十年後のわたしへ

 彼の腕の中で考えていることは一つじゃない。不安と焦りが、私の心を強くさせたり、弱くさせたりする。それは自分の思うように物事を進めようとする自信、それは大切なものを失ってしまうかもしれない恐怖。
「どうしたの?」
 ようやく、腕の中で彼を見上げる。私の好きな癖のある髪と、黒目がちな瞳が目に入る。
「いや、なんか、欲求不満」
 私の彼、沢木竜(りゅう)成(せい)はぼそぼそと答える。言い終えるあたりで半笑いを浮かべた。
「そこはさ、緋(ひ)菜(な)に会いたかったんだ、とか言ってよ」
 竜成は鼻をふんと鳴らす。「おれがそんなこと言うと思うか」
「言わないと思う。言われたら、熱でもあるのかと心配する」
 また愉快そうに笑う。機嫌はよさそうだ。
 ドアを開けて、玄関で靴を脱いでいる最中にいきなり抱きしめられた。電気を点けていなかったものだから、暗がりからの不意の出現に正直、驚いた。
 だけれど、なにかあったわけではなさそうだ。
 竜成の住むここ、「うみねこ荘」は、冬の冷たい風で今にも崩壊してしまいそうなくらい、ボロい。あと数か月で取り壊される予定になっている。彼と付き合い始めてから何度もここを訪れているが、もうすぐここに来ることもなくなる、ということは、分かっていても、なんだか実感が湧かない。不思議な感じがする。
 優しく、抱擁が解かれた。今日も疲れた、と思わず漏らしてしまい、私は畳の上に腰を下ろす。仕事帰りで疲れていても、ここに足を向けてしまう。というより、仕事帰りで疲れているから、ここに来たくなるのだ。無性に会いたくなる。
「今日、大学行ったの?」
 私が訊く。竜成は大学生だ。
「いや、なんか寒いし。昼から酒飲んでた」
「そりゃ、冬なんだから寒いに決まってるじゃない。一日中、家にいたの?」
 ずっと家にいたら、それは欲求不満にもなる。
「夕方くらいに、パチンコしに行った」
「――そう」
 彼は趣味の少ない人だが、パチンコだけはよく行く。お金もないくせに、呆れるくらい足繁く通っている。
「竜成」
 声が薄明かりの部屋に溶け込む。電気を点けても少し暗い。後で電球を換えてあげよう。
「なんだよ」
 私は尋ねる。「引越し先、どうするの?」
 あと数か月で取り壊される、ということは、新たな住まいを探さなくてはならない、ということだ。
「そのうち決める」
 面倒くさそうな口調で返ってきたその答えは、今までと同じもの。

 いつまでも若くはない、と考える機会が増えた気がする。私は、大人になりたくない、と子どものように駄々をこねたりはしないし、むしろ、ちゃんと分かっているつもりだった。どうあがいたって歳を取るのだということ、一つずつ「責任」と言い換えられるような荷物が背中に増えていくこと、そういったことを。
 でも、違うのだ。分かっていても、たとえ分かっていなかったとしても、どうしたって考えてしまう。私は少しずつ若さから遠ざかっていく。いつまでも同じではない。
 変わってほしいもの、変わってほしくないもの、どちらもある。
 今年で三十一になった。まだ大学生の竜成は、八つ下。
 若さ、か。私は心のうちで苦笑した。
 今、勤務先に向けて移動している。通勤のために電車に揺られる時間はあまりにも長い。頭が眠っていたって、なにかについて考えることができるくらいに。具体的な時間でいうと、私の住む小川町から都心まで一時間以上もかかる。こっちに引っ越してきたら、と周りからは勧められる。
 だけれど、私は、学生の頃から住み慣れている小川町を離れたくない、と思っている。海の望めるあの町が好きなのだ。それに、今の家は竜成の住んでいるアパートに近くて、それが引っ越しをためらわせている。
 電車が目的地に近づく。降りるために座席から立ち上がる。それを合図にするように、ぞろぞろと、他の人たちも開く方のドアに寄る。多くの人が朝から利用するその駅は、私の戦場だ。

 駅と併設している大型百貨店に私は勤めている。自分の担当するフロアまで上がって、一度売り場を突っ切ってから、バックヤードの扉を開ける。スライド式のドアが、無音に近い店内に乾いた音をもたらす。
 デスク型のパソコンの前に腰掛けた。目を瞑って、ふう、と短く息を吐く。すぐに目を開けて、パソコンを立ち上げた。
 一週間の売り上げと、発注状況などを確認する。数字とにらめっこをして、気になる箇所は忘れないようにメモを取っておく。毎朝の習慣。それによって積み上げられたのは、経験に裏打ちされた自信ではなく、抜け出さなくなった少女じみたジンクス。
「おはようございます」
 ドアの開く音とともに、後輩の女性社員が入ってきた。肩口で切り揃えられたショートカットに、人のよさそうな笑顔。
 長坂さん。性格もまじめで、私は彼女を頼りにしている。フロア内のことは、往々にして彼女と話し合って決める。私の右腕、といえるような存在。
 フロアのチーフを任せられたのは半年前だ。早いわけでも、遅いわけでもなかった。プレッシャーも感じたけれど、素直に嬉しかった。この仕事に、やりがいを感じている。
「おはようございます」メモに目を落として、忘れないうちにと訊いておく。「長坂さん、お願いしてた発注、やっておいてくれた? 年明けの新商品の」
 彼女はゆっくりと頷く。「はい、もう出しておきました」
「ありがとう」
 私は笑みを返す。のんびりした話し方の彼女だが、仕事は早い。
「先に、売場のチェックしてきます。ちょっと、並びを変えたいところがあるので」と言って、また出ていこうとする。
「はーい。お願いします」
 だが、ドアの外に半身を出したタイミングで立ち止まった。
「あれ、どうかした?」
「そうだ、高遠さん」少しだけ、彼女の表情に陰がよぎる。「バイトの、箱崎さん、もう来ないかもしれません」
 私の脳裏に、いつも髪を編み込みにしている女の子が浮かんだ。頬のふくらみがかわいらしい子だ。明るい性格なのだが、たまに抜けたところがある。それでも、大きなミスはなかったから、長く続けてくれれば、と思っていた。ここは夜の時間帯だけバイトを雇っているけど、そんなに募集の手応えはない。
「本人から聞いたの?」
「はい。あれの次の日、私に話してくれました。辞めたい、って」
 彼女の言う「あれ」とは、箱崎さんがお客様にクレジットカードを返し忘れた日のことだ。
 ――高遠さん、すみません。カードを返し忘れてしまいました。
 慌てて駆け寄ってきた、青ざめた表情を思い返す。結局、お客様がカード紛失の手続きを先にしてしまい、再発行の手間を取らせてしまった。
「そう――少し、きつく叱っちゃったかな」
 それまでにも、こまごまとしたことで注意していた。自分でも、厳しいな、と思うくらい。でも、手綱を緩めはしなかった。チーフを任されて間もなかったから、厳しく当たるように心がけていた。
「そんなことありませんよ。まだ、戻ってくる可能性もありますし」
 長坂さんは、改めてバックヤードから出ていった。
 責任を背負うことは難しい。背筋をしっかりと伸ばしても、私の背中はそんなに大きくないのだ。だけれど、持ち合わせたもので臨んでいくしかない。
 ただ、最近の若い子は長続きしない傾向があると思う。他の売場でも、そんな話を耳にする。私が彼女らの年代のときとは違う、ように思う。
 私は口元を引き締めた。幸せが逃げるから、ため息はつかない。

 午前中の忙しさはそこそこだった。クリスマス前、ということもあって、若い人が多い。私の縄張りである服飾雑貨の売場には、華やいだ装いの男女で溢れている。
「お昼休憩してくるから、なにかあったら呼んでね」
 後輩の男性社員に告げると、はい、と短い返事が返ってくる。どんなに忙しい職場でも、お昼ごはんを食べに行く時間は与えられている。 奥付けされた社員通用のエレベーターの前で、箱が来るのを待つ。店内と違って味も素っ気もない銀色の扉は、かえって現実感がある。
 到着を告げる音がして、目の前の扉が開く。中から、見知った顔が現れた。
「高遠さん」
 おつかれさま、と古市さんが和らいだ表情を浮かべる。おつかれさまです、と私は返す。彼は、二歳年上の先輩社員だ。なかなか整った顔立ちをしていて、女性陣の憧れの的。入社当時から、なにかと私にも声をかけてくれる人で、気配りのできる人なのだな、と思っている。
「あ、ちょっと待ってよ」
 入れ替わりで箱の中に入ろうとすると、呼び止められた。さりげなく私の肩に触れている。すぐに離したけれど。
「今夜、空いてるかな?」
 はい、これといった用事はないですけど、と正直に答える。
「じゃあ、この近くにいい店があるの知ってるからさ、食事にでも行かない? おごるよ」
「二人で、ですか?」
 腕時計をちらりと見た。話している時間も惜しいくらい、休憩時間は限られている。まあ、それほど焦っているわけではないけど。
「うん、二人で。どうかな?」
「分かりました、いいですよ」
 特に不都合もなかったから、私は承諾した。
「ありがとう。終わったら、連絡するよ」
 じゃあ、と言って古市さんは手を上げる。
 私は軽く頭を下げてから、他の階に行かずに待っていてくれたエレベーターに乗り込んだ。

「高遠さん、顔」
 長坂さんが茶化すような口調でそう言ったから、私は頬に両手を当てた。「なに、なにかついてる?」
「そうじゃなくって、」彼女は笑った。「表情が固まってますよ」
 ああ、そういうことか。わりあい、いつものことだ。笑顔でいることがほとんどの時間を占めている職場であるから、終わった瞬間にふっと憑き物が落ちたようになってしまうことがある。
「今日も疲れたなあ。もう、くたくた」
「おつかれさまです」
 あ、と私は思い出したように声を漏らす。いや、ほんとうにさっきまで記憶のクリップから外れていた。慌てて拾い上げる。
「そうだ、食事に誘われていたんだった。よかった、疲れが癒せそう」
「へえ、よかったじゃないですか」
 それで、誰と行くんですか、と彼女は尋ねる。私は、古市さん、と答える。
「え、古市さんと?」
 予想した以上に驚かれて、その反応にこちらも驚く。
「そんなに意外?」
「いや、意外とかではなくて――」
 彼女は考え込むような顔をする。「古市さんって、独身ですよね」
 少し間隔を置いてから、彼女の言わんとするところを理解した。
「いや、そういうお誘いではないと思うけど」
「いえ、絶対にそうですよ。そういうお誘いですよ」
「ないない」
 私は笑って首を振った。「今までにも少人数でごはんを食べに行ったことはあったし、二人で行くのは初めてだけど、私と彼の間に特別ななにかは起こりえないって」
 だいいち、私には竜成がいるのだし。
「変な憶測立ててないで、長坂さんも誰かを誘ったらどうですか?」
 気になる人とか、いないんですか、と肘をつつくと、余計なお世話ですよー、と背中を向けられてしまった。かわいい人だ。

 思い出に耽ること。
 冬の海沿いに吹き付ける風は冷たい。一人で浜辺を緩慢な足取りで歩く。こうして、海をぼんやりと眺めながら散歩をするのが好きだ。竜成もそうだった。
 ――あなた、よく見かけるね。
 彼とは、ここで出会った。風に弄ばれる癖のある髪。眠たげな眼差しに宿る、彼特有の光。
 ――まあ、暇なんで。
 ――海、好きなの?
 彼は頷いて、
 ――好きなんだと思う。
 二人の間に流れる静かな時間の中で、私の胸中は決して静かではなかった。これがそうか、と身を持って噛みしめていた。一目惚れは、そのときが初めてだった。
 その後、近所の商店街で彼の姿を見かけ、家が近いことを知った。私が彼の家によく行くようになったのは、それから間もなくのことだった。
 見た目とか、喋り方とか、さりげない仕草とか。好きになる要因は挙げようと思えばいくらでも挙げられる。だけど、なにより私を突き動かしたのは、放っておけない、という感情だった。彼は規則正しい生活なんて過ごせない人で、しばらく放っておくと、より堕落した方へと流されていってしまうのだった。
 そんな彼の、たまの優しさは胸に染みる。
 ――なんか、気が向いてさ。
 不意の雨に降られて、駅で佇む私に差し出された紺色の傘。普段の彼をよく知っているだけに、そのときはとてもかっこよく目に映った。
 思い出に耽ること。
 耽ることは、老けることだ。きらきらした過去に思いを馳せることは、人をよりいっそう老けさせる。同じ読み方なのはきっと偶然ではない。

 せっかく取れた休日、日中は一人でのんびりすることに費やした。夜は、高校からの親友たちと集まる。
「それでそれで、なんて返事したのよ」
 話の続きを促してくるのは、酒井佳奈子。だいぶアルコールが入っている。まあ、彼女だけではないけれど。
「とりあえず、保留にしてもらった」
「えー、もったいない!」
 佳奈子は大げさにのけ反る。「だって、イケメンなんでしょ?」
「まあ、わりとそうかな」
「収入も文句ないだろうし――っていうか、会社の先輩でしょ。妬ましいなー」
 ほんの少しだけ後悔している。酔いに喋らされたとはいえ、プロポーズされた話を迂闊にするべきではなかった。しかも、答えに迷っているときに。
 長坂さんの憶測どおりだった。あの日の夜、古市さんは「大事な話があるんだ」と、真剣な表情で切り出した。
 ――結婚を前提に交際してほしい。
 驚いたけど、嬉しくないといえば嘘だった。彼は魅力的な男性だったし、誰もがそう言ってもらえるわけではないのだから。
 ――君を、必ず幸せにするよ。
 でも、首を縦に振ることはしなかった。突然のことだったし、竜成の顔が浮かんだからだ。私には、竜成がいる。
 それでも、断りきれなかったのは迷いがあったからだ。では、私は竜成と結婚するのか。彼は結婚するつもりはあるのか。彼と、できるのか。酒と煙草に明け暮れて、外出はパチンコのときくらい。――最近は、海にも行っていない。
 純粋な感情だけで結婚はできないのかもしれない。そんなことも考えてしまった。
「でもさ、緋菜には付き合ってる人がいるんだよね。大学生のカレが」
 私の胸中を代弁するように、美崎舞子が言った。舞子は、佳奈子と異なり大学も一緒だった。この三人で居酒屋「ふきだまり」に飲みにくることは、よくあること。
「え、まだ付き合ってんの? あのカレと」
「私は、」舞子が、佳奈子の言葉を遮る。「いずれにしても、緋菜が自分で選んだ答えが正しいと思うよ。真剣に考えて出した答えなら」
 黒髪が肩先ではねている彼女が、笑みを向けてくる。三人の中で唯一の既婚者。歳を経ても、その笑顔は褪せない。
 淀んでいた川が緩やかに流れ出した感じがした。それでも、まだその答えは出せないでいた。

 年が明けてから、久しぶりに実家に帰った。明日からまた仕事があるため、日帰りで戻らなければならないけれど。
「お父さんに挨拶してきなよ」
 お母さんは相変わらず元気そうだった。最近は、小さな畑を相手に格闘しているらしい。
 妹の若菜とともに、写真の中で笑いかけてくるお父さんに手を合わす。お父さんは、私が二十歳を迎えた日に急死した。
 隣にいる、私のただ一人の姉妹である若菜の腕には、目をくりんとさせた赤ちゃんが抱かれている。彼女は私よりも先に結婚し、家庭を築いている。
「ひーちゃんは、まだ結婚相手は見つからないの?」
 居間に戻ると、早速お母さんはそんなことを言った。ひーちゃんって、久しぶりに呼ばれた。
「うん、そうね」
「お見合いでもしてみる? 私が見つけてきてあげるよ」
 もう今年で三十三でしょ、と付け加えたので、今年で三十二よ、と訂正しておいた。
 お見合い、か。するつもりはない。お母さんに、求婚されたことを言ってやろうか。嘘ではないのだし。
 それに――何度も繰り返して確認してきたこと――それに、私には竜成がいるのだし。
 若菜が視線を向けてきているのが分かる。妹はなにも言わないけれど、その結婚生活は充実しているのだろう。だから、姉にも――そんな思いが読み取れる。
「とりあえず、お見合いはいいよ」
 だいじょうぶ、そのうちに見つかるって。明るくそう返しておいた。

「これ、家を整理してたら出てきたんだよ。持って帰りなさい」
 帰り際、お母さんに差し出されたのは一枚のCDケースだった。『十年後のわたしへ』、と表に記されている。
「これって……小学校の頃のだよね。すごい、今頃になって出てきたんだ」
 通っていた小学校が創立十周年を迎えた年に、十年後の自分に向けて動画のメッセージを送る、という企画が行われた。十年も待たなければならないなんて、ずいぶん壮大な試みだと感じていた。
「ちゃんと十年後に送られてきたらしいんだけど、ほら、その頃ってお父さんのことでバタバタしてたからさ。どっか行っちゃってたんだよ」
 そっか、私が出したのは十歳だったから、その相手は二十歳の私だ。
「家に帰ったら見なさいよ」
 言っておくけど、私は見てないからね、とお母さんは言った。嘘だな、と思った。

 自分の家に帰り、リビングのソファで一息ついた後で、渡されたCDケースの存在を思い出した。十歳の私が二十歳の私になにを言ったのか、これっぽちも憶えていなかった。ちょっと見てみようかな。DVDプレーヤーに入れて、動画を再生した。
 しばらくは微笑ましい気持ちで眺めていただけだったけれど、次第に心が落ちつかなくなってきた。すぐ傍らにある大切なものを教えてもらったような感覚。教えてくれたのは――。
 気がついたら、脱いだばかりのコートを手に取って、走り出していた。落ち着かない胸のうちで、一つの決意が芽生えた。竜成に会いに行こう。
 息を切らして走りながら、頭の中で、会いたい、という言葉が繰り返し浮かんでくるのを意識した。いつになく、その想いは強い。
 ――君を、必ず幸せにするよ。
 古市さんは、私にそう言ってくれた。それは嬉しい言葉だった。だけど、ちょっと違うのではないか、と気づいてしまった。幸せにするよ、という彼の言葉。
 幸せにするって、なんだか嫌だと思った。それは男の人の自惚れが生んだ言葉だと思う。誰かが誰かを幸せにすることなんてできない。ほんとうは、二人で幸せになるものなのだ。
 私は、竜成と幸せになりたい。回り道をしてしまったけれど、行き着いた答えはそこだった。
『十年後の私へ』
 画面の中で、幼い顔立ちの私が話しだす。
『もう、二十歳になったんですよね。二十歳って、どんな感じですか? 今の私には想像もつかないです』
 大人っぽい口調をしようとしている風なのが、かえって子どもっぽかった。
『――それから、もっと他にも、言いたいことがたくさんあります。でも、最後に一つだけ』
 暗い夜の中を駆けながら、かつての私がくれた言葉を思い返す。吐く息が白かった。橋を渡ったところで、もうすぐ取り壊されるボロアパートが見えてきた。
 ドアの前に立ち、近所迷惑も顧みずに叩いた。早く。私の決意が消える前に。やっと灯った炎なのだ、確かな想いに突き動かされて。
「なんだよ、うるさいな」
 眠たげな顔をした竜成がようやく出てきた。私は中に入る労も惜しんで、玄関先に立ったまま、言った。
「竜成、私と一緒に住もう」
 このアパートが取り壊される、と聞いたときから考えていたこと。
「私と、結婚しよう」
 私は彼の瞳をじっと見つめた。
「突然だな……」
「突然じゃない!」私は叫んでいた。「私たち、付き合ってるんでしょ? 好き合ってる、ってことでしょ?」
 私は、と続けた。
「私は、竜成と結婚したい。そう思ったの」
 幼さの残る私は、大人になった私へこう言った。
『自分が、ほんとうに正しいと思った道を選んでください。自分の想いに素直に生きてください』
 自分の想いに、か。私は苦笑してしまった。この頃、なにかあったのだろうか。しかし、苦笑してできた皺を、一筋の涙が伝った。
 自分の想いに、素直に。
 それが答えだった。
「分かったよ」竜成が頷いた。「このアパートもなくなることだし、一緒に住もう」
 喜びが弾けそうだった。
 しかし彼は、でも、と繋げた。
「でも、結婚は待ってほしい」
「それって――」
 私の声は沈んでいた。無我夢中でここまで来たから、そう言われるときの覚悟ができていなかった。
「いや、そうじゃなくて」すると慌てたように否定した。「おれがちゃんとするまで待っててほしい。大学を卒業して、緋菜にとって、相応しい男になるから」
 その言葉は、そのうち、と目の前のことを先延ばしにしていた、かつての彼のそれとは違った。今度こそ、喜びが胸のうちからわっと溢れた。
 彼が、私をそっと抱きしめた。今、彼の腕の中で考えていることは、一つだけ。

 誰かを好きだと想う感情はどこから来るのだろう。
 久しぶりに、二人で海沿いを歩いた。潮風の匂いと彼の大きな背中は、いつでも私をあの頃に引き戻した。
 冬の寒さは少しずつ和らいできつつあった。春が、忍び足で近づいてきている気配。春になったら、私たちの新しい生活が始まる。
 誰かを好きだと想う感情はどこから来るのだろう。そんなのは知らないけれど、これだけは言えると思う。私が好きになったのは、竜成ただ一人だった。
 隣に並んで手を握ると、彼は握り返してくれた。安心感を覚えるような、暖かい感触。表情を確かめようと横を向くと、私の好きな横顔越しに、地平線の彼方が望めた。

十年後のわたしへ

十年後のわたしへ

彼の腕の中で考えていることは一つじゃない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-16

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