かわいそうと思わない男

 男と女は別の生き物だとは昔から言われているとおりである。昨今では、男女の脳の違いから考え方の違いが生まれるといった本が書店に並んでいるのをよく目にする。はるか昔、男が狩りに出かけ、女が集落を守っていたときの名残が今も脈々と受け継がれているのだ。
 よく男の会話と女の会話の目的は違うと言われる。男の会話は、ある問題について自分の意見を言い合い、理解を深めたり、解決を図ったりするために行われる。その一方で、女の会話は発端人の気持ちをみんなで共有するために行われる。男が理屈の生き物なら、女は感情の生き物というのは、ほぼほぼそのとおりだ。目的が違うのだから、男と女の会話はよくすれ違う。それは時として致命的なほどにだ。
 女の感情に男が寄り添えず、不愉快な思いをさせてしまう。この話は会話に限ったことではない。男には女に比べて圧倒的に使われる頻度の低い感情がある。それが、「かわいそう」だ。
 幼い頃、男の子は、怪獣とヒーローが戦うテレビ番組を観るだろう。その中では最初、怪獣が大いに暴れ、町は壊されて人々は逃げ惑う。「これはやばくて強い奴がやってきた」と男は危機を感じる。人々が不幸のどん底に放り込まれる様を見て、その怪獣の強さ、残忍さが大きいことに恐怖するのだ。それをヒーローが倒してハッピーエンドを迎える。「やはり自分たちの仲間は強く頼もしい」と、自分もそんなヒーローに近づこうとなりきったりする。
 女の子も怪物が人々を不幸にし、それをヒロインが倒して、人々を救うテレビ番組を観るだろう。怪物が人々の心を操って、仲違(なかたが)いさせたり、絶望させたりする。「なんてひどい怪物だ。不幸にされた人がかわいそう」と同情する。しかし、ヒロインが、怪物をやっつけて、誤解は解け、人々はまた幸せになる。「ああよかったなあ」と安堵するのだ。
 この二つのテレビ番組は似て非なるものである。人々の脅威である怪獣、怪物を、人々の味方であるヒーロー、ヒロインが倒してハッピーエンドを迎えることに変わりはない。しかし、その最中に受け手が感じる感情は全く異なるのだ。
 これは、男が同情しない生き物だというのとは少し違う話である。あるアニメの中で、幼稚園児が騒動を起こし、親や周りの大人たちは翻弄される。この番組を観て、女は「振り回されてかわいそう」と大人たちに同情した。一方、男は「大変だなあ」と大人たちに同情した。男は同情するとき、「大変だな」「同情する」「無念だ」「残念だろう」と同情する。同情はしているのだ。しかし、このとき、これらの感情はどこか一歩引いている。当事者たちの大変な事態に対し、「わかるよ」と同情しているのだ。
 はるか昔、大きな獲物を相手に人間が狩りをしていたとき、親友が踏み潰されたとする。そのときに思う感情はきっと、「無念だ」だ。家族を遺して逝った親友に同情と哀悼を込めてそう思うだろう。でも、その親友の気持ちに入り込んで同調し、かわいそうと思うことはしないのではないか。そうしている間に、次にかわいそうなことになるのは自分かもしれない。一方で、女たちは相手の気持ちをより深く理解しようと、気持ちに同調し「かわいそう」と思う。集落の中で助け合うのに、相手のことを気持ちも含めてよく知ることは重要だ。
 現在、女は、自分のかわいそうな体験を女同士で話し、気持ちに同調してもらうことでストレスを発散している。しかし、同じことを男に求めた場合、そこにはずれがあるのだ。男はきっと同情してくれるだろうが、気持ちにシンクロはしてくれない。そこが気に入らない。「なぜわかってくれないのか」となる。
 男と女のすれ違いは、ずっと昔から続いていて、枚挙に(いとま)がない。男はここで一旦、もっと女の気持ちに寄り添ってみるべきなのではないだろうか。気持ちをシンクロさせてみるべきなのではないだろうか。そうすることで、自分にとってもより良い関係を女と築けるのではないだろうか。

かわいそうと思わない男

かわいそうと思わない男

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-23

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