
発車ベルが鳴り、ゆっくりと景色が動き出す。彼女はまだホームを見ていた。電車が駅を離れたあたりになって、ようやく向きを正し、カバンから取り出した赤いイヤホンをして頭ごと突っ伏した。電車の振動に合わせて彼女の髪がさらさらとこぼれ、そのたびに黒髪の隙間から真っ白な肌とイヤホンの赤が覗いた。
 彼女はいつも僕より二つ前の駅で降りる。今日はリュックを枕にしたまま寝ていたのか、電車が停止する音であわただしく立ち上がった。その拍子に定期入れが落ちる。「あの、これ……」遠慮がちに声をかけるも彼女は気づくそぶりもなく、すでに降車したようだった。ええい、しかたない。僕は後を追って電車を降りた。
 初めて降りる駅のホームは僕の最寄り駅の数倍広かった。似たような制服の集団にまぎれそうになる彼女を見失わないように注意しながら、人波の間を抜けていく。幸いなことに彼女の歩きはそれほど速くなかった。すいません、と何度か声をかけた末にようやく振り返る。そういえば、正面からきちんと顔を見るのはこれが初めてだった。
「これ、降りるときに落としてましたよね」
「ああ、ありがとうございます」
「……あの、」
 定期を受け取りそのまま立ち去ろうとした彼女を、思わず呼びとめた。
「いつも、同じ席に座ってますよね」
怪訝な顔をされる。それもそうだ。僕らは一度だってまともに話したこともないのだから。それでも僕は、声をかけずにはいられなかった。
「俺、その斜め向かいにいつも座っていて」
「……ああ」
彼女の表情がいくらかゆるんだように見えた。
「どうりで見たことがあると思った」
よかった。下手したら存在すら認知されていない可能性もあったけど、どうやら視界には入っていたようだ。
「最初はよく見かける人だなあと思っていて、そのうち、ずっと窓の外を眺めているから気になって。こんな小さな駅のホームのなにがそんなに面白いんだろうって」
自分でも何を言っているのかわからなかった。それなのに何か話さなくてはと気持ちばかり急いてしまう。
「それで、」
「私の何を知ってるの?」
 恐ろしいほど冷たい声がさえぎる。ゆるんだと思った彼女の顔は、先ほどよりもずっときつく張りつめていた。すっ、と一気に背筋が冷えるのを感じる。
「私の名前も知らないような人に、個人的なことをご丁寧に一から話す義務はないよね」
 その時、僕はようやく彼女の目元が不自然に赤く腫れていることに気づいた。泣いていたんだ。そう理解したのは、一人取り残された後だった。

 午後三時になる。古い車体がきしむ音を立てながら電車は動き始める。前方遠くでホームのベンチに腰掛けていたあの人の姿が次第に近づいて、すぐ隣を追い越す。その一瞬、窓越しに彼と並ぶごくわずかな時間が好きだった。一呼吸すれば過ぎてしまうほどのほんの数秒。そのときだけ、私は彼の隣にいることが許される。
 友人の有紗に彼氏ができたことを、私は本人から聞いたわけではない。休み時間の教室で聞こうとしなくても耳に入ってくる噂話は、自分とはかかわりのない男女の話だったが、その日は珍しく友人の名前が出て来た。「昨日も二人で帰ったんだってさ」「どっちから告白したのかな」「それが有紗かららしいよ」「へえ、おとなしそうに見えるのに意外」「でもさあ、あの二人って接点なくない?」
誰と誰が付き合ったとか別れたとか、所詮私には関係のない話だ。だから有紗がクラスメイトの男子と付き合い始めたことも、たとえその人物が、私がただ遠くから見ることしかできない片思いの相手だったとしても、私にはもう、関係ない。

 しばらくの間、四人掛けの席を一人で利用することが続いた。時々学生やサラリーマンが席を埋めることはあったが、あの日以来斜め向かいの席に彼は姿を見せていない。この席を利用していないだけならいいけれど、もし私のことを気にして電車の時間を変えているのならさすがに申し訳ない気がする。たしかに向こうが唐突だったとはいえ、あの時の私の態度は、少なくとも直前にお礼を言った相手にとるものではなかった。今日も空いたままの座席を見て、罪悪感がぽつぽつと浮かぶ。そのとき、視界の端に人影が入ってきた。
「……ここ、座ってもいいですか」
 そんなことをわざわざ聞く人もそういないだろう。しばらくぶりに見た彼は、気まずそうな顔をして立っていた。私は、どうぞ、とだけ返した。
「この前はすいませんでした。急に変なこと聞いたりして」
彼は立ったまま、そう言って頭を下げた。
「いいから座りなよ」
と、私が言うと、ようやく彼は静かに腰を下ろした。わざわざ謝りに来るなんて律儀な人だ。名前も知らない、電車でしか関わりのない私のことをそこまで気にしなくていいのにとすら思ってしまう。
「私も、最近ちょっと嫌なことがあって、気持ちに余裕がなくて、よくない言い方した。ごめん」
 あの日私が発した言葉は衝動的に飛び出たものではなく、おそらくはっきりとした、相手を傷つけてやろうという意思のもとにあった。だから一方的に謝られても、正直居心地が悪い。
「だからもういいよ。私のことを避けてわざわざ電車変えているなら、別に気にしなくていいから」
彼の少しほっとしたような表情を見て、私もどこか、肩の力が抜けたような感覚になった。私はいつもの癖でホームに目をやる。色あせたベンチに、今日も変わらずあの人の姿はあった。
 たとえば、私がホームにいるあの人に声をかけていたら、何かは変わったのだろうか。こんなふうに、ぎこちなくでも話せたかもしれない。もしかしたらそれがきっかけで仲良くなれたかもしれない。見ているだけでいいなんて言い聞かせながら、迷惑になるかもしれないなんて言い訳をしながら、本当は怖がっていただけなんじゃないか。
 ゆるゆると進み始める車体。窓越しのあの人も、動き出せない私も追い越して、電車はスピードを上げていく。

君の視線の先

君の視線の先

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-23

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