心、強く惹かれる
一
彼女の名前は西永美桜(みお)といった。一年の途中から演劇部に入ってきた。僕は演劇部で一緒になるまで、同級生である彼女の存在を知らなかった。普段は大人しくて、整った顔立ちをしてはいるけど、目立つ方では決してなかった。
大人しい性格だと、自分の中で半ば決め付けていただけに、演劇部に入ってきたときは意外に感じた。もしかしたら、演じる方ではなくて、脚本を書くことに興味があるのかと咄嗟に推測した。でも彼女は、
「演じる方に興味があります」
と、言い切ってみせた。ますます意外に感じた。
入部してから一ヶ月。腹筋背筋、ランニング、発声、柔軟、ダンスなどの基礎練習をやっていたが、特に目立つこともなかった。ただ、予想した以上に体力があって、良い声が出ていて、ダンスの動きも悪くないと感じた。予想を上回っただけで、常人のそれだった。
ところが、エチュードをやったときにその評価は一変する。
エチュードとは、台本のない即興劇のようなもので、個々の演技力はもちろん、想像力や表現力を豊かにさせる練習だ。演劇部だったら当たり前のように取り入れる。
台本どおり表現できるのも大事だが、状況に瞬時に対応できる柔軟性や瞬発力も求められる。エチュードでは、それを見ることができる。
前評判は、初めてのことでもあるから、可もなく不可もなくといったところだろうと思われた。普段の活動で、良い意味でも悪い意味でも彼女は目に付きにくい存在だった。
いつものエチュードなら、適当な場面をある程度決めておいて、それに合わせてそれぞれの解釈を披露する。たとえば、「駅前の待ち合わせ」。その場合、彼氏が来ないことにイライラする彼女を演じたり、彼女を待って、そわそわしている彼氏を演じたりする。
だが、今日のテーマは少し違った。
「この場にいる誰かを演じてもらおうか」
部長の言葉は驚くべきものだった。和やかな談笑ムードが、目に見えて揺らいだ。
「この場にいる自分以外だったら、誰でもいい。やりやすい人を選べ。――じゃあ望月、お前からだ」
「あ、はい」
いきなり指名されたのは僕だった。考える間もなく、仕方なく隣にいた友達の真似をし始めた。いつも傍にいて、性格や癖をそれなりに把握しているつもりだったが、いざ演じろと言われるとネタはあっさり尽きた。次第に、笑わせるような大げさな演技に逃げた。逃げるしかなかった。
僕の後の人たちも、同じようなものだった。それは、その人自身を演じている、というよりも、ものまねに近かった。
このテーマは、本当に難しい。
最後の一人は、西永美桜だった。
演劇部は男子ばかりだが、女子も何人かいる。彼女はまず、誰を選ぶのか気になった。大人しいだけに、その選択が興味深いことだった。
すくっと立って、彼女が発したひとこと目は「あ、はい」だった。
あれ、どこかで聞いたことのある声の調子。というより、さっきの僕じゃないか?
「いえいえ、そんなことないっすよ」
そこにいたのは、妙に猫背で、気弱そうな男であった。そう、男であった。もっと言うなら、それは僕をそっくりそのまま再現していた。喋り方や、笑い方、歩き方など、細かな特徴をことごとく捉えていた。
周りは「似てる、似てる」と口を動かしていたが、明らかに息を飲んでいた。それは、似すぎていた。ものまねと違って、今の彼女は僕を完璧に演じていた。誰も笑えなかった。
演じられている僕は胸中、複雑だった。自分が外からこう見られていたのか、と思うと、あまりいい気分ではなかった。何というか、その男は格好悪くて、あまり冴えなかった。大げさではないかなと周囲を窺ったが、彼らの真剣なまなざしが、それが僕の再現であることを証明していた。
でも、彼女が僕をこんなに観察していたのかと、嬉しくもあった。話すことはめったにないが、彼女は僕をよく見ていた。観察力のたまものだろうけど、この場にいる中で僕を選んだのだ。それは素直に、嬉しい。
演じ終わると、夢から醒めたように表情を変えた。僕が抜け落ちて、西永美桜に戻った。
それまでなかったのに、このときだけ拍手が起きた。
二学期の最後の日だった。年末に差し掛かって、誰もが気分を高揚させている中、演劇部が使う小教室は寂しそうに俯いている。それに寄り添っていたのは、やはり西永美桜だった。
彼女と目が合って、教室に静かに足を踏み入れた。何と声をかけたらいいか分からなくて、何も声をかけなかった。少しだけ離れた場所に、腰を下ろした。
「どうして」彼女の声は小さかった。演技から離れると、その声はしぼんだ風船のようになる。「望月君は演劇を始めたの?」
突然の質問に、答えがすぐ出てこなかった。当たり障りのない返事なら出てくるけど、それではいけない気がした。
「僕は、脚本を書きたい気持ちが強かった」頭をかいて、答えを紡ぎだす。「たくさんの舞台に魅了されてきたから、自分でも感動を与えたくなった。――感動っていう、安い言葉は嫌いだけど、見ている人の心を動かすようなものを作りたくなった。虚構の限界に挑みたくなった。現実にない世界を描きたかった、から。それが理由」
こんなことを言うのは初めてだった。仲のいい友達にも、親にも話したことはない。
西永は、僕の告白を余すところなく、受け止めてくれたようだった。
僕は彼女の理由を訊きたくなった。
「私は、人に興味がある」
切り出しは、判然としないものだった。だが、黙って聞いた。
「人が、どうして笑うのか。どうして悲しむのか。どうして憤るのか。ただ、それを知りたかった。気になって仕方がなかった」
自分ではない何者かを再現すること――それは、その人を真に捉えることだ。
「それで、演劇に?」
彼女はゆっくりと頷いた。上目遣いの表情を見て、初めて彼女をかわいいと思った。
「私は、女優になりたい。女優にしかなりたくない」
* *
煙草をふかしながら、大量の書類に目を通した。違いが、あまり見えてこない。同じ笑い方の写真。志望動機も、金でこしらえてきただろう経歴も、おれには全て同じもののように見える。
新たな舞台を企画して、その主演女優を一般公募にしたのに、これではたいして意味がなかった。どうしてこうも、優等生面をしてしまうのだ。
最近の女優は良い子ちゃんばかりだ。与えられた役割をそつなくこなすものの、それだけでいいと考えている。人にどう見られているか、そればかり意識している。もっと、舞台でしかできない域に足を踏み込んでほしい。
これでは諦めるしかないか。
煙草の灰を灰皿に落として、立ち上がった。今夜も長くなりそうだから、コーヒーでも淹れよう。
立ち上がった振動で、デスクの上に山のように積まれた書類の束が一つ落ちた。
「あーあ、めんどくせーな」
しゃがみ込んで拾おうとした。
その手が、ふと止まった。――これは、まだ見ていなかった。
意志の強そうな、いい瞳をしている。名前も知らない高校の演劇部員、しかも始めたのは一年前。志望動機も模範解答から逸脱した、素直な感情の吐露。
そうだ、こういうのだ。おれはこういうのを待っていた。
西永美桜、か。面白そうだ。
書類選考で通った数十人を、都内の劇場に集めた。そこいらの馬の骨が立てる場所では到底ないだろうけど、日本で五指に入る劇作家のおれの舞台で主演をやりたいと言うのだ、一日だけでも見返りを与えてやろう。
二次選考は、オーディションにした。じかに目で見て、直感で一人を選び出す。これだ、と思えるやつがいなければ、公募は諦めてもいい。それくらい、今回は本気だ。
やらせるのは、大きくテーマをもうけて「シェイクスピア」にした。舞台をやりたいと言うのなら、シェイクスピアの一つや二つ、そらんじているだろう。それに、候補者も多いわけだから、一場面だけ演じてくれればいい。
翻って言うなら、一場面でおれの心を掴まなければならない。お手並み拝見だ。
演技は、他の候補者に見せないことにした。見るのはおれとスタッフだけ。かぶってしまうことを嫌がるだろうけど、こちらからしたらかぶってくれた方が評価もつけやすい。
「この世の関節が外れている。何てことだ、それをはめ直すために生まれてきたとは」
もう半数以上が終わったが、未だに手応えはない。甲乙の差は確かにあれど、どうも抜きん出てこない。
選択された作品の中で多いのは、『ハムレット』や『夏の夜の夢』といった有名どころだった。まあ、選択肢がこれらしかない者も少なからずいるのだろう。
「人間とは何という傑作だろう!」
細かい採点は全てスタッフに委ねた。おれはふんぞり返って、眺めているだけだ。中には、眠くなってくる演者もいて、おれは思わず大きな欠伸をしてしまった。目に見えて落ち込ませてしまったのはかわいそうだったが、仕方のないことだ。まだ卵でも、厳しい世界なのは承知してもらいたい。
「芝居とは最高のものでもしょせん実人生の影にすぎぬ、だが最低のものでも影以下ではないのだ、想像力で補えばな」
あと何人もいない。そろそろ、期待をするのをやめようか。
そんなときに、例の西永美桜が現れた。悪くない顔立ちだったが、他の候補者に比べると華やかさに欠ける。つまり、地味だった。
「八十九番、西永美桜です。よろしくお願いします」
なるほど、声はしっかり出ている。姿勢も良い。緊張もあまりしていなさそうだ。
とはいえ、ここに来ている大多数がそうだ。目に付く特徴はない。これは、たいしたことないかもしれない。おれの直感も、当てにならないものだ。
そんな心の隙間を狙いすましたように、彼女の演技が入り込んできた。
「おお、愛するあなた」
人が、変わった。比喩的な表現ではなく、本当に目の前から地味な少女がいなくなった。代わりに、バサーニオに愛を捧げる、美しい貴婦人が現れた。華やかな印象を感じ得なかったその姿から、溢れるほどの魅惑を見せられた。綺麗な微笑み、官能的なまでの挙措。無理をしているようには少しも感じない、自然とそこにポーシャがいた。
「仕事を片付けて、急いで行ってあげてください。あなたは、借金を20倍にもして返せるだけの金貨をお持ちになってください、そして、バサーニオ様の過失でこの親切なお友達が髪の毛一本でも失うまえに返してあげてください」
彼女が選んだのは『ヴェニスの商人』だった。これもシェイクスピアの中では特に有名だし、何人かの候補者も演じている。ポーシャをやるのも、かぶっている。
それでも、彼女には誰もが目を惹かれた。スタッフたちは唾を飲み込むのも忘れて、ただ見入っている。おれ自身、ふと我に返るまで、いつの間にか同じように見入っていたことに気付かなかった。
不思議だった。どこにでもいそうな少女だというのに、舞台の上では誰にも増して輝いている。彼女は知っている、美しく見せる笑顔の作り方を、妖艶に見せる振る舞い方を。
「そんな高価に買われたのですから、私はそれだけあなたを愛したいと思っていますわ」
そうだ、彼女は「再現」している。他の演者が自分から離れた誰かを演じている中、彼女は自分をきっぱり消して、忠実すぎるくらいまでに、細部にわたって役柄を再現している。
だから、舞台に自然に溶け込むし、つい引き込まれてしまう。それに、一人の芝居だというのに、そう見えなくなってくる。周りに確かに話し相手がいて、会話のリズムが浮かんでくる。
これは他にはない才能だ。圧倒的な個性がある。
面白い、これは本当に面白い女だ。おれの直感が告げている。彼女を使うしかない。彼女を使った作品を作り上げてみたい。
演じ終えてぺこりとお辞儀をし、顔を上げたときには、彼女は元の地味な、どこにでもいる少女に戻っていた。
二
家族に感謝したいと思った。あなたたちのおかげで、私はこの賞を受賞することができた。ありがとう。でも、そんなことを言ったら、きっと二度と元の鞘に収まるきっかけを掴めなくなる。
無数のフラッシュを浴びて、記者からのありきたりな質問を適当に流しながら、私は別のことをあれこれと考えていた。
私は、一人の小説家。家族の崩壊を描いた私小説で、新人賞を受賞し、今その授賞式の場にいる。若手女性作家のホープと何かの雑誌で紹介されていたけど、もう三十代後半だから、そんなに若くない。
色んな人からこう言われる。「よく、家族の崩壊をあんなにリアルに描き出せますね」、と。私は困ったように笑うだけで、本当の理由を明かすことは絶対にしない。
家族の崩壊を描けたのは、傍でずっと見てきたからだ。私の家族はどんなドラマよりも終わっていた。――成績優秀な優等生だったのに、就職に失敗してから引きこもってしまった、内気な兄。それを言葉と暴力で罵倒する父。兄を庇おうとして、父と対立する母。外で遊んでばかりいて、金をせびることしか知らない妹。絶えない
喧嘩、荒れ放題の家の中。――精神的におかしくなってもしょうがない状況下だった。
そんな私の精神を繋ぎ止めたのは、小説だった。私は傍に実存するものを文章にした。現実と向き合わないで、ひたすら文章を綴って、全てを小説にした。
それをちゃんと形にして、出版社の新人賞に応募した。そんな簡単に賞が取れるとは思っていなかった。私は応募することで、過去と決別するつもりだった。
文章を日々、書いていく中で、私は世界に溢れているたくさんの物事を描きたくなった。あらゆる感情、あらゆる人間関係に触れたとき、心の中を埋め尽くしていたのは、「描きたい」という強い思いだった。
描きたい、描きたい、描きたい。強く惹かれた瞬間を、私は再現したくて仕方がなかった。
小説家になれてよかったのか、実を言うと分からない。自分の描きたいものが、大衆受けするとは限らないし。それでも、私はこれからも何かを言葉で表現せずにはいられないだろうから、書くことで食べていけるとしたら、それはきっと天職というものだ。
路線図とにらめっこしていた。東京の駅は多すぎて、散歩しようにも容易に選べない。
私は知らない土地をよく歩く。そうすることで、胸の内にあるよく分からないもやもやを取り除けるから。それに、出会いもある。私はたくさんの人々を観察して、少しでも興味を感じたら記憶に留めることにしている。
適当に目的地を決めて、今日も散歩に出かけることにした。雲ひとつない秋空の下、浮き立つことも、沈むこともなく歩き出す。
電車に乗って、文庫本を読みながら、さりげなく周囲を観察する。笑みを交わし合っているカップル、機嫌悪そうにたまに舌打ちするおじさん、参考書を真剣な面持ちで見つめる女子高生、ベビーカーの中の赤ちゃんをあやす若い夫婦、楽器ケースを大事そうに抱えている男の子。様々な表情をしている。それぞれの経緯があってこの電車に乗り、それぞれの目的があって、別々の駅で降りていく。
車内は、そんなに混んでいなかった。緩やかな午後の空気が漂っている。
誰も降りないような小さな駅で下車した。
改札を抜けて、何も考えずに行き先を決めていく。大きな通りから脇道に入って、しばらくしたらまた大通りに出た。なだらかな坂道を上ったり、下ったりした。
人気のない住宅街に入った。ベランダの洗濯物が風に揺れるだけで、人の往来はほとんどない。私は下調べに来た泥棒みたいな気分に襲われて、悪くない想像だと内心、小さく笑う。
突如、学生たちの群れとすれ違った。どこから湧いてきたのか不思議なほど、たくさんの制服が私の横を通り過ぎていく。そして、すぐにその疑問の解答を得る。住宅街の中に、高校があった。ひそやかな趣きの公立高校だった。
校舎の隣に、これまた静かに佇む白塗りの建物があった。記念講堂という名を冠している。鉄製のドアが開いていた。
私はその建物に何故か強い興味を抱いた。中に、私にとって重要なものがあると、一種の確信めいた衝動に突き動かされていた。どうしてなのかは、本当に分からないが。
入ってみれば、それが分かるかもしれない。私は大胆にも、その講堂に忍び込むことにした。発覚したら、面倒くさいことになるだろう。小説家が不法侵入を犯したら、ちょっとしたニュースにもなることだろう。でも、ちょっと覗いていくだけだ。覗けたら、すぐに帰る。
音を立てないで、ドアから中へと進んでいく。私は今、本当の泥棒になっている。中は陽の光だけで、少し薄暗かった。
女の子の声が聞こえてきた。自然と、足が声の方に向かっていく。
記念講堂の正体は、体育館だった。バスケットボールのゴールが向かい合っている。さらに、幾重ものラインが足元から伸びている。
奥には舞台が備え付けられていた。――舞台の上に誰か立っている。女の子だ。さっきの声の主は、彼女だったのか。舞台の下には、男の子もいる。男の子は、舞台の上の少女に真っ直ぐな視線を注いでいた。どういう関係なのだろう。というより、何をしているのだろう。私は遠くから窺った。
彼女は舞台の上で動き回っていた。台詞をよく透る声で口にして、その度に表情を見事に変えていた。
そうか、彼らは演劇部なのだ。ずいぶん熱心に練習しているようだけど、本番が近いのかしら。しかも、あの台詞は確かシェイクスピアだった気がする。シェイクスピアを高校の演劇部がやるとは意外だ。
だが、途中まで冷静に眺められていたのに、いつの間にか鳥肌が立っていた。――これは、どういうことだ。胸の鼓動が高鳴る。彼女は、傍目には平凡な女の子にしか見えないのに、演じている姿に別の誰かが重なる。彼女は、誰かを完璧に演じている。
そこにあるのは、圧倒的な演技力だ。不気味なほどの再現力だ。初見でここまで思わせるのだから、彼女はそうとう完成された演者だ。
そして、私はしばらくご無沙汰していた感情と再会を果たす。今、私が立ち会っているのは、強く惹かれる瞬間だ。描きたい。衝動が脈打つ。彼女を描きたい、描きたくてしょうがない。
頭の中で、大まかな構成を練り始める。少女の一人称にしようか。いや、外から捉えた方が彼女の異才さが際立つ。たとえば、舞台の下の彼の一人称にしてもいい。途中で、偉そうな劇作家の一人称に視点を切り換えてもいいかもしれない。
タイトルは、――彼女に対して素直に感じた感想にしようかな。そう、たとえば、『心、強く惹かれる』――。
心、強く惹かれる