あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(3)

あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(3)

三 診察室にて

「声が出ないんですか?」
 さっきまで電子カルテばかり見ていた医師が丸椅子を回転させて、こちらに向いた。
「いいえ。普段の会話は大丈夫なんですけど、舞台に上がると声が出ないんです」
あたしの代わりにマネージャーの伊藤さんが答えてくれた。
「舞台?相撲ですか?」
 医者は何のためらいもなく言い切った。
 何で、相撲やねん。土俵やないで。舞台と言うてるやろ。あたしの体から判断するな。心の中では突っ込んでいるけれど、面白いことを言おうとすると言葉が出てこない。
「いいえ。相撲じゃありません。確かに見た目は相撲取りですが、実は、お笑いです」
 おいおい、こらこら。身うちが肯定してどうすんのや。あたしは伊藤さんの顔をきつく睨んだ。だが、伊藤さんはあたしの視線に気がつかない。
「この方は、お笑い大賞を取ったこともある実力も人気もある人なんです。コンビ名は「昔いたよ、今いないよ」で、お相撲さんの方が「いないよ」ちゃんです。先生、ご存じないですか?」
 だからお相撲さんじゃないって言ってるじゃないの。あたしはもう一度、伊藤さんの顔をきつく睨む。だが、伊藤さんは医師の顔ばかり見て、あたしには気がつかない。
「私は、あまり、テレビは見ないもので。でも、目の前にいるじゃないですか」
 医師は初めて見る生き物のようにあたしの顔を不思議そうに眺める。
「いえ。「いたよ、いないよ」は、芸名なんです。この人は本当にいます。ほら、ちゃんとお相撲さんのようなふっとい腕と胸と腹と足があるでしょう。どこからが腕や胸や腹や足かはわかりませんが」
「なるほど」医師が大きく頷いた。
 何を納得しているんだ。横で聞いていると、医師と伊藤さんの二人がお笑いをしているように聞こえる。
 伊藤さんがあたしの右足を急に持ち上げた。
「おっとっとっと」足が上がったものだから、あたしの頭はバランスを崩して後ろに倒れる。それにつられて、あたしのふっとい腕も、ふっとい乳も、ふっといお腹も、後ろに移動する。ゲルマン民族の大移動じゃない。あたしの肉の大移動だ。この慣性の法則を誰が止められるのか。幸い、椅子には背もたれがあり、あたしの体は背もたれに支えられると同時に、今度は跳ね返り、前のめりとなる。あたしの体はシーソーのように後ろに行ったり、前に行ったり。一体ここはどこだ。あたしはどこへ行くんだ。どこへ行こうとしているんだ。それよりも、伊藤さんだ。こんなことをして許せん。
「急に何すんねん。危ないじゃないの」あたしは伊藤さんに怒鳴る。
「ごめんね。いないよちゃん。先生に「いないよちゃん」のことをわかってもらいたかったの」
 平身低頭の伊藤さん。その口から舌先が垣間見えた。あっかんべえだ。本当に、どいつもこいつも油断がならない。素人のくせに、すぐに笑いを取ろうとする。あたしは憤慨する。
「いるじゃないですか」あたしたちのやりとりを見ながら、医師が唐突に返事をする。
 当たり前じゃ。さっきから言っているように、「いないよ」は芸名だ。あたしはここにいる。だが、よく考えると、「いたよ」はこの世からいなくなり、「いないよ」がまだこの世にしがみついている。何だか変だ。本当は、いたよが生き残り、いないよのあたしがこの世から消え去ればよかったんだ。そうすれば、あたしはこんな目に会わなくてもすんだのだ。
「いたよ」なら、あたしのように病気にならずに、この危機を乗り越えただろう。乗り越えたはずだ。いや、きっと乗り越えている。あたしは、再び、顔を俯け、沈黙となる。
「こんな調子なんです」
 伊藤さんが、あたしのことをわかっているのか、わかっていないのか、あたしの肩に手を置く。
「かなり重症ですね」医師はあたしの顔を見ずに、再び、電子カルテに何かを打ち込んでいる。
「治療には、少し時間がかかりそうですね。まあ、気長にいきませんか」医者が看護師に次の患者を呼ぶように指示した。
「でも、いないよちゃんには仕事があるんです。舞台に立って、人を笑わすのが彼女の仕事なんです。このままでは、仕事になりません。先生。何とかしてください。 あなた医者でしょう。病気を治すのが医者の仕事じゃないんですか?」マネージャーが必至の形相で医師に噛みつく。
「病気は本人が治すものです。医者はそのお手伝いをするだけです。お笑いもお客さんが笑うんです。そのお手伝いをする、ちょっとしたきっかけを与えるのがお笑いの仕事じゃないですか?自分が思う通りに人に何かをさせるなんて、そんなおこがましいことは私にはできません」
 今まで、ピントはずれの会話をしてきたのに、その時だけ、医師は的を得た発言をした。
「わかりました」あたしは大きく頷いた。その横で、伊藤さんは診察室の天井を茫然と見つめていた。

「あんな藪医者の言うことなんて信用せずに、他の医者に診てもらいましょう。あたしがいい医者を見つけますから」伊藤さんは車を運転しながら、バックミラー越しにあたしの顔を見つめる。
「ありがとう。でも、お医者さんの言うことはもっともだから、少し休ませてよ」
 あたしはバックミラーに映るマネージャーの視線をはずして窓の外を見た。いつもの演芸場から家へ向かう帰り道だ。誰もあたしのことに気がつかない。
「そう。いないよちゃんがそこまで言うのなら。事務所の社長にはあたしから言っておくわ」車はあたしの住むマンションの前に止まった。
「ありがとう。ファンには気付かれないようにするから」
 あたしは赤い帽子を被り、黒いサングラスをかけ、白いマスクをする。首には虹色のマフラー。服装は縦じまのジャージだ。
「いないよちゃん。元気を出して。いえ、そのままで」慌てて、伊藤さんが訂正する。医者から、がんばれとか、元気を出せとか、励ましの言葉がかえってプレッシャーになるから控えるようにさっき言われたばかりだ。
「でも。その姿、どう見ても十分目立ってるけど。ぷっ」伊藤さんが右手で口を押さえた。やはり、あたしはお笑いの根性を捨て切れない。相方がいなくなって、面白いことがしゃべられない病気になっても、体だけでも、お笑いをしようとするのだ。あたしはできるだけ目立たないように、大きな体を小さく丸めた。だんご虫作戦だ。その時。ビリ。ビリリリリ。縦じまの服が横に引き裂かれた。見知らぬ通行人が口を押さえて笑っている。やはり、あたしはどこまで行っても、お笑いだ。自分を犠牲にしてまで、人に笑ってもらおうとする。
「いたよちゃん」あたしは天国にいる、いるはずのいたよに声を掛けた。あたし、このままでいいんだよね。いいはずよね。何か、言ってよ。いたよ。でも、天国からは何の返事もなかった。

「いないよちゃん。この前、雨が降ったでしょう」
「へえ。雨が降りましたのー。いたよちゃん」
「ちょっとやめてよ。いないよちゃん」
「へえ。何をやめるんでごわすか。いたよちゃん」
「その、へえ、とか、のー、とか、ごわす、とか、一体、どこの生まれ?乙女がそんなこと言うか?」
「へえ、そない言うちょったがな」
「よけいにおかしくなっとるで。どないしたん?」
「それぞれの地域で方言がありまんねん。ほやから、あたしも見習って、わし、自分方言を使おうと思ったんじゃが」
「自分方言はええけど、相手に伝わらんかったら、意味ないで」
「ほなけん、うどん県に、野球拳、会話の一部だけ方言を使ってまんがな」
「やりにくいつか」
「わしだけでなく、あんたも使ってまっせ」
「やっちゃれ、やっちゃれ」
「よさこい方言かいな。いたよちゃんの方が乗っとりますなあ」
「しゃべる阿呆に、聞く阿呆や」
「どうせしゃべるなら、使わなそんそん」
 二人は阿波踊りを踊りながら舞台からはけた。

 あたしは今日も自分のベッドの中にいる。いたよちゃんが亡くなってから、何カ月がたつのだろう。相変わらず、頭の中ではいろいろと、お笑いのネタを考えているものの、いざ、口に出そうとすると出てこない。マネージャーは気を使って、舞台じゃなく、ラジオ番組の仕事をとってきてくれたけど、いざ、マイクの前に立つと言葉が出てこない。頭の中は白い氷原だ。言葉は見つかるものの、氷に閉ざされて、出てこない。突き破れない。あたしはその言葉を抱く。体温で溶かそうとする。それでも溶けない。反対に、あたしの方が凍りつきそうだ。仕方がないので、紙に言葉を書き、番組の司会者に渡す。司会者があたしの言葉を読んでくれて、何とか番組は成立する。でも、お笑いのようなテンポはない。視聴者の期待に応えられない。マネージャーには悪いことをしたが、これがあたしができる精いっぱいのことだった。
 それ以来、ラジオ番組からも呼ばれることはなかった。日がな一日、自分のマンションで、しかも自分のベッドで過ごし、家の外には出なくなった。週に一回、あの、世間知らずの、話の噛み合わない、クリニックに通う以外は。マネージャーは、あたしの担当を離れ、別のお笑いコンビのマネージャーとなった。それでも、あたしのことを気にかけてか、月に一回くらいは、あたしのマンションを訪れてくれた。
「どう、元気?いや、変わりない」無理に元気づけようとしないマネージャー。彼女のためにも何とかして、お笑いの世界に戻ろうとするものの、ギャグを言おうとすると、うぇっとえずく。すぐさま、濡れたティッシュで口を拭う。ウェットティッシュだ。こうした状況でもお笑いは忘れない。うぇっと症候群。クリニックの医師が診断した病名だ。何でも、病名をつければいいわけではない。それに、病名がわかったところで、あたしのうぇっとが治るわけでもない。病名をつけること、病名をみつけることが医者の仕事だと思っている。だが、そんな医者でも、あたしは治療のために通った。他に頼るすべがなかったからだ。マネージャーを除けば、世間と唯一のつながりであった。

あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(3)

あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(3)

三 診察室にて

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-22

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