月を食べる人

 月を食べる人が、恋人だった頃がある。
 あれは、確か、三年前の、わたしが十九歳、あの人が二十三歳のときのこと。
 あの人は、ときどき、月を食べた。
 月を見ると、興奮するのだった。発情した動物みたいだ、と思っていた。
 今考えると、いや、当時だって考えてはいたのだけれど、あの人はたぶん、いや、おそらく、ほぼほぼ、ニンゲンではないのだった。二十三歳というのも、うそだと思われるのだが、わたしはあの人のことを、二十三歳のニンゲン、と自分自身に暗示をかけて、信じこませていたのだった。
「月って、どうやって食べるんですか」
と、彼が言った。
 彼とは、わたしの今の恋人である。
 わたしは二十二歳で、彼は十八歳である。
 今度の彼は、正真正銘のニンゲンであるし、月も食べない。好物はさばの味噌煮と、塩豆大福。それから、黒豆茶。
 月を食べるときは、まず、こう
 わたしは夜空の月に向かって、えいっと右手を伸ばす。
 右手で月を、覆い隠す。
 そして指を折り曲げ、月をつかむ。
 掌握する。
「まだ、ありますね、月」
 夜空を見上げ、彼は平然と言い放った。
 そうなの、あるの。
 わたしは頷き、握り拳をつくった右手を彼の目前に突き出した。
 彼はわたしの右手と、わたしの顔を、交互に見た。
 切れ長の目を、している。
 かっこいい、というより、きれいな男の子だ。
 ご実家が割烹旅館であるためか、最近の若者(わたしも一応、ここに括られるのだけど)にしては礼儀正しく、所作が美しい。歩くときの姿勢、箸の持ち方、湯呑を持つ手ひとつにしても、指先まで神経を集中させることを怠らない、単純な立ち振る舞いすらも絵になってしまう、男の子。
 月を食べるあの人は、かっこいいでも、きれいでも、かわいいでもない、少々だらしのない、ニンゲンではない何者か、だった。
 黒い髪はいつもぼさぼさで、雨上がりに濡れた毛を自然乾燥してまとまりのわるくなった犬、のようだった。
 よれよれの白いワイシャツばかり着ていた。いかにも着古した感じのデニムに、どこのメーカーかわからないハイカットスニーカーをはいていた。
 それしか持っていないの、と訊ねたら、
「これだけあれば十分だよ」
と、あの人は笑ったのだった。
「あなたは月を、食べたんですか」
 食べた。
 わたしは答えた。
 月は、さくさくしていて、甘かったよ。
 わたしは更に答えた。
 白くて丸い月は、すこし粉っぽい感じがしたけれど、あの人は、それがいいのだと言っていた。なにがいいのかは、結局わからずじまいだったけれど。
 わたしは右手の拳を開いた。
 わたしの右手には、なにもない。
 わたしには月を、とることができないのだ。
 あの人の特権だったのね、月をとることは、海でほら、漁師や海女さんではない人がサザエやアワビを、とっちゃいけないって決まりがあるでしょう、それと同じだったと思うの。
 彼は唐突に、わたしの手を握った。
 それから、恋人つなぎにした。
 彼の手は汗ばんでいた。
「食べてみたいです、おれも、月を」
 やさしい子。
 ふつうはこんな話、誰も信じないのに。
 高校の時から仲の良いN子も、大学で同じサークルだったY美も、アルバイト先の上司であるK山さんも、あの人の話をすべて、わたしが見た夢の話だと思っている。
 でも、あの人は確かにいた。
 存在した。
 二十三歳でも、ニンゲンでもなかったけれど、あの人はまぎれもなく、わたしの恋人だった。
「その、月を食べる人のこと、逢ったこともないのに何故でしょうか、なんだかすごく、嫌いです」
 彼は拗ねたように唇を尖らせて、わたしの手をより一層、強く握った。
 指の骨がみしみしと音を立ててしめつけられる感じが、いやに心地よかった。
 夜空には白く光る、まあるい月がひとつあって、あの人が月を食べた翌日も、そのまた翌日も、月は、何事もなかったかのように夜空にぷかりと、浮かんでいた。

月を食べる人

月を食べる人

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-18

CC BY-NC-ND
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