ママといるのがつらい
まだ薄明かりの残っている寝室で、父は、外出用の明るいベージュのワンピースをわたしに着せた。これが一番古い記憶である。この時わたしは二歳半であった。外出用の服を着たのは、相馬市の産院で、第二子を出産した母親のもとへ向かう為だった。他にも、幼い時分の様々な出来事をよく憶えているのだけれど、辛い思いというのは、特に記憶に残るものなのかもしれない。
傍目には全く分らない為に、誰にも知られることなく、わたしは誕生して間もない頃から、母を始めとする肉親から精神を支配され、肉体的虐待も受けていた。それ故心に深い傷を負うも、その傷は放置され、生きづらさを抱えながら生活することを余儀なくされていたのである。その為、集団生活に入るのと同時に、数々のいじめに遭い、さらに深く傷ついた心は、病を発症してしまった。
ところが、容易に這い上がることのできない泥沼に陥りつつも、いくつかの貴重な出会いに恵まれ、其処から抜け出すことができたのである。
そのようなことから、わたしの体験を全て明るみにすることが、継続して受ける精神的・肉体的虐待の為に、生きづらさを感じるようになり、追い詰められている子供がいるのだという事に、周りの誰かが気づく為のヒントになるのではないかと考えたのである。
それと、心も体も、窮地に陥った子供たちに、どんなに苦しい時でも必ず抜け道があるのだということを、忘れないでほしいと思ったのである。
一
当時の田舎では、出産時に産婆さんにとりあげてもらうというのが珍しく無かった。わたしも周りの子供たちと同様、小さな産院で産声をあげた。世の中が何とはなしにざわめいて、人々が忙しなく行き交う師走の事である。産院は福島県相馬市内で、母の実家近くにあった。
母が出産したのは相馬だけれど、嫁いだのは双葉郡浪江町である。
1957年の早春、文金高島田に角隠しをした母が、浪江駅から披露宴会場の百合屋旅館へむかう時は、冷たい霙であった。
そうして、その年の暮にわたしは生まれた。
赤ん坊の時分の記憶は無いので知らずに成長したが、わたしは生まれると間もなく、母の手により相当な虐待を受けていたのである。その事が分ったのは大分後になってからだ。日常的に行われていたそれは、例えばこのような事である。
「汚れたおむつを洗うのはもう嫌で、早く解放されたい、と思ってたの。だから、早く取ってやろうと思って。一歳の誕生日がきた頃には、もうおむつはしてなかったし、あんたはちゃんとおしえてたよ。」
わたしが十代の頃に、母が自分の手際の良さを自慢するつもりで、この話をよくしていたのだが、排泄のしつけは普通、満二歳頃から始めるのである。そうして赤ちゃんのためにもその方が良いのである。
わたしは生後七カ月の時に、股関節に先天性の障害が見つかり、およそ60㎞離れた平市(現在は福島県いわき市平)で、石膏のギプスで股関節を三カ月間固定するという治療を受けている。この障害は先天性臼蓋不全股関節脱臼というもので、わたしの場合は、骨盤と大腿骨の骨頭との間に本来は有る筈の臼蓋が無く、さらに右側大腿骨の骨頭が、骨盤のなかに納まっていない為、大腿骨の方が、骨盤の外側を擦るかたちで上に向って僅かにずれていた。左側は僅かながら臼蓋が形成されているも完全な状態ではなかった。つたい歩きを始めた時に、脚運びが不自然だったので家族が気付いたのである。ギプスで固定したのは脚の長さを揃える為だ。右脚が左脚と同じ長さになるまでの間、左脚を固定させたのである。
わたしがギプスを着けている間、母は毎日のように汽車に乗り、平市の病院に通ったという。この時には母にも心労があったと思う。
けれども、何事につけ己の気分を優先し、美醜を基準として、かける温情の度合いを変化させていくのが母である。
従って、長さが不揃いなわたしの脚を目の前に突き付けられ、お医者様に指摘された瞬間、相当な落胆を覚えたであろうと思う。
それまではわたしを抱くなど、可愛がってくれていた義妹の桔梗から、
「こんな岩みたいなのは重くて抱けない。」
と言われた時にも、余程の衝撃を受けたらしく、そのような周りの冷淡な態度に心を痛め、母は後に、繰り返しその話をわたしに聞かせるのであった。その話が真実であれば、わたしを取巻く大人たちは、それぞれが自身の気分を優先して暮らしていた可能性が高くなるのである。
わたしが治療を受けた期間は、夏から秋の初めにかけてであった。
1958年の事で、むろんエアコンは無い。赤ちゃんとしては暑さと重さに耐えなければならず、身動きも不自由であったろう。そこで一歳の誕生日の前におむつを取る事ができたということは、ギプスがはずされた直後、つまり生後十カ月頃からしつけが始まったと考えられるのだ。
殆どの人はこの事を知らないけれど、わたしの母はストレスが充満すると、突如握りこぶしを作って、ガッツポーズの姿勢をとり、頭の先から突き抜けるような、ヒィーッともキィーともつかない奇声を発した後に、キンキン声で喚きたて、そこへ暴力が伴うこともある、所謂キレル性格なのである。とはいえ、母にしたところで、好んでそのようになったのではない。そこには然るべき事情があったのである。
ところで生後十カ月の赤ちゃんの発育状況だが、ハイハイやつたい歩きはするも、二足歩行はしていない。簡単な日常語を理解はするが、会話はまだできない。個人差が大きいのではっきりと言い切ることはできないが、言葉の発達の早い子供が、パパ、ママ、ブーブーなど、意味のある単語を発し出す月齢である。なので、例え障害がなくても零歳の時にこのようなしつけを始めることは、赤ちゃんの脳や身体の発達の段階にそぐわないのである。従って、わたしが受けた肉体的・精神的ストレスは相当なものだったと想像できるのである。その当時を知る従業員の一人が、わたしの泣き方が激し過ぎていたたまれないので、耳を塞いでいるしかなかったと話していた。そのことから、酷い虐待が行われたことが分る。その証拠と思われるのが、生まれた時には無く、思い当たるような病気には罹っていないにも係わらず、腸に現れた後遺症である。このように、母の都合を強いられ、戦闘地で暮らしていた訳でもないのに、わたしは自分の人生を生きることを許されないのだった。
母は自身の嗜好と、その時の気分を最優先し、物事を決めるという遣り方を貫いている人である。
例えば、子供が高熱を出して苦しんでいる時に、早く良くなって欲しいと感じれば一生懸命に看病をする。その一方で、自分が産んだ子供であっても、顔立ちや肉体、身体能力、性格等に僅かでも気に入らないところがあれば、受け入れるということはしない。母にとって一番大事なこと、それは今の瞬間の自分の気分に従うことなのである。それで、例えしてはいけないことであっても遣ってしまうのだ。
そうして特にわたしに対して、自分とは別の人格を持った一人の人間であるという解釈をすることはできないのだった。その為、わたしは常に母の所有物として扱われていた。例えば、母がわたしを可愛らしく見せたいと感じた時には、洗練された高価な服や小物を身に付けさせる。世話を焼くのが面倒だと思えば、遠くへ追いやって育児放棄をするという具合である。その時母は、自分が悪いことをしているとは全く感じていない。むしろそれが当然であり、自分は正しいと思って遣っているのである。
他にも、わたしが自分の人生を生きることができなくなった理由はいろいろとあった。姑や小姑たちと母の関係が非常に悪かったというのもその一つである。
隣町の双葉出身である父方の祖父は、単身異国の地リマに渡り、二十代の全ての歳月を其の地で費やして働いた。そうして、其処で手に入れた資金で、浪江の地に店舗兼住宅を設けた。1920年の事である。その後二代目として跡を継いだのが父であった。
母が嫁いだばかりの頃には、祖父母と叔母の桔梗、他に従業員の一人が同居していた。そこへ、同じ町内の歯科医院に嫁いだ伯母のあやめが頻繁に訪れ、近くに住む未亡人の伯母さくらが、食事と入浴の為に娘の奈美を連れて毎日来ていた。このような環境のなかに入った母の務めは、全員の食事の世話を始め、家事全般を担う事であった。桔梗は家事の手伝いを殆どせずに、花嫁修業のかたわら、遊んでやりたいと感じた場合に限りわたしを人形のように可愛がった。祖母と父は店に出ていたという事もあって、家事や育児を手伝ってはいない。そのような家に在って、母は生まれ育った環境とは全く逆の境遇に身を置いている事から感じる辛さよりも、この結婚が自分の本意ではない事のほうにいらだち、ストレスを増幅させていった。このように、わたしが生まれおちたのは、大人たちの関係が良くないうちだったのである。
そして伯母のあやめは、わたしに対し、直接悪影響を及ぼした。
例えば、わたしがあやめ伯母の家を訪れた際に、行儀が悪かったりすると、直接わたしに注意をするのではなく、その旨を眉間にシワを寄せながら母に告げ、しつけが成っていないと、わたしの前で母を叱るのであった。なので、わたしはその度に、小さな胸を締め付けられるような思いを味わわざるを得なかったのである。あやめ伯母は、母が着ている服にも干渉していたのだが、縄編みの藤色がかったピンクのカーディガンを着ている母に向って、
「いい年をしてピンクなんて着て。」
と、顔をしかめて責めるのだった。この頃母は二十代後半だったのだが、傍で聞いていたわたしは、そのカーディガンを着ている母が好きだったので悲しくなった。他にもあやめ伯母の内政干渉は、うちの家族全体に対して行われていたので、枚挙に暇がない。
このように、嫁と姑、小姑たちとの間が円満ではなかったので、家の中は揉め事が絶えなかった。その為にうちのなかの空気はギィギィと不協和音を奏でていたのである。
紹介された母を見初めて結婚の申し入れをした父は、結婚式を挙げた直後に、母の恐ろしいヒステリーに気が付いた。それからは母を怒らせないで暮らす事を第一義とした。もともと気の弱い性分の父は、争い事は嫌いである。なので、母と姑や小姑たちとの諍いには関係しないという立場を貫き通した。そうなると母は、自分を擁護してくれない夫に対しても腹が立ち、さらに不満を募らせた。このような事を繰り返している環境だと、一番弱い立場にある幼い子供に負荷がかかるのだという事実に気づく人は、誰もいなかったのである。店舗兼住居は浪江町の商店街にあり、隣近所との付き合いもあったのだが、やはり周りの大人達も、わたしの置かれている立場については何も知らなかった。それは表向きにはうちの人達は皆、常に柔らかな笑顔をつくって、愛想良く振舞っていたからなのかもしれない。
母方の克実叔父が何度も語っていた、こんなエピソードがある。母は大抵おしゃぶりを与えていたが、ある日わたしは、どうしてもピンクのでなければ嫌だと駄々をこね、泣き続けたことがあったそうだ。その時は夜であったにも拘らず、母は薬局に買いに走り、ピンクのおしゃぶりを与えて泣き止ませた、という話である。つまり、今あるもので我慢をさせて、抱く、おんぶをするなどをしてあやすということはあまりしなかった、という意味である。常に手間のかからない方を選択していたのであった。
だがこのような育児の仕方を続けると、スキンシップの機会が減ることになる。子供の寂しいという気持ちはおしゃぶりで誤魔化されているだけである。従って孤独感は解消されず、子供の心は安定しづらくなる。さらに、泣けば何でも手に入ると思わせるような育児の仕方になっているので、子供は正しい自制心を身につけることができなくなる。母がわたしに対して遣っていたのは、このような育児の仕方だった。だが非常に忙しいのでそうせざるを得なかった、という訳でもないのだ。
弟が生まれてからのことである。
「世間では自分の子供は皆平等だというけど、あたしはそうは思わない。あたしは恒実が一番好きだ。」
と断言して憚らなかった。そうして人任せなどにはせず、全て自分の手で丁寧に育てたのだと自慢していた。
幼児の世界は殆ど、母親か母親代わりの人物が全てである。
大抵の子供がそうであるように、わたしも母が大好きだった。けれどそこで、親など育児に携わる者が子供に序列をつくると、一番にしてもらえなかった子供の、親などに対する想いは片想いになってしまう。さらに育児に携わる者が、その時々の気分や都合を優先すると、人格の基礎が創られる大切な幼児期に、子供との間にしっかりとした心の絆をつくることができなくなる。すると心の拠り所のない、精神的な意味に於いて、不安定な人間が出来上がってしまうのである。このようにわたしを取巻いていた環境が、家族がお互いに助け合い、温暖な心の交流があり、当たり前に機能している家庭とは異なっていたのだ。
母はわたしの世話も一生懸命にやったと自負しているのだが、わたし自身はそれをあまり感じ取ることができなかったので、こちらには伝わらなかったのだと思う。母がしたことは、母自身が遣りたいと思ってしたことであり、わたしが本当にして欲しいことではなかった。幼いわたしが望んでいたのは、暖かい母の胸に抱かれながら、母の優しい声を聞くことや、笑顔を見ることだった。けれども、弟が生まれてからは、母を始め母方の祖父母など、周りの大人たちの都合をそれまで以上に優先するものとなったので、おもに精神的な意味に於いて、わたしの暮らしはさらに過酷なものとなっていったのである。
二
ある日突然、着物に羽織姿の母方の祖母クミが訪れ、嫌がるわたしを無理矢理連れ去って行くということがあった。二歳の頃なので断片的な記憶しかないが、その時の絶望的な哀しさや恐怖は、はっきりと憶えている。
母と祖母はわたしを押さえつけて、浪江駅へ向かったのであるが、その時わたしは、小さな駅舎や、ホーム中に響き渡るほどの大きな声で泣いて、お家に居たいと母に訴えた。ところが母は、わたしの願いを完全に無視したのである。自分が何故、突然連れていかれるのか、理由は知らされていなかったので、母と祖母の行為は他人がわたしを誘拐するのと同じであった。目線とほぼ同じ位置にある車輪の脇から白い蒸気が勢いよく出ている。精神的な意味では、強力な手綱を首に巻かれて引き摺られているようなものであったから、力強く機関車が入ってきた時、その車輪がわたしを襲うために迫って来るような感じがした。その瞬間の心情を言葉で言い表すのは難しい。最大級の恐怖と絶望だ。わたしは力いっぱい母にしがみついた。ところが祖母と二人がかりで無理矢理引き剥がされ、デッキに押し込まれて汽車が発車したのである。母の傍から永遠の彼方へと持って行かれる、そんな感覚であった。頭が混乱し祖母に抑え込まれたまま、わたしの心は深い悲しみの底に沈んでいった。この時、わたしは自分なりにかなりの抵抗を試みたのだが、駅員も他の乗客も誰一人として事態の異常性に気づいてくれる人はいなかった。尋常ではない泣き方をしているのであるから、声をかけてくれる人がいてもよさそうなものだったのだが、そのような人は皆無であった。
母と祖母のクミは、わたしが満五歳になるまで、このような行為を繰り返したのである。後に取り返しがつかなくなるとは気づかずに。
相馬の祖父母の家は、浪江から40㎞余り離れていた。そこへ拉致同然に連れ去られ、祖父母はわたしと遊んでくれる訳でもなく、家に帰りたくても、自力で帰る術はなかったので、この時のわたしは、牢屋に入れられたのと同様であった。母が迎えに来てくれるまで、恐怖心と不安感と孤立感を抱えながら、じっと我慢をして、ただひたすら待つより他はなかったのである。
母方の祖父母のところは、幼児のわたしにとって非常に恐ろしい場所であった。祖父は相馬の旧家の生まれで椎名 実と言う。この頃は弁護士として自宅に事務所を構えていたが、その前は、主に西日本で、県警察本部長等を務めていた。その後警察予備隊に入り、横須賀市久里浜に設置された保安大学校の学長を務めた後、第四管区隊福岡駐屯地での任務を最後に、ある事件に巻き込まれた為、辞職したのであった。
そのような祖父の風貌は、悪役二枚目俳優という表現が適切である。幼児のわたしに接する際も、微笑んだ事は無い。祖父が家に居る時には、一緒に食卓を囲まなければならなかったのだが、食事中に少しでもお喋りをすると、手にしている象牙の箸で、祖父は情け容赦なくわたしの額を叩いた。
住まいにしても、祖父母にとって自慢の家ではあったけれど、天井に黒々とした太い梁がむき出しになっている部屋などもある、築百年という大きな平屋の古い建物は、わたしを怖がらせるだけであった。
広い庭は中央にある生け垣で仕切られていた。西の方には築山があり、その坂を下ったところに鯉が泳いでいる池があった。東の方には、柿や無花果や杉などの樹木が不規則に植えられており、鬱蒼としたそのなかほどに、毎晩通ったお風呂の建物があった。北側の物置の前には、鎖に繋がれて大きな秋田犬がいた。南側にある門の前には、塀に添って車一台がやっと通ることのできる狭い道があり、この家で行き止まりになっていた。その道のむこう側は石を積み上げた崖になっていて、下の方には夏になると羽黒とんぼが飛び交う、幅2m程の小さな川があった。崖の反対側は雑草が生い茂った急な土手になっており、その向こうには見渡す限りの田畑が広がっていた。庭の周りには黒塀が廻らされ、南西の角に裸電球の街灯が一つだけあった。その黒塀の西側には、狭い道を隔てて、鬱蒼とした樹々に囲まれたお寺があった。その辺りは陽が沈むと、明りといえば黒塀を照らす裸電球一つだけだったのである。
わたしの家は田舎とはいえ、当時のメインストリートに面した商店街のなかにあったので、夜でも街路灯の灯りで街全体が明るく照らされていたし、家の周りは建物が密集していた。そのように、普段生活しているのとは異なる環境のなかに突然放置され、自力で逃げ出すことができない幼児だったわたしは、孤独と恐怖に怯えながら耐えていたのである。
祖母のクミは外出の際、いつもわたしを連れ歩いたのだが、会う人が皆、怖い顔をするのだった。見知らぬ大人達からこういう対応をされた時、わたしの心は恐怖心と不安感でいっぱいになった。
他にもこんなことがあった。ある晩、祖父母の家で宴会が催され、祖父と同年輩の男たちが、十人程集まって、銘々のお膳の上に並んだ料理を肴に、お酒を酌み交わした。時が移ると、酔いのまわった男たちは、脂ぎった顔を真っ赤にさせて、大声で怒鳴るように喋った。その場にはアコーディオン弾きの男性もいて、何かの曲を演奏していた。わたしが酒に酔った人間を見たのは、この時が初めてであった。祖父母は客の相手をしており、いつもならもう眠っている筈の時刻なのだが、この宴会のなかに、ひとり放っておかれたのである。この時わたしは三歳位なのであった。夜遅い時刻に、それまで見たことの無い光景を目の当たりにしたわたしには、酒に酔い大声で喚く赤ら顔の男たちは、まるで赤鬼のように見えてとても怖かったのである。その時に演奏されていたのは、明るく軽い調子の曲ではなく、もの哀しい雰囲気を漂わせるものだった。その演奏は、わたしの寂しさと悲しみをいたずらに煽った。幼児は、眠気を感じただけで機嫌が悪くなるのが普通だが、わたしはこの夜中に、泣きたいのを我慢していたのである。
ところで、なぜ祖父母の所へ行かされたのかは、母が、自分の父親に対する非難の言葉を羅列した時、そこから分った。それを聞かされたのは十代の半ば頃のことである。
戦時中、祖父はラバウルに派遣され、無事帰還するも、その直後から愛人をつくるようになり、そういう事が、七十歳で他界するまで続いた。その為祖母は、わたしと遊ぶという事は皆無であったが、傍に置くだけで自身の気持が紛れたらしく、度々わたしを預かった。わたしが搬送された時は、実際祖父は不在のことが多く、祖母に尋ねると決まってこう言うのだった。
「温泉に行ってるよ。」
祖母がわたしを連れてよく出掛けた先は、自分の生家であった。其処は三百年余りに亘って受け継がれている造り酒屋で、会田屋といった。会田屋は資産家でもあった。そして其のうちには、このような慣習があった。生まれた子供のなかで、親が気に入った子供は、親元で育てる。それ以外の子供は里子に出し、小学校へ入学する直前に実家に連れ戻す。従って、子供を差別し、人格を無視しながら育てるのが当たり前のうちなのである。里子に出された子供は、里親が、自分のほんとうの親だと認識しながら成長しているので、実家に戻るとはいえ、精神的な意味に於いては、拉致されるのと変わりがない。親元で暮らしている子供たちも、里子に出された子供たちも、突然、きょうだいであると言われても、互いにぎくしゃくするだけである。このような環境のなかに、祖母は、十五人きょうだいの末娘として生まれ、始めから親元で育った。
その祖母が、わたしを伴い頻繁に実家を訪れたのには、このような理由があったのである。祖父は愛人との交際費として、生活に窮するほどの散財をする場合があった。日々の暮らしに使う金に困った祖母は、やむを得ず実家に金を借りに行った。それで会田屋の皆が穏やかならぬ表情をしていたのである。そのような時、幼いわたしの手を引いていれば、会田屋の人たちからネガティブな言葉を聞かされる心配もないだろうと、祖母は考えたのである。
また母にしてみると、自分の母親に預ければ、一週間以上は安心して放っておくことができる、そういう訳なのだった。
このように、祖母の生まれ育ったうちの慣習は、かたちを変えながら脈々と受け継がれているのであった。
わたしは、両親と一緒に自分の家で暮らす事、今日と同じ明日が来る事、それを望んでいた。しかしそれは叶わず、祖父母の所へ強制的に搬送されていた。それを継続されたある日、自ら意識して泣くことをやめた。あきらめたのである。そうして母が寄越した、好きなお菓子を食べて自分を慰めたのだ。
そのように大人の都合に合わせた暮らしを送っているうちに、いつの間にか、喜怒哀楽の感情が、わたしの心の奥深くに仕舞われてしまった。例えば悲しい時、涙を流すなどして、表現をすることがしづらくなってしまったのである。他にも、家族以外の人間を相手にすると、怒りの感情を表すことができなくなった。このように、わたしの精神世界に於いて激震が起きても、親は気づかないのであった。誕生した時から、表情や動作を意識して見ている訳ではないので、気づくことができないのである。それ故その状態のまま、わたしの心は放置されたのである。
その為満五歳になる前には、同年代の子供や、初対面の人、年上の人、またはたまにしか会わない人を前にすると、恐怖を感じるようになった。他にも体がコチコチに固まってしまうほどの恥ずかしさを感じるようになったのである。一般的な人見知りや気後れ、恥ずかしがり等ではない。自分でもおかしいと感じ、困るようなものであった。頻繁にまばたきをするようにもなったが、それは一時的なもので済んだ。だからまだよかったのだが、問題は、異常なまでの恐怖心と羞恥心の為に、心ならずも声を出すことができなくなることであった。家族の前だとこの症状が出ないので、両親や伯母達は、わたしを「うち弁慶、そと味噌」と言ってはいつもからかっていた。わたしとしてはとても辛かったのだが、当時の年齢からすると、自分の心理状態を、彼らに説明することは無理だったのである。
三
このような実体験から分ったのだが、幼児に、あまり泣かなくなったとか、感情をあまり表に出さなくなった等の変化がみられる場合、それは精神に異変が起きている可能性を示すものなのである。
子供の感情表現に、そのような変化がみられる場合は、育児に携わっている人物が、故意にではなくても、心を受け止めてあげていない、尚かつ精神を支配している、そしてそのような環境の中に放置している、それらの可能性が高いということなのである。
わたしの乳幼児期の生活は、精神的な意味に於いて、自分自身の人生ではなく、親や祖父母などの人生を、無理矢理に歩かされているようなものだったから、その為に自分の本心を心の奥深くに仕舞わざるを得なくなり、どのようにして感情を表に出せば良いのかが分らなくなっていたのである。
事実はそうなのだが、わたしの両親は、同じ年頃の子供と元気に遊ぶことができない、それでいて家のなかでは我儘を言ったりする、そんなわたしの様子を見て、自分たちが甘やかしすぎたからそうなった、と考えたのであった。そしてそれは見当違いだということには気づかなかったのである。
従って、その状態でわたしの心は放置されたのだが、前述した症状は、社交不安障害を発症したと考えられるのである。この病気は放置されると、生きづらさを感じながらの生活を余儀なくされるので、もっと酷い病を併発する恐れがあるのだ。
わたしの場合、最も身近な存在である母などにより、乳児期から精神的虐待を受けた為に、四歳か五歳で社交不安障害であろうと考えられる症状が現れてきた。同じような虐待を受けても、子供の性格や生活環境、虐待の程度により、異変の現れ方やその時期は違ってくる。例えば怪我や身体の疾病など、明確な理由は無いも、登校することができなくなる、またはいじめをする、非行にはしる、それが高じて犯罪に手を伸ばす、あるいは、子供らしくない行動をとる為に、何らかの事件に巻き込まれるなどである。このように、子供が本来歩む筈の道から逸れた時に、世間一般の人々の注意は、問題行動や、それによって引き起こされた事件などに集中してしまいがちだ。その結果、その子供の資質に原因があるかのような受け取られ方をする場合もある。しかし、問題行動を起こす子供たちは、誕生の瞬間から邪悪な心を抱いていたのではないし、自ら好んでそうなったのでもないというのが、ほんとうであると思う。もちろん善悪の区別がつけられないのでもない。
それでは何故、問題行動を起こすような事態になるのかといえば、親や祖父母など、育児に携わった人物の、子供に対する接し方や、子供を取巻く環境などに、子供の心を健全に育むことができないような、何らかの要因があったからだという見方もできるのではないだろうか。精神的虐待とまでは言い難いとしても、親子間にしっかりとした心の絆が結ばれていない為に、子供は心の拠り所が無い状態で、生きづらさを感じつつ日々暮らしているのかもしれない。それとも、育児に携わる人物が、日常的に否定的な言葉を投げかけるとか、褒めることを殆どしていない為に、子供は自己を肯定し、自信を持つ、という事ができていないのかもしれない。そのような家族関係だと、子供は、明確な理由も無く不安な気持ちになる、家族と共に暮らしているにもかかわらず孤独感を抱える、そして全てに於いてではないが意欲が低下するなど、子供らしくない心理状態に陥ることがあるのだ。
それとは別に、心が不安定になる原因の一つとして、育児に携わるものが、甘えさせることの大切さと、甘やかすことの危険性について無知であるということも考えられる。例えば、どんなに忙しい時でも、育児に携わる者が、一日に一度以上はしっかりと抱きしめてやるとか、子供の目線に合わせて、笑顔で優しく話しかけるなどを続ければ、子供の心は安定する。
反対に、子供を大切だと思ってはいるのだが、スキンシップや会話には依らず、何でもお金などで解決させている例もある。その場合、子供の心は、ほんとうに暖かいもので満たされた、とは感じ難いものである。そうなると、心の拠り所をうちのなかに見つけることが難しくなり、心が安定しない。一方、欲しい物は与えられているので、自己コントロール力の低下、あるいは欠如に繋がりかねないのである。仮にそうなった場合、子供は、僅かの事でさえ我慢ができないので、思い通りにならない時に、非常に大きな精神的ストレスを抱えることになる。
いずれの場合も、そのような心理状態の時、周りを見回してみても味方になってくれる人が誰もいなければ、心の絆を持たない子供は、何かに縋る他はなくなって、故意にではなく、あくまでも結果として良くないものに心の拠り所を求めてしまう。それで問題行動を起こすようなことになるのだと感じる。
幼い子供は、今の自分の気分を自覚することはできても、置かれている環境や心理状態を分析して、窮状を誰かに訴えることなどはできない。だから子供が発している信号に、家族以外の大人が気づいてやらなければ、傷ついている子供の心は救われないのだ。
なので、第三者の愛情のこもったおせっかいが必要だと感じるのである。
拉致同然に連れ去られ、祖父母の家に放置されたある日、わたしは遠くに汽笛の音を聞いた。のと同時に、音がした方を見ると、見渡す限り広がる田畑のむこうに、汽車の煙突から吐き出される煙が見えたのだ。それからは、汽笛が聞こえる度に、煙が見える所まで駆けて行き、遠くにいる母を想いながら、一日千秋の気持ちで迎えにきてくれるのを待ったのである。
子供はそのように親を慕っているのである。同時に、親が何をしようと、他の人には決して言わないものである。その為、子供が生きづらさを感じていても、誰にも気づかれる事は無い。そして、そのような家庭生活が続くと、子供の心が彷徨い始めるのである。だからほんとうは、そういう子供たちの彷徨える心を寄せられる港のような人が、家族以外に必要なのだ。そのような人と出会えた時に、子供の心は救われる。さらにその寄港地で、心の絆を結ぶことができれば、若い人が起こす問題行動や犯罪なども、自ずと減る方向へいくだろうと思う。
四
辛いことの多い幼児期ではあったが、嬉しいことが全くない訳ではなかった。わたしにとって救いとなっていたもの、それは「おしゃれな服」と「大好きなお菓子」である。
わたしが生まれた頃の日本は、全ての家庭に電話やテレビ、その他の家電製品があるわけではなかった。戦後十年以上は経っていたので、日々の糧に不自由することはなかったが、バナナやケーキなどは、貴重品であった。そのような時代に、こんなことがあった。洋服箪笥を勝手に開けてはいけないと、母に言われていたので、わたしは誰もいない隙を見計らって時々中を覗いていた。
扉を開けると、防虫剤の強い匂いと共に、外出用の服が目に飛び込んできた。そこには、パニエをたっぷりと使ったわたしのワンピースなどが掛けてあった。それらの色は、極淡いブルーや白、ペパーミントグリーンであった。そして身頃にはレースが施されていたり、袖がフリルのフレンチスリーブになっていたり、ウエストにリボンを結ぶようになっていたりした。それからセーラーカラーの淡いピンクのワンピースと、衿が白いショールカラーのネイビーブルーのワンピースは、どちらも長袖のパフスリーブで、身ごろがスモック型になっていた。ペパーミントグリーンのワンピースには、ベージュの帽子を、ネイビーブルーの方には白の帽子が合わせてあった。季節に合わせて誂えられた、これらの洋服を眺める度に、幸せな気分に浸っていたのを憶えている。
成長した後に分ったのだが、父が、高級な洋服生地や洋品、呉服、化粧品などを扱う仕事をしていたので、いつもわたしに似合うようにと、母が見立てた良質の服や小物をあてがわれていたのだった。
従って、可愛らしい服を着せられたわたしを見た人には、心が傷つき、病んでいる子供だとは想像すらできなかったであろうと思う。
そしてこの頃のおやつは、季節の果物やバナナ、プリン、チョコレート、ショートケーキ、ホットケーキ、リーフパイなどであったが、当時の田舎では、味噌をまぶしたおにぎり等が一般的であった。
なので、そのようなものを、おやつとして食べている子供は少なかったのである。だが、精神的な意味に於いて、辛いことの多かった幼児期のわたしを救ってくれていたのは、これらの洋服とおやつであった。それからこれは心の救いになっていたという訳ではないのだが、二歳の時に、わたしは完成して間もない東京タワーに昇っているのである。そのような事から、いつも上質の服や小物を身につけさせて、美味しいものを食べさせ、珍しく、新しいものを見せてやることがわたしへの愛情の表現だと、両親は感じていたのかもしれない。
親子間に心の絆を築くということが真の愛情だとすると、両親がわたしに示したものはそれとは全く逆なので、真の愛情だということはできないが、両親が信ずるところの愛情は、わたしに伝わったのかもしれなかった。
五
「おしゃれな服」や「大好きなお菓子」は救いではあったが、社交不安障害であろうと考えられる症状が吹き飛ばされるほどの活力にはならなかった。それ故症状は継続していたが、家族は誰も気に留めなかったので、心の傷は放置されたまま、わたしは満五歳で浪江幼稚園に入園した。
入園して間もなく、満開の桜のもと、園児たちの父兄も参加する遠足が催された。目的地は桜の名所、富岡町夜の森公園であった。汽車で向ったのだが、わたしは母の隣に座ることができたので、ことのほか嬉しかった。公園に着くと間もなく、先生が子供たちに集合するよう呼びかけ、整列させ始めたのであるが、この時、わたしはどうしても自分が行くべき所に並ぶことができず、しっかりと母の手をつかんでいたのである。子供の集団に加わることへの不安と、母の傍を僅かでも離れることに対する、強烈な寂しさを感じたからであった。今日だけは母と二人で一緒に過ごすことができるのだ。それなのに、何故離れなければならないのか。それがその時のわたしの気持ちである。それ程までに、日常生活のなかでは、母は精神的な意味に於いて遠い存在なのであった。
育児に携わる者と幼児との間に、心の絆ができていると、子供の精神は安定するので、自然に母親などの手から離れ、他の子供たちの輪のなかに入って遊び始める。この時の光景と自分の感情を、今でもよく憶えているのであるから、母とわたしとの間には、精神的な意味に於ける絆ができてはいなかった、ということなのだと思う。
このようにして幼稚園生活が始まったのだが、その間に、生涯忘れ得ぬようないじめを受けることになったのである。一年保育のわたしは、小谷先生が受け持つ年長組に入った。
園庭で遊ぶ時間になると、いつの間にかそのクラスの園児の一部は、まるで盗賊の一味か暴力団のようになるのであった。気の強い子供が、力で支配することのできる他の園児を捕まえ、子分と呼んで付き従わせていた。のみならず、その子分に次第を作っていたのである。なので、わたしのように不本意ながら子分に仕立てられた園児からすると、その状況は明らかにいじめなのであった。男の子の方は、健ちゃんという運動能力の優れた子が、女の子の方は、京子ちゃんという自己主張のはっきりとした、太った力持ちの子が親分となっていた。そして京子ちゃんには、直属の子分がいて、その子は気性が荒く、他の園児たちを支配する力に於いては、親分を遥かに凌いでいた。わたしはその子によって、酷いいじめを受けることになったのである。
彼女の名は佐々木いくよちゃんといった。その頃通園の際は、親などの送り迎えはなく、いくよちゃんの家が近所だった為か、行きも帰りも一緒だった。園で楽しく過ごすことができていればそれで良いのだが、わたしは彼女から、様々ないじめを受けていたので、本当は嫌だったのである。例えば園庭で、わたしが他の子供たちと遊んでいる場合など、いくよちゃんは、わたしに向って、足で蹴って砂をかけるという嫌がらせをするのだった。それでもわたしは抵抗しなかった、というよりも、いくよちゃんが怖くて抵抗できなかったのである。逆らうとさらに酷いことをされたので、何をされてもじっと我慢をしていた。
なので、一緒に帰ることは避けたかったのだが、それは無理であった。親が迎えに来てくれる訳ではないので、いくよちゃんの命令どおりに歩く他はなく、別れ際にはほぼ毎日、カバンを置いたら自分の家に来るようにと命じられた。そして言われた通りにしなかった場合の仕返しとして、わたしに何をするのかも聞かされていたのである。わたしが社交不安障害にかかっていなければ、少しは抵抗できたかもしれない。そして嫌なものは嫌だと、はっきりと断ることができていれば、彼女はいじめる相手を替えたかもしれない。しかし現実は、わたしには社交不安障害であろうと考えられる症状が続いており、異常なまでの恐怖心の為に、断ることなどできる訳がなかった。
この時は胸の中に砂が詰まったような、重苦しい気分で帰宅していたのだから、その感情が顔に表れていた筈なのだが、両親共気づいてはくれなかった。店舗の入り口から帰宅していたので、分ってもよさそうなものなのだが、父も母も、わたしの顔などは見ていなかったのであろう。いくよちゃんからは、誰かに話すとどうなるかという脅迫を受けていたので、わたしの方からは、誰にも助けを求めることはできなかったのである。
夏が近づいたある日、いつものように、言われたとおりカバンを家に置いて直ぐ彼女のところへ行くと、家の中に入るようにと命令された。普通は庭で、遊ぶというよりも、彼女の言うとおりの醜い絵を地面に描かされたりしていたので、中に入れと言われた時には不思議な気がした。普段は彼女の母親と弟がいるのだが、入ってみると、その日家の中には誰もいなかった。いくよちゃんの家は平屋で、三部屋ほどの簡素なつくりだったが、彼女はわたしをお茶の間ではなく和室の続き部屋に連れて行った。そうして部屋に入ると直ぐ、いくよちゃんは服と下着を脱いで素っ裸になったのである。それからわたしにも裸になるよう命令した。
いくよちゃんはただ気性が荒いだけではない。元々ハスキーな声の持ち主なので、このような場面では、五歳か六歳の女の子だとは思えないような、ドスの効いた声を出して指図するのであった。わたしはその声に縮みあがってしまい、言われたとおりにした。するといくよちゃんは、畳の上に仰向けに寝るようにと命じたのだ。わたしはまた言われたとおりにした。何をされるのかは分らなかったが、この時点では、とにかく彼女の言うことに逆らった場合の制裁の方が怖かった。わたしが寝そべると、いくよちゃんは上から覆いかぶさってきて、自分の体をピッタリと押し付けたのである。その瞬間、わたしの体は、驚きと恐ろしさのあまり硬直してしまった。するといくよちゃんは、わたしの体から離れて起き上がり、次は自分が仰向けになるから、わたしに上にくるようにと命令した。
立ち上がったわたしは、彼女の上に覆いかぶさることはどうしてもできなかった。なので、いくよちゃんが仰向けに寝そべりながら待っていたその時、大急ぎで服をきて、彼女の家を飛び出したのである。すると後ろから、いくよちゃんの罵る声が聞こえてきた。わたしは彼女が追いかけてくると思ったので、自分の家に向かって全速力で走った。無我夢中であった。
次の日のことである。前日の出来事を誰にも話すことができなかったわたしは、いつものように幼稚園に行っていた。その日は普段とは違い、園児たちは全員、朝から一つの部屋に集められ、映画を観せられた。熱心に観ていると、担任の小谷先生が暗い中を近づいてきて、わたし一人だけを部屋の外へと連れ出した。おもてへ出るようにと言われて、先生の後をついて行ったその時に、冷たい雨が降っていたことを憶えている。園庭を歩いて向った先は園長宅であった。着いてみると、園長夫妻と、その息子で、小谷先生の夫に当たる人がわたしを待っていた。玄関に入るやいなや、昨日いくよちゃんにわたしがしたことは本当かと訊かれたので、初めは驚いた。
出来事が、全て真逆にされていたのである。いくよちゃんのしたことが、わたしが遣ったことにすり替えられていたのだ。そして四人共、頬が強張り、怖い目をしているので、誰一人としていくよちゃんを疑っている者はいないのだと、その時わたしは悟ったのである。
こんなに酷いぬれ布を着せられているにもかかわらず、ここでまた社交不安障害であろうと思われる症状が出て、名誉挽回の邪魔をした。声が出なくなってしまったのである。体もコチコチに固まってしまった。そして、自尊心を著しく傷つけられたことへの悔しさと、先生方に対して抱いた恐怖心により、声も無く泣きだした。そうして、それほどの出来事があったにも係わらず、この事を両親に話す機会は無かったのである。
ところで、いじめを受ける側の子供の親には、ある特徴がみられるとわたしは感じるのである。
例えば自分の子供が、どのような友人と何処で何をしているのか、そういうことを、いじめを受けていない子供の親と比較した場合、あまり把握していないように見受けられるのである。このような事柄は、子供を問いただして知るようなものではなく、普段の生活に於いて、親と子の心が触れ合う場面のなかで、自然に把握していくものである。またいじめを受けている子供の親は、むろん全員ではないが、自分の子供の表情や動作を、普段から意識して見ていないように感じるのだ。
それとは反対に、いじめを受けてはいない子供の親は、子供が誕生した時からほぼ毎日、表情や動作に気を付けている場合が多い。視界に入れて見守っているというのではなく、意識して、表情の変化や身体の動かし方を見ているのである。そのようにしていると、歩き方や後ろ姿を見ただけで、異変に気がつく。それで、子供が親に訴えなくても、親の方で気がつくので、問題解決に向って早期に手を打ち、子供を守ることが出来るのだ。
その他にも、いじめられる子供の親の特徴として、幼稚園や学校等のPTA活動や、地域の子供会活動に対して、どちらかといえば無関心であり、あまり協力したことがないという傾向があるように思える。このような活動に対して関心を持ち協力していないと、親同士の付き合いが、極限られた範囲内に止まってしまう。それどころか、他の父兄とは全く係わりを持っていない状態だということもあり得る。その為に、子供の世界で起きている事などの情報を入手することが出来ず、自分の子供を守ることはさらに困難となるのである。それに対し、活動に協力している親は、子供たちの集まる場所に頻繁に顔を出すことになるので、それが誰の親なのかをみんなも把握している。すると、父兄同士の交流が円滑になるばかりではなく、子供の方も、あまりいじめに遭うことはなくなるのである。
わたしはその後もいくよちゃんの言いなりに動かされていたが、しばらくしてようやく解放される時がきた。幼稚園での昼食は、園児がそれぞれ持参したお弁当を食べることになっており、牛乳など二・三種類の飲み物は、登園すると直ぐに、園児が先生に直接お金を手渡すという形で注文をすることになっていた。なので、わたしも毎朝飲み物の代金を持って登園していた。ところがある時からいくよちゃんは、通園の途中にある、谷中という駄菓子屋の前で立ち止まり、わたしを脅迫して、自分が食べる為のお菓子を、わたしが持っている飲み物代で、買わせるようになったのである。それが何日も続いたので、わたしはお昼に飲むものがない事、いくよちゃんにお菓子を買わされている事を母に訴えたのであった。
それを聞いた母は、その後納めるべき代金を、すぐさま幼稚園に一括払いし、いくよちゃんと一緒に通園させる事を止めたのである。それと同時に、いくよちゃんがわたしに近づくことも無くなった。
後から考えると、いくよちゃんが、生まれながらに邪悪な心を持っていたとは思えないのだ。それは、いくよちゃんの家に呼び出されていた頃のこと、彼女の母親が、引き戸が開け放たれた縁側で、二歳か三歳になるいくよちゃんの弟を、片手で吊り下げるようにして、もう一方の手で、顔を中心に強打しているのを見たからである。
連続して叩くので、小さな子供の鼻からは出血し、激しく泣いているのだが母親は止めなかった。そしていくよちゃんの母親は、彼女と同じくドスを効かせた声で、小さな子供を幾度となく怒鳴り、罵声の回数に比例するかのように叩く強度が増すので、鼻からの出血量もどんどん増えていったのである。
なので、いくよちゃんは本人も気づかないうちに、母親をまねるようになったのではないかと思うのだ。
それにしても、いくよちゃんがわたしに対して行った行為は、強制わいせつと恐喝である。幼児がやったことなので、罪には問われないが、恐ろしいと感じるのは、これらの行いを、いくよちゃんが、日常生活のなかで自然に身に付けたということである。親が犯罪の仕方を教えた訳ではなくても、実際にやっているのであるから、家庭内の環境が子供に及ぼす影響は甚大だと思うのだ。
例えば幼児期に、ディズ二―の映画や、くまのプーさんの絵本などを見せるのと、ホラー映画や、残虐な殺人の場面があるドラマ等を見せた場合とでは、全く違う人間が出来上がるのではないだろうか。だから親などが、悪い事とは気づかずに行っている為に、悪癖を身につけながら成長することになるのは、その子にとっても不幸なことであろうと思う。
子供の行動は、親など育児に携わっている者の、日常の習慣を、鏡のように映し出しているに過ぎない。実際、生まれたばかりの赤ちゃんは、親などが話している言葉や行動をまねて成長するのだから。そうして人は普通、意識して止めない限り、親などから受けた扱いを、目下の相手や、自分よりも弱い相手に対して行っていくものである。だから世代間に於いて連鎖が起きるのだ。良い連鎖が起きていれば、そのままでいい。問題は悪い連鎖が起きている家庭である。
例えばこのような事がある。細かいことには拘泥しない、大雑把な性格で、且つ荒縄のような神経を備えた保護者がいるとする。そこで嫌がる子供の声に耳を貸さず、必須事項ではない学習やレッスンを、強要かつ継続したとする。あるいは、子供の意志を尊重して自由に進路を選ばせるのではなく、保護者が勝手に決めた進路を歩ませているとする。その子供は、真面目で大人しく、物事に拘る繊細な神経の持ち主で、命令通りに行動するのだが、そうするうちに精神が困憊し、生きづらさを感じるようになる。その結果、心身の健康を損なってしまう。あるいは、心身の健康は保たれているのだが、ストレスフルになっている為に、ふとした事で、他者を傷つけてしまう。他にも、自分らしく生きたいと切望する子供の場合は、その心が家庭からの逃避を試み始め、本人もそれと気づかぬうちに、悪い集団に騙される等して、その仲間に入ってしまうという事もある。この場合の保護者は、物事に拘泥しない性格と荒縄のような神経の持ち主であるが故、先代に何を要求されても、精神に疲れを起こす事無く、それに応えることができたのである。そうして自分はそれで良かったと信じている為に、子供にも同じ様な対応をするのである。従って、保護者が、子供の性質を正しく認識しているとは限らないのだ。
他にこういうこともある。高価ではあるがとても美味しい、落ち着いた雰囲気のレストランがあるとする。親や祖父母は其処を気に入って、子供の意向は確認せず、尚かつ子供を伴って、夕飯時にそのレストランを度々訪れるとする。連れて行かれた子供は、美味しそうに食べてはいるが、緊張感や居心地の悪さを感じている為に、寛ぐことができないでいる。そうして本当は、ご馳走でなくて良いから、親などの手料理を家で一緒に食べたいと思っているのだ。
この場合は、親や祖父母が、自分の趣味・嗜好を、一方的に押し付けているので、子供の精神を支配していることになるのだ。そしてそれを継続すると、子供の心に疲れが溜まっていく恐れがある。
他にまだこんなこともある。親と祖父母が互いに同じ価値観を持っているとする。そして彼らは、幼少時より恵まれた家庭環境のもと、努力と根性の精神を貫き、然るべき社会的地位を得ているのだ。それで、過去に自分たちが行ったのと同様の努力をしない子供に対し、批判的な言葉を発し続けているとする。日常的にそれをされた子供は、性格によっては、自己肯定感が損なわれ、生きづらさを感じるようになる。子供といえども、親や祖父母とは別の人格を持つ一人の人間である。だから、自分と比較して子供を非難するとか、価値観を共有していない子供の言動に対し、それを認めないとか、褒めることはしない、というのは子供の人格を尊重していないことになるので誤りなのである。
本来であれば、子供の人格を尊重して、些細な事柄であっても、決定する前に親子で話し合い、子供の心を優先すると良いのだけれど、先代の誤った遣り方を当然の如くに引き継いでいる、それでいて、自分自身には何の問題も起きていない保護者には、それができないのである。そのような保護者は、自分は、真っ当な育児を行っていると自負しているので、自分の過ちの為に、子供の心に傷がついている事にも、精神が疲弊している事にも、気づくことはできないのだ。
精神的虐待というのは、傍目には分らないので、誰にも気づかれることなく子供の心を蝕んでいく。身近な家族などから、継続して精神を支配されている為に、ストレスフルになっている子供が、他者に対していじめなどを行ったり、非行に走ったりするようになる場合が多いのだ。なので、いじめを行っている子供に対して、悪い事だと言って頭ごなしに止めさせるのは誤りなのである。無理矢理止めさせられた子供の精神は、ストレスのはけ口を塞がれたことになるので、それまで以上に、悪い方向へと逸れて行く可能性が高くなる。だからほんとうは、いじめを行っている子供のストレスを軽減させてやり、いじめをする必要をなくすのが良いのである。
いじめの問題に取り組むのであれば、そこまでやらなければ本当の解決にはならないと感じる。
六
入園に伴い、相馬の祖父母の元に預けられることはなくなった。幼稚園の夏休みに訪れた時などは、母と弟が一緒だったので、同じ家とは思えないほど楽しく過ごすことができたことを憶えている。
弟が入園した頃からは、長期の休みに入ると、いつも二人で相馬市の祖父母の家を訪れるようになった。家政婦のきんさんには、進次郎君という孫がいて、その子と弟の三人で遊ぶのは楽しかった。わたしたち姉弟に気を使ってくれていたのだと思うが、進次郎君は、これ以上はないという程、優しくしてくれるのであった。
二歳半違いの弟も心根が優しかった。家にいる時は、いつも行動を共にしていたせいもあり仲が好かった。そうして母が、弟には毎日絵本の読み聞かせをしていた為か、読書が好きな子で、短気ではあったが、あまり腕白ではなかった。
わたしたち姉弟が幼かった頃、家から徒歩一分足らずのところに、未亡人のさくら伯母のうちがあり、庭には四季折々の美しい花が咲いていた。店舗兼住居には庭が無かったことから、その庭を、伯母はわたしたち姉弟に解放してくれた。そしてその庭の一角に、父方の祖父と父が、砂場を作ってくれ、祖母はブランコを買ってくれた。
弟とわたしは、雨が降らない限り、毎日のようにそこへ遊びに行った。
八歳年上の従姉、奈美とは一緒に遊ぶということはなかったが、大抵は在宅していたさくら伯母が、わたしたちに、横浜の鳩サブレーなどを外で食べるようにと手渡してくれた。わたしたちを部屋の中に招き入れたことは一度もなかった。子供だからという訳ではなく、祖父や祖母が訪ねた折も同じであった。いつも玄関の上がり框に腰かけて話をしていた。
何故かと言うと、伯母の感覚で清潔だと感じた人、またはどうしても部屋の中に招かざるを得ない客以外は入れなかったからである。
ある日、いつものように弟と二人で遊びに行くと、さくら伯母の家に、母娘連れの来客があった。娘さんはわたしと同年代で、テーブルを前に、庭の方に背中を向けて行儀良く正座していた。その時その姿勢の為に、彼女が履いている白いハイソックスの裏側が見えたのだが、薄墨を流したように黒く汚れていたのである。それを見てわたしはちょっと驚いた。何故なら、わたしは彼女のようにソックスを汚したことはなかったし、同時に、非常に矛盾を感じたからであった。わたしのソックスの方が綺麗であるにも係わらず、伯母はわたしを部屋の中に招き入れたことはない。それでいて、とても汚れたソックスを履いている彼女に畳の上を歩かせている。この事は、小学校の低学年だったわたしの心に強く印象に残った。
その頃は、さくら伯母達が食事をしに訪れるということはなくなっていて、入浴の為にやって来ていたのだが、わたしは伯母達と一緒にお風呂に入るのを、毎晩とても楽しみにしていた。
さくら伯母は陽気な性質でよく喋り、お風呂場では毎晩歌を歌って聴かせた。その影響かもしれない、わたしも歌うことが好きになった。冬のある晩、足にできたしもやけが痒くて、わたしが寝付けないでいる時に、さくら伯母が薬を塗った患部をマッサージしてくれたことがあった。何か暖かいものに包まれたような安堵感と共に、気持ち好く眠りにつくことができた。親にはこのような事をしてもらった記憶はないので、よく憶えているのかもしれない。
父方の祖父は、五月には菖蒲湯を、十二月には柚子湯を、その他お彼岸やお盆、十五夜、節分、端午の節句、雛祭り等々、昔からの時節の慣わしを大切にする人であった。そしてわたしはその行事が好きだった。ところが母は、これらを、端午の節句と雛祭り、お彼岸やお盆とお正月の他は次々と廃止してしまったのである。準備や後片付けが面倒だというのがその理由であった。
母はわたしが入園した頃から、会社の仕事をするようになっていたのだけれど、それと前後して家政婦が入れ替わり、住み込みではなく通いの人になった。今度来てくれたのは母よりも年嵩の中年の婦人で、非常に几帳面な性質であり、且つ正直な人であった。それまでは家政婦を名前で呼んでいたのだけれど、今度は皆がおばさんと呼ぶようになっていた。おばさんは家事を遣るにも、うちの者達と接する際にも、あたかも自分の家の出来事であるかのように必死になってくれるのであった。恐らく名を呼ばずに過ごしたのは、おばさんの人柄によるものであろうと思う。そのように母は、家事全般をおばさんと祖父に任せていたにも係わらず、時節の慣わしを面倒だと言ったのだ。なので、廃止された慣習は、母にとっては気に入らない嫌な事だったのであろう。子供達の身の回りの世話は、炊事・洗濯や掃除を除く最小限の事だけを母がしていたが、とにかくそれ以上のことをするのは嫌っていた。幼かったわたしにも、祖父が心を痛めていることは分った。そしてわたしも悲しかった。
日本語には、季節を表す美しい言葉が沢山ある。その折々に、子供の健やかな成長や、家内安全を願う等、様々な祈りを込めた慣わしがある。その慣わしの意味を子供に伝えながら、代々引き継いでいくことは、自己を大切にしようとする心を育み、他者への思いやりへと繋がるのではないかと思う。だから廃止などせず、続けていれば良かったのだ。
もとより両親は子供と食卓を囲むということはしなかった。
弟とわたしは、年に二度、家族旅行と社員旅行の時にのみ、両親と一緒に食事をすることができた。それでも弟には、生まれた時から母が話しかけをしていたので、弟は心身の疲れが其処で癒されたであろうと思う。ところが、時たま母と入浴することはあるも、母がわたしに話しかけるとか、わたしの話を聞くということは無いのだった。
それから母は、料理のレシピをおばさんに教え、おばさんがそれをすっかり覚えると、自分は炊事をしなくなった。母が料理をするのは、子供の誕生日や遠足などの特別な日と、おばさんが作ることのできない時だけだった。なので、わたしにとっての日々の団欒は、弟と一緒に食事をしてテレビを観るとか、毎晩やって来る伯母や従姉とお風呂に入ることであった。心の疲れを癒すという意味に於いて、これらは絶対に欠かすことのできない大切なものだったのである。
七
1964年、東京オリンピックが開催された。
当時わたしは満六歳だったのであまり憶えてはいないのだが、ソ連の体操選手、チャフラフスカの演技と顔の美しさは印象が強かった為か、それだけが記憶に残っている。白黒テレビに映った彼女の髪はブロンドに見えたのだが、それまでは実物はもとより映像でも、西洋人を見たことが殆ど無かったわたしは、特別に綺麗だという印象を受けた。
「ウルトラC」が流行語となったのはこの頃で、当時は競技の放映が始まると、老若男女みんながテレビの前に釘づけになっていた。
この年、社交不安障害であろうと考えられる症状は放置されたまま、わたしは浪江小学校へ入学した。
一学年・二学年担任の今田先生は、クラスの子供全員に、褒め言葉と励ましの言葉を散りばめた、その子の写真入りの短冊を作って持たせてくださるという、とても優しく美しい、若い女の先生であった。家では褒められたことの無かったわたしは、先生から頂いた短冊が嬉しく、心の拠り所となっていた。学校で、大きな声でハキハキと話すことが出来なくても、今田先生は何も言わずに、にこにこと笑顔で見守ってくださっていた。そのお陰で学校が楽しく、三島 ともみちゃんという友達の家を訪ねて一緒に遊ぶこともあった。そして股関節に障害があるにも係わらず、ものすごく得意だという訳ではないが、体育の授業も受け、皆と同じに運動をすることができていた。
だが一・二年生の時の運動会だけは、恐怖心と羞恥心に悩まされ、苦手だったという記憶がある。その原因の大半は、当時体操着に規定がなかった為に、わたし一人だけが、皆とは違うものを着せられていた事にあった。わたしは、大きなショールカラーの、前開き半袖の丈の短い白いブラウスに、提灯のように膨らんだ、濃紺の短いブルマーを履かされていた。そのブラウスは、うちの店のオーダーメイドだった。当時の日本では、上質の既製服を世に送り出しているアパレルメーカーはあまりなかったので、高品質の商品を扱おうとすると、オーダーメイドということになるのだった。もしかすると母が、着心地の良い素材を選び、着脱し易い服をオーダーして着せてくれたのかもしれないが、皆が着ていたのは、小さな衿のついた、頭からすっぽり被って着る、布ハクの白い半袖シャツと紺色のショートパンツだった。なので、皆とは違う服装だということを、体育の授業の時はまだ我慢ができたが、千人を超える全校児童が、一同に会する運動会となると、恥ずかしくて仕方がなかったのである。それで、全ての競技をうわの空でやっていたのだ。
それと、当時の児童の席は椅子ではなく、茣蓙やむしろを敷いたもので、校庭では運動会の間中裸足でいることが規則だった。わたしはそういうことに、まだ慣れていなかったのである。それで落ち着かず、怖かったのだ。
わたしは、小学校の低学年頃までは、体もあまり丈夫ではなかった。二歳の時に百日咳を、五歳前後の二年間には軽い小児結核を患っている。結核は極初期の段階で分ったので、幸いにも投薬を受けるだけで済んだ。だが、風邪などに罹り易く、咳も酷く、よく熱を出していた。結核の治療を受けていた時の事である。粉薬を二種類飲まなければならず、母がオブラートで包んでくれていたのだが、その塊が幼いわたしには大きすぎた。いつも喉に引っかかるのを我慢して飲んでいたのだが、時たま、飲むのを嫌がった。すると母は、両手の拳を握り締め、ガッツポーズの姿勢をとると、ヒィ―と頭から突き抜けるような奇声を発した後、わたしを鷲掴みにして、左右の肩甲骨の中間辺りを、狂ったように思いきり、連続してたたくのだった。そうしてこれは、薬の服用を拒んだ時に毎回行われる儀式であった。そのようにされると、呼吸ができなくなる。わたしは、涙を流していたのだが声にならず、苦しくて、このままだと死んでしまうのではないかと、恐れたことを憶えている。
母のこのようなところは、わたしが赤ん坊だった頃とまったく変わっていなかった。子供の気持ちや能力などを、考慮することができないのである。母自身の、瞬間の感情にのみ忠実で、それを最優先させて行動をする為に、結核の患者であるという認識さえかけらもなく吹き飛ぶのであった。
なので、年に一度の家族旅行の時も、同じようなことが繰り返されていた。わたしたち姉弟が幼い頃によく行ったのは、鳴子温泉や松島、仙台などで、松島へ向かう時は船であったが、その他はいつも列車での移動だった。その列車は四人掛けのボックス席が主で、常に車内が空いている時間帯に利用していた。列車に乗るとわたしは、よく窓際に座りたがった。
「あたし、ここ。」
そう言って、皆が席に着かないうちに、さっと窓際の座席に座った。
「あんたのそういうエゴイストなとこは、さくら伯母さんにそっくり!あたしは、エゴがいっち番きらいなの!」
母は目くじらを立てて、すぐさまこう言った。この時、正直なところ自分の何がいけないのか、なぜそんなに怒るのか分らなかった。母はそこで、さくら伯母に対する悪口を並べたて、さらに、伯母とわたしが同類であると決めつけ、今度はわたしへの非難を始めるのであった。そうして気の済むまで喚いた後、
「此処にはあたしが座るの。」
そう言いながら、わたしを通路側に移動させ、自分が窓際の席に腰を下ろすのであった。つまり母の精神は、娘と同じ土俵に立っているのである。そうして、その土俵から降りるということは決してしないのである。
このように、わたしが悪いことをしていなくても、母は、自身の精神のあり様が不快だと怒りをぶつけ、絶好調であれば、べたべたと甘すぎるぐらいになるのであった。なので、わたしの心はその都度振り回され、健全な精神の成長を阻まれる結果となったのである。
そうして旅行中だけは、ようやく両親と交流ができる筈だったのが、訳も解らないまま罵声を浴びせられ、理不尽な思いと、恐怖と、悲しさが、一挙にわたしの心に押し寄せ、楽しい気分は台無しになった。と同時に、わたしは伯母の悲しみも合わせて味わわざるを得なかったのである。
八
わたしが小学二年生の冬、父はうちの一階部分にあった居住スペースを壊して、店舗を拡張する為の改築工事を行った。その工事が完成した頃、わたしは三年生に進級した。その春にはクラス編成が行われ、担任は若い男の先生に替わった。新しい担任は、いつも大きな声で話す、元気のいい亀田先生であった。
ある日のこと、同じクラスの女子児童がどういう訳か、食肉の加工場で、どのようにして牛や豚を殺して解体し、食品とするのかを語りだした。それを聞いたわたしは、その時相当なショックを受けたのだ。それまでは、肉も魚も好きだったが、その日からどうしても肉を食べることができなくなってしまった。当時の学校給食は、肉を使ったおかずが結構多かったのだが、肉を見ると、牛や豚が殺される場面が浮かんでくるので、それを残すようになってしまったのである。だが大抵の場合、亀田先生は食べ残すことを許してくださった。もとより亀田先生はあまり厳しくはなかったのである。
「給食を残さずに全て食べる日」
というのを設けることはあったが、それは時たまであった。
ところが、隣のクラスの林先生という、児童たちに怖がられていた中年の女教師が、給食を残すことは許さないという方針であり、亀田先生もそれに倣うようになった為に、
「出された給食は全て食べる」
という規則ができ上がったのであった。
給食の後は清掃の時間であり、椅子や机を教室の隅に片よせることになっていたので、それからは、どうしても肉を食べることができなくなったわたしと、机と椅子は、教室のなかほどにポツンと取り残されることになった。実際に学校を休むことはなかったが、ほぼ毎日同じことが繰り返されたので、通学することが苦痛になってきた。そこでわたしは、誰にも分らないように、給食に出された肉を、紙に包んで放課後まで机の奥に隠し、その後で、体操着などを入れるバッグに押し込んで家に持ち帰ることにした。
給食の件は、自分一人で解決させることができる程度の問題だったからまだ良かった。でもわたしの場合、肉が食べられなくなった理由があったのだ。それを訊かずに、頭ごなしに無理強いして、学校に行きづらくさせた林先生のやり方は、誤りであろうと思う。
子供への愛情がある先生であれば、何故食べられないのか、どうすれば改善することができるのかを、児童の気持ちに寄り添って一緒に考えるであろうと思う。
その冬のことである。学校生活において最初で最後の、一度きりのことであったが、わたしは授業中に廊下に立たされた。そして運悪く、その時に今田先生が廊下をやって来たのである。今田先生は、何も言わずに黙ってわたしの前を通り過ぎたが、わたしはその瞬間、顔から火の出るような恥ずかしさと、亀田先生によって奈落の底に突き落とされたような感覚を味わった。その時は国語の授業が行われており、前日に出された宿題の作文の発表をしていた。作文は長文ではなく、「命を懸ける」という言葉を文中に使用する、短文作成であった。わたしは、適当な文章が思いつかなかった為に、母に作ってもらった文章を、そのまま書いて持って行った。だが、その文章をおかしいと感じていたので、先生に指された時、自信を持って発表することができず、蚊の鳴くような声になってしまったのだった。亀田先生は、日頃から大きな声でハキハキと話すことをよしとして、子供達を指導している先生である。従って、それをしなかったわたしに対して、廊下に立たせるという罰を与えたのであった。
また先生は、図工の時間に、子供達が描いた絵を、採点した後で、皆によく見えるように、一枚ずつ高く掲げて見せてから、その絵を持ち主に返すというやり方をしていた。これらはほんの一例であるが、自分が描いたものをクラスメイト等に見せるとか、何かを発表しなければならない時、わたしは自分でもおかしいと思うほどの恥ずかしさを感じるのであった。その頃はそれが病気だとは分らなかったが、恐らく、社交不安障害の症状だったのだと思う。
この時点で、わたしの異常に気づいていた担任ではない先生がいたのだが、あれはおかしい、あの子は変だと言うだけで、助けてはくださらなかった。
一・二年生の学業成績は憶えてはいないけれども、小学校三年生からはずっと、上位20%の中に入っているというところだった。宿題は必ず済ませていたが、それ以外の家庭学習はあまりやらなかったのである。両親にとっては、そのことも成績も不満だった。
採点されたテストや通信簿は、全て親に見せていたが、その度に
「おまえはやればできるのに。」
と認めることはできないという批判の言葉が返ってきた。母は、
「負けてはいられないとは思わないの。」
強い口調でそう言ってわたしを非難し、叱咤するのだった。常にわたしを追い立てていた母は、娘を何者かに仕立てあげようなどという、明確な野望を抱いていた訳ではなく、成績が良ければ自慢ができる、ただそれだけのことであった。
わたしは学業成績において、勝敗などという感覚を抱いたことは一度もない。だが親の方は、上位5%位に入る点を取り、周りの皆から称賛されるようでなければ評価はしないのだった。
わたしは、親の希望どおりの結果を出さない為に、何事においてもいつも批判ばかりされていた。親としては激励するつもりで叱咤しても、そのような事を継続されると、たとえ自分は悪くはないと分っていても、自身に対して確信が持てなくなることがある。
あっけらかんとした、物事に拘泥しない性格の子供であれば、さほど悪影響は受けずに済むかもしれない。けれども、わたしは、非常に神経の細かい、拘りをもった性格である。その為、心が彷徨い続けて、うちの中に精神の置き場がなかった。そのような状態なので、いつも自信を持つことができず、すると余計に恥ずかしさと恐怖心が増すのであった。
九
四年生に進級した時は、クラスも担任の先生もそのまま同じであった。三年生までの間は、誰からもいじめを受けることはなく、近所に住む絹代ちゃんという明るく心優しい女の子とは、一年生の時から同じクラスだったので、友達になってよく一緒に遊んでいた。
絹代ちゃんのうちは、浪江町で唯一の映画館と、その頃の町では少なかったレストランをやっていた。学校からの帰り道、絹代ちゃんのうちに立ち寄ることが度々であったが、ある時、上映中の館内に紛れ込んだことがあった。大人向けの映画だと思ったので、わたしたちはそのまま観たわけではなかったが、スクリーンには「若大将」、「青大将」と、大きな文字が躍っていた。
授業中の教室でのことである。春に席替えがあり、わたしの前には中森 健一君という男の子が座っていた。中森君は、特に腕白ではなく、どちらかといえば口数の少ない、あまり目立たない子であった。ところがその中森君が、授業中に先生が黒板に向かっている隙に、パッと後ろを振り向いて、わたしの顔や服に唾を飛ばすようになったのである。その時も、わたしは先生に言いつけるとか、抵抗する等はできなかった。
浪江小学校は、入学時には制服を誂えるのだが、それが窮屈になると、私服で通学することになっていたので、その頃は、母が誂えてくれた制服とは異なるデザインのジャケットやスカートに、既製品の、レース飾りや小さなフリルをあしらったブラウスを着ていた。わたしは、その通学服をとても気に入っていたのである。ところがその服や顔に、中森君は毎日、毎時間、唾を飛ばし続けたのだった。席替えがしばらく行われなかったので、それは秋になる頃まで続いた。
四年生の終業式が近づいた頃のこと、わたしはその日は一人で、帰り道に校庭の鉄棒の傍を歩いていた。と、その時である。中森君が小走りにやって来て、わたしのランドセルにつかまり、いきなり後ろに引き倒した。ざらついた地面に、仰向けに倒されたその瞬間、わたしはようやく抵抗することができた。
「ちょっと。」
と言えたのである。すると中森君は、
「お父さんとお母さんが離婚した。」
とポツンと一言、すぐにその場を離れて行った。
わたしは、何故中森君が意地悪をし続けたのかを、その時悟った。離婚に至るまでの、彼の家庭内の険悪な空気はいか程のものであっただろうか。さらに、彼としては、両親と一緒に暮らしたかったであろうが、どちらか一方と別れなければならないのだ。そうして両親共、好んで離婚をするわけではない筈であり、やむにやまれぬ事情があってのことであろうが、子供の心に、暗雲が立ち込めるのを、防ぐ努力が足りなかったのではないだろうか。口数の少ない中森君の性格だと、自分の寂しさや悲しみを、誰にも打ち明けられずにいたのだと思った。そのような生きづらさを感じていた中森君は、精神的ストレスを発散させる為に、何の抵抗もせずにいるわたしを、いじめ易い対象として選び、嫌がらせをしたのだろう。
いじめという行為は、性格異常や先天性精神疾患などの理由がない限り、その子供の資質に起因して行われるものではなく、取巻く環境や、育児に携わる者の慣習に問題がある為に、心の置き場を失った子供が、精神の均衡を保つ為に行う行動だと思う。
そういう意味からすると、いじめを行っている子供も被害者なのである。だから、闇雲にいじめを止めろと言うことは間違いであると思う。それよりも、いじめを行うことでしか生きる術のない子供を、救わなければならない。その為には、周囲の者が、監視の目を光らせるのではなく、いじめなど問題行動を行っている子供の心に寄り添うことが必要だと感じる。
そうしていじめなどを行っている子供の口から、その行動の原因となっている事柄や、不安の要因などを出させるのは誤りであると思う。何故なら、育児に携わっている者が行っていることを、子供は鏡のように映し出しているに過ぎないからである。ここで注意をしなければならない事は、育児に携わっている者が、子供に悪影響を及ぼすような行為を、悪気があって遣っている訳ではないということである。自分もそのような育てられ方をしているので、当たり前の事として自然にでてきてしまうのだ。そのような精神の連鎖について説明をすることは、幼い子供には不可能である。
従って、子供の口から出させるのではなく、その心を条件無しで、丸ごと受け止めてやるのが良いのである。
そして実際に子供というのは、親や祖父母を外では悪くは言わないし、心の底では慕ってもいる。親や祖父母について、他人の前で冷静に批評する為には、子供自身が、彼らとの間に、精神的な意味に於いて、明確な境界線を引かなければならないのである。
これは、余程の苦しみを味わった後でなければ、なかなかできない作業なのだ。だから、いじめなど問題行動を行っている子供に、そのような辛い想いをさせないまま、過ちに気づく事なく、育児に携わっている親や祖父母の替わりに、心ある第三者が、無償の愛を、感じさせてあげられると良いのである。そうして、それを続けている間に、ちゃんと反抗期を迎えることができれば、そこを無事に通過した後、心を萎えさせるような相手との間に、適度な距離を保つことができるようになり、精神的な意味に於いて、惑わされることはなくなると思うのである。
問題を抱えている子供の親や祖父母は、彼ら自身も同じような育て方をされているので、生き方を変えることは不可能に近い。
子供が誕生した時から、心を繋ぐ金の糸を紡ぎ続けてはいない親や祖父母が、糸が無い事にさえ気づいていないのであるから、後年改めて絆を作るということは殆ど不可能である。どうも、子供の誕生から僅かの間に、その子供との付き合い方というものが、親の脳に刷り込まれるようなのだ。そうして印刷されたものは生涯消えることはないのである。だから、親や祖父母が好転することを待っているとするなら、子供を救うことが手遅れになる。それで家族以外に、暖かい心を持つ人々の愛情が必要となるのである。
そしていじめやその他、行動に問題のある子供は、自己肯定感や心の拠り所が無い場合が多いので、その不安定な精神が、問題行動の主な原因となっているのだと感じる。なので、本心から子供を想う気持ちのある人々の力で、そのような子供たちの彷徨える心を包んでやれるようになると良いと思う。その為には、心の置き場のない子供が掛け込むことのできる、安らぎの空間があればいいと思う。
それは、新たな公共の施設を設けるのでも、その道の専門家が待機して、子供の話を聞くのでもなく、既存の物を利用しながら、あくまでもボランティアで遣るのがいいと感じる。何故なら、無償の愛が発露となる行いでなければ、生きづらさの為に問題行動を起こしている子供の心に響くことはないと思うからである。
十
いじめという行為も、強い者から順に連鎖する。
わたしは三年生に進級した春から、母により、強制的に必須ではない学習をさせられた時期があったのだが、その頃から弟をいじめるようになった。
当時の浪江には塾など無かったので、母は、一・二年生の時の担任であった今田先生に学習指導をお願いし、先生のご自宅へわたしを通わせたのである。本来であれば放課後は殆ど毎日、学校の校庭等で、クラスメイトたちと遊ぶ筈であったから、不承不承という思いで通っていた。そのような場合、余程の抵抗を試みても、母の強制力は非常に強く、従わざるを得ないのであった。
今田先生はいつも優しく、家庭的であったので、それが救いではあったが、友達と遊ぶ時間を削ってまでも、宿題以外の学習をすることに、わたしはいつも疑問を感じ、とても抵抗感があった。それでも、言いつけどおりに毎日通ったのである。
夏休みもそろそろ終わる頃であった。宿題の「夏休みの友」は、自力で仕上げてあったのだが、それを見せるようにと、今田先生に言われたので持って行くと、先生は、予め用意しておいた正答が載っている冊子と、わたしのものとを照らし合わせて、間違いを正し始めた。そのおかげで、自分の誤りと正しい答えは解ったが、わたしの「夏休みの友」は、全問正解になってしまったのである。帰り道、心の中は複雑であった。これでは不正をしたということになるのではあるまいか、と思ったのである。わたしの心は罪悪感でいっぱいになった。それから、この事を誰にも言わずに、ただ黙って今田先生のところへ通うのを止めたのである。
結局、わたしは四月から八月まで、休みの日を除いてほぼ毎日、宿題以外の学習の為に、不本意ながら今田先生のもとへ通ったのである。自ら納得した上で習いに行ったという日は殆どなかった。やはり、母が敷いたレールの上を、無理矢理に歩かされていたのである。このような事が、心に及ぼす負の力は非常に大きく、のみならず、社交不安障害だと考えられる症状が学校で出ていたので、双方から受けるストレスの為に、生きづらさを感じていた。それで、腕力で征服することのできる弟をいじめて、ストレスを発散させていたのだと思う。
わたしが弟を押さえつけて泣かせると、息子が可愛くてたまらない母は、父を呼んできて、
「こいつをやっつけて!」
と叫び、わたしに対して父に暴力を振るわせるのであった。どんな場合でも父は、喧嘩の理由は何も聞かずに、母に言われたとおりに、わたしを殴ったり投げ飛ばしたりするのであった。その際に、わき腹に切り傷ができたこともある。一方的にわたしを悪者と決めつけて、説教をしたり、押し入れに閉じ込めたりするのであった。ただしこの説教は、間違いを正して諭すというものではなかったのである。父が遣ったのは、わたしを正座させ、視線を、父が向けさせたい場所に固定させ、「はい」という返事を、父が満足する口調で言えるようになるまで、繰り返し言わせただけのことである。つまり父自身の心を安定させる為の儀式を、わたしに対し強制していたというのが実際であった。そうしてこの儀式が終わるまで、その場を離れることは成らず、毎回三十分以上続いたのである。この頃は毎日のように弟と喧嘩をしていたので、儀式もその都度行われた。このような、肉体的暴力や精神的虐待を振るわれた場合は、普通の子供であれば泣いていた筈である。ところが、感情を表に出すことのできないわたしは、泣くことができないのだった。そのような心の内を知ろうとはしない両親は、こういう時でさえ泣かないわたしのことを、何をされても何も感じない、鉄のような物だと言い、「トーチカ」と呼んでいた。
度々喧嘩をしてはいたが、わたしと弟は仲が悪い訳ではなく、むしろ好い方であった。お互いに心が通じあっている、そんな感覚はあったのだ。なので、喧嘩をしてもその都度直ぐに仲直りをして、また二人で遊んでいた。そして、学校が休みで、友達との約束が無い限り、わたしと弟はいつも一緒であった。
ところで弟は、わたしと喧嘩をした時以外でも、一日に一度は必ず泣いていた。何かが思い通りにできなかった場合に、
「もうだめだー。」
と、この世の終わりのように嘆いて泣きだすのであった。その様子を見ている両親は、
「とても傷つき易い繊細な子だから、気をつけて育てないといけないぞ。」
と、よく言っていた。その一方でわたしに対しては、社交不安障害であろうと思われる症状が出た頃から、「だめな子」というレッテルを貼っていた。そしてそれは両親のみならず、学校の先生や叔父、叔母の一部の人たちからの、わたしに対する見方でもあった。その為に、社交不安障害であろうと考えられる症状は放置され、両親からの肉体的精神的虐待はこの後もずっと続いたのである。
この頃の日常生活を振り返ると、平日の朝食のテーブルには、わたしの他に大抵の場合祖父と弟がいた。そして、学校に遅れないように、子供たちを急かせて送り出してくれるのはいつも祖父であった。当時の浪江小学校は、放課後に校庭を解放していたので、終業時間になると、児童達はそれぞれ思い思いの遊びを楽しんでいた。
今田先生の所へ通う事を止めてからは、わたしもその中の一人だった。校庭の他には、小学校の西隣にある中央公園や、家の近くの保育所の庭で遊んだ。いずれの場合もだいたい日が暮れるまでであった。その他に絹代ちゃんと約束をした日は、どちらかの家で遊んだ。そして弟と、この頃は時たまではあったが、近くに住む伯母の庭で遊ぶこともあった。外で遊ぶことができない日は、店の中で過ごすことが多かったが、両親がわたしと話しをすることはなかった。
夜は、おばさんが作ってくれた料理を、弟と二人で食べてから一緒にテレビを見た。その後宿題を終えて、いつもやって来る伯母や従姉とお風呂に入って、9時過ぎには眠りについた。これが普段の生活で、親とは、非難の言葉と共に殴られるとか、精神を毀損する儀式に参列させられる他には、接触する時間は殆どないのだった。
なので、日々の暮らしの中では、弟と一緒にテレビを見るなど、遊んでいる時と、伯母や従姉と過ごすお風呂でのひと時が、わたしにとってはとても大切な時間だったのである。そして、昔話や短歌など、色々なことを聞かせてくれた父方の祖父との会話も同じく大切であった。わたしが小学一年生から習い事として、書道を自ら好んで続けていたのは、一つには祖父がそれを得意としていた為である。もう一つは、近所に住んでいた「草野菓子舗」の五年先輩のお姉さんが、わたしが書道を始めた最初の一年間、毎週土曜の晩の稽古の時間や、書き初め展の際の練習や清書の時に、いつも付き添って、親切に面倒をみてくださったおかげである。恐らく、嫌なことがあっても、毎日元気に登校していたのは、そういう心の繋がりがあったからだと思う。
父は兄弟が多かったこともあり、父方の従姉妹は大勢いた。
なかでも平市には、ひとつ年下の従妹が二人居たので、わたしは小学三年生の頃からは、学校が長期の休みに入ると、その二人と、お互いの家に一週間位ずつ滞在し合って遊んでいた。
自分の家に従妹が来ている場合は何でもなかったが、わたしの方から訪ねた折は、行き慣れている筈の従妹の家ではあっても、始めの半日位はいつもの異常な恥ずかしさと緊張感の為に、コチコチに固まっていた。その緊張は、呼吸が普通にできないほどであった。息をするのが苦しいのであるから、当然声を出すのも難儀であった。
慣れるまでに時間はかかったが、一旦緊張感が解れると、後はだいたい楽しく遊ぶことができた。一つ年下の二人の従妹のうちの一方は三人姉妹であり、長女がわたしよりも五歳年上の栄子ちゃん、次女が三歳上の頼子ちゃんで、わたしの遊び相手は、三女の紀子ちゃんであった。平市に滞在する時には、いつもこの三姉妹の家に泊っていた。
子供だったわたしには何故なのかは分らなかったが、その家には、わたしの家とは全く違う空気が流れていることだけはいつも感じていた。そしてそれは悪い感じのするものではなかった。大分後になってから気がついたのだが、伯父が、三人の子供それぞれの人格を尊重しつつ、平等に接している、という雰囲気をその時に感じていたのだと思う。
そうやってその家の雰囲気に包まれていると、どうしても出すことのできなくなっていた感情が、自然に出るようになっていたのである。例えば、こんなことがあった。頼子ちゃんと紀子ちゃんは同室で、子供部屋には二段ベッドがあった。ある日、その部屋で遊んでいるうちに、わたしはそのベッドの上段から落ちたのであった。その時、実際に感じた痛みによる辛さや悲しさ以上に泣いたのである。初めのうちは三姉妹が揃ってわたしを慰めてくれたが、いつまでも泣き止まなかったので、そのうちに栄子ちゃんが、
「放って置きましょう。」
と言って離れて行った。後の二人もそれに倣ったのであるが、わたしはその後も半時間ほどは泣き続けていたので、見兼ねたのか、頼子ちゃんが再び慰めてくれた。そのおかげで、ようやく気を取り直して泣き止んだのである。とにかく、わたしにとってその三姉妹の家は、涙を流すことのできる場所なのであった。自分の家や学校では泣くことができない分、他の場面でも、その家ではめそめそと涙することがあった。
十一
浪江小学校の遠足は、わたしが四年生の頃から春と秋に催される事になり、秋は、比較的近い高瀬川であった。
その川に架かる、最も海に近い橋の中程まで行くと、眼下に雑木林と竹林に囲まれた川のせせらぎがあり、その遥かなたに、阿武隈山地の連なりを見渡すことができる。反対方向には、太平洋の大海原が広がっている。よく晴れた日にそこへ立つと、堪らなく清々しい気分を味わうことができるのであった。
高瀬川では鮭漁が行われるので、岸から川の中程に向い簗が渡されている。その簗の辺りを見学した後、おひるは自由行動となり、河原でお弁当を広げる事になった。絹代ちゃんと交際が続いていたので、一緒に食べるつもりであったが、その時、別の女の子が、自分が絹代ちゃんと食べると言って、わたしを遠ざけたのであった。
そのような場合、わたしはすぐに引き下がり、多少つまらなくても、寂しくても、他の仲間に入ろうとはせずに一人で食べたのである。そういう時は、普段料理をしない母が、この日の為に作ってくれた、太巻き寿司だけが唯一の救いであった。
わたしが取ったこのような行動は、社交不安障害の症状の一つと考えられることが、大分経ってから解ったのである。後に不満は残るも、自分が我慢をして身を引く方が、誰かと争うよりは遣り易い、ということなのだ。何故その方が遣り易いのかは、わたしの場合は、心が萎えていたからである。家の外での生活が、他の場面でもこのようなことの連続なので、非常に精神的ストレスが溜まるのであった。それで、何かに八つ当たりでもしないと、やっていく事ができないという心境になっていたのがほんとうである。だからといってしていい訳ではないが、弟と喧嘩をして懲らしめていたのだ。
それでいて、社交不安障害であろうと思われるいくつかの症状とは矛盾するのであるが、成長するごとにプライドだけは高くなっていった。恐らくその為なのだと思うが、自分の心がボロボロに傷ついている事は、嫌な思いを心の奥深くに封じ込めて、誰にも言わなかったのである。また、そのような心理状態であっても常に二・三人の遊び仲間がいたし、学校に遅刻したことは一度もなかった。休んだのは風邪や水疱瘡などの為に熱を出した時だけである。なので、殆どの人はおかしいということには気がつかなかったのであるが、社交不安障害だと考えられる症状は、学校内のあらゆる場面で見受けられたであろうと思う。わたしは家の外では常に、目上の人や同級生たちに対して、異常なほどの羞恥心と恐怖心を抱いていた。だから、わたしの言動にはそれが表れていた筈なのだ。そして、わたしの様子がおかしいと気がついていた担任ではない先生が実際にいたのである。だが、おかしいと言うだけで何の手助けもしてはくださらなかった。このような場合、気がついた先生が、無償の愛でわたしの心を丸ごと包みこんでくれていれば助かったのだ。だが、実際はそう上手くはいかなかった。
これは後から思い出したので話が前後するが、四年生の夏にこんな事があった。母が自らの手で、わたしの為にワンピースを縫ってくれたのである。黄色と白、山吹色が混ざり合った、ノースリーブで衿なしのシンプルなデザインであった。母は、洋裁も編み物もできなかったので、仕上がりはよくなかったけれど、プロの職人が美しく仕立てた洋服を着る時よりも嬉しかったのである。
十二
翌年の春、わたしは五年生に進級した。
新しくクラスが編成され、担任の先生も替わった。新学年からの先生は、わたしの母親位の年齢の、とても優しく顔も声も美しい高山 麻子先生であった。
高山先生は、いつもクラス全員が仲好く、をモットーとして児童たちを指導していた。先生のその努力のお陰で、一年が過ぎる頃には、クラスがまとまってきていたと思う。そのうえ先生は、学習の教え方も上手かったので、わたしは授業が楽しかった。そうして、授業中にご自身の子供の頃のお家の様子などをよく聞かせてくださるなど、とても家庭的な雰囲気のある先生であった。そして何よりも嬉しかったのが、間違いを諭すことはあっても、児童たちを褒める事の方が多く、いつも優しい笑顔で、一生懸命に心配りをしてくださることであった。多分そういうことからなのだと思う。自分の教室には「おかあさん」がいると感じるようになった。だから、登校することができる朝が待ち遠しくて仕方がなかった。そして、絹代ちゃんとはクラスが別になった為に一緒に遊ぶことはなくなったが、同じクラスの篠原さんや高瀬さんと友達になり、他にも良子ちゃん、久美子ちゃんなど数人の遊び仲間ができた。それで社交不安障害であろうと考えられる症状が無くなったわけではなかったが、自分としては大分楽になったという感じがしたのだった。家庭内の環境は全く変わっていなかったので、それは本当に高山先生のお陰であることは確かであった。
当時の浪江小学校には、五年生と六年生の児童で編成する合唱部と器楽部があった。部員の選考は四月にクラスごと行われ、合唱部の場合は、課題曲をクラスメイトたちの前で一人ずつ歌い、先生の判断によって選ばれていた。わたしは人前に出ると、声が出なくなる程の緊張感と羞恥心がありながら、歌うことがとても好きであった。なので、五年生になったら是非合唱部に入りたいと思っていたのである。ところが五年生の春は、わたしに順番が回ってきた時、心とは裏腹に、思うように声を出すことができず、入部は叶わなかった。それでこの事に関しては、自分自身に対して、とても悔しい思いを抱きつつ、一年間を過ごしたのであった。
そこでわたしは、新年度の部員を選ぶ時が近づいたある日、今度が最後だ、家で歌っている時と同じように、大きな声を出して堂々と歌おうと決心した。
新しい春、わたしは合唱部員に選ばれた。
ようやく、自分の手でチャンスを掴むことができたのである。合唱部員は、放課後に毎日、講堂に集まって練習を行った。わたしは、練習に参加できたことが、ほんとうに嬉しく、毎日の学校生活が楽しく、今までにない充実感を味わいながら六年生のスタートをきったのであった。
その年の四月には修学旅行が催され、わたし達は松島と仙台市内観光を行った。バスを利用した日帰りの旅だったのだが、その時のバスガイドさんが、美しい声を持った若い美人であった。そのことが、わたしの好みと一致していたのだと思う。ガイドさんの歌に聞き惚れ、ゲームを楽しみ、わたしはバスの中が一番楽しく、修学旅行の良い思い出となった。
そのようにして一学期を充実感と共に終了し、夏休みに入った。
合唱の練習は七月末まで行われ、八月の休み明けまではなかった。
六年生の夏には、わたしにとって大きな出来事が三つあった。
一つめが、生まれて初めての引っ越しとそれに纏わることで、次が浪江小学校に初めてプールが作られることになり、それが完成したこと、最後は、人類初の月面着陸に関する報道だ。
初めての引っ越しというのは、父は、以前から住宅と店舗を切り離す計画を立て、そのチャンスを窺っていたのだが、この春、それを実行に移した為であった。予め購入してあった土地に、新しい家が完成し、引っ越しをしたのは八月に入った時である。
移ったばかりの頃は、まだ造園が成されていなかったので、道路よりも幾分高くなった、所々雑草が生えている原っぱのような庭の一角に、二階建ての大きな家と、門の傍に車庫が建っているきりであった。そして原っぱの周りは、東西に長く長方形に塀が廻らされていた。その土地の面積は二百坪なので、それまで暮らしていた店舗兼住居の1‘5倍近い広さなのだった。その頃は辺りに人家は殆どなく、北側を除く三方には水田が広がっていた。夏になって、成長した稲の穂が風に靡くさまを、二階から眺めると、まるで押し寄せる翠の波のようであった。田んぼに水が引かれてから七月までは、夜になると、窓ガラスを通して、蛙の大合唱が聞こえ、八月に入ると、それまで聞こえていたのが嘘のようにぱったりと止んで、今度は虫の音の響きに替り、寒くなるまで続くのであった。
それまで住んでいた店舗兼住居の方は、二階建てだった建物が、一部三階建てになり、新しい売り場や事務所及び休憩所になった。
次は浪江町立学校初のプール完成の事である。幼児期に患った結核の為に、三年生までの間は、夏になっても川や海に入って遊ぶことは禁止されていた。それでも四年生の夏からは毎年、泉田川や高瀬川、請戸の海水浴場などで水遊びができるようになり、そこへ今度は、学校のプールでの遊びが加わったので、泳ぎは殆どできないながらもとても嬉しく、楽しかった。
そして最後の月面着陸は、新築工事の半ばのことであったので、店舗兼住居の二階にかろうじて残っていた、二間続きの和室にあったテレビで観た。宇宙服で着膨れた飛行士が、ふわふわと月面を歩く様子はそれなりに興味深く、強く印象に残ったが、それと同時に、「月」はわたしにとってロマンティックな存在ではなくなった。
新居が完成すると直ぐに家財道具が運ばれ、親子が協力して新しい家の掃除や片づけをし、取り敢えず落ち着いた。この時、わたしはとても気持ちが良かったのだ。何故なら、新しい家もさることながら、目的を共有しつつ、親と子が力を合わせて何かをするということは、わたしが誕生してから初めての経験だったからである。その晩は両親と子供が揃って食事をした。今日からは、この家で暮らすのだ。満腹になったわたしは、新しいイグサの香りがする、お座敷の青畳の上に大の字になった。その瞬間、心はすっかり満たされた。最上級の幸福感に包まれたのだった。そうして、快い睡魔におそわれた。
その後幾日かが過ぎ、家中が片づいたところで、それまであやめ伯母の家に滞在していた祖父母が戻り、家族全員が揃った。ところが、それも束の間であった。祖父母が戻るとすぐに、父と母は、家で寝泊まりをしなくなったのである。当然理由を尋ねたが、返ってきた答えは、
「今までは店の二階で寝ていたからよかったが、こっちへきて、夜の間中、店を無人にしておくのは心配だ。」
というものであった。そう言われると、確かにその気持ちは分ったので、わたしは寂しい思いを我慢した。引っ越した先が、店から東方に500m位は離れていたので、それまで毎晩顔を会わせていた、さくら伯母と奈美は、入浴の為には新しい家に来られなくなった。伯母や従姉と過ごす時間は、非常に貴重なものであったから、わたしの精神的なダメージはとても大きかったのである。それでも、早朝から後片付け及び朝食の支度をしてくれたおばさんと、学校も以前よりずっと遠くなったのだが、毎朝送り出してくれた祖父のお陰で、表向きには何事もないかのように暮らしていた。
だがこの頃には祖父も、寂寥感や、居ても立ってもいられないような不安を覚えていたのである。
祖父は、何年もの間カナリヤを飼っていた。餌や水やりをし、糞の始末をするなど、世話をしている時、ほぼ毎日、優しく笑って、声をかけていた。とても可愛がっていたのだ。それなのに、新築工事の途中に、猫に引掻かれてあっけなく死んでしまった。新しい家が出来上がるまで世話になっていた、歯科医院に嫁いだあやめ伯母のうちには、カナリヤを一緒に連れていくことができなかったのである。その為、祖父と離れている間に、鳥かごは、安全ではない場所に移動されていたのであった。元気の良い鳥であったから、この移転さえなければ、もっと生きる筈であった。口には出さずとも、わたしには、祖父の寂しさがわかった。そして昔堅気で、職人肌のような祖父からすると、店舗と住居の新築の為に、父が、銀行に相当の借金をつくったことは、心臓を圧迫されるのと同様だったのである。
二学期の開始と共に、練習が再開されたので、わたしはとても嬉しかった。九月に入り、登校時の空気が清々しくなった頃、全国合唱音楽コンクールの地区予選が始まった。その朝も、わたしが
「行ってきます。」
と挨拶をすると、祖父がいつものように
「ああ、行っといで。」
と言って、庭から見送ってくれた。
コンクール会場は、平市内の小学校なので、早朝の列車に乗った。
浪江駅に集合した時は、晴れがましいような気分になっていた。
そのようにして、わたしは他の部員たちと共に、意気揚々と出発したのである。
器楽部は高山先生の指導の元、夏休み中も休まずに、相当の練習をしていた。その成果の表れであろう、第一次予選を通過したのだ。ところが、我合唱部は直ぐに敗退してしまったのである。それと同時に、合唱部は解散となり、その後は練習もなくなってしまった。八月の殆どを練習せずに過ごしたのである。一次で落ちるのは当然なのだが、子供だったわたしは、そういう事を知らなかった為、何の心配もせずに八月を過ごしていた。しかし、一次で敗れた後は、五年生は来年も出場するかもしれないのだから、三月の卒業まで練習をするといいのに、と強く思った。けれどそれは叶わず、家での生活が精神的な意味に於いて、根なし草のようなものであるわたしの、合唱部が解散したことによる喪失感は非常に大きかったのである。
誕生した時からそれまで、わたしと両親との間には精神的な意味に於いて絆は結ばれていなかった。それでも同じ屋根の下で暮らしてはいた。一緒に居れば、相手の動きを感じることはできる。それが、生活の場まで完全に離れてしまったので、親がすぐ傍に居ながら、居ないも同然という、初めから親が無いよりも辛い、無情と言っていい状況に陥ってしまったのである。それでも、学校では休み時間や放課後などには、クラスメイトたちとよく遊んでいたし、高山先生のお陰で授業も楽しく、普段通りの生活をしていたので、わたしの心の内は誰にも分らなかったであろう。秋の深まりに伴い、わたしの心は、家庭内に於いては、それまで以上に空を彷徨い出し、翌年から始まる中学校生活への不安感が芽生え始めた。
傍目には全く分らなかったが、この頃両親は、心身共にわたしたち姉弟から離れたのである。父と母は、夜の八時に二人で食事をして、入浴をする間だけ家にいた。子供とは会話はしていない。
「勉強しなさい。」
と一方的に言っただけである。弟は、学業成績に於いては常にトップクラスであったが、この頃は担任の先生とかみ合わず、悩みを抱いており、家ではわたしと喧嘩をして負け、
「死にたい。」
とよく言っていた。従って、弟の心も、わたしと同じように根なし草のようになっていたのかもしれない。
この事もかなり後になってから分ったのだが、両親が店に泊っていたのは防犯の為ではなかった。事実は、母が愛欲の虜となり、官能の海に溺れていた為なのである。父も大抵において母の言いなりであるから、同様であった。その事の為に、両親は完全に育児放棄をし、子供の心を放置したのである。後年、母はこの頃の自身を振り返り、
「あの時はおかしかった。」
と言っているのである。従って、冷めた頭の考えはそれであり、その渦中に居る間は気がつかないのである。やはり母は、自身が感じたその瞬間の気分に忠実に従い、遣りたいと思っていることを、実際に遣ってはいけない事であっても行動に移すのであった。そうして自身の父親の、女性関係に纏わる種々の出来ごとを非難しておきながら、自分も同様の事を遣っているのだという事実には気がつかないのであった。
十二月の、良く晴れて、凍てつくような寒い晩のこと、入浴を終えた両親は、いつものようにコートを着て歩いて店に向かった。わたしは塀の外まで出て父と母の後ろ姿を見送った。この時、無償に寂しさを感じた。この辺りは商店街からは離れているうえに、周りに建物がないので、電線など空を遮るものは何も無かった。刈った後の稲の根本が、寒さで凍りつき、そこいら中に、剣山を敷き詰めたような具合の田んぼの中に立って、東から西まで、首を廻らすと、空のみを見渡すことができたのである。東の端には、赤いテールランプの過ぎ去るのがちらと見える事から、開通したばかりの国道六号線が其処にあるのが分かり、そのすぐ上は空であった。西には、中途半端な高さの所から星が見えなくなる事から、其処に阿武隈山地の連なりのあることが分るのであった。そうしてわたしは、心まで凍るかと思うような冷気のなか、満天の星が、無数のアーチを描いているのを臨んだ。新しい家に越した日の晩、心が満ち足りて、最上級の幸福感に包まれた事が、幻であったかのような情況に陥っていた。
けれども、子供の顔や目を見ない父は、
「俺は広い庭で子供たちを遊ばせてやりたいと、ずっと思っていたんだ。」
と、それを実現させることが出来て、頗る満足気であった。やはり両親は、充分な物さえ与えておけば、子供は勝手に育つものだと本気で考えていたのである。和風庭園や、車庫の隣に作った花壇の他に、バドミントンが思いきりできるようなスペースのある、広い庭付きの家に住むことができていながら、心の拠り所がない根なし草とはどういうことかと、不思議に思う人々も居ると思う。けれども、子供にとって一番大切で、第一に必要なものは、親ないし親同様の人物との、心の絆なのである。わたしにはそれが無いのであるが、そのことは両親を始め、誰も知らなかった。
このわたしのように、子供の心の置き場が無いような家庭は、悪い事件の起きる可能性が高くなるのである。例えば、子供自身が病に侵される、あるいは何らかの悪巧みに巻き込まれる、最悪の場合は、親あるいは子供が取り返しのつかないような事件を起こしてしまうなどである。なので、そのような事態を避ける為には、親や祖父母などは、別の人間に生まれ変わる事は殆ど不可能なのであるから、心ある人々の愛情を込めた行いで、子供の心を救ってやることが必要だと思う。
両親がようやく家に戻ってきたのは、暮も押し詰まった頃であった。
大晦日の晩の出来事である。祖父はいつものように、神棚へのお供えの準備を始めた。お椀や受け皿、盃などの食器のミニチュアの銘々に、お雑煮や魚、その他のおかず、酒などを盛って供え、新年にお祈りをするのである。これは、長年に亘って祖父が行ってきた大切な慣わしであった。祖父が、食べ物などを盛る為に、母の手を借りようと声をかけた時である。母の怒りは瞬時に沸騰した。同時に相当な勢いで、ヒステリックに喚き始めた。
「暮のこの忙しい時に、こんなことやることない!今年からはもうこんなことはやりませんからね!」
と祖父を一括したのである。母のあまりの剣幕と形相に、祖父はがっくりと首をうな垂れて、折角揃えたお椀や盃などを、無言で片付け始めたのであった。本来であれば、和やかな雰囲気のもとにとり行われる、新年を迎える準備の筈が、母の態度により、非常にぎすぎすとした、険悪な空気が漂う大晦日になってしまった。わたしはその場に居合わせて、一部始終を見聞きしていたにもかかわらず、祖父の加勢をしなかった。いつも学校に送り出してくれているのは祖父なのに、である。祖父の心痛は大きかった筈なので、この時わたしが、母と対峙して長年の習慣を守ることが出来ていれば、祖父はもっと長生きをしたかもしれなかった。その時七十九歳であったので、必ずしもそうとは言えないのだが。
折角両親が家に戻ってきたというのに、楽しいお正月にはならなかった。この土地の習慣で、正月の初売りは一月二日であるから、十二月三十一日も営業をしている我が家にとっては、一月一日は、一家で新年を祝う重要な日なのである。その筈であったのが、こんな事になり、わたしは新年という節目を迎えた感覚を持つ事ができないまま、小学校最後の冬休みがあっけなく終わった。
あと二カ月余りで卒業である。わたしの心の奥深くに芽生えた不安感は、自分自身も知らないうちに広がり始めていた。小学六年生にもなると、子供の方から親に対してべたべたとスキンシップを求めることはしなくなるものである。ただ同じ空間を、ある一定の時間だけは共有したいと思っていた。ところが、わたしの想いは届いたためしがなく、夜八時前に帰宅していた両親は、子供を自分たちから遠ざけるのみであった。70年代は、チャンネル数の少ないなかで、週に四日程、洋画が放映されていた。食事を終えると両親は、自分たち二人だけで映画鑑賞を楽しむ為に、それまでテレビを観ていたわたしと弟を、毎晩居間から追い出すのであった。そういう場合もけして会話はしないのである。その時のセリフは決まっていた。
「二階へ行って勉強しろ。」
である。確か、007の映画が放映されていた時だったと思うが、わたしたち姉弟が、ドアに細い隙間を作り覗いて観ていたら、その時だけは部屋の中に入れてくれた。弟の場合は、母との間に心の絆がある程度はできていたから良かったのだと思う。わたしにはそれが無いので、母はわたしにとって、やはり片思いの相手としか言いようのないものであった。電流は常に、わたしのほうから一定方向に流れるのみである。こちらには、母を慕う気持ちがあるのだが、日常的に母の手料理を食べるとか、母が洗濯してくれた物を身につける訳ではないのだ。そのうえ幼少時から、暖かいスキンシップがあまり無いのと、心の交流が自覚できる会話が無いことが伴っている。従って、精神的な意味に於いて、母の存在を意識することは殆どできないのであった。わたしの為にと誂えてくれる洋服や小物と、冬の間布団の中に入れてくれる湯たんぽ、他に遠足の時や、誕生日に作ってくれる太巻き寿司やちらし寿司というのはあったが。
お正月が明けてしばらく経った頃に、インフルエンザの猛威が我が家を襲い、家族全員が次々と伝染してしまった。わたしが高熱に苦しんでいる時、冷たいタオルで額を冷やしてくれたのは祖父である。その祖父には、最後にうつったのだが、この事も寿命を縮めた要因の一つだったのかもしれない。
三月に入り、わたしはいよいよ卒業の時を迎えた。
学校を通じて募られていた、卒業記念の植木の苗を、祖父がこの時、随分注文してくれた。黄金ヒバを四十本と、他にヒマラヤ杉を六~七本である。わたしの卒業記念にということなので、とても嬉しかった。
卒業式の前日には、講堂で謝恩会が催された。メインの料理はちらし寿司であった。それまでは、給食にごはんが出たことは一度もなかったので、わたしは嬉しく、強く印象に残っている。
翌日、いよいよ高山先生とのお別れの時がやってきた。卒業式が済み、高山先生に見送られながら校門を後にしたのだが、この日の充実感と誇らしさは、生涯忘れることはないと思う。
十三
四月、わたしは浪江中学校の満開の桜並木の下を急ぎ足で歩いていた。前年の夏、中学校とは反対の方向へ移転した為に、学校までは2㎞近い道のりであった。わたしは小学校時代には遅刻をしたことは一度もなかった、にもかかわらず、中学進学早々、生まれて初めての遅刻をしたのである。この事は、心を傷つける大きな打撃となった。わたしは、何事に於いてもきちんとしないと嫌な性格なのである。大人になった今思えば、無理があったのがわかるのだが、その時は自分だけに責任があると思い込んでいたので、気持ちが暗くなった。
通学には堅いキャンバス地の肩掛けカバンを使用することになっていた。中学の教材は分厚く、非常に重い。そこへ辞書なども加わるので、さらに重みが増して、パンパンに膨れ上がったカバンは肩に食い込むようであった。先天性臼蓋不全股関節脱臼は完治するものでは無いが、当時は股関節に痛みを感じることはなく、左右の脚の長さも揃っていた。なので、障害の為というよりは、34㎏の体重及びわたしの肉体的パワーに鑑みて、カバンの重量と、学校までの距離が、体力の限界を超えていたというのが実際である。
当時学校では、八時までに教室に入らなければ遅刻とみなされた。学校からの距離が2㎞以上であれば、自転車通学を許可されるのだが、僅か数10mの差で、わたしの場合は許可が下りないのであった。わたしは自転車を使いたいと思っていたのであるが、両親はそもそも、学校の先生に相談を持ち掛けるなどという事はしない人たちである。自分の身体能力を考慮してくれる人が誰もいないので、不可能であることを可能にする為に、わたしは毎朝、賭けのようなことを遣るより他はなかった。歳を重ねて経験を積めば、このような状況の場合は、自分のほうから担任教師に事情を話すなどして相談し合い、自転車通学を特別に許可してもらうとか、移転をしたことで、500m余り学校までの距離が延びたのであるから、途中で降ろしても良いから車で送るようにと、親を説得してもらうなど、対策を講じることはできる。けれども、自分の心身の健康を守る為の術を知らなかった、まだ十二歳のわたしにはそれは無理であった。
もとより母は、起床が遅いので、それまで通り、自力で六時三十分に起き、身支度を整え、おばさんが作ってくれた朝食を摂って、排便を済ませ、七時三十分に家を出ていた。教室までは、どんなに急いで歩いても三十分はかかるのであった。中学校は給食が無かったので、普段料理をしない母が、おかずは一品か、多くて二品という、実にシンプルなお弁当を作って持たせてくれた。このように事が運ばれていればまだ良いのだが、家を出る時刻が一分遅れただけで、間に合わなくなるのであった。それならば、もっと早く起床すれば良いようなものなのだが、六時間ちかく睡眠をとらなければ身体がもたないわたしにはそれもできないのだった。
そして改善策が見つからないうちに、週に一度か二度、遅刻をするようになったのである。遅刻者は黒板に名前が書かれ、放課後まで消されることはない。遅刻をした日は、その事だけで既に、朝から気が滅入ったのであるが、傷心にムチが振り下ろされるかの如くに、担任教師の叱咤の声を聞き、クラスメイトたちからは、一日中白い目で見られたので、時間の経過に伴い、わたしの心にできた傷口は、どんどん大きくなっていった。
中学生位になると、先生から常に注意を受けている生徒に対して、必要以上に意地の悪い態度を取るようになるものである。精神的な意味に於いて、自分とは切り離し、物事を多方面から眺めることはできないながらも、独自の考えが芽生えてくる、この年齢特有のものであるが、幾人かのクラスメイトたちが、わたしに対して意地悪な態度を取るようになった。その当時、体操部に所属していた高梨 ひでみちゃんというクラスメイトと、たまたま彼女のクラブの練習が無かった日に、一緒に下校したことがあった。ひでみちゃんは、おっとりとした雰囲気の女の子である。
「今日の数学の時間は酷かったよね。」
校庭を出ると、でこぼこの坂道を下りながらわたしは言った。
「え、何?」
ひでみちゃんは直ぐには思い付かなかったらしく、わたしの顔を見た。
「ほら、先生が四人を黒板の前に立たせたでしょ。」
「ああ、あれか、そうだね。うん。」
ひでみちゃんは頷いた。
今日の授業中、三~四日前に行われたテストの用紙が戻されたのだが、その時、100点満点中10点未満の生徒を、担当教師が黒板の前に並ばせ、履いていたスリッパを手にすると、その裏側で生徒の頭を次々に叩いたのである。
「ああいう点数になったのは、あの子たちのせいじゃないわよ。」
わたしは言った。
「だってあの人たちは、小学校の教科書がよく理解できないでいるうちに中学生になってしまった筈だもの。そうでなければ、この間のテストで六点とか八点は有り得ない。クラスの中で、一人か二人は、なんで今さらこんな解りきったことを聞かされなきゃならないんだ、と思っているのよ。そうして、半分も理解できていない生徒が大勢いて、八割ぐらいは解っている子が二~三人いて、理解度がばらばらなのに同じ時間と空間を使って教えているのよ。だからあの子たちが悪いんじゃなくて、教える方の遣り方が悪いのよ。」
いつも感じていることを、わたしはつい口にした。
「そうなんだ。そう言われてみればそうだよね。」
と、誰かの顔を想い浮かべているような表情でひでみちゃんは応えた。
「それに、自分の子供があんな事をされたと知ったら、親なら怒るんじゃない。」
親でもないわたしが憤慨して言うと、
「そうだよ、あたしが親だったら怒るよ。」
ひでみちゃんも同調して言った。
その話はそれでお終いになり、後は食べ物の話題に移っていった。
ひでみちゃんの家は、学校からそう遠くはないので、お喋りをしながら歩いているうちに直ぐ見えてきた。
「こうして話してると、ひとみちゃんはいい人なのに、どうしてみんな意地悪を言うんだろうね。じゃね、ばいばい。」
別れ際にそう言い残して、ひでみちゃんは家のなかに入っていった。
ひでみちゃんは、悪気があろうとなかろうと、頭に浮かんだことは何でも、即座に口に出す性質である。それを聞いて、自分が知っている他にも、わたしを悪く言う人がいるのかもしれないということがわかったが、彼女が言うように、わたしは確かに、中学生になってから間もなく、言葉によるいじめを受けていたのだった。
まず、第一に遅刻の常習者であることがいけないということは明白なのだが、そうかといって早起きもできないのであった。なぜなら、初めのうちは部活動に参加していたので、夕方六時頃に帰宅して晩ご飯を食べ、その後に弟と一緒にテレビを観て、九時頃から机に向かい、各教科の宿題を終えると、時計の針は夜中の十二時をまわっており、お風呂に入って眠りにつくのは、十二時半過ぎだったからだ。六時間足らずの睡眠なので、それ以上削ることは無理であった。
お風呂上がりに何かを飲もうと台所に入ると、シンクの中に置かれた、水を張った洗い桶には、汚れた食器がうず高く積まれていた。
母は、自分が食事を終えた後の片付けもしないのであった。その為、わたしたち姉弟や祖父母のことを想ってくれていたおばさんは、自らの意志で、朝五時から夜七時まで身を粉にして働いてくれたのである。時には夜の八時を過ぎるということもあった。大気も凍てつく真冬の早朝、いつもどおりにわたしの家へ向っていたおばさんは、氷の張ったコンクリートの上で滑り、膝の骨が割れるという大怪我をしてしまった。その時も、
「だめだ~、ママは。恒実ちゃんが高校を卒業するまでは、何としてもやる。」
と、こう言って完治は望むことのできない片方の脚を引き摺りながら、往復すると1000m以上は歩くことになる、毎日の食材の買い出だしを含め、家事の全てをやってくれたのである。
このままだと遅刻となることが明白であった朝、わたしは母に、学校の近くまで送ってほしいと頼んだことがあった。すると車に乗せてくれた母は、
「こういう事はもう金輪際だめだからね!明日からは絶対に送らないからね!」
と運転席からわたしを睨みつけ、すごい剣幕で怒鳴って送り出すのであった。そのようにきつい口調で怒鳴られながら登校したわたしは、たとえ遅刻者というレッテルを貼られることはなくても、朝から気が滅入り、暗い気持ちのまま、その日を過ごしたのである。
母が店に出るのは毎朝十時過ぎだったし、何故そんなに怒るのか、わたしには分らなかった。両親は相変わらず、家の外でのわたしの行動については、特に無関心だった。なので、わたしが学校に遅れることなど、どうでもよいことであった。クラスメイトたちから言葉によるいじめを受けていても、その為に、社交不安障害であろうと考えられる症状が悪化しても、全く気に留めることはなかった。
そして両親が関心を持っていた事柄は、自分自身が如何にして快適に暮らすか、ということに尽きるのであった。
中学校生活が遅刻からスタートしたのもいけないが、他にも不運なことがあった。わたしは、中学校に進学してからも、合唱部に入るつもりでいたのであるが、肝心の合唱部が、当時の浪江中学校には無かったのである。仕方なくテニス部へ入部したのだが、スポーツが得意ではないのに、運動部を選んだのは全くもって誤りであった。それでは何故テニス部にしたのかといえば、以前、毎晩一緒にお風呂に入っていた従姉の奈美が、中学の時にテニスをやっていたという話を思い出したからである。何も考えず、軽い気持ちで入部して、初めは部活動に参加していたけれど、すぐに練習について行くことはできなくなった。当時は部活動に対して厳しい規定はなかったので、席はおいたままで、クラブを頻繁に休み、ごくたまにしか顔を出さなかったのだが、それでも休み初めたばかりの頃は、特に非難の目で見られることはなかった。
ただ、中学校生活というのは、部活動を中心として人間関係が構築されていくようになっているので、合唱部が無いということは、その時点でわたしにとっては非常に不利であった。部活動に参加することによって友達ができ、同じ目標に向って日々の練習を重ねることで、仲間どうしの連帯感が生まれ、心の絆ができるのだ。顧問の先生が熱心な方で、尚かつ生徒の心や体を壊すような虐待がなければ、先生との絆も強くなる。すると充実感のある楽しい学校生活を送ることができるようになるのである。
ところがわたしの場合、自分が入部したいと考えていたクラブが無かった。そのうえ、入学して間もなく、ことばによるいじめを受け始めた為に、高山先生のおかげであまり出なくなっていた、社交不安障害だと考えられる症状が、再び現れてきたのであった。先生や同級生が訳もなく怖くなり、不安を覚えるのであった。そうなると、ますます友達をつくることが難しくなるので、孤立感が深まり、精神的ストレスは溜まる一方であった。そんなわたしとは違う小学校時代の友達は、それぞれの部活動に励み、新しい友達をつくっていた。
それからこのような事もあった。六年生の時に一緒に遊んでいた、近所に住む高瀬さんとは、中学校に進学してからも交際していたのだが、一学期が始まって間もない頃に口喧嘩をして、それ以来会うことはしなかった。家族以外の人と喧嘩をしたのは、その時が初めてである。そうして、会わなくなってから初めて、高瀬さんに再び会いたいとは思わない自分、高瀬さんと遊ばなくなったことによる寂しさを全く感じていない自分に気づいたのである。なので、真に心が通じ合っている為に、交際をしていた訳ではなかったのだ。
わたしは六年生の時のように、同じ目標に向って練習に励み、そのなかで、本当に心を通わせることのできる人を見つけたかったのである。しかし現実は、合唱部はなかったし、クラスメイトからは言葉によるいじめを受けていたので、学校でも家と同様に、精神的な意味に於いて、わたしの居場所が無いという状況に陥ってしまったのであった。
さらに、遅刻をすることにより感じる後ろめたさは、社交不安障害であろうと考えられる症状の悪化に拍車をかけた。それでも両親は、わたしが遅刻をすることで悩んでいることにも、学校に於いて言葉によるいじめを受け、生きづらさを感じていることにも、社交不安障害であろうと考えられる症状が現れて、苦しんでいることにも、全く気がついていなかった。というより、気づこうとしないのであった。わたしとは心が繋がる会話をしないから、気づくことはできないのであった。そうして母が話かけてくる場合は一方的であった。
「これだけ生活の面倒をみてやってるんだから、親を敬い、こっちの言うことをちゃんと聞きなさい。」
「あんたを育てているのはあたしなんだから、あんたの将来について、あたしには口を出す権利がある。」
こんな具合に脅しをかけてくるのである。母の場合は、子供を育てるのは当たり前の事ではないのだ。育児に於いて、自分が費やした時間と労力に対する代償として、権利を主張しているのである。すると当然、母には無償の愛というものは無いのだと言う事に帰着する。それで日々の暮らしが、あらゆる場面で、当たり前の事のように、母を最優先するものとなっていたのであろう。
小学生までの間は、家が近いという事だけで、遊び友達が出来たものだが、中学生になってからは、わたしの場合、なかなかそういう訳にはいかなかった。気持ちが通い合うのでなければ、わざわざつき合おうとは思わなかった。そんな時、親や、それに替わる人との間に、心の絆ができていれば問題はないのだが、わたしのように絆が無いと、精神的な意味に於いて、完全に孤独な状態となってしまうのである。そのことが、日常の様々な事象から受ける精神的ストレスを、さらに増幅させた。事実はそうなのであるが、その時も、わたしの心理状態に気づいている人は誰もいなかった。
部活動に参加をしないわたしが、放課後に何をやっていたのかといえば、帰宅の途中にあるうちの店に立ち寄り、従業員や美容部員の人たちと少しおしゃべりをした後、ファッション雑誌や漫画本を、余程真剣に読んでいたのだった。それから店にあった商品もよく見て、ほぼ閉店時刻になるまで、おしゃれの世界に浸っていた。
ボディ用のエマルジョンを使い、自分で簡単にできるスキンケアをし始め、オーデコロンの香りに興味を抱くなどをしたのも、この頃である。
そして私服など持ち物はいつも、その時代の最新のものを身につけていたので、ちょっと見ただけでは、幼児期と同様、心が傷つき、病んでいる少女だとは分り難かったと思う。実際には居なかったのだが、それでも仮に、誕生したその時から、わたしの行動をよく観察している人がいたとすれば、心の傷口に気がついた筈なのだ。何故なら、わたしは生まれつき几帳面な性格であるにもかかわらず、登校する際に、遅刻をするようになったからである。そうして完全主義的な性格でもあるので、本来であれば、このような事は考えられないのであった。
学校の先生などが、子供達一人一人の行動を、つぶさに観察し、性格を把握することは難しいと思う。それでも遅刻や欠席、あるいは毎日登校はするも、部活動は休んでいるなど、そういう面に着目して注意を集中させると、実態を把握することができるようになるのではないだろうか。本来子供は、先天性精神疾患などがない限り、大抵に於いて、子供同士で遊ぶのが好きである。なので、問題が一つもなければ、子供が集まる所も好きなのだ。そうしてみると、遅刻をするとか、頻繁に休むというのは、本来持ち合わせている子供の特性と矛盾する行動なのである。そこから、定時に登校することが困難となる要因が、家庭か学校のどちらか、あるいは両方にある可能性を探っていくことができるのではないだろうか。わたしの場合は、遅刻を例に挙げると、第一に両親に問題があったのだが、担任の先生は、生徒自身の怠慢に因るものだと断定して指導を行っていた為に、実態を見抜くことが出来なかった、のみならず、生徒を救うこともできなかったのである。親など、育児に携わっている人物から、日常的に精神の支配を受けていると、心に負荷がかかり、精神的エネルギーが低下する。その為、学校生活を予定通りに遂行していくことが、簡単ではなくなるのだ。
親や祖父母から受けた精神的・肉体的虐待の為に、社交不安障害であろうと考えられる症状が現れてから、この時点で既に十年近い歳月が流れていた。それでも、発熱などの理由が無い限り、学校を休んだことはなかった。その為、精神的な意味に於けるエネルギーは、消耗され尽くしかけていたのである。
わたしが中学校へ進学した1970年は、大阪で万国博覧会が開催された年でもあった。
父方の祖父は、かねてより国内を巡る旅をしていたのだけれど、景色を眺めるとか郷土料理を楽しむ等、単にそれだけではなく、旅に心を注いでいるといった感があった。旅行から戻ると、大抵に於いて詳細な旅行記を認め、それを音読して録音をする事もあった。
それだけ熱心である故、日本で万博が開催されるのを喜び、見学してくる事を相当楽しみにしていたのである。大阪までは列車での旅になるのだが、当時の常磐線はまだ不便で、余程の時間を要した。そこで祖父は、長旅を前に、念のため掛かりつけの医師のもとへ行き、健康診断を仰ぐことにしたのである。
五月に入ってすぐのことだった。気楽な気持ちで医院へ行った筈が、祖父は、医師から絶対安静を言い渡されてしまったのである。本人はもとより、わたしにも知らされはしなかったが、心臓に病が見つかり、相当重篤な事態だということであった。
わたしが学校から帰ると、まだ明るいというのに、お座敷に布団が敷かれ、祖父が寝ていた。それまで祖父との暮らしは、十二年余りであったが、そのような事は、先頃のインフルエンザの他には憶えがなかった。床に就いて初めの一日・二日は、テレビを観るくらいの事はできていた。その時、祖父は真剣に見入っていたのだが、画面に映っていたのは、父方の叔父の姿であった。叔父は後に、富士ゼロックスに入ったのだが、当時は大学講師を務めており、NHK教育番組にも出ていたのである。
叔父の講義する姿を観る事ができた次の日あたりから、祖父の容体は日ごとに急激に悪化し、五日経つか経たないかのうちに亡くなってしまった。わたしにとって大切な祖父との時間は失われた。前年の移転の為に、さくら伯母や奈美と過ごす時間も殆どなくなっていた。従って、日々の暮らしのなかで、心を通い合わせる相手は、弟だけということになってしまったのである。
中学校生活は、不運が重なるスタートになったが、その後何処を取ってみても、改善されることはなかった。
学業成績は上位20%以内だったけれど、両親のわたしに対する不満は、小学校の時と同じであった。非難するばかりで、褒めることはなかった。両親が望んでいるような結果を出さないからである。
そうして、わたしの心は、親が吐き出す非難の言葉を、海綿の如く、非常な吸収力でもって吸い取るのであった。
わたしは、中学一年の夏休みに、それまでは感じたことのなかった漠然とした不安を感じ始めた。初めての感覚であった。自分の足元が崩れて行きそうな感じであった。祖父を亡くした事による悲しみの為という風に、そのようになる原因を、自覚する事はできなかった。訳もなく、なのである。小学生の頃は、必ず、誰かしら遊び友達がいたので、精神的エネルギーを補充する機会があった。
けれどこの情況だと、それが全くない。その為、言いようの無い不安感を覚えるほど、心の活力が低下していたのだと思う。
また小学校時代には、学習に於いて、理解できないということはあまりなかったのだが、そのようなことも出てきたのであった。
そうかといって、誰かに質問しようという気力はでなかった為に、解らないところはそのままになってしまった。両親にも話してはいない。第一、幼い頃から、どんなに困ったことがあっても、親に相談はできなかったのだ。話し難い事を話したいと思っても、それを伝える機会がないのである。
両親のほうにも、子供と相談し合うという習慣は無かった。なので、親が何かをする場合は、既に決定した内容を、後から知らされるだけであった。そうして決定された事柄に異議があっても、覆すことはできないのであった。それはまるで、誕生した時に両親がわたしに付けた、精神的な意味に於ける手綱を、強く締めているような具合であった。
このような親子関係だと、困ったことが起きた場合であっても、相談ができないので、全ての問題が、未解決のまま放置されることになる。また、納得のいかない事であっても、親に従わざるを得ない。そして、親の協力が得られさえすれば解決する事でも、それが叶わない為に、生きづらさを感じながらの生活を余儀なくされる。
その状態が長く続くと、子供の心の奥深くに、澱のようなものが溜まっていくので、いずれはその重みに耐えかねて、心が折れてしまう。
その年の秋頃だった。その晩は、自分の部屋ではなく、わたしはたまたま、両親の寝室の隣の部屋で寝ていた。すると、母のすすり泣く声が聞こえてきて、それは次第に苦しみの声に変わり、なかなか止まなかった。わたしは恐ろしくなって、
「ママ、ママ、どうしたの、ママ。」
と叫びながら両親の寝室のドアを叩いた。途端に母の声は止んで、
「おかあさんが寝ぼけて寝言を言ったんだ。」
という父の声がしたので、ほっとして眠りについた、という出来事があった。そのような具合に、両親は、自分たちだけの楽しみに耽ることを優先して暮らし、その為に、わたしを学校に送り出すことに支障をきたしていても、改善しようとは考えなかったのである。
一年が過ぎる頃には、心ならずも、週に二~三回、いつも一分から三分なのだが、遅刻をし、それが習慣のようになっていた。そうして、クラスメイトの幾人かはその度にわたしを蔑んでいたので、心が晴れることはなかった。
その頃には、小学一年生の時から続けていた、書道を止めていた。
学業に於いては、多少の不安を抱きつつも、三学期は上位7%に入る成績で、両親の批評も悪くなかったので、とりあえず悩まずに済んだ。
けれども、困ったことにこの一年間は、友達が一人もできなかったのである。そのようなことは、就学以来、初めてのことであった。
なので、この冬に浪江の映画館で上映された「小さな恋のメロディ」は一人で観にいくより他はなかった。
良く晴れた日曜日の昼間、映画館の周りは、わたしと同年代の子供たちで埋め尽くされていた。殆どが同じ学校の生徒である。その瞬間、ひしめき合っている生徒たちの、ただの一人とも、わたしの心は繋がっていないことを感じた。人波のどよめきが増すのに比例して、わたしの孤立感は強まった。中学生になって間もない頃に、真に心が通じる相手でなければ、付き合うに価しないと感じ、ただの遊び友達は作らなかった。けれども、そういう相手が現れるまでは一人でも良いと、覚悟を決めた訳でもなかったのである。
こんな事があろうが、夕飯時に、親と一緒に食卓を囲み、温暖な心の交流のある会話があれば、100%とは言えずとも、子供の孤立感の殆どは拭い去られるのである。ところが、この日もわたしには、冷えた心が温まるような、時間も空間もないのだった。両親は、いつものように何も知らずにいた。正確に言うと、わたしの日常生活や心の中を知ろうとはしないのであった。
その当時うちの店で流していた音楽を、ずっと後まで憶えていたので、記憶に残っている旋律を頼りに、何年も経った後、何の曲であったか調べてみたら「シャドウ・オフ・ユア・スマイル」や「レインドロップス・キープ・フォーリン・オン・マイヘッド」などであった。聴き直してみると、やはり記憶は正しかったということが分ったので、わたしが店に居た時間は、結構長かった筈なのである。それでも、両親はわたしの表情を見ないし、会話もしなかった。そして遅刻を始め、クラブ活動・言葉によるいじめやその他についてのわたしの悩みなどは、両親にとっては、まるで別の惑星の出来事と同じなのであった。
十四
二年生に進級する際には、クラス編成が行われ、小学二年以来、久しぶりに、三島 ともみちゃんと同じクラスになった。ともみちゃんは心根の優しい少女である。昔一緒に遊んだ仲間だったこともあり、二人共、自然に打ち解けて、話をするようになった。そして、毎日ではないが、お喋りをしながら一緒に下校することもよくあった。
ところが、松下 真由ちゃんというクラスメイトが、自分が三島 ともみちゃんと交際したいが為に、わたしに対して、嫌みを言う意地悪を繰り返して、わたしをともみちゃんから遠ざけたのであった。そのような場合にはやはり、わたしは社交不安障害であろうと思われる症状が出て、何も言わずに、ただ黙って、自ら引き下がるのであった。すると、心の奥に、澱のようなものが溜まっていくのだが、自分ではどうすることもできなかった。それと、わたしがすぐに身を引いたのは、三島 ともみちゃんが、松下 真由ちゃんと交際するのは何故なのかが分っていた、ということもあったのだ。ともみちゃんが、わたしよりも松下 真由ちゃんと話をするのは、他にも訳はあるだろうが、恐らく、お互いの一番の関心事が一致している為に、心を通わせ易いのだろうと、想像したのである。
その頃女子の間では、秘かに想いを寄せている男子生徒の名と、それについての悩みを明かし、お互いの秘密を共有したうえで、励まし合いながら、信頼関係を築いていくということが多かった。だから、大抵の女子の間で交わされていた話は、好きな男子生徒に関する事であった。
ところがわたしには、好意を抱くような男子は一人もいなかったのである。それで、正直に真実を話すと、仲間はずれにされてしまった。このままだと、また一年生の時のように、孤立感を味わうだけで一年間が過ぎてしまう。そこでわたしは、仲間に入れてもらう為に、嘘をつくことを思いついたのである。わたしは本来嘘が大嫌いで、特に、自分の心を偽ることには耐えられない性格なのであるが、友達付き合いをしたいが為に、仕方なく虚偽の相手を見つくろい、三島 ともみちゃんに告げたのであった。そうなると、ともみちゃんとしても楽しく感じるらしく、再びわたしと話しをするようになった。そうして当時の中学生が、列車を利用して買い物に行くなどは珍しい事だったのだが、平市にオープンしたばかりのイト― ヨ―カド―を、二人で訪れたこともある。だがこのようなことをしても、当然であるが、わたしの気持ちが良くなる訳はないのだ。一つ嘘をつくと、さらに嘘を塗り重ねなければならなくなる。そしてその嘘は、適当に見つくろった相手を、わたしが如何に好きであるかということを、ともみちゃんに告げるものなので、余計に気分が悪くなるのであった。その後は益々嘘が膨らみ、今さら撤回することはできないという状況になったので、わたしがついた嘘はそのままになり、心は益々沈む一方であった。
丁度その頃、教育実習生として、わたし達のクラスを訪れた大学生がいた。実習生は一人で、実習期間はひと月かふた月だった。色白の、優しい男子学生であった。好きだという感情は湧かなかったが、わたしが中学生の時に気になった男子は、この大学生だけである。
そうこうしているうちに、夏休みに入った。
それまでの夏は、海水浴に行くことはあったが、請戸の浜などで二~三時間遊ぶ程度であった。ところがこの夏は、海辺の近くの古い一軒家の離れを借りて滞在する、ということになったのである。其処は相馬市の原釜地区にある家で、原釜海水浴場までは徒歩三分位であった。その離れには台所はなかったので、庭で、七輪を使って煮炊きをすることになった。そこを借りてくれたのは母方の祖父であった。祖父は真新しい小型テレビも買ってくれた。
そうして二週間程そこに居たのであるが、前半は母方の小百合叔母が、小さな従弟たちを伴って一緒に滞在し、賄いなど、生活の面倒をみてくれ、その後半は、うちのおばさんが遣ってくれたので、わたしたち姉弟と従弟は、毎日海辺へ行くなどして、一日中遊ぶことができた。両親は、子供たちがそこに滞在している間は訪れてはいない。車を使わなければ不便な場所なので、行きと帰りだけは、母か、もしくは店の従業員の誰かが、送り迎えをしてくれた。
その夏は晴れの日が続き、風も穏やかで、日々海水浴日和であった。
午前中は毎日海へ行き、昼ごはんの後は西瓜などを食べ、夜は花火で遊ぶなどして、思いきり楽しむことができた。
そろそろ引き上げるという日が近づいた頃、長期の休みにはいつも、お互いの家に滞在しあって遊んでいる、従妹の紀子ちゃんが来てくれた。紀子ちゃんが来た時に、何故そのようなことになったのかは、自分の身に起きていることでありながら全く分らない。
紀子ちゃんと共に、海辺で遊んだ後、狭い畑の端に葵が咲き乱れているのを見ながら脇の細道を辿り、離れに帰って一緒にお風呂へ入った。その時に、突然現れたのである。その家のお風呂場には、シャワーがなかったので、身体を洗った後で掛け湯をするのだが、浴槽に入っていたお湯をわたしは全部使ってしまった。桶を使ってバシャバシャとやっているうちに夢中になり、いつの間にかお湯が無くなってしまった、という感覚であった。後から入る人の分まで使いきってしまったので、きまりが悪かったが、そのことを告げて謝った。その後はまたいつもどおりの自分に戻って、皆でその家を後にしたのであった。
それから夏が過ぎ秋も深まったが、日々の生活に於いては、ストレスが溜まる一方であった。特に、心ならずも遅刻の常習者であることが、わたしの気持ちを萎えさせた。担任の先生からもその度に叱られていた。一年生の時ほど白い目で見られることはなかったが、遅刻をしている事への後ろめたさを、自分自身が常に感じている為に、次第に自信を失い、クラスメイトと話しづらくなり、遊ぶ機会は少なくなった。ただ、そのせいで、家での時間の使い方に新しい習慣が加わった。それまではたまに読書をすることはあっても、習慣とまではなっていなかった。ところが皮肉なことに、友達付き合いが少ない為に、文庫本を読む機会が増えたのである。物語の世界に浸っている間、わたしの心は和んだ。
両親が、このあたりで、わたしの心の深い傷に気がついて、自らの行動と、わたしに対する認識を、180度転換してくれていれば、間に合ったであろうと思う。ところが、事実はもっと酷くなるばかりであった。その頃からわたしは、週に二~三日は、お弁当の替わりに、パンを買わざるを得なくなっていたのである。
それまで感じたことのない強い不安感に包まれて冬休みを過ごした。弟と遊んでいても楽しくないというのは、この時が初めてである。ゲーム遊びが上手くいかないから、というよりも遊びそのものに集中する事ができなかった。
何故不安を感じるのか。その原因の一つは、成績が下がっていた事にある。田舎の学校なので、それだから優秀だという訳ではないが、前年の今頃は上位7%以内の成績であったのに、今は辛うじて20%以内に入っているという程度だ、と思うと不安感が募るのであった。模擬テストの結果は、250点満点中170点台なので、二学年でこの成績だと安心はできないのだった。わたしが入学した年度に、浪江中学校は、浪江中、苅野中、大堀中の三校が合併し、統合浪江中学校となっていた。新しい校舎がまだ建設されてはいなかったので、初めのうちは形だけの統合であったが、二年生に進級する時、苅野中の生徒が加わったので、一クラス増えたのであった。従って、同じ学習の仕方だと、席次が下がるのは当然なのである。それなら、解らない箇所を、先生などに質問して教えてもらえば良いのであるが、恐怖心や、極度の羞恥心を抱えている為に、そういう事はできないのであった。
その他の不安の原因は、二年生になってからは、ともみちゃんと付き合ってはいるものの、わたしが嘘をついているから交際が続いているのだと感じていて、本当に心が通じ合っているかというと、自信がなかったからである。風が吹いただけで後片もなく消えてしまう、砂の城を築いているような感があった。そのような事から、一年生の時とは少し違うのであるが、学校に於いても、安定した心の置き場が無いことには変わりがなかった。
クラブ活動にも問題があった。運動が苦手であるにも係わらず、誰にも相談することなく、軽い気持ちでテニス部を選んだ事は失敗であった。自分の方から転部の希望を出すことなどは、思いつきもしなかった。なので、それまで通り、ひと月に一日か二日だけ顔を出していたが、たまに練習に参加をするだけの部員は、他の部員たちからは、白い目で見られて無視されるようになった。このようなことも、わたしとしては非常に辛かったのである。
そうして心が不安定になる一番の理由は、遅刻の常習犯であることだった。ほんとうは遅れたくはないのだが、いつも一分から三分遅刻するのであった。さらにそれが半ば習慣化されていた。やはり、わたしの身体能力と、家庭に於ける生活のサイクルが、定時に登校することを阻んでいたというのが事実なのであるが、それを自力で改善させることは不可能であった。そこへわたしの完全主義的な性格が、遅刻をする度に、自分の心に大きな負荷をかけていったのである。そのように精神的な意味に於いて、完全な負のスパイラルに陥っていたのであるが、この事に気づいてくれる人は皆無であった。そうしてわたしの方からも、誰かに助けを求める事はできなかった。
わたしの場合、たとえ短時間であっても、日々心の通じる相手と言葉を交わすということが、精神的エネルギーを補充する為には必要不可欠なのである。元より、親が子供との団欒はしないうちであったが、祖父がそれを補ってくれていた。ところが、祖父は逝ってしまったのだ。その上、嘗ての、さくら伯母や従姉とのお風呂の時間のような、心の疲れをとる機会は殆どといっていいほど無かった。
そうして、自分一人でおしゃれや物語の世界に浸ってみても、わたしが求めている会話や心の交流はそこにはないのであるから、多少のストレス解消にはなるも、失われた精神的エネルギーを充満させる為には、それでは全く足りなかったのである。
それ故だと思うのだ。わたしの心の一部が、無意識下の意識で、現実社会からの逃避を望み始めたようだった。
通学路の途中に踏み切りがあったのだが、下校時にそこへ差し掛かると、乗客を沢山乗せた急行列車を通過させる為に、それが遮断されることがあった。わたしは踏切の前で立ち止まり、通過する列車を見上げながら、
「これに乗って何処か遠くへ行ってしまいたい。」
と切望している自分を、心の奥深くに発見した。
だが現実には、毎日学校があるのだから、何処へも行けないことは分っているのだ。なので、自分でも気づかないうちに心が作用して、居ながらにして、現実社会から逃げる為の行動を、試み始めたのだと思う。
生きづらさを感じ始めて十年である。
初めのうち、それは全くかたつむりが這うような速度でやってきた。
僅かの変化に、最初に気づいたのは自分であるが、はっきりと自覚するまでには何カ月もあった。そしてわたし以外の誰も気がついてはいなかった。それまで経験したことは無かったのだが、いつの間にか、頭では分っている事を、心では納得しづらい、その為とても心配になるという心理が働いてきたのである。
夏に、海辺の家で浴槽を空にしたことがあったが、それは特別な理由があってのことではなかった。その時の事はただなんとなく、である。しかし、今度の場合はちゃんとした理由があった。
新しい家に引っ越してから、トイレが初めて和式の水洗になったのだが、この冬の終わり頃から、水が跳ね返ってくるのではないかという不安を感じるようになったのである。それは、あくまでも不安であるという気持ちであり、実際に跳ね返りを感じている訳ではなかった。それでも、不安感は消えないのであるから、実際には何も起きてはいないことを解っている頭と、心配でたまらない心とが鬩ぎ合っていたのである。そこで思いついたことは、トイレの後でお風呂場へ行き、足を洗うことであった。学校から帰った時も、ソックスを脱いだ後に、必ず足を洗うようになった。それをしばらくの間続けた頃である。次は、トイレに対して恐怖心が湧いてきた。幽霊などへの恐怖ではなく、トイレは不潔なものと断定したうえで、トイレの一部にでも触れた手では、自分の身体や身に付けているものには、絶対に触らないことにした。そこで、左右の手に役割分担をさせたのである。その為、動作の全てに非常に時間を要した。ただトイレの後の手洗いは、その頃は水で洗い流すだけで済んでいたし、余計な時間を要してはいなかった。そして日常生活に支障はなかったので、わたしの異変に気づく人はいなかったのである。
その頃学校では、体育の時間に、創作ダンスという授業が行われていたのだが、わたしは歌うことが好きなだけではなく、ダンスも大好きで、学校に於いて、ようやく楽しみが出来たところだった。
その上、わたしの属するグループのメンバーが皆、独創的で決断力があり、協調性も備えていた為に、選曲から振付まで、スムーズな流れのなかで、楽しみながら創作を完成させることができたのであった。その時のグル―プのメンバーの中に、当時生徒会の役員だった、国枝杏里さんがいた。彼女は、教室でも時々言葉を交わす相手だった。完成した創作ダンスは、体育館のステージ上で、全校生徒を前に披露したのであるが、その当時流行していた、フォーリーブスの、「地球はまわる」という曲に合わせて踊っている時、わたしはとても楽しかったし、充実感を味わっていた。
そうする間に、何とか三学期をやり過ごして春休みが始まった。
この春休みには、わたしは東京・横浜方面と、平市の従妹の家へ行っているのである。東京では品川のスケートリンクで遊び、横浜では山下公園を散策して、氷川丸の内部を見物した。その後、平市の従妹とも、いつもの休みのように過ごしていた。なので、その頃はまだはっきりと現れてはいなかったのだ。
十五
わたしたちが三年生に進級した春、新しい校舎が完成した。
ただ完成とはいっても、三階建ての建物ができただけであり、体育館やその他の施設は何もなかった。一年生の時には、グラウンドを使用することができていたが、二年生の途中からは、校舎の新築工事が始まった為に、校庭は使うことができなくなった。それで体育祭などの行事は、二年生になった時から中止となっていたのである。
新校舎は、広いグラウンドを挟んで、旧校舎と向き合う形で建っていた。校庭は、以前として工事現場であることに変わりはなかったから、落ち着いたとは言えなかったし、わたしは、旧校舎の建物に挟まれた中庭が好きであったから、それが取り壊される事を残念に思い、悲しくもあった。それでも毎日使う教室などは完成していたので、わたしたちは新校舎に引っ越しをして、学習をすることになった。
その頃は一年ごとにクラス編成があり、進級する際には、担任の先生も替わった。新しい担任は、時たまニッと笑うことはあるも、大抵しかめ面をしている、中年の男性教師で、宇部先生といった。そうしてこの年度からは、大堀中の生徒も加わったので、わたしたちの学年は三百名を超え、最初の四クラスから七クラスとなったのである。
新学期が始まって直ぐのことである。学級委員を選ぶ選挙が行われた。学級委員は、一クラスに男女二名ずつ、計四名選出することになっていた。それがこの時、どういう訳か、わたしが選出されたのである。もう一人の女子は、創作ダンスの時間に同じグループで活動をした、国枝 杏里さんだった。学級委員の選出があった日の放課後のことである。帰り仕度を終えたわたしが、カバンを肩に掛けて、教室の戸口に向おうとした時に、宇部先生がわたしを呼び止め、こちらへ来るようにと言った。このような時に、わたしは普通以上に緊張するのである。何だろうと思いながらカバンを机に置いて、わたしは教卓の脇に立った。すると先生は、
「学級委員が遅刻をするようでは示しがつかないんだよ。毎日遅刻をしないで来れるかい。何なら学級委員は辞退して、他の人に代わってもらってもいいんだよ。本当に遅刻をしないで来れるのか。」
こう言ったのである。これが、始業式の日か、またはその翌日に、新しい担任の先生から初めてかけられた言葉である。そして先生は、立場上当たり前の事として、生徒指導を行っていたのである。
正直な胸のうちを話すと、遅刻を全くしないで登校する自信はなかった。だが、今の先生の言葉と言い回しに、わたしのプライドは非常に傷ついたのであった。それで、
「はい、大丈夫です。」
と答えたのであった。ところがそうは言ったものの、少しも大丈夫ではなかった。わたしは、いままでどおり時々遅刻をした。やはり自力で、それまでよりも早く起きたのだが、トイレの後は足を洗わなければならないと決めたので、身支度を整えて、七時三十分に家を出るのはようやくのことであった。
そして、学級委員になったことや、その為に今までのような訳にはいかないことを、家族の誰にも話してはいなかった。多分、話しても無駄だということが分かっていたからだと思う。また宇部先生も、親を絶対的な存在として、信じて疑わないという態度を崩すことはないのだった。それ故、遅刻については、わたしの怠慢以外の何ものでもないと決めつけて叱るのであった。このように、先生に叱られた時に、本当に自分に落度がある場合は納得がいくのであるが、その時、論理的な説明はできないながらも、納得がいかないという心境であった。本来であれば、はたらいている筈である、家族としての機能が、うちにはないのだ。とは言えなかった。遅刻はいやだと、一番強く思っているのはわたしなのであるが、自力で、両親の思考回路を変えることはできなかったのである。高校受験を控えた三年生のスタートは最悪なものとなった。
もとより筋力も体力も無いわたしが、体重の七分の一の重量がある肩掛けカバンを下げ、徒歩で2㎞近い道のりを行くことは、時間に制限を設けないとしても相当な無理があった。それを時間制限つきで強いられたのだから、出来なくて当然なのであるが、子供である十四歳のわたしには、どうすることもできなかった。その事に関しては、肉体的な意味に於いて、先生と親の双方から、理不尽な要求をされていたのである。
わたしの親は、定刻に間に合うよう、学校に送り出すこと等に全く関心が無かった。住居と良質の衣服と食物さえ与えておきさえすれば、放っておいても子供は勝手に遣るものだと考えていたのである。実際、小学校へ入学した時から、毎朝送り出してくれていたのは祖父であった。その為、努力をしたうえで、時々ではあったが、一分から三分遅刻をした。そしてその都度先生に叱られた。
そういう訳で、心ならずも、三度、新しいクラスメイトたちから蔑みの目で見られるという事になったのである。なので、わたしの精神的ストレスは毎日最高潮であったし、僅かでも解消されることは無かった。わたしの性格が、几帳面で完全主義的でなければ、これ程までに精神的ストレスは高じなかったのかもしれない。だが実際に、融通はきかないし、ばか正直な性格である。従って、毎日ではなくても遅刻をする学校生活というのは、わたし自身が一番遣りたくない生活だったのである。そのようにして時が経つにつれ、クラスメイトや先生に対する恐怖心といった、社交不安障害だと考えられる症状が悪化し、精神的ストレスはさらに蓄積されていった。
列車に揺られて数時間、ようやく降り立った日光の空は青く、駅前の広場から臨むことのできる山の上に、白い雲が浮かんでいた。恒例の修学旅行が催され、わたしたち三年生は、この春に、二泊三日の関東方面への旅に出たのであった。初日は、廊下が歪んで、歩くとあちらこちらで軋む音のする、非常に古い施設に宿泊した。二日目は、曇り空のもと、いろは坂を巡り、華厳の滝や日光東照宮を見学し、そのまま鎌倉の学生会館へ入った。最終日は、鶴岡八幡宮を見学した後、上野駅に向い帰路に着いた。
このようなスケジュールの旅だったが、修学旅行が催された頃まではまだ良かった。しかし、その後は次々と、自分でもおかしいと感じることをするようになったのである。まず、それまで平気であったものに触ることができなくなり、触りたくない物に触れた場合には、石鹸を使って手を洗わなければ気が済まなくなった。そして、新校舎のトイレは和式の水洗であったので、入らなくてもよいように、出来る限り水分を控えるようになった。
何故そのようなことをしているのかは分らなかったが、自分の行為が、理に適っていないことは、誰よりも自分が一番よく解っていた。だが、そうしなければならないのだ、という気持ちが強かったのである。その為に、全ての行動に余計な時間がかかったのだが、綺麗にしようと何かを洗っている時だけは、遅刻のことで先生に叱られたり、クラスメイトから白い目で見られたりしていることを忘れていたのである。つまり、現実から逃れて自分だけの世界に入ることができるという意味合いはあったのだ。ただし、自分の行為が理に適っていないことを知っているので、洗うという行為は、一時的に嫌な事を忘れはするも、その後直ぐに罪悪感が起き、ストレス解消にはならなかったのである。
そうしてそのような事をしながらも、時間さえあれば、読書をしたり、バドミントン等を遣ったり、学習も多少は行っていた。なので、その頃に遣っていた行為は、まだ病気と呼べる段階ではなかったのである。その為なのか、東北大学病院を始め、複数の医療機関を受診してみたのだが、病名の診断はつかなかった。
そのような状態であっても、学校を欠席しようと思ったことは一度も無かった。また、初めから遅れて登校しようとあきらめた日も全く無かった。なので、心ならずも遅刻をしようと、毎日休まずに登校し、その日のスケジュールを何とかこなしていたのである。それから、毎日の部活動には参加をしていなかったが、試合の時には応援に行った。娘の精神にこれ程の異変が起きても、母は、ちゃんとおかずが入っているお弁当を作る事は無かった。それで一学期中のお昼の殆どは、パンを買って済ませていた。
そうして時が移るにつれ、綺麗にしようとする気持ちがエスカレートするのであった。当然であるが、三年生になってからは新しい友達はできなかった。それでも学校はまだよかった。家での生活は、精神的虐待という意味に於いて、それまでよりもさらに酷いものになっていたのである。この夏頃から、お風呂場を使う時間も長くなっていたのだが、ある日、父はわたしの行為を、力づくで、無理に止めさせようとしたことがあった。シャワーを浴びているわたしを、裸のままお風呂場から引き摺り出して、洗面所の床に叩きつけたのである。いくら子供とはいえ、十四歳の女子である。わたしの羞恥心など、父には関係がなかった。やはり、物のように扱うのであった。このようなことを父が遣って、わたしが回復する筈がないのだ。
何故なら、親を始め、その他の人物から継続して受けた、精神的・肉体的虐待の結果現れたものが、その時、わたしが行っていた行為だからである。
中学三年生といえば、高校受験を控えた大事な時期であったが、家では宿題を含め、学習をする時間を作ることができなくなっていた。授業中も学習に集中することは出来かねた。その為、定期テストの席次は、三百余人中八十位まで下がってしまったのである。これ程までに成績が落ちたことは、就学以来、初めてのことであった。少しショックを受けはしたが、それでもわたしは、学校を休もうと思ったことは一度もなかったのである。その当時の浪江中学校に於いては、成績が上位の女子は、双葉高校に進学するのが一般的であったので、一年生の時から、わたしは双葉高校を受験するつもりでいた。さらに、小学校高学年の頃には、明確な目標を定めていた訳ではないが、自らの意志で、大学に進学しようと決めていた。なので、このような状態でも、志望校を変えようとは思わなかったのである。まだあきらめてはいなかったのだ。
そうして名ばかりの学級委員として過ごした一学期が終わった。
夏休みに入って間もない頃、三島 ともみちゃんと、請戸の海水浴場に出掛けた。三年生になってからは、クラスが別になったので、それまでのように会うことはなくなっていたが、この日はわたしが誘ったのである。ともみちゃんは、本当は都合が悪かったのであるが、つき合ってくれた。そしてこの時、床板が砂でざらつき、さらに濡れた足跡が無数にある、清潔感からは程遠い脱衣所を使って、わたしは平気で着替えをしているのである。その後、二人でバスに乗り、帰路についたのだが、無理な誘いに付き合ってくれた、ともみちゃんに、わたしは心のなかで感謝をしていたのだ。
夏休みが進むにつれ、さらに気になるものが増えた。家の中で履くスリッパを、毎日洗わなければ気が済まなくなったのである。
その一方、おしゃれだけは欠かすことはしなかった。わたしがおしゃれに気を使うことについて、母は反対しなかったし、欲しがる物は買ってくれた。購入した場所は都心や仙台であり、自分で選んだのである。このように母は、学校に持っていくお弁当作りはあまりやらないのだが、お金で買える物は与えてくれるのであった。
その夏、わたしが好んで着ていたのは、当時流行っていた、パフスリーブのカットソーやサマーニットと、裾幅の広いパンタロンか、または短めのサロペットスカートだった。足元にはサボ(コルク製上げ底のサンダル)を履いていた。そうしてほぼ毎日、うちの店やその周辺に出かけていたのである。
そのように日々を過ごし、夏休みが終わりに近づいた頃である。それまで遣っていた行為に加え、次は再度確認をせずには済まなくなった。確認というのは、自分の行動についてと、家族、とりわけ母の行動についてであった。自分の行動については、全てに於いて、意識しながら綺麗に仕上げた後、きちんとできていたかどうかを、頭の中で再度チェックするのであった。そして母の行動については、わたしと関連のある箇所について、自分が納得できるまで、同じ質問を何度も何度も繰返したのである。この再度確認については、非常に時間を要したので、母を疲弊させ、自分自身も神経をすり減らしていた。このようなことは、心身のエネルギーと時間とを、無駄に費やすだけであり、不要かつ悪徳であることを頭では解っているのだが、それをしないと心が納得しないので、そこでストップがかかり、次の行動に移ることができないのであった。その為、罪悪感を覚えながらも、再度確認をせざるを得なかったのである。
そうして、それまでの行いに、再度確認という行為が伴った状態を、病気であるというのだった。
夏休み中には、医療機関などを訪れてはいなかった。それは、以前受診したとき、東北大学病院でさえ診断がつかなかったからである。それで病院へ行く替わりに、仙台定義山へ連れていかれた。つまり、神頼みである。他に手を打つことはできなかったので、状態が悪化したまま二学期を迎えた。
その為に、二学期は日常生活をこなすのは大変になった。一学期の時でさえ、何をするのにも余計な時間を要していたのに、今度は、朝起きてトイレを済ませた後、必ずシャワーを浴びて、シャンプーをしてからでないと出掛けられなくなったからである。当時洗髪は、綺麗好きな人であっても、一週間に一回というのが一般的であった。なので、濃紺のセーラー服の、衿や肩にフケが白く積り、それを手で払い退ける光景がよく見られた。それが普通だという認識であった。なので、わたしのように毎朝シャンプーをするということは、全くもって異常な事態なのであった。けれど、それをしないと出掛けることができないので、身支度を整えるまでの所要時間を考慮したうえで、早起きをして、あまりにも洗い過ぎている為に、ゴワゴワになった布製のスポーツシューズを履き、わたしは学校への道を急いだ。しかし、いくら早起きをしたところで、教室に着くのは、僅かではあったが、八時を回ることが多かった。
そこで九月に入ってからは、うちの店の近くに住んでいる、さくら伯母の家から通学させてもらうことになった。そこからだと、学校までの道のりを500mは短縮させることができた。それにしても、毎朝子供を学校に送り出すのは大変な事であるにも係わらず、そのうえ訳の分らない病気に侵されていたわたしを、さくら伯母は預かってくれたのである。そのお陰で、わたしは毎日、伯母の家から通学できるようになった。
だからといって、病的な行為を遣らなくなるという訳ではなかった。無意味かつ悪徳であるという自覚がありながら、学校に於いても、手を洗う時間はそれまでよりも長くなっていたのである。そうしてその際は、自分の教室からできるだけ遠く離れた洗い場を使っていた。
伯母の家から通学し始めて三週間ほどが過ぎた日のことである。その時、教室でのわたしの席は最後列で、隣には渡瀬 安男君が座っていた。席が隣り合っているとはいえ、互いに話しをしたことは殆どなかった。休憩時間のことである。渡瀬 安男君はわたしに向って突然こう言った。
「あんたがいると、みんな迷惑するんだよ。」
するとその瞬間、安男君の前に座っていた国枝 杏里さんが、笑いを噛み殺したのであった。国枝 杏里さんは、生徒会役員及び学級委員を務めており、本来であればこのような発言に対しては、安男君に注意をする立場なのである。けれども実際には、渡瀬 安男君の発言を肯定するかのような態度を示したのだ。二人の言動を目の当たりにした瞬間、
(国枝さんが笑ったということは、安男君の言うことが、彼個人の単なる嫌がらせではない、ということだ。きっと、みんな本当に、わたしがいると迷惑なんだ。)
咄嗟にこう思ったのである。わたしは、同級生や先生などに対して、日常的に、気後れや、異常なほどの羞恥心及び恐怖心を抱いていた。さらにその時に遣っていた自分の行為に罪悪感をもっていた。なので、渡瀬 安男君の言葉と、それに同調するかのような国枝 杏里さんの反応は、精神的な意味に於いて、わたしを断崖絶壁から突き落とすのと同様であった。それからは、彼の発した言葉が、頭から離れることは無くなった。社交不安障害を患っていたのであろうわたしを、学校から締め出すには、渡瀬 安男君の一言と、国枝 杏里さんの噛み殺された笑いで充分だった。その後帰宅してから、これらの事を誰にも話さずに、自分一人であることを決心したのである。
(みんなが迷惑しているとなると、もう学校に行く訳にはいかない。明日からは登校しないことにしよう。)
このようにして、長期欠席を決意したのである。従って、その時に遣っていた、行為のせいで学校に行くことができなくなった訳では決してなかった。渡瀬 安男君の言葉を聞くまでは、欠席しようと思ったことは一度も無かった。そうして実際に、彼にそう言われるまでは、自らの意志で、毎日休まず登校していた。遅刻といっても二~三分である。また、彼以外の誰一人として、わたしに対してこのような発言をした生徒はいなかった。国枝 杏里さんの反応は、能動的なものではなく、安男君につられたようなものであった。
そうしてこの時点で、双葉高校受験はあきらめざるを得なかったのである。このように、学校に於ける精神的虐待は、情況はそれぞれ異なるであろうが、人知れず行われているのである。
夏休みの終わり頃に始まった再度確認と、それまで遣っていた行為が重なると、病気であることになるのだ。従って、九月は初期の段階だったのである。ところが、欠席を余儀なくされてからは、定時に登校して出来る限り勉強をしようという、日々の目標を失った為に、わたしの病状は、坂を転がるように急激に悪化した。そうなると、当然回復までの時間は長くかかる。なので、渡瀬 安男君は法によって裁かれることはないけれど、人道的見地からすると罪深いと思うのだ。
そしてその時も、いじめを受けている側の親は、その事に気がつかないのであった。担任の宇部先生も同じであった。だがこのように、子供は学校を休むという形で、サインを出しているのである。
わたしの場合は、渡瀬 安男君から受けた、精神的虐待による長期欠席であったが、肉体的虐待を受けたなどの為に、欠席を余儀なくされることもある。なので、怪我や発熱等の理由もなく、遅刻を繰り返すとか、時々欠席している場合には、定刻どおりに登校することができなくなるような、何らかの原因が、家庭を運営している側か学校など、若しくは、双方にあるのかもしれないのである。
子供の行動は殆どの場合、保護者、または保護者同様の役割を果たしている人物の、日常の習慣の反映なのであるから、何らかの問題がある場合は、手遅れになる前に、家庭内環境の改善を図ることが大切である。その為には、校長や担任教師が保護者の心に寄り添い、積極的に子育てを支援することも必要だと感じる。
そうして仮に、教師などとの接触を避けるような保護者があるとするなら、子供に対し直接、救いの手を差し伸べることが大事であると思う。しかし教師の権限では、そういう事は困難であるという場合で、児童や生徒が著しい肉体的虐待を受けているときには、最悪の事態を招く前に、一歩踏み込んで保護する態勢が必要だと感じる。
くっきりと晴れ渡った晴天の日でも、それまでのような暑さは感じられず、果物屋や八百屋の店先に、美味しい林檎が並ぶ季節になっていた。それでもわたしは、まだ伯母の家で寝泊まりをしていた。その頃に、宇部先生が、一度だけ家庭訪問をしてくださったことがある。けれども、渡瀬 安男君が行った精神的虐待については話さなかった。それは、わたしが登校することについては、宇部先生も同じく迷惑だと思っているであろうと感じたからであった。そうしてその頃は既に、自分の家からも、学校からも、逃避することを、わたしは心に決めていたのである。
伯母のところは居心地が良かった。病的な症状が回復した訳ではなかったが、伯母と従姉は、目くじらをたててわたしを責めるようなことはしなかった。 ただ、通学をしていた九月頃よりも、欠席を余儀なくされ、病状が悪化した為に、夜の入浴などには非常に時間がかかっていた。それでも、伯母はわたしを置いてくれたので、昼間はテレビを観たり、漫画雑誌を読んだり、アニメのイラストを描くなどして過ごしていた。
ところが、そんな暮らしもいつまでも続けるわけにはいかなくなった。丁度その頃、克実叔父が、わたしと同じ症状の患者のことが書かれている本を見つけて知らせてくれたからである。その本には、治療を施すクリニックについての詳細も載っていたので、両親はすぐさま、そこを受診させることに決めたのであった。
そのクリニックは、東京の青山通りから程近い場所に建つ、あまり大きくはないビルの中にあった。当時の青山通りとその周辺は、商業ビルは無いに等しく、車の往来も少ないので、比較的閑静な佇まいであった。そのような店舗数の少ないなかに、クリニックが入居しているビルの向い側には、「アルテリーベ」という、とても美味しいドイツパンの店があった。
ところでそのクリニックは、保健診療を行っていなかった為、非常に高額の医療費がかかるのであった。それでも、以前訪れた、仙台等の医療機関だと、病気の診断がつかなかったので、藁をも縋る想いという感じで、両親はわたしを通院させることにしたのである。
青山通り辺りの並木が色づいた頃には、わたしは母と共に、そこへ通っていた。ようやく分った病名は、「強迫神経症」であった。さらに、どのような病気なのかも分ったので、ここで治療を受ければ治るかもしれないと、一時は期待をした。だが、実際に治療を受け始めた時のわたしの印象は、漠然としているのだが、何か違うな、的外れだなというものであった。医師はわたしの話を聞くことは無かったので、このお医者様には分ってもらうことはできないな、とそう感じたのであった。そのクリニックで施していた治療法は、「森田療法」と「催眠療法」というものだったのだが、この年の暮には、わたしの場合は、全く効果が無いということが分ったので、二か月余りの通院の末、そこに行くのは止めたのであった。
わたしが青山へ行くのを止めるのと前後して、衆議院の総選挙があった。この選挙の後で発足した新内閣に、厚生大臣として入閣したのが、工藤 邦夫氏であった。
この新しい厚生大臣の生家と、会田屋は直ぐの近所である。お互いの血筋の者が婚姻関係を結ぶ等を含めて、永いつきあいがあった。祖母のクミと母は、すぐさま工藤 邦夫氏を頼って上京した。それから程なくして、厚生大臣秘書官の方が、一人のお医者様を紹介してくださったのである。
そのようにして出会うことができたのが、関東労災病院神経科部長畑中 和彦先生であった。先生は、毎週土曜日には、聖路加国際病院での診療もされていた。それで畑中先生のカウンセリングを受ける為に、土曜日になると、わたしは一人で築地を訪れるようになったのである。
通院を始めてひと月余りが過ぎようとしていた頃、中学校の卒業式が催された。わたしは、前日まで学校を欠席していたが、卒業式には自らの意志で出席した。そもそも長期欠席をしていたのは、渡瀬 安男君に、わたしが学校に居ると、みんなが迷惑すると言われたからであり、卒業式であれば、出席しても迷惑にはならないだろうと思ったからである。
式が行われた浪江体育館を後にし、緩やかな坂道を一人で歩いていた時のことである。クラスメイトの温水君が近づいてきて、わたしの前で立ち止まった。背の高い温水君は、わたしを見降ろすようにして、真綿のような声で、
「ごめんな。」
と呟くと、離れて行った。わたしは、長期欠席をしたほんとうの理由を誰にも話してはいなかったし、宇部先生が、みんなに何と説明されたのかは分らなかった。温水君とは、クラスメイトではあっても、殆ど言葉を交わしたことはなかったのだけれど、彼のその言葉はただ素直に嬉しかった。
この時に、わたしは浪江高校を受験して合格しているのだが、入学はしなかった。何故なら、わたしの志望校ではなかったからである。その為に、この先何年続くのかは自分でも分らない、浪人生活に入ったのであった。
十六
浪人であるにも係わらず、シャワーを浴びるのに無駄な時間をかけ、わたしは外出を欠かさなかった。外出先は大抵、以前わたしを預かってくれたさくら伯母の家であった。わたしが訪ねると、伯母は、自家製の枇杷のシロップづけ、匠壽庵やョック モックのお菓子などを出してくれた。
他にもうちの店や町の書店を訪れたりしていたのであるが、外出する際は、浪江町辺りでは見受けられない、ミモレ丈やマキシ丈のスカートを履き、それに、上げ底の靴やサンダルを合わせた。すると、その姿を見た町の人たちは、わたしはいよいよ気が狂ったという噂を広めたのである。それまでも、中学校内での、わたしの行動から、色々な噂が流れていたのだが、それに輪をかけて、頭がおかしくなって喚いているなど、様々な噂が飛び交ったのであった。そうしてその噂は、町内のみならず、近隣の市や町の、一部の人々の間でも囁かれたのであった。町の人口は二万程度であったから、何百、何千という人々の、嘲笑の的になったのであるが、わたしの場合は、このことが功を奏したのである。
ツイッギーの来日に伴い、ミニスカートが日本に上陸したのは、わたしが九歳の頃だった。それが浪江辺りの人々の頭に届くまでには五年かかった。都市部とは全く異なる文化のもとで暮らしている為に、仕方のないことだった。ようやく浪江辺りで流行り出した頃には、都市部ではミニスカートが衰退し、ミモレやマキシ丈に替わっていたのである。なので、そういう方面から自然に、意地悪な虚偽の噂をする人々と、自分とを、精神的な意味に於いて、完全に切り離すことができたのである。そうして、
「言いたいやつには勝手に言わせておけ。」
と、虚偽の噂と、そのような噂を流す人々とを、徹底して無視し続けた。
そんなある日、うちの店先で遣っていた、ワゴンセールを手伝わせてもらったことがある。頻繁に店に出入りしているうちに、販売することに対して興味を抱いたわたしは、セール品であれば、自分にも接客ができるのではないかと思ったのである。そこで父に頼んで、その売り場を任せてもらった。けれども、接客をするというのはその時が初めてで、さらに社交不安障害だと考えられる症状があるわたしである。
「いらっしゃいませ。」
の一言がなかなか出せずにいた。そのうちに小声で接客をし始めたのであるが、それではなかなか売れなかった。そうして時が経つうちに、遣らせてくれと言い出したのが自分である以上、わたしは、ちゃんと売りたくなったのである。思い切って笑顔を作り、大きな声で言ってみた。
「いらっしゃいませ。」
一度出来ると、何度でも大声で言えるようになるものである。そうなると、積極的に商品を薦めることも出来るようになった。
そうしてそれからも、最新の流行服と靴に拘りつつ、町内を歩いているうちに、目上の人や、同級生などに対してもっていた、恐怖心だとか極度の羞恥心の為に、声を出すことができなくなるなどの、社交不安障害だと考えられる症状が、改善されていったというのがほんとうの事である。
なので、浪江やその周辺に暮らす女性には、一人も見受けられない服や小物を、わたしは常に身に着けていた。通院の為に上京する際には、一見するとロング丈のタイトスカートのような、幅の広い裾がダブルのパンタロンに、同系色の上げ底の靴を履き、トップを短く、小さくまとめるというスタイルをよくしていた。そして、わたしが身に着けていた物は、どれも上質の素材だったので、出費が嵩んだ筈なのだが、母はやはりお金で解決するものは、すぐに与えてくれるのであった。
聖路加国際病院に足を踏み入れると、1930年~1950年代頃の、アメリカ映画のワンシーンの中に入ったような気分になることが度々であった。床の文様、高い天井、70年代の日本ではあまり使われていない、堅い材木製の、非常に高さのある大きなドア等、建物全体が、異次元の空間に居るような感じを抱かせた。
カウンセリングを受けた後、聖路加国際病院を出たわたしは、築地駅まで歩き、地下鉄日比谷線の中目黒方面行きに乗った。銀座に着くとそこで降りて、四丁目の交差点に出た。それから円筒形のビルに入り、「三愛」の売り場へ行った。そこには、「週刊ナインティーン」に掲載されていた、ベビードール・ルックの商品が揃っていたからである。自分に似合うものがあれば、外出着とは別に、いつか買って貰おうと思って見ていたのだ。その後は銀座コアビルに行き、それぞれのショップの洋服等を眺めた。そして最後に、「コック ドール」に入ってピザを食べ、帰り際に、その店のフランスパンとアップルパイを買って帰路に着いた。四丁目付近の他のビルに入って、違うブランドの洋服を見るなど、別のルートを辿ることもあったけれど、上京した時は大抵に於いて、このような感じであった。
そして家に居る時には、洗う・拭く・再度確認するなどの行為の他は、テレビドラマを観るか、漫画雑誌や小説を読む、音楽を聴く、声楽やピアノの練習をするなどして過ごしていた。学校等で行う学習は何もしていなかった。そのような事を遣る気力が無かったからである。その時に遣りたい事のなかで、無理をすることなく出来ることだけを遣っていたのだ。
わたしは八歳の時から、「週刊ガーネット」を毎週欠かさず読んでいたのだけれど、この漫画雑誌は、わたしの心の傷を癒してくれるという意味で、大事な存在だった。特に気に入った物語は、何度も繰り返して読んだ為に、登場人物のセリフを暗記してしまったほどである。さらに主人公などのイラストを描いて、オリジナルとそっくりに仕上がった時には、それなりに達成感もあった。そのように「週刊ガーネット」は、親や同級生から受けていた精神的虐待の為に、生きづらさを感じていたわたしにとって、ほんとうに心の糧となっていたのである。
もうひとつ、わたしの心を、多少ではあっても元気にしてくれたものは、昔から好きだった音楽であった。小学三年から六年まで、ピアノのレッスンを受け、その後しばらく中断していたのだが、それを再開し、本格的とは言わずとも、声楽を始めたのであった。短期間ではあったが、その頃のわたしの心を救ってくれたことは確かである。音楽は聴くのも好きだった。特に、18世紀から19世紀にかけて作曲されたものを、わたしは好んだ。なので、その頃の曲を収録したレコードを集めたのだけれど、ステレオから流れる音は、何度聴いてもわたしを感動させてくれるのだった。なかでも好きだったのが、モーツァルトの
「ピアノソナタ第11番K.331」、
シューベルトの
「エレンの歌第3番」、
ショパンの
「ワルツ第6番」、
それとベートーヴェンの
「交響曲第5番」で、これらの曲は、殆ど毎日聴いた。他にはラテン音楽も好きで、
「ラ クンパルシータ」等、タンゴの曲をよく聴いていた。わたしは運動が苦手なのだが、踊ることが好きで、自分もやってみたいと思っていたのである。
十七
そのように日々を過ごしている間、両親からは、今後の方針について話をするようにと、度々詰め寄られていたが、わたしは、貝のように口を閉ざしたまま何も言わなかった。何故なら、これからの事などは、考えることができなかったからである。学校へ行くなど、社会との関わりを持つという意味に於いては、活力がゼロに近く、毎日を生きることだけで精いっぱいだった。そのような心理状態なので、両親が納得するような応えを出すことはできないし、かといって、わたしは嘘をつくのが嫌いな性分なので、来年の春は高校に入学する方向で考える、などとその場を取り繕う為の、いいかげんな話をして、誤魔化すこともできないのだった。そんなわたしに対し母は、
「何を考えているんだか、頭をカチ割って見てみたい。」
とよく言っていた。さらに
「あんたを殺してあたしも死ぬ。」
真顔でそう言ってヒステリックに喚くのであった。母がこのようなことをいくら喚きたてても、一緒に心中しようと思ったことは、一度も無かった。だが母はカッとなると、
「あたしはあんたを殺す。」
とか、
「このままではあたしはあんたに殺される。」
などと言うのだった。わたしが母に手を挙げたことは無いにも係わらず、である。そうして
「あたしはあんたを殺す。」
と言い放った瞬間の母の目には、確かに殺意が宿っているのである。その様子は鬼気迫る感じであり、尋常ではなかった。そうして母のこのような一面は、父とわたしの他は誰も知らなかった。母は、父とわたしの前でだけは本性を現し、相手の心を傷つける刃を振り下ろすのであった。このような言葉を日常的に浴びているわたしの心は、その度に傷を負い、不安に揺れたのだけれども、何と言われようと、わたしは母を慕っていて、他の子供たちのように、母親に愛されることを期待していたのである。
いつの間にか、芝生の緑が濃くなり、池に反射する強い日差しが、レースのカーテン越しの眼にも眩しくなっていた。池の端に並んだ大きな株のつつじが一斉に咲き誇っている。やや紫を帯びた濃ピンクの花びらにも、その他の樹々にも光の恵みが施されていた。
その時リビングルームに居たのは、珍しく母とわたしの二人だけだった。普段であれば、母は店に居る筈なのだけれど、何か用事を思い出して家に戻ってきたようだった。それでも急いでいる様子はないので、わたしは、以前世話になったさくら伯母のところの居心地の良さについて、ありのままを話し始めた。すると、わたしが話している途中から、母の形相は凄まじく険悪なものになったのである。それでも最後まで聞いたうえで、
「ふん、あのね、あんたは何にも知らないからそんな事言ってるけどね、今、本当の事を訊かせてやるから。」
忌々しげに、吐き捨てるようにそう言った。その後母は、嫁いでから現在までに起きたという、伯母に関する出来事の全てをわたしに話して聞かせた。その内容は、子供に訊かせるべきではない事であった。しかしわたしは、それを訊いても、伯母に対して悪い感情は全く起きなかったのである。だからどうだと言うの、という雰囲気のわたしの反応をみた母は、次に
「おばあちゃんもね、」
と、父方の祖母が行ったという、自分への仕打ちを話し始めた。
その時にわたしに向けられた母の口調は、大仰で辛辣であり、あくまでも、自分は被害者の立場であるという事を主張するものであった。そうして、それを訊いたわたしは、母の話を信じてしまったのである。おかげでわたしの心には、母が投げつけたすさまじい憎悪の塊が突き刺さった。その結果、その後はわたしまで祖母を憎むようになったのである。
それからは、子供に話すべきではない事柄を、わたしに対してぶつけてくるのが母の常となった。従って、姑や小姑たちとの関わりから受ける母の精神的ストレスは、一時的にせよ軽減されたようであった。その一方、わたしの精神的ストレスは増大した。父方の祖母は、猜疑心の強い人ではあったが、わたしを苛めたことは一度もなかった。それなのに、祖母を憎悪している自分がいるというのは、おかしな話だった。まるで、母の怨念が、わたしに乗り移ったかのようであった。憎しみは精神に悪影響を及ぼす感情である。従って、母がわたしの心に植え付けて育てている、姑や小姑たちへの怨念は、実際にはわたしの心を傷つけていたのである。
十八
梅雨が明ける前だった。わたしは、うちの店へ向かう道を歩いていた。珍しく父から呼び出しを受けたのだった。その時の電話の声には、尋常ではない響きがあった。店に着くと父は、
「こっちには今誰もいないから。」
そう言いながら、二階の売り場の隅へわたしを導いて話し始めた。
「落ち着いてよく聞くんだ。相馬のおばあちゃんが癌に罹っているのが分った。これから手術を受ける。だからおかあさんが看病に行くことになった。」
手短にそれだけ言うと父は泣いた。それを聞いて、わたしは強い衝撃を受けた。当時癌といえば、即、死を意味したからであった。
それから間もなく、祖母は、東北大学病院にて手術を受けた。
けれども手術前の検査では異常がないと思われた部位を含め、広範囲に亘って転移しており、全てを取り除くことはできなかったのである。
祖母の闘病中、母は付ききりで看病したのだけれど、その甲斐もなく、翌年の三月に亡くなってしまった。冷たい雪の日だった。
まだ五十九歳だった祖母の早すぎる死は、皆を悲しみの底に沈めた。
とりわけ母にとっては、価値観を共有していた、比較的仲の良かった親の死だけに、その喪失感は大きかった。
祖母の葬儀が行われた日のことである。参列した会葬者のなかに、母が短大時代に交際していた相手(男女の仲ではない間柄)、母方の従兄の藤堂 正夫がいた。二人が交際していた頃、藤堂は、原宿の表参道に面した同潤会アパートに住んでいた。母は泊りがけで何度もそこを訪れた。当時母は、藤堂を男性として意識してはおらず、兄のように慕っていた。けれども、藤堂の方では、母を女性として見ており、恋心を抱いていた。その為藤堂としては、関係を結ぶことを望んでいたのだが、祖母のクミから、強く止められていたので、母に手を出すことはできなかった。そうこうするうちに、母は短大を卒業して、郷里の相馬に帰り、程なくして紹介された相手と結婚をした。それを知った藤堂は、失意のあまり自殺を図ったが、未遂に終わった。
母親の早すぎる死と遭遇し、深い悲しみに沈んでいた母は、藤堂との久々の再会に胸を熱くした。それから間もなく藤堂と母は、高輪プリンスホテルで密会し、その後も情事を重ねた。そのようなことが、何故可能であったかといえば、母は少なくともひと月に一度は、仕入の為に、単独で上京していたからである。この密会は七年続いたのだけれど、藤堂が、母に結婚を迫ったことがきっかけとなり、母の方から終止符が打たれた。母としては、子供たちと別れてまで、藤堂と一緒になろうという気持ちはなく、相手が結婚話をきり出した時が潮時だと、初めから考えていたからである。
このようなことを、何故知っているのかといえば、母が、全てを、わたしに話して聞かせていたからである。他に、自分の友人たちの情事についても聞かせるのであった。わたしの方から、このような事に関して、母に尋ねたことは一度もない。そして母は、
「このことは、パパには絶対に喋っちゃだめよ。パパにわかったら、あたしは絶対に殺されるから。」
と、真顔で言ってわたしに釘を刺すのであった。わたしは誰にも話すことのできない、重大な秘密を抱えたのである。母の行動の動機を理解する為に、姑や小姑たちとの諍いによるストレスから逃れたいのだろうかとも考えたが、わたしはいつも、頭の片隅に、割り切れない暗い影があるのを感じていた。
十九
祖母の闘病中は旅行などには出掛けなかったが、亡くなった年の夏には、恒例の家族旅行をした。父はこの時都合が悪く一緒ではなかったが、わたしたち姉弟と母とで、帝国ホテルに二泊し、弟は母に連れられ品川のスケート場で遊び、「007」のロードショーを観たりしていた。母と弟がそうしている間、わたしは一人で、日比谷みゆき座へ行き、「マイ フェア レディ」のロードショーを、二日連続で観ていた。わたしはオードリー へプバーンの、理知的で上品な雰囲気が好きなのである。のみならず、これはミュージカル映画なので、その歌にも魅了されてしまったのである。なので、うちに帰ってからも、しばらくの間は、映画のなかで歌われたミュージカル曲を幾度となく繰り返し歌っていた。そうして歌っていると、とても気持ちが好くなるのであった。
そうしてこの旅行中もそうであったが、外で、食事やウインドウショッピングを楽しむとか、映画を鑑賞している時は、強迫観念に囚われることはないのだった。それでいて、ホテルの部屋に戻ると、家に居る時ほどではないのだが、バスルームを使う時間はやはり長いのだった。
そのように過ごした夏が終わり、家の周りの田んぼで、蝗が沢山飛び交う様子が見られる頃となった。カウンセリングを受け始めてから、既に一年半余りが過ぎていたが、わたしはまだ回復してはいなかった。そのような事から、母親から離れて生活するという、畑中先生の次の治療方針に則り、一人暮らしをすることになった。
時を同じくして、母方の克実叔父が、応募していた公営団地が当たるも、直ぐに入居はしないということなので、そこに住まわせてもらうことになった。
その団地は、横浜の港南台にあった。当時の港南台は、何処もかしこも造成地といった趣で、粘土のような土壌が区画されているきりであった。そんな、所々に雑草が生えている以外、何も無いところに、まるでマッチ箱を一つだけポツンと置いたような感じに、小さな直方体の、コンクリートの駅舎があった。そこから団地までは徒歩十五分位であったが、途中にパン屋が一軒あるきりで、他にこれといって建物は何も無いのだった。そして陽が落ちると、駅から団地に続く舗装された道路を照らす街路灯の他に灯りはないので、造成地は真っ暗な闇となるのであった。
わたしの両親は、新しい住まいに、家財道具一式を揃えてくれた。
今年で浪人生活二年目である。来年の春は高校生活を始めるようにと、畑中先生に勧められた。わたしの内心は定まってはいなかったのであるが、畑中先生を心底、信頼していたので、先生の勧めに従うことにした。それで受験勉強を始めるに際して、学習塾や家庭教師を探すことになった。それにあたっては、母方の親戚の縁故を頼りに紹介して頂いたのが、根岸線沿線の、あるお宅で、そちらからさらに紹介を受けて見つかったのであった。わたしが通うことになった学習塾は新杉田にあった。自分で選んだ学習塾ではないので、詳しい事情は分らないのだが、そのクラスには、わたしを含めて子供は三人しかいなかった。当時は横浜のような都会でも、高校受験の浪人生は少なかったのかもしれない。そして家庭教師は、団地から見て駅とは別の方向へ、徒歩二十分位の所に住んでいる、乳児を抱えた産休中の女性であった。わたしは、この二か所に、その頃アイビールックと呼ばれていたスタイルで、合わせて週三日程通った。
それから食事は、団地内にあった小さなスーパーで材料を揃え、一皿で済むような料理を自分で作った。なにしろ他にも、掃除、洗濯、ゴミ出しなどの家事一切を行わなければならないのだ。うちだと、おばさんが全てを遣ってくれていたので、わたしはてんてこ舞いであった。何をするのにも時間がかかり過ぎたからだ。それでもなんとか一人暮らしを続けながら、土曜日には聖路加国際病院に通ったのである。
塾などに行かなくても良い日には鎌倉に行った。小町通りを歩いて、アンティークな内装のカフェを見つけたときは嬉しかった。そのカフェのヨーロッパ風インテリアは、当時十六歳だったわたしを夢見心地にするのに充分であった。他には、根岸線で関内迄行って、山下公園などを散歩したこともあった。それからパンが食べたくなると、伊勢崎町まで行って、そこにあった「ポンパドゥール」でフランスパンを買った。このように自分の興味をそそる場所に出掛けている時や、外で何かをしている場合には、強迫観念に囚われる時間はないから、その時は楽になるのであった。しかし、鎌倉の何処へ行こうと、山下公園から海を眺めようと、そこには自分との会話しかないのであった。わたしは誰かとお喋りがしたかった。
そのようにして過ごしているうちに、あっと言う間に新年がきた。このお正月は、わたしが実家に帰る替わりに、母と弟がやって来た。三が日はどの店も開いてはいないので、四日になるまで待って、弟はようやく好きな映画を観に行くことができた。その時は、わたしも一緒に出掛けて、弟と映画を観るとか、他に買い物などをした。
二月に入って間もない頃の事である。弟達が帰ってからも、それまでのような日々を送っていたわたしは、ある日突然実家に帰ったのである。港南台での暮らしと学校を投げ出したのだ。嫁入り仕度とまではいかずとも、それに近いぐらいに、何もかも揃えてもらっていたにも係わらず、である。
その頃は都内に住んでいた小百合叔母が、時たま手助けをしてくれることもあったのだけれど、ひとりで暮らすことの寂しさに耐えられなくなったのであった。たとえ一人暮らしであっても、時々顔を合わせる友人などがいれば情況は変わったかもしれないが。土曜日に畑中先生のカウンセリングを受ける他は、一日中、一言の会話もしていない日というのが相当あった。寡黙であることが当たり前という性格の人であれば、文通などをするだけでも、心に開いた寂しさの穴は防げるのかもしれない。でもわたしは、会話が無いと精神の均衡をとり難い性格であり、その上文通をする相手もいなかった。けれど第一の原因は、学習塾や家庭教師のもとへ通わせてもらっていながら、本気で高校に入学しようという気持ちは、実際には無かったからである。そんなふうであるから勉強にも身が入らなかったのだ。またそのような心持で通っているのであるから、塾の先生と言葉を交わしたことが一度も無いのは当然である。家庭教師の先生とも、殆ど会話はしていなかった、というより、この先生は、学習指導以外の話はしない人であった。畑中先生に勧められたということがあったから、受験勉強を始めたけれども、わたし自身のなかでは、学校生活に戻ろうという気持ちは全く無かったのである。そうして暮らすうちに、自立して生活することの辛さだけが、日ごとに増したのであった。
家に戻ったわたしは、また以前と同じような生活をしていた。
そんな折、そろそろ祖母クミの一周忌という矢先、祖父の実も亡くなった。葬儀などの全てが済んだ後のことである。周りに誰もいない折を見計らって、母はわたしに向い、怒濤の如く言葉をぶつけてきた。
「おじいちゃんの相手の女は、やっぱりお金目当てだったんだよ。
相馬のうちに急にやって来て、二百万出せなんて、勝手に言って。そんなの出すわけないけど、来た日の晩、ここに泊らせてもらうなんて言って自分で勝手に泊って、生理が始まったなんて言って、使ったお布団を汚していったんだから。ほんっとにひどい女だった。」
このようなことを聞かされたわたしは、酷く気分が悪くなった。心が痛んで、簡単には立ち直れそうにないと感じた。少女に、実の子供に、話して良い内容であろうか。わたしの心はやはり、母に振り回されるのであった。
(1970年頃。田舎だと一般住宅建築費用が凡そ200万円)
その春、港南台での頑張りを続けることができていれば、わたしは横浜市内の私立女子高に入学する筈であった。ところが、そこでの生活の全てを投げ出して帰ったので、両親からは、今後の方針について、考えを問い詰められることが度々であった。それでもわたしは、貝のように口を閉ざしたままであった。その時点では、学校生活に戻ろうという気持ちはまだ起きていなかったのだ。それを正直に白状すれば、二人がかりで攻撃してくるだけのことである。そうかと言ってわたしは、その場しのぎの嘘をつくことはできないので、その時も、何も話すことができなかったのである。
それでも畑中先生のもとへは間を置かずに通い続けた。わたしは先生をとても信頼していたのである。
二十
季節が廻り、浪人生活に入ってから四回目の春が近づいた。このタイミングで畑中先生は、今年は絶対に福島の高校へ入学するようにと、わたしに言い渡したのである。強迫神経症が完全に治っていた訳ではなかったので、わたしとしてはその点で不安が大きく、躊躇していたのだけれど、先生は、わたしがそれ以上家に居ることを許さなかったのである。それで畑中先生の言いつけ通りに、わたしは福島市内の私立女子高に入学した。そのようにして、三年間のブランクを経ての久しぶりの学校生活が始まったのである。
浪江町の自宅から学校までは、相当の距離があったので、アパートで一人暮らしをすることになったのだが、以前、港南台から逃げ出した時のような気持ちは、この時は全く起きなかった。何故なら、担任の長谷川先生や、副担任の遠藤先生を始め、クラスのみんなが、わたしに対して暖かい心づかいをしてくれたからである。そのお陰で、教室に自分の居場所ができたのであった。わたしはそれまでの事情を誰にも話してはいなかったので、皆がどこまで詳細を知っているのかは分らなかったが、外見といい雰囲気といい、新一年生とは明らかに違う、三歳年長のわたしに対して、クラスメイト達は、一目置いて、気を使ってくれていた。それだけではない。それまでの集団生活のなかで必ずあった、わたしに対するいじめは一度もなかったのである。嫌みを言う人も誰一人としていなかった。
そうしてわたし自身も以前とは変わっていた。休んでいた三年の間に、心が元気になった為に、自分の意志をはっきりと口に出して、誰に対しても言えるようになっていたのである。社交不安障害であろうと考えられた状態から、完全に抜け出すことができていたのである。その為、以前もっていた、目上の人や同級生に対する恐怖心や羞恥心、気後れは全く感じなくなっていた。そのおかげで、社会生活に於いて苦痛を感じることはもう無かった。その上、強迫神経症はまだ完治してはいなかったが、日常生活に支障をきたすほどではなくなっていた。それで家事を遣りながら、定刻どおりに、学校のスケジュールをこなすことができたのである。一年生の一学期には、クラスメイトが四~五人、泊りがけでわたしのアパートを訪れたこともあった。
わたしが入学したのは、普通科の私立女子高校であったが、県立の進学校と同レヴェルの教材が使われていた。けれども、のんびりとしたカリキュラムが組まれていたので、高校生活を、進学の為というよりは、むしろ完全回復の為の、リハビリだと捉えていたわたしとしては都合がよかった。
最初の一年間は、殆ど自炊をせずに、お惣菜を買うとか外食をするなどして済ませていた。これだと不経済ではあるが、一人暮らしの生活に於いて、外で食事をするというのは、アパートの部屋で一人きりで食べるよりも、わたしの場合は、精神的な意味に於いては良かったのである。港南台の時は、外食は殆どしなかったことから、少し工夫したのかもしれない。
この頃は学校の帰りがけに、図書館に立ち寄る事はあるも、大抵に於いては真っ直ぐアパートに戻り、部屋の掃除をしてから買い物や食事に出掛けていた。従って部活動には加わっていない。そして用事を済ませて帰宅すると、夜の八時頃から四~五時間程度学習をして、それから眠りに就いた。塾などへは通わずに、自分のペースでやっていたのである。部屋にテレビがあったけれど、殆ど観てはいなかった。あくまでもゆったりとしたペースではあるが、わたしは本当に勉強がしたかったからである。そういう気持ちで遣っていたので、テストで良い点をとる為の学習ではなく、自分が本当に識りたいと考えている事を識る為の学習をした。なので、模擬試験の結果等は、わたしにとってはどうでもいい事だったのである。
アパートの部屋には電話が無かったので、連絡をとる必要がある場合は、公衆電話を使っていた。そういう環境なので、こちらから電話をかけない限り、母から耳触りな言葉をかけられるとか、聞きたくない話を一方的に聞かされることはなかった。母がわたしの部屋を訪れることも殆どなかった。けれども用事があって電話をかけると、わたしの要件を聞いた後で、母は、父方の伯母や祖母に関する愚痴や悪口を、この機とばかり、堰をきったように吐き出すのであった。なので、この頃は意識的に母を避けていたわけではなかったけれども、結果として家に居るよりは、離れているほうが、精神的な意味に於いて、悪影響を受ける度合いは少なくなっていたのである。
学校が長期の休みに入ると、盆地特有の酷暑の時も、地表が凍る寒さの時も、弟が泊りがけで遊びに来てくれた。弟は男の子の割によく喋るということもあって、わたしたちが会話をする時間は結構長かった。話しの接ぎ穂が途切れるというのが無かった。次から次へと話題が変わっても、お互いに趣味・嗜好が似通っていた為に、話が尽きなかったのである。
幼い頃から本が好きだった弟は、読書量が多く、面白い本があるとわたしに薦めてくれたりした。そのような場合、大抵においてわたしもその本が好きになるので、新しい世界が広がるのであった。
わたしが読書を好むのは、弟からの影響もあったのである。そうしてわたしも弟に影響を与えていた。小学六年の時に買った、コナン・ドイルの「恐怖の谷」の児童書を、自分が読んだ後で弟に薦めたのであるが、これが頗る気に入った。それからというもの、弟は推理小説の児童書を読み漁り、文庫本に移ったのが小学四年の時であったから、これまでに何百冊と読破していたのであった。わたしの場合は特別に好きなジャンルというものは無いのだけれど、好きな作家というのはあって、気に入ると、その作家が書いたものは手に入る限り買って読むという風であった。本格推理小説、ハードボイルド、冒険ものなどが多かったが、他にユーモア小説や文学小説というのもあった。この頃特に好きだったのは「夏目 漱石」の作品だった。
福島に引っ越しをするのと前後して、それまで夢中になっていた漫画雑誌は全く読まなくなっていた。学習に差し支えるからではない。気に入っていた作品が劇場化されたのだけれど、公開されたものが、わたしの感覚からすると、原作を基にイメージしていたものとは懸け離れていた為に、相当な落胆を覚えたのである。そのような成り行きで、永年親しんだ漫画雑誌からは心が離れたのであった。
そんな具合なので、休みの日には大抵に於いて読書をしていた。その他には仙台に出掛けた。昔、うちの店の近くに住んでいた従姉の奈美の嫁ぎ先が仙台だった。それから奈美の夫は高校の数学教諭で、わたしが理解に苦しんでいる箇所があると、親切に教えてくれたのである。わたしが訪ねると、従姉夫婦はいつでも暖かくもてなしてくれた。それらの全てが、一人暮らしを続けるに際して、精神の救いになってくれていたのである。
このように新しく始めた生活は、殆ど全てに於いて、自分のペースで進めることができた。またそれを叶えることができたのは、社交不安障害であろうと思われた症状が、全く無くなっていたからである。それに関しては、無理に自分を改めたわけではなく、畑中先生のカウンセリングを受けながら、学校から離れて、別の視点から物事を眺める習慣をつけている間に、ごく自然にそうなったのである。三年の休養の間に、特に港南台から戻った後の一年間で、精神的な意味に於ける活力が充満してきた。それからである。自分に自信を持つことができるようになった。それは、誕生した時から実際には持ち合わせていながら、永い間心の奥深くに封じ込めざるを得なかった、本来の姿を、堂々と現すことができるようになった為だと感じる。そうなってから初めて、嘗ての苛められっ子はいなくなっていたのである。
ブランクを経ての高校生活に於いては、最初は病気回復を目的として始めたるも、だんだん好くなるにつれ、学習に対する新たな意欲や目標が出来てきた。特に好きな数学には自分なりに力を入れていたので、担当の遠藤先生には授業時間以外にも、自分の方から質問をして随分教えていただいた。そしてどのような場合でも、わたしは自分が識りたいから勉強をしたのであって、試験で良い点を取るとか、受験の為などではなかった。なので、数学や漢文は、本当に楽しみながら学習をすることができたのである。仮に、健康状態や心の在り様に何の問題もなく、すくすくと成長することができているのであれば、受験勉強に精を出すとか、就職活動をするのも良いが、わたしの場合はそうではなかったので、今遣りたいことの中で、無理なくできることを、継続して遣っただけである。そうしている間に、自己を肯定することが出来るようになり、さらにその気持ちが自信を持つことへと繋がり、結果として病気回復の役にも立ったのだと感じる。
休み時間などには、誰彼となく雑談をしていたが、特に親しい友人がいた訳ではなかった。それでも中学生の頃のような孤独感は無かったので、精神的な意味に於いて、教室にわたしの居場所がちゃんとあったという事である。そうしてクラスメイト達はそれだけわたしに気を使ってくれていたのだと思う。そのお陰で、ブランクを経ての高校生活を、順調にスタートさせることができたのであった。
二学期の初め頃までは、釜の中で蒸されるような暑さだったのが嘘のように、急に涼しくなってきた。この辺りはいかにも盆地らしく、気温の上がり下がりが激しいのである。
ひんやりとする朝の空気に、季節の移ろいを感じながら、わたしは母が迎えにくるのを待っていた。母は朝早く、自分が運転する車で浪江を出た筈であった。福島に居るという、母の友人の姉妹と、お昼に会食をすることになり、この日は市内のホテルで待ち合わせをしたのであった。それまで母との間で話題には上っていても、その姉妹たちと実際に顔を合わせるのはその時が初めてであった。挨拶を済ませると直ぐに、ホテルの最上階にあるレストランに入ったのであるが、会話が弾み、食事の間中、お喋りが途切れることはなかった。そして、再会を約束して別れたのであった。
その後、その姉妹たちとはしばらく会うことはなかったが、同じ市内に知り合いができたことは、一人暮らしのわたしとしては嬉しかった。前に一度、自分のアパートにクラスメイトを呼んだことがあったが、その後は、学校以外の場所で会うことはあまりなかった。教室では皆とお喋りをしていたし、時たま、甘味処などへ一緒に行くことはあったが、そのような時も、わたしはプライベイトなことは話していなかったのである。皆わたしに気を使ってくれていたし、心優しい級友達であったが、何となくそういう話はしなかったのだ。行きつけのレストランや食堂などで、店の人がわたしに話しかけるということはなかったし、わたしも自分のほうから声をかけるなどはしたことがなかった。心の深い所で付き合っているという友人はいなかった為に、多分わたしはいろいろ話せる人が欲しかったのだと思う。そうかといって、その姉妹とはまだ知り合ったばかりで、交際に発展するかどうかは分らなかったが、それでもわたしの心は満たされたのであった。
福島での暮らしにも慣れてきた頃、担任の長谷川先生から、英語の全国スピーチ大会に応募することを薦められた。それからはアパートに帰ると毎日、大きな声を出してスピーチの練習を行い、学校の体育館のステージで、全校生徒を前に披露したことがあった。その時スピーチをしたのは、わたし一人だけであったにも係わらず、先生方を含む大勢の人々を前にしても、動じることは全く無かったのである。以前のわたしだと考えられないことであった。このような事は、自分の力だけで出来るものではなかった。長谷川先生や遠藤先生を始め、学校に於いて繋がりのあった、みんなの暖かさに、わたしの心が支えられていたからこその事であった。
二十一
木枯らしが、枯れ枝にしがみついていた最後の葉を吹き飛ばし、裸になった樹々が雪化粧をする頃となった。福島の冬は寒かった。一度雪が降ると、その後晴れたとしても、日中の気温があまり上がらない為に、僅かの積雪でも凍りつき、砂利と混ざって薄汚れたまま、暖かくなるまで融けることはなかった。
十二月に入り、わたしは十九歳になった。この年の三月まで通っていた聖路加国際病院へは、この頃は殆ど行くことはなくなっていた。高校生活が始まってからは、畑中先生のカウンセリングを受ける頻度は、年二回程度にまで減っていた。それは、強迫観念に囚われることがあまりなくなったのと、強迫行動を殆ど起こさなくなってきた為に、先生に何かを訴えるなど、話をする必要をさほど感じなくなってきたからであった。ほんとうに、先生方とクラスメイトたちのお陰である。精神的な意味に於いて、教室にわたしの居場所がある為に、学校の定められたスケジュールどおりに行動することができ、日々それを続けた事が、回復に繋がったのだ。
その学校も冬休みに入る頃となった。この休み中に、わたしは今までにない体験をすることができる一人旅を計画していた。生まれ育った浪江は、殆ど雪が積もらない土地なので、かねてより一度、雪が美しいままいつまでも残っている風景を見たいと思っていた。
そんな折、以前わたしを預かってくれたさくら伯母が、再婚して新潟の小千谷町に暮らすようになっていたので、この、なかなか無いチャンスを生かそうと、伯母を尋ねることにしたのである。それで冬休みが始まると直ぐ実家へ帰り、クリスマスをうちで過ごして、それから出発した。
東京方面へは、幾度となく単独で出掛けていたが、長旅を一人でするのはこの時が初めてであった。旅の計画は自分で立てた。最初、特急列車で浪江から上野まで行き、そこで乗り換えて、越後湯沢を目指すことにした。乗り換えた上越線も特急列車であったが、上野に着くまで既に三時間半近く経っていたので、結構長い列車の旅になった。上野で乗り換えてからもしばらくは、常磐線とあまり変わらない、冬枯れの、乾燥した景色が続いていた。ところが、列車が新清水トンネルを過ぎた時であった。辺りの風景がそれまでとは一変して、白とグレイの世界になったのである。この風景の変わりようが、前に読んだ「雪国」を彷彿とさせた。
わたしは「雪国」を読むまでは、十六の頃に映画で観た、「哀愁」のような恋愛に憧れていたのだが、それを読んでからは考えが変わったのであった。「哀愁」に描かれていた恋愛は、その頃のわたしにも分り易かった。マイラの潔さと、ずっと彼女を想い続けるロイの永遠の愛に感動して、絶対これだと思っていたのだが、自分なりの知識として持っていた、交際の手順を全く踏んでいない、「雪国」を読んでからは、情欲の世界というものに、余程興味を抱いたのである。恋愛はおろか、ほんとうに異性を好きになったことは一度も無く、「ロミオとジュリエット」などにも憧れていた、「雪国」を読む前のわたしの概念には、恋愛と結婚の区別がなく、恋愛が成就した場合には、その先に結婚があるのだと思っていた。そしてその恋愛は、真実の愛によって成立しているのだと思っていた。だから性的な関係が結ばれるのは、互いの心に誠の愛があるからだと思っていた。誠の愛とはどのようなものかさえ、実際には知らなかったのであるが。その頃は男女の仲に関しては、その程度の理解しかなかった。そこで「雪国」の場合は、主人公はもとより、その他の登場人物にも、互いの間に誠の愛らしいものは見当たらないのだが、性的関係はあるようなので、当時のわたしには、彼らの行動が理解できなかったのである。しかしそれからは、今すぐにでなくてもいいから、そのような世界を知りたいと思うようになったのだ。車窓から流れる雪に埋もれた景色を眺めながら、まだ足を踏み入れたことのない、未知の世界にいる自分を想像してみた。
そのようにして、自分に都合の良い妄想を廻らせているうちに、周りの乗客の様子が変わってきて、リュックを背負い、スキー板を担いだ男女が、雪の降りしきるなかへと降りていく光景が多く見られるようになった。わたしはスキーはやらないのだが、これから彼らと同じように、一面の銀世界のなかに入って行くのである。何しろ生まれて初めてのことなので、自然に気持ちが昂ってきた。
その時、他にもわたしの気持ちを昂らせていたことがあった。それは、この冬休みに入ってから、外出の際に始めたお化粧である。その日の朝も、家を出る前に、時間をかけて丁寧にお化粧をした。それまでは、最新流行の服を着ているとはいえ、素顔に合わせていたので、あまり見映えはしなかったのだが、お化粧をすることにより、自分なりに随分違って見えた。このような場合も、うちの店で化粧道具一式を揃えてくれたのは母である。わたしを綺麗に着飾らせることに関しては、やはり母は反対しないのであった。そうしてこの時点では、十九歳とはいえ身分は高校生なので、校則に従えば卒業するまでお化粧はしない筈だったのだが、わたしはそれを破ったのであった。ただしその他のことに関しては、規則を守っていたので、学校以外であればお化粧はしても良いと、自分で勝手に決めたのである。お化粧をすることは、新しい自分の発見であり、精神的な意味に於いて非常に良い効果をもたらした。急に大人になったような気がした。それで行動も、大人らしく責任感を伴うものにしなければ、と思うようになった。それからは僅かずつではあったけれど、それを実践していったのである。
辺りがすっかり暗くなった頃に越後湯沢に到着し、わたしはそこで列車を降りた。駅前のロータリーは雪で覆われ、タイヤの跡だけがシャーベット状に融けていた。その時はレインブーツではなく、皮革製のブーツを履いていた為に、周りの景色よりも、ブーツがびしょ濡れになる事の方に気を取られていた。脚を運ぶ度にびちゃびちゃと音をたてながら、ようやくタクシーに乗り込んだ。
駅を後にしてしばらくすると、暗闇のなかで、ヘッドライトに照れされた路面と両脇の雪だけが見える景色になった。その辺りは、舗装された道路だけは、路面の中央から絶え間なく流れ出ている水によって雪が融かされ、積もらないようになっているのだが、道の両側には3m近い雪の壁ができていた。小千谷に着いてみると、伯母の家は、一階部分は雪に覆われすっかり隠れてしまって、二階の所だけがかろうじて顔を覗かせていた。なので、道路から玄関までは、踏み固められた雪の坂道を登ったり降りたりして、ようやく辿りつくのであった。このような厳しい自然環境のもとで生活を続けることは、とても大変なことだと思うが、生まれて初めて見る雪国の風景は美しく、新鮮で興味深くもあり面白かった。
伯母夫婦は暖かくわたしをもてなしてくれた。次の日には、伯母が長岡市へ案内してくれた。バスを利用したのだけれど、雪が無ければ片道三十分位で到着する筈のところが、その時はたっぷり二時間かかった。ようやく着いた長岡でごちそうになった、胡麻豆腐の美味しさは忘れられない。朝晩の食事は家で頂いたのだけれど、さくら伯母はもとより料理上手なので、この訪問の際も、わたしは美味しい手料理に舌鼓を打ち、楽しい思い出と共に帰路に着くことができた。
帰り途は行きとは違うルートを選んでいたので、見送りに来てくれた伯母とは長岡で別れた。そこから新潟まで行き、磐越西線に乗り換え、郡山を目指した。新潟付近は海沿いのせいなのか、積雪量は少なかった。それでも、列車が進むにつれ段々と景色が変わり、会津辺りはとっぷりと雪に埋もれていた。とはいえ、出発の朝まで見ていた小千谷辺りの積雪量に比べると、会津のそれは大分少なく感じた。郡山で小一時間ほど乗り換えの列車を待って、次は磐越東線で平に向った。平に着いてみると、当然であるが雪はなかった。とてもよく晴れていた。この日、早朝に見た景色は、3mもの雪の壁である。それ程の積雪であるのに、これでもかとの如く、更に降り続けるのであった。そのような気候である故、遠くの山の方を眺めていると、空から自分が立っている足元まで、色というのが、白とグレイと黒しかなく、このところは水墨画の中で暮らしているかのようだったのだ。同じ日のうちに、これ程までに風景が変わると、そのコントラストは非常に面白かった。美しい雪景色を満喫して平に着くと間もなく、常磐線に乗り換えてようやく浪江に帰り着いた。
その途中、久ノ浜辺りで車窓から海が見えるのだが、この時は陽が西に傾いて、海は光ってはいなかったが、うす青さはまだ残っていた。波の静かな海を見ているうちに、学校で習ったばかりの歌詞が浮かんできた。
はるのうみ
ひねもすのたり
のたりかな
小学生の時分、平に居る従妹の所へ遊びに行くようになって以来、上京する際も含めて、何百回となくここからの海の景色を眺めているのだが、飽きることは決してないのだった。
そうしてこの時、晴れた海を見てほっとしたのである。
二十二
そろそろ冬休みが終わるので、わたしは福島に戻った。
戻ってからも、学校が休みの日に外出をする際は、必ずお化粧をした。そうすることで、わたしは雪国への旅の気分を改めて思い起こすのであった。大人の女性が、外出の際必須事項としてするお化粧とは違い、わたしの場合のそれは、非日常的な気分を楽しむためのものであった。
三学期が始まってしばらく経った頃のことである。寒さが一段と厳しくなり、少しだが雪が積もる日もあった。教室では、休み時間になるとストーブを囲み、お喋りをしながら暖を取る姿が多く見られるようになってきた。そんな折であったか、クラスメイトの矢部さんが、自分のうちに遊びに来るよう、わたしを誘ってくれたのである。
よく晴れた日曜日の昼下がり、嬉しい誘いを快諾したわたしは、福島市内を西へ向かうバスに乗っていた。クラスメイトから自宅に招待されたのは、高校生活が始まって以来、この時が初めてであった。
矢部さんの家に着いてみると、その庭から、真っ白い吾妻連峰がすぐ傍に見えた。驚くほど山は近いのだが、凛とした空気のなかに居るせいか、雪の白さが際立って、清らかさが先に立っているせいなのか、迫るような圧迫感はなかった。家に入ってみると、なかは古い木造の、中二階があるようなつくりで、天井が低く、わたしは上の階にあった彼女の部屋に通された。そこに落ち着いてから間もなく、彼女のお母様がお茶などを運んでくれて、わたしは挨拶の後、少しだけ会話を交わしただけなのだが、それだけでハッキリと分ったのだった。彼女の母親は、わたしの母にはない目の色と、口調を併せ持っていた。精神的な意味に於ける本物の「おかあさん」だけがもっているものであった。わたしはその時、相当な衝撃を受けたのだが、二人に気付かれないように動揺を隠した。そのようにして矢部さんとひとしきりお喋りをした後で、暇を告げ、彼女に送られ玄関に向った。その途中、中二階の部屋の脇を通り過ぎるとき、テーブルに置かれた皿の上に、学校給食の残りと分るパンがのっているのが見えた。その近くには矢部さんの兄弟がいたので、それはおやつのようであった。表に出ると矢部さんに別れを告げ、再びバスに乗って家路についたのだが、この時頭の中は、行きとは違い、様々な思考が駆け巡っていた。
第一に、彼女の母親のなにげない仕草や話し声、その眼差しなどから、自分の母があのようになることは絶対にないということが分かった。このことが、わたしに衝撃をもたらした原因の大半である。
わたしを見る時の母は、大抵において、挑むような鋭い眼差しを向けてくる。特に怒っている時は、鈍い光を宿した、人間のものとは思えない、恐ろしい目になっている。 それでもわたしには、まだ甘えがあり、母が普通の、「おかあさん」に変わる可能性もあるのではないかと、望みを捨ててはいなかったので、そのことは相当なショックであった。さらに、矢部さんのうちの空気の柔らかさと暖かさが、そのまま彼女に乗り移り、彼女の雰囲気を好いものにしていることも、自分と比較して、その違いに衝撃を受けたのである。四角四面のわたしは、彼女のような柔らかさを持ち合わせていない。心は傷を受けやすいのであるが、プライドだけはやたらと高い。そして、明らかに学校給食の残りのパンとしか見えないそれを、丁寧に皿にのせ、おやつとして大切にしていることも、自分のことを考えるとあまりにも違うのであった。わたしは、給食の残りはこっそりと家に持ち帰って捨てていた、のみならず、他にも同様の事を遣っていたのである。
それ迄わたしは、母方の祖父母や母の持つ、横柄な態度や傲慢さを軽蔑し、嫌っていた。同時に、自分はそういう人達とは違うと思っていた。けれども、矢部さんの家を訪れたことで、自分でも気付かないうちに、そのような性質が、わたしの頭や体にも染みついていたことが分ったのである。知らず知らずの間に、祖父母や母の悪いところを引き継いでいるのであるから、自分の内面を変えることは簡単なことではない、改めて事の難しさを感じた。が、わたしは新しい自分を、自らの力で産み出すことを、その時に決意したのである。
二十三
春の彼岸が過ぎて、アスファルトを覆っていた、凍りついた雪の塊は融けた。学校が休みに入っていたので、普段通りであれば、浪江に帰るところなのであるが、わたしは、まだアパートでぐずぐずしていた。三学期中、週末には、時々帰っていたのだけれど、母とはお互いに、口を開けば言い争いになっていたので、急いで帰る気持ちはなかったのだ。そうして、この春休みは、うちへ帰るのは止めて、以前からやろうと思っていた、ある事をしようと決めたのである。
目にも鮮やかな真紅の苺を前に、わたしはアパートの台所で、ホイップクリームを泡立てていた。へたを取り除いたいちごを一パック丸ごと、大きめのガラスの器に盛り、その上から出来たばかりのホイップクリームをたっぷりとかけた。これが一日の食事だった。他には何も食べず、熱量のある飲み物も一切摂らなかった。以前から遣りたいと思っていたのは、減量である。さらにリバウンドをさせないようにして、ダイエットを成功させる事だった。新学期が始まる頃までには、かなり減量することができた。三学期の終わりまで、膝下丈であった制服のスカートが、大き過ぎてずり下がり、足首が辛うじて見えるほどの長さにまでなっていたのである。中学校を長期欠席する前は、太ってはいなかったのだが、丸三年六カ月休養している間に体重が増え、49㎏になっていた。身長は147㎝なので、肥満していると感じ、長い間気になっていたのである。それを、自己流の極端なダイエットのせいで、短期間に42㎏にまで減らすことができたのだ。その為に、全ての服を買い替えるか、リフォームをしなければならなかった。二年生に進級してからも、学校生活に変化はなかったが、痩せることへのわたしの関心はさらに高まった。なので、苺の季節が過ぎてからは、朝食に、ゆで卵と豆や根菜を加えた野菜サラダを食べると、後は一日中何も食べないか、食べたとしても、ドーナツを一・二個程度であった。それ迄は三食きちんと摂っていたので、相当な変わりようなのだ。そうして、この痩せることへの極端すぎる関心が、強迫観念に囚われることが、さらに無くなるという、自分でも不思議に思うような効果をもたらしたのも事実であった。一日の運動量は以前と変わらなかったので、あまりにも少ない食事の為に、体力はどんどん衰えていった。なので、体育の授業を受けた後などは、疲労困憊して、次の授業に差し支えたので、非常に辛かった。それで体育は、この年の単位取得ぎりぎりまで欠席した。けれど、家庭学習時間を減らすことはしなかったし、さらに、茶道の稽古を始めたのであった。
小学六年の時、茶道の入口を覗く程度に、稽古をした事があった。その時に教えてくれたのは、小高町(現在の南相馬市小高区)に住んでいた従姉である。従姉が入っていたのは裏千家だった。それで、同じ宗派の、福島市内の先生を紹介してもらったのである。先生のお宅は渡利地区だったので、わたしが居た春日町からは大分離れていたけれど、自転車をこいで、稽古のある日は休まずに通った。
頭の中がまだ子供だったわたしは、お化粧をして、新しく揃えてもらった小さいサイズの服を着ると、35㎏まで減量した相当細い体であっても、そのスタイルでお茶の稽古をする自分は、大人っぽく見えるような気がして、嬉しくてたまらないのであった。
福島での生活に馴染んできた頃、通学の他にも、何かを遣りたくなった。そこで色々考えた末に、茶道を選んだのは、小高の従姉に初めて教わった時の雰囲気が好きだったからである。
茶室は簡素だ。掛け軸もあっさりとしたものであるし、素朴な一輪差しの花器に、季節の花をさりげなく生けてある。大輪の花ではなく、一輪だけというのがいい。その一輪に、客を持てなそうとする、亭主の心が込められている。それがいい。そして茶道具の他には余計な物はなにもない。しいんと音がするほど静かな茶室で聞こえるのは、お運びの際の衣擦れの音、杓からおちる水や湯の音、茶筅通しの音、冬であれば、切った炉で沸き立つ湯気の音、などである。これらの全てが、わたしは好きだった。
ところで、わたしはこの時点ではまだ高校生であるし、アルバイトなどは行っていなかったので、何をするのにも親のお金で遣っていたのである。それにも係わらず、稽古を始めると、母は、わたしが何も頼んではいなくても、小紋や大島紬、それから訪問着と、それぞれの着物に合う帯や小物を揃えてくれるのであった。それらは、うちの店で購入したものではあったが、茶道の世界では一番下にいる、わたしが身につけるには不似合いな、相当高価なものだった。
二十四
自己流の家庭学習を行っていたわたしに、母は家庭教師をつけたがった。そうして実際に、福島大学に通う女子学生を二人見つけてきた。習い始める前に顔合わせという事になり、両親が福島までやって来て、これから教えてくれる学生二人を招待し、ホテル辰巳屋の和食レストランで会食をした。その後は数学と英語の学習に於いては、家庭教師の指導のもとに行われることになった。
二人の家庭教師は、週に一・二回程度、わたしのアパートを交互に訪れ、一回につき二時間、学習指導をしてくれた。その際は、雑談をすることもなく、集中講義であった。そのようにして四カ月ほどが過ぎた頃、わたしは習うのを止めた。家庭教師に付いて学習をすると良いと考えたのは母だったけれど、勉強をするのは、母ではなくわたしなのだ。女子学生はとてもいい方たちで、親切にしてくれたのであるが、やはりわたしは、自分の遣りたい学習を、自分のペースで遣ることにしたのであった。
この春の連休前に、母とわたしは、以前食事を共にして楽しいひと時を過ごした姉妹たちと再会していた。今度は、市内の和食の店で会おうということになり、その時も前と同じように楽しくお喋りをして別れたのであるが、二度目だったこともあり、わたしはその後しばらくしてから、話が弾んだ若いほうの方に連絡を取ってみたのである。すると相手は、この次は二人だけで食事をしましょうと提案したので、程なくしてまた会ったのだが、その時わたしは、現在は高校二年生であることや、何故三年間のブランクがあったのかなど、事実を話したのであった。前に会った時は、二度とも、母は体裁を繕って、ほんとうの事を言わず、作り話をしていたからである。それと、相手が、わたしの話を理解してくれる人だと感じた為、偽ったままで、交際する気持ちにはなれなかったのだ。
その後、わたしが再び若いほうの方に電話をしてみると、この前会った時とは、声の様子が全く違っていた。何があったのかは分らないが、様子がおかしいのは確かであった。わたしを疑い、恐れて、避けようとしていることがありありと分る、そのような口調であった。その後少し経ってから分ったのは、わたしが事実を話したことを知った母が、
「娘はあたしと会うと、殴る蹴るの暴行をして、それはひどいんだから。このままでは、あたしは娘に殺される。」
と、姉妹に電話をかけて伝えたからであった。この頃、わたしは母と顔を合わせる度に、言い争いをしていたのは事実である。多分、母をあきらめてはいないのと、変わってくれることを期待する気持ちがあったのと、自分の考えを主張していたからだと思う。そこで、自己の精神を自由にさせていたわたしは、若いほうの方にほんとうの事を話した。それが母にしてみると、自分の思惑どおりになっていないという事なのである。わたしが話した内容は、母の説明とは食違っているので、母にしてみると、過去から現在までの、自身の言動を正当化する必要があった。その為に虚偽の話をしたのである。そしてこの時も母は、
「殺される」という言葉を使っている。母にとって「殺す」、「殺される」、「死ぬ」、という言葉は日常語なのである。しかも、そう言っている時の母の口調は、冗談ではなく、本気なのである。子供の頃から聞かされているわたしでさえ、何度聞いても、その度に驚き、嫌な気持ちになるのだった。そしてこの時に初めて、母の口からこの言葉を聞いた姉妹は、それを信じたのであった。
わたしの心は、母によって再び傷を負った。この時に受けた傷は、言葉では表し難いほどに深く、再び強迫観念に囚われるようになったのである。それまで殆ど起きなくなっていたので余計に辛かった。それでも、わたしの居場所のある教室が、助けにはなってくれた。登校すれば先生やクラスメイトたちの笑顔に会うことができる。なので、囚われ者にならないよう努力をしつつ、学校のスケジュールに合わせて行動をしたのである。そしてどうしても登校する気力が出ない時には欠席した。
そうしてこの出来事により、はっきりと分ったのである。相手が良い人であろうと、何であろうと、母の方から連絡できる人々の中で、実際のわたしを知らない人、且つ母の話を信じる人とは付き合えないという事である。振り返ってみると、過去にも同じような事があったのだ。それにも係わらず、普通の母娘のように、交流しているということは、それだけの事をされても、わたしはまだ母を信用、または期待していたということになる。しかしこのままだと、同じことの繰り返しになるだけであった。
あくまでも精神的な意味に於いてであるが、母がわたしに付けた手綱は強烈なものであった。なにがなんでも、わたしを手中に収めておかねばならない、そういう感じであった。母は自身を太陽とみなし、わたしを、その周りを回転する惑星の一つと定めたような感があった。その為に心が病んだのだけれど、母独特の見方によって、わたしが軌道から外れたと判断された場合、病からは抜け出すことが出来なくなる程の制裁を加えられるのである。母が決めている軌道というのは、人生を左右する、重要な選択に価する事であったり、些細な事であったりと、何に関してもであった。これは、取るに足りない方の例えだが事実である。空全体が雲で覆われている場合に、母がア―モンドほどの隙間を見つけて、
「あ、晴れている。」
と言えば晴れなのである。そこでわたしが、
「え?今日は曇ってるんじゃない。」
などと言おうものなら、たかが天気であっても、すぐにカッとなって本気で反論してくるのが母である。つまらない事でさえ、わたしが従わないと気の済まない母は、実際に白いカーテンを、わたしが事実どおり白だと言った場合、自分が同調したくない気分の時には、
「いや、黒だ。」
と言って反論するのである。そうしてこのような事を、誰彼かまわずに遣るのではないのだ。相手はいつもわたしと決まっている。従って、母の脳には、わたしが自分の所有物であると、刷り込まれているようなのである。
通常、十代の初め頃から反抗期が始まるが、わたしにはそれがあったという自覚は無い。そういう事もあって、母が付けた手綱を、外すことがなかなかできなかったのだと思う。そうして、その手綱のせいで、幼い時分に社交不安障害を発症し、生きづらさを余儀なくされた為に、強迫神経症を併発したと感じている。
わたしに対し母は、甘やかすということはしているのだが、甘えさせるというのは一切ない。その為、心の発達が、普通の段階を経ていないという感覚であった。わたしの心のなかには、幼い子供のままの部分が常にあり、母に甘えたいという思いを、いつも抱いているという感じだった。それで、普通の「おかあさん」になってほしい、変わってほしいという気持ちが強くあったので、どうしてわたしにばかりこのような扱いをするのかと、母に尋ねたことがあった。
「目の前にいるのがひとみだと思うと、ついやっちゃうのよね。」
返ってきた答えは、一言一句違えずこの通りであった。しかも別にいいじゃない、という言い方であった。それを聞いた瞬間、わたしは後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。やはり母は、自分がおかしい事をしていると感じながら、同時に、そうするのが当たり前だという思いで行動しているのだ。故意に意地悪をするのではなく、自然に出てくるのである。だから他の誰にも話さないことを、わたしにだけは言ったのだ。父方の親族に対する罵詈雑言、母方の親族への愚痴、母自身の交際相手のこと、自分の父親の交際相手のこと、母の友人の交際相手のこと、などなど子供には聞かせてはいけないことばかりである。それに、淡々と話すのではなかった。気分を害している場合は、毒々しい言葉の羅列で、憎悪を込めて語った。気分が好いと、面白そうに、自慢げに語った。わたしは、まるで、精神的な意味に於ける、母の痰壺のようであった。汚れたおむつの洗濯が嫌だという理由から、零歳のわたしに対して、肉体的虐待を加えた時も、乳児の身体に傷を残したのであるから、こんなことをしては良くないと感じつつ、こうしないと、洗濯から逃れる事はできないのだから、まあ仕方が無いと思って行ったのだろう。精神にも傷を付けているという事まで、自覚していたかは分らないが。
そうして、福島で知り会えた姉妹の件は、虚偽の話により、わたしが、母に殺意を抱いている、凶悪な人物であるとされたものである。その一件から受けた精神的ストレスは、殆ど起きなくなっていた強迫観念を、再び呼び戻すほどの力があったのだ。自分を正当化する為であれば、母は何でも遣るのだ。さらに、わたしが誕生した時から幼児期までの間に、心の絆をつくらなかった。のであるから、これから先も未来永劫、母が絆を結ぶことはない。それが実際である。そうして母の頭は変わらないのだから、このままだと、わたしの心は振り回され、傷つけられることの繰り返しで、病からは抜け出すことができなくなる。
それからしばらくして、こう考えた。わたしと母との間には、精神的な意味に於いては、アマゾン河のような、対岸にいる人が見えない程の、大河がある。そうして、その流れは永遠に続くのだ。母は対岸の人である。従って、これから先、娘の心を萎えさせるような話を母がしても、娘の心に刃を振り下ろしても、わたしには全く関係がないのだ。だから耳には入らない。母と同じような頭を持つ人も、やはり対岸の人である。そのような人々から、何を聞かされようと、何と非難されようと、気に掛ける必要は無い。
「勝手に言っていろ。」
である。そうして母がわたしを産んでくれた事と、わたしは生きている事、その事実のみに感謝をすることにしたのだ。それから、命令された事柄のなかで、心が疲れる恐れの無い、自分も納得のいく事だけを遣ることにした。そのようにしながら、自分が立っている側の、岸辺に居る人々と、暖かい心を交わらせて暮らすのだ。そう決めてからは、心から流れていた血が、少しずつではあったが、止まる方向へと向かったのであった。さらに、母によって付けられた、精神的な意味に於ける強力な手綱を、わたしはその時、ようやく外すことができたのである。
このように精神的な意味に於いては、非常に辛い時期であったが、わたしは自分をあきらめることはしなかった。心が萎えている時には学校を欠席したが、無理はしないで通学を続けた。茶道の稽古にも通った。その時、心の置き場があったことがほんとうに救いであった。それと、十九歳であったことも救いであった。まだ大人になりきっていないわたしは多感だった。ほんの些細なことにも感動した。その心の高ぶりが、再び起きてきた強迫観念を追い出すのを手伝った。
二十五
大学受験を一年半後に控えた弟は、この夏休みに、都内の予備校で夏期講習を受けることにしていた。それで、食事やその他の世話をして欲しいと母から言われたのだが、これに関しては、わたしは一も二もなく直ぐに承知した。普段から気の合う弟と、三週間ほど東京で一緒に暮らすことができるのである。滞在するに際しては、その頃上石神井のアパートに暮らしていた、母方の叔父夫婦が、夏の間は田舎で過ごすということなので、その部屋を使わせてもらえることになった。
わたしが東京滞在を喜んだのは、都会暮らしへの憧れではない。十五の時から毎週上京していたし、横浜で暮らしたこともあったので、憧れとは全く別の意味があった。東京の猛暑がいいのである。わたしの身体は、暑さを殆ど探知しない。もしかすると、幼い時分から、運動とは無縁の生活を送っているのに伴い、自己流の極端なダイエットを行った為に、筋肉の殆どが失われてしまったのかもしれなかった。そういう肉体なので寒さには非常に弱いのである。
だからなのであろう、子供の頃から夏が好きなのだ。気温の高いことだけではなく他にも、日の長いこと、蝉の声、ぎらぎらとした太陽のもと、木陰で食べるアイスキャンディーや氷水、朝採りの味も香りも甘いとうもろこし、海水浴に夏祭り、ゆかたに花火、程良く冷えた甘い西瓜など、夏の風物詩はどれも好きなのだった。それに東京の夏は、浪江や相馬辺りの、短い夏とは違う筈なので、それが楽しみだったのである。
上京した日は良く晴れていた。上石神井の駅に着いたのは昼下がりで、しばらく滞在するアパートまでは、途中にある畑の間を重い荷物を持って縫うように歩いたのだが、その時のうだるような暑さは田舎とはまるで違った。ようやく着いて、ひと休みすると直ぐに、荷物をほどいて片付け、わたしは再び駅に向って歩き出した。駅のすぐ傍にスーパーがあるのを来る時に見たので、食材や日用品を買おうと思ったのである。もうこの辺りから、気分はかなり上昇していたといっていい。東京の暑さも想像したとおり、わたしの身体には合っていたし、福島に一人で居た時とは違い、そこでは、作ったものを食べてくれる相手がいたので、とても気持ちが好かった。それまでは、自分以外の誰かに、料理したものを食べさせた事が、殆どなかったのだ。子供の頃から、炊事の手伝いをしたいと、母にせがむと、わたしがやると遅くなるから駄目だと言われ、台所に立たせてはもらえなかった。ここでは、それができるというのが、自分を大人になったような気分にさせた。わたしの、大人の世界への憧れは強く、その頃は兎に角、早く大人になりたいと思っていた。
他にも、弟は好き嫌いが殆ど無いので、献立を決める際に助かったし、よく喋るからとても楽しいという事もあった。それに、他愛ないお喋りをしていただけではないというのも良かった。二人で物事の本質を捉えようとするような会話もしていたし、意見が大体合っていたので、心が繋がるのであった。着いたその日から、弟が自分の方から申し出て、掃除や買い物などの家事を手伝ってくれたので、わたしも助かり、とても仲好く快適に、そこでの暮らしをスタートさせることができた。
次の朝、わたしはかなり早く起きて、洗濯機を回しはじめた。叔父夫婦の部屋は二階にあり、そこの洗濯機は、アパートの通路に設置されていたので、昇ったばかりの夏の朝陽がわたしを照らした。
もうそれだけでも気分が好かった。早朝の爽やかな空気、時を告げるニワトリの鳴き声、今日の暑さを予感させる晴れ渡った空、わたしは心底夏が好きなのであった。
朝食は大抵、ごはんにお味噌汁、簡単な卵料理とトマト、ソーセージなどを出したが、弟は旺盛な食欲をみせて美味しそうに食べた。
わたしも少量ずつ食べた。ダイエットをした成果は続いており、体重は35㎏前後であったが、それ以上減ることはなかった。それは恐らく、わたしは美味しいものを頂く事に、非常な喜びを感じる程、根が食いしん坊だからなのだと思う。それに加えて、何事もきちんとしなければ気の済まない几帳面な性格でもある。従って、減量に成功した頃から、食品成分表を仔細に読んで、各食品の、100g中の熱量と栄養成分、普段よく食べるおかずや、お菓子に含まれる熱量を、出来る限り暗記していた。その上で、一日の運動量に応じた、体重1㎏当りに必要な熱量を基に、自分が摂取すべきカロリーを算出して、食事を摂っていたのである。とはいえ、食品の重さを正確に量った訳ではなかったから、熱量の計算は大凡であった。
朝ごはんを終えると、弟は予備校に出掛けた。わたしは洗濯したものを干して、朝食の後片付けをしながら、いつもとは違う充実した気分を味わっていた。かつて港南台で暮らした時にも、料理は自分で作っていたけれど、一緒に食べる相手はいなかった。それは福島に於いても同じであった。浪江のうちの場合は一人きりではないが、弟と二人だけでいる訳でもなく、殆ど心が通い合ってはいない両親も一緒である。なので、情況がまるで違うのだった。気持ちの通い合う弟と、二人で協力しながら生活している。それがわたしの心にとって、とても良かったのだ。こういう時、よく心のキャッチボールという言い回しをするけれど、まさにその通りだった。弟と他愛ない会話をしながら食事をするだけでも、わたしの心は充分な幸福感に包まれた。心が繋がっている相手の為に、自分が役立っていると感じる時、人は、ほんとうの生きがいを自覚するのではないだろうか。
お昼は外で済ませることになっていたので、作る必要はなかった。なので、夕食の準備に取り掛かるまでは、好きなことができた。真夏の太陽が真上から照りつけ、世の中全体が、熱波を帯びた如くになった頃、お化粧を終えたわたしは新宿へ向った。
前年の夏よりも、15㎏近く軽くなっていたので、それまで着ていた服は、もう着られなくなっていた。そこで母が、外出用のワンピースを誂えてくれたのだけれど、普段着が足りなかったので、夏のバーゲンセールで揃えようと思い、伊勢丹に行った。都心の大きな百貨店だけに、仙台とは違い、スモールサイズの売り場が広く、従って商品量も多い、ボリューム感のある品揃えだった。その売り場を、わたしもそうであるが、若い女性たちが、小さい魚が忙しなく泳ぐが如くに動いていた。当時はほんとうに小さな服が製造されていて、スカートは、ウエストの仕上がりサイズが、ジャスト52㎝から揃っていた。わたしにはその一番小さいのが丁度良かったので、中央にボックスプリーツが入ったAラインのスカートと、それに合うブラウスを買った。思い通りに痩せることが出来た、のみならず、新しい服を手に入れたわたしは、大満足だった。そしてこの時も、お金を渡してくれたのは母なのである。
夕飯の準備があるので、買い物を済ませると、急いで上石神井に戻った。自分一人だけの時は間に合っていたけれど、料理のレパートリーが余りにも少ない為、弟に食べさせるとなると、それではまずいのだ。だから初めての料理を、本に載っているレシピを見ながら作った。元より賄いの習慣がついていないわたしは、一品完成させるだけでも非常に長い時間を要した。それで寄り道をせずに帰ったのだけれども、つまらないとか、面倒だとかは感じなかった。今迄に遣った事がない料理を作るのも、楽しかったからである。ピラフというのは、炒めて作るのではなく、味つけしたスープで炊くのだということを、この時初めて知った。そのように、悪戦苦闘して仕上げた、わたしの手料理を、弟は美味しいと言ってよく食べてくれた。だからとても嬉しかったし、作り甲斐があったのだ。
そんな風に、二人で力を合わせて生活をしている日々が、わたしの心にとても良い影響を及ぼしてくれた。講習の合間には、高田馬場の図書館で勉強をしていた弟は、わたしもそこへ連れて行ってくれた。大学進学はしないとしても、夏休みの学習があったのだ。アパートには冷房設備はなかったから、エアコンが適度に効いている図書館は、殆ど暑さを感じないわたしとしても、勉強するのには丁度よかったのである。弟は毎日、真面目に学習をしながら、わたしの手伝いをしてくれた。わたしは、片手間に学習をしながら、毎日弟の世話を焼いた。
そのようにして暮らしている間、母からの連絡は殆どなかったが、たまに電話がかかってきて、聞きたくない言葉や言い回しをされても、腹が立つということは既に無かった。わたしは、母をあきらめたのである。あくまでも精神的な意味に於いて、であるが、全く関係のない人になっていた。従って、恨み、憎しみ、怒り等の感情は湧かない。それと同じく母に対しては、思慕、期待、喜び等の感情も全く無い。人との繋がりに於いて、無関心が、最も冷めた状態であろうと思う。母の、わたしの精神を支配しようとする力が、母娘の間を、このように完全に冷却せしめたのである。母と争う必要を無くする為に、自分の精神を守る為に、こうするのが最良の方法であった。
上京して三週間近くが過ぎた頃である。東京での楽しい生活が間もなく終わるのだけれど、わたしは、強迫観念が起きそうになっても、それに囚われないでいる為に、強迫観念の方が消えていく事に気づいた。それに伴い、強迫行動は出なくなった。そうしてその状態が継続されたのである。従って、潔癖ではあるけれども、強迫神経症の状態からは抜け出すことができたのである。東京滞在中に一度、聖路加国際病院を訪れたのだが、何かあればその時に連絡するようにと畑中先生に言われ、次回の予約はせずに帰った。中学校の卒業間際に始まった治療は、それで終了となったのである。
零歳から、精神の支配と、肉体的虐待を受け続けた為に、社交不安障害であろうと考えられる症状が初めて現れたのが、四歳か五歳である。それを放置されたのに伴い、精神的虐待が継続された為に、強迫観念の囚われ者となったのが十四歳の夏であった。十五年近い歳月を、生きづらさと共に過ごしたけれど、わたしの心は、ようやく解放されたのである。畑中先生との出会いに始まり、音楽の先生や、福島の学校の先生方、クラスメイトたち、茶道を通じて出会うことができた人々、小百合叔母、さくら伯母と従姉夫婦、おばさん、そして弟、みんなの暖かい心と、笑顔に支えられたからこそ、脱出することができたのだ。
十九歳の夏は、あらゆる意味に於いて、忘れられない夏になった。
完
ママといるのがつらい