赤い孤独
耳元で誰かの荒い息づかいが聞こえる。
一.
耳元で誰かの荒い息づかいが聞こえる。
波打つ心臓の鼓動までも伝わってくる。
目に見える景色は目まぐるしく変わり、どこかへ向かっているということだけははっきりとわかった。
やっと信号が青に変わった。
私はヒールを履いてきたことを後悔しながらも人混みをかき分け走った。
横断歩道を走り抜けながら、荒い息づかいと胸の鼓動は私自身から発せられていることに気づいた。
どこへ向かって走っているか検討もつかないが、なぜか行き先は決まっているような気がした。
ほどなく京都駅中央口の改札と、真っ赤なゼラニウムの花々が目に入り、私は安堵し足を止めた。
改札口前にある花屋の前で待ち合わせをしていたことを思い出したのだ。
腕時計を見ると針は十四時三十五分を示している。誰と何時に待ち合わせをしたのか思い出せないが、この場所で正しいのだということだけはわかった。
慣れないヒールのせいで踵が少し痛い。
ストッキングを履いてくれば良かった。
「おせーよ」背後で低い声がした。
声のする方を振り向くと、眼鏡をかけた短髪の男がけだるそうにタバコの煙を吐き出しながら私の方を見ている。
男の顔と名前はまるで思い出せない。しかしなぜだか昔から知っているような気がした。
「ごめんごめん」待ち合わせに遅れたことを知らされた私は男に平謝りし、その男の後について行った。
花屋の横を通り過ぎたが、ゼラニウムの花の香りはタバコの煙にかき消され、真紅の花びらだけが残像のように取り残されていた。
かつて子供であったことを忘れた大人に、何のためらいもなく捨てられたいつかのクマの人形のように、その花は惨めであった。
二.
その男の名前はリュウイチだかリュウジだかはっきりとは分からないが、リュウという名前がつくことだけはわかった。
その男とラーメン屋に入り、メニューに目を通した私の口から「リュウちゃんはどれにする?」という言葉が自然とこぼれたのだ。
男は別段気にとめる様子もなく、店員を呼びつけ醤油ラーメンワカメ増しと豚骨ラーメン大盛りを注文した。
店主とおぼしき初老の男は湯気の沸き立つ鍋に麺を二つ放り込み、左手で三分タイマーを押しながら右手に持った菜箸で麺を二回かきほぐした。眉間にしわを寄せ、流れ落ちる汗を首にかけた白地のタオルで拭う。
カウンター越しに店主の右手の動きを見つつ、いつか読んだカフカの「変身」の冒頭を思い出した。
確かこんな始まりだ。
「ある朝、僕はなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。」
そうだ。目覚めると虫に変身していた主人公が、戸惑いながらも虫であることには疑問を持たず、何とか今まで通り生活しようとする。
彼を取り巻く家族や友人もまた、彼が虫であることに疑問は持たず、ただ厄介者として扱ってしまうという話だ。
この話を読んだ時、家族や友人に邪険にされ裏切られた主人公の悲しみを思いひとしきり泣いた記憶がある。
絶対に裏切られることはないと信じていた人に拒絶される悲ししみとはどんなものだろう。
相手を責め悲しみを怒りの感情に変えるか、自分を責め悲しみを後悔に変えるか。
変えたところで悲しみが消えることはないという絶望だけが浮き出てくるに違いない。
ここの店主は以前は働きアリで、両手を器用に使い樹液や花の種を棲家に運んでいた。
しかしある朝目が覚めたら自分の体が人間に変身していることに気づいた。
しかし人間であることに疑問を持たず、何とか今まで通りの生活をしようと樹液から菜箸、花の種から水切りザルに持ち変えた。
アリの時だって、大きなアブラ虫の死骸を運べば仲間に喜ばれたし、甘い蜜を見つけることは誰よりも得意であった。
人間になったって同じことだ。ラーメンを作って出せばお客に喜ばれるし、餃子を焼くのは誰よりも得意である。
肉体がどう変化しても彼自身がやるべきことは何も変わっていない。
変わるのは常に彼を取り巻く他者の方なのである。こんな馬鹿げた空想が、ラーメンを待つ間、私の脳裏をよぎっていた。
三.
「それで、大事な話って何?」
鴨川にほど近い小道を歩きながら男が言った。
「話?」
「チエが昨日、大事な話があるって言ったんだろ。言えよ。」
私は自分の名前がチエであるということと、この男に大事な話があるということを思い出した。
しかし肝心の話の内容はとんと検討がつかない。
八月の終わりといえど京都はまだ蒸し暑く、夕方四時を過ぎても風は生温い。
どこかで夏祭りでもやっているらしく、浴衣をきた男の子が金魚すくいでとった金魚を袋に入れ親に手をひかれて歩く姿が私たちの横を通り過ぎていく。
「俺のこと好きじゃなくなった?」
渡月橋にさしかかり、私の前を歩いていた男が振り向きざまに言った。
そんなはずはない。私は目の前にいる男を深く愛していたはずだ。
彼のためなら死んでも良いとさえ思っていた。
いや、今でもそう思っている。
私は何も変わっていない。
昔の彼はいつも私に優しくしてくれた。いたずらっぽい笑顔と、右側だけに現れるえくぼが私に生きる希望を与えてくれた。
しかしそんな私とは対照的に、あなたは日をおうごとに私への興味が薄らいでいった。
一緒にいても、笑顔を見せず、まるで汚いものを見るかのように私を冷ややかな目で見下ろすようになったのだ。
同じ部屋で過ごしても、まるで私の存在なんか無いのと同じように。近くにいるのに遠い存在。
うす汚れたフィルター越しでしかあなたを垣間見ることができなくなってしまった。
「俺、なんかお前に嫌なことしたかな?」
その質問をしたいのは私の方だ。
「じゃあどうして私のこと捨てたの?」
そうだ。私はこの男に捨てられたのだった。
「捨てた?俺が?」
男は心底驚いたような困惑した表情を浮かべた。
その時、子供の泣き声が聞こえた。
振り向くと先ほどの浴衣を着た男の子が橋の出口で転んでいる。母親は慌てて子供を起き上がらせる。男の子の右手には少し水が減ったビニール袋が握られており、その足元で真っ赤な金魚が一匹、地面の熱さに驚いたかのように飛び跳ねている。
男の子はさらに大きな声で泣きじゃくっている。
その時突然、思い出した。
そうだ、私はあの夏の日、お祭りで幼いリュウちゃんにすくわれた金魚すくいの金魚であったのだと。新しい水槽、綺麗な水草、そして彼の無邪気な笑顔に囲まれた私は幸せの絶頂であった。
しかし夏が終わり、寒い季節へ移ろっていくと同時にリュウちゃんの私への興味も移ろっていった。
苔で覆われた水槽をときおり上から覗いては「まだ生きてるよ」と残念そうにつぶやくようになった。そしてある暖かい春の日、水槽という狭い世界から広い鴨川へ向かってリュウちゃんは私を捨てたのだ。
どんなに汚くて薄汚れた世界であっても、私はあなたと一緒にいたかった。そう強く願っても想いは届かなかった。
母親は地面に落ちた金魚を拾い、男の子の持つビニール袋へ戻した。金魚は何事もなかったかのように大人しく袋の中で泳いでいる。
振り向くとリュウちゃんは不安そうな顔で私を見つめていた。
それは、あの春の日、揺れる水槽の中であなたにどこへ連れていかれるか分からず不安を抱いていた私と同じ顔だ。
私はヒールを脱ぎ、躊躇することなく橋の欄干から鴨川へ向かって身を投げた。
赤い孤独