Branch Point

1 Strayed

 ――私、日宮文乃は頭を抱えていた。
 右を見ても左を見ても人、人、人。熱のある壁が両脇にそびえ立ち、私の視界を奪う。
 おかげで自分がどこにいるのかすら分からない。
 平たく言えば、完全に道に迷った。そういう状況に私は置かれていた。
「……なんでこんなことになったのかな……」
 元はといえば、完全に自分が悪い。
 寝過ごしてしまったとはいえ、県下最大のターミナル駅まで来て、そして迷うなんて。
 親の事情でつい最近引っ越してきた私に土地勘などあるはずもなく、見事なまでに道を間違え、ダンジョンの罠に陥ることになってしまったのだった。
「はあ……」
 この状況、どうやって切り抜けようか?
 駅員さんに聞く……といってもどこにいるかも分からない。
 誰かに聞く……のは論外だ。人見知りの私がそんなことできるわけがない。
「どうしたらいいの……」
 力なくベンチに座り込み、溜め息を吐く。
 はあ、と息が舞った先に、すらりと伸びた脚が視界に入った。
 その先を見上げると、長髪の綺麗な女性が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「あの……大丈夫?」
「へっ?」
 唐突に声を掛けられ、思わず情けない声が出た。
 そんな私には構わず柔和な瞳の彼女は続ける。
「もしかして……道に迷った、とか」
「うぐ……!」
 図星だ。
 それを表情で悟った女性は、くすりと笑って「分かるよー。ここ、大きいもんね」と言った。
「親が転勤してきたばっかりで土地勘がなくって……」
「ありゃ、それだと余計にだねー。良かったら案内しようか?」
「えっ、いいんですか?」
 そうしてもらえるなら願ったり叶ったりだ。
 もちろん、と言う彼女に不思議な魅力を感じて、私は道案内をお願いした。

「――へー、十六なんだ。なんか大人っぽいね」
「そ、そうですか?」
 歩くこと十数分。私と女性はすっかり打ち解け、お互いのことを話し合う仲になっていた。
「だって何だか高校生にしては落ち着いてるし」
「うーん……人見知りなだけなんですけど、ね……」
 さっきから私のことをべた褒めしてくる彼女に、面映ゆくなってしまう。
 何だか胸の辺りがくすぐったくなる感じだ。
「あ、名前! 名前は何ていうの?」
「え? 名前……ですか?」
 いきなり脈絡のない質問を浴びせられて当惑する。
 しかしすぐに調子を取り戻し、答えた。
「ふ……文乃。日宮文乃っていいます」
「日宮……文乃ちゃん。そっか、日宮か……。うん、いい名前だね」
「……?」
 一瞬違和感を覚えたが、何事もなかったかのように、彼女は私に自己紹介をした。
「私は神坂千晴。よろしくね、文乃ちゃん」
 そう言って微笑む彼女の周りに、まるで花が咲いたかのような空気を感じた。
 それからまたしばらく歩き、ついに私が探し求めたホームへと辿り着いた。
「よ、ようやく着いた……!」
「お疲れ様ー。それにしても、こんな距離を歩いてきちゃうなんて、文乃ちゃんってすごい方向音痴なんだねー」
「うぐぅ……」
 返す言葉もないです……。
 ぐぬぬ、と声を上げる私に彼女が続ける。
「まあ、あなたが迷ったおかげでこうして私たちが出会えたんだから、それは感謝、だね!」
 この人、すごくポジティブなタイプの人間だ……。
 だけどそう言われて、なぜだか私もそんな風に思い始めているのが不思議だった。
 彼女を見ていると、私まで吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
 そんな彼女に見惚れていると、不意に彼女は自分のポーチから何かを取り出した。
「そうだ、はいこれ。お近づきの印に、受け取って」
 手に握らされたのは、長方形の紙とひと粒の飴玉だった。
「これ……名刺?」
「お仕事で使ってるのでごめんね。お話してて楽しかったから、またお話したいなあって」
「なっ……!」
 突然見せた彼女の屈託のない笑顔。
 頬がかあっと真っ赤になるのがわかった。
 私は照れてしまい、それから何も言うことができなかった。
 私といて……楽しかったのかな……?
 そんなことが頭の中を去来する。
「どう? 受け取ってくれるかな」
 さらに追い討ちの一言。
 出会った時と同じ眼で覗き込まれたら、断るわけにも行かなくなる。
「……は、はい。よろしくお願いします」
 結局私が折れることになってしまった。
 うぅ、卑怯だ……。
「ほんと? やったあ!」
 そんな私とは裏腹に、千陽さんはすごく嬉しそうだった。
 ……まあ、これでいいのかな?

「それじゃあ、またね」
「はい。さよなら」
 千晴さんと別れ、帰りの電車に乗り込む。
 吊り革に掴まって揺られる中、ふと受け取った名刺と飴玉を思い出し、ポケットを探る。
「あれは何だったんだろう……」
 運命、というか何というか……。
 ともかく彼女がいなかったら、多分私は一生あの駅から出られずじまいだったかもしれない。
 ――また今度、改めてお礼しないと。
 名刺の電話番号とメールアドレスを携帯の電話帳に登録して、飴玉を口に放り入れた。
 甘酸っぱい林檎の味がした。

2 Naughty

 彼女と会う機会は意外と早くやってきた。
 とある休日、最近人気の映画を観に行こうと件の駅までやってきたのはいいのだけれど、ここで一つ問題が発生した。
 あれ、私出口の場所知らない……?
「しまった……」
 完全に盲点だった。この前は千晴さんに案内してもらってわかった気になってたけど、よく考えたら一歩も駅から出てなかったんだ……!
 へなへなとベンチに座り込む。
 チケットの指定時間まではあと三十分。なんとか出ることはできるかもしれないけど、多分多分時間が足りない。
「八方塞がりだ……」
 こんな時に千晴さんがいてくれたらなぁ……。
「……ん? 千晴さん?」
 そういえば。
 スマホを取り出し、電話帳を開く。
「……あった!」
 神前千晴さん。名刺を貰った時に電話帳に登録してたんだった!
 これで万事オーケー。早速電話を掛ける。
『もしもし』
「あ、もしもし、私です! 日宮文乃です!」
『文乃ちゃん? どうしたの?』
「実は映画館に行こうとして例の駅まで来たら、出口知らないの思い出して……今、前と同じベンチにいるんですけど」
『あらあら、それは困った』
「あと三十分なんですよ……道案内、お願いできますか?」
『三十分? ……うーん、じゃあそこで待ってて! すぐ行くから!』
「へ?」
 それで通話が切れた。ツーツー、と耳元で電子音が鳴る。
 すぐ行く……って言ってたよね?
 ここは言う通りに待ったほうがいいのかな……。

 五分後、なるほど確かに彼女は"すぐ"やってきた。
「さ、行きましょ。映画館までなら歩いて十分は掛からないよ」
「早かったですね……」
「私、この近くに住んでるんだ」
 なるほどね。合点がいった。
「でもわざわざ来る必要あったんですか?」
「ふふふ。たまには文乃ちゃんの顔が見たくって」
「何ですかそれ」
 遠距離恋愛中のカップルじゃあるまいし。私にはそんなこっ恥ずかしいことは言えそうにもない。
 駅を出て千晴さんの背中を追う。
「そういえば何の映画を観に行くつもりなの?」
「私ですか? えーっと、たしかあの怪獣が出てくる、名前は……なんだっけな」
「ああ、今人気のやつだよね。私まだ見たことないんだよねえ」
 放り投げるように言ってから、彼女は唐突にとんでもないことを口走った。
「そうだ、私も一緒に見に行っていい?」
「え!?」
 一瞬自分の耳を疑った。
 この人はいきなり何を言い出すのか。
「いやでも席とか」
「ダメ?」
「……っ」
 甘えるような彼女の声色に、少しドキッとする。
 ちょっと可愛いかも……って、いやいや、相手は女の人だよ!
「し、仕方ないですね」
「やったー!」
 嬉しそうにスキップを踏む彼女を見て、思わず溜め息が漏れた。

 巡り合わせとは不思議なもので、なぜか私の隣の席が千晴さんになっていた。
「わー、すごい迫力」
「……」
 私は無言でドリンクを注ぎ込む。
「あ、あれ有名なビルじゃない?」
「…………」
 対する千晴さんといえば、私に話しかけるかポップコーンをもしゃもしゃと頬ばるのみ。
「ねえねえ文乃ちゃん、聞いてるー?」
「……………………」
 う、うるさい……。
 正直言って、映画を観ているときに話しかけられるのは苦手だ。どちらかというと私は集中して観たい派なのだ。
 というわけで、地獄のような千晴さんの呼び掛けは延々と続いたのだった。

「映画楽しかったねー」
「……まあ……」
 楽しかった、といえば楽しかったのだけれど。なんだろう、すごく疲れた。
 そんな私をよそ目に、千晴さんはやたら元気なように見える。
 どうしよう、ここは素直に迷惑だと言うべきか、言わぬべきか……。
「そういえば文乃ちゃん、ずーっと返事してくれなかったけど」
「へっ!?」
 まさにその悩んでいる話題を相手方から投げられるとは思いもしなかった。
「えーと……その、わ、私は……え、映画とか、黙って観たいタイプなので……そういう時に話しかけられるとうるさ、じゃなくて、えっと、気が散る、というか……うーん」
「ふふ、すっごい言葉選んでる」
 なんでこういう時にスラスラと最適な言葉が出てこないんだろう……。
「でもそっか、迷惑掛けちゃったね。ごめんね」
「いえ、そんなっ」
 しゅんとした顔をする彼女を慌ててフォローする。
「お詫びに何か奢ってあげるね」
「だからいいですって」
「えー、折角お姉さんが奢ってあげるって言ってるのにー。断ったら損だよ?」
「ぐぬぬ……仕方ないですね……」
 この人、どこかに断れないような雰囲気があるんだよね……。
 アイスを奢ってもらった。何だか少し悔しかったけど、すごく美味しかった。

3 ShyNess

「そうだ、この後空いてる?」
 帰り道。先に話しかけてきたのは千晴さんだった。
「予定はないですけど……どうかしたんですか?」
「文乃ちゃんと遊びに行きたいの!」
 にこっと笑う彼女の口元から白い歯が覗く。
「でも私、きっと迷っちゃいますよ……」
 極度の方向音痴の私に初めての街なんか歩かせたら、多分遭難するんじゃないだろうか。
「そこは大丈夫っ!」
 そう言って彼女は私の手を取り、しっかりと握り締めた。
「私がしっかり手を繋いでてあげるから、ね? お姉さんに任せてっ!」
「え……!?」
 握られた手から一気に熱が伝わる。それは瞬時に私の熱となり、融け合って一体となった。
 私の思考は止まってしまい、彼女が話す数秒がまるで数時間のように感じられた。
「え……な……!」
 思わぬ事態に語彙がパンクする。
 口をもごもごとさせていると、千晴さんは怪訝な目で私の目を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「えっ……ええっと……い、いや! ぜひよろしくお願いしますです!」
 ……あれ、今なんかおかしくなかった?
「そう? それじゃ行こっか! レッツゴー!」
「お、おー……」
 バレてなかったのかな……。というか、何だったんだろう、今の?

 その後は、二人で近くの店で買い物したり、食べ歩きしたり。
 その間も手は繋がれっぱなしで、あまりにぎゅっと握ってるから、手がふやけそうになって。
 人見知りでワンマンプレーの多い私だったけれど、こうして二人でいろいろする楽しさに気づけた。
「文乃ちゃん、笑ってるね」
「えっ、そうですか!?」
「うんうん。すっごい幸せそうだよ」
 思わず顔を覆った。ちょっと恥ずかしい……。
 その時、お腹の鳴る音が聞こえた。
「…………」
「…………」
 今度は千晴さんが顔を覆った。
「……そういえば、がっつり食べてなかったね」
「カフェでも行きますか?」
「いいねいいね! そうしよう!」
 するともう一度千晴さんのお腹が鳴った。
「…………」
「……もうやだ……」

 近くのカフェに入り、息を吐く。
「ふう。落ち着きますね」
「ねー。お腹いっぱい」
 注文で出てきた皿を食べ終えて、今は雑談しているところだ。
「そういえばさー、文乃ちゃんってもしかしたらお姉ちゃんいるんじゃない?」
「えっ、なんで知ってるんですか!?」
 私の肩が跳ね上がるのを見て、彼女はにやりと笑った。
「図星だね。てきぱき動く人で効率にうるさかったり」
「うぐぐ……」
「でもそれでいてとっても優しかったりするんだよねー」
「な、なんで……」
 狼狽える私の言葉を制して、彼女はその真相を語った。
「実はね、あなたのお姉ちゃん――夏花ちゃんと同級生だったんだ。懐かしいなあ」
「え……」
 ええーーーーっ!?
「あの時ね、あまりにも夏花ちゃんに似てる女の子がいたからびっくりしちゃって。それで話しかけて、やっぱりなあって」
「えー……それって……全部知ってたってことですか?」
「まあ、そういうことになるのかな? ……あ、でっでも、私だって確信があったわけじゃないし、そこはね?」
 どうも納得がいかない……。
「今度夏花ちゃんにも会わせてよねっ!」
「人の話聞いてますか!?」
 ダメだ。全く通じてない。
 この人とは長い付き合いになりそうだ……。

 夕暮れも良い頃合いになり、カラスも鳴き始めるような街の中、私は元の駅の方へ戻りつつあった。
「いやー、今日はめちゃくちゃ楽しかったよー。文乃ちゃんといると元気になれるよ」
「そうなんですか?」
「うんうん。文乃ちゃんから元気パワーいっぱい貰ってるよ!」
「はあ……」
 相変わらず千晴さんと意味不明なやり取りをする。
「……」
 会話が止まったその一瞬に、ふと千晴さんの横顔を見上げた。
 変なことばっかり言ってるけど……やっぱり綺麗な人だな……。
 ひとつひとつのまばたきや睫毛が揺れるのにも集中してしまって、思わず息が止まる。
 そのせいで他に意識が回っていなかったのか、いつの間にか千晴さんと目が合っていた。
「っひゃぁ!?」
「どしたの文乃ちゃん? 何か顔に付いてた?」
「い、いや、そんなことは……」
 狼狽えて赤くなる顔を手を出して隠し、彼女を制する。
 さっきまで見惚れていた顔を広げた指の隙間から覗く。綺麗な顔に浮かんだ綺麗な表情が怪訝そうな様子を見せた。
「大丈夫?」
「えっあっ、だ、ダイジョウブデス……」
 完全にテンパってる……。
 何とか息を整えて答えることができた。
「な、何でもないです。気のせいですからっ」
「そう? ならいいけど」
「さ、は、早く行きますよっ」
 小首を傾げる彼女の手を引きずって駅まで向かうのだった。
 そして、とうとう目的の改札へと辿り着いた。
「大丈夫? 送って行こうか?」
「大丈夫です。これくらいできます……から」
 私のことをわざわざ気に掛けてくれる千晴さんを押し留めて杞憂だと言う。
「その割には自身なさ気じゃない?」
「なっ……そんなことないです!」
 図星を付かれて素っ頓狂な声が出てしまった。方向音痴は一度来た場所でも迷いなく迷うのだ。
 この人、実は読心術でも持ってるんじゃ……?
「まあまあ、意地張らずにお姉さんに任せてっ」
「ぐぬぬ……」

 家に着いた頃には日も沈み、すっかり暗くなってしまっていた。
「ただいまー……」
「おかえり、文乃」
 お姉ちゃん――日宮夏花が出迎えてくれた。
 お姉ちゃんは私を見るなり、ふふっと思い出し笑いのような素振りを見せた。
「な、何よっ」
「別にー? やけに楽しそうだなって」
「…………」
 私、そんなに楽しそうな顔してたかな……?
 とりあえず夕飯を食べ、シャワーを浴びて寝床へ突っ伏す。
「千晴さん……」
 その名前を呟くだけで、あの綺麗な横顔が鮮明に蘇る。
 あの時感じた……あの感情は……一体何なの…………?

4 Intrusion

『それ恋じゃない?』
「は?」
 私はスピーカー越しの友人の声に呆れ返った。

 話は数十分前に遡る。
 私は頼れる友人の意見を聞くべく電話を掛けようとしていた。
 あれからいろいろと考えてはみたものの、恋愛経験の乏しい私には一生かけても解けそうにない難問だった。そこで詳しそうな人間に教えを乞おう、というわけだ。
「うん……七星なら何とかしてくれるかも」
 心当たりのある友人の番号を選択する。
 何回かの呼び出し音が鳴った後、目当ての友人が電話に出た。
『あい、どしたのー?』
「もしもし七星? ちょっと相談したいことがあるんだけどさ」
『おや珍しい。して、要件は? この七星様に何でも話してみなさい。えっへん』
 なんで上から目線なんだろう……。
「いやね、私の知り合いに関することでさ――」

 そして今に至る。
『いやいやでもさ、手を繋がれてドキドキしちゃったり横顔に見惚れちゃうなんてさ、それってもう恋みたいなもんだよー!』
「そうなのかな……」
『そーだよそーだよ! 全くー、ふみふみも隅に置けないなー!』
「違うと思うし、あとその呼び方やめてって言ってるでしょ」
『えー』
 でも……恋、か。もしそれが本当だったら、私は一体――。
『――あ、真志が迎えに来たしもう切るね!』
「うん。またね」
 通話が切れた。そこで重要なことを思い出した。
 すっかり相手が女性だってこと言い忘れてたね……。
「はあー……」
 携帯をベッドに放り出し、その場に倒れ込む。
「恋してるのかな、私……?」
 こんなの初めての感情だ。
 隣にいると心がふわふわして、離れていても顔が見たいって思えて――。
 思い出すだけで思わず頬が緩んじゃうし、手を繋いだりなんかしたら爪先まで真っ赤になっちゃうんだ。
 ……ダメだ、頭、混乱してきた……。
「……寝よ」
 今日はゆっくり身体を休めて気持ちを整理しよう。そうしよう。

 日曜日の朝。私を呼ぶ声に、寝ぼけ眼を擦りながら私はベッドを降りた。
 多分あの声はお姉ちゃんか……。
「はーい」
 リビングに出ると、予想通りお姉ちゃんが朝ご飯を作って待っていた。
「おはよー……」
「おはよう。朝ご飯できてるわよ」
 椅子に腰掛けて卵焼きに箸を付ける。
 うん。おいしい。いつも通りの味だ。
 その時、お姉ちゃんがおもむろに会話を始めてきた。
「そういえばさ、今日千晴がこっち来るから文乃によろしくってさ」
「あー……うん。……うん?」
 今のは幻聴? 今何とおっしゃいました?
「ごめん、もう一回」
「だからー、千晴が今日うちに来るんだって」
「…………」
 その言葉を何度も反芻する。そしてその意味を理解した時、持っていた箸が手から零れ落ちた。
「え……ええぇ!?」
「何よいきなり」
「だ、だだだって、何で私の家をっ」
「同級生だったんだから家くらい知ってて当然でしょうが」
 あ、そうか……。
 って、こうしちゃいられない! 部屋とかいろいろ片付けないと!
「ご馳走様でしたっ」
「お皿は片付けなさいよ。……まったく、ふふっ」

 自室に戻り、私は焦燥に駆られていた。
 どうしよう……早くしないと千晴さんが来ちゃうよね……。
「とりあえずこれは片付けられるしこれとこれも……」
 手当たり次第クローゼットに放り込み、まずは床を見えるようにする。
 ぬいぐるみはベッドへ、積み上げた教科書は本棚へ。結構あるなぁと感心する自分の裏で、情けなさを諌める私がいた。
 十分ほどすると、さっきよりはまだ見るに堪えるだけの見た目になった。
「ふう。作業終わりっと」
 間に合って良かった……。そこでふと思い出す。
 あれ? なんで私、こんなに焦って片付けしてたんだろう?
 たしか千晴さんがうちに来るから、それで汚い部屋とか見られたくなくて、ってそういえばなんで汚い部屋を見られたくないって思ってるの?
 それは千晴さんに幻滅されたくないからで……え、えええ……?
「はあ……なんでこんなこと考えちゃうのかなあ……」
 ――それ恋じゃない?
 電話越しに聞こえた七星の声が脳裏に浮かぶ。
 恋なの……かな……?
 もしそうだとしても、今の私の気持ちを証明してくれる人はどこにもいない。
「どうすればいいのよこんなの……」
 そう呟くと、部屋の戸を叩く音がした。
「文乃ー。千晴来たわよ」
「はーい」
 扉を開くと、千晴さんがにこにことして立っていた。
「文乃ちゃーん! 元気にしてたー?」
「わわっ」
 彼女はいきなり私の部屋へ一歩踏み出し、私の手を両手で強く握ってきた。
「…………」
 うう、やっぱり恥ずかしくなっちゃう……。
「どしたの?」
「何でもないです……」
「ならいいけど……?」
 こんな気持ち、千晴さんには知られたくないなあ……。
 それからしばらく、私たちは他愛もないことを話し続けた。
「そういえば千晴さー、昔は悪戯が過ぎて担任に怒られたこともあったよねー」
「あはは、そんなこともあったねー。でもあの人全然怖くないんだよねえ」
「根が優しいからなー」
 千晴さん、そういう一面もあるんだなぁ……。
 なおも二人は仲良さそうに話す。
「夏花ちゃんは今もテニスやってるのー?」
「たまにね。流石に高校時代ぐらい激しくはやってないよ」
「そっかー」
 ほんとに仲良さそうだなー。
 二人はどんな高校生活を送ってきたんだろう……。
 頭の中で妄想が膨らむ。
「ねえ文乃、聞いてんのー?」
「えっどうしたのお姉ちゃん!?」
「ダメだこりゃ……」
 いろいろ妄想してたら結構時間が経っていたらしい。ぼーっとしてた私が悪いだけだけども。
「……そうだ、夏花ちゃん。二人でちょっとカフェでも行かない? 久しぶりに二人きりで話したいこともあるし」
「え? ……まあ、いいけど。それじゃ文乃、留守番よろしくね」
「えっ、ああ、うん」
 そうして二人が部屋を去り、また私だけが一人取り残された。
「……はあ」
 二人ともどこのカフェに行くんだろう。二人きりで話したいことって何だろう。
 それに二人の高校生活ってどんな風だったんだろ……というかどんな関係だったんだろう……。
 まっ、まさか………!
「いやいやいや、流石にそれはないでしょ……」
 邪な妄想が去来した辺りで考えるのをやめた。まさかそんなわけがあるはずない。むしろあっちゃダメなやつだ。
「でも、私より仲良さそうだったな……」
 その時の私に芽生えた感情が、『嫉妬』と呼ぶべきものであることに気付くには、今の私にはまだ多少の時間を要したのだった。

5 Distance

 それから少しして、私は再び千晴さんとデート――もとい、件の駅周辺のお散歩に行くことになった。
 今日はお互いに行き先を二つづつ持ち寄ってのデート。私は胸を高鳴らせていた。
 待ち合わせ場所はいつもの駅の入り口。迷わないように慎重に道を確認しながら歩く。
「たしか私の記憶では……こっち!」
 一歩一歩を踏み締めるように歩いていたら、待ち合わせ時間に十五分遅れていた。
「す、すみません~!」
「ふふ。やっぱり遅れてきたねー。想定内だよ」
「本当にすみません……」
 嬉しいような嬉しくないような……。
「さ、行きましょっか」
「はいっ」
 千晴さんが歩き出す。その背中を走るように追いかけると、彼女が私の手を握ってくれた。
「……っ!」
 まただ……また、顔が赤くなっちゃった。
 そんな私の様子を見て、ふふっと彼女が笑った。
「笑わないでくださいよぉ」
「ごめんごめん」
「もー……」
 いたずらっぽい笑みを見せて、彼女は私の腕を引っ張った。
「そうだ……今日はさ、いい思い出にしたいね」
「はい、そうですね」
 しみじみと呟く彼女の横顔に肯う。その目は、何となく遠くを映していたような気がした。
「さ、早く行こう! 私のおすすめのカフェなんだ」
 次に見た時には先の表情は消え、いつもの千晴さんがそこにいた。気のせいだったのかな……?
「わわ、待ってくださいよー!」
 私の手に繋がれた手をしっかりと握り締めて、駆け出した。

 辿り着いたのは上品そうな雰囲気のカフェだった。
 内装やら装飾やら、全てがきらびやかで周囲から浮いた風に感じる。
「綺麗ですねぇ……」
「でしょ! 私ここの常連なんだ」
「そうなんですか」
 きっと千晴さんならこんなところもバッチリ似合うんだろうなぁ……。
 彼女の横顔と、そこからすらりと伸びた細い身体を眺めながらそんなことを考える。
 店員と話す彼女は私の視線に気付かない。それをいいことに、私はその身体を隅々まで観察することにした。
 メリハリのあるウエスト、モデルのように長い手足、そして私では到底及ばない二つの大きな膨らみ。
 私だって思春期なのだ。自身の身体に多少のコンプレックスを抱いている私にとっては、彼女のそれは羨ましいという言葉以外の何でもなかった。
 やっぱりこういうのを見せられると憧れちゃうな……。私もあれぐらい綺麗になれたらいいのに。
「……文乃ちゃん? 大丈夫?」
「へっ?」
 上の空に思考回路を回していると、突然千晴さんに肩を叩かれた。どうやらいつの間にか立ち止まってしまっていたらしい。
「えっあっ、大丈夫です」
「そっか……ふふふっ」
 私が応えると、彼女は少し含みのある笑い方をした。
「千晴さん? どうかしたんですか?」
「何でもないよ。さ、席に行こう」
「はいっ」
 そこで食べたご飯は、なぜかいつもより美味しく感じた。
「んー……美味しかったー!」
「文乃ちゃんってばがっつき過ぎだよー。あっという間になくなっちゃったよ」
「仕方ないじゃないですかー」
 店を出て、彼女と二人笑い合う。
 ふと空を見ると、空が仄かに曇り始めていた。
「涼しくなりましたね」
「ちょうどいい天気だね」
 肌寒くなった空気を感じつつ、私たちは次の目的地へ向かっていた。

「次は私の番ですね」
「ほんとに大丈夫? 迷わない?」
「今回ばかりは大丈夫です! 万全を期すためにケータイのナビ機能も使いこなせるようになりましたから!」
「そういう問題かな……?」
 しばらく歩くと、私が提案した店――密かに人気のアンティークショップが見えてきた。
「あ、あれですあれ!」
「へえー、文乃ちゃんってアンティークにも興味があるんだ」
「え、えっと、そういう訳じゃないんですけど……新しい発見があるかと思って」
 食事とショッピング以外の選択肢が思い浮かばなくて、苦し紛れに出した回答だっていうのは伏せておこう……。
「そっかそっかー、そういうことなんだねー。すごいよ文乃ちゃんってば」
 あれ? 何か違う方向に誤解されてる? ま、まあ、良いのかなこれで……。
 そんなことは露知らず、千晴さんは既に店内へ入ってしまっていた。
「あああ、待ってくださいっ」
 彼女を追って中に入ると、そこには不思議な空間が広がっていた。
 そこは完全に浮世離れした雰囲気で、まるでここだけ切り取られて時間を置いてきてしまったかのようにも感じさせる。
「すごいですね……こんなにいっぱい」
「ねー。何だか懐かしい匂いがするよ」
 暖かみのある店内を奥へと進む。照明は薄暗く、いかにもアンティークショップ、といった感じだ。
「ところで文乃ちゃん。何か買うものがあって来たの?」
「いや、そんな……ただ見てるだけでも楽しいかなって」
 すると、そんな私の声を聞きつけたのか、店の奥から年老いた女性が現れた。
「物との出会いは、全て一期一会じゃよ」
「ひゃ!?」
 虚を衝かれてしまい、両肩が跳ね上がった。そのまま背後を振り返ると、女性はさらに続けた。
「今見た売りもんが、次見た時には無くなっておるかも知らん。考え方は人それぞれじゃが、お嬢ちゃんのは勿体無いぞ。ふぉふぉふぉ……」
「…………」
 勿体無い、か。
 会話の切れ目に視線を落とすと、シルバーのネックレスが目に入った。
「……これ……」
「おや、中々お目が高い」
 試しに手に取った私を見て、女性は感嘆にも近いような声を出した。
「そりゃかなりの上物じゃよ。それは昔の――」
 自分のアクセサリーを見繕っているらしい千晴さんに見入っていた私の耳には、女性の説明が入ってくることはなかった。
 このネックレス……千晴さんに似合うかな?
「……ちゃん、お嬢ちゃん」
「はっ、はいぃ!?」
 しまった、話聞いてなかった!
「ふぉふぉ、そんなにあの女の子が気になるのかえ?」
「気になるっていうか……何というか……うーん」
 言葉に詰まって口をもごもごとさせる。
「皆まで言うな。素直なお嬢ちゃんにはこれを二つセットで特別に五千円で譲ってあげよう」
「ご、五千円……!」
 脳裏に雷撃が走る。つまり一個あたり二千五百円ということだ。値札の金額より大幅に割引されている。
 日宮文乃、人生の決断……!
「…………」
 どうする、私……! ここで買わなきゃ絶対損しちゃう!
 財布の中には十分な金額が入っている。だけどここで使えば次のお小遣いまで我慢しないといけなくなる……!
 千晴さんの方を振り返った。葛藤する私の事情など気にも掛けず、彼女は鼻歌を歌いながら売り物を吟味している。

 ――もし、千晴さんの首元に、私の選んだネックレスが掛かっていたら――。

「……そっか」
 答えなんて最初から要らなかったんだ。私は、私の意思に従うまでだ!
「これ、買います!」
「ふふ、毎度あり」
 五千円札を差し出して、代わりに包装されたネックレスを受け取る。
「よし……!」
「……あの娘を大事にしてやるんじゃぞ」
「あ……はいっ!」
 その後、自分の物を決めた千晴さんと一緒に店を出た。もちろん私の鞄にはネックレスの入った包装が二つ。
 第二のデートスポットである、夜景の綺麗な高台に向かって、私の心は走り始めていた。

6 Decision

 そして、ついにその時はやってきた。
 街を少し外れたところにある高台。目の前に広がる夜景は息を呑む程に輝いている。
「綺麗だねぇ」
「……はい」
 調べておいて良かった。ダイヤモンドのような光を見ていると、不思議とそう思える。
 ただ、今回の目的は――ここを選んだ当時の私がそうだったとしても――夜景を見に来るためではない。
「…………」
 後ろ手に包装をぎゅっと握り締める。
 他愛もない会話の中、話を切り出そうとタイミングを待つ。
「こういうのを見てるとさ、心が洗われるようだね」
「わかります、それ」
 あはは、と笑って会話が止まり、再びお互いに夜景を見つめる。
 ――今だ! このチャンスしかない!
「あ、あのっ」「あのさ」
 ――タイミングが被った!?
「ご、ごめんね」
「あ、いや、いいんです。千晴さんからどうぞ……」
 落ち着け私。まだチャンスならある。ゆっくりとその瞬間を狙えばいいんだ……。
「……そっか。えっと、ね……」

 彼女の言わんとすることも知らずに。

 私は、そんなことを思っていた。

「私ね、転勤することになったんだ……」

「っ………………!?」
 無音。周りの雑音は全てかき消され、私の思考は、一瞬にして白に包まれる。
 どう……して……?
 すぐそこにいるはずの彼女の輪郭がぼやけて、だんだん遠くへ滲んでいく。
 ネックレスを持った手が震えて、包装を握り潰した。
「ごめんね……どうしても、言えなかったんだ……」
 この膨れ上がる感情は何だろう。千晴さんがいなくなってしまう悲しみ? 今まで話してくれなかった怒り? いや、そのどれとも違うような気がする。
「文乃ちゃん……?」
 どうしてこうなるの? 神様は平等じゃなかったの?
 千晴さんといた時間はあんなにも楽しくて、キラキラ輝いていたのに。それが、どうして、どうしてこんな形で……!

 私は、あなたに恋をしていたのに――!

「……ごめんなさい……!」
「文乃ちゃんっ!」
 流れた雫を見られたくなくて、私は背を向けて走り出した。
「ふ――ちゃ――」
 遠くで彼女の声が聞こえても、決して振り返らずに。

 それから一週間が経った。
 未だに私の心は晴れず、悶々とした日々を過ごしていた。
「……これ、結局渡せなかった……」
 くしゃくしゃになった包装を見つめる。この袋みたいに、私の思考回路もぐしゃぐしゃに乱れている。
 こんな状態では、千晴さんに会う気にもなれない。
「……どうしよ……」
 絶望の底に在った私の意識を呼び戻したのは、階下からのお姉ちゃんの声だった。
「文乃。ちょっと来て」
 思うように動かない足を引きずり階段を降りる。
 リビングに出ると、いつにも増して真剣な面持ちをしたお姉ちゃんが立っていた。
「なに……?」
「千晴……今日、引っ越しだって」
「……そう」
 空返事が漏れた。正直に言って、今の私は何を言われてもそれがどうした、といった感じだ。
「じゃ……戻るね」
「――待って」
 ふらふらと背中を向けると、彼女はその肩をしっかりと掴んだ。
「……まだ何か用?」
「このままで良いと思ってるの?」
「だって……会えなくなるし……」
 目を合わせられなくて、顔を背ける。
「だからこそでしょうが! 今まで千晴と一緒にいた時間はどうなるのよ!」
「……それは……!」
 ――嫌、だ……。
 二人の時間はあんなに楽しかったのに、それが消えちゃうなんて……!
「それに……それにっ」
「それに……?」
 近づいたお互いの距離で、歯軋りの音が聞こえる。
「あいつのこと好きなんでしょ! その気持ちを無下にするなんて、あたしは絶対許さないから!」
「……なんで、そのこと……!」
 その考えを纏める前に、次の言葉が吐き出される。
「あいつはあの駅で待ってんのよ! 来るかも分からないあんたのことを! このまま関係を終わらせる気!?」
「っ……!」
 ――千晴さんが……待ってる……!? あの時、逃げ出して連絡も取らなかった私のことを……!?
 秘めていた鼓動が高鳴りだす。
「……今しかないのよ。早く行きなさい」
 ――そう……だ。もう一度、私の想いを伝えないと……!
「……ありがと」
 階段を駆け上がり、着替え、ポーチとネックレスの包装をひったくって飛び降りるように階下へ。そのまま玄関ドアを開け放ち、駅へと走り出した。

「まったく……乱暴ね」

「…………頑張りなさいよ」

「はぁっ、はぁっ、はっ……!」
 ただ猛然と疾走する私には、変哲のない一本道は永遠に続くかのように思える。
 息が切れ、喉はすっかり乾ききっているが、不思議と自身に限界があるようには感じなかった。
「もう……少し……!」
 ひたすらに走る。一分一秒でも早く彼女のもとへ辿り着かなければ。その想いだけが私を駅へと駆り立てる。
「……くっ……急がなきゃ……っ」
 足を振り上げて、降ろす。そんな単純な動作がこんなにも難しいとは、思いもよらなかった。
 何度も何度も躓きながら、息を荒らげ、己を極限まで鼓舞して、私はようやく辿り着いた。
「よし……第一関門は突破だ」
 切符を買って発車間近の電車に滑り込み、千晴さんの待つ駅へと発つ。
 揺られている間にも、はやる気持ちは抑えられずにいた。
『ご乗車ありがとうございました。まもなく――』
「……!」
 着いた。人と人との間をすり抜け、先へ先へと進む。
 階段は一段飛ばしで駆け下りる。恥も外聞もかなぐり捨てて、最後の一直線、千晴さんへと突き抜ける。
「千晴さーんっ!」
 気付いてほしくて、私は必死で叫んだ。
 振り向いた彼女は、驚いたような顔をしてこちらを見つめていた。
「文乃ちゃんっ……!」
「よか……った……間にあっ……た……」
「来てくれないかと……思った……」
 彼女の瞳は潤み、細部に注目するとその指先は微かに震えていた。
「はぁ、はぁっ……ちはる、さんっ」
 息切れで声が上手く出ない。髪についた汗を拭いつつ、ポーチに手を掛ける。
「……これ……千晴さん、に……!」
 震えた手と手が包装をやり取りする。
「この包装……あのお店の……!」
「千晴さんに……渡したくって……あの日……」
 彼女の目が見開かれた。
「開けてみても……いい?」
 無言で頷き返す。
 紙が擦れる音と共に、私の見立てたネックレスが取り出される。
「……!」
「……私と、お揃い、です」
 首元から同じものを引っ張り出して見せてみせる。
「ほんとは、あの時に渡すつもりだったんですけど……」
 あそこで動揺してしまった自分がすごく悔しい。でも、だからこそ、私はもう一度ここに帰ってきたんだ。
 本当の想いを、本当の心で伝えるために。
「あのっ……そのっ、私っ」
 これを逃したら二度と会えないかもしれない。あの店の主人の声が蘇る。
 絶対にここで言わなきゃ――!
「私……その、えっと……」
 固く結んだ握り拳をさらに握る。
 対する千晴さんは、真剣な面持ちで私の言葉を待っている。
「……っ」
 何度も何度もその後を言おうとしても、声が震えて思い通りにならない。
 ええい覚悟を決めろ文乃! ここは一思いに――!
「すぅー、はぁー……よしっ」
 深呼吸で息を整える。準備万端だ。
「――私!」

「千晴さんのことが大好きなんです!」
「っ……!」

 言えたっ――!
 膝が笑うのを我慢し、次の言葉をせり出すように放つ。
「だから、えっと、その……」
 ああダメだ。緊張しすぎて全部吹っ飛んだ……。
「……ってた」
 その時だった。千晴さんが微かに何かを呟いたのは。
「ああもう私ってば……えっ?」

「――待ってた。その言葉、ずっと待ってたんだよ」
「それ……って……」
 私のことが……好きだった……ってこと……!?
 その言葉が発せられる前に、私の唇は柔らかなもので塞がれた。
「っ……!?」
 お互いの熱が唇を通じて入れ替わる。重ね合わせるたびに、湿った感触が何度も伝わる。
 このまま、ずっとこうしていたい。
「……っ、はぁっ……」
 しかしそんなことが許されるはずもなく、私が唇を離すと、彼女は少し名残惜しそうな表情をした。
「……私も、文乃ちゃんのこと、大好きだよ……」
「っ!」
 何だろう、これ。今までに感じたこともないような感情が胸の奥から湧き上がってくる。
 悲しくなんてないはずなのに、どうして涙が溢れてくるんだろう?
「っ……うぅ、千晴さん……」
「……文乃ちゃん」
「ひゃっ!?」
 突然何かが私の身体を包んだ。すぐにそれが千晴さんに抱き締められているのだということが分かった。
「えっ、ちょ、その」
「……長かったね、私たち」
 その一言で、私の中で抑えていた何かがぷつりと切れてしまったような気がした。
「ふぇっ、ぐすっ、私、ずっと……っ!」
「よしよし、大丈夫だよ……」
 千晴さんに出会ってからここに至るまで、作り上げてきた色んな思い出が一気に溢れていく。
 そのどれもが、宝石のようにキラキラ輝いていて――。
 あの日、あの時、あの場所で貴方に会えていなかったら……なんて、今は考えたくない。
 私はただ、優しい香りと温もりに包まれて、この上ない幸せに酔いしれていた。

Epilogue

「――そういえば、ね」
「?」
 ひとしきり泣いて気持ちもすっかり落ち着いた頃、千晴さんがぽつりと何かを口にした。
「はい、これ」
「これって――」
 そう言って手渡されたのは、私が持っていたものと全く同じ包装だった。
 ということは、つまり――。
「……千晴さんも私の分を探してたってことですか?」
「そういうこと。いいから開けてみてっ」
 何だか腑に落ちない。まあ、いいのか?
 言われた通りに包装を開けると、中からは銀の指輪が出てきた。
「指輪……ですか」
「えへへ、私とお揃いだよ」
 彼女の指にも全く同じものがはめられている。
「……サイズ大丈夫なんですかね」
「うーん、七割くらい賭けだからねえ」
 まったく……と呟きながら自身の左手で試すと、狙ったかのようにそれは薬指にフィットした。
「ビンゴっ」
「エンゲージリングじゃあるまいし……」
 色々と納得行かないところもあったけれど、彼女の笑顔を見ているとそんなことも吹き飛んでしまうように思えた。
「ほんとはね、いつでも文乃ちゃんを思い出せるように……って買ったんだけど、文乃ちゃんがこれくれたから、二倍だね!」
「ふふ……そうですね」
「本当に嬉しいなあ」
 この人を好きになって良かったと、今改めて感じた。
 その時、ひとつ疑問を思い出した。
「そういえば、なんでお姉ちゃんが、私が千晴さんのこと好きだって知ってたんですか?」
「っ!」
「というかそもそも、お姉ちゃんと千晴さんの関係って何だったんですか?」
「っ!?」
 千晴さんが凍り付いた。
 何かやましいことでもあるのかと目を細める。
「ふ、文乃ちゃんっ……世の中には知らなくてもいいことっていうのが」
「ダメです。全部教えてください」
「……ひとつずつ話すね……」
 千晴さんが家にやってきたあの日、お姉ちゃんを連れ出して密かに相談していたこと。高校卒業の時にお姉ちゃんが親友だった千晴さんに告白するも、敢え無く玉砕したこと。
「つまり全部仕組まれてたってことか……」
「ま、まあ、転勤するのは本当だから、ねっ?」
「うう……納得行きませんっ!」
 その後も、道端の縁石で他愛もない話を繰り返したが、時間は有限で残酷だ。
「そろそろ行かなきゃ」
「……そう、ですか」
 このまま彼女を送り出せば、しばらくは会えなくなる。
 そんなことは頭では理解しているはずだったけど、気持ちはそこまで大人ではないらしい。
「そんな悲しそうな顔しないでよー。……そうだっ」
「っ!?」
 再び唇と唇が触れる。今度は短く、しかし強烈なキスだった。
「……千晴さんの、ばか……」
「文乃ちゃんってば、照れちゃってー」
 からかった彼女を見て、少しムッとした。
「……一段落ついたら必ず帰ってくるからさ、それまで待っててほしいの」
「……はい」
「私たちはこの指輪とネックレスでいつでも繋がってられるから大丈夫! ね、そうでしょ?」
「……はいっ」
 彼女は頭を撫でて、にっこりと笑ってくれた。
 そして、最後の一言を言うために、ゆっくりと深呼吸をひとつ。

「……それじゃあね。またこの駅で会おうよ」
「……はい! 絶対、またここで――!」
 私は遠ざかる彼女の背中をただ立ち尽くして見ていた。

 ――私、日宮文乃は大きく成長した。
 これからも色々なことがあるだろうけれど、今は千晴さんがいる。だから乗り越えられる。
 そうして大人になったら、千晴さんの住む街へ引っ越そう。そして二人きりで生活して、そして……。
 そうやって、幸せな人生は続いていくんだ。この先も、ずっと。

Branch Point

Branch Point

【※注意:この作品には百合(女性同士の恋愛)描写が含まれます】 日宮文乃は後悔していた。 たった一つ電車を乗り過ごしただけで、こんなにも迷ってしまうなんて。 「はあ……どうなっちゃうのかな……」 そんな時、一人の女性が現れて文乃を助けてくれた。 文乃は妙に彼女のことが気になって――? ーーーーーーーーーーー ※この作品はtaskey様に載せているものを転載したものです こちらでは初めまして!洛葉みかんといいます。 百合っていいですよね。うん。 Twitter:@mikan_leafeon

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 Strayed
  2. 2 Naughty
  3. 3 ShyNess
  4. 4 Intrusion
  5. 5 Distance
  6. 6 Decision
  7. Epilogue