花たちが咲うとき 四
花たちが咲(わら)うとき
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第四話 ~まどろみ~
「香っ!? おいっ!」
「揺らすな!」
艸の怒号に葵が身を固めた
葵に抱えられた香の顔色はそこまで悪くないように見える
しかし艸が軽く頬を叩いても、その目が開けられることはない
「ね、寝ちまってるとか、そんなん……。だよな?」
葵の言葉はあながち短絡的な意見ではなかった
うっかり同意しそうになるほど、香の顔は眠っているように穏やかなものだ
しかし……
「……保健室に運ぶぞ」
「お、おう」
葵が香の懐に入るように体を回して担ぎ上げる
「ほ、保健室ってどこだっけ?」
「どの建物にも一つはある。とりあえず文録館でいいだろ」
「そ、そだな」
文録館は香や葵の所属学部である人文学部専攻の授業が主に行われる場所だ
本来なら葵のほうが詳しいはずなのだが、保健室などまだ利用したことがないのだろう
艸もこの建物に入るのは初めてなので詳しくわからない
葵と館内地図を探すところからだった
艸は小さく舌打ちをして文録館の扉を開けた
「え、な、何……これ」
声を上げたのは葵だった
入口すぐの休憩スペースには机に突っ伏したようにした生徒たち
普段なら微笑ましい状況も、今は地獄絵図だった
よくよく見れば、突っ伏した時に倒したのか机の上の紙コップが倒れ液体がこぼれている
床に倒れている生徒もいた
葵は真っ青な顔をして、片手で口元を覆った。今にも吐きそうなほど顔色が悪い
担がれている香の体が少し傾く
「おい、保健室は渡り廊下の先だ」
「え、あ……」
いち早く館内地図を確認した艸は、すでに廊下を進んでいた
葵も慌てて駆け寄るが、同年代の男一人抱えた体は重い
しかし足取りがおぼつかないのはそれだけが理由ではないだろう
「な、なあ。こいつらも……」
「……」
葵は助けを求めるように艸に声をかける
それが普段の不和など意に介さないほど、今の状況が切羽詰ったものだったことを物語っていた
保健室について目にした状況はやっぱりというべきか、想像通りで絶望的だった
少し違ったのは、女生徒が立っていたことだ
きちっとした身なりに長い黒髪が背中を流れている
艸たちに気が付くと、心底驚いたように目を見開いた
「月下 香……」
その女生徒は香と知り合いのようだった
しかし、すぐに表情を戻すと奥のベッドを指した
葵の体力はそろそろ限界だったようで、よたよたと香をベッドへ運ぶ
必然、艸と女生徒が残った
「私は利根 薊。大学向上委員会の委員長を務めているわ。とりあえず無事な人がいて何よりだけど、貴方は?」
「……君影、艸」
「君影……」
薊の視線が急に探るようなものに変わったことに、艸は眉間にしわを寄せて目だけ逃れる
薊は香と艸を一瞥してから腕を組んだ
「救急車は呼んだけれど、この集団昏睡が自然的なものだったらこの地域一帯はアウトね」
「……人為的とも思えねぇが」
艸のつぶやきは薊も思っていたことのようで、少し言葉を詰まらせる
「『ナルコレプシー』ならこれだけの大人数が同時期に一斉に起こるとは思えない。『睡眠病』はアフリカで見られるものだから違うと思うし、違わなかったら最悪よ」
見渡せば保健室のベッドには既に数人が寝かされていた
いや、寝かされているだけまだよかっただろう、外に倒れたままになっている人もいる筈だ
「私は友人と野外で倒れていた人を運んでいたんだけど……」
薊の視線が横へ流れ、ベッドで横たわる女生徒に向けられる
「私だけでは難しいと思っていたところなの。手を貸してくれないかしら」
「……」
艸は一度、香の横たわるベッドに付き添うようにしゃがみこんでいる葵を一瞥してから、薊を見据える様に視線を合わせた
「悪いが、それはあいつに頼んでくれ」
「……え、オレ?」
葵は二人の視線が自分を指していることに気付くと、周囲を見渡すように視線を泳がせてから自分を指差した
「……貴方は?」
「……少し、用がある」
「ご立派なお父様にでも助けを求めに行くのかしら?」
薊の皮肉は艸本人よりも葵に緊張を走らせた
一触即発の空気を敏感に感じ取ったらしい
艸は依然と薊を見下ろしながら、短く息を吐いた
そして保健室に背を向ける
「そんなもんだ」
※※※
艸は文録館を飛び出すと、学内の公衆電話に向かって駆けた
倒れた生徒数人を横目に通路脇のガラス戸を開けて、財布から十円を取り出すのだが小銭が数枚零れ落ち、足元で鈴の音に近い俗欲的な音が響く
挙句番号を押し間違えるものだから、艸は受話器をハンガーアームに叩きつける
ようやく繋がっても呼び出し音が断続的に聞こえてくるのみだ
「くそっ!」
こんな時に限って茨(うばら)が出ない
いや、むしろここ最近が異常だったのだ
今までの経験上、あの根無し草にスムーズに連絡が取れるほうが珍しい
しかし、今。このタイミングで来て欲しくない通常だった
受話器を片手にガラス越しの学内を見渡す
学内中の桜の木もすっかり花が散り、色気の無い骨組みが並んでいる
鮮やかすぎる青空が、逆に学内の閑散さを照らしだしている気がして不気味に映る
そして、艸の視線は一点で止まった
「そうだ……」
電話を切ると、今度はそこに向かって駆け出した
学生証を出すのも面倒でゲートを飛び越える
カウンターにいる司書たちも、艸を咎めることはしない
白い扉は思っていた通り重く、体重をかけてものろのろとしか開いてくれない
早く階段を駆け上がっていきたい気持ちで開いた扉の隙間から覗き込んだ書庫には、本棚よりも先に目に付くものがあった
「お前……」
開いた扉の前に彼女が立っていた
別に彼女が起きていたことに驚いたわけでもないし、扉の前にいたって何もおかしいことはない
しかし、艸にとって彼女は三階に居座る女、という認識が強かったせいか思わず驚きの声をあげてしまった
彼女はそんな艸の様子に気づいているのかいないのか、神妙な顔つきで艸を見返した
「君か、……何かあったの?」
「……」
艸は視線でカウンターのほうを見た
彼女はそれに何か意図を感じたように、扉から身を乗り出して図書館内の様子を見渡す
「学内のほとんどが昏睡状態だ」
艸の言葉に彼女はすっと身を引いて顎に手をやった
「とにかく、入って」
彼女は艸を書庫に招き入れ、二人で階段を上がっていった
※※※
葵はしきりに学内を見渡すように視線を動かし続けていた
外で倒れている生徒がいないか探している現状でそれはおかしな行動ではないが、その目の動きはあまりにもせわしなく、気がそぞろに見える
「貴方」
「は、はい!」
隣を歩く薊の声に葵は跳ね上がる勢いで返事をする
「……何をびくびくしているの? 怖いの?」
「え、いや、そんな事ない、デス」
「……敬語も必要ないわ。貴方とは同回生よ」
「え? 委員長さんなのに……?」
「一回生が委員長をしてはいけないとは決まっていないわ」
薊の言葉に葵は心底気まずそうに再び視線を泳がせる
そんな葵を横目に、薊は辺りを見渡して静かな学内に小さく息を吐いた
「貴方、月下香とは仲が良いわよね?」
「え? あ、まあ。大学入る前から|友達(ダチ)だし……」
葵はなぜ薊がそんな事を聞くのか不思議に思いながらも、このまま沈黙が続くよりはいいと思い、正直に返した
薊はため息をつくように「そう」と一言返して、一拍おいた後に口を開いた
「月下香のこと、知っている範囲でいいから教えてくれないかしら?」
「……え、それって――」
「変な勘違いはしないで。学生代表者の一員として情報が欲しいだけよ」
「は、はい。スイマセン」
薊の否定の言葉は丁寧なものだったが、その表情に色眼鏡に対する憎悪のような殺気が宿っているのを見てしまった葵は、思わず謝ってしまった
―― 何もこんな時に聞かなくたって
そう思いながらも葵は香のことを思い浮かべた
知っていることといわれても、何からしゃべればよいものかと首をひねる
「えっと、白くて……」
「見れば分かるわ」
「えー、と。徒歩通学で……」
「……まじめに答える気、あるの?」
薊の声が冷たく突き刺さる
さっきまでとは違う命の危機を感じて、葵は慌てて香を思い返す
業を煮やしたのか、薊が助け舟を出した
「家族構成とか、高校の時の事とか」
「あー、家族ね。家族……」
そう言ったきり黙りこくった葵に、薊は不審そうにねめつけた
「……どうしたの?」
「あ、いや、その……」
「知らないの?」
「……」
黙して肯定を告げていた
薊は呆れたと言いたげに肩を上下させる
「それでよく友人を名乗れるわね」
「な、なんでも知ってれば友達ってわけじゃないだろ!」
思わずそう言い返した葵であったが、その表情は図星をくらって冷や汗を流している
決定的な墓穴を掘りながら弁解する哀れな罪人のように言葉を吐き出す
「つうか、あいつ自身のことって全然聞いたことないんだよ! 香って聞き上手でさ! 気づいたらこっちばっかりがペラペラ喋っちまってて。……誕生日だって知らねぇし、今更聞くのも気まずいって言うか……、なんというか……」
とうとう薊は諦めたようにため息をついた
葵もすっかり意気消沈してしまい、薊とは違う類のため息を零していた
しかし、葵はふと顔を上げる
「あ、でも、君影なら知ってんじゃね? あいつら中学の時知り合ってたらしいし」
「え?」
薊の脳裏に、理事長である父の言葉がよみがえる
―― 「何故か、彼は『君影財閥』と関わりがある」――
そのつながりが、君影艸と月下香の二人によって繋がれたものだとしたら……
「でもさぁ、香は友人だって言ってたけど、イマイチそれだけじゃ無いっていうか……。一方的に香が友好的で、君影は距離をとりたがっているように見えるって言うか……
香は誰に対しても友好的なんだけどさ……。うまく言えないけど、あの二人が揃うと、すごく。気分が悪い……」
急に不治の病に侵されたかのような葵の表情に、薊はひっそりとつばを飲んだ
背筋に走った悪寒を振り払うように薊は吐き捨てる
「月下香が聞き上手というより、貴方がおしゃべりなだけなんじゃない?」
「あ」
急に声のトーンが変わった葵に、薊は何事かと目を見張る
葵の視線の先を追えば、学校の敷地内にあるコンビニに動く人影がある
二人はお互いに駆け足になった
コンビニに駆け込むと、その人はレジに並んでいた
並んでいたといっても、レジには店員も他のお客もいない
「貴方! 何をしているの?」
薊が駆け寄り声をかけると、その学生は眠そうな目で薊を見下ろした
ベリーショートの白に近い金髪に、瞼で半分覆われた青い目
すらっと縦に長い体は葵より少し高いくらいで、外人独特の顔立ちは整っている
「貴方、留学生かしら? 日本語は大丈夫?」
「大丈夫、です。あと、日本人。ハーフだけど……」
「な、なんだ。日本人かよ。びびらすな……」
薊の後ろから恐る恐るという風に声をかけた葵はあからさまほっとしたようだ
そんな葵に薊は横目で冷たい視線を送るが、目の前の学生に向き直ると少し眉間にしわを寄せて心配そうに尋ねた
「それより貴方、眠そうだけど、大丈夫?」
「別に、眠くは無いんだけど……、よく言われる」
「え? それが普通? マジで?」
葵の失礼な物言いに、薊の肘鉄が容赦なく葵の腹にはいる
呻く葵をよそに話は進んだ
「いくら待ってもレジの店員は来ないと思うわよ。今、この学校で集団昏睡が起きているの」
「え……」
「気づかなかったのか?」
「……うん」
眠そうに降りている瞼がさらに落ちて、肩を落とす
今の今まで何の疑問も抱かずレジに並んでいたのかもしれないと思うと、なんとも向ける言葉が思い浮かばなくて薊と葵は顔を見合わせる
そして、さっきから二人が気になりながらも後回しにしていたことを、ついに薊が切り出した
「ところで貴方。……それ、全部買うつもりだったの?」
「え? うん」
目の前の学生は、さも当然と言いたげに頷いた
両手いっぱいに同じ種類の菓子箱を抱えて
壇堂 リオンと名乗ったこの学生は葵たちと同じく一回生らしい
母親がフランス人でその血が濃く出ているらしい
本人はパスポートすら持ったことが無いとのことだ
薊は呼んだはずの救急車が来ないのに痺れを切らし、もう一度電話をかけてくると一旦別れた
葵とリオンは倒れている生徒を一人、近くの食堂に運び込んでそのまま休憩を取っている
「意識の無い人間ってこんなに重いんだ……」
リオンはやっと現状を把握したようで、少し気が沈んでいるように見えた
当然だ。いつ自分も皆の仲間入りをしてしまうか分からないのだ
いっそその時が来るまで知らないほうが幸せだったのかもしれない
葵は少しの罪悪感を胸にリオンを窺うと、リオンはキョロキョロと周囲を見回していた
「最近、授業中とか、寝てる人多いとは思ったけど……」
「あ、あぁ……。関係、あんのかな……?」
「……多分」
深刻気に頷いて黙ってしまったリオンを見て、葵は不安を掃うよう明るく言葉をかけた
「ところでさ、あの菓子って「ガオリャー」のおまけ付きの奴だろ?」
「! 知ってるの?」
さっきよりも少し青い瞳が露になって、肩に力が入ったのが分かる
さっきの落ち込みようが嘘のように声が明るくなった
「お、おぅ。香が持っててさ。弟がハマってるらしくて、かぶったやつを貰ったって言ってた」
「きょう?」
「あ、……と、友達」
葵の表情が曇ったのを感じ取ったのか、リオンもそれ以上追及するのをやめて「ガオリャー」の話を持ってきた
「幼児向けアニメだけどさ、結構奥が深いんだよね」
「あー、わかる」
「ガオリャー好きで、集めてるんだ」
そう言うとリオンは先程買えなかった玩具入り菓子箱を思い出したのか、少し俯いた
「後はガオリャーお花バージョンだけなんだけど……」
「花?」
葵は依然見た香の筆箱につけていたガオリャーを思い出そうと、こめかみを押さえた
香が自分には少し可愛らしすぎる、と笑っていたのを思い出す
葵は特に何とも思わなかったが、そのガオリャーは普通のものよりピンク色が多く感じた
確かあれは頭に花がついていたような……
「おい、リオン。もしかしたら……」
そう言いかけて、葵は言葉を止めた
息も止まった
リオンは椅子の背もたれにもたれるように目を閉じていた
頭が肩に乗るように傾いている
「り、リオン?」
軽く肩を揺する
眠たげにしていたとはいえ、先程まで確かに開いていた瞼が、閉じきってしまっている
急に静けさが全身の肌を刺した
「と、利根さん!」
葵は慌てて薊を探しに走る
電話のついでに保健室の様子も見てくるといっていたから、恐らく隣の文録館の建物だろうと食堂を出る
葵はもう泣き出してしまいそうだった
文録館に駆け込み、依然と机に突っ伏している生徒達を通り過ぎる
渡り廊下の先、目的地へ続く廊下を走っていた足は徐々にスピードを落とし
ついには止まってしまった
足元に居たからだ
「と、利根、さん」
渡り廊下の途中で薊が倒れていた
葵の嗚咽のような呼吸が廊下に響く
足場が覚束ない
どこに行けばいいのか
どうしたらいいのか
戻ったところでリオンは寝てしまっている
薊も、もしかしたら自分以外の全員が――
だとしたら、もう葵には進む道しかなかった
保健室に駆け込む
「香っ!!」
駆け込んで
呆然とした
「……ぇ、……」
※※※
「君は、どう思っているの?」
彼女はいつもどおり三階まで上がると、艸に向き直った
どうと言われても艸に先程説明したこと以上に返せる言葉は無い
その沈黙をどう思ったのか、彼女は本棚にずらりと納まった本の背表紙を撫でながらボソボソと口元を動かした
「人為的でもない、自然的でもない、なら、何だと思う?」
「……」
「怪奇的、とか?」
言葉にするとなんてふわりとしたものだろうか、と艸は思った
彼女は机に広がったままの本に手をおいた
「『眠り病』の事例は少ない。解明されてないものもある。解明されているものでも治すのが難しいとされている。それは、睡眠と脳が深く繋がっているせい、人間は心臓よりも脳で生きているという考えもあるくらい……」
そいうと彼女はふぅと息を吐いた
「眠りによって起こる怪異や妖怪とかはいくつかあるけれど、直接眠気を起こすようなものは聞いたことがない。ごめん。役に立てそうにないよ」
そう言って、悲しそうに笑った
「……そうか」
艸にはそう返すしかなかった
もともと一般人に出来ることなんてたかが知れている
それは彼女にのみではなく艸にも当てはまるものだ
「獏とは関係ないのか?」
艸は『獏鬼』のことを思い出していた
ここ最近で関わった最も疑わしいもの
しかし、彼女はあっさり首を横に振った
「獏には契約が必要なんだよ」
「契約?」
「獏の名が出るまじないが、どれも獏に願うものだということには気づいた?」
そう言われてみれば、と艸は記憶をたどった
「獏は願われないと悪夢を喰わない。そこに悪夢があっても無断で喰うことは無い
だからこそ人は悪夢を恐れ、獏にすがる。獏が欲しいまま手当たり次第に悪夢を喰っていたら、そもそも人は悪夢を見ないでしょ?」
「……なるほどな」
うなずく艸を見た彼女は少し可笑しそうに力なく笑った
「だとすると、獏って神様に近いものだと思わない?」
「?」
「だって、悪夢を勝手に喰われたって困る人はいないでしょ? でもそれだと獏って存在は必要性ごと忘れられちゃう。神様が人の信仰がないと消えてしまうのと一緒で、獏も忘れられたくないから、そうやって困った人だけを助けているんじゃないかって」
こういうのをロマンチストというのだろうか、と艸はぼんやり思った
楽しそうだ
それが羨ましかった
「君は、獏は良い妖怪だと思う? いや、良い悪いなど簡単に決められるものではないけれど……」
艸にも彼女の言いたいことは分かった
そして、あの日の獏鬼の不満そうな嬉しそうな表情、といっても顔など見られなかったから空気というべきか、それを思い出す
両極端には割り切れない、それは人間でもそれ以外でもそうなのかもしれない
「君は、これからどうするの?」
答えない艸のそれが答えだったと思ったのだろう
彼女は椅子に腰掛け、ゆったりとした仕草で聞いてきた
ゆったり、というよりも……
「僕は……、探しに行く」
「……そう、頑張って……」
何を、とかは聞かれなかった。もしかしたら聞くだけの気力もなかったのかもしれない
そう言って彼女は机にのっそりと身を預けた
「寝顔、アレだから……、早く、行って……」
寝息のように力のない声が聞こえる
艸は彼女に言われるまでもなく階段を下りていく
タンタンと一定に響く足音が、何かのカウントダウンのように思えた
艸は一階まで着いたところで、一度階段を振り返り仰ぎ見る
何が見えるわけでもないのに、そうさせる何かがあった
改めて扉に向き直った艸は、もう振り返らなかった
彼女のもうピクリとも動かない背中に、扉が閉まる音が微かに届いた
※※※
「君影っ!」
図書館を出た艸は葵に呼び止められた
ついこの前にも似たような状況を見た
その時には香も居た
葵の顔は死んでいるんじゃないかというくらい青ざめ、半ベソをかいている
艸に追いついたかと思うと、その胸倉に掴みかかった
「お前どこ行ってたんだよ! と、利根さんも、ね、寝ちゃって、リオンも! もう皆寝ちまったんじゃないかって!」
「落ちつけ」
その言葉は逆効果に終わった
むしろ葵の声色は怒りか焦りか、さらにけたたましいものになる
「落ち着いていられるわけ無いだろっ! こんな状況で何をどう落ち着けって?! 知り合いも友達も死んだみたいに寝ちまって、香が――」
「落ち着けってんだろ!」
艸の剣幕に一瞬押された葵は、開きかけていた口をぐっと結んだ
眉間も鼻の頭も顎にもぐっとシワが寄って、いつものチャラチャラした男はすっかり鳴りを潜めていた
「わかんねぇ……」
噛み締められた歯の隙間から漏れてきた葵の声は、嗚咽混じりに枯れていた
ズッと一回鼻をすすって、しわくちゃの顔を上げると艸を睨みつける
「勝手にしろっ!」
そう叫ぶと艸に背を向けて走っていく
その後ろ姿が昔の艸と重なった
慌てて頭を振る
誰にも分かってもらえないと、泣いていたあの日の自分
「……、仕方ねぇだろ……」
葵の叫びも
艸の独り言も
同様に静寂に吸い込まれていった
※※※
葵に行くところなんてなかった
結局この場所に戻ってくる
艸の前では泣くものかと我慢していた涙がこぼれてくるから、奥のベッドに顔を押し付ける
「香……、どうしたらいいんだよ……」
返事は無い
静まり返った保健室で、自身の心臓の音と呼吸音以外が排除されてしまったようだ
葵はシワだけが残されたベッドに爪を立てる
「どこ行っちまったんだよっ……!」
そこには誰も横になっては居なかった
そこだけではない
保健室のすべてのベッドがもぬけの殻だった
「香っ……!」
葵の子供のようなしゃくりあげる声だけが、そこにあった
断続的なその音は誰の耳に届くことも無い
やがて、その声も聞こえなくなった
※※※
「しまったな……」
いつもの癖で駐輪場に来てしまったが、当然艸のバイクは無い
しかし、この緊急時に徒歩で茨を探し出すのは骨が折れる
もしかしたら鍵をかけてない自転車かバイクがあるのではないかと少し身をかがめた時
「にぃあ」
慌てて顔を上げると、少し向こう。一台のバイクの座席部分に影に紛れるような黒猫が座っていた
「お前は……」
艸には見覚えがあった
入学式の日、艸のバイクに居座っていたのと同じ黒猫
相変わらず優雅に尻尾を揺らしている
艸がそのバイクに近づくと、あの日と違って黒猫は艸に譲るように座席から飛び降りた
よく見るとそのバイクにはキーが刺さったままだ
「……」
「にぃ」
早く行けとでも言うように黒猫は金の瞳で艸を見上げて鳴く
その瞳が艸の探している男の目と重なった
「……こんな緊急時じゃなきゃ、ただの泥棒だな……」
キーを捻ると共にその思いは吹っ切った
爆音と共に猛スピードで景色が通り過ぎる
遥か後ろで黒猫の声が聞こえた気がした
※※※
木々たちは死んだようにそこにあるのみだ
世界が呼吸をやめてしまったかのように風ひとつ吹かない
森の中は無音世界のように静まりかえっていた
その奥、まるで隠れるように佇む平屋の建物は、寺の形を残してそこにあった
障子戸が開く擦った音がして、その人は戻ってきた
「説明を、願えますか?」
眩しいばかりの外の光から隔絶されたように室内は暗く影を落とし、ひんやりとした空気を留めている
その光と影のコントラストが、その人に後光が差しているように見せた
その人の言葉に、茨は少し面倒くさそうに視線を流す
開け放たれた障子戸の向こうは絵のように鮮やかな緑が広がっている
「茨」
「あー、はいはい。分かりましたよ。ボクだって全部知ってるわけじゃないですからね」
その人の急かすような、脅しをかけるような声色に茨は諦めたように両手を挙げた
その人はその返事を聞くと茨の隣に腰を下ろす
流れるような一連の動きは、その人の風貌と相まってとても美しい
「こっちの数えで約三年前です。『流星』に巻き込まれました」
「『流星』……、三年前……」
「で、ボクもたまたまそこに居て、まぁ、後は分かるでしょ?」
茨がクイッと顎を上げて確認を取る
「たまたま、ですか……」
しかしその人は何か言いたげに、伏せられた睫の奥から茨を見据えた
白雪に南天の実を二つ置いたような双眸は、霜が覆ったような長い睫に見え隠れした
茨はいつも以上に口の端を引き上げるが、その目は逃げるように彼方を見ている
そして少し可笑しそうに無精髭を撫でた
「あの日は……寒い日で、真夜中でしたねぇ……」
「……はっきりおっしゃってください」
茨は顎を撫でていた指先を口の端に持っていった
吊りあがった口元を確認するかのように指が動く
「いやぁ、どうして二人はこんなところに居たのかなぁって……」
確かに真夜中に当時学生だった彼らが、寒さをおしてまで何を目的に来たのか
その人はそこまで考えて、ふと茨の言葉に違和感を覚えた
「……こんなところ?」
「あれ? 知らずにここに住んでたんですか? てっきり知ってて来たのかと……」
茨は嫌味と驚きを半々に含んだ笑みで、その人を見返した
その瞳は黄金のようにギラギラと下品に、かつ、人を惹きつけるような美しさを持ってその人に向けられた
「この森なんですよ。三年前、『流星』が落ちた場所―― 」
※※※
走り出してから、失敗したなと艸は思った
どこの誰のとも知れぬバイクを借りて移動時間の短縮ができているのはいいのだが、流石に他人のヘルメットを借りる気にはなれない
この状況で咎められる心配も少ないだろうと、ノンヘルメットでバイクを走らせているのはいいが、風が目に痛い
中途半端に長い髪が頬を叩いてくる
流れる景色が霞むようだ
とりあえず依然に茨と会った公園を確認し、次に潰れた診療所に向かっている
もしそこにも居なければ完全に手当たりしだいで捜すことになる
そうなれば厄介極まりない
時折横断歩道や道の真ん中で倒れている人も居るものだから、あまりスピードも出せず町を走る
「ちっ……」
艸は思わず舌打ちをした
次も曲がり角にも人の足がはみ出て見える
うっかり轢いてしまわないようにスピードを緩め、大回りに角を曲がろうとした
―― 一瞬のはずだった
地面に気を取られていた艸の視界が暗む
不信感と行動はほぼ同時で、顔を上げた艸にはハンドルに顔を突っ伏した運転手のつむじまでもがはっきり見えた
「危ないっ!!」
悲鳴のような轟音が艸の耳をつんざく
思いっきり横にハンドルを切ったことで、平衡感覚が狂い、体が中に投げ出された
ギリギリ残っていた意識の反射で、艸はバイクの座席を蹴りつけた
その反動で進み続けるバイクとは違う方向に放り出され、バイクの下敷きになるという結果は免れた艸だったが、地面に叩きつけられた衝撃は受身をとっても防ぎきれなかった
瞼の外側で明暗が数回切り替わる
ギャリギャリとアスファルトの擦れる音
少し遠いところで衝突音がした
「……ぃってぇ」
―― 生きてる
とりあえず息を吐いたら、今になって心臓がバクバクと鳴り始めた
自然と呼吸も上がる
少し先の石塀の傍に借り物のバイクが横倒しになって止まっていた
艸は別の意味で眩暈を感じた
盗難、および器物損害……
艸は自分の家が裕福だったことに、とことん感謝した
事が終わったら何より先にバイクを取り寄せねば――
「そういや、車……」
辺りを見渡せばバイクとは反対方向に車が止まっている
電柱にぶつかったのか、煙が上がっていた
運転手の身を案じたのと、運転手側のドアが横に吹っ飛んだのはほぼ同時だった
唖然としている艸の眼前に人が飛び出してくる
ガタイの良い男は和装で、もう一人の男を肩に担いでいた
「! 大丈夫か!?」
和装の男は、依然地面にへたり込んでいる艸を視認すると駆け寄ってきた
そういえば、車と衝突しかけた瞬間に似たような声を聞いたことを思い出す
「あ、あぁ……」
艸は恐る恐る立ち上がった
地面に転がった時の衝撃による痛み以外に、特に異常は無いようで安心する
「お主に何かあっては悔やんでも悔やみきれん。息災で何より……」
和装の男は肩に担いだ運転手を道の端に下ろすと、両手で艸の肩をがっしり掴み、こらえる様に俯いてしまった
驚いたのは艸のほうだ
「お、おい……」
目の前で灰色の頭髪がバサバサと広がっている
わずかに震えているようで、両肩を掴む力も強くなってきていた
肩の骨を砕かれてしまうのではないかという程の痛みに、艸はついに声をあげた
「ぃ、いてぇんだよ! 馬鹿かっ!!」
「す、すまん!」
和装の男は慌てて手を離した
あわあわと自身の両手のやり場を探すようにせわしなく動く
その男の背中に一瞬見えたものに、艸は目を見開いた
「お前、その杖……」
たすきがけされた背中に通してあった木の杖に、艸は見覚えがあった
和装の男は艸の様子に気がついたのか「うむ」とひとつ頷くと、歯を見せて笑った
「昨日ぶりじゃの! 艸殿」
「お前、名前を思い出したのか?」
「思い出したが、『ネズ』という名は旦那から貰ったものじゃ。思い出したところで元々名無しだったのでな」
そう言ってネズは豪快に笑った
茨の居場所を知るネズに連れられ、二人は静かな住宅地を歩いていた
艸は未だにあの老人と今のネズの姿を重ねられないままでいる
「どうして急に若返ってんだ?」
「若返ってなどおらん。儂は元々この姿じゃ」
「じゃあ、なんで爺さんになってたんだ?」
「う、うむ。それについては旦那から説明されたのだが、いまいち、その。儂の理解が及ばんでな……」
ネズが旦那と呼ぶ人間によると、意識の問題らしい
ネズは自身の魂魄が吸われていく感覚を、体力を吸われていると感じていた
それが見た目の老化に繋がったらしい
「病は気から」というように、人間が自分の意識や思い込みで体調に変化をもたらすように、霊体はそれが顕著に出るとのことだ
「つまりあの時、「体力を吸われてる」じゃなくて「存在が無くなる」とか考えていたら、老化じゃなくて透過の可能性もあったのか……」
「うむ、おそらく」
「なら、その喋り方は何なんだ」
「捨て子の儂を拾って育ててくれたのが爺だったのでな。言葉がうつってしもうたんじゃ」
「天涯孤独」とは聞いていたが「捨て子」と聞くとまた違うものだ
艸は咄嗟に返す言葉が思いつかず「そうか」と返すのがやっとだった
「爺には「お前さん」としか呼ばれなんだし、儂が餓鬼の時に死んでしもうたから記憶もあいまいじゃしの。……あの時代ではよくある事じゃ。艸殿が気を使うことではないぞ」
「……別に、……」
「なら良いのじゃ」
少し気まずいような沈黙ができたが、気まずいと思ったのは艸だけだったのか、ネズの話は何事も無かったように続いた
「艸殿、あの時はすまなかった。お主を危険な目には合わせんと言っておきながら、怪我をさせてしもうた」
「いや、あれは……、気にするな」
「気にする!」
その声は鼓膜を裂かれるのではないかというくらいの大声だった
「過去はもうどうにもならんのも分かっておる。だから、あの約束をこれからの未来で果させてくれぬか! 頼む!」
そう言って頭を下げたネズに、艸は口を閉じることが出来ない
「あ、いや……。……あー、分かったよ。それで気が済むなら、それで良い」
「うむ! 約束じゃ!」
断ったところで問答が長引くだけだと判断した艸は、早々に頷いておくことにした
そんな艸の目の前に、小指だけを立てたネズの手が差し出される
「指きりじゃ!」
「……ガキか」
「誰が餓鬼じゃ!」
最後の最後まで指切りを拒まれたネズは少し不満そうにしながらも、森林公園に足を踏み入れた
「ここって……」
「そうじゃ。例の桜があったところじゃよ」
あの時は嵐で日も暮れていたせいか、艸にはまるで別世界に来たように感じられた
青葉が活き活きと生い茂っていて、芝もしっかり手入れされていて綺麗だ
遠くに木の色をした巨大な遊具の集まりが見える
山道の入り口から山に入った
「そういや、お前はここに何の用で来ていたんだ?」
「ん?」
「ここで死んでたんだから、何かしらあって来たんだろ?」
それを聞いたネズは急に黙ってしまい、少し下を向いた
「さ、桜を……」
そう微かに聞こえた声にネズのほうを見やれば、桜よりピンクに色づいた耳があった
「桜を、見に来ただけじゃ!」
「……なんで照れてんだよ」
「て、照れてなどおらんわ!」
そう怒鳴ると、ぐりんと首がねじ切れてしまうのではないのかというくらいそっぽを向いた
艸は面倒くさそうな空気を感じ取って、これ以上言及しないことにした
それに〝桜〟という言葉で、艸はひとつ思い出した
ウエストバックを漁りだす
やがて取り出てきたものにネズは息を呑んだ
「そ、それは……」
「良かったらやるよ」
親指と人差し指で挟めるほどの小さな小瓶、その中には真っ赤に色づいた桜の花びらが一枚入っていた
さっきの事故の衝撃のせいかうっすらとヒビが走っているが、それ以外は無事のようだ
「捨てるのも不気味でな」
艸はそういいながらネズの手のひらに小瓶を落とす
その手に、小瓶はやたらと小さく見えた
ネズはその小瓶に穴を開けてしまうのではないかというくらい見つめている
「百年越しに叶った。ありがとう、艸殿……」
「……おぅ」
ネズはそれを大事そうに袂に仕舞うと、何を思っているのかグッとこらえるように黙ってしまった
ただ気まずいのとは違う、なんとも落ち着かない沈黙に艸は話題を探した
「ところで、茨は何でこんなところに居るんだ?」
「う、うむ。儂の旦那はこの辺りの寺に住んでおられるのじゃが、旦那に用があったようじゃった。旦那と茨殿は知り合いらしい」
「茨に、知り合い?」
茨があの少女、茱萸以外の人間を連れているところなど見たことの無かった艸は、ついつい首をかしげてしまう
「茨殿は旦那のことを「先輩」と呼んでおった」
「先輩……」
普通に考えれば医者かそっち方面においての先達者、と考えるのが普通だろう
しかし、時々茨の言葉には艸たちが普段使っている言葉とは違う意味を持つものもあるため、その「先輩」という言葉もそのまま受け取っていいものかと悩む
例えば、茨は自分が「人ではない」と言うが、ならば何なのだと艸が聞いた時に茨は『みこ』と答えたのだ
艸はてっきり「巫女」だと思って、茨は男なのだからその呼び方は違うのでは? と問うた
それを聞いて茨は笑った
『みこ』というのは『御子』と書くらしい
「御子」といえば天皇の子を指す言葉だ。艸がさらに驚いてそのことを尋ねると、ついに茨は腹を抱えて転げだしてしまった
そしてこう言ったのだ
―― 「君たちが君たちのことを当然のように『人』と言うように、ボクたちは当然において『御子』なんだよ」――
……と
その真意は未だつかめない
「その「先輩」とやらはどういう奴なんだ?」
「うむ。旦那の名は『落霜 紅』殿という。あの後、途方に暮れておった儂を拾ってくださったのだ」
「……そいつ、人間か?」
言ってから、艸は変なことを問うたと思った
ネズは少し不思議そうな顔をしたが、顎を引いて何か考え込むように軽く頷いた
「うむ、儂が見えていた時点でただの御仁ではないのだろうが、なるほど。確かにあのお方は人とは思えぬほど清らかで美しく、神々しいものがある……」
「? そいつ、落霜は男なんだよな?」
ネズが〝旦那〟と呼んでいたので男だと思い込んでいた艸は、その言葉が筋違いに思えた
艸の問いに、ネズは少し慌てたように頬を赤らめながら両手を胸の前で振る
「も、もちろん男じゃ! しかし、な、なんというか。そういう言葉が似合うお方なのだ」
「はぁ……」
「肌も髪も雪のように白く、瞳だけが血の気を含んだように鮮やかで……」
白い髪、といわれて咄嗟に浮かんだ男の顔を艸は振り払う
「雰囲気が、あの方に、少し似ておる……」
消え入りそうに吐き出された最後の言葉は、寂しそうに聞こえた
思わずネズの方へ視線をやったが、その時には既に表情は切り替わって驚きのものになっていた
「艸殿! 茨殿が!」
ネズの声にハッと正面に向き直る
山頂に向かっている坂の向こうに、間違えようも無いあの男の背中が見える
ネズの声が届いたのか、茨も艸たちの方を振り返った
その顔は相変わらず人を皮肉ったような笑顔だった
「あれ? どうしたの? 艸ちゃん」
この男は現状を分かっていながら、そう問うのだ
いちいち艸の癇に障る
「分かってんだろうが……」
そう睨みを利かせて茨に言ってやれば、茨はなぜか嬉しそうに笑うのだ
本心から嬉しがっているかは分からないが、茨はそういう男だ
艸がどう返そうが不敵に笑う
「怒んないでよ、ジョーダン通じないねぇ。ネズミくんはさっさと仕事に戻る戻る」
「茨殿、儂は鼠ではなくネズじゃ」
「はいはい」
少し不満そうな顔をしたネズに艸は声をかける
「仕事ってなんだ?」
「うむ、町の住人を運んでおる。さっきも以前に迷惑をかけた男児を、罪滅ぼしのつもりで儂の思う一番安全なところに運んだのじゃ。その帰りじゃ、お主に会ったのは」
「どうして……」
「その続きはボクから話すよ」
茨は顎で艸にこちらに来るように促した
艸がグッと眉間にしわを寄せたのを見て、ネズは少し心配そうに艸を窺う
そんな二人の様子など気にするそぶりもなく、茨は両の手を叩いた
「ほらほら、早く来る。ネズミくんも仕事してくれないと困るよ。先輩に怒られてもいいの?」
茨の言葉にネズは肩をすぼませて少しばつの悪そうな表情になると、艸に軽く頭を下げて山道を駆け下りていった
森の中に居るとは思えないほどの沈黙が降ってくる
草木のざわめきも、動物達の声も全く聞こえない
茨はネズが去るのを見送ると、艸を見下ろし、もう一度口を開いた
「おいで、教えてあげるから。知ったところで君に何が出来るとは思わないけどね」
艸の睨みつける視線などどこ吹く風で、茨は嘲笑いながら山道を登り始めた
※※※
二人が土を踏む音以外聞こえない
艸は茨の数歩後ろを距離を保ちながら歩いていた
ふと、いつも茨の隣に陣取っているはずの少女の存在が無いことに気づく
「茱萸はどうした?」
「ん? ああ、あの子も住民運び」
「……なんで住人を運んでんだ?」
「二次被害を防ぐのもあるけど、メインは陣から出すことだよ」
「陣……」
艸は「魔方陣」や「練成陣」というものを思い浮かべていた
茨はそんな艸の心中を読み取るかのように口の端を吊り上げる
「艸ちゃん、陣の完成に必要なものって何か分かる?」
「必要なもの? ……チョーク、とか。材料、とかって意味か?」
陣といえばチョーク等の筆記具で必要な図を書いて、何かしらの材料や生贄等で対価を払う。といったイメージがあった
そのイメージのまま答えれば、茨は楽しそうに頷いた
「まぁ、間違いじゃないね。今回はそれが規格外だったってだけ」
「範囲がでかいってことか?」
「そう。材料はもちろん、君たち」
何が面白いのか茨は一段と楽しそうにコケた頬を上げ、艸を指差す
そして艸を指した指をゆっくりと上に持ち上げた
「では、問題。今回の陣をつくっているのはなんでしょーか?」
「……」
この森林公園に来るまでに町の状況は粗方理解できた
はじめは学校内のみでの現象かとも思っていたが、ここいったいの地域がほぼ全滅だったことから、それなりに大きな規模だ
それを可能とするもの
当然ながら通常の筆記具なんかでカバーできるものではない
そこまで考えて、ひとつ行動と噛み合わない点があることに気づいた
「お前、陣から住人を出すと言っていたが、陣がこの町全体を囲むものなら陣から出すとなると隣町かもっと遠くまで運ぶことになるはずだ。
ネズと茱萸以外にも手伝いが居ると考えても、あいつらは車じゃねぇんだ。時間と労力がかかりすぎる
そう考えると、陣そのものは町を覆うほどでかくは無い。この昏睡現象の範囲と陣の範囲は別物ってことじゃねぇのか?」
艸の言葉をすべて聴き終えた茨は、ぐっと眉を上げた
その表情は珍しく嘲笑以外の感情を垣間見せた
どうやら、あながち机上の空論でもないと確信した艸は詰めに入る
「つまり、この昏睡現象は陣による影響ではなく、あくまで過程……」
「……なるほど? それを踏まえて艸ちゃんの答えは?」
今求められているのは「陣をつくっているもの」に対する答え
艸は自分の顎鬚の感覚を確かめるように手をやった
町全体を陣に出来るほど広範囲には及ばず、かといってある程度の広さを可能にするもの
茨はすっかり考え込んだ艸の横目に笑みを浮かべている
「ねぇ、艸ちゃん。どうしてネズミくんが今になって老化現象を起こしたか、分かるかい?」
「? 急になんだ」
「あの子の死体は一世紀前からこの森に眠っていた。それが急に今になって霊体に影響を及ぼした原因は何だった?」
「……それは、あの桜が――」
そこまで言って艸は言葉を失った
細かい理屈は分からない
「桜、か?」
茨は満足そうに顎を上げた
「せーかい。今回はとある『|越神(おちがみ)』がここ一帯の桜に影響をもたらしたことで起きた怪異
君は陣と昏睡状況を別物と言ったけど、それはサンカク。この陣は実にうまく出来ててね、桜の開花と同時に今回の出来事は始まっていたのさ
ネズミくんの件もそいつが感化したために桜が力を得てしまい起こったこと……」
茨は煙草に火をつけると、薄い唇で挟んだそれを上下に揺らしながら話し出した
「奴は桜の花粉を経由してここ一帯の住人の夢に入り込んで操作している。そして花粉を散布し終えた桜は花びらが散り、地面に花びらによる陣を描いた」
「花びらで陣を? 何かの図形になっているようには見えなかったが……」
「少し勘違いしているようだから訂正しておくけれど、陣に絶対的に必要なものは「円」。それさえ出来ていれば後はどうにでもなるもんさ。学校、公園、そういった場所に密集した桜が散れば、そこ一帯は花びらで埋め尽くされる
運がいいことに……、あ、これは相手側から見てね。この前の嵐のおかげで花びらが一気に散って、清掃される前に陣に必要な範囲が確保されてしまった
おかげでこっちは予定が狂ってバタバタしているんだけどね……」
ふぅと吐き出された紫煙が空に溶けていく
「下準備、過程、形成までが桜によってすべて出来てしまうという、とても画期的で効率的な陣と言えるねぇ」
茨は心底楽しそうに微笑み、その心境を表すように煙草がしきりに上下している
艸は正直笑えない
「つまり、学校や公園内に居る人間を優先的に避難させてるってことか」
「そういうこと」
「だが、そいつは何が目的なんだ?」
茨の銜えた煙草の動きが止まる
そしてポロリと口から離れた
わざと落としたのだろう、不気味なまでに赤い舌が一瞬顔を出して戻っていった
「それは、君の理解の及ぶところではないよ」
そう言うと茨は足元の煙草をひねりつぶした
一番核心であるところを伏せられて、艸は納得のいかない表情で茨を睨みつけたが、次に発せられた茨の言葉で艸は全てを飲み込んだ
「さて、ここまで知って君には何ができるのかなぁ?」
茨は山道を登っていくが、艸は足を止めてしまっていた
これ以上ついて行ったところで、出来る事も話すべきことも思いつかない
「蛇結……」
「ん?」
艸のつぶやき声はまだ茨に届いた
片眉を上げて艸を振り返った茨に、艸はまっすぐ見つめ返した
「なぜ、僕は起きていられる」
純粋な疑問だった
話を聞く限り、事の次第を知っており自衛できた茨たちと違い、艸には自衛の手段も何も持っていない
それなのに、なぜ艸は今もここに立って居られているのか
本来ならとっくに艸も眠っていたはずだった
なぜ?――
茨は数回瞬きをした後、悪魔のように微笑んだ
「今朝言ったでしょ、『目覚めて良かったね』って……」
艸にはそれだけで十分だった
茨の背中は小さくなっていく
茨はあの時、艸の治療ついでに手を加えた
この時が来ても眠らなくていいように
それは善意ではない
楽しんでいるのだ
この状況で一人残された艸が悶え苦しむのを――
握った拳がじんと痛んだ
殴りつけた木の幹が、痛みを訴えるようにはらはらと葉を落とした
茨の背中はもう見えなかった
※※※
艸は山道を駆け下りると、駐車場から自分のバイクに乗って走らせた
相変わらず静か過ぎる住宅地にバイクのエンジン音は煩いほどだ
道の途中で道路にはみ出た住民を見つけては端に避難させ、学校に向かっていた
「艸殿!」
途中でネズに合流できたのは幸運だった
ネズは大学周辺の避難担当だったらしい
両肩に二人担いで走っていたネズに、事情を説明し艸も手伝いに参加する旨を伝える
ネズは頷きながらも、少し意外そうに首を傾けた
「艸殿は茨殿の手伝いをするものと思っておった」
「言っただろ。僕は一般人だ、あいつに貸せる手はねぇよ」
「ふむう……」
ネズはいまいち納得できないようで、首をぐりんぐりんとかしげていた
艸はふと今しかないのでは、と思った
この状況なら誰に聞かれる心配も無い
今が大変な状況だと分かっていながら、どうしても尋ねてみたかったことがある
「ネズ。お前、記憶が全部戻ってんだろ?」
「うむ、そうじゃが?」
「……どう、思った?」
ネズは肩に担いでいた二人を降ろしながら「どうとは?」と頭上にハテナを浮かべる
艸は少し聞きづらそうに、顎を引いて視線を泳がせる
「自分が死ぬ瞬間の事とか、思い出したくないこととか、全部思い出したとき……。思いださないほうが良かったと思ったりはしなかったのか?」
ネズはきゅっと口を閉じた
艸は比較する対象が欲しかった
今自分が感じている感情が、同じ立場の人間とどの程度の差があるのか
もしかしたら、艸自身答えを出せていないことによる焦りのような不安があったのかもしれない
ネズはひとしきり悩むそぶりをした後に、腕を組んだまま艸を見返した
「なんとも思っとらん」
そう、言ってのけた
艸は嘘か見栄かとも思ったが、まっすぐすぎるネズの目力にその思いはかき消された
「例え忘れていたとしても、それらは既に起こってしもうた事じゃ。今更どうともならんものを何とも思いはせんわ」
ネズの言葉は艸の想定外で、言葉に詰まった
同時に自身との差を見せ付けられてしまった気がした
ネズはそんな艸をどう思ったのか、少し眉を下げて困ったように辺りを見回した
「お主は、過去に後悔を残しておるのだな」
「ぇ?」
「だから、そんな顔をするのだろう?」
組んだ腕を解いて、ネズは背中に挿していた杖を手に持った
「儂とて後悔が無いといえば嘘になる。だがな、その後悔を後悔のままで終わらせない努力はしてきたつもりじゃ。要するに吹っ切った、自分の後悔を納得にまで持ち上げたのじゃ。思い出してよかったと思うことはあっても、思いださずに良かったとは思わん」
「……」
「お主はまだ若い。そして時代も良い。生きてさえ居れば、どんな後悔もいつだって取り返せるものじゃ。もし、お主に忘れたいほどの後悔があるのなら、むしろ思い出したことに感謝せい。取り返せるチャンスが来たと……。後は、勇気と努力のみじゃよ」
すっかり閉口してしまった艸に、ネズは二カッと笑って見せた
「ま、死んでしもうたから言えることじゃがな!」
ネズは仕事に戻っていった
艸はヘルメットをかぶりはしたものの、バイクにまたがったまま動かない
一気に狭く暗くなった視界は、考え事をするのには適していた
―― まだ、取り返せるのだろうか
艸は一気にアクセルをかけた
―― あの時、逃げた後悔を……
※※※
茨はため息のように息を吐いて、山頂からの景色を眺めた
森林公園の敷地内の山と言うだけあって、山頂には開けた空間と休憩所のようなスペース、手すりも設備されていた
「あー、疲れたぁ……」
あらかじめ茱萸に頼んで置いていってもらったジュラルミンケースと、縦に長い包みが休憩所のテーブルに置かれているのを確認すると、包みを手に取る
その包みは身長の高い茨と同じくらいの長さがあった
止め紐を解いて布がするりと滑り落ちる
そこから現れたのは大太刀だった
三日月のように湾曲した刀身は暗紅色の鞘に収められ、浪人結びをされた金の太刀緒が蝶の止まっている姿を彷彿とさせる
真っ赤な手貫緒が風に揺られていた
「久しぶりだねぇ、頼むよ『黄泉路』」
茨は愛おしい女をめでる様に金の柄巻を撫でた
茨が持つゆえにそう違和感も無い『黄泉路』も、艸やネズが持とうものなら人一人分の大きさはある『黄泉路』は余りあるものだろう
ひとまず『黄泉路』を立てかけた茨は、ジュラルミンケースの蓋を開いた
「これだから『空無成』は嫌なんだよねぇ」
『空無成』とは姿かたちのない事を表す
それは霊視が出来る出来ないに関係ない
今から茨は空気と戦うといっても過言ではないのだ
さらに面倒なことに『空無成』とされるほとんどが、消滅させることが出来ない
『魔淤神』の場合、人が睡眠を止めなければ消えることが無い
人が滅びない限り永遠にあり続けるのだ
「姿は見えない、消滅も出来ない、さてさて……」
そんな独り言をつぶやきながら、近くに落ちていた木片で地面に何やら陣のようなものを彫っていく
それからジュラルミンケースから黒っぽい液体の入った瓶を取り出すと、その蓋を開けて彫った溝に流し込むように瓶を傾けた
日に透かすと少し赤みを帯びたように見えるそれは異臭を放っている
その液体は土に吸い込むことは無く、不思議と導かれるようにすべての溝に行き渡る
「……来たね」
茨は急に動きを止めると、立てかけたままだった『黄泉路』を手に取り、手すりのある崖ギリギリまで駆けて行った
青空が降り注ぐ町並みが眼前に広がっている
しかし、それだけではない
茨の目の前にはもはや景色など覆い尽くすほどの何かがいた
その姿が茨の瞳に映ることはないが
「いくら『天都』が黄泉に近いところにあるからって、人間の夢から繋がる道なんてたかが知れてる。何人集めようとね」
急に風が暴れ始めた
「……直接『天都』に繋がる門を作れば、こっちに来ると思ったよ……」
今までの静けさを消し飛ばすような木々の断末魔が茨を襲った
「――『魔淤神』」
咆哮が轟いた
※※※
「っ!?」
通り過ぎていった風が、内臓や血液、呼吸すらも持っていこうとするような感覚に、艸は凍りついた
一瞬体だけが置いていかれたような焦燥感
思わずその身を抱きしめる
もしこの時バイクに乗っていたら、再び事故を起こしていただろう
それほどまでに圧倒的な何かが艸をすり抜けていったのだ
過ぎた風を目で追うように辺りを見渡せば、何故かあの山で視線が止まった
ただの山だ
艸は少し気味悪さを感じながら、緩めっぱなしになっていた蛇口をひねる
庭に水をやっていたらしき家主はうつ伏せに倒れており、既に水浸しでどうにも出来ないが、溺死と水道代増額の防止には手を貸せただろう
艸は再びバイクを跨いだ
正面を見て、動きを止める
かぶりかけていたヘルメットを外す
像、いやサイか。想像した動物のどれもを、頭頂から突き出している角が否定していた
それに、艸は顔見知りだった
「『獏鬼』……」
艸の言葉に答えるように『獏鬼』の全身の体毛が風も無いのにゆらりと揺れた
しかし『獏鬼』は言葉を発せずに艸を正面から見つめるのみだ
見つめるといっても、長い体毛のせいで目らしきものは見当たらないが、しっかりお互いに向かい合っているという意思が感じられた
艸は動けずにいた
どうして今現れたのか
何を考えているのか
艸には全く分からなかった
長い長い沈黙は、実はそこまで長くなかったのかもしれない
やっとのことで聞こえてきた声に、艸は言葉を失った
「夢、喰う?」
※※※
満員のエレベーターに押し込められたような気分だ
しかもその同乗者すべてが自分を睨みつけているような、全方位からの近距離圧力
茨はじりじりと迫ってくる重苦しいものに神経を研ぎ澄ませていた
しかし、それらは茨の周囲に漂うのみで一向に間合いをつめてこない
茨はいつもの不敵な笑みを浮かべていた
「本来『空無成』には触れることすら不可能とされているからね。驚いたでしょ? 斬られたのは初めて?」
そう言って『黄泉路』を撫でた茨の周りに、ピリピリとした空気が満ちた
ぶあっと生暖かい空気が頬を撫でる
途端に息が詰まるような、吐き気がせり上がってくるような感覚が茨を襲うが、それでも茨は笑っていた
「無理だと思うよ。ボクはここ数日寝てないし、夢も見てない。睡眠というものを欲していないからね。君の入ってくる余地は無い」
『空無成』はこちらから干渉できない代わりに、向こうも自分の能力以外の干渉が出来ない
『魔淤神』の場合は、相手を夢にいざなう事は出来ても、それ以外のことは何も出来ない
その能力の干渉も、神気の少ないこの世界では大した力も出ないだろう
眠りにいざなう相手も、眠気を感じている人間相手にしか干渉できないはずだ
「ボクから言わせれば、夜と言う最も危険な時間に、睡眠という最も無防備な行動をとる人間が全く理解出来ないけどね。ましてボクら『御子』には睡眠なんてただの怠惰だし」
茨の薄く開いた唇からこぼれ出てくる笑い声は、もはや悪役のそれと同じだった
ひとしきり笑うと、茨は少し考えるように俯いて『黄泉路』の手貫緒を指に絡ませていじり出した
「まぁ、それを考えると君も被害者なんだけどね……」
茨は記憶の中のページをめくった
『魔淤神』とは『眠怪』や『睡魔』をもたらす、『天都』から追放された『越神』である
追放理由は、ただひとつ
〝怠惰である〟
それだけだ――
次に迫り来た風は、わずかに音も含んでいた
やっとのことで聞き取れるような低い声
―― カ エ ル
鼓膜を震わす、むず痒いような、低い音
地の底から這い上がってくるような声とはまさしくこのことだろう
切実なまでの、『魔淤神』の言葉
「無理だよ」
茨の言葉は残酷なまでにまっすぐだった
「君の陣から必要数の人は非難させた、この陣も開けてあげる気は無い。諦めて消えてくれないかい?」
一瞬、空気が止まった
それは今から起きる嵐の前触れだ
―― カ エ ル カ エ ル カ エ ル
途端に起きた強風は、もはやどこから吹いてきているのかも分からない
茨は一足早く『黄泉路』を地面に突き立て、支えにして踏ん張っていた
目も開けられないような突風に、全方向からたこ殴りにされているような感覚だった
ふと、茨は違和感を察知した
きっとそれは茨にしか感じられなかったであろう
医者として数多の死に直面してきた茨だからこそ感じた
〝死の匂い〟
「こいつ……」
茨の思考は一瞬で答えに行き着く
この短時間で全ての人間を避難させるのは不可能だ
それでも『魔淤神』のようなものが通るに必要だと思われる数の人間は逃がした
しかし『魔淤神』は今いる人間の夢の通り道を広げ、無理にでも黄泉への道を進もうとしているのだろう
そのようなことをすれば、その人間が道連れになるのは必然だ
―― カ エ ル カ エ ル カ エ ル カ エ ル ヴ ヴ ヴ
駄々をこねる子供のようだ
茨はもう、哀れみ以外の感情を持ち得なかった
「帰れないよ」
その声はもう『魔淤神』には届かないだろう
「君も」
風が攫って行こうとする茨の声は、確かに音としてあった
「ボクも―― 」
その声が掻き消された瞬間だった
―― ウ?
その音は急に声になって零れた
風がぴたりと止む
死の匂いが遠ざかっていく
茨はこれでもかと言うくらいに口の端を吊り上げ、『黄泉路』を地面から引き抜いた
『魔淤神』は呆然として動かない
そこに茨は大きく振りかぶった
「住めば都。もう少し、ゆっくりしておいで」
空を切った一閃は、目に見えずとも確かに斬られた
声も無い
音も、風も
そこには何も無かった
※※※
ふぅと息を吐いた茨は早々に『黄泉路』を鞘に仕舞った
気まぐれな刀だ。刀身を無防備に出していると、いつ何を斬ってしまうか分からない
気だるさを感じながら足元の陣を消そうとした茨の違和感は一瞬だった
足元に残っていた『魔淤神』の残滓を意識した瞬間に、それは消え失せる
矢が一本、茨の足の親指ギリギリ手前に刺さっていた
「……ちょっと、危ないじゃないですか」
「すみません」
その人は、銀に煌めく髪を優美に揺らめかせながら山道から歩いてきた
着物姿に手には和弓。何とも時代錯誤な光景だが、絵のような完璧さがその全てを打ち消していた
茨は足元に刺さった矢を引き抜くと、矢と共に薄ら笑みを浮かべた感謝の言葉を差し出した
「助かりました」
「どういたしまして」
「タダ働きはこれっきりにして欲しいものですね、先輩」
先輩と呼ばれた男、落霜 紅は女と見まごうばかりの美貌に笑みを浮かべた
「今度、ご飯をおごってあげます」
「それ、遠まわしに今後もタダ働きさせます宣言?」
「ごめんなさい、お金は持ち合わせていないので」
そう言って、ふふと笑われてしまえば茨に反論の言葉は許されない
「今回の件だって、先輩にも原因はあるんですからね」
「ええ、『魔淤神』の力を強めてしまったことは謝罪いたします。故意ではないのですよ」
「はぁ。うまく神力のほとんどを斬り落とせたので、しばらくはただの塵ッカスみたいなもんだと思いますけど……」
「貴方のもくろみ通り、と言うわけですね」
紅の言葉に、茨は何とも言えない表情になった
その様子に紅は口元を隠して笑う
「艸君を起こしておいた本当の目的。思い通りになったようで良かったじゃないですか」
「ホント、先輩って何でもお見通しですか?」
「だって、私があの時貴方にお願いしたのは艸君の治療のみ。今回の件においては放っておいて良いと言ったのに、手を加えたでしょう?
貴方は頼まれた仕事しかやらない男ですから、頼まれずにやる仕事には何かしらの意図があるものです」
「……あれも治療の一環ですよ」
「そういうことにしておきましょう」
紅はふと気づいたように茨の顔へ手を伸ばす
その表情は心底心配するかの如く痛ましげに愁いを帯びていたが、茨はその奥にある微笑みを見逃さなかった
「数日眠っていなかったのでしょう? こんなにクマをつくって……」
「ボクのクマは生まれつきです」
「そうでした」
紅はおどけた様にくすくすと笑いながら、手すりの近くまで歩いていくと眼下の街を見下ろした
「ここも大分変わりましたね……」
そう言った紅の顔は、頬にかかる長い髪のせいで窺えなかった
茨は頭の後ろで手を組んで、軽く伸びをしながら息を吐き出した
「あっという間ですよ、ここでは」
「ええ……」
二人の間を、静かで優しい風が通り抜けた
じきに住民達も目を覚まし、この静かな時間も終わりを告げるだろう
いつの間にか、日は傾き始めていた
※※※
艸がドアを開くとそこは暗闇だった
自分の部屋へ続く廊下を、電気も点けずに一目散に寝室に向かった
ベッドに倒れこむ
酷く体が重かった
今にも眠ってしまいそうな意識の端で、ポケットの中のスマートフォンが震えているのに気づく
眩しすぎる画面を見るのも辛くて、さっさと通話の画面をタップした
耳に当てる
―― 艸か? ――
「……親父、……」
驚く気力も無い
その様子に父も気づいたのか、少し声が低くなる
―― 大丈夫か? ――
「……あぁ」
―― ……。|萱(かや)が送った本、届いただろう? ついさっきそのことを聞いてな、お前と話したくなった ――
黙っている艸に、父は慣れた態度で話を続ける
―― あの本を初めてお前にやった時のこと、覚えているか? ――
あの本を初めて貰った時、艸はぼんやりと思考をさかのぼった
―― 俺がお前の誕生日に欲しいものを聞いたとき、お前が言ったんだ「お父さん達と同じ目が欲しい」って……
流石の俺も困ってしまってな。ある程度のものは買い与えられるつもりでいたから、尚更な
悩んだ挙句、お前にそれをやった ――
「……あぁ」
そんな事も言ったっけ、なんて頭の隅で思った
今にして思えばなんて馬鹿なことをせがんだのだろうと思う
父や兄の声が思い出される
――『萱、お前は何に見える?』
――『そうですね……、花、でしょうか?』
――『艸は?』
――『……イルカ』
――『ははは! 俺にはドレスを着た女に見える。みんな違うな!』
艸はゆっくりと目を開いた
ベッド横のサイドテーブルの上に置かれた絵本に目をやる
―― ……皆、全く同じものなんて見られない。皆、見えているものは違うんだ。お前だけじゃない、そういうつもりで贈った本だ ――
「……あぁ、気づいてた」
向こうで少し、息を呑む音が聞こえた
―― ……そうか、お前は子供のころから賢かったからな ――
「嬉しかったよ……」
―― そうか ――
艸はもう一度ベッドに顔を押し付けた
遠くで、父の声が聞こえる
―― 腹出して寝るなよ ――
ガキじゃねえんだ、そう思いながらも言葉を返すのは億劫だった
あの時の艸に明確な言葉で置き換えることは出来なかったけれど、何となく分かっていたつもりだ
嬉しかった、おかげで前ほど辛くなかった
でも、知ってしまった
違うことを受け入れた時、同じことのある喜びを……――
※※※
「キリン!」
揃えたように二人の声は重なった
お互いに顔を見合わせる
はらはらと時折振ってくる赤いカエデは熱くない火の粉のようだ
「また一緒! 俺、これだけ同じものが見えてる人と会ったの、初めてだ」
「……あぁ」
「艸も? へへ、なんか嬉しいな」
そう言って黒い髪へ手をやった少年は、真っ黒な学ランの上に数枚のカエデの葉を乗せていた
「そうだ!」
妙案を思いついたように、少年は自分の膝の上に乗っかっていたカエデの葉を一枚つまむ
それをページの上に置いた
「栞の代わり」
そう言って嬉しそうに笑う
白いページに真っ赤なカエデが手を開いている
「また同じ絵が見れたら挟んでいこう、忘れないように」
「……あぁ」
艸が小さく頷くと、少年はますます嬉しそうに笑う
少年は片手に新しいカエデの葉を持って、もう片方の手でページをめくった
わくわくという思いを表情でめいっぱい表している少年を横目に見ながら、艸は知らず知らず笑っていた
「ありがとな……。香……」
それを失う、恐怖も……――
花たちが咲うとき 四
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