誘蛾灯

 襟元を通り抜ける風が火照った頬を冷やしていく。一つ大きく息をついた。十月の夜はそれまでの日々の暑さが嘘のようで、ガラスのように冷えて透き通っている。もうすぐマフラーが必要になるかもしれない。だが、今はこの冷たさが優しい。ゆっくりとした足どりで浩輔は歓楽街の中を歩く。浩輔は酒には強くなかったが、今感じているような、火照った体を冷たい空気が刺す感覚はなかなかに好きだった。ガヤガヤとした喧騒も、どこか遠くにあるようにぼんやりとして、少し幻想的だった。ふとポケットの中が震える。どうやら妻からの着信のようだった。
 浩輔は今年四年目の社会人である。大学、院と出て、地元の化学メーカーに就職した。特にこの仕事がやりたかったわけではないが、一本道のエスカレーターのようにそこに収まったのだ。他の道もあったかもしれない。しかし、他の道を選ぶエネルギーは使わなかった。浩輔は、自分の人生になにか使命があり、そのために自分の能力と努力を捧げなければならない、と考えるような人間ではなかった。ただ自分の生活を続けるために金が必要で仕事をする平凡な人間なのだ。しかし、そんな浩輔も大切にしていることがあった。その一つが、妻と去年産まれたばかりの息子である。
 妻とは高校の頃からつき合い始め、十年の大恋愛を経て結婚した。十年の年月はやはり長く、決して平坦ではなかった。何度も山を越え、谷を越え、幾多の衝突を重ねたが、結婚という一つの通過点を越え、なお浩輔は妻を愛していた。結婚したときには、まるですでに長年連れ添った夫婦のようだと感じたが、妻を愛する気持ちに変わりはなく、一層愛しく思ったのであった。そんな妻との間に昨年男の子を授かった。まだまだ残暑厳しい九月のことであった。そのときのことはよく思い出せる。妻の陣痛は数日続き、いつ産まれるのかわからない不安の中、そのときは突然来た。終わってみれば、妻が分娩台に移ってから三十分ほどの出来事であった。そこには妻と自分によく似た男の子がいたのである。驚くほど小さな手のひらを触ったときには、壊してしまうのではないかという不安ばかりが大きかったのを覚えている。それから、長いような短いような激動の日々を過ごした。大変だ、大変だとは噂にはよく聞くが、実際にこんなに大変だとは思わなかったというのが本音である。二時間おきにミルクをねだる我が子に合わせ、妻と交代で夜中にも起きてミルクを与えた。その日々は確かに辛く仕事にも影響を与えたが、我が子はやはり可愛かった。元々仕事に対して熱意があった方ではないので、致命的なミスを犯さないようにだけ気をつけながら、二足の草鞋を履く生活を続けたのだ。その甲斐あって子はすくすくと成長し、先月には一歳の誕生日を迎えたのであった。今では夜にはぐっすりと寝て、最初の頃の苦労が嘘のようであるが、今度はまた別の悩みや苦労が現れて心配は尽きない。
 今日、浩輔は部の急な呑み会に参加した帰りであった。ポケットの中の震えは止まらず、浩輔に電話に出るように急かす。画面に指を滑らせ、浩輔は携帯を耳にあてた。
「まだ帰らないの」
 すぐに妻の不機嫌な声が飛び込んでくる。
「ごめん。課長の話が長くてさ。でも、もう終わったからすぐに帰るよ」
 宥める言葉をかけ浩輔はやり過ごそうとした。
「大地もまだ小さいんだからあんまり遅くなられるのは困るわよ。本当に早く帰ってきてね」
「わかったよ。それじゃあ切るよ」
 これ以上長くなるのは御免であったので、このままだとまだ続けそうな気配であった妻を制し浩輔は電話を切った。さっきまで遠くに聞こえていた夜の喧騒がやけに近く感じた。

 家の最寄り駅を出た浩輔は少し足を速めて歩いた。帰ってからさっきの電話のやり取りの続きを長々とするのは嫌だったのだ。駅から家まで十五分ほどの道のりだ。歩を進める浩輔に、襟元に同じ風は流れ込むが、酔っていたときに感じた気持ちよさを今はもう感じなかった。少し息が上がる。最近運動らしい運動はしていないなあと自分の怠慢を少し呪い、浩輔は歩を緩めた。そのときふと、なんとはなしに公園に目を遣った。外灯に大きな蛾が一匹舞っている。なぜかわからないが、浩輔もまたその蛾のようにふらふらと公園に入り込んだ。昼には子供たちの声で賑やかであろうその公園は、今はひっそりと水を打ったような静けさであった。自分以外に誰一人いない。ただ優しくも怪しいぼんやりとした光を放つ自分を誘い込んだ誘蛾灯と、自分と同じように誘い込まれたのか忙しくその周りを飛ぶ蛾が一匹いるだけである。急に夜の匂いがした気がした。感覚が鋭敏に、そして鈍感になるように、静かな秋の夜の匂いに包まれ、外灯のちらつきが聞こえた気がして、そして世界が遠くに行ったような感覚になった。酔いがまだ残っているのかもしれない。ぼんやりとした世界は心地よかった。自分が独り取り残されているようなのに心地よかったのだ。夢を誘うような蛾の躍りに魂が抜けたように浩輔は立ち尽くしていた。風が心地よい。襟元を擦る風の心地よさを感じる。透き通った夜が帰ってきた。触れると血が出るように鋭く綺麗な氷のような夜を感じる。どれくらいこうしているのだろうか、時間の進みが逆にぼんやりと遠くに行っている。確かな空間と不確かな時間の中に取り残された心はまるでそこにあるのが当然のように穏やかに波打っている。
 静寂を携帯電話の音が破った。浩輔ははっと我に返ったように家へと踵を返し、弁解を携帯に伝えながら再び家への道を急ぎ始めた。後に残ったのはそれまでと変わらぬ静寂と、いまだ外灯に舞う蛾のみである。

「遅かったじゃない」
 家に帰った浩輔を待ち受けていたのは、開口一番妻の小言であった。
「ごめん。途中で少し気分が悪くなって休んでいたんだ」
 浩輔は咄嗟に嘘をついた。公園での出来事はきっと妻には理解されないだろう、というより自分でもいまいちよくわからないのだ。
「飲み過ぎたの? 呆れた。電話でも言ったけど、大地もまだ小さいんだから困るわよ」
 妻の小言は止まらなかった。より激しく浩輔を責め立てることになった。
「本当にごめんって。あの課長の手前、ほら、な」
 言い訳になっていない言い訳をして浩輔はこの場を収めようとする。
「何がほらなのよ」
「ごめん。とりあえず風呂に入ってくるからさ」
 このままではいつまでも妻からの糾弾が止まないと考えた浩輔は逃げの一手を打つことにした。
「ちょっと、話はまだ終わってないわよ」
「ごめんごめん。後で聞くからさ」
 なお追撃しようとする妻をかわして浩輔は風呂に向かった。

 静かだ。風呂の中で浩輔は足を伸ばし、半ば仰向けに寝転ぶように風呂に浸かっていた。天井で光る照明を見つめていると、自然にさっきの公園でのことが思い出される。あれはなんだったのだろうか。湯気に少し遮られぼんやりとした灯りを眺め浩輔は独り言ちた。外灯に誘われるままに公園に入っていったこともそうだったし、その公園で佇んでいたときに感じた感覚もそうである。ぼんやりとしていて、それでいて非常に心地よく思えた。ぼんやりとした灯りの下でそのことを考えていると、揺れる二つの振り子が次第に同調するように感覚がシンクロし始めた。風呂の照明に舞う蛾を幻視する。あのときと違って今度は暖かなうねりの中にいる。全身を包み込み静かにたゆたう熱は、例えるなら胎児が眠る羊水の中であろうか。また時間が遠ざかる。全身の感覚が鋭敏に静かになる。霞がかった小さな宇宙に浩輔は独り取り残された。
 小さな雫が頭に落ちた。浩輔は風呂の湯を掬って顔を洗うと、もう一度拭って立ち上がった。体から零れる雫の感覚は感じなかった。

「もう少し自覚を持ってよね」
 風呂から上がった浩輔は妻の小言に出迎えられた。どうやら逃げ切ることには失敗したらしい。
「そりゃ少し飲んでくることはあまり言わないわ。会社のつき合いもあるでしょうし。でもそういうときでも家には小さな子供がいるっていうことを忘れないでほしいわ」
 どうやら今回妻は機嫌が悪いらしい。しかし、その内容に浩輔は少しムッとなった。
「別に忘れてるわけじゃないさ」
 つい言葉が出た。
「そういう言い方だとまるで僕が家族をないがしろにしてるみたいじゃないか」
 言って、しまったとも思ったが言葉は止まらなかった。
「大地が夜起きる頃には君だけに任せずに起きてミルクをやったし、今だってできるだけのことは手伝うようにしてる。それなのにその言い方はあんまりじゃないか」
「そういうことを言っているんじゃないの」
 やってしまった。妻との喧嘩で一番の手は反論せずに聞き続けることである。反論は悪手だ。妻の機嫌はより悪くなったようで言葉を続けてくる。しかし、今回の妻の言葉に引っかかったのは事実だ。自分が必要以上に悪者にされているという事実には納得できない。しかし、やはりそれでもその反論は失敗だったのだ。結局、お互いに言い合い続け、いらいらした状態で床に就いた。ガラスを雨が叩く音がする。明日のことを考えてさらに憂鬱になった。

 次の日、雨は上がらず昨日の憂鬱どおりの出社となった。妻の機嫌はまだ悪いようで朝もそんな顔をしていた。それでなおのこと憂鬱な気分は重くなったのである。そんな気持ちを引き擦りながら午前の仕事を進めていると、どうやら顔に出ていたらしい、課長が声をかけてきた。
「どうした、つまらなそうな顔をして。やっぱりあの後お前も来たら良かったじゃないか。楽しかったぞ」
 そう言って笑う。課長たちは呑み会の後、女の子の店に行ったようだ。
「はは、まだ子供も小さいですし、昨日も早く帰ってこいって怒られちゃいました」
「ああ、そうか。すまないすまない」
 つい課長にも攻撃してしまったようだ。昨日のいらいらはなかなかに重たいなと思った。しかし、浩輔は課長たちのようにそういう店に行くのは妻への裏切りのようで、気が進まないのも確かだ。妻が大事だということはそんなことで変わりようはないのだが、それで妻が嫌な思いをするのはやはり嫌な気がするのだ。そこで、ふと昨日の公園のことを思い出した。あれも小さな裏切りなのだろうか。自分があそこで呆けていたことで帰りが遅くなり妻が嫌な思いをしたように感じられる。そんなに長い時間でなかったはずだが、妻の催促があったのは事実だ。しかし、妻の言葉を思い出すと自分への糾弾は不当に大きかったのも確かだ。朝の憂鬱は一層重たくなった気がした。

 雨は帰りも降り続き、スラックスの裾を濡らした。憂鬱な気分は変わらずに家に辿り着いた。妻の話を上の空で相槌を打ち床に潜り込む。明日もこのまま憂鬱な気持ちで過ごさなければいけないのか。浩輔は自分の意外にセンシティブな一面を感じながら溜め息をついた。ガラスを叩く雨の音は止まない。

 浩輔は夜中にふと目を覚ました。時計を確認するとまだ三時半である。隣では妻が寝息を立てていた。神経質になっているからだろうか。少し伸びをする。そのとき、雨の音が聞こえないことに気づいた。カーテンをそっとずらし窓の外を見てみる。やはり雨は上がっているようだ。なぜだか急に外に出てみたくなった。妻を起こさないように着替え、静かに鍵を閉めて外に出た。湿り気を含んだ空気は澄んで冷たい。どこに行くでもなく浩輔は歩き始めた。冷たい空気はガラスのようだ。星の光を屈折し反射して輝かせてる。自分の足音もガラスの空気に屈折し反射して響いている。静かで柔らかく鋭い夜だ。浩輔はいつの間にかあの公園に辿り着いていた。前と同じように外灯の下に立ってみる。今日はあのときのように蛾はいないが、外灯のぼわんとした灯りはそのままで、静かにまたシンクロし始める。時間が長く不確かになっていく。夜が静かに鋭く立ち上がる。闇があって、灯りがあって、空気があって、地面があって、星があって、風があって、自分が立っている。風が心地よい。時間が不確かになるのと同じに、自分の境界線も不確かになるようだ。静かに空間に自分が拡がっていく。夜の闇に、冷たい空気に自分が溶けだしていく。心が溶けていくのだろうか。澄んだ空気に心が溶けて洗われていくのだろうか。透き通った心が光を屈折し反射して輝かせるのだろうか。なんだか小さなことでいらいらしていたことが、憂鬱であったことが嘘のように感じられる。まるで闇の中にそういった感情が溶けだして、希釈されていったようだ。夜の静けさが心にも静けさを運んできたようだ。静かに光と心がたゆたう。悠久に抱かれているのだ。それはきっと原初の記憶と似ている。本能が望んでいるのだ。いつの間にか蛾が一匹、灯りに誘われてゆらゆらと舞っていた。朝はまだ遠いが、星は、灯りは、輝いている。

 帰った浩輔は眠る妻にそっとキスをした。

 男はまるで夜の蛾のように、夜の町に自分の居場所を探して彷徨(さまよ)い歩くのかもしれない。ある者はひっそりとした静かに時が流れる場所で休憩し、またある者は夜の空を流れるように飛ぶことに自分の居場所を見つけるのかもしれない。それは決して居場所がないのではなく、ただ自分の心が解き放たれる瞬間を望んでいるのだ。男はどこまでも自由に焦がれ、その身を、羽根を()かれ続けながらも、利己的な本能に突き動かされるように飛び続けるのだ。そうすることで利己的な本能を鎮め、また人を愛することができるのだ、きっと。

誘蛾灯

男が止まり木で休むことは許してあげてください。

誘蛾灯

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted