内部への月影
或る夜――――――
何処やらの庭先で犬とも猫とも知れない、ひとつの肉叢の遠く嘶く音がすると思うや、見上げれば既に月のひかりかがやくもさやかな風のうちである。
いつもどうにもぼうっとしているからいけないが、慥かにおれは日の沈みきらないうちから歩いてきているはずなのだけど――どれだけとぼとぼしているか、行く道ひとつ遠回りをしたか知らないが、いつの間にやら時は流れて、早く行かねば、眠る時間が来てしまう。だがさいわいにも神社は近い、ひとつ曲がれば灯りのない布留の家がすぐそこに見えるから、おれはいつも、重く張った鉛のような足を急がせる。
この肉に……そうあのぼんやりと濁って見える疲れが、さながらオリのように澱んでくると、彼のところに行こうとふと思う……それは疲れのわりにおれを逸りたてて、重い身を動かす。そうして濃い暗がりの控えたところにある引き戸を軽くとんとんとやる。しばらく待つと大抵、重ったるくて心暗そうな足音だけが浅く響いて、それが止んだら戸がすこしの隙間を空ける、そのとき、入れと声がかかることもあれば、折によってはないこともある。もしやもすると、彼はおれの訪いを待っているのかもわからない。薄くひらいた闇のうちから、見えないどこかの暗がりから、布留の疲れたような怯えたような、あるいは――怯え疲れたような、悄然して彼らしくもない眼が、視線の虚像が、幽霊じみて、どこかの硝子まで映り込んでくるような気もする。それでもこれが許可である。そういう静かな許可があるから、おれは何を気兼ねることもなく、元来は布留だけの世界であるところの、重く苦しい暗闇のほうへ、歩を進めることができる。
§◎§
布留はおれよりほかの誰とも、夜に会うことは決してない。果たしておれは彼の恐怖のうちへひとり潜ることができるのを、ある種喜ぶべきか決めあぐねて、どれほど経ったか。
§◎§
その家は手狭ではないが広くもないから、布留はいつも居室とおなじところに寝起きしているようだけど、ぽつんと乱れた布団のそばに、やがてだれかが縮まって座るような音がする……時折そのあたりへ、ひとつの小さな空のグラスが倒れていて、わずかに――催眠剤を流し込んだ名残か酒精のにおいが鼻の奥を刺すようにすることがあるけれど、いまは違うと見えて安心をする。…そうしておれは、はたして布留がどこにいるのかのたしかな見当は付きかねて、いつもそこからさほど離れない縁側のあたりに陣取るけれど、それですることとはただの取り留めのないお喋りだけで、口から出た数秒後には忘れてしまいそうな、多少のできごととことばの破片らしいというだけのものだから、それに大した意味は無い。意味などいらないから、ただ喋っていてほしい、お前の声があるのが安らぎだと、昔のことだけれど、兄がそう言ったから、そうしている。
――――はじめは、ただ黙ってそこにいるだけだったように思うけれど、布留はおれの存在だけでは、どうにも満足を得なかったと見えた。……というよりは、ただ怖いのだろう…限りなく無音に近いなかで、己の立てる少しの泣く音と、すぐ傍で黙って居るおれの眼、この身の感触だけでは、彼の大きな夜を払拭してやることは難しかった。
けれどもこれも言い訳のような響きに聞こえる。いつも――いつもそうだ。おれがそこにいたいだけなのである。あるいは、布留にもひとりの夜明かしは、さぞやつらいことなのだろう(否、違いない)。
§◎§
月の綺麗なとき――初めて夜中に布留の家を訪ねたが、その夜空のなかで月ばかりが異様に明るく、星が不思議と目につかないのが気味悪く思ったことは覚えているのに、あれが一体もう、何年前のことなのかはまるで覚えていないのだ。
ぼんやりと、いまも時として感じるようなあの言い知れぬ不安が、背骨を這いあがって肩へ、頚のあたりへ、重たくのしかかるいやな感じがおれをひっきりなしに襲ってきて、だからといって叫ぶほどのなにかは感じないけれど、さりとてそこに押し黙る憂鬱の空気は耐えがたく、おれは無性に布留が恋しく思ったのだ。おれが最も世話をかけているあの兄に、どうしたら良いかなどという、何かしらの言葉を乞うわけではないけれど、それでも彼のところへ居られたら、少しはこの不安が、ほぐれるか、せめて薄らいでくれる気がしたから――――兄がはじめに珍しくきつく言い含めた、「夜に決して来るんじゃない」との言葉を、おれは綺麗に忘れてしまっていたらしかった。そうでもなければあの時に、おれは布留を訪ねようとは思わなかったかもわからない。
おぼろかに寂しく心細く、おれは今よりはずっとこどもだったから、夜の暗さと背筋を撫でる涼しさとが、まるごとおれを包んでいきそうな心地がして、見慣れてはいるものの、夜闇の中にあるのはほとんど初めて見る彼の家の、玄関の磨硝子をごく軽く叩いたときに、そこいら一帯へ音がすっかり波のように広がりゆく錯覚にも襲われた。――おれはやはりよく覚えていないけれど、どれだけかぼんやりしたまま返事を待って、待っているうちに、磨硝子の引き戸がわずかに開いたことさえ認識しきれず、そこから――――見えない腕で以て何かがおれを、痛いほどの力で引き込んだから、おれはやっと小さな視界に、その夜初めての、外面世界を取り入れはじめる。
§◎§
「いっ」
そのままの勢いのためか、上がり框のところで膝を打ち付けたのでさすりなどしながら、気が付くとおれを引っ張った腕がそこから姿をなくしている。それどころか、誰のかたちもそこに見えない。けれどもそのとき背後できつく戸の締まる音がした。振り返っても誰も見えない。
おれは以前に、夕方のほんとうの際になってから見せて貰った、布留の姿の消える能力を思い起こしたところだった。「……ふる?」小さく呼んだとき、緊密な暗がりの底に、不自然に気配だけがぼうっと浮かぶように思われた。
「…………布留、どうしたんだ。…どこにいる」
おれの躰のすぐ横を、掠めるように通り過ぎる床の軋みがある。おれは自分の不安さえ頭から吹き飛んでしまって、注意しなければわからないほどの、布のこすれたり呼吸をしたりという音が、いったいどこからおれのもとへ飛んでくるものか、別種の不安に気を取られて、はっきりしない気配の居所を探したが――――そのときに、正面の襖の締め切られたところへ、余裕なく背を預けながら小さく蹲る音がした。けれども布留は返事をなにひとつ寄越さなかったから――おれは恐る恐る、そのあたりにまで手を伸ばした。
指先のもとに、感触だけのやわらかい布が、いやにつめたくさわって、その拍子に、わずかに接しただけの指が、腕ごと強く見えないところから突然に払われた。
「どうして」
声がして、そこに布留がいると思った。「どうして来た。なんでこんなときに来ちまうんだよ。なんで、なんで」耳に慣れた声ではあったけれどもそれはひどく憔悴して、おれの知っている様子とははるかに違っていた。彼は、なにかにえらく怯えるごときふうでいて、それはただの怖がりにしてはいやに行きすぎているのだ。おれはその、湿った調子で震えながら「なんで、どうして」と繰り返す声に、本で読んでわずかに知っただけの狂人の挙動を思い浮かべ、けれどもそれはすぐに頭の奥へ押し込むようにした。
「……おい布留、…アンタがおれをここへ引っ張り込んだんだぜ。どうしたんだ。答えておくれよ。夜に来たことは謝るから――」
「厭だ」
小さく叫ぶか、呻くように、布留は声だけでおれを圧し止めた。重い闇に溶けるすがたがそのときはまったく疎ましく思えた。
「いやだと言ったって……そんなふうなの見ちまったら、心配になるだろう」
「厭なものは厭だッ……」
耐えがたくも泣くような声がした。彼は幾度か呻いて、おれの黙って見ているしかない沈黙ののちに、やがては「やめてくれ」とか細く呟いた。
「やめてくれ。今の、今のあたしを、あたしを見ないでくれ」
…………やはり狂人めいている――と、思いたくないことをひっそり思った。
「……布留、おれにはアンタの言うことがよくわからない。何がどうして、」
「いやだ、見るな。見ないでくれ。こわい、厭だ、こわい」
ふたたび腕を伸ばしかけても、そこで躊躇うほどに、彼はすっかり正気をなくしているように見えた。それまでに片時も、そうした様子の片鱗を見せることがなかった布留の、そういう――そういうところは、おれを俄かに混乱させるにはじゅうぶんに過ぎる。
「布留。何がそんなに怖いんだ……」
ことばを期待せずにおれは訊いたが、布留は何とも覚束ないことを、震えながら呟いているだけにすぎないように思えた。おれはほとほと困り果てて、見えないところに見えないままで蹲る兄を、見下ろしていることしかできずにいて、彼がどうにも、自分の内へ内へと逃げるようにしているから、ひとりにしてやったほうが良いのかもわからなかった。
「……どうしてもいやなら、おれ帰るよ。居ないほうが良いか」
だからそんなことを言ったが――すると布留は闇の底辺でわずかに顔を上げたようだった。慥かにおれをどこかの視線が捉えるような空気があり、「ちがう…」咄嗟に出てきたと思しき言葉が、細くおれのところへ届いた。
けれどもやはりそれ以外に何を言うのか、迷うような様子があったから、「違うって何が…」とおれから訊くと、彼はもうしばし逡巡したように思え、やがてふと、おれの袖もとへわずかに、薄く皺を作って引くような重さがかかった。布留は言葉もなくおれの腕へ取りすがるかのようにしていて、その手は細かく震えながらおれの存在だけを頼りにするらしくある。ふとよく見たところ、おれの足元の床板のあたりへ、小さくぽつぽつと、涙を落とした跡がちらばりかかっているのがあって、彼にそうまで泣くほどの恐怖を与えうるのは一体何なのかもはかりかねたけれど、とりわけ布留だからか、そうした怯えるさまを棄て置けるほどおれは酷ではなかった。
「……何がアンタをそうしているのか、おれにはさっぱりわからないよ」
彼は何を呑みこむものか黙りこくる。
「アンタおれにどうしてほしいんだ。言っておくれよ。これじゃ何をどうしたらいいか…」
「…………居てくれ」
袖もとのそばからぐらついた声が聞こえた。
「……そこに居て…ひとりにしないでくれ……たすけて…」
彼のものとしては初めて聞く、神経のひどく切迫した張りつめた――――けれどもそれはひっそりと細い泣き声だった。
§◎§
いくらそこに居てやったところで、おれには布留の言う「たすけ」を理解することはできなかったし、布留も明確に何を言うわけでもないから、単にずっと、暗闇があるときに彼のところへ寄り添ってやるより、多くのことはできない。けれども布留はそれだけで良いと、あまり納得のできないおれへ言う。
布留の言うところでは――――おれの居る夜はどんな夏の日よりもずっと短く、平素に較べれば気がずいぶん楽になるのだという。それは裏を返せば、おれがいなければ彼の抱える夜は何よりも永く身を切るほどつらいものになるということなのだろうから、いくらか嬉しそうにおれにそんなことを言う布留を前にしても、おれはひとくちにそれを良いことだと言ってやることができない。
§◎§
布留がああした神経と恐怖を持つことを知ったら、おれは暫くのこと、おれがいなくてあの兄は大丈夫なんだろうかと、夜毎考えるようになった。それでやはり、できるだけ彼を訪ねようと思い、そうしたら布留はおれの姿を夜のうちに見つけるにつけ、幾分安心したように脱力し、消耗した神経をおれの存在にいくらか休め、時に起きつつ時に眠りとするようになった。彼の恐怖は安らげば落ち着き、そもそもは彼の恐怖に起因しているらしく見えるこの姿を消す力は、心の休まったら自然と収まるようで、おれのいる近くでひっそりと眠れるほどともなれば布留の姿はよみがえる。そうしておれに近いところで寝息を立てはじめるのを見ることもあるし、おれが先に寝てしまうこともあれば、気づいたときには、夜にさし入る月明りの代わりに、朝の薄ぼけたひかりが障子紙を越して、ぼうっと当たるときもある。
「誰かがいる夜や朝はいいね」
初めて知ったと布留が言うので、おれは今まで夜に誰も招いたことがないのかと訊いた。布留は「うん」と半ば寂しそうに答えた。
「誰かに、怖がりを打ち明けようと思ったこともなかったから」
「じゃあおれに初めて話したってこと」
「うん」
それにしたって、お前がたまたまここを訪ねなければ、話すこともなかっただろうと、そんなようなことを布留は言った。
「どうして誰にも言わないんだ」
「……恥ずかしいだろう。それに、こればかりは誰にわかってもらえるようなことでもないからね。現にお前も、あたしがどんなわけで、どうして怖がっていることはわかっても、この心もちばかりはわかるまい」
そうだろう、とばかりに布留はおれを見た。彼がはじめから理解を諦めていることはわかった。
後でこれも彼自身から聞いたことだが、布留はおれを拾い上げるまで、おれほど親密に誰かと接したことがないといった。おれもそうだから、やはり原典のつながり云々を置いてもおれと彼とは仲間(そうでなくともどこかしらの似た者同士)だと思った。
布留はおれの以前に夢見を拾い、少しの期間面倒を見たが、夢見の気性が布留のそれとはまるでそぐわなかったらしく、育てたもののそれだけになってしまったのが、当時の彼としては身勝手にも多少悲しかったという。だからおれが布留を、疑似的ではあれ兄として思うのを、「勝手だけれど」喜ばしく感じると、一度きり、彼は言った。
それは近しい詩から与えられる親近感にも似たものだというけれど、それだからおれたちは兄弟なのだとおれは思った。布留はおれが思うよりずっと、おれがいなくてはなにもかもがだめなのだという。
それは布留から聞いたことではないけれど、でもおれはぼんやりと納得していた。
それをおれはひとくちに、悲しいことだと言い切れない。
言い切れないことが悲しいようであり、そうでもないようにも思われる。
本当は、夜が明けなければいいと思ったことが一度ならず、きっとおれにはあるのだ。
ただ見ないようにしているだけなのだ。
§◎§
おれのいない夜を布留の中で特別なものにしてはいけないから、今はほんのたまに、おれまでも気分が落ち込みかかったときにだけ、とろとろと深く沈むようなあの、気の遠くなる夜長へ身を投じることに決めてある。布留がそうしたほうが良いと言ったからだ。
おれにはどうしても、何事をするにつけても疲れるときが、稀に、必ずやってくる。それはあれほどおれの求めてやまないしあわせなるものが、どうしてもおれの頭へまとわりついて、求めてやまないのに払いのけたいほどひどく鬱陶しく思われるような、まるで不可解な――けれどもあれは無理のたたる疲れとよく似ていて、だから難解な問題だと思って、もうあまり考えないようにしている。布留はそんなおれを察しているのだろう。「原典からちょっとくらい脱出できるときがあったっていいじゃないか」と、おれの理解の及ばないところで落ち着けた考えをもらしたとき、彼は強い諦めのもとにわずかに微笑んでいた。
布留はこれを「似た者同士の慰めあいのようだね」と言った。その後で「そこまで似てもいないか」と、自嘲するようでいた。
…「詩は神秘でも象徴でも何でも無い、詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである」との、あの父の言もあるから――――おれと布留とのふたりだけの、しずかなさみしい夜長のあの空間は、さながら慰めあいと形容しても、別段おかしくはないのだろうとどこかの片隅に思った。そうしたら、その慰めあいは、父の言うところの詩と同類のものにまで、変質なり、していくのだろうかとも思った。夜のうち、布留に何ともなく言うと、彼はうつらうつらとわずかに安らいでまどろむようにしながら、それでも思ったより確りとした声で、「父の求めたり表したりするものは、あたしたちのこういうのよりずっと美しくて、醜いものだよ」と見えないところから見えないなりに返した。
「…ああでも、そうでもない、違う。あたしたちはじゅうぶんにさみしいね…さみしくて、抱えるあこがれすらすっかり哀れだ」
「……寂しさか」
「さみしさだよ。…お前もあたしも、だからこんな不毛なことしてるんだろう」
「…それじゃあ、どうしようもないな。どうしようもないところに来ちまった」
「そうだね……」
その言葉やら、そのとき、そのときだけの心もちやら、そういうものはすべて、やはり夜の中にじんわりと、絵の具じみてぼやけるようにして喪われていくのだろう。…そうしたことを思いながら、重い瞼とは裏腹に、ぼうっと熱くも、いやに冷め切った頭のうちに、いつしかおれへもたれかかるようになっているひとり分の重さとおれより幾分ぬるいわずかな体温を、覚束ないままに辿るようにした。無音の夜はそのとき冬の奥へと潜り込もうとしていて、だからしんとした寒さがいちいち体を刺すようになるが、布留は毛布の一枚をおれの身に気付いたら寄越していて、彼はそのおれにまとわりつくのかつかないのか、それくらいのところから、きっと凍てきった手足の指を、己の見えない身ごろに預けて、それで死ねばいいと言わんばかりにこごえようとしていた、ように見えたので、眠気のそのものであってもひとりだけ暖をとったままのおれのほうへ寄り付いたのは、きっと良いことだと思った。薄く寝息さえ聞こえてきたので、ようやっとかと、半ばほどか睡魔に落ちかける意識の裏で、目をこすりながらこの兄を見やる。
……薄く輪郭のあらわれはじめていた彼の目元に、払い去りがたい涙の跡があるのを見ると、またか、と思い、思いながら哀れむような気持ちにもなり、この哀れな男が心底から安らいだ顔をできるのは本当におれの傍らでだけなのだと思う。幼いおれが布留に対して思っていたようなことが、ここで真逆の構図になって戻ってきているのだ。おれは、あのときの彼がおれにそうできたように、彼の大きな不安を、取り除くことはできないまでも、いっとき覆い隠してやることだけはできるのだと、そう思えばおれはひどく、安堵ができる、けれどもそうした己を覚えたとき……今しがた、とてもいやになったところで、おれの頬のあたりへ、あの安心や休息とは真反対のところにいる陽光が、月を押し退け、得体の知れぬ靄のようにさし入るから――――
内部への月影