秘密基地

 煙草が嫌いだと思っていたけれど、決してそれ単体を厭わしく思っているわけではないらしい。
 それに気づくことができたのは、実家に帰ってきてからだった。
「お父さんは? もうハウスに行っちゃたの?」
 台所に向かって声を張り上げると、お母さんが白地のタオルで手を拭きながら、居間の方へ出てきた。
「なにか言った?」
 聞こえていなかったようだ。わたしは面倒くさくなって、なんでもない、と呟いて立ち上がった。顔に当たっていた扇風機の風が、代わって足をさらうように吹く。外からは蝉の大合唱が聞こえてくる。夏だ、と思う。底抜けに夏だ。
 タンクトップにジーンズという、大学には絶対に着ていかないだろう格好で外に出る。灼けるような日差し、足元に広がる緑の絨毯が跳ね返して、わたしの瞳に飛び込んでくる。暑いなあ、と声に出してみたところで、解消されることはない。
 田舎だけあって、土地ばかりは広い。向こうに見える田んぼも畑も、家の裏手にある木々が鬱蒼とした山も、見渡すかぎり我が家のものだ。ときどき、その広さにうろたえてしまう。お父さんとお母さんは、全貌を把握し切れているのだろうか。
 家の裏手に回って、なだらかな傾斜になっている山道を登っていく。歩いているだけで汗が噴き出して、背中にぴったりと張り付く。気持ち悪い。そう思ったところで、拭うものを持ち合わせていない。仕方なく、流れるにまかせる。
 少し上がったところに、「ハウス」と呼ばれる建物に着く。半透明のビニールで造られたその建物は、夏の時期、黒い布で覆われる。その布を手で左右に開くと、入口が現れる。頭をかがめてくぐり抜ける。
 中に入ると、もわっとした熱気が全身を襲ってくる。信じられないくらいの不快感を胸の内に抱える。臭いも――いや、臭くはない。
 天井からはうっすらと緑色がかった黄色い葉っぱが垂れ下がっている。私の腕の長さほどはある。それが、ハウス内をびっしりと埋め尽くしている。
「桜子、なにしてるんだ?」
 奥からお父さんが姿を見せる。上下ともつなぎを着ていて、頭には色褪せた帽子をかぶっている。涼しい顔をしているから、おそらく暑くないのだろうが、見ているこっちは閉口する。
「わたし、嫌いなんだ」
「なにがだ?」
 煙草、とお父さんの顔を見ないようにして答える。どんな表情をしているのか見たくなかった。きっと、寂しそうな影が過ぎるから。
「煙草の葉、臭くないんだね」
 ハウスいっぱいにぶら下がっているのは、煙草の葉だ。
「臭いが嫌なのか?」
「いや、そういうわけでもない」
 熱気が耐えがたいものに感じられてきて、話もそこそこにハウスを出た。微風の吹く外の世界が、この上なく心地よいものに感じられる。
 また、山道を少し登った。鬱蒼とした木々の狭間に、トタン屋根の切れ端が放置されている。変わらないんだなあ、しみじみと感傷に耽ってしまう。
 ――大人たちには内緒だぞ。ここは、おれたちの秘密基地だからな。
 名前も顔も忘れてしまったガキ大将の声が甦る。陽炎が幻影を浮かび上がらせてくれそうな気がするけれど、それはあくまでも潜在的な願望。トタン屋根は変わらなくても、時間の経過は確かに存在する事実。
 そうっと、屋根を取り払う。人が二人くらいしか入れない横穴が現れる。中にはなにも入っていなかった。プラスチックのバットも、角のない小石たちも、ガキ大将が持ち歩いていた笹の葉も。
 しゃがみ込みながら、何年か振りに秘密基地へと体を滑り込ませる。日差しが避けられて、少し安らぐ。ここで、いろんな話をした。井の中の蛙だったくせに、大海を飲み干せるつもりでいた。この歳になって考える。世界はそんなに思いやりや優しさに満ち溢れていない。
 それでも、わたしは彼氏に振られたくらいで思い詰めることはなかった。自分の世界のほとんどを占めていた存在だったとしても、井の中の蛙はひたむきに生きるべきだ。
 彼氏はわたしの家に来ると、いつも煙草を吸っていた。好きだった頃はそれが格好よかった。ベランダで吸わせたりしなかった。
 いつの間にか、彼の大好きな煙草がなによりも忌まわしいものになっていた。部屋に染み付いてしまったヤニの臭いが耐えがたくて、二度と帰らないだろうと思っていた実家に、ずこずこと戻ってきた。
 逃げてきた。
 秘密基地を出た。一つ、伸びをする。薄目に映る空は、ベルベットのカーテン。
「なにかいいこと――」
 ありますように。

秘密基地

秘密基地

大人たちには内緒だぞ。ここは、おれたちの秘密基地だからな。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-21

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